川尻村絵図で見る旧城山町の様子
 
 「相州津久井縣・・・」
 風間 庚申塔 手前に賽ノ神塚があります。
城山町誕生までのプロローグ 
 城北、明観寺の裏手から大山道を50メートルほど、上ると小さな塚があります。賽の神塚と呼んで昔はそこで道祖神まつりが行われていました。この「塞ノ塚」(A)を頂点にして「龍籠山」(B)までの距離と川尻八幡宮一の鳥居(C)までの距離が一致する大二等辺三角形となっています。底辺(BC)は龍籠山(B)から川尻八幡宮、さらに900メートルも続く長い参道の入り口「一ノ鳥居」(C)です。 
 その賽の神塚の隣に大きな桑の木がありさす。そして、その隣りには庚申塔が祀られています。その石碑に「相州津久井縣下川尻村」と刻字があります。「津久井縣」と云う懸名は元禄4年(1691)代官山川貞清によって名付けられ、明治2年まで続きました。全国的に見ても類まれな呼称法で「県」と云う単位なのです。
 一方、都井沢自治会館の敷地内にある享保16年(1731)の「念仏百萬遍供養塔」では「高座郡・・・上川尻村」と記されています。旧高座郡は境川と相模川に挟まれた広大な地域をさし現在の藤沢市、茅ヶ崎市、大和市、座間市、綾瀬市、海老名市、そして相模原市や寒川町などの旧地を指します。
 現在の城山町は昭和28年(1953)「町村合併促進法」の公布された後の昭和30年5月川尻村、湘南村、三沢村の中沢地区が合併し誕生しました。
      2005年は記念すべき城山町誕生50年の年でした。ごみもみんなで拾いましょう

   
念仏百萬遍供養塔   城山町都井沢地区
享保16年(1731)   「高座郡上川尻村」
庚申塔    城山町城北地区風間
文化3年(1806) 「相州津久井縣下川尻村」
 
 都井沢 通称化地蔵(右側) 元文元年(1736)七月  相州津久井縣・・・

富士山のてっぺんが飛んできた。
 むかしむかし、ダイダラボッチという、大男が西の方からやって来た。 大男はしばらくすると、近くにあったふじづるで、富士山を引っぱり始めた。「よいしょ、こーらしょ」どのくらい、引っぱったか。突然、ふじのつるが切れ、いっしょに富士山の頭が飛んで来た。「ドッス〜ン」それが津久井の城山だ。その時、踏んばって、くぼ地になったのが今の「にが窪」だ。大男はひと休みすると、またノッシ、ノッシと東の方にさって行った。
    
年号 西暦  津久井の名称 資料 記載例
永禄2 1559 小田原衆所領役帳 津久井衆
元和9 1623 根小屋村諏訪村鐘銘 津久井縣
寛永2 1625 功雲寺鐘銘 津久井縣
寛永2 1625 小倉村西光寺鐘銘 津久井縣
正保元 1644 相模国絵図(写) 津久井郡
正保2 1645 郷村請取帳 津久井領
慶安2 1649 幕府朱印状 愛甲郡・高座郡
慶安3 1650 津久井領絵図 津久井領
明暦2 1656 下川尻村検地帳 津久井領
寛文4 1664 領地目録・検地帳 愛甲郡・高座郡
貞享元 1684 相模国津久井縣川尻村絵図 津久井縣
元禄4 1691 「津久井縣の名称を採用 津久井縣
文化3 1806 庚申塔風間 津久井縣
享保16 1731 念仏百萬遍供養塔・都井沢 高座郡
元文元 1736 (通称)化地蔵都井沢 津久井縣
明治3 1770 「津久井郡」に 津久井郡
 相州津久井領絵図慶安3年(1651)(部分)
 
