流れて来たカミサマとホトケサマ
2018・9・16 作成
2019・9・21 顯鏡寺の阿彌陀如来座像の写真を追加 

 雷門のある浅草、浅草寺にこんな話が伝わっている。「推古天皇の三十六年(628)三月十八日、宮戸川のほとりに住む檜前(ひのくま)の浜成と竹成という兄弟が、江戸湾内の七浦(今の墨田川にあたる)で魚をとっていた時、聖観世音菩薩の尊像を網にかけたと伝えられている。檜前兄弟は戸長である土師中知にその日の不思議な出来事を調べてもらったところ、聖観音の尊像であると判明した。他の伝によれば、檜前兄弟が槐(えんじゅ)の樹間に尊像を置いて家に帰った翌日、里の十人の草刈わらべがその像を拝して、アカザで草堂を作り、安置したという。
 土師氏は得度して、私宅を寺とし、観音像を安置供養した。
 聖観音の尊像が出現してから七年後、秀妙上人が来錫し(635)、諸国を勧進して廻り、本堂を建立した。
 その十年後、欽明天皇の大化元年(645)に勝海上人が留錫した。勝海上人は浅草寺
(せんそうじ)の開基とみなされる。この上人は本尊の観音像を秘仏としたが、次のような伝説がある。(略)」
 私たちのよく知っている浅草寺の御本尊さまは、絶対の秘仏とされ誰も見たことがないと云われていますが、最初は漁師の網にかかったそこからはじまっています。善光寺の御本尊様も残酷なことですが初めは難波の浜に打ち捨てられてあったと云います。また、漂着した大木で観音様をこしらえたと云う奈良や鎌倉の長谷の観音さまなど、日本の各地には流れ寄せて来たカミサマやホトケサマの伝承をよく聞きます。
 馴染みの深いところでは川の上流から桃がドンブリこと流れ来ることの、よきことの訪れ。また、「流し雛」や「精霊送り」のような供養的なことや厄神や悪霊をさっさと送り出してしまおうとする「コト八日」のような民俗的な行事など、遠くから、遥か彼方の遠くからの伝承話は、日本の各地に様々なかたちで残されています。
          巡錫(じゅんしゃく):「錫杖しやくじよう」を持ってめぐり歩く意。僧侶が各地をめぐり、教えを説くこと。

 相模原市内にもまだあるかも知れませんが三例が伝承されていましたので、原文をそのままに記録し掲載をいたしました。
@−1 顯鏡寺の阿彌陀如来
 この仏は宝物中一番古いとされている。元来は増原「常楽寺」のものであるが、この寺が顕鏡寺に明治5年合併されて、当寺の宝物になった。
 その昔、山梨県南都留郡道志村字久保「御堂沢円福寺」にこの仏はまつられ、何者かに盗まれ、処置に困って盗人が、道志川に流したのだという。
 この仏が漂着した所も、又不思議や旧内郷村の道志部落の東南を流れている道志川の畔である。漂着した河原から後光がさすので行ってみたらば、この阿彌陀如来だったという。
 この仏を拾い上げた家が、又屋号が「久保」という家で、この仏を本尊として建てられた常楽寺の側の沢を「御堂沢」といい、山梨県の道志でも、ここの村の道志も不思議な縁のあるものと、故老は語っている。
                                    「郷土さがみこ」より
@−2 (仮題)顕鏡寺の木造阿弥陀如来(鈴木重光著「横濱水道取入口附近 」から 一部)
 「(略)(山梨県北都留郡道志村)久保部落に圓福寺といふがある。そこの御堂澤の阿弥陀堂にあった阿弥陀佛を何者かゞ背負ひ出し、誤って下の道志川へ轉落させた處を入道ころがしといひ、落ちた處を光り淵といふ。それが水中から光を發してゐたから揚げやうといってゐるうちに大水の爲めに流されてしまった。その佛像が流れて今の内郷村字道に来て拾ひあげられた。あげた處を阿弥陀淵といひ、拾った人の屋號を久保といふ。當時この阿弥陀佛が元の處へ帰りたいといふて涙をこぼしたといふので、それでは元の地名を移さうと、其處を御堂澤といひ、あがった處を道志と呼んだのであるといふ。御像は即ち石老山の麓の御堂澤にあった一寺に安置してあった。而して古来甲州の道志を奥道志と稱し、内郷村の道志を下道志と呼んでゐる。今石老山顯鏡寺太子堂に安置されてある木像がそれで、行基菩薩作と稱へられてゐる。(略)」 地名:入道ころがし  光り淵  阿弥陀淵  久保  御堂澤  奥道志  下道志 
 
