主な諏訪神社史 〜諏訪大明神絵詞を中心に〜

                                
 作成2011・7・5
諏訪大社の御分社
都道府県 都道府県 都道府県 都道府県
北海道 東京 51 滋賀 23 香川 21
青森 神奈川 90 京都 13 愛媛 12
岩手 13 新潟 1595 大阪 15 高知
宮城 41 富山 225 兵庫 33 福岡 24
秋田 59 石川 49 奈良 佐賀 25
山形 54 福井 17 和歌山 13 長崎
福島 148 山梨 155 鳥取 32 熊本 55
茨城 76 長野 1152 島根 22 大分 10
栃木 57 岐阜 109 岡山 43 宮崎 13
群馬 451 静岡 100 広島 38 鹿児島 126
埼玉 318 愛知 68 山口
千葉 146 三重 27 徳島 28 総計 5590

 諏訪神社関連欄の(絵詞)は「諏訪大明神絵詞」の略としました。諏訪大明神絵詞の中には年号の記述のない所がありましたが、そうした所は○印か年表欄への記載をしませんでした。例えば、「諏訪大明神絵詞」の中に「諏訪神社造営」の記述もありましたが、記されている干支や「延暦二十三年」説にも合致していなかったため掲載をしませんでした。「御柱神事」にも深く関わっていると思われるので、今後の課題(未勉強)として取り組んで行きたいと思います。

「諏訪大明神絵詞」から見た諏訪神の分類と疑問
1期:諏訪神創世記
2期:神功皇后と異国への出兵
   出兵に際し、諏訪の神が登場したり、しなかったりしている縁起のあるのは何故か。
   長門一の宮、住吉神社の第五殿に諏訪の神が祀られているのは何時頃からか。
3期:坂上田村麿呂と蝦夷討伐
4期:鎌倉幕府と御射山の祭祀
5期:元寇の役
6期:中先代の戦い
                 (諏訪神社関連年表は工事手直し中  2017・7・4 保坂)

西暦 和年号 主な出来事
諏訪神社関連
北九州・長門関連
○建御名方命諏訪に入る。(古事記)
崇神天皇 ○建五百建命科野国造(下社大祝の祖)となる。(国造本紀)
景行27 武内宿禰東国視察
景行40 ○日本武尊東征に信濃を通る。(古事記・信濃)
神功皇后1 「日本書記 巻第九」の部分
 
(略)冬十月の巳亥の朔辛丑に、和珥津より発ちたまふ。時に飛廉(かぜのかみ)は風を起し、陽侯(うみのかみ)は浪を挙げて、海の中の大魚、悉に浮びで船を扶(たす)く。則(すなわ)ち大きなる風順(おひかぜ)に吹きて、帆舶波(ほつむなみ)に随(したが)ふ。カジ楫を労かずして、便ち新羅に到る。時に随船潮浪、遠く国の中に逮(みちおよ)ぶ。即ち知る、天神地祗の悉に助けたまふか。新羅の王、是に、(略)
 是に、軍(みいくさ)に従ひし神表筒男・中筒男。底筒男、三の神、皇后に誨(おし)へて曰はく、「我が荒魂をば、穴門の山田邑に祭(いわ)はしめよ」とのたまふ。時に穴門直の祖践立・津守連の祖田裳見宿禰、皇后に啓して曰さく、(略)

「古事記 中つ巻」の部分

(略)「こは、天照大神の御心ぞ。また、底筒の男(を)・中筒の男・上筒の男の三柱の大神ぞ」今まことにその国を求めむと思ほさば、天つ神地(くに)つ祗、また山の神また河海のもろもろの神に、ことごと幣帛(みてぐら)を奉り、わが御魂を、船の上に坐(いま)せて、真木の灰を瓢(ひさご)に納(い)れ、また、箸またひらでおを多(さば)に作りて、みなみな大き海に散らし浮けて度(わた)りますべし」
 かれ、つぶさに教へ覚したまひしごとくして、軍を整へ船双めて、度り幸しし時に、海原の魚、大く小さきを問はず、ことごと御船を負ひて渡りき。しかして、順風(おいかぜ)いたく起り、御船浪に従ひき。かれ、その御船の浪瀾(なみ)、新羅の国に押し騰(あが)りて、すでに半国に到りき。ここに、その国主、畏惶(かしこ)みて奏言(まを)ししく。
「今より後、天皇の命のまにまに、御馬甘(みまかひ)として、年ごとに船双めて、船腹乾(ほ)さず、天地(あめつち)の共与(むた)、退むことなく仕へ奉らむ」
 かれ、ここをもちて、新羅の国は、御馬甘と定め、百済の国は、渡の屯家(みやけ)と定めたまひき。しかして、その御杖もちて、新羅の国主の門(かど)に衝(つ)き立てて、すなはち墨の江の住吉の荒御魂もちて、国守らす神として祭り鎮めて、還り渡りましき。(略)
「諏訪大明神絵詞」部分 続類P495の部分より
○諏訪明神が化現(神仏が人々を救うために姿を変えてこの世に現れること)、同年3月、神教ありて皇后松浦の縣に至り給う。官軍は纔(わずか)三百七十余人。乗船四十八艘なり。異敵は既に五十萬人。乗船十萬八千筝艘と聞ゆ。(略)君他の州へ発向の間。天照太神の詔勅によって。
諏訪住吉二神守護の為に参ず。答給。皇后大いに喜び。則錦座を両神にあたへて。雪膳を花船にそなへ。雲帆に幣帛(へいはく)をささげ。歸敬二心なし。(略)
扨(さて)同十月新羅へ御発向の時。孕(はらむ)る子に私の言を食給て。暫出産をとがめんが為に。白石を御裳にはさみ。ますらをの貌(かたち)をかり。既に黄金の甲冑をめし。錦の旗玉の盖(ふた)をささげて。龍頭鷁(ゲキ・ギャク)首御船にめす。此時神兵雲霞のことく化現す。又神楽の哥舞に応じて。龍宮の船頭安曇磯良丸浄衣を着て鞁を頭にかく。霊亀にのりて参向して御船をこぐ。数艘兵船四方を奉て。
諏訪住吉二神穀葉松枝の旗をあげて先陣に進み給へば。群鳥鷹鳩鷲烏。(虚?)空に飛かけり。大魚波に浮び出て。兵船を守て忽(たちまち)に異域に至る。船師海にみち旗旌(はた)目を曜かす。地祗振動して山川悉振へば。両神旗をひるがへす事稲麻に似たり。先干珠をなぐれば。滄溟(そうめい)皆ひかたとなり。異賊悦て陸地にとりあがりて戦を致せば。官軍彌勝にのる。其後又満珠をなぐれば。凶賊皆海底に沈む。剰鹽さしのぼりて新羅海内となり。一天闇々として日月光を陰。神風戦々として官軍又色をます。(略)同十二月、皇后御帰洛後。筑紫の蚊田にて応神天皇降誕し給ふ。八幡大井是なり。皇道太平は諸神一同の守護なりと云へども。異賊の征伐專当社の霊験也。(略)されば皇后御帰朝の後。摂州廣田の社に鎮座の時。五社(天照皇大神御荒魂、住吉大神、八幡大神、諏訪大神、高皇産霊神)を建立せらる。(絵詞)


