川尻八幡宮・「一之鳥居」再建物語


2016・1・22 作成
2019・4・3 一之鳥居、横の「八幡神社参道口」の石碑がなくなっているのを確認する。


貞享元(1685)年 川尻村村絵図(部分
  ↓大山道    ↓原宿用水路 ↓本郷・七国峠
 
             村境道     大正14(1925)年3月30日発行 大日本帝国陸地測量部


                         撮影 昭和23(1948)9月

   広報「しろやま」で見た主な町の歴史と参道
昭和40年 1965 1月、城山町役場庁舎が完成する。
6月、皇太子殿下が城山ダムと城山発電所を視察される。・
41年 1966 ○この年、首都圏近郊整備地帯に指定される。
42年 1967
43年 1968
44年 1969 6月、都市計画法が施行れる。
12月10日号に、「城山町市街化区域・市街化調整区域県確定素案」が公表される。
45年 1970 4月、熊谷組、谷津に千二百戸の団地開発、町に正式協議を申し出る。
4月、津久井郡広域行政組合が設立される。
6月、都市計画法によって「城山町市街化区域・市街化調整区域」の区分けが決定される。
11月5日、下水道整備事業起工式が平塚市の右岸処理場建設地で行われる。
46年 1971 4月14日、城山町開発公社が発足する。 理事長:中里富郎・専務理事:八木操
6月号、東原宿の交差点に信号機がつく
47年 1972
48年 1973 11月、城山町の人口が一万人を突破する。
49年 1974 4月、都市計画課が新設される。         課長;北島厚
50年 1975 3月、学校給食の共同調理場が完成する。
11月、「一之鳥居」が再建される。
51年 1976
52年 1977
53年 1978
54年 1976
55年 1977
56年 1978 3月31日、川尻八幡神社参道が町道(路線の呼名:参道線)となる。
57年 1979 10月、川尻八幡宮の夏祭りが、「かながわのまつり五十選」に選ばれる。
58年 1980 4月、地域の呼称が「区」から「自治会」に変わる。
平成3年 1991 3月、二ノ鳥居が建立される。 平成三年三月吉日氏子中」 「御大典記念」
平成7年 1995 第1回「雨水の日の日の出」観賞会が行われる。
26年 2014
27年 2015
28年 2016 第22回「雨水の日の日の出」観賞会に於いて、伊勢神宮三節祭に奉納される「玉貫鰒(たまぬきあわび)と身取鰒(みとりあわび)について、スルメイカを鰒にたとえ体現する。
  
玉貫鰒(たまぬきあわび)       身取鰒(みとりあわび)    大身取鰒   身取鰒 身取鰒
29年 2017
30年 2018
31年 2019 3月、「一之鳥居」横にあった両側の「桜の木」が切断される。
4月3日、「一之鳥居」横の「八幡神社参道口」の石碑がなくなっているのを確認する。
2020
2021
2022
2023

  
 ↑「奉納 八幡神社参道口」石碑    雄龍籠山々頂に日が沈む情景 八月十六日(盆送日)
   裏面 皇紀二千六百年記念 当村 奉納山本安司
広報 しろやま 8月号
 広報 しろやま 8月号
写真のタイトル
 川尻八幡神社参道を走るママさん
走るママさん
 原宿地区のママさんグループ「走る会」(会員31名)は、毎晩9時にクラブに集合し、一周約1・6キロメートルのコースを走り、体力づくりにはげんでいます。

町の人口  7月1日現在 ( )内は前月増
人口総数 11,097 (60人増)
5,628 (31人増)
5,469 (29人増)
世帯数 2,951 (19世帯増)
     昭和51年8月号より
 昭和51年8月号の表紙となった、川尻八幡神社の「一之鳥居」です。まだ完成まもない頃でしょうか、「八幡神社」と記された篇額が未だ鳥居の中央部に取付けられていません。その鳥居の下を楽しそうに走っているママさんたちの姿を拝見することが出来ました。予想ですが、ジョキングは現在の原宿自治会館を起点に北上し
八幡神社の参道に出て、コースを東に変え「一之鳥居」に出、それから材木屋さんの角を西に曲がり、津久井街道を会館(原宿クラブ)に向け走ったと思います。鳥居には縄が張られて、「注連縄」の様子もうかがえます。

