木食上人 
作成 2008.2.8 
更新 2008・8・16


 甲州の若い友人のI君やF君が、是非遊びに来るやうにと再々と勤めるので、どうにか仕事を繰合わせ、一泊の予定で甲府行きに乗ったのは、十一月の二十一日の事だった。
 隣国の相模に生まれて、郷土的感情に共通なものを多分に有ってゐるせゐか、僕の知人には甲州人が多い。
 文壇にも、縁の深い先輩のM氏やN氏は甲州人だし、後輩の側では、在京のS君T君K君など、他に郷里にゐて文学の道に精通してゐるI君、F君、その他誰々と数へて見ると十指にも余るであろう。文壇的交友以外にも、四五人はある筈だが、その中で、親しみ深い感じで思ひ出されるのは近藤君夫妻である。二三年前、夫妻共相ついで歿したので、今はもう完全に思ひ出の中の人となってしまったが、近藤君といふ人は実に面白い人であった。
 不思議な偶然からか近藤君と相知ったのは、もう彼是二十年前の事である。その時分、近藤君は、門燈の文字を書くのを仕事にしてゐた。畫家志願で、畫の修業には相当年期を入れたらしいが、一家を成すには至らなかった近藤君は、手先の器用さから、そんな妙な仕事に、糊口の道を見つけてゐたのである。門燈の丸ボヤの文字を、普通なら外側に書くのだが、近藤君は内側から書く。軸を鍵形(かぎなり)にした筆を、ホヤの中に入れて、なかなか見事な文字を書く。内側から書くので、雨にも消えず、墨で書くから書直しもきく、といふので、仲々評判が良く、牛込から小石川にかけてを縄張にして、註文をとって歩いてゐた。細工町の、路地裏の三間ばかりの家に、細君と二人でくらしてゐたが、その頃矢来にゐた僕は、時々、そこへ出掛けて行った。
 顔一面の薄あばたで、それ故、片方の眉が切れ切れになってゐるやうな近藤君は、詰襟の、黒い小倉の職工服を着て、あぐらの中にホヤを抱(かか)へ込み、冗談口を利きながら、ちょこちょこと筆を動かしてゐたが、時々、昴然とその切れ切れの眉をあげて、
「私も、こんな事をしちゃゐられないんだがー。」
 とその芸術への熱情を吐露するのであった。近藤君の理想は、一度帝展に入選することにあった。
「来年こそ、やりますよ。今年は是非と思ったが、矢張飯(めし)に追はれるもんですからね。」
「矢張、運ですよ。」
 と、傍から、細君が嘆息した。
「此の人も、ずゐ分繪の方じゃ苦労したもんですが、何分運が悪いのでね。」
 女中奉公をしたりして、夫に畫の修業をさせたいといふ細君は、近藤君より年齢も二つ三つ上らしく、飽迄も夫の才能を信じ、いつか屹度、夫が畫壇に名を成す日の来る事を夢見てゐるのだった。小柄な色の黒い、口も手も小まめに動く、模範的な世話女房とも云ふ可き女だったが、そこに脂肪の塊(かたまり)が出来る妙な病気を有(も)ってゐて、いつも臨月のやうな腹をして、息苦しげに嘆いてゐた。
 私もその頃は、文壇に出ようとあせってゐたが、生活の為にの仕事に忙しく、時々隙を見ては試る習作にも自信が持てず、悶々として日を送ってゐた際だったので、一種共鳴的な気持ちから、親しく往来してゐたのだが、会ふと、よく碁を打った。
「どうです?一丁。」
「然うですね。今日少し忙しいんだがー。」
 などと云ひながら、二人は碁盤に対ひ合った。近藤君の方が二三目強かったが、双方、ろくろく定石も知らない大へんなへぼ碁だった。
 斯うしてはゐられない。こんな事をしてゐる間に、あの書きかけの小説を二枚でも、三枚でも書かなければと思ひながらも、ついパチリパチリと夜を更かして了ふ。へぼ碁であるだけに合戦は迚(とて)も猛烈で、打ちながら口喧嘩も、同様仲々猛烈である。