 
玉垂宮縁起絵 第一幅(部分) 建徳二年(1370)
「由原八幡縁起 上」の部分
(略)即御舟造ベシト有シカバ。三百人ノ化人俄ニ出来テ長門國ニ木山ニ入テ材木ヲ出○。豊前國宇佐郡ニシテ。四十八日四十八艘ノ船ヲ作テ出ス。是則八幡大菩薩ト申ハ。本地阿弥陀如来ニテマシマセバ。六八超世ノ悲願ヲ表シ給ナルベシ。彼老翁ハ地神第五ノオハリ○○草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと・神武天皇の父)ノ御事也。神武天皇ヨリ以来。日本ノ百王ハ悉ッ彼御苗裔ナリ。吾國守護ノ御メグミ深ニヨリテ。人倫ノ形ヲ現シテ。皇后ニ付奉リ。異國ヲ責シタガエ給事コソメデタケレ。又磯童ト申ハ筑前國鹿島ノ明神御事也。常陸國ニテハ鹿島大明神。大和國ニテハ春日大明神。是皆一體分身同躰異名ニテマシマス。其時
諏訪熱田三島高良以下ノ神達三百七十五人四十八艘ノ舟ニ同ジ姿ニテ現シ給。惣ジテ其勢一千三百七十五人。四十八艘ノ舟ニ乗ツレテ。筑前國鹿島ヨリ漕出ス。大将軍ニハ高良大明神也。皇后モ忽ニ男子ノ姿ト成給。(略)

「東大神異国討伐之御縁起」(絵解文)の部分
(略)其年五月利く月のあいだに楠木ゑたの船木の山ニ御入む加る人にを付られ、そばとり(杣取)をなさる、此ざいもく武善国宇さの郡によせ、四拾八日に四拾八艘の御船を津くりたもふ、此船筑前国かしいのをき(沖)につけたまふ、ここにをいて
神宮こふ宮(神功皇后)、今度異国津いとふを女人の身としてだいじにをほしめされしょじんのをふごふをもたのまんとをぼしめし、しをふじ(四王寺)のみねによじのぼり、こ加ね(小黄金)のすずを榊の枝ニ掛七日七夜いのりたもふ其九月十三日のあか津きに、明星と月ハならんていでたもふを月ハすなハち高良明神にてましまし、明星ハ壱人のろふをふ(老翁)とけんし神宮こふ宮のまゑにたちたもふ今の住吉の明神是なり、我ハ地しん大ご(第五)のをふ(王)、ひこなきさの幸あめ加したしろしめすこと、八十三万六千四十二年なり、ただし、大さん(第三)のをふくわつてんしのをふじあり、天じよのだいりきしけんしょたくいまれなり、今こふ宮へさすけ奉もって太いしよとし、てきしう(敵州)こふぶく(降伏)のゑいりょとけしめたまゑと、住吉明神角のことくのたもふ、神宮こふ宮御へいかんあそばされ、かしひの(香椎)宮に御かゑりなさる、其とき武内の大神すすみいで、こんと異国追討の太いしょうぐんにて御坐あるハ目出たきしだい、(略)
・・
652 白雉3 2月、朝廷綿(ゆう)を諏訪明神に奉る。(類聚国史)
 658 斉明4 4月、安倍臣比羅夫180艘の大船団を率いて蝦夷を討伐。
7月、渟代→能代・津軽の蝦夷投降す
659 斉明5 3月、安倍臣比羅夫、蝦夷を討伐
660 斉明6 3月、安倍臣比羅夫、粛慎(しゅくしん・みしはせ)を討伐
675 天武4 4月、竜田神・広瀬神への奉祭
691 持統5・ 7月、竜田神・広瀬神への奉祭
8月、朝廷が使者を遣して、竜田風神、信濃国須波(すわ)、水内(みのち)神を祀らせる。(日本書紀)
○この年、天候が不順、農作物えの影響が莫大。