 
 津久井町指定重要文化財(平成4年4月指定) 津久井町青山 平本家所蔵
         「津久井の古地図」津久井町史編集委員会より転写


 正保元年(1644)12月、幕府は諸国郷村高帳と国絵図を作らせました。諸国郷村高帳は今の町勢要覧のようなもので「正保弐年九月二八日 津久井之内川尻村 名主理兵衛」として記録が残されています。また国絵図の写しも津久井町平本家に残され、大きさは198cm×227cmもあり圧倒しています。両者は全国的に見ても非常に珍しく貴重な資料となっています。
 「相州津久井領絵図」は「正保の国絵図」を作成するため各村役人が作った村単位の地図を集めたものでその副本として推測されています。津久井郡全体を描いた最も古い地図で、絵図の下方には津久井二十七ヶ村、村役人43名が名を連ねています。
 黄色地は平地、灰色は山地で黒く木のように見える所が幕府が管理している「御林」です。赤い線は道路を表しています。例えば、隣村、相原から津久井街道(江戸道)を西に進むとしましょう。四角く括った部分は「町」を表しています。原宿、久保沢の宿(町)を経由して中沢村から相模川に下り、川を渡ると荒川番所に出ます。
 相州津久井領絵図ができた頃
 徳川家光の時代は、多くの大名の取り潰しがありました。江戸の市中には道を閉ざされた浪人たちであふれ、不穏な空気が漂っていました。そうした世情から幕府は慶安元年になると、江戸市中諸法度、翌年には検地条例や勧農条例、いわゆる「慶安の御触書」を交布、江戸市中、店借や借屋までも五人組を結ばせ規制を厳しくしました。6月、江戸に大地震が起きると、8月には非常時に備え在府の大名や旗本に対し登城者まで細かく定めさせました。
 慶安4年(1651)7月、家光が48歳で没した二ヶ月後、「由比正雪の乱」が起きました。幕府転覆計画は失敗し
ましたが人々は敗れて死んだ正雪に喝采をおくりました。そして翌年、今までの鬱憤を晴らすかのように、江戸に旗本奴や町奴が流行しました。
 幕府が、どうしてこのような絵図を作らせたのか、その訳はよく分りませんが、人々が行き交った道路事情や村の様子など、当時の様子が浮かんで来ます。

                相模国津久井縣川尻村絵図
   
             貞享元年(1684)4月、津久井領が下総の国関宿藩、久世氏の支配から幕府領に支配替えとなりました。
             その時、川尻村から代官都築則次に提出した村絵図。            原宿 山本利雄氏蔵 

 天正18年(1590)、後北条氏が滅ぶと、家康は秀吉から関東に転封を命じられました。榊原康政を総奉行に青山忠成、内藤清成らと家臣団の知行割を実行させました。知行割の基本方針は江戸の周りに天領を置き、その外側10里(約40km)四方に、旗本と云われる幕府の直属家臣団の土地を置きました。
 また旧北条氏の支城等には敵対勢力と対峙ができるよう、有力な上級家臣団を配置、強固な防衛体制を整えました。こうして、江戸の町づくりは着々と進んで行きましたが、その一方で大名の取り潰しや配置替えも続けられて行きました。
 津久井の地域は、幕府の直轄地天領として寛文4年(1664)まで続き、以後、下総の国関宿藩の久世氏の所領となりました。そして久世氏も天和3年(1683)備中庭瀬藩に移封となり再び天領時代をむかえました。
 川尻村絵図はこの時に作成、貞享元年(1684)4月川尻村から代官都築則次に提出されました。

注  久世広之 寛文9年(1669) 上総国内より下総関宿藩に入封 5万石 老中在職期間 1663〜1679
   久世重之 天和3年(1683) 備中庭瀬に移封
 
 明治初期の原宿
  原宿用水路がどんなふうに流れていたか
    江戸時代の絵図と比べて見ましょう。




   絵図から町のようすをしらべよう
 
 参考 明治の初め頃の広田 黄色は水田、ピンクは ↑原宿用水取水口

  シロヤマ・タイムトラベルのはじまりだよ〜。

   原宿用水はどこから流れてきたかな。 
   穴川の上流には大きな溜池があった。
   どうして途中から小松川に合流したんだろう。

   川尻八幡宮の長い参道。それも広い。
   小松山の御林はどこに消えたかな。
   あれ道がない。久保沢から小倉へ、どこを歩いたんだろう。

   谷津川の始まりはどこだろう。
   久保沢と原宿の町があったぞ。 

   そうした 話をいっぱいしようね。

 
 小倉    谷ヶ原          若葉台             久保沢        原宿
                                   参考 町制施行40周年記念1995城山町勢要覧より
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