資料 放浪記の中の加藤武雄
        林芙美子と文章倶楽部


 
 放浪記 昭和5年発行 改造社
   (復刻版)
 平成19年2月28日付読売新聞の夕刊に、7年ぶり森光子さん主演の「雪まろげ」上演の記事がありました。次に「放浪記」の事が書いてあり、「昨年10月に名古屋の公演を終えられ上演回数が1858回になった」と、そして来年の1月は、旧芸術座跡にオープンする新劇場「シアタークリエ」において3ヶ月間の公演が予定されています。2000回の大記録に向け、そして波乱に満ちた林芙美子の心音を、森光子さんはさらに輝やかせます。
 大正14年(1925)4月、芙美子は野村吉哉と世田谷の太子堂に移り住みました。家の隣には壺井繁治、栄夫妻が住み、近くには平林たい子の住まいもありました。この頃の芙美子は、詩や童話などの原稿を書いては出版社へ売り込みに行くと云う日が続きました。
 その頃の加藤武雄は、新潮社で「文章倶楽部」の編集主幹として活躍していました。「放浪記」の中の六月×日付けには文章倶楽部5月号に掲載された詩、「善魔と悪魔」の原稿料6円を加藤武雄からもらったことが記載されてありました。
 「今日は素敵に楽しい街になって」と芙美子の喜びが伝わって来ます。
「・・・・二人はそんな唄をうたっている。 壺井さんのとこで、青い豆御飯を貰った」と、経済的には決して恵まれなかった時代に、何故か心温まる思いが伝わって来ます。
    森光子さんが平成24年11月10日、92才でご逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げます。(2012・11・20 記)
                          林芙美子の主な年譜  林芙美子記念館と万昌院功運寺

     放浪記・世田谷太子堂にいた頃 (二誌との比較)
     (六月×日)
     
 昭和5年 改造社初版               昭和56年 林芙美子集 新潮日本文学22 新潮社十刷
 久し振りに東京へ出る。
新潮社で加藤さんに会ふ。詩の稿料を六円戴く。
いつも目をつぶって通る、神楽坂も今日は素的に楽しい街になって、店の一ツ一ツを覗いて通る。

 
隣人とか
 肉親とか
 恋人とか
 それが何であらう
 生活の中の食ふと云う事が満足でなかったら
 描いた愛らしい花はしぼんでしまふ
 快活に働きたいと思っても
 悪口雑言の中に
 私はいじらしい程小さくしゃがんでいる。
 両手を高くさしあげてもみるが
 こんなにも可愛い女を裏切って行く人間ばかりなのか
 いつまでも人形を抱いて沈黙ってゐる私ではない
 お腹がすいても
 職がなくっても
 ウオオ! と叫んではならないんですよ
 幸福な方が眉をおひそめになる。
 血をふいて悶死したって
 
ビクともする大地ではないんですよ
 陳列箱に
 ふかしたてのパンがあるが
 私の知らない世間は何とまあ
 ピアノのやうに軽やかに美しいのでせう。

 そこで始めて
 神樣コンチクショウと吐鳴りたくなります。

長い電車に押されると、又何の慰めもない家へ帰へらなければならない。
詩を書く事がたった一つのよき慰め。
夜、飯田さんとたい子さんが唄ひながら遊びに来る。

 俺んとこの
 あの美しい
 ケッコ ケッコ鳴くのが
 ほしいんだらう……。

壺井さんのとこで、豆御飯をもらふ。

 久し振りに東京へ出て行った。新潮社で加藤武雄さんに会う。文章倶楽部の詩の稿料を六円戴く。いつも目をつぶって通る神楽坂も、今日は素敵に楽しい街になって、店の一ツ一ツを私は愉しみに覗いて通った。

 隣人とか
 肉親とか
 恋人とか
 それが何であらう
 生活の中の食ふと云う事が満足でなかったら
 描いた愛らしい花はしぼんでしまふ
 快活に働きたいと思っても
 悪口雑言の中に
 私はいじらしい程小さくしゃがんでいる。
 両手を高くさしあげてもみるが
 こんなにも可愛い女を裏切って行く人間ばかりなのか
 いつまでも人形を抱いて沈黙ってゐる私ではない
 お腹がすいても
 職がなくっても
 ウオオ! と叫んではならないんですよ
 幸福な方が眉をおひそめになる。
 血をふいて悶死したって
 