渡御の隊列




 太鼓(たいこ)←御幣(ごへい)←金棒(かなぼう)←川尻八幡宮御旗(かわしりはちまんぐうみはた)←八坂(やさか)←応神(おうじん)

 
               所蔵 川尻八幡宮
「一之鳥居」とその前の「燈籠」は現在、八幡宮の境内に遷されています。
                     遷された年月日、再調査要 2016・1・22 保坂記
  燈籠 明治十四(1881)辛已皐月  小儀景隆献之 石工 北原祥重 神主高橋籌麿

 
  現在地に移された「旧一之鳥居」 鳥居の高さ 360p  幅 290p
     嘉永五(1852)壬子秋建    石工 小田原青木 門人 鳥屋邑 小嶋幸右ェ門盛貞
       注 城山町史 民俗編 石造物一覧 P625より 引用  町史 小嶋幸右ェ門益貞→盛貞に修正 2017・9・15 保坂

神奈川県相模国津久井郡川尻村村社八幡神社見取図
 (明治初期 城山町役場所蔵)





「一之鳥居」近くの佐藤さんから聞いた話
 
新しい鳥居ができた頃の家の周りは
 竹藪だったよ。
 参道の北側は、みんな桑畑だった。
 今のように、家はまだなかった。
 車は、鳥居の下をちゃんと
 くぐって通っていたよ。



  写真で見る「一之鳥居」前の燈籠について
写真で見る鳥居前の燈籠のかたちと明治初期に描かれた見取り図の燈籠の形状が違うように見えます。恐らく描写をされた作者の間違えではないかと考えられますが、参考までに八幡宮の境内に建立されている燈籠を並べて見ました。今後の研究課題として掲載を致しました。  2016・1・22 保坂記
参考 
  
伊勢屋
文久二(1862)戌壬年十一月吉辰 
信州高遠  石工 北原七兵衛 祥重 
當山現住 法印大隆代
小松邑  廣田善兵衛
武蔵屋
安政六(1859)巳未年四月吉日 
鳥屋邑 石工 源七  
別當 浄光坊現住 法印大隆代
久保沢 樋口源兵衛 