702 大宝2 3月、信濃国より梓弓1020張を朝廷に献上、大宰府の用にあてる。  12月、はじめて美濃国の岐蘇山道を開く。
704 慶雲1 4月、信濃国より梓弓1400張を朝廷に献上、大宰府の用にあてる。
706 慶雲3 信濃・甲斐国など5ヶ国の19社、朝廷よりはじめて祈年幣帛を賜る。
708 和銅1 1月、武蔵国から自然銅を献上、よって改元する
709 和銅2 3月、信濃・甲斐など7ヶ国の民、陸奥・越後の蝦夷鎮定のため徴発される。
713 和銅6 7月、信濃・美濃2ヶ国の界道路が険隘なため、美濃守笠朝臣麻呂らに命じて吉蘇路を開く。
716 霊亀2 5月、諸国の高麗人を集め、武蔵国に高麗郡を置く。
720 養老4 9月、蝦夷が叛き、多治比県守を持節征夷将軍として討伐させる。
721 養老5 6月、諏方国を置く。(続日本紀)
724 神亀1 4月、蝦夷叛き、藤原宇合を将軍として討伐させる。 
  ○この年、陸奥国に多賀城を設置する。

3月、諏方国を中流国とす。(続日本紀)
725 神亀2 ○蝦夷の捕虜を伊予・筑紫・和泉に分配する。
730 天平2 9月、諸国の防人を廃止する。
731 天平3 8月、藤原宇合ら6人を参議とする。
3月、諏方国を廃して信濃国に併合させる。(続日本紀)
733 天平5 12月、出羽柵を秋田に移す。雄勝郡を設置する
746 天平18 6月、筑紫観世音寺完成。
749 天平感宝1 2月、陸奥より初めて黄金献上。2月、行基没(80歳)
755 天平勝宝7 2月、信濃の防人、筑紫に行く。
756 天平勝宝8 6月、筑前の怡土城を修築する。
761 天平宝字5 1月、下野薬師寺に戒壇院を建立
1月、筑紫観世音寺に戒壇院を建立
765 天平神護1
767 神護景雲2 10月、陸奥に伊治城をつくる。 
769 神護景雲3 2月、陸奥の伊治城・桃生城周辺に坂東の民を送り込む。
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770 宝亀1
774 宝亀5 7月、大伴駿河麻呂ら蝦夷を討伐する。
775 宝亀6
776 宝亀7 5月、出羽国志波村の蝦夷反乱する。
777 宝亀8 12月、官軍、志波村の蝦夷に敗れる。
778 宝亀9
780 宝亀11 2月、陸奥に覚?城を造る。
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781 天応1 4月、桓武天皇が即位。
783 延暦2 6月、出羽の雄勝・平鹿に蝦夷が侵攻する。
786 延暦5 8月、蝦夷征討の準備をする
785 延暦6 1月、蝦夷との交易を禁止させる
788 延暦7 3月、兵糧を多賀城に運ぶ。
7月、紀古佐美を征東将軍に任ずる。 
                                           
789 延暦8 6月、征東将軍より官軍の敗北を報告する。
9月、征東将軍帰還、敗戦の事情を聴取、処罰する。

790 延暦9 3月、蝦夷征討のため東山道信濃以東・東海道駿河以東の諸国に、3年間に合計2000領の革の甲(よろい)を造らせる。
791 延暦10 7月、大伴弟麻呂を征東大使に、坂上田村麻呂を副使に任命する。
792 延暦11 6月、諸国の兵士の制を廃し、健児(こんでい)の制を設ける。信濃は100人を置く。
794 延暦13 10月、天皇、新京に移る。
795 延暦14 11月、東国防人を廃し、当士の兵士を当てる。
796 延暦15 11月、板東、北陸の人民9千人を陸奥の伊治城に移す。
797 延暦16 11月、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。
798 延暦17 7月、坂上田村麻呂が清水寺を建立する。
799 延暦18 9月、伊那郡阿智駅の駅子、道路険隘のため永く調庸を免ぜられる。
800 延暦19
801 延暦20 2月、征夷大将軍坂上田村麻呂に節刀を授ける
○東夷安倍高丸暴悪の時。将軍坂の上の田村丸延暦廿年2月勅を奉玉ハテ。追討の為に山道をへて。奥州に下向。是則征夷代将軍の始也。心中に祈願あり。伝聞諏訪大明神は東關第一の軍神なり。梟夷追討の為に鳳詔をかうぶりて素境に向。神力にあらずば賊衆を誅しがたし。神鑒をたれて所領を成就給へと祈願誓して。信州に至給し時、伊那郡と諏方郡との堺に大田切と云所にて。先一騎の兵客参と云。?(こうぞ)葉の藍摺の水干をきて。鷹羽の箟(しのだ)矢を負。葦(あし)毛なる馬にのりたり。将軍誰人ぞと問給。当国の住人なり。誠に官仕の志しありて参向すと兵客答ふ。只人にあらずと将軍思給ひて。則先陳としてはるばると奥州へ給ふ。其間山川所々にて眷(かえる)屬(ぞく)多く化現す。官軍みな奇異の思をなしていさみけり。(絵詞)
802 延暦21 1月、坂上田村麻呂、胆沢城を築く。
7月、降伏の蝦夷首長を処刑する。

1月、信濃など東国の浪人4000人を陸奥胆沢城に配置。
803 延暦22 3月、坂上田村麻呂、志波城を築く。
804 延暦23 1月、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する
806 大同1 3月、桓武天皇没(70)
○平城天皇より売神祝印下賜される(社伝)  
○有員上社大祝をつぐ(神氏の祖)

