川尻八幡宮
 
 令和元年から、川尻八幡宮の例大祭(城山夏まつり)の日程が変更となりました。
        令和元年は8月24日(土)と8月25日(日)です。

   
       川尻八幡宮例大祭はこれからも8月28日のAM10時から始まります。

2006・1・22 更新
2006・3・12 更新
2011・8・27 更新

2017・12・8 翁塚出土副葬品數を修正。
      

2014 川尻八幡宮例大祭・夏まつり
2013 川尻八幡宮例大祭・夏まつり
2012 川尻八幡宮例大祭・夏まつり
2011 川尻八幡宮例大祭・夏祭り
2010 川尻八幡宮例大祭・夏祭り
              川尻八幡宮由来
 川尻八幡宮は、応神天皇を御祭神として大永五年(1525)五月五日に創建されたと云われていますが、社伝によれば舎人親王(四十代天武天皇の皇子)の子孫が奥州に降る途次、病に倒ら亡くなられたため、同行者がこれを悲しみこの地に手厚く葬りました。そして首長が護持していた石清水八幡宮の御分霊を御神体として祠を建て、お祀りしたのが今の川尻八幡宮と云われ、その後、一行は奥州清原家を興隆したと伝えています。
 また昭和三年には境内の北側から石室(翁塚(おきなづか))が発掘され、三本の直刀と二本の刀子をはじめ、三十本の尖根式鉄鏃等が出土しています。『新編相模国風土記稿』によれば一の鳥居から神社の参道沿いには松の巨木が生茂っていた事から別名を「並木八幡」とも呼んでいました。また、例祭(旧七月二八日)には湯立神楽や奉納相撲も行われ近郷近在からは多くの人々が集い賑わったと云います。
 境内は、今も深い森(杜)で覆われ、古くからの神域として人々に信仰され続けています。

                       撮影2006・1・22
         
                雪の川尻八幡宮

      
           松の並木が描かれた絵図  年代不明
 
 その後、松の並木の一部は嘉永六年(1859)にペリーが浦賀に来航したため、江戸市中を防備する事となり参道の松を切って品川沖の台場建設にあてたと云います。
 宝永三年(1706)御社殿再興により従来の若宮権現から若宮八幡と改称、さらに明治六年村社に列し、八幡神社に改められました。現在の建物は、本殿(三殿中央は八幡神社、南殿が八坂神社、北殿が春日神社)、幣殿、拝殿、神楽殿、社務所、授与所、手水舎、神輿庫等です。また、境内には明治四二年神社合祀令により統合された八坂神社、春日神社、金刀比羅宮、天満宮、御嶽神社、稲荷神社、社宮神社、厳島神社および不動明王が祀られています。

              川尻八幡宮例祭

「広報 しろやま 昭和48年8月号より  川尻八幡宮例大祭
 当社の例祭は八月二十七、二十八日の二日間執り行われます。まず、二十七日の神幸祭には町内の三百人を超す若人が、白丁という白装束に身を包んで朝七時前に神社に集結します。そして「応神」、「八坂」,呼ばれている二基の神輿によって、町内渡御が行われます。途中十二、三所の御旅所があり、そこで地元の氏子を始め、多くの人々による暖かな歓迎と参拝が執り行われ、神社に神輿が帰ってくるのは夜も十時を過ぎます。
 二十八日の例祭は、午前十時から神事が斎行され、午後は数多くの露天が並び、境内は参詣の人々で賑わいます。
また神楽殿においては芝居やカラオケ等の余興が奉納され、夜遅くまで神社の杜に歌声や音楽が鳴り響くのが、最近の恒例となっています。
 これに合わせて各地区の山車が神社前に続々と集結、お囃子に合わせて獅子舞や白狐、おかめ、ひょっとこ踊りなどの競演も華やかに繰り広げられクライマックスとなります。
 このように、大勢の人々の協力により、祭りの雰囲気はいやがうえにも盛り上がりを見せてゆきます。こうして八幡宮の祭りとともに川尻の夏は終わり、やがて収穫の秋を迎えます。
                  (神社だより 平成二年四月創刊号より)
 
