古里の小宮山清三を歩く
                                  2016・1・20  作成
 「津久井郷土資料館に保存されている11枚の写真を手がかりに、武田久吉博士の一生を訪ね、現在も年譜作りを続けています。そうした状況の中で、武田博士の資料整理をしているうちに、福島県桧枝岐村が所蔵する目録の中に、小宮山清三さんが、武田久吉博士宛に差し出した「郵便はがき」が出てまいりました。
 小宮山清三さんのことについては、小さい頃から父や母からも、また姉たちからも聞いていました。詳しいことは、子供心に分かりませんでしたが、いつ聞いても小宮山清三さんのことを、名前のまま呼ぶのではなく、いつも「小宮山清三さん」と呼んでいました。
 小宮山清三さんを顕彰する石碑は見上げるように大きく、碑文を最初から最後まで読み切ったことは一度もありませんでした。只、四番目の姉の家に、古関の大工さんが、木喰上人の微笑仏に似せた木彫りの像を床の間に置いていたことから、木喰仏がどのようなモノか興味を持っていました。これは私が高校生の頃の話ですが、碑文の真ん中あたりにその「木喰五行上人」の刻字があり何となく近親感を抱いていました。
 でも、何といっても私は、小宮山清三さんの敷地内にあった池田保育園に通っていました。そうしたことから、保育園の入口は小宮山清三さんの家の玄関口の横を、いつも通って保育園の中に入って行ったのです。そして、保育園の先生は、T先生、K先生、そして、何と一番上の姉でした。

これから書いて見たいと思っていること
 @ 荒川の自然堤防と灌漑用水路について
 A 平瀬浄水場と千代田湖の放水法について
 B 近代の消防理論とチャンカリン(夜警)
 C 村松志孝先生と山梨の農民文学
 D 木喰上人と民芸運動について
 E 小宮山清三と甲州の山々
 F 御岳昇仙峡の開発とその喧伝の方法について
 G 小宮山清三の思想と行動

撮影 大正13年11月 小宮山清三さんから送られた、昇仙峡での記念写真(部分) 武田博士 (右)
      小宮山清三顕彰碑 (金石文)



















     河西豊太郎題額
君名ハ清三芒西ト※1ス 明治十三年六月二十七日中巨摩郡西野村長谷部真三君ノ二男ニ生ル二十六  
年八月同郡池田村小宮山民平氏ノ養子トナル天資(てんし)濶達(かったつ)雄辯(ゆうべん)人ヲ服ス二十七年四月山梨縣立中學校
ニ入り三十二年三月卒業ス 翌年九月東京早稲田専門學校ニ入リ政治經済法律ノ諸學ヲ修メ三十六
年七月卒業シ翌年更ニ法律學ヲ専攻シ三十八年四月同郡南湖大木親氏ノ三女五百子ヲ娶ル三十
九年十二月近衛師団歩兵第一聯隊ニ入営累進シテ歩兵少尉ニ任シ正八位ニ叙セラル翌年村会議員
ニ當選大正三年四月村長ニ就任ス四年池田耕地整理組合長トナリ整理面積百五十四町一反歩ニ及
フ又地下水ヲ利用シテ灌漑(かんがい)ニ便ニシ更ニ甲府市上水道擴張ヲ計畫ス今日ノ實現ヲ見ル其懸案ニ因
ル所多シ同年四月同村消防組頭トナル爾來消防ノ發達ヲ圖リ諸縣ヲ遊説シテ斯道ノ確立を鼓吹(こすい)
推サレテ大日本消防協會本部理事同代議員并ニ縣副支部長ノ重職ニ膺(あた)リ著書数種アリ其功(すくな)カラ
(けだ)シ消防山梨ノ名君ニ負フ所大ナリ 昭和六年十月縣会議員ニ當選シ七年十二月縣會議長ニ任シ  
又柳宗悦氏等ト木喰五行上人ノ遺業ヲ顯彰シ資ヲ損ツルコト大ナリ又同志ト山梨開發協會ヲ創立
シ縣下交通機関ノ完備ヲ圖リ或ハ御岳昇仙峡ノ宣傳ニ努メ其他社會事業に盡瘁(じんすい)ス八年十月一日講 
演ノ途次病ヲ獲十一月四日遂ニ起タス享年五十四ルト知ラサルト人哀惜(あいせき)セサルナシ 十四日遺功(いこう)
ヲ追頌シ行フニ消防葬ノ禮ヲ以テス事天聴ニ達シ位三級ヲ進メ從六位ヲ贈ラル榮ト謂フ可シ嗣
子一男君醫學博士トナリ醫業ヲ開キ彌榮ヲナス君後アリ以テ瞑ス可シ茲ニ同志胥謀(あいはか)リ碑ヲ建テ遺   
徳ヲ後世ニ傳ヘント欲シ予ニ文ヲ需ム予君ト交アリ仍テ梗概(こうがい)ヲ叙シ係(かかわり)クルニ銘ヲ以テス銘ニ曰(いわ

