原宿・市神社境内の神々

   
   
     奥から石仏を祀る 覆屋中央市神社右手前蚕影社


市神社 境内の中心にある流造の建物で御祭神は稲荷明神、天満宮、宇賀神です。通称「お稲荷さん」とよばれ親しまれています。稲荷明神の原型は穀霊信仰から生まれました。古代人は枯れて死んでしまったと思われた稲の種子が春の季節の訪れとともに、発芽することを不思議な現象として畏敬し、やがて稲には穀神が宿ると信じられるようになりました。
 古事記の中で倉稲魂神(うかのみたまのかみ)とあるのは稲荷明神と同神で倉の中に稲の穂を積み重ね稲霊を祭ったと推定されています。宇賀神も宇迦之御魂大神と同神で人首蛇神のお姿をしています。
 稲荷神は五穀豊穣、商売繁盛など現世的なご利益を願う庶民信仰の代表です。一般には石祠をつくり、屋敷内や露地の奥などに祀り、神使である一対の狐をおきました。
 天満宮の祭神は菅原道真で学問の神として崇められています。

蚕影社 養蚕の神様で木祠の中央部、蟇股(かえるまた)とよばれている彫刻の部分に桑の模様が刻まれています。かって養蚕が盛んだった頃を思わせます。祭りは毎年四月二四日に行われます。この日は家々で簡単な料理を持ち寄り、お茶を飲み念仏を唱え、子供たちにはお菓子が配られました。原宿用水の堀さらいも一斉に行われました。      

参考 日本一社 蚕影神社御神徳記
  
   桑の葉が彫られている蟇股(かえるまた



秋葉灯篭 元山本家にありましたが明治の中頃、原宿自治会館前に移されました。秋葉大権現は火鎮の神で台座部分には「宿内安全」と刻まれ当時の人々の願いを読み取る事ができます。八幡大菩薩、愛宕大権現、金毘羅大権現を併せ祀っています。

南無阿弥陀佛念仏塔 箱根や小田原を中心に布教活動を始めた徳本上人の念仏碑で○に十字の花押が特長です。鉦や太鼓を叩きながら、賑やかな念仏供養が行なわれたようです。念仏碑は文化三年(1806)に建立され他に町内では小松、久保沢、谷ヶ原、小倉にもあります。徳本上人は全国各地を行脚され「念仏塔」の数は1000以上と云われています。

三界万霊塔 この塔を建てることによって宇宙に存在する一切、万霊を供養しようするもので、日常多くの人から回向を受けやすい場所に建立されています。万霊を供養することで自らも救われると信じられています。

  
                     市神社前の動物の正体は?
   馬のような形をした石造物が石碑の上に乗っかています。
    さて 何でしょう?「三葉葵」の御紋章もついていますよ。


       こたえ 城山町史にこんな事が書いてありました。
 
なんだろ〜?  民俗編384ページ 愛宕大権現の説明文
 
古くは角柱の供養塔の上に馬上の愛宕大権現の像があったといい、塔碑の前面に三葉葵の紋が刻まれていたため、馬上で通行した人たちはここで下馬して通過し、再び馬に乗ったとも伝えられている。」 とあります。


参考 埼玉県飯能市小岩井無量寺裏山
  通称 愛宕様とよばれる勝軍地蔵

町をたんけんしよう
  市神社前に奉納された動物の正体は何でしょう。また、どんな形をしていたかいろいろ想像してみるのも楽しいと思います。
 埼玉県飯能市で見た愛宕様は寺の裏山の大きた岩の前に鎮座していました。
高さ25センチ 文化10年(1813)に作られたとても可愛らしいお姿をしています。

元桂昌寺百体地蔵塔
 元、相模ヶ丘中学校西側の桂昌寺跡地にありましたが今は大正寺の境内に移されました。地蔵塔は全部で18基あり慶応4年(1868)から明治22年(1889)まで22年の歳月をついやして作られました。発願者は山本渓山和尚で地元だけでなく相原村や九沢村など近隣の人々も奉納しました。
 左の石塔は一番西側、最後のところにありました。馬に乗り右手に宝刀、左手に錫杖を持っています。
 

馬に乗った勝軍地蔵様 大正寺

覆屋の石仏たち 地蔵菩薩や馬頭観音が数多く祀られています。中央にある「もちあげ地蔵」は元「牛のひてえ」と云う所にありました。願い事がかなうかは「お地蔵様」を持ち上げると分かるのだそうです。持ち上がれば願い事がかない。持ち上がらない時は「かなわない」のだそうです。今はコンクリートで固められているため分からなくなってしまいました。


愛宕大権現石塔
愛宕大権現石塔
 天保十年(1839)に建立された愛宕大権現石塔の側面には「宿内安全 火難消徐」と刻まれています。当時の人々の願いを垣間見ることができます。
 平成15年秋 石塔は4つに割れ無残な状態でしたが地域の皆様のご協力を得て修復工事を行いました。
 元は津久井街道と大山道が交差するところに祀られていましたが、修復を機に覆屋内にお祀りし同年9月21日供養祭を行いました。

 
 大山不動明王
 不動明王は一切の悪魔や煩悩、穢や垢を火焔の火で焼き尽くします。石碑には「西 津久井みち 東 江戸八王子道」等とあり、「大山まいり道」としての道標も兼ねていました。この道は甲州や秩父方面から大山につながる道筋で小倉の船渡に続き、そこから先は高瀬船で下る人達もいました。大山道と津久井街道が交差する原宿は「神奈川古道50選」にも選ばれています。

    亀付共同井戸石組
    

 原宿は昔、上、中、下宿と三つに分かれそれぞれに共同井戸がありました。どの井戸も深く五十メートルもありました。水汲み仕事は重労働であるばかりか、なれないと桶が途中で閊えてしまいその度に大切な水がこぼれてしまったと云います。あまりにも井戸が深かったために女性の水汲みはことさら大変で「原宿には嫁に出すな」とまで云われていたようです。
 現在、原宿堀公園内にある共同井戸の石組みは上宿で使用され津久井街道と大山道(鮎釣り街道)が交差する地点にありましたが諸般の事情で旧原宿自治会館の西側に一時移されました。その後、道路の拡幅工事や原宿自治会館の建設が始まり現在の原宿堀公園内に移されました。
 井戸のあった旧場所には、共同の椀倉もありその中にはお膳、茶碗、座布団などが保管され宿内の冠婚葬祭や寄合など人が集まる時に利用されていました。また井戸さらいに使用したシュロの綱も大切に保管されていましたが時代と共に不要となり今では分からなくなってしまいました。三ヶ所あった共同井戸も役目を終え埋められてしまいましたが貴重な井戸水を溜めた当時の水甕が往時を物語っています。
 高燥な大地に人々が生きる。地域とのつながり、水の大切さを今に残る共同井戸の石組から知ることができます。文化財をみんなで大切にしましょう。

    釣瓶井戸 上がれば下がる 身にあれど
         
浮かぶ瀬もあり 水の流れに

   
      H16.3/10撮影 


    H16.4/11 撮影        H2年頃 旧原宿クラブ西南

 軽量ブロックを粉砕し投げつけたと思われる傷跡がまだ残っていたので、後側に「亀付共同井戸石組」、「文化財を守りましょう」と書いた立札を建てました。
 先人の労苦を後世に伝える大切な宝です。みんなで貴重な文化財を守りましょう。

      参照 城山町文化財保護条例
          箱根町文化財保護条例
          戻る