林芙美子の主な年譜

西暦 和年号 年齢 主な出来事
加藤
武雄
1903 明治
36
明治36(1903)年12月31日に門司市大字小森江555番地で、父宮田麻太郎、母林キクの子として出生。出生地については山口県下関市生まれ説(自称)と、井上貞邦(北九州市門司区の外科医、故人)が唱えた現在の福岡県北九州市門司区小森江生まれ説の二説あるが、除籍謄本の発見により小森江生まれ説の正当性が裏付けられている。本籍地は母の故郷である鹿児島県の古里温泉。
15
1904 37 1 麻太郎、軍人屋という店を出す。 16
1905 38 2 17
1906 39 3 18
1907 40 4 麻太郎、軍人屋本店を若松に移す。
19
1908 41 5 20
1909 42 6 21
1910 43 7 キク、旧正月に、軍人屋番頭沢井喜三郎とともに、芙美子を連れて家出。
4月、長崎市勝山小学校に入学、やがてそこから佐世保市八幡女児尋常小学佼に転校。
22
1911 44 8 1月、下関市名池小学校へ転校。養父澤井喜三郎は下関で古着屋を営む。 23
1912 45 9 24
1913 大正
2
10 25
1914 3 11 11歳の時、澤井の古着屋が倒産。一時、鹿児島の祖母(キクの実家)に預けられる。鹿児島市山下小学校へ転校したが、女中がわりに使われ、あまり通学しなかった。やがて行商する両親について、北九州各地を巡回する。
26
1915 4 12 27
1916 5 13 13歳の早春、尾道市に移住。一家は行商をしながらここで約6年間過ごす。芙美子はこのころから小説を読み始める。第2尾道尋常小学校(土堂小)の5年生に編入。土堂小では小林正雄の影響を受ける。
28
1917 6 14 29
1918 7 15 4月、尾道市立高等女学校(東高校)へ入学。国語教師森要人、次いで、今井篤三郎の影響を受ける。
30
1919 8 16 31
1920 9 17 32
1921 10 18 秋沼陽子の筆名で、「山陽日日新聞」「備後時事新聞」に詩と短歌を投稿する。
5月実父方祖父の葬儀に参列するため、ひとりで愛媛県周桑郡吉岡村に行く。
33
1922 11 19 3月、尾道高女を卒業 卒業後は明治大学在学中の岡野軍一を頼って上京、雑司が谷墓地付近で同棲。岡野の卒業を待ちながら、カフェーの女給、銭湯の番台、赤坂の小学新報社の封筒書き、セルロイド工場の女工、日本橋の株屋日立商会の事務員など多くの職を転々とする。やがて父母も上京、東中野や新宿の十二社に住み、露天や夜店を成子坂や神楽坂に出した。芙美子も手伝う。
      