  顯鏡寺の阿彌陀如来座像
 相模原市指定文化財 顕鏡寺の木造阿弥陀如来坐像
 顕鏡寺の木造阿弥陀如来坐像(けんきょうじのもくぞうあみだにょらいざぞう)は、像高85.4センチメートル、寄木造で、現状は黒彩されています。この像の頭頂部や頭・大幹部の背面等には後補部も見受けられますが、当初部分は、上品で温和な表情、丸く自然に張る頬、身体各部のやわらかい肉付け、浅く控えめな衣文(えもん)など、11世紀に仏師定朝(じょうちょう)が完成し、平安時代後期に全国で流行したいわゆる定朝様式の特徴が残されています。
この像は、元は付近の末寺で明治初期に廃寺となった常楽寺に伝えられていたものといわれ、「新編相模国風土記稿」の同寺の記述にある「本尊
(ほんぞん)阿弥陀(あみだ)」がこの像と考えられます。相模原市HPより

 注 左の阿弥陀如来坐造の写真は「史蹟名勝天然記念物 第二集第九號」に所収されていた矢吹葉人著「北相雑筆」の項から複写いたしました。 2019・9・21 (保坂)

A当麻地区  第5話  観心寺本尊由来 (全文)
 原当麻の松本氏系図によると、その八代目の兵衛尉景宗が後村上天皇の滝口の武士であった。南朝の勢が日に日に哀運に傾くを嘆き、ひそかに吉野を逃れて、信州松本に行き民家に隠れていたが、康安元年(1361)の春、当麻山に真空上人を尋ね、深く信を起してついにこの地にとどまることになった。そして漁

    新編相模國風土起稿の中の記述
師となって生活の糧を得ながら、常に観音の名号を称えて怠らなかった。
 ある晩相模川に釣舟をうかべていると、川上に金色の光を認めた。怪しんで舟を近寄せ水中を見ると、光り物が浮いたり沈んだりしている。網をおろして静かに引き上げると、一寸八分の観音菩薩の尊像であった。景宗は驚きかつ喜んで、これを奉じて急いで家に帰り、真空上人に相談の結果、家を改造してお堂とし、上人の戒を受けて勤行怠ることがなかった。
 その後十一代景宗は中島民部の推挙により八王子城主北条氏照に仕えたが、天正十八年(1590)落城後は、ふたたびこの地に帰り、観心法師を住持として観音さまを守らせた。その子景仁の時、慶長十九年(1614)現在の原当麻の地域を開拓して、いままで浅間神社の崖下の連田と称する地点に居住していた人々とともに、ここに移り住み、観音堂も一緒にお移し申した。現在の観心寺がすなわちそれで、ご本尊は内陣の奥深く鎮座し諸人の渇仰を集めている。縁日は毎年十月の九の日(はつ九日・中の九日・しまい九日)である。
  
              
 「相模原の民話伝説」より
B上溝地区 第三話 祇園島の話(全文)
 八幡さまの東南の方、森下の田圃の中にあった。周囲四間ほどでそこに松の木が一本あった。むかしは雨が多く降ると、姥川がよく満水しそうであるが、そういう時に、津久井の川尻の若宮八幡の神像が流れて来てこの島にかかったのを、この地の人が取上げて祭ったのが、亀が池八幡の起こりであると伝えられる。古い記録には「むかし八幡の尊像大水にてこの島に流れて上り給う」とあるそうである。
 またある古老の言では、相原の小山の牛頭天王の像を、ここの八幡さまにお移し申したのだともいう。祇園牛頭天王ゆえ祇園島と名づけたとのことである。現在の八幡宮ご神体は衣冠束帯の木像で、像背には「歴応四年正月廿七日たんなさえもんのたいう藤原吉高云々」と刻まれてある。 
 「相模原の民話伝説」より
参考ー1 


旧相模湖町与瀬神社の御神体(掲載予定)


参考  座間美都治著「相模原の民話伝説」の目次内容
目次 「相模原の民話伝説」の発刊を祝して 相模原市長 河津勝・はじめに
一 大沢地区
第一話 魔性と契った禰宜の娘の話
第二話 やっとこ宇太郎山姫に出会う話
第三話 大猫ばやしの話
第四話 市兵衛同心の話
第五話 梅宗寺観音堂由来