大正十二(1923)年八月吉日
八王子市小門町 清水小市建
昭和四十三年十一月吉日
清水一男 再建

 
  参考 旧二ノ鳥居石組

現在の「二ノ鳥居」 








     文久三亥天 仲秋吉展            撮影 2017・8.28 川尻八幡宮例大祭
     注 城山町史 民俗編 石造物一覧 P625より 引用  未確認 2017・9・15 保坂記
資料ー1 並木の提灯祭り  清水公済
 この話は、明治末期八幡神社の例大祭に於ける神輿渡御のお話です。/八幡神社の例大祭は、八月二十七・八日、二日二晩に亘り、町内安全・五穀豊饒を祈念して神輿渡御が行われ、御神輿が宮を出るその前を子供達が持つ弓張小提灯、大人の持つ高張提灯の明りをつけた行列の波が明治末期には、宮を出て八丁幅八間一の鳥居まで人家はなし、一直線に行進する二夜に亘る盛儀と景観が今尚語り草に並木の提灯祭りとして、後世まで言われ残されているのだと思います。/並木の事をお知らせします。昔この※1台門には松の大木があり、この大半は嘉永六年品川御台場の築造が始まり伐出され、小倉より川さげに運搬されたと言う。残り十九本は、明治九年川尻小学校々舎新築※2資料に使用された。この事は最近小儀様の古文書で判りました。/歴史のある松並木を国、村の重要資材に使われたのです。/昔は、台門社頭に至る一路ならして八町八間並木はなくも並木の台門、の地名が残されたのです。/明治末期祭礼の神輿渡御の模様をお知らせします。昔は二十七・二十八日、二夜に亘る神輿渡御で、二十七日晩は北部※3・七・八を三部落で二十八日は五・四・三・二・一を五部落の氏子中を廻るのでした。/御神輿は大、八幡様が三十二名神与係六名、小八坂様が十六名、神子係二名、大太鼓二名、金棒引四名、御賽銭箱二名、神主様は人力車で以上役職による者は全員が着衣白丁黒のえぼしをかぶったのである。/さて、提灯祭りの提灯の事でが、形は今テレビ捕物帖の御用の文字の弓張提灯の形で、川尻村は都井沢、谷ヶ原、久保沢、向原、原宿、町屋、小松、穴川の八部落で提灯の表にひらがな文字で大きく向原はむ、原宿はは、久保沢はく、小松はこ、と言ったようにその部落の集りは一目で分った。また、小学校に入学すると今年のお祭りには提灯持ちが出来ると言うので入学する時から父母、年より、近所の人達まで大さわぎで祝ってくれた。/尋常五・六年の上級生は初めて仲間入りした一年生の面倒をよくみてくれた。/父母は子供にはかせるべく手頃のわらじを作り、道路も砂利道だったので一足ではまにあわないので二足は必要とした。/高張提灯は高等科生、二米位の柄長百目ローソクで大きく明るかった。休む時には、高張りも表面の文字はとじて部落皆集団で行動した。/やがて時間になると御神輿を拝殿に差し入れ、神主様の御神霊が神輿にうつされ御拂(おはらい)が終ると提灯にあかりがつき、渡御者の手に依って神社右から三回巡って御神輿の供ぞろいが終り、子供達の提灯の集団を先頭に続く高張提灯、御神輿と一直線に行進するその盛儀と景観が、歌によんだか俳句に作られたかして、今も並木の提灯祭りの語り草として残されているのです。
                 昭和52年8月1日号「広報 しろやま」より
     ※1台門 「デエモン」とも呼び台を大とも著わしている
     ※2材 「広報しろやま」では資 もしかして材料か 不明 ここでは資材としました。 2016・1・27 保坂記
     ※3六 旧城山町内で呼ばれていた区番号と地区名  昭和58年4月に呼称法を変更
一区 二区 三区 四区 五区 ※3 六区 七区 八区 九区 十区 十一区 十二区
都畑 谷ヶ原 久保沢 向原 原宿 町屋 小松 穴川(城北) 中沢 小倉 葉山島 葉山島

資料ー2 八幡様の並木  権守芳泉
 昨年暮に八幡神社で出版した「八幡神社の由来」を読んだ方は、その由来はだいたいおわかりの事と思いますが、昔から六カ村の総鎮守で並木八幡と言われすばらしい松並木があり、その参道は相模原の二本松まで続いていた。先年枯死したあの二本松もその残りだったと聞く。/それでは、その有名な並木をいつ切ったか、なぜ切ったかについては今まで不明であったが、先日文化財保護委員会で原宿の小儀孝哉氏所蔵の古文書を調べさせてもらったその中の一つに、八幡様参道の松を売った時の買受証が見つかった。

      買受証

原宿裏道添
 
 一、 松木立四十一本
    代金百拾五円也
 右の通買収候に相違無○者は今般
 山初に付右木価之内金六拾円也
 正に残金の儀者角材出荷暇の節急度
 皆済可仕候云々

 明治九年四月一日 
           小山村  原清兵ェ  印
           代 人  小山幸七郎 印
 下川尻村
   小儀四郎右ェ門殿
   山本理助    殿
   大貫重太郎   殿
とあり、四十一本と言う数は少ないように思われるが、幾度かに区切って売ったのではあるまいか。/買った人は豪農で清兵衛新田を拓いた人で有名、今でも相模原に清新と言う地名が残っている。/売り主は原宿の代表三人だけである。どうして神社の総代か神官の名が書かれていないのか、あるいはこの三人が大総代だったのか謎である。/それからもちろんこの文面には書いてないが、言い伝えによるとこの並木を売った金で、川尻小学校を建設したと言うことである。(明治五年八月に義務教育制ができ、
川尻村では明治六年七月に桂昌寺を仮校舎として授業を開始した。桂昌寺は現中学校の裏面で大きな寺であったが、明治三十九年三月温泉坂から出た火事のため類焼し、いまは鐘楼と百体地蔵のみ残っている。)/当時としてはこの金額で立派な校舎ができた。もっとも建設がどこよりも早かったので、よい先生も集まって県北の有名校となり近村の相原村、小山村、境村、三沢村、湘南村等からの通学者が大ぜいあったと聞く。/わが村の文化発展の基礎となる教育に力をそそいだ先祖の心を高く評価するとともに、また、一面自然保護のたちばにたって考えると並木を残して置きたかったなと複雑な気持でもある。
                 昭和52年10月1日号「広報 しろやま」より
資料ー3 川尻八幡宮境内の鳥居(参考)
    二ノ鳥居 御大典記念 平成三年三月吉日 氏子中
    三ノ鳥居 嘉永五年壬子 秋建


