原宿と原宿用水
![]() 原宿用水の境川取水口跡 ![]() 小松川に架かる原宿用水コンクリート橋 昭和3年御大典記念に建立 ![]() 町屋地区を流れていた原宿用水跡 原宿の町並み@ 道路側から原宿用水路、梅木、母屋、納屋、用水路、屋敷林、畑の順で並んでいました。 原宿の町並みA 江戸時代の初め、川尻村の太兵衛と理兵衛の二人の名主が代官の命令で久保沢に市を開きました。二人は力を合わせ二千人もの人を使って市をつくったのですが、太兵衛が市の利益を一人じめにするといって争いになりました。そこで代官はもう一つ市をつくれと命じ、理兵衛はやむをえず久保沢の東の原に市をつくりました。野原に人が住む町をつくるためには水が必要です。境川から水を引き用水路をつくりました。小松川の上には木の樋(とい)をおいて水道の橋をかけ、馬の背のように高くなった参道付近は深く掘り下げてできたのが原宿用水です。参道には橋がかかり深さが約三メートル、幅は両側の土手をふくめ九メートルほどもありました。初めは通りの真中に一本、家の裏側にそれぞれ一本づつ計三本の水路が流れていましたが、後に家の前後一本づつ計四本の水路をつくりました。用水の終わりには水田もつくられました。
原宿用水は命の水として大切にされ、当番を決めて見まわりをしたり、定期的に堀さらいをして守ってきました。しかし昭和四十年代になるとその役目を終え大部分が道路として埋め立てられ現在では砂地区と宿内の一部に見られるだけとなってしまいました。 現在昔の様子を伝えるものはほとんどありませんが、家の裏を流れた用水路を堰き止め、落差を利用しながら皿や茶碗を洗ったドンドンとよばれる洗い場がありました。 井戸から汲み上げた貴重な水をためた水瓶 ![]() 「どんどん」があった頃の原宿用水 撮影 1999・1・18 ![]() ![]() 明治初年の頃の原宿 ![]() 平成7年頃の原宿 平成7年頃の原宿(拡大図) ![]()
撮影1993・9・18 ![]()
大山道は東西南北幾筋もありますが、船に乗って大山詣りをしていた人たちがいたことが証明できる大変貴重な石塔となっています。 愛宕大権現石塔
また、その石塔正面上には「奉再」と刻まれていることから、元の愛宕大権現石塔もあり、今も地蔵堂の中に祀られています。判読は困難な状態になりつつありますが、天明□歳と読むことが出来ました。 両者に一体、何があったのか、今となっては、まったく分からなくなってしまいました。 ![]()
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![]() 撮影1998(H10)・11・19 ![]() 秋葉灯籠 竿と基壇の部分の銘文
![]() 市神社・稲荷社の前には「奉納」と刻まれた石柱があり、その上に馬がいて、どなたかが乗っているようにも見える石像物を確認することが出来ます。 右手に「杖」、左手に「宝珠」を持ったような、お姿をされていますが、上部が欠損しているのでよくわかりません。ただ、馬の鞍には葵の御紋が刻まれていました。 「城山町史4 資料編 民俗 P384」には次のような記述がありました。
![]() 最後まで残っていた原宿用水路跡 ![]() ![]()
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