 鎌倉八幡宮に奉納された大しめ縄

川尻八幡宮で、大しめ縄づくり 
 今年も当日は、八幡宮の氏子約30人が縄にワラを巻き付けていき、しめ縄を製作、このしめ縄は、最も大きいもので長さが約m、太さ約25pにも及ぶ迫力のあるもので、川尻八幡宮の御神木や拝殿に飾るほか、鎌倉の大イチョウやJR鎌倉駅にも飾られた。
 このしめ縄づくりは、昭和四八年まで横浜市内の農家が行っていたが、ワラ不足により横浜での作業が困難になったため、当時鶴岡八幡宮が宮司を兼ねていた川尻八幡宮の氏子が継承し今日に至っている。
 (タウンニュース・平成十五年十一月二七日号より写真は神奈川新聞社)


  川尻八幡宮伝統の注連縄づくり完成記念    撮影 2006・12
 
   
平成21年12・6 川尻八幡宮・大注連縄づくり・鶴ヶ岡八幡宮大銀杏倒れる

          雨水と霜降の日に「日の出」を観賞しましょう

 最近は「日の出」を地平線上から眺めようと思ってもなかなか見ることができません。ところが川尻八幡宮の入口から「一の鳥居」まで、一直線に延びる参道の延長上から年に2回、日の出を観賞することができます。2月19日頃の雨水の日(日の出時間6時26分頃)と10月23日頃の霜降の日(日の出時間5時56分頃)です。
 古代中国では「冬至」から一年が始まり、春が始まると考えられていましたが漢の時代から気温が暖かくなる「立春」を年の初めとし、日本でも明治六年の太陽暦改正まで続けられていました。
 立春とは春の訪れを境に太陽(神)が精気をみなぎる芽生え、太陽(神)が生き返る日と考えられています。二十四節気でいう2番目の雨水とは太陽(神)が雨となり水となって私たちに恵みをほどこす最初の仕事となります。
 この頃より山の雪や氷が解けはじめ雨が降るようになります。昔から雪の多い日は豊作と云われ、各地で「祈年祭」や「春亥の子」と云うような豊作を予祝する行事が行われてきました。
 霜降の日は文字道り霜の降りる日をいい、冬支度の準備が始まります。この頃収穫を神に感謝する大祭神嘗祭が行われます。

 何でだろう:日の出時間が雨水と霜降の日ではその差が30分も違います。これは地球が23.5度傾きながら自転していることと、地球が太陽の周りを楕円運動しながら公転していることに関係しています。(ケプラーの第2法則) 
 2月19日(頃)「雨水の日」の「日の出」時間は6時26分頃、また10月23日(頃)の「霜降の日」の「日の出」時間は5時56分頃です。みんなで日の出を観賞しましょう。

向原の今井さんからの報告 川尻八幡宮参道からの日の出鑑賞時刻について

                       主催 雨水の日に日の出を観賞する会  来てね

        ギザのピラミッドも同じ角度の参道です。

カフラー王のピラミットと河岸神殿を結ぶ参道
 エジプトのギザにあるカフラー王のピラミッドとスフィンクスの隣りにある河岸神殿の間には川尻八幡宮と同じように長い参道があります。この参道の角度が偶然か川尻八幡宮の参道の角度(13.64度)とほぼ同じです。太陽の恵みである米や麦を作る農耕民族にとって一年の長さを知ることはとても重要です。古代エジプトでは一年の区切りを洪水季、耕作季、収穫季と三つに分けていました。夏至を基点に一年の長さを三分割(121.75日毎)しています。二十四節気に換算すると夏至、霜降、雨水ということになります。
エジプト暦では一ヶ月の長さを三十日としていますから永久不変の一年の長さを知るにはどうしてもこのような参道の施設が必要と思われます。ピラミッド前の葬祭殿から河岸神殿、そしてさらに延びる地平線の彼方から立ち昇る太陽、人々は恵みをほどこす太陽を崇め元旦のお祭りをした事でしょう。
 ピラミッドの参道については、これまでピラミッドの材 料となる岩石を運ぶ道として紹介されてきましたが、太陽暦を基準とするエジプト暦が、どうして日の出位置を重要視して紹介してこなかったのか、また故意に知らせなかったか不思議でなりません。農耕社会では太陽の日の出位置から時を知り祭祀である予祝行事、種蒔き、代かき、田植えと順番に行われてきました。エジプトでは麦を作ってきました。恵みを施すナイル川の洪水期、収穫期、耕作期など大平原の中での時を知る方法として、年間を一番光の強い夏至を中心に3分の1づつ分割する方法、三つある正月の意味は農耕社会での長い経験から生まれたものでしょう。ギザのピラミッドに見る参道の角度、ひょっとして、世界中のどこかにまだまだ同じような祭祀遺跡があるのかも知れません。