34
1923 12 20 3月、大学を卒業した岡野は郷里に帰り、家族の反対を理由に芙美子との結婚の約束を破るが、その後も何度か会う。
6月、野村吉哉、「中央公論増刊号」に「プロレタリア作家と某作品」を発表。
9月1日、関東大震災、この頃、芙美子は本郷の根津権現付近に下宿し、両親は十二社に間借りしていた。芙美子は十二社に両親を見舞った後、避難船として出した灘の酒荷船に乗り、尾道に帰京する。恩師小林正雄に筆名を芙美子とするよう勧められる。このころから、「放浪記」の原型となる「歌日記」と題する日記を書き始める。
35
1924 13 21 母たちを尾道に残し一人上京。中野区上之原の近松秋江宅で二週間ほど女中として働く。 またセルロイド工場の女工、毛糸店の売り子、事務員、すし屋やカフェーの女給などしながら尾道の両親の生計を助ける。
3月、小柳京二が本郷初音町の詩人で新劇俳優であった田辺若男の下宿に芙美子を連れてくる。二人は田端で同棲、芙美子は田辺の紹介で、本郷南天堂書房2階の喫茶店に集まっていたアーナキスト詩人たち、萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、高橋新吉、小野十三郎、神戸雄一、辻潤、野村吉哉(千葉亀雄の甥)、友谷静栄、平林たい子を知り親交を深める。
4月、野村吉哉、「文章倶楽部」に「石版画像」を発表。
6月、田辺の公演を観るが、田辺の相手役の女優山路千枝子が愛人だと知り別れる。
   東洋大学生と本郷の下宿屋で同棲。
7月、ダダイズム雑誌「ダダイズム」同人の東洋大学生神戸雄一の出資で、友谷静栄と同人詩誌『二人』を創刊、「オシャカ様」「スリッパ」などを発表3号まで続く。
8月、「文芸戦線」に「女工の唄へる」を発表。
    この頃、宇野浩二、徳田秋声を訪ねる。
10月、野村吉哉、詩集「星の音楽」を刊行。
11月、「文芸戦線」「日本詩人」に詩を発表。
12月、野村吉哉と親しくなり、本郷の下宿屋を出て多摩川べりの小さな借家で同棲。
36
1925 14 22     野村吉哉と渋谷区道玄坂に住む。
4月に世田谷太子堂で、壺井繁治、栄夫妻の隣に住む。近くの平林たい子とともに詩、童話などの原稿を出版社へ売り込みに歩く。
5月、「文章倶楽部・新しき詩篇 新進三家」に「善魔と悪魔」を発表。
    同号 目次 「或時の徳田秋聲先生(人の印象)・・・川崎長太郎・・(42)」が掲載される。
    同号の42頁 「(2)印象の人 或日の徳田秋聲先生  冬々生」と変名され掲載。
     
参考 冬々生とは??・・・検討を要す。 保坂付記 2007・3・8
6月、加藤武雄に会い、詩の稿料6円を戴く。(注 放浪記の中に記載)
8月、野村吉哉、「文章倶楽部」に「貧乏詩人の日記」を発表。
貧しい生活、肺患があった野村は暴力的であったため、冬、夜逃げをして世田谷瀬田に移り住む。
37
1926 昭和
元年
23 1月末、野村吉哉に沢子という恋人(後の夫人)ができたため同棲を解消し新宿のカフェーに移る。その後、平林たい子の下宿、本郷区追分町の大黒屋酒店の二階に同居。
5月、「文章倶楽部」に「十月の海」を発表。・・・未確認のため検討要す。保坂付記 2007・3.8
9月、「文芸戦線」に「のり出した船だけど」を発表。
9月、「文章倶楽部」に「秋江先生のお仕事振り」を発表。
10月、尾道に帰り「風琴と魚の町」に着手。再上京して新宿「つるや」で女給となる。
10月、「文章倶楽部・作家の仕事振り」欄に「秋聲先生の創作生活」を発表。
筆者は皆、その作家の日常生活に親灸し、その生活振り仕事振りの実際を目のあたりに見て来た人で、して空想や想像で書かれたものでないことを附記して置きます。(記者)
12月、本郷で画学生手塚緑敏と同棲。
12月、たい子に誘われ、八木秋子、若杉鳥子らと社会文芸連盟に参加、同月27日、その発会式に参加する。
12月、「文芸市場」に「苦しい唄」を発表。
38
1927 2 24 1月、杉並町の西武電車車庫裏二階に間借りし、詩や童話を書いては出版社に売り込みに行く。
5月、和田堀町の妙法寺境内の借家に入る。
12月、「文芸公論」に「ロマンチストの言葉」を発表する。
12月、「文章倶楽部」に「四国文壇の状勢」を発表する。
    この年、「放浪記」を書上げる。 末尾に −1927−と表記
39
1928 3 25 1月、「文芸戦線」に「海の見えない町」を発表する。
2月、「文芸戦線」に「いとしのカチウシャ」を発表する。
3月、「文芸戦線」に「朱帆は海へ出た」、「洗濯板」と立て続けに詩を発表する。