「かういったら、どうだ?此のヘボ奴!」
「こっちがヘボなら、そっちもヘボだ。」
「斯う行け!此のヘボ!」
「しんなら、斯うだ。此のヘボ!」
血眼になって、石が碎(くだ)ける程、叩きつけながら、ヘボー!ヘボー!の掛合いなのだ。
ヘボー!ーと云ひながら、それは碁の相手を罵(ののし)っているのでは無い。三十近くになって、処女作一つ書けずにゐる自分を、そして暢気らしく碁など打ってゐる自分を罵ってゐるのである。近藤君の方も、屹度同じ気持ちだったに違ひ無い。
「どうだ、これで死んだらう?」
「どっこい、さうは行かんぞ。」
「死んでしまへ!」
「死んでしまへ!」
 近藤君の細君は、その腫物で大きくなってゐる腹を撫でながら、少し心配さうな顔をして云ふのである。
「まあ、何ですよ。まるで、つかみ合ひ見たいに!」
 さう云はれると、とてつもなく殺気立ってゐる自分に気がつき、互ひに顔を見合はせて、
「は、は、はー」
「は、は、はー」
 と笑ひ出してしまふのである。
 そんな交際が二年ばかり続いた後、近藤君は、郷里の老父の死に会って、甲府の生家へ引込む事となった。十幾年の辛苦も空しく、遂に功を成すに至らずして東京を去ることは、何程残念だか知れなかったらうが、一面にはやうやく安息の時を得て、やれやれと息を吐(つ)くといふ風も見えた。近藤君はもうかなり疲れてゐたのである。
 お互い筆無精なので、年賀状のやりとりぐらゐで四五年経った。そのうちに、書いたものがぼつぼつ活字になり出し、何うにか文壇の一人として登録されるやうになった私は講演会に招かれて甲府へ出掛けた。停車場へ出迎への人達の中に、近藤君を見出した時は嬉しかった。生家に帰った近藤君がどんな生活をしてゐるかを、その時までは知らずに居たが、訪ねて見ると、郊外に近い溝川などの多い陰気な町の小さな家で、提灯張りをしてゐるのだった。
「電球から提灯へ、一時代逆戻りといふわけです。」
 と、近藤君は笑って見せて、
「しかし、私(わし)もやりますよ。来年こそ、屹度帝展へ出します。私(わし)は御嶽の松を描かうと思ふ。御嶽の松を百本も、スケッチしましたからね。」
 さういふ近藤君の顔には、弱々しい微笑の底から血の色がのぼって来た。
「本当に、此の人も、此方へ来てからすっかり呑気になって仕方がありませんよ。」
細君が、傍から苛立(いらだ)たしさうな調子で云った。勝気な細君は、とかく怠(なま)け勝(がち)の夫を、歯がゆがしく思ひながらも、夫の天分に対しては確乎たる信頼を持って居るらしかった。近藤君は、細君の信頼によって、辛くも、その失はれようとする自信を繋ぎ留めてゐるといふ風に見えた。同時に細君の過大な信頼が、背負ひきれない重荷として、近藤君を苦しめてゐるのじゃ無いかとも思はれた。これは前からの事であるがー。
 そのあくる年、近藤君は、帝展に落選した屏風を私の家に擔ぎ込んで来た。御嶽の松を描いて、水墨の面白さを出さうとしたのだといふ事だったが、どうも、何とも合点の行かぬ作だった。