807 大同2
812 弘仁3
815 弘仁6 ○最澄東国布教のとき諏訪明神の加護にあずかる。(叡山大師伝・画詞)、信濃坂(神坂峠)の往還に宿所がないため、広済・広拯二院を設ける。
833 天長10
837 承和4 8月、陸奥国課丁3千余人に復5年を与える。
838 承和5 12月、小野篁、隠岐に流される。
839 承和6 3月、陸奥の百姓3万余人に復3年を与える。
840 承和7 2月、小野篁を召還する。
841 承和8 2月、飢餓のため、出羽国の百姓に復1年を与える。
842 承和9 5月、奉授信濃国諏訪郡無位勲八等南方刀美(建御名方)神が従五位下を授けられる。(続日本後記) 
10月、奉授信濃国諏訪郡無位建御名方富命前 八坂刀売神が従五位下を授けられる。(続日本後記)

850 嘉祥3 7月、故左大臣藤原冬嗣に太政大臣を追贈
10月、信濃国建御名方富命神  建御名方富命  前八坂刀売命神 並加従五位上 (文徳実録)
10月、伊豆国三嶋神従五位上 (文徳実録)
851 仁寿1 10月、進位信濃国建御名方富命 八坂刀売命  両大神 階従三位 (文徳実録)
852 仁寿2 12月、伊豆国三嶋神従四位下 (文徳実録)
854 斉衡1 4月、陸奥に出兵する。
6月、伊豆国三嶋神従四位上 (文徳実録)
855 斉衡2 1月、陸奥国俘因警備のため、援兵を遣わす。
856 斉衡3
857 天安1 2月、藤原良房、太政大臣になる。
859 貞観1 1月、男神 従二位   女神 正三位  
6月、男神 正二位  女神  従二位(三代実録)

1月、伊豆国従四位上三嶋神 正四位下を授け奉る。(三代実録
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864 貞観6 ・・ 2月、三嶋神正四位上を授く。(三代実録)
867 貞観9 3月、信濃国正二位勲八等建御名方富命 進階従一位  従二位建御名方富命前八坂刀売命 正二位 (三代実録)
○貞観年間に出羽に須波神が勧請されたのも、(三代実録)蝦夷征討、蝦夷征策に関連して、諏訪神社をまつる氏族がその地方に屯田したからではなかろうか。金井典美「御射山」より
・・
868 貞観10 7月正四位上三嶋神従三位を授く。(三代実録)
899 昌泰2 9月、上野国の申請により、初めて碓井坂と足柄坂に関を設ける。
927 延長5 12月、左大臣藤原忠平ら「延喜式」50巻を撰進
12月、延喜式神名帳に諏訪上下社、牧に岡屋・山鹿・塩原が見える。
940 天慶3 ○諏訪明神正一位を賜る。(画詞)
1124 天治1甲辰
1131 天承1 9月、鳥羽城南寺の祭で、鳥羽上皇が御幸される。この時、馬場殿で八武作女(やぶさめ)が行われ、信濃守盛重の献じた射手が一番となり、喜びのあまり立って舞をまったと「長秋記」が記す
1180 治承4 9月5日、頼朝、伊豆に挙兵。
9月7日、義仲、木曽に兵をあげ金刺・諏訪・千野等従軍す。(平家物語) 源頼朝、平出その他を諏訪上下に寄進。(吾妻鏡)

1185 文治1乙巳
1186 文治2 1月、頼朝、諏訪上下社に神馬を献進。諏訪上下社八条院領(吾妻鏡)
1187 文治3 8月、諏訪社下社大祝金刺(諏訪太夫)盛澄が、鶴岡八幡宮放生会にあたり、流鏑馬の名手として著われ源頼朝に仕える。
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1190 建久1 1月、頼朝、奥州藤原氏討伐のため、信濃・上野の御家人に出陣を命ずる。
1193 建久4 5月、頼朝、富士に巻狩を行う。 
○頼朝が下野の那須と信濃の三原で巻狩を行う。「吾妻鏡」

1199 正治1 9月、源頼家、諏訪上社に神馬を、下社に剣を献ずる。
1203 建仁3 9月2日、信濃の国目代兼守護比企能員が頼家と謀り北条氏討伐を企てたため、北条時政、能員を誘殺。
9月4日、能員の与党中野能成を拘禁し、島津忠久の大隅・薩摩・日向の守護職・小県郡塩田荘地頭職などを奪う。

1212 建暦2 8月、幕府、諸国の守護・地頭に命じて鷹狩を禁じる。ただし、諏訪社御執鷹は特に許す。
1219 承久1
1220 承久2
1221 承久3 ○この冬。湖水の御渡違例せり。見冬祭禮。(絵詞)
5月15日、承久の変、小笠原長清・諏訪信重・千野六郎等武家側に加わる。
8月7日、幕府、諏訪上社に没官領越前宇津目保を寄進し、戦勝を報賽する。