    一之鳥居再建拝殿修復寄付者芳名碑
           昭和五拾年拾壱月参拾日落成
  一金○○○○円也
  小○○二
  一金○○○○円也
  小○○郎
  一金○○○○円也
  ○○
  ○○○○円也

  ニ○○
  一金○○○○円也
  ○○
  一金○○○○円也
  中○○昭
  一金○○○○円也
  八
○○
  寿○○崇
  一金○○○○円也
  宮○○郎
  市○○雄
  小○○章
  丸○○所
  城○○所
  清○○晃
  八○○重
  榎○○治
  斉○○平
  ○○
  株
○○
  小
○○
  一金○○○○円也
  安○○平
  安○○男
  加○○雄
  金○○美
  金○○武
  金○○司
  串○○文
  串○○久
  八○○雄
  八○○治
  八○○正
  八○○一
  八○○郎
  八○○明
  横○○司
  八○○清
  荒○○郎
  上○○一
  小○○治
  小○○持
  杉○○
  西○○昌
  八○○治
  井○○○
  井○○雄
  小○○義
  高○○治
  八○○
  八○○雄
  八○○夫
  八○○雄
  小○○哉
  細○○次
  井○○男
  押○○平
  神○○二
  神○○弘
  鴨○○義
  三○○社
  杢○○幸
  杢○○明
  杢○○雄
  金○○彦
  小○○吉
  中○○雄
  斉○○皓
  斉○○正
  斉○○男
  渋○○郎
  武○○治
  武○○治
  武○○郎
  高○○司
  高○○雄
  中○○清
  中○○吉
  中○○雄
  樋○○助
  八○○重
  八○○助
  八○○義
  山○○忠
  米○○平
  城○○一
  睦○○夫
  P○○社
  建○○社
  一金○○○○円也
  金○○一
  金○○強
  八○○介
  今○○治
  岩○○一
  押○○
  金○○夫
  北○○吉
  小○○三
  古○○進
  井○○彰
  井○○勉
  井○○休
  木○○郎
一金○○○○円也
井○○正
井○○雄
荻○○吉
黒○○雄
小○○男
小○○司
小○○
小○○夫
小○○一
笹○○治
八○○治
八○○猪
八○○行
八○○三
有○○夫
落○○治
○○
金○○治
小○○雄
小○○男
佐○○一
平○○晴
山○○司
柳○○吉
渡○○清
安○○明
井○○重
井○○亨
押○○一
大○○市
神○○雄
小○○夫
小○○武
小○○正
小○○夫

八○○義
荒○○衛
安○○久
大○○男
大○○夫
金○○助
金○○正
金○○市
金○○蔵
小○○治
小○○善
小○○勝
田○○次
中○○夫
中○○松
広○○三
広○○八
広○○剛
樋○○正
八○○平
八○○治
柳○○治
大○○治
小○○栄
小○○一
小○○男
斉○○身
斉○○平
斉○○市

渋○○一
渋○○吉
武○○夫
武○○吉
武○○一

高○○雄
中○○勇

○○
樋○○一
平○○実
細○○一

村○○夫
八○○進
米○○雄
米○○司
安○○社
有○○機
城○○社
有○○業
金○○宮
一金○○○○円也
樋○○郎
清○○緒

津○○場
一金○○○○円也
安○○明
神○○男
八○○晃
八○○策
八○○夫
串○○弥
小○○郎
小○○男
小○○作
小○○市
○○正
小○○治
小○○次
小○○雄
小○○郎
高○○七
権○○吉
海○○造
多○○弘
田○○徳