 境川源流域は古代研究者からは今までほとんど注目されることはありませんでした。しかし、不思議なことに継体天皇の長子安閑天皇を祭神とする神社群や渡来人、賽の神塚を頂点として牡龍籠山と一の鳥居を結ぶ大二等辺三角形と古代人の天文台、はてまた最近の風水思想による古代都市づくりまで話題はつきません。
 一の鳥居から参道正面に見える御神体山の牡龍籠山を中心にして古代のロマンは果てしなく続きます。

 珍しい「奉納塔」の話
 拝殿の手前左側にスダシイの古木、その脇に珍しい奉納塔があります。相模川に落ちた鳥居の柱の一部です。大正6年、当時の久保沢の人たちはその石柱をかついで神社に運びました。そして54年ぶりに発見された鳥居の一部を立て基壇に名を刻みました。恐らく川尻村始まって以来の出来事であったことでしょう。夏祭りの賑わいが何だか見えてきそうな、そんな気配がしてきます。
   
     元一ノ鳥居の石造物              奉納等
  奉納塔の裏側には、その頃の様子を次のような文面で伝えています。
  「維持大正六年七月、津久井郡湘南村先相模川ニ此石材ノ沈没セシオ発見ス。聞ク此材ハ文久三歳七月当神社ニ鳥居建立ノ際其ノ用材トシテ本村地先相模川岸ニ陸揚シタルヲ、満々洪水ノ為メ流失シタルモノナリト。弥来不明ノ間水中ニアルコト五十有五年、図ラズモ我等ノ発見スル所トナル。依テ一同相咨リゲンニ発見ノ記念トシテ之ヲ建ツ。  大正六年八月二十八日  鮎漁者」 また、八木仁太郎翁の手記もこんなふうに伝えていました。
 「これは八幡様の鳥居を造ったとき、舟で運搬してきて、陸揚げしようとしたところ、なにしろ重い石の柱のことだ、誤ってその一本を川の中に落としてしまった。それは山伏岩の付近で、その岩は船着場の下の岩屋から、川中へ斜めに十間も突き出ていた。青々と淀んで水は動かず、深い物凄いところだった。この山伏岩はその後、洪水で段々に欠けて、私が子供の自分には、四、五間残っていたが、今は川の底に僅かに見え、その上を川の水が流れている。そうした場所だったので、それを揚げることができず、そのまま放置してあったと、年寄りから聞いていた。その石の鳥居の柱が、大洪水のとき二つに折れて、片方だけ大島河原に打ち揚げられてあった。それをある人が見つけて、漁師仲間で奉納した。沈没して以来五、六十年も経過したのと、大島河原まで流れてゆく間に、摩滅して細くなっている」 
                       八木蔦雨著  「城山夜話」より
 
                       基壇に刻まれた奉納者たち
 川尻八幡宮(関連)主な年中行事
1月1日  元旦祭
1月第1又は第2日曜日 鎮火祭
2月3日 節分祭
2月19日頃 「雨水の日」 「雨水の日」の「日の出」観賞会
3月 入学児童奉告祭(学始祭)
6月30日 大祓式
8月27日、28日 川尻八幡宮例大祭
11月3日 菊まつり鎮守の森の手づくり市
11月 七五三奉告祭
11月23日頃 「霜降の日」 「霜降の日」の「日の出」観賞会
11月最終の土日曜日頃
12月末
12月
大注連縄づくり
お正月の準備
三十一日 大祓式、除夜
                               撮影2006・9・29
       
    8月27日の祭礼日、日は雌龍籠山の山頂へ沈みます。鶴岡八幡宮大銀杏
    当日の「日入」は17時56分から始まり58分に没(日入)します。
                     確認の出来る場所は「一の鳥居」前です

神奈川県相模国津久井郡川尻村村社八幡神社見取図
 (明治初期 城山町役場所蔵)

雄龍籠山(おたつごやま)