1238 嘉禎4 ○七不思議などの縁起文が記された諏訪上社物忌令が出される。
1246 寛元4 5月25日、北条時頼執権職を嗣ぎ、北条光時ら謀反を起こし、諏訪盛重ら騒動の鎮定に努める。
1247 宝治1 6月、三浦泰村の乱にあたり、諏訪盛重功績あり
1248 宝治2 諏訪盛重(蓮仏入道)北条時頼に仕える。
1251 建長3 3月、諏訪社より幕府に、社頭湖面に大島および唐船が幻出した旨を上申する。
1252 建長4 「信濃はきわめて風の疾い所である。そのため、諏訪明神の社に風の祝という者を置いて、深くこもらせて、斎(いわ)っておいて、百日の間大事にする。そうすれば、その年は風が静かで、農作物がよくできる。もし風の祝が外部と接触したり、日の光にあたったりすると、風が納まらず、よくない。」 金井典美「御射山」「十訓抄より」
1263 弘長3 4月、高麗、日本人の沿岸侵略の禁止を請願する。
1266 文永3 ○この年、高麗王、蒙古の使を日本に送るのに失敗する。
1267 文永4 9月、高麗の使、蒙古王世祖の書をもって来国する。
1268 文永5 2月、幕府、蒙古の国書を奏上、隠岐などの御家人に蒙古襲来の防備を命ずる。
3月、朝廷、各地の諸寺社に祈祷命令を出す。
5月、北条時宗が執権に就任。
8月、比叡山根本中堂において「七仏薬師法」による「異国御祈」を行う。
10月、日蓮、書を時宗に送り、諸宗を排撃し外寇を警告する。

1269 文永6 3月、蒙古、高麗の使、対馬に来て返書を求め、島民を奪ってかえる。
9月、高麗使、対馬に来て、国書を届け、島民をかえす。

1270 文永7 1月、朝廷、蒙古への返牒を作り、幕府に送るが、幕府は蒙古へ送らず。
1271 文永8 9月、幕府、高麗の牒状を奏上、鎮西に所領をもつ御家人を赴任させ海防を命ずる。蒙古の使、筑前今津に来る。
12月、朝廷、伊勢神宮に勅使を送り異国降伏を祈る。

1272 文永9 5月、高麗の使、元の牒状を持ってくる。
10月、幕府、諸国に田文の提出を命ずる。

1273 文永10 3月、元の使、大宰府に来る。 
                                            
・・
1274 文永11 10月、蒙古軍、壱岐、対馬を侵す。ついで筑前に上陸、大風おこり、その戦艦200余沈没(文永の役)。
11月、蒙古襲来の報、鎌倉に達す。

10月、蒙古襲来の時。尊神御発向の故に。賊船漂到する事ありしかども。是程の事はなかりき。此のたびは何なる事のあるべきやらんと疑をなす所に。大元の将軍夏貴・范文虎使等襲来。六百萬艘の船を和漢中間の大洋に連続して。其上に大板を敷つつけて。人馬往復二道の浮橋をなさんと算数して。先陳かつかつ数萬艘来朝して。後陳のつづくをまつと聞ゆ。爾(しか)るに六月二十五日。悪風俄(にわか)に吹来て。彼兵舟或は反覆し或は破裂して。軍兵皆沈没す。適々船具板ちるに取付て浮び出る輩は。釘かすがいにつらぬかれて。白刃赤肉を切にことならず。流血潮の浪そめ。(略)(絵詞)
1275 建治1 4月、蒙古の使、長門室津に来る。幕府、鎌倉に呼ぶ。
5月、幕府、備後・安芸・周防・長門の御家人に長門警備を命令。
9月、蒙古の使を竜口に斬る。諸国の公事を減らし、兵備に充てる。
12月、幕府、外征を企て、山陽・山陰・南海道の梶取・水手を招集する。

1276 建治2 3月、幕府、鎮西将士に命令して石塁を築く。
1277 建治3
1278 弘安1 11月、元の世祖、日本商船の交易を許可する。
1279 弘安2 7月、元使、筑紫に来る。幕府、これを斬る。
季夏の天、当社神事時。日中に変異あり。大竜雲に乗じて西に向。参詣諸人眼精の及所そこはかとなく。雲間殊にひはたの色ひらひらと見ゆ。一龍か又数龍か。首尾は見えず。何様にも明神大身を現じて。・・・・・(画詞)
1280 弘安3 2月、朝廷、諸寺に異国降伏の祈祷を命ずる。
12月、幕府、鎮西の守護・御家人などに異賊警固に同心することを命令する。

1281 弘安4 5月、高麗の兵船、対馬に来襲する。
6月、元の本隊、高麗軍と合流、志賀島・長門に襲来。
7月、大風雨により元軍壊滅(弘安の役)。
11月、幕府、北条時業を播磨に遣わし警備にあたらせる。この年、幕府、大友・少弐氏に高麗討伐を命ずる。

・1281年(弘安4年)の元寇では朝廷より二条為氏大納言が勅使として伊勢神宮に派遣され、風神社と風社で祈祷を行なった。日本に押し寄せた元軍は退却し日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利として1293年(正応6年)に風神社と風社は別宮に昇格され、風日祈宮と風宮となった。 Wikipediaより
1282 弘安5 10月、日連没(61)。
この年、時宗、円覚寺を建て敵味方戦没者を供養する。

1283 弘安6 5月、幕府、北条兼時を播磨に派遣する。
1284 弘安7 7月、元使、対馬に来る。
1286 弘安9 7月、幕府、鎮西将士の越訴を禁じ、大友・少弐・宇都宮・渋谷4氏と合議とし、異国警固に専心させる。
10月、鎮西将士に弘安の役の恩賞を行う。

1287 弘安10 1月、鎮西奉行、肥前の将士に博多警固を命ずる。
1289 正応2 11月、幕府、周防・長門の社寺に異国降伏を祈らせる。

1291 正応4 2月、幕府、諸国の社寺に異国降伏を祈らせる。
1292 正応5 10月、高麗の使、大宰府に来て国書を呈する。
1293 永仁1 2月、「蒙古襲来絵詞」なる。
3月、幕府、初めて鎮西探題を置き、北条兼時を任ずる。