ビクともする大地ではないんですよ
 陳列箱に
 ふかしたてのパンがあるが
 私の知らない世間は何とまあ
 ピアノのやうに軽やかに美しいのでせう。

 そこで始めて
 神樣コンチクショウと吐鳴りたくなります。

長いあいだ電車にゆられていると私は又何の慰めもない家へ帰らなければならないのがつまらなくなってきた。詩を書く事がたった一つのよき慰めなり。
夜、飯田さんとたい子さんが唄いながら遊びに見えた。

 俺んとこの
 あの美しい
 ケッコ ケッコ鳴くのが
 ほしんだろう……。

二人はそんな唄をうたっている。 壺井さんのとこで、青い豆御飯を貰った。

      「放浪記」から加藤武雄が登場する6月×日の項の文章を比較して見ました。
      初版と右側の第十刷版とでは、文章表現に若干の変化が見られ、内容がより具体化されていました。

   
   林芙美子 放浪記の口絵写真より














































善魔と悪魔  林芙美子

まあ兎に角
貴方との邂逅を祝しませう
ー淋しい人生ぢゃありませんか
全く生きてゐる事が
イリウジョンではないかと
思ふことさへありますよ
 或ひはさうかも知れないけれど
今頃つくづく
性慾から離れた
(心臓が機関車になる様な)
恋がしてみたいと思ひます
 性慾アナーキズム
 貞操共産主義も
鼻について来ました
 やっぱり私の
オムレツの様な
心臓の中にも
善魔はゐるんですね
 私はあんまり周囲の人間に
 支配されてゐました
驚きましたねー
 悪魔が私を裸踊りさせる様に
 善魔は私をおだてあげるのです
時にはどっちかの魔から
いいえ又時には両方の魔から
飛びのきたいことさへあります
でもその時こそこの世に
アーメンをしなければならないんです
 まって下さい
 今に人間生死薬を
 発明するつもりです
 全くいつも思ふことですが
 廣い海の上をひとっぱしりに
 歩ける機械が欲しいですね
 ーーまあゆっくり話しませう
まだ生きてゐるんでせう
お互に、
貴方も私もまだ
二三十年あるんです
小さな地球の上で
はからずとも貴方と邂逅したことは
因果を説かなくても
当然の事ですよ
 人間万事タナカラボタモチ主義
思えば数え切れない程の
主義がありますね
それも皆善魔と悪魔の戦いです
結局は
大口いっぱいの空です
 どうです十本入六銭の
 蒼ざめたバットでも吸ひませんか
そして愉快に
笑って今日の邂逅を祝しませう。


     邂逅(かいごう):思いがけなく出会う
                                  文章倶楽部 大正14年5月号に掲載

   資料 「文学的自叙伝 林芙美子
(前略)
両親は尾の道を引きはらい、東京の私の処へやって参りました。私は東京へ来てから雑誌ひとつ見ることが出来ませんでした。また読みたいとも思わず、私は、大正十一年の秋、やっと職をみつけて、赤坂の小学新報社と云うのに、帯封(おびふう)書きに(やと)われて行きました。日給が七拾銭位だったでしょう。東中野の川添と云う田圃中の駄菓子屋の二階に両親といました。私は、このあたりから文学的自叙伝などとはおよそ縁遠い生活に這入り、ただ、働きたべるための月日をおくりました。日給がすくないので、株屋の事務員をしたりしました。日本橋に千代田橋と云うのがあります。白木屋のそばで繁華な街でした。橋のそばの日立商会と云う株屋さんに月給参拾円で通いましたが、ここも三、四ヶ月で(くび)になり、私は両親と一緒に神楽坂だの道玄坂だのに雑貨の夜店を出すに至りました。初めのうちは大変はずかしかったのですけれども、(な)れて来ると、私は両親と別れて、一人で夜店を出すようになりました。寒い晩などは、焼けるようなカイロを抱いて、古本に読み耽りました。私の読書ときたら乱読にちかく、ちつじょもないのですが、加能作次郎と云うひとの(あられ)の降る日と云うのを不思議によく覚えています。いまでも、加能作次郎氏はいい作家だと思います。加能氏が牛屋(ぎゅうや)下足番(げそくばん)をされたと云うのを何かで読んでいたので、よけいに心打たれたのでしょう。
(中略)
 
私はその頃新潮社から出ていた文章倶楽部と云う雑誌が好きでした。室生犀星氏が朝湯の好きな方だと云うことも、古本屋で買った文章倶楽部で知りました。室生氏が手拭(てぬぐい)をぶらさげて怒ったような顔で立っていられる写真を覚えています。私は室生氏の詩が大変好きでした。
 