   説防火   守家護郷    敢然赴急    義氣昴揚     開發交通    卓見※3
   心慕五行   顯彰放光    至誠報國    濟※4徳芳    嘉名千古     譽永昌
                                  蘆洲村松志孝撰
   昭和二十八年十一月                      宕隠吉田英一書

※1     号+乕 号の俗字
天資
(てんし) うまれつき。天性
濶達
(かったつ)度量が大きくて、小さな物事にこだわらないさま
雄辯
(ゆうべん)人を感銘させるような、堂々たる弁舌。弁舌が力強くてすぐれていること。
灌漑
(かんがい) 水路を作って田畑に必要な水を引き、土地をうるおすこと。
鼓吹
(こすい) 意見や思想を盛んに主張し、相手に吹きこむこと。
蓋シ(けだし)  物事を確信をもって推定する意を表する。まさしく、たしかに、思うに見って
盡瘁
(じんすい) 全力をつくし、時分のことはかまわずに苦労すること
ルト(しると) 見分ける、知識を得る、認識する、などの意味の表現。
哀惜
(あいせき)  人の死をかなしみ惜しむこと 
遺功(いこう) 死後に残る功績。
至榮
() 栄誉の極み
嗣子(しし)   家を継ぐべき子。あととり。
梗概
(こうがい) あらすじ。あらまし。
(つと)  ずっと以前から。早くから 読み (シュク)
※3
○  水ヘン+突

※4○ 
?芙 不明→美
譽永昌 威が咸にも判読できましたが、ここでは威と表記いたしました。
    河西豊太郎題額
君名ハ清三芒西ト※1
明治十三年六月二十七日中巨摩郡西野村長谷部真三君ノ二男ニ生ル
二十六年八月同郡池田村小宮山民平氏ノ養子トナル天資(てんし)濶達(かったつ)雄辯(ゆうべん)人ヲ服ス

(明治)二十七年四月山梨縣立中學校ニ入り三十二年三月卒業ス
翌年九月東京早稲田専門學校ニ入リ政治經済法律ノ諸學ヲ修メ
三十六年七月卒業シ翌年更ニ法律學ヲ専攻シ
三十八年四月同郡南湖大木親氏ノ三女五百子ヲ娶ル
三十九年十二月近衛師団歩兵第一聯隊ニ入営累進シテ歩兵少尉ニ任シ正八位ニ叙セラル

翌年村会議員ニ當選大正三年四月村長ニ就任ス
四年池田耕地整理組合長トナリ整理面積百五十四町一反歩ニ及フ又地下水ヲ利用シテ灌漑(かんがい)ニ便ニシ
更ニ甲府市上水道擴張ヲ計畫ス今日ノ實現ヲ見ル其懸案ニ因ル所多シ

同年四月同村消防組頭トナル爾來消防ノ發達ヲ圖リ諸縣ヲ遊説シテ斯道ノ確立を鼓吹(こすい)
推サレテ大日本消防協會本部理事同代議員并ニ縣副支部長ノ重職ニ膺(あた)リ著書数種アリ其功(すくな)カラ
(けだ)シ消防山梨ノ名君ニ負フ所大ナリ 

昭和六年十月縣会議員ニ當選シ七年十二月縣會議長ニ任シ  
又柳宗悦氏等ト木喰五行上人ノ遺業ヲ顯彰シ資ヲ損ツルコト大ナリ又同志ト山梨開發協會ヲ創立
シ縣下交通機関ノ完備ヲ圖リ或ハ御岳昇仙峡ノ宣傳ニ努メ其他社會事業に盡瘁(じんすい)

八年十月一日講演ノ途次病ヲ獲十一月四日遂ニ起タス享年五十四ルト知ラサルト人哀惱惜(あいせき)セサルナシ 

十四日遺功
(いこう)ヲ追頌シ行フニ消防葬ノ禮ヲ以テス事天聴ニ達シ位三級ヲ進メ從六位ヲ贈ラル榮ト謂フ可シ
嗣子一男君醫學博士トナリ醫業ヲ開キ彌榮ヲナス君後アリ以テ瞑ス可シ
茲ニ同志胥謀(あいはか)リ碑ヲ建テ遺徳ヲ後世ニ傳ヘント欲シ予ニ文ヲ需ム予君ト交アリ仍テ梗概(こうがい)ヲ叙シ係(かかわり)クルニ
銘ヲ以テス銘ニ曰(いわ