二 田名地区
第一話 的祭の由来
第二話 ばんばあ石の話
第三話 狸菩薩縁起
第四話 法仙坊・小沢太郎の武勇談
第五話 小沢城落城悲話
第六話 葉山島のうなぎの精
三 当麻地区
第一話 一遍上人当麻山留錫由来
第二話 お花が谷戸の由来
第三話 笈退りの由来
第四話 東権現縁起
第五話 観心寺本尊由来
第六話 古刀のたたり
四 下溝地区
第一話 北条氏照父娘についての伝承
第二話 天応院のお化け石塔
第三話 古山十二天社と小栗判官
第四話 あばれ神與
第五話 ふんどし窪と鎌とぎ窪
第六話 相模野の狐
第七話 けなし山の狸

五 新磯地区
第一話 むじなの変化の話
第二話 ささげを作らない由来
第三話 有鹿さまの水もらいの神事
第四話 貧乏神にとりつかれた話
六 上溝地区
第一話 横山七不思議のこと
第二話 鐘が淵の話
第三話 祗園島の話
第四話 鳩川谷のお化け
第五話 小栗判官照手姫伝説

七 相原地区
第一話 外の御前の白蛇の話
第二話 おひの森の大ひのきの話
第三話 めいめい塚の由来
第四話 相原のでいらぼっち伝説
第五話 花蔵院の仏法僧の話
第六話 清兵衛新田の狐
第七話 泥がんすのお化け

八 大野地区
第一話 おひめばたけ
第二話 四軒村と新右衛門平
第三話 長者伝説
第四話 村富神社の白蛇伝説
第五話 狼の巣
第六話 でいらぼっち伝説
第七話 淵辺義博伝説
第八話 池の谷戸の哀話
第九話 鶴間の地名起源説話

あとがき
終わりに
田名八幡宮「笑顔の布袋(ほてい)
 布袋さまは小さな覆屋の中に納まっていました。大きさは約54p位で、ずんぐりとして右手に杖をお持ちになっているように見えます。またお顔の表情は笑っているようにも見えます。この布袋さまは最初から川の底に埋めたものか、流れ着いたものか分かりませんが、平成二十一年の春、この世に出現されました。覆屋の左側の石碑には赤字で発見の状況を記されてありました。

 笑顔の布袋さま

 「平成二十一年三月相模川魚道工事のおり
 発見された布袋さまです
 発見場所 一の釜水中より

      
 境内には、「ばんばあ石」や「じんじい石」などの民話なども語り継がれています。格子の中の「布袋さま」は、確かに笑っていますよ。
 ものごとのはじまりは何だろうと考え込む、だが、分からないことが世の中にはあり過ぎる。昔の人は「流れてきた」と例えて見せた。若き日の柳田國男は伊良湖岬の浜辺に遊んだ。そして浜辺で椰子の実を見つける。この椰子の実はどこから流れてきたのだろうと。日本人とは何か、日本の原風景を求める壮大な民俗学をはじめたのである。また、小説家で民俗学者でもある辺見じゅんは「海やまの見えざる町に棲みつきて寒の椿に声をかけたり」と歌いました。この椿も親潮に乗って流れ着いたのです。そして、いつの世か八百比丘の伝説へとつなげたのです。
 『流れ寄せる椰子の実ひとつ 故郷の岸を離れて・・・』
 全米テニスで優勝した大坂なおみさんのインタビューの中に「ガマン(我慢)」と云う言葉がありました。そして笑顔、最高でしたね。布袋さまも何だか微笑ましく笑顔になりそう。
 ※ 顯鏡寺阿弥陀如来座像・上溝八幡宮御神体につきましては、文化財の指定等もありましたので今後にご掲載を予定しております。 2018・9・16 保坂
参考資料 
相模原の民話伝説  座間美都治著 発行 昭和43年1月 大日本印刷株式會社
能登 寄り神と海の村 小林忠雄・高桑守史 日本放送協会出版協会 発行 昭和48年9月
国文学 解釈と鑑賞 寺社縁起の世界 「浅草寺/上村勝彦著」  至文堂 1982・3
静岡県民俗歳時記  富山昭 静岡新聞社 発行 平成4年11月
郷土さがみこ 相模湖町文化財調査報告第三集 相模湖町文化財保護委員会 発行昭和46年
道志七里物語 前川清治著 山梨日日新聞 P18  発行 平成18年12月
史蹟名勝天然記念物 第二集第九號 史蹟名勝天然記念物保存協會 発行 昭和2年9月
   矢吹葉人著「北相雑筆/鈴木重光著「横濱水道入口附近 附道志川水源地ローマンス

しろやまの民話
戻る