 それから又一年ばかり経つと、突然、近藤君から手紙が来た、絵の方はしばらく中止して、陶器(やきもの)をはじめた。御嶽の土を採って研究し、立派に陶器が出来る事を発見して、苦心の結果を漸(ようや)く二三の試作を得た。市の有力者達からも大いに認められたので、これから大々的に製出する筈(はず)。命して甲斐嶺焼。郷土の土に生命を吹き込んだ郷土芸術として、この方面でも一旗、上げられさうだーといつになく意気軒昂たる調子で書かれてゐた。その手紙がどんなに私をよろこばせたかは云ふ迄も無い。しばらくしてから、再び甲府へ出かけると、近藤君は庭先に竃をつくって、泥まみれになって働いてゐた。こんなに生気のある溌刺とした近藤君の姿をはじめて見たと云ってもよい。細君の顔も輝いてゐた。作品も粗剛な感じの中に雅致を含んだ面白いものだった。市の商品陳列所に並べたり、停車場の売店に出したりして、経営的にもどうにかなって行くといふ事だった。私は、茶碗を一つ貰って帰った。
 だが、矢張り躓(つまず)きが経営の方面に来たらしい。竈におろす資金が無いので困ってゐると云って、合力を求めて来たりしたが、そのうち、細君の死が報ぜられた。つづいて、近藤君がふらりと訪ねて来た。甲府を引上げて、川崎の親戚の家に来てゐるのだといふ事で、甲斐嶺焼の話はもうあまりしなかった。
「あいつも、うるさい女でしたが、死なれて見ると、すっかりぼんやりしてしまひましてね。」
 さう云って笑って見せた近藤君は、酷く淋しげで、何だか影が薄いやうに思はれたが、それきり、又一年ばかりの間何の消息も無く打過ぎた。さうして、近藤君の訃を人伝に訊いたのは、死んだ時から、半年も経ってからの事だった。
 子供もなければ兄弟も無く、まるで遺族といふものの無い近藤君の事とて、くやみを云ってやる術(すべ)も無かった。−近藤君から貰って来た茶碗は、思ひ出して探して見たが、見つからなかった。心無い女中の手で、缺(か)かれて、塵芥箱に投げ込まれて了まったのであらう。
 併し、私は甲府へ行く汽車の中で、以上の回想を辿って居たわけでは無い。私の心は今自分を迎へて呉れようとしてゐる若い友人のI君やF君の上にあった。傷ついた若鷹のやうに病床に悶えながら東京を夢みてゐるI君や、毎月一篇位の習作に、根気よく居村の農民生活を描いているF君や、それ等の人達のことに思ひをあつめて、奮き友近藤君の事は、つい、思ひ出しもしなかった。



 I君とF君とは、その他二三の人達と共に勝沼まで出迎えて呉れてゐた。何よりも、案外に元気らしいI君の様子が嬉しかった。
 その晩は、市外の鉱泉宿に泊まる事としたが、I君やF君の肝煎で小さな歓迎会のやうなものを開いて呉れる手筈になってゐるといふので、一寸恐縮な気持ちがしながらも、市中の或る料亭へ伴はれて行った。土地の有力者といふような人達や、新聞関係の人達や、それに若い娘さん達も交って二十人あまりの人々が集まっていた。
 Mさんといふ人は、女学校の先生をしながら、歌を作ってゐて、地方の歌壇には相当重きを成して居り、万葉の研究にも深いものがあるさうで、近著「東歌和解」を一冊贈られた。Sさんとは、兼ねてからの馴染みだったが、古い時代の「文章世界」の投書家で、五十に手が届く今になっても、まだ文学への情熱を失はぬやうな人で、筐低に蔵してゐる未発表の長篇に就いて語られた。かういふ人達のもった根強い眞摯さは、いつも私の心を撃つ。私は、しきりに盃を重ねさせられて陶然と酔ひながらも、胸の中にぽっかりと空洞の出来たやうなわびしさを、如何ともしがたかった。若干の空名に駕する売文生活。一篇といへども、眞に自ら好むところを題した事が無く、一行といへども自ら題して書いた事が無いやうな売文生活。その売文生活の無意味さが、犇々と省(かへり)みられて来るー。