一金○○○○円也
内○○郎
宮○○二
宮○○武
宮○○幸
宮○○次
宮○○雄
八○○蔵
八○○次
八○○平
八○○助
八○○一
新○○郎
井○○治
宇○○郎
宇○○三
宇○○雄
河○○吉
黒○○男
久○○治
小○○治
小○○郎
小○○俊
杉○○吾
杉○○弘
杉○○明
高○○郎
内○○男
樋○○氏
樋○○男
樋○○弘
樋○○稔
村○○豊
宮○○栄
八○○世
八○○治
山○○剛
藤○○利
吉○○友
井○○清
井○○光
井○○通
大○○茂
小○○郎
小○○雄
小○○雄
近○○助
斉○○男
清○○吉
鈴○○郎
内○○次
橋○○丸
八○○貴
八○○夫
有○○治
有○○男
有○○則
有○○次
有○○男
安○○雄
安○○郎
石○○次
岩○○
落○○夫
奥○○正
小○○弘
神○○雄
神○○長
金○○次
北○○島
北○○一
北○○治
北○○夫
遠○○馨
小○○一
小○○郎
小○○果
佐○○子
佐○○登
佐○○雄
佐○○雄
佐○○吉
斉○○男
島○○夫
鈴○○有
鈴○○男
鈴○○武
鈴○○義
石○○至
田○○男
チ○○生
仲○○雅
西○○二
樋○○雄
福○○幸
松○○
和○○弘
安○○次
有○○巳
有○○作
井○○明
井○○作
伊○○高
押○○雄
押○○次
押○○博
落○○一
神○○夫
神○○一
神○○昇

一金○○○○円也
北○○繁
北○○公
小○○晃
小○○孝
小○○雄
小○○正
佐○○一
佐○○治
斉○○助

高○○淳
杢○○市

杢○○雄
八○○進
八○○夫
八○○男
八○○尚

安○○栄
金○○郎

小○○郎
小○○清
小○○一
小○○一
中○○則
広○○雄
広○○治
八○○よ
八○○強
柳○○徳
久○○雄
斉○○進
斉○○洋
渋○○治
渋○○一
田○○夫
長○○志
八○○清
八○○一
八○庄二
八○○郎
八○○男

○○
金○○○○円也
樋○○恭
荻○○松
一金○○○○円也
安○○雄
井○○ミ
小○○次
金○○司
金○○子
金○○弘
金○○郎
串○○美
高○○雄
鈴○○治
八○○司
八○○一
八○○夫
八○○一
八○○雄
八○○志

八○○子
山○○治
山○○一
有○○光
神○○九
高○○好
小○○尚
佐○○治
杉○○普
曽○○夫
日○○好
山○○吾
山○○保
荒○○夫
稲○○二
今○○一
井○○勇
宇○○治
上○○衛
押○○治

萩○○郎
小○○忠
河○○亮
小○○要
小○○次
小○○一
佐○○久
佐○○三
杉○○市
関○○行
瀬○○吾
高○○男
谷○○次
角○○松
西○○一
原○○一
原○○一
樋○○男
広○○吉
平○○光
平○○夫
細○○平
村○○次
八○○豊
柳○○郎
井○○役

金○○郎
小○○ジ

一金○○○○円也
小○○重
鈴○○夫
高○○光
平○○
古○○治
有○○光
雨○○二
飯○○次
市○○
市○○重
市○○幸
小○○三
金○○信
加○○吉
北○○幸
近○○
斉○○雄
神○○一
鈴○○平
高○○店
中○○男
中○○春
原○○男
浜○○一
平○○次
広○○郎
守○○郎
杢○○

杢○○
柳○○博
横○○雄
小○○郎
鈴○○吉
荒○○豊
会○○丸
井○○助
大○○夫
落○○作
金○○次
小○○雄
小○○昭

清○○守
竹○○志
中○○夫
八○○正
八○○雄
小○○雄
小○○生
小○○清
佐○○明
武○○雄
武○○雄
武○○孝
高○○雄
棚○○弘
樋○○郎
細○○強
八○○三
八○○弘
八○○実
中○○郎