  説防火   守家護郷   敢然赴急   義氣昴揚     開發交通    卓見※3
  心慕五行   顯彰放光   至誠報國   濟※4徳芳   嘉名千古     譽永昌
                                     蘆洲村松志孝撰
    昭和二十八年十一月                        宕隠吉田英一書
漢詩訳 西川圭三
   西川先生は現在、精力的に尾崎萼堂研究を進められており、中でも、咢堂の作詩された漢詩の全訳に努められておられます。

  夙説防火  守家護郷   敢然赴急 
 (夙(つと)に防火を説き 家を守り、 郷を護り、敢然(かんぜん)として赴くこと急なり。)
 (早くから防火の必要性を説く。防火に努めることにより、家を守り、故郷を護る事になる。
  防火のためには、自らすすんで、いち早く防火活動に赴いている。)
  註
【夙】夙に(つとに、早い、いち早くの意)
敢然】思い切って事をするさま。「敢然と難局に当たる」

  義氣昴揚   開發交通  卓見

  (義氣は昴揚し、交通を開發する。卓見を深蔵す。
  (正義感、義侠心が強く、常に人のため、社会のために尽くそうと努力しているひとであった。
  また、早くから交通機関の発達と充実の必要性を説き、率先してその実現に努力をしたという。
  それは、先見性のある、優れた考え方や意見を心の中に持っていた人でもあったからである。)


  註



【義氣】正義を守る心。義侠心。
【昴揚】高まり、強くなること。高め強めること。
【開發】開きおこすこと。現実化すること。実用化すること。開発
【卓見】他をぬいて、すぐれた考え。優れた意見、考え方。
【深蔵】心の底深く持っていること。

  心慕五行  顯彰放光  至誠報國 
 (心は五行を慕う。顯彰、光を放ち、至誠、國に報ふ) 
 (木喰五行上人を慕い、彼の功績は世に燦然たる光を放ち、
  国家、社会のために尽くす彼の誠実な真心は多くの人の心を打つ。
  また、国家、社会のために進んで尽力している姿は多くの人たちの知る所である。)

  註


【顯彰】その功績を世に知らせ、明らかにすること。
【放光】燦然と光を放つこと。
【至誠】この上なく誠実なこと。まごころ。
【報國】国家、社会のために尽くし、その恩に報いること。

  
濟美徳芳   嘉名千古   威譽永
 (にして徳は芳し。 嘉名は千古にして咸譽は永昌なり)
 (彼の人徳を多くの人々に讃えられ、その名前も、また功績も、世に消えることなく、永久に残されている。)
  註








濟美】美しく、清らかである。
徳芳「徳」は、社会的に価値のある性質。善や正義にしたがう人格的能力。
     「」薫る、香る、芳しい。その人徳を世の人々に讃えられている。
嘉名
良いとして褒め讃える名前。
千古】何時までも消えることのないこと。
は威力、誉は名誉、誉れの意、世に残した功績の大きさ。
】昌は明かの意、世に消えるひとことなく、明かであること。


「木喰・五行上人
」(もくじき・ごぎょうじょうにん) 1718〜1820、五行上人は、江戸後期の遊行僧。甲斐の人。
晩年に日本回国と千体の仏像を発願し、日本全国に特異な仏像を遺す。
「木喰」とは、五穀を断ち、木の実を食べて修行する僧を指す。こうした僧を「木喰上人」と呼ぶ。

参考資料
 小宮山清三氏の著作
  小宮山清三著「消防と団体禁酒」 大日本消防学会 発行 大正15年9月  pid/917757 閲覧可能
  
小宮山清三著 「農村消防の革新」 大日本消防学会 発行 大正15年10月 pid/925944  閲覧可能
  小宮山清三著「消防道要領」 非売品 発行 大正12年8月  pid/979534 閲覧可能
  模範消防指導大綱/消防応用動作の価値/農村消防の現状と消防/
大日本消防協会編「大日本消防. (3) 御親閲記念號(2)」 小宮山清三著「感激の聲」 1929-02 pid/1482860
大日本消防協会編「大日本消防. 4(6)」小宮山清三著「最後まで握つた消防旗―峽中美譚」 1930-06 pid/1482876
大日本消防協会編「大日本消防.5 (1)」小宮山清三著「消防戰の三つの時期(一)」 1931-01  pid/1482883
大日本消防協会編「大日本消防.5 (2)」小宮山清三著「消防戰の三つの時期(二)」 1931-02 pid/1482884
大日本消防協会編「大日本消防.5 (5)」小宮山清三著「消防戰の三つの時期(三)」 1931-05 pid/1482887
大日本消防協会編「大日本消防.5 (6)」小宮山清三著「消防人より見た消防服制 」 1931-06 pid/1482888
大日本消防協会編「大日本消防. 7(11)」 噫、小宮山C三君 / 歯惟一カ ・故小宮山C三氏略歴 1933-11 pid/1482917
大日本消防協会編「大日本消防. 7(12)」 哀悼 小宮山C三君・壯嚴盛大なる消防葬・弔辭―(大日本消防協會長山本達雄) 
     小宮山君の死を悼む / 松井茂 ・だん〔ダン〕寂しくなる / 勝田彌吉 ・偉人小宮山氏を憶ふ / 水野鐘三
1933-12 pid/1482918
  この外雑誌「消防時代」・「開発」・「雪煙」・「木喰上人研究会報」等に論文、随筆が多数あり。 

