もう一人の加藤武雄・小林愛川

 
 
 平成18年11月19日(日) 「もうひとりの加藤武雄が見た島崎藤村論」と題して、加藤武雄を編集者の立場から講演をさせて戴きました。
  場所 城山町民センタ 4階 学習研修室 13時〜16時

 加藤武雄は小林愛川と云う名で島崎藤村論を「文章倶楽部」第4号に発表しました。文学評論は当時としては非常に珍しく草分け的な存在でした。
 左の書籍は戦後まもない昭和21年10月に発刊された「島崎藤村論」です。作者の掛川俊夫は昭和17年学徒動員で召集され、翌年の3月3日、ラバウルよりニューギニアに向かう途中戦死しました。「島崎藤村論」は彼の大学時代の卒業論文で、戦後、家族の深い哀悼と慰めのなかで出版されました。
 彼は、「ああ自分のようなものでも、どうかして生きたい。」と「春」の中に登場する藤村の言葉を引用しながら「生きる」ことの大切さを説きました。
 加藤武雄もまた、その事に着目し大正5年8月、「文章倶楽部」のなかで
「島崎藤村」の話を書き紹介しました。「ああ自分のようなものでも、どうかして生きたい。」と・・・・・・
 掛川俊夫は「島崎藤村論」にその事を記載し、参考とした文献を「島崎藤村関係文献」の項に組み入れ「小林愛川」と云う名前を後世に残しました。
 下記「文章倶楽部 第4号」はその全文です。

 
  文章倶楽部 第四号  表紙 大正5年8月発行   文章倶楽部 第四号   目次

  


 


 芥川龍之介「或る阿呆の一生」の中の「四十六 嘘」で、こんな事を記述しました。
(上略)珠に「新生」に至っては、ー彼は「新生」の主人公ほど老獪(ろうかい)な偽善者に出会ったことはなかった。(下略)」と記述したのです。「或る阿呆の一生」は昭和2年、龍之介の死後、「改造」に発表された遺稿の一つで、自殺する約一ヶ月前にその原稿を久米正雄に送りました。人名は彼、彼女、先生などと表記され固有名詞は一切でてきませんが、極めて自伝的色彩の濃い作品となっています。こうしたことから遺書とも云える「或る阿呆の一生」は龍之介の心の動きを知る重要な手がかりとなっています。
 文章倶楽部第4号が発刊された大正5年8月、藤村に例え「新生」の構想はあったとしても未だ発表の段階ではなく、新聞への発表は後の大正7年5月となります。
 藤村の「仏蘭西」行きの理由は、だれもが「もう一度学生時代にかへった積もりで勉強する。」と、そう言った藤村の言葉を信じ、多くの人たちが激励と声援を送りました。そして、その事実は、東京朝日新聞いきなりの発表、「新生」によって砕け散ります。つまり、姪こま子との妊娠だったのです。藤村への評価はここで大きく分かれますが、その後藤村は「夜明け前」や子供たちのために「力餅」と云う不朽の名作を残しました。

   大正7年4月5日、次兄広助妻あさ死去46才。
       5月   「
新生」第1部(5月1日より10月5日まで)「東京朝日新聞」に連載、広助と義絶した。
       7月   こま子が台湾の長兄秀雄のもとに去った。

      10月   麻布飯倉片町に転居。

 編集者、小林愛川こと加藤武雄は、そのことを既に予想していたのか、藤村が若かりしころに発表した、「落梅集」の中から「労働雑詠」を引用、最大のエールを送りました。そして「すべての芸術家は、勇敢なる戦士でなければならぬ。最もすぐれたる芸術家は最も勇敢なる戦士である可きである。而して彼は正しくそれであった。彼の生涯は、最もよき芸術家の生涯であった。」と結んだのです。

             加藤武雄の年譜
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