○○
○○
一金○○○○円也
小○○雄
佐○○江
三○○美
森○○昇
八○○明
山○○
山○○助

小○○吉
小○○哉
宮○○治
八○○雄
天○○治
浅○○勲
安○○ク
石○○ト
大○○一
中○○ク
平○○カ
平○○保
八○○子
安○○雄
生○○博
落○○雄
金○○弘
小○○利治
小○○貴
紅○○男
三○○郎
八○○粲
八○○平
山○○司
井○○雄
落○○義

小○○男
佐○○男
中○○豊
野○○丸
樋○○次
茂○○三
柳○○子
八○○雄
和○○雄
井○○文
石○○三


一金○○○○円也
加○○久
小○○
佐○○男
佐○○郎
田○○雄
中○○郎
細○○
八○○雄
安○○
飯○○松
大○○正
岡○○春
金○○央
川○○次
木○○水
木○○成
熊○○男
熊○○生
古○○昭
清○○
篠○○雄
曽○○メ
高○○雄
仲○○義
広○○満
前○○雄
松○○
山○○一
小○○屋

一金○○○○円也
金○○治
秋○○
上○○助
大○○二
桐○○誠
国○○典
小○○助
佐○○よ
高○○一
宮○○シ
美○○ン
三○○重
平○○エ
柳○○治

米○○武
瀬○○郎
都○○郎
樋○○ル
秋○○堂

八○○祐
八○○司
榎○○雄
大○○雄
金○○夫

北○○忠
後○○江
篠○○男
城○○男
周○○二
杢○○一
山○○孝
山○○文
阿○○雄
上○○富
小○○平
谷○○穂
一金○○○○円也
小○○作
小○○司
遠○○郎
松○○
阿○○夫
鮑○○敬
愛○○人
石○○爾
金○○良
桑○○幸
小○○登
佐○○彦
城○○夫

塩○○郎
田○○義
中○○明
長○○雄
布○○二
山○○勉
青○○造
歌○○正
内○○一
神○○清
河○○男
金○○吉
小○○明
国○○侃
鈴○○太
田○○次
中○○忠
仁○○雄
花○○明
堀○○次
門○○雄
吉○○正
一金○○○○円也
山○○稔

一金○○○○円也
石○○店

敬称略一区よりアイウエオ順

     注 御芳名につきましては略称とし、その人数の多さを見て戴くことを基調と致しました。御容赦の程、御願い申し上げます。

 神社から「一之鳥居」迄の距離は900メートルもあります。貞享元(1685)年の村絵図では、更にそこから300メートルが加わる1100メートルもある長い参道です。その面影は今でも垣間見ることができます。また、寛文四(1664)年の検地帳には「なみ木ぞえ」、「なみき外」と云った地名の表記もあることから、伝承は確かで、参道の両側には「松の並木」の続いていたことが理解できます。
 参道は真南とか真東に向って延びているわけではありません。また、祭礼の日の渡御の初めと終わりは、必ずこの長大な参道を通ることです。兎にも角にも不思議な参道です。由来の伝承はありません。しかし、多くの町民によって支えられ愛され続けている参道、ロマンに満ち溢れた参道なのです。参道の方向性について、最近分かって来たことは、どうも太陽の運行に関係がありそうと云うことです。

   川尻八幡宮から見た参道の延長上からは
   2月19日頃の「雨水」の日に太陽が昇ること。
  10月23日頃の「霜降」の日に太陽が昇ること。

   一之鳥居から見た龍籠山の方向へは
   8月16日の「盆送り」の日に正面の雄龍籠山の頂上に日が沈むこと。
   8月27日の「川尻八幡宮祭礼の日」に雌龍籠山の頂上に日が沈むこと。

      先祖が残した、こうした「歴史遺産」の事実を地域の共有の財産として
             いつまでも大切にして行きましょう。

                川尻八幡宮
             川尻八幡宮、1100メートルの不思議参道考える
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