城山に来た学童疎開の子供たち

学童疎開の受入れ
 神奈川国民学校の学童疎開は昭和19年8月16日、33度の炎天下の中で始りました。提出書類によると移動数は147名で移動先は川尻村です。
 子供達は教師に引率され炎天下の中を橋本駅から歩いて川尻国民学校に到着しました。後年、地元住民の一人、故小林ツネさんは当時の模様をこう伝えていました。
 「橋本駅から炎天を歩いた生徒達はグッタリとして川尻校へたどりついた。私達は麦湯を冷やし、おにぎりを作って出迎えたが、疲れはてて今にも倒れそうな子、心細さに母の名を呼んで泣きだす子、いずれを見ても哀れな生徒達の姿に、明日の命も知れぬ親と子の離別の心境を思いやり涙が流れて仕方がなかった。」              川尻小学校「百年の歩み」より

 学童疎開の生徒は川尻村・三沢村と合わせて256人、それらの生徒は8人の担任を中心として学年ごとに班を形成、川尻村5ヶ所、三沢村2ヶ所に分散しました。
疎開場所 疎開の宿舎 疎開分団名 学 年 人 数 班 名
川尻村字小松 宝泉寺  川尻村疎開分団第1班 4年男子 38名 御代川班
川尻村字小松 小松倶楽部      同分団第2班 6年女子 27名  吉野班
川尻村字谷ヶ原 丸万寄宿舎      同分団第3班 5年女子 29名  山田班
川尻村字谷ヶ原 河水統制公舎     同分団第4班  3年女子 29名他2名  中田班
川尻村字向原 向原倶楽部      同分団第5班 3年男子 26名  美坂班
三沢村字中沢  普門寺 三沢村疎開分団第1班  6年男子 41名
4年女子 23名  鷲尾班
三沢村字中沢 川崎別荘      同分団第2班 5年男子 39名外2名
                             資料 城山町史 7 通史編 近現代 

    
       戦勝祈願をした川尻八幡宮                表忠碑


     
   川尻村疎開分団第1班4年男子38名が疎開した小松・宝泉寺 


        
   宝泉寺 防空壕跡 夏         冬             埋まった防空壕跡
                                    撮影2005.10.9

    
   川尻分団第2班6年女子27名が集団疎開した小松倶楽部(現小松自治会館)と薬師堂


    
   小松中島家 空襲警報が出ると子供たちは中島家の南庭に作られた防空壕の中に入った。


    
 中沢普門寺では64名の子供たちが集団疎開しました。 観音堂のすぐ裏にはコの字型をした防空壕が残っています。
 疎開から1ヵ月後、津久井地方事務所で「疎開に関する協議会」が開かれました。一度に64名もの児童を収容したため水不足が起こり民家に合宿予定の報告がされていました。    

    
谷ヶ原 旧河水統制公舎跡         丸万寄宿舎跡 5年女子29名が疎開しました。
3年女子29名他2名が疎開しました。
 

    
川尻小学校 二宮金次郎像
正面 「至誠報徳」   裏面 「昭和十三年四月 川尻青年団建之」 
この像は当時のメートル法普及の意図を反映してちょうど1メートルの高さに制作されています。
   
    
   川尻小学校 二宮金次郎像  湘南小学校 二宮金次郎像
                かわいそうな左肩

   
     当時の川尻国民学校(現町立川尻小学校)  生徒数460名


    
      旧湘南村 湘南寺               湘南小学校

     参考
     
   大野国民学校 昭和20年8月15、16日 「校務日誌」 相模原教育事務所所蔵

        参考
        語り継ぐ学童疎開  http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/sub1.htm

        恐れ入りますが、皆様方の御意見を戴き後の世に語り継いで行きたいと
            考えております。皆様の情報をお寄せ下さい
                宜しく御願い致します。
 
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