5月、知久敦幸、諏訪神社に普賢堂を建立する。
1294 永仁2 3月、鎮西探題、筑前・肥前などに烽火を設置。
6月、幕府、弘安の役の恩賞の詮議を打ち切る。
1297 永仁5 3月、永仁の徳政令。元僧一山一寧を日本に送り、和好を求める。
1298 永仁6 7月、幕府、筥崎に石塁を築く。
1299 正安1 1月、幕府、初めて鎮西評定衆を置く。
10月、元使、一山一寧、鎌倉に来て国書を呈する。

1300 正安2 7月、幕府、鎮西探題に、海防を厳にすることと、外国使節の取り扱いを定める。
○この年、幕府、弘長2年以後より弘安の年以前までの訴訟受理を禁止する
5月、下社大祝金刺満貞が一山一寧(建長寺住持)を開山として慈雲寺を開く。
1303 嘉元1
1304 嘉元2
1305 嘉元3 4月、北条時村暗殺される。
(略)時村朝臣と。越訴管領宗方確論の事ありて。神訴も空しかりける。彼のさいしひたん(妻子悲歎)のあまりに。はだしに百日当社へ参詣す。霊夢ありて神鑑をまちける処に。同3年4月。関東兵乱あり。時村朝臣をば勇士等聞あやまりて誅戮し畢。宗方又誅に伏す。末代と云ども。神罰不思議なりとて。8月早船を立られて召返され畢。当社霊威厳重なりし事なり。(絵詞)
1310 延慶3 ○若狭国倉見庄御賀尾浦(福井県三方郡)の領主藤原盛世がこの地へ諏訪下社を勧請し、5月5日の五月会、7月27日の御射山の祭の費用としてそれぞれ神田を寄進する。「大音文書」(信濃史料 四巻)
1321 元享1 ○奥信濃の武士、市河盛房が書いた遺言状に「諏訪の御頭が当ったら、一大事と考えて一族が協力して奉仕しなければいけない」と記す。
1324 正中1 9月23日、正中の変(御醍醐天皇の倒幕計画が発覚)、幕府諏訪三郎兵衛らを京都に派遣す。のち日野資朝ら捕えられ鎌倉に来る。
1329 元徳1 3月、幕府、諏訪上社五月会・御射山頭役の結番を定め、同社造営所役を信濃諸郷に課す。
1331 元弘1
元徳3 10月15日、元弘の乱にあたり、小笠原貞宗・諏訪祝ら大和道より、信濃国軍勢、天王寺大路より進む。
1332 元弘2
正慶2
(4・28)
8月、神事の最中。又晴天の白雲大小の段々皆人馬の形に変ず。其姿白旗さしつづけたる大軍発覚の勢数十町に及ぶ。化軍の多少面々の所見不同也。或は数千騎、或数満騎と申あひけり。当社より西の山を越て。東に向て社壇の上に掛りて後。太霊の雲散乱す。御射山下向の貴賤当国他国より群集の諸人。是ををがみて奇異の思をなす。此比は西国擾乱の時節なれば。先例のとくならば本社より西へこそ向はせ給ふべきに此怪異吉凶不審也。(略)(絵詞)
1333 元弘3
正慶2 5月、新田義貞、鎌倉を攻め北条高時、鎌倉東勝寺で自害。諏訪真性らこれに殉死、北条氏が滅ぶ。
5月、諏訪盛高、北条時行(亀寿丸)を諏訪にかくす。
1334 建武1 ○諏訪円忠は雑訴決断所の寄人
1335 建武2 7月13日、諏訪頼重(三河照雲入道)等、北条時行を擁し、信濃守小笠原貞宗の軍と埴科(はにしな)に戦った後、武蔵国女影(おなかげ)原に足利直義を破り鎌倉を回復する。(中先代の乱) 
8月、諏訪頼重、時継や諏訪一族が大御堂で敗死、北条氏による幕府再建の夢が破れる。(町田市・井出沢の戦について 重而小山下野守秀朝発向セシムトイヘ共、合戦同前ノ間、同国府中二於テ、一族家人数百人相共ニ自害ス、是ニヨテ、七月廿二日下御所左馬頭殿(直義)鎌倉ヲ立テ後発向、同日薬師堂ノ御所ニ於テ兵部卿親王(護良)ノ御事、浅増カリシ御事也、カクテ武州井出沢辺ニ於テ終日合戦ニ、御方多被討シ間、俄ニ海道ニヲモムキ給、上野親王成良・義全(義詮)于時六歳同相伴奉 「梅松論」町田市史 上巻 P428 )

1336 延元1
建武3 1月、小笠原貞宗、諏訪上社大祝藤沢政頼を追い、諏訪頼嗣を大祝とする。
1337 延元2
建武4
1338 延元3
暦応1 閏7月、京都諏訪社の神官であった諏訪円忠守護奉行となる。
1339 延元4
暦応2 ○信濃安国寺できる。  
○諏訪円忠が天竜寺の造営奉行に任命される。