7月、長谷川時雨の主宰する「女人芸術」が創刊される。
8月、「女人芸術」に詩「黍畑」を発表する。
10月、「女人芸術」に「放浪記」を連載。
40
1929 4 26 6月、第一詩集『蒼馬を見たり』 を南宋書院から刊行。
   矢田津世子、『女人芸術』誌の名古屋支部員として活躍、林芙美子らと知り合う。
8月、「百貨店の匂い」を「サンデー毎日」に発表。
10月、「九州炭鉱街放浪記」を「改造」に発表。
11月、「文章倶楽部」に「蘆花全集と徳富健次郎氏」を発表する。
41
1930 5 27 7月、「改造社」より新鋭文学叢書の一冊として「放浪記」を刊行、50万部が売れ大ベストセラーになる。19歳から23歳頃までの多感な放浪の日々を書き綴った私小説。
11月、『続放浪記』を「改造社」より刊行。
42
1931 6 28 4月、『風琴と魚の町』を改造に発表。
11月、「清貧の書」を改造に発表、宇野浩二の絶賛を得る。
11月4日、シベリア経由でヨーロッパ旅行に出発。
43
1932 7 29 ヨーロッパからの帰路、上海に寄り魯迅に会う。 44
1933 8 30 3月、父母上京してはじめ同居、後付近に別居する。
5月、「清貧の書」を改造社より刊行。
8月第二詩集「面影」を刊行。
45
1934 9 31 10月、『泣蟲小僧』 を「東京朝日新聞」に連載。 46
1935 10 32 5月、「放浪記」が映画化。
8月、「文学的自叙伝」を「新潮」に発表。
9月、『牡蠣(かき)』を「中央公論」に発表。
47
1936 11 33 1月、『稲妻』を「文芸」に発表。
10月、「大日本雄弁会講談社 現代十月特大号附録 文壇大家花形の自叙傳」に「思ひ出の日」を寄稿する。   
48
1937 12 34 12月、南京陥落の際、毎日新聞社の特派員として南京に派遣される
49
1938 13 35 1月、中国より帰国。
5月、「泣虫小僧」が映画化される。
50
1939 14 36 12月、母キクの知人の紹介で下落合4丁目に土地を購入する
51
1940 15 37 52
1941 16 38 8月、下落合4丁目に新居が完成。
53
1942 17 39 54
1943 18 40 5月、南方の従軍より帰国。戦時中は報道班員(従軍作家)となり、中国やフランス領インドシナに従軍。
12月、泰を養子に迎える。
55
1944 19 41 3月、夫緑敏と泰を林家に入籍。
4月、母と泰と共に長野県上林温泉に疎開。
8月に入り一旦帰京、角間温泉へ疎開。
56
1945 20 42 8月19日、一旦帰京。
10月に、一同で疎開先から下落合の自宅に帰る。10月5日、実父麻太郎下関で死去。
57
1946 21 43 9月「泣蟲小僧」を「あづみ書房」から刊行。 58
1947 22 44 8月、「毎日新聞」が戦後初めて朝刊に『うず潮』を連載。 59
1948 23 45 11月、『晩菊』を「別冊文芸春秋」に発表。 60
1949 24 46 1月、『放浪記・第三部』を「留女書房」より刊行。
11月、『浮雲』を雑誌『風雪』、『文学界』に連載。1955年に映画化。『茶色の眼』 を刊行。「晩菊」第3回女流文学者賞を受賞。
61
1950 25 47 この冬、持病の心臓弁膜症悪化。
62
1951 26 48 6月27日、「主婦之友」連載の「名物たべあるき」のため、銀座の「いわしや」に、さらに深川の「みやがわ」に行き、会食して帰宅。午後11時過ぎに就寝後、苦悶。翌28日午前1時ごろ心臓麻痺のため死去。48歳。
7月1日自宅で告別式。8月15日、中野区上高田、万昌院功運寺に納骨。戒名「純徳院美蓉清美大姉」。墓碑銘は川端康成の筆。『めし』が絶筆となる。
63
1952 27 64

      参考
      芙美子の昭和  川本三郎 新書館 平成15年2月発行
      新潮日本文学アルバム 林芙美子 新潮社 1986年8月発行
      林芙美子 新潮日本文学22 新潮社 昭和46年9月発行
      ある文藝編集者の一生 大村彦次郎 筑摩書房 2002年2月発行
      林芙美子記念館   編集 新宿歴史博物館 平成15年4月2版発行

      「放浪記」の中の加藤武雄
      林芙美子記念館と万昌院功運寺
      加藤武雄の年譜 
      
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