翁の伝説が伝わる箭幹(やがら)八幡宮


         
          「広報 まちだ 」 2006年2月11日号より

 参考資料
   
町田市西部の石仏(町田街道に沿って)   犬飼 康祐 
(中略)土地の伝えには、八幡太郎義家が奥州に阿部氏を討った前九年の役の帰路、矢部の東木曽にて病にかかり、夜毎悪鬼に責められる夢をみた。当社に祈願したところ、夢に神翁が現れ悪鬼を射倒したとみるに病気は快癒した。そのとき羽矢を挿入したため、又は境内に矢が繁ったので箭幹(矢柄・やがら)八幡宮と呼ばれるようになった。矢部と云う地名も矢竹の多いのに因んだということである。(下略)
     野仏  多摩石仏の会会報第一集 昭和44年9月発行 多摩石仏の会  P9

箭幹(やがら)八幡と木曽観音の化身
 保元平治の乱に敗れた源義賢は、京都をのがれて大蔵の館を次の本拠にしようとして、木曾を通過したとき、木曾仲三兼任らに迎えられ、軍勢集結につとめたので、勢力も三千余騎になった。
 いっぽう、源義平は亀田政清や渋谷金王丸などの手勢七百余騎で攻めて来たが、そうたやすく打ち破ることはできない。一進一退の持久戦の状態となったので、義平はさらに京都からの援軍の到来を待つことにした。
 これを知った義賢は、嘘をついて襲撃に転じ、乱戦死斗のすえ義平方を窮地におとしいれ、すでに危うく見えた。
 ちょうどこの時に、忽然(こつぜん)として激戦場に童子を引きつれた白髪の老翁があらわれいでて、右に左にかけめぐっては、飛来する矢を拾い集めて、兵力の少ない義平に与え、危険な戦場をおそれるふうがないばかりか、手にした杖を打ち振って両軍に和平をすすめるようすであった。
 このありさまを両軍共にいぶかり見つめているうちに、やがて鎮守八幡の森の方に老翁も童子も姿をかき消してしまった。かの老翁は、おそらく鎮守八幡の化身にちがいない。そして童子は観世音菩薩の化身であろう。そう両軍とも信じ、神威のほどにうたれ感じいったのである。かくして、同族の郷党が相争うことの非をさとらされた両軍は、互いに軍を退(ひ)いて神前に和睦を誓いあったと伝えられている。(木曽町)
     町田の民話と伝承 第一集  1997(平成9)3月発行 町田市教育委員会 P71

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