1340 興国1
暦応3
1341 興国2
歴応4 12月、直義、疎石らと天竜寺船の元派遣を計画。
1342 興国3
康永1
1343 興国4
康永2
1344 興国5
康永3 ○宗良(むねなが)親王諏訪下社秋宮に祈願。
1345 興国6
貞和1
1346 正平1
貞和2
1347 正平2
貞和3
1348 正平3
貞和4
1349 正平4
貞和5 8月、高師冬、足利直義を討つため都に兵を集める、武田伊豆守ら甲斐源氏多くこれに従う。
1350 正平5
観応1 12月、高師冬、鎌倉の足利基氏と不和になり須沢城に没落、上杉憲将ら兵を率いて師冬を攻める。(太平記)
1351 正平6
観応2 1月、甲斐国須沢城の戦い、高師冬須沢城で自害 (太平記)
1352 正平7
文和1 ○矢島正忠、宗良親王を奉じて小笠原長亮と桔梗が原に戦う
1353 正平8
文和2
1354 正平9
文和3 ○「年内神事次第旧記」に文和3年の奥書。12月23日の条に、前宮神殿の御室(みむろ)に入れた御神体は、藁か茅で作った蛇体で、これを御房と称し、蛇体三筋を入れたと記す。
1355 正平10
文和4 8月、宗良親王、諏訪社上社および下社祝・仁科氏らを率いて、小笠原長基の軍と筑摩郡桔梗ヶ原に戦い敗れる。
1356 正平11
延文1 11月、諏訪円忠、「諏方大明神絵詞」を著わす。(光厳天皇の題字と足利尊氏の奥書)
1359 正平14
延文4 12月、足利義詮、天下泰平を諏訪下社に祈願。
1360 正平15
延文5
1370 建徳1
応安3 大内弘世が長門一の宮住吉神社本殿を造営。
第一殿:住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)
第二殿:応神天皇
第三殿:武内宿禰命
第四殿:神功皇后
第五殿:建御名方命
1374 文中2
応安6 ○この年。宗良親王信濃を出て吉野に至る。

1392 元中9
明徳3
1393 明徳4
1400 応永7 9月、大塔合戦。
1443 嘉吉3 諏訪湖神渡の注進はじまる。
1472 文明4 7月、「諏方大明神画詞」
1489 長享1 7月、幕府奉行人、諏訪貞通の勧進によって、将軍足利義尚をはじめ京都の貴神が上社御射山祭に法楽和歌五十首を献じる。
1685 貞享2 9月、由原八幡縁起
1835 天保6 3月、塙忠寶、西田忠禮が「諏方大明神画詞」校正

絵詞史的部分のまとめ(原文のまま)
 (略)奮事本記の説によらば。素盞烏尊の御孫大己貴神の第二の御子建御名方の神是也。父兄の御心に隨(したがっ)て孝順の道を顯し給ふ。持統天皇は勅使を遣して祭禮を始められ。弘仁聖王は霊夢を感じて本地を覚りましましき。下宮は大慈大悲の薩陲千手千眼の示現なり。泥梨には極り共にはかり。娑婆には無畏を施す。垂迹は又南天の国母。北極の帝妃。月氏の雲を出で。日域の塵に交り給ふ。この上下両社は。世俗に准て陰陽の義を表す。また是定惠の法門なり。凡当社明神は神徳萬事にわたるといへ共。殊(こと)に武勇をつかさどりて武舘を衛護し給ふ。是によりて神功皇后異国を責給ひし時は。数艘の兵船の雲帆をあげて。三韓征伐の冥威を賑ひ給ふ。田村将軍東夷を罸せし日は忽に海上に射禮を施して。長軍中の兵法を残す。今の三三九八(ママ)的乞垂手挾(はさむ)。是を以て濫觴とす。
 遂に安倍高丸を誅(ころ)し。一郡奉免の勅宣をなさる。永代の祭禮の要脚と定めらる。弘安寶暦には。尊神の御躰を雲中に顯して。蒙古の賊船浪の上に覆す。然(しから)ば則君を守り国を保計事。我神明の利益に過たるはなし。况(いわん)や又御幸一夜の奇瑞は。千里万里の氷道を開き。御狩三日の遊獵には兩三疋の蹄具をいたす。奇徳一にあらず。霊験是同じ。然間日祭月禮神事をこたりなく。朝祈暮賽儼禮彌新なり。今年中の行事を勤して。(略)