大正十二年震災に逢って、私たちは東京を去り、(しばら)く両親と四国地方を廻っておりました。暗澹(あんたん)とした日常で、何しろ、すすんで何かやりたいと云った熱情のない娘でしたので、住居(すまい)も定まらず親子三人で宿屋から宿屋を転々としながら、私は何時も母親に余計者だとののしられながら暮らしていました。
 大正十三年の春、また、私はひとりで東京へ舞い戻って来ました。セルロイド工場の女工になったり、毛糸店の売子になったり、或る区役所の前の代書屋に通ったりして生活していましたが、友人の紹介で、田辺若男氏を知りました。松井須磨子たちと芝居をしていたひとです。私は、間もなく、この田辺氏と結婚しました。同棲二、三ヶ月の短い間でありましたが、私はこの結婚生活の間に、田辺氏の紹介で詩を書く色々な人たちに逢いました。萩原恭次郎氏とか壺井繁治氏、岡本潤氏、高橋新吉氏、友谷静栄(ともやしずえ)さんなど、みんな元気がよくて、アナアキズムの詩を書いていました。
 夏の終り頃、田辺氏に去られて、私は友谷静栄さんと「二人」と云う詩の同人雑誌を出しました。いまその「二人」が手許(てもと)にないのでどんな詩を書いていたのか忘れてしまったけれども、なかでもお釈迦様と云うのを辻潤氏が大変讃めて下すったのを記憶しています。――
本郷の肴町にある南天堂と云う書店の二階が仏蘭西風なレストランで、そこには毎晩のように色々な文人が集りました。辻潤氏や、宮嶋資夫氏や片岡鉄兵氏などそこで知りました。
 ひとりになると、私はまた食べられないので、その頃は、神田のカフェーに勤めていました。大正琴のあるようなカフェーなので、そんなに収入はありませんでした。「二人」は金が続かないので五号位で(や)めてしまいました。友谷静栄と云うひとは才能のあるひとで、その頃、新感覚派の雑誌、文学時代の編輯をも手伝っていました。私は、その頃童話のようなものを書いていましたが、これは愉しみで書くだけで少しも売れなかったのです。
 私にとって、一番苦しい月日が続きました。ある日、私は、菊富士ホテルにいられた宇野浩二氏をたずねて、教えを乞うたことがありましたが、宇野氏は寝床(ねどこ)の中から、キチンと小さく坐っている私に、「話すようにお書きになればいいのですよ」と云って下すった。たった一度お訪ねしたきりでした。
 間もなく、私は野村吉哉氏と結婚しました。大変早くから詩壇に認められたひとで、二十歳の年には中央公論に論文を書いていました。その頃、草野心平さんが、上海から薄い同人雑誌を送ってよこしていました。――
世田ヶ谷の奥に住んでいました時、まだ無名作家の平林たい子さんが(あか)い肩掛けをして訪ねて見えました。 その頃、私におとらないように、たい子さんも大変苦労していられたようでした。
 野村氏とは二年ほどして別れた私は新宿のカフェーに住み込んだりして暮らしていました。カフェーで働くことも厭になると、私はその頃、ひとりぐらしになっていたたい子さんの二階がりへ転り住んで、(しばら)くたい子さんと二人で酒屋の二階で暮らしました。その頃、無産婦人同盟と云うのにも這入りましたが、私のような者には肌あいの馴れない婦人団体でした。その頃、童話を書くかたわら、私は文芸戦線に、創刊号から詩を書いていました。ところで、私の童話はまれにしか売れないのです。――
(中略)
 私はその頃、徳田秋声先生のお家にも行き馴れておりました。みすぼらしい私を厭がりもしないで、先生は何時行っても逢って下すったし、お金を無心して四拾円も下すったのを今だにザンキにたえなく思っています。徳田先生には一度も自分の小説は持参しなかったけれども、転々と持ちあるいて黄色くなった私の詩稿を先生にお見せした事があります。(これはまるでつくりごとのようだけれども)私の詩集を読んで眼鏡(めがね)を外(は)ずして先生は泣いていられました。私はその時、先生のお家で一生女中になりたいと思った位です。たった一言「いい詩だ」と云って下すったことが、やけになって、生きていたくもないと思っていた私を、どんなに勇ましくした事か……、私はうれしくて仕方がないので、先生のお家の玄関へある夜西瓜(すいか)を置いて来ました。あとで聞いたのだけれどもいつか徳田先生と私と順子さんと、来合わしていた青年のひとと散歩をしてお汁粉(しるこ)を先生に御馳走になったのですが、その青年のひとが窪川鶴次郎氏だったりしました。私はひとりになると、よく徳田先生のお家へ行ったし、先生は、御飯を御馳走して下すったり落語をききに連れて行って下すったりしました。先生と二人で冬の寒い夜、本郷丸山町の深尾須磨子さんのお家を訪ねて行ったりして、お留守であった思い出もあるのですが、考えてみると、私を、今日のような道に誘って下すったのは徳田先生のような気がしてなりません。(後略)
                                                      