 小宮山清三氏に関する主な著作   
  内藤好文著 「郷土の偉人小宮山清三」 昭和三十六年十月 発行/資料提供 市川三郷町立図書館 
  文部科学省教育課程課・幼児教育課 編 「初等教育資料. (661)」  発行 1996-12 pid/7897738
中学校 山梨県 消防の父小宮山清三 / p248〜250
中学校 山梨県 地方病とのたたかい / p226〜228
中学校 山梨県 いのちの輝き--ハンセン病救済に生涯をかけた女医 / p229〜231
中学校 山梨県 二人の力--イチノセグワの発見と普及 / p232〜234
中学校 山梨県 花かげの詩--大村主計 / p235〜237
中学校 山梨県 情熱の人--近藤喜則(きそく) / p237〜240
中学校 山梨県 ワインにかけた二人 / p240〜242
中学校 山梨県 貧しくとも心けだかく / p243〜245
中学校 山梨県 トンネルの向こうに--新倉堀抜にかけた永島安竜 / p245〜247
中学校 山梨県 消防の父小宮山清三 / p248〜250
中学校 山梨県 内藤清右衛門と『甲斐国志』 / p250〜252
中学校 山梨県 種まく人 / p253〜255
中学校 山梨県 秋のほたる--生命を見つめて生きた文人飯田蛇笏 / p255〜258
これから
 姉はその当時、池田青年団の副団長をしていました。休日になると、団員と共によく山に登っていたようです。夏の日だと思っていますが、私がまだ、保育園生の頃、内藤好文先生が、姉を訪ねて我が家に訪ねて来られたような記憶がありますが、よく覚えていません。その頃の私は、柿の木の上に小屋を作ったりして遊んでいました。
 遠い遠い、夏の日の思い出です。その後、私は実家に帰るたびに、小宮山清三さんの大きな石碑を眺めているものの、ただ、ただ『大きな碑だなあ。』と碑の大きさに感心するばかりでした。
 その後、四番目の姉の家の床ノ間に、木喰上人に似せた木像が置いてあり、何となく微笑んでいる木喰仏に興味を持ち始めました。そして、京都の八木町や宮崎の国分寺等を訪ねるようになり、だんだんと近世の民間信仰全体にも研究の幅が広がり、次第に深見にはまって行きました。と云っても、概要のほんの概要程度の存在で、研究の入り口でしかありません。
 私の、心の中にはいつも、小宮山清三さんのことがあり、いつかあの大きな石碑の解読をしてみたいと考えておりました。そうした事を、Kさんに相談したところ、どこからか沢山の資料を送って下さいました。
 また、市川三郷町立図書館の一ノ瀬さんからは、「郷土の偉人小宮山清三」の石碑に関わるコピーを、さらに驚いたことに、石碑の写真まで撮影され、見易く引き延ばされて送って下さいました。
 碑文全体の訳と後半部の漢詩の部分では、日頃から、御指導戴いている、西川圭三先生にお願いしたところ、快く引き受けて下さり、碑文の全容を解き明かすことができました。
 市川三郷町立図書館から贈られた「郷土の偉人小宮山清三」のコピーには、色鉛筆でのチェックと傍線の跡が残り、どなたか、ある時期に見比べた形跡を垣間見ることができました。
 碑文の精度については、現物で確かめることが一番ですが、何しろ石碑が大きすぎ、現在のところは写真から判読する方法でしかないように思われます。近年の調査では、平成五年三月一日発行の「甲府市市史編さん委員会」による「甲府市史調査報告書5 甲府の石造物」が最善と思いましたが、判読した漢字が、当用漢字に(例・辯學經濟→弁学経済)置き換えられていたこともり、また誤植も一部見つかったことから、本ホームページでは、市川三郷町立図書館で撮影して下さいました写真を元に再現に努めました。
 御協力下さいました皆様にあらためて感謝申し上げます。
武田久吉博士(年譜)からの写真
木喰上人の生涯とその研究史
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