御射山の神事について(絵詞原文のまま)
 (七月)廿六日小月廿五日。御射山登まし。大祝神殿を出で。先前宮講上の両社へ詣て後進発の儀式あり。神官行粧。騎馬の行列五日会に同じ。御旗二旒の外。御札十三所神各帳銅の札を鉾に付たり。を加。神長是をさす。先陳既に酒室の社に至る。神事饗膳あり。又神物鞍馬武具是をひく。別頭役色衆小頭に同じ。三獻の後、さんこん 献】「さんごん」とも正式な酒宴の作法。大中・小の杯で一杯ずつ飲んで膳(ぜん)を下げることを三回繰り返す。またその三度目の酒肴(しゆこう)近世降、婚礼の三三九度の杯をいうともある。式三献。
雅楽大草薄穂(すすきほ)をとる。群集の人数を算数する儀なり。
 繪在之
酒室の神事畢(おわり)て。長峯へ打のぼりて。行々山野を狩る。必神事の法則に非ずといへ共。鷹などすへて使ふ物も有。禽獣(きんじゅう)をたてて射取者も有。漸晩頭に及で物見が岡にいたり。見物の緇素群集す。扨(さて)大鳥居を過る時は。一騎宛聲をあげて通る。前官男女の部類。乗与騎馬の類。前後につづきて櫛の歯のごとし。凡諸国参詣の輩。伎芸の族。七■深山より群集して一山に充満す。今夜参着の貴賤面々信を起し。掌を合て祈念す。諸道の輩衆芸を施す。又乞食非人此処に集る。参詣の施行更に隙なし。都鄙の高客所々に市をなす。盗賊對治の為に。社家警固をいたす。巡人の甲士昼夜をこたらず。
 繪在之
廿七日。早旦。一の御手倉。大祝以下大小神官榊を捧(ささげ)て山宮に詣(もうで)す。去夜より。所々の神楽鉦鼓の声。巫女が詫宣相続してかまびすし。又散供打まき積物雨の足のごとし 下向の後。四御庵の前にて大祝御手拂(はらう)。衆人展轉して是に随ふ。山谷饗傳へ。馳馬頻に驚。次に恒例の饗膳畢て後。揚馬打立。服餝(そうしょく)鞍馬の美麗。五月会に超過せり。人数時随て不定なり。古へは百騎計。近来は僅かに二三十騎などに減少す。然而神官氏人の外に。諸人随意の行粧。前後連続の義式比類なし。次に御狩発向の次第。奥巻に見えたり。
廿八日。神事。法則昨日のごとし。其外御狩帰。晩に及で左の頭人饗膳をまうけ。神物色々鞍馬御贅等引。色数式目のごとし。芝居列座之次第。祭の場廣博なりと。事々敬白の奉幣御神楽を奉りて後。頭人退散す。
廿九日祭禮の條々。又昨日に同じ。御狩帰は右頭人經営也。盃酌の後矢秡あり。雅楽に仰て。狩人の中に鹿の射手を召出して。とがり矢尾花を取副たり。をたまふ。大鹿分八・中鹿分六・妻鹿分四・猪鹿分三なり。是を取て再拝して退出。当座儀式尤(もっと)眉目たり。又相撲廿番あり。占手供御なり。左右頭人雌雄を決す。両方の介錯確執頻也。社司是を制す。又今日の水干脱。来集の輩に分ちあたふる事。其数五月会に倍増す。
 繪在之
祭第六 秋下  繪郊貞法師
 詞 石山前大僧正筆
御射山七月。御狩三ケ日。五月のごとし。但行烈の行粧。山中の儀式には異なり。先大祝并(ならび)に左右の頭人揚装束。其外射装束にて改て。射馬に乗り替で打立。色々の水干。思々の箟矢行騰等なり。又馬場の揚馬金銀鞍を置き。總鞦をかけたる舎人等乗馬あてひきつらぬ。乗口と號。又倉通の御幸ありと申傳たれば。眞俗貴賤を論せず。此山に入て動揺す。大祝至時に望見て。狩奉行山口を開て。則面々競ひ争。左右の旗を守て狩場に出。千種の花高くして人馬をかくす。纔(わずか)に弓のはず笠のはなど見ゆ。此時禽獣飛揚馳走して狩人猥騒す。伏木岩石の嶮岨をきらはず。数百騎くつばみを並て山中もらずと云へ共。矢に当る者両三にすぎず。本誓悲願の至。神詫の文古老の説。すこぶる符合せしむ物か。各御庵いかへりて後。小笠懸。千度詣宮通。(略)

 
   資料   長野郷土史研究会機関誌「長野 第93号 諏訪大社・御柱特集号」  昭和55年9月発行 平成16年1月改定再版
       改版諏訪の歴史 著者 今井広亀 発行所 諏訪教育会 昭和57年9月発行
       御射山 金井典美 学生社 発行 昭和43年7月
       北九州の100万年 監修 米津三郎 海鳥社 1992年11月発行
       諏訪大社 銀河グラフィック選書B 著者 矢崎孟伯(やざきたけのり) 第2版4刷 1992.2発行
       諏訪の交通史 著者 細川隼人 諏訪教育会  発行 昭和46年10月
       諏訪物語 今井野菊 国書刊行会 発行 昭和50年8月
       すわ歴史散歩 柳平千彦 諏訪文化社 発行 昭和60年2月2刷 
       町田市史 上巻
       「続群書類従 第三 輯下」 群書類従完成会 編纂者塙保己一 発行 昭和32年4月5日訂正三版
          巻第七十三 諏訪大明神絵詞上・下 巻七十七 由原八幡縁起 上・下
       日本史年表 歴史学会編 岩波書店  発行 1966・7・19
       檜原・ふるさとの覚書 −村の暮らしと民俗− 小泉輝三朗 発行昭和56年2月 二刷 武蔵野郷土史刊行会
       らくらく読める古事記 島崎晋  廣済堂出版 発行2003・10・15
       三嶋大社<略史>  三嶋大社  発行 昭和六十年七月
       東京都の歴史 児玉幸多・杉山博 山川出版社 発行 44年10月
       佛教芸術 ARS BUDDHICA 76号 「九州の仏教美術特集 菊竹淳一著「九州の縁起絵」」 毎日新聞社 July 1970
       我が国民間信仰史の研究(一) 序編傳承説話編  堀一郎 東京創元社 発行 昭和50年2月九版
       神々の系図 川口謙二 東京美術 発行 昭和59年4月 初版第7刷
       神奈川地域史研究会会誌 第20号  神奈川県地域史研究会(出版編集部)発行 2002・3 
          【総会記念講演録】北条時宗の異国降伏祈祷について 伊藤一美 
       日本書紀(二) 全5冊 ワイド岩波文庫231 校注者 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野 晋 発行 2003・9 1冊
       古事記  新潮日本古典集成(第27回) 校注者 西宮一民 新潮社 平成13年2月16刷
       天武・持統天皇と 信濃の古代史 宮澤和穂 国書刊行会 発行 平成15年9月
       国文学解釈と鑑賞 寺社縁起の世界 金井典美著ー 諏訪神社 ー  至文堂 1982・3  
                  
 
       川尻八幡宮
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