                                   
 新潮社の編集者だった楢崎勤の生涯を描いた「ある文芸編集者の一生」(大村彦太郎 筑摩書房 平成14年)の中にこんな記載がありました。大正14年の入社当時「文章倶楽部」の編集者として林芙美子の取材をしています。
 「入社してまもなく、「文章倶楽部」の埋め草を書くために、芝公園の協調会館へアーナキスト詩人たちの朗読会の取材に出かけた。会場は空席が目立ち、ガランとしていたが、何人目かに髪を桃割れに結い、紺絣(こんがすり)を着た二十歳前後の小柄な女性が登場した。彼女は自作の詩を朗読しながら、感きわまったのか、突如、手にした原稿で顔を蔽い、はげしく肩を震わせて泣き出した」その時の詩は恐らく「善魔と悪魔」の詩ではないかと思います。4月に朗読会があり文章倶楽部の第十年第五号の掲載となれば辻褄があいます。「放浪記六月×日」に加藤武雄から「詩の稿料を六円戴く」とあればなおさらです。それにしても稿料の後払いは芙美子にとって、とても辛いものを感じさせます。そうしたことから「放浪記」には新聞社や雑誌社から原稿を送り返されたと云う苦い体験がしばしば記されています。
 「善魔と悪魔」が掲載された「文章倶楽部」、放浪記では「今日は素敵に楽しい街になって」と文章は一段と明るくなっています。つらい日々は続きましたが、それでもめげることなく芙美子は書き続けました。 
 後日、新潮社で編集の仕事をしていた和田芳恵も回想記「ひとつの文壇史」の中でこんなことを書きました。
 昭和12年頃、講談社の「キング」に対抗して新潮社から創刊された「日の出」の編集者として原稿を依頼に行った時のことである。はじめ新潮社と聞いただけで芙美子が不快な顔をしたそうである。「まだ、世の中へ出なかったころ、林さんは「放浪記」を新潮社へ持ち込んだそうである。着たきりすずめで、よい天気なのに日和下駄をはいた林さんを、さも、うさんくさそうにながめてから、読んだものやら、どうかもわからない原稿の返し方をしたというのであった。「それが今ごろになって、よくも原稿を書けなどと言えたものね」」原稿を突き返された屈辱感は如何なものか、その時の応対者がどなたであったかは、今となっては分かりません。放浪記の末尾にはこんな事が書かれ〆くられていました。
「林さん書留めですヨ!」
珍しく元気のいい叔母さんの声に、梯子段に置いてある日本封筒をとり上げると、時事の白木さんからの書留め。
 金弐拾参円也! 童話の稿料。
 当分のひもじいめをしなくてもすむ。胸がはづむ、狂人水を呑んだやうにも。でも何か一脈の淋しい流れが胸にあった。
 嬉れしがってくれる相棒が、四十二の男に抱かれてゐる。

 白木さんの手紙。
 いつも云う事ですが、元気で御奮闘を祈る。


 私は窓をいっぱいあけて、上野の鐘を聞いた。晩は寿司でも食べよう。
                                −1927−
 人生には辛いことが多過ぎる。砕けてしまいそうな日々の中で「いつも云ふ事ですが、元気で御奮闘を祈る。」と手紙にしたため、そして放浪記を結んだのである。そのことが芙美子にとっても、また当時の読者にとっても、どんなに勇気づけられたことか・・・・・・・

研究資料 「文章倶楽部」のなかの徳田秋声訪問記
 大正15年5月号の秋声訪問記では川崎長太郎となっていますが、同年10月号のものは林芙美子が取材されています。


少し画面が大きくなります。


                         
 文章倶楽部 第十年第五号 大正14年5月1日号





                         
文章倶楽部 第十一巻 第十号 大正15年10月1日号

      
参考 放浪記 林芙美子 改造社 昭和5年7月発行(精選 名著復刻全集 近代文学館 昭和49年10月発行)
      放浪記 林芙美子集 新潮日本文学22 新潮社 昭和56年十刷
      「林芙美子随筆集」文学的自叙伝
 岩波文庫、岩波書店  平成15年3月5日第2刷発行
  
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