昔の川尻八幡宮参道
 
 松並木
 八幡様のダイモン(表参道)は八町八間といわれ、わしら子供のころまで太い松が並んでいました。川尻の八幡様が並木八幡と呼ばれたのはそれですよ。
 そのころ大川(相模川)のカシ(河岸、舟着場)は川尻村側にあって、厚木・平塚の方から、春夏(はるなつ)のころは南風(みなみ)にのって帆かけ舟がのぼって来て、米と津久井の炭と交易しました。八木屋の兵輔(ひょうすけ)さんはカシから荷出しをして、一日に天保銭を四斗樽一ぱいほどの大きな商売をしました。帆かけはもっと上(かみ)の荒川までのぼりました。カシの場所はいまの桂川(けいせん)亭の下です。そこにヤンブシ岩というのがあって、その岩の下にタタミ
岩、上にはカマ岩・ビョウブ岩なんてのがあった。そのあたりはそりゃ深くって、四間竿(しけんざお)も届かないほどでしたわ。
 さて、そのカシの権利について、川尻村と向こう岸の小倉とで争いが起り、大審院まで持って行って、とうとう川尻村が敗れました。それにはわけがありましてね。川尻の方には耕す畑は多いが船頭は少ない。小倉の方は土地が狭くて川稼ぎに頼らなくっちゃやって行けない。結局カシの権利は小倉の方へ譲ることになったんです。(※1)
  しかし、この訴訟の費用四百円か五百円の出しどころに困り、ついにダイモンの松並木を伐ることにしたんです。こうして、並木八幡の有名な松の並木も、そっ

くり伐られたわけです。何しろ伐り口が子供の背丈(せいたけ)ほどもある大木で、その落葉で原宿中の焚きつけは充分だったということです。松並木が伐られて、ダイモンあたりの畑は広くなり日当たりがよくなって、原宿では大喜びでした。一の鳥居のとこにある「無礙光(むげこう)」の石燈籠は、その感謝のために、原宿の河内屋、小儀四郎右衛門が奉納したものだそうです。(※2)(略)
※1)相模川の高瀬舟による舟運権の紛争は古くからたびたびあった。史料としては明和六年(1769)、安政六年(1859)、明治十一年(1878)のものなどがある。明治十四年東京上等裁判所の判決により小倉村の勝訴となった。
※2)この灯篭にはつぎのように刻まれている。「無礙光/国家靖康/明治十四辛已皐月(さつき)/小儀景隆献之/石工北原祥重/神主高橋寿麿(としまる)」書者は柴野整周だという。北原は信州高遠の石工・この灯篭は一の鳥居と共に、(最近)境内に移された。
        
             「わしら若いころ 村田斉次郎 校注・安西 愈より
松並木のお話は、昭和27年7月、郷土史家の安西さんが、当時89才の村田斉次郎さんから聞いた話として「わしら若いころ」と表題をつけまとめた「望郷帳(壱)」から転写させていただきました。

     
   川尻八幡宮一ノ鳥居「八幡神社」扁額



高尾山(599m)
鷹取山
雄龍籠山
矢柄八幡宮

亀池八幡宮




不思議な三角形
 藤野町の鷹取山から雄龍籠山を経由して、川尻八幡宮参道の延長上に矢柄八幡宮が当たります。(雨水ライン)矢柄・箭幹(やがら)八幡宮から大山のライン上に亀池八幡宮が当たります(大山ライン)。また高尾山から雄龍籠山を経由し、その延長上に亀池八幡宮が当たります(高尾ライン)。三つの八幡宮は雄龍籠山を頂点としてそれぞれに結ばれています。つまり、川尻八幡宮は雨水ラインと高尾山ラインに挟まれた広大な相模野台地の頂点に鎮座していると云うことになります。
     資料 寛永14年(1637)6月 上・下川尻村 八幡神社本地神訳集  

      神訳集
 抑、八幡ヲ弓箭神奉信事濫觴ヲ委無知人、
 依之其本地之者也、
 夫昔十二代之時、日本武尊諏方大明神ヨリ給弓者
 神ト成受、佗(他)人是ヲ不見、尊此ヲ写シ而則父帝ニ
 進上、有於今天下之宝トシテ、林宋闕納十四代之仲愛イ
 天皇之御時、異国エ向給時長門ニテ崩御有、各神皇
 切各此弓ヲ以テ新羅・白(百)済・高麗国ヲ責随而其後
 御子応神天皇ニ弓之術ヲ伝給、然者、武士之弓
 箭神ニ八幡ヲ奉信事右之細也、大岡之社ニ神ト現シ
 給也畢

 寛永拾四年丑六月八日
 
おさえる 箭 奉たてまつる 
みだれる 觴さかずき

日本武尊
諏方大明神ヨリ給弓者
しかも 則すなわち

かける 崩御ほうぎょ
神皇切各神功皇后か?

せめる 随したがう

おわる


            川尻八幡宮、1100メートルの不思議参道考える
            武蔵国一宮成立の前夜 龍籠山を基軸に、だれも知らない方位線
            雨水と霜降の日の出観賞会 2月19日と10月23日
            川尻八幡宮境内の翁塚(おきなづか)と副葬品について
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