日本一社 蚕影神社御神徳記 (要約文)

          蚕の一生を金色姫に例えた御一代記

 祭神  蚕影山大権現 中殿 稚産霊命(わかみむすびのかみ)
            左 埴山姫命(はにやまひめのみこと)
            右 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
  
     所在   茨城県つくば市神郡(かんごうり)1998番地

 人皇三十代欽明天皇ノ頃、天竺の旧仲ッ国の帝を霖夷(りんえ)大王、皇后を光契(こうけい)夫人と呼び、姫君が一人おり、金色(こんじき)姫(ひめ)といった。ある時、皇后にわかに亡くなり 、後后を迎えた。姫君を邪見にし、獅子吼山(ししこうざん)という悪獣の住む深山へ捨てたが、悪獣かえって姫君を礼拝し、背に乗せて王宮に送り返した。後后はいよいよ悪だくみ、今度は姫を鷹群山(ようぐんざん)という熊鷹の多い山へ捨てた。しかし、帝の兵士が鷹狩に来ており、木の根に座っている姫君を見て驚き、都へお送りした。後后はますます姫君をにくみ、海眼山(カイゲンザン)という岩ばかりの離れ島へ流してしまった。ある時、釣り船が島に寄ったところ、姫君を見つけ都へお送りした。今度は大王の留守を伺い獄人を使い、清涼殿の庭を七尺堀り、姫を生き埋めにした。大王が帰還し姫が見当たらないのを歎いていると、清涼殿の花園より光明が放っているのを見た大王が、直ちに掘らせたところ 姫君が出てきたので大変お喜びになった。
 そこで大王は、この国でこのような目に合うよりは、他の国へ流した方が安心だと、桑の木で穿船(クリブネ)を造り、姫君に宝珠と一寸八分の勢至菩薩をお守りとして授け、「汝は仏神の化身なので、仏法を信じる国に流れついて人々を救いなさい。」と泣く泣く船を沖へ送り出した。そして船は流れ流れて、常陸の国筑波郡豊浦湊に着き、この浜の権ノ太夫に引き上げられ姫は大切に育てられました。しかし間もなく姫は亡くなり権ノ太夫夫婦は歎き悲しみ唐櫃(カラビツ)に姫を納めました。
 その夜の夢に姫が現れて、「私の食物を与えて下さい、必ずあなた方のご恩にお報いします。」といった。そこで唐櫃を開けてみると姫は小さい虫になっていました。そこでこの姫の乗ってきた船が桑であったので、桑の葉を与えたところすくすくと成長した。ところがまもなく、桑を食べず頭を上げて、わなわなとしているので、驚いていると、また夢枕に「私が国にいた時、獅子吼山、鷹群山、海眼山、そして清涼殿の庭と、四度の苦しみを受けましたが、それが今、休眠となって現れているのです。一度目を獅子の休といい、二度目を鷹の休といい、三度目を船の休といい、四度目を庭の休といい、この後、繭を作ることを穿船で学びました。」と教えました。そしてこの繭を綿にして、更に糸を取ることを筑波山の蚕影道仙人より教えられました。これがわが国の養蚕の始めであります。
 また欽明天皇の皇女各谷姫が筑波山へ飛んで来られて神衣を織り、その方法を授けられた。こうして蚕より繭ができ、そして糸を取ることを知り、更にこの糸を織って布にする事ができたので、権ノ太夫は大変富栄えたということです。

          新井清 「養蚕信仰」より

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