 恵比寿講音頭とかいふ賑やかな芸者の踊りを見たりして、さて、愈々(いよいよ)お開きといふ時になって、S君が卒然として云った。
「あなたに一つお土産を持って来ましたよ。荷厄介かも知れませんが、お持ち帰り下さい。」
「何ですか?」
 といふと、Sさんは、風呂敷包みの中から、一箇の焼物を出して見せて、
「近藤君の遺作です。ご存じでせう。甲斐嶺焼といふ、あれです。」
 丈が五六寸もある老人の像なのである。褐色の土の色に一寸木像のやうな味があるが、手にとって見ると、酷く重い。
「郷土の偉人だといふのでー。木食上人(もくじきじょうにん)ですよ。近藤君の会心の作らしいのです。」
 私は感謝してそれを受けた。が立ち際なので、近藤君の事を話し会ふ暇も無かった。Sさんは、近藤君と少年時代からの友達なのであった。私はNさんから貰った「東歌和解」と、その重い木食上人とを持ってそこを出た。

山梨日日新聞 昭和9年11月22日付
 あくる日も小春らしいいい日和で、私は、I君やF君と、武田神社へ参詣したり、甲府の銀座といった通りを散歩したり、甲府にもなかなかいい娘がゐるといふ喫茶店に寄ったりして、午後の汽車で、帰途に就いた。私は汽車の中で木食上人をとり出した。そして、恐らく、菲薄な天分をしか有たなかった近藤君の、精一はいの作品であるそれを眺めて見たり、撫でて見たりして、
「兎に角、これは芸術だ!」と思った。
「いや案外、これですばらしいものなのかも知れない。後世になったら、掘出しものとして珍重されるやうな、そんな代物(しろもの)であるかも知れないー。」
 と、さうも思った。すると、あの近藤君の薄あばたのある、疎らな無精髯を生やした顔が、伝統
の中の名人たちのそれのやうに思ひ浮かべられて来た。同時にその木食上人の、細かい三日月形(なり)の眼のあたりが、どこか、近藤君に肖てゐるやうにも思はれて来た。作品の中に作者の面影が宿ることは極めて自然なことだとすれば、思ひ做(つく)しとばかりは云へないであらうー。
 何かひどく煩(わずら)はしい気がして来たので、私はそれを網棚の上に抛りあげ「東歌和解」をよみながら、汽車の時間を消した。
 新宿に降りた時、うっかりそれを置き忘れ、あはててとりに戻ったりした。
 家に帰って、
「近藤君の作品だ。眼のところなど、近藤君に似ているだらう?」
 と家内に云ふと、
「さうね、近藤さんよりは、あなたに似てゐますよ。お団子のやうな鼻のところー。」
 家内は笑いながら云った。なるほど、さう云はれて見ると、さうらしい。
「あたまの恰好だって、あなたにそっくりじゃありませんか?」
 と、調子に乗っていふ家内の言葉に、
「木食上人に似ればたいしたものさ。」
 私はさう云って苦笑した。
 それ以来、木食上人は、私の机上にどっかりと鎮座してゐる。三日月なりの細い眼、団子のやうに丸い鼻。鼻は兎に角、どうも眼のあたりは近藤君によく肖てゐる。柔和な眼だ。が、どうかすると、ひどく皮肉な眼附になって、それが、にやにやと笑いながらじっと、私を見つめてゐるやうに思はれる時がある。そして、
「此ヘボ奴!」
 と、いきなりさう云ひ出しさうな気がしてならないのである。

  ー略歴ー
明治二十一年五月三日神奈川県津久井郡川尻村に生る。郷里の小学校卒業。八年間小学校教師を奉職。二十三歳の時上京して新潮社に入る。郷土小説「土を離れて」を発表して以来雑誌編輯の傍ら短編集「郷愁」其他数篇及び、長篇小説「久遠の像」「審判」「華鬘」「銀の鞭」「珠を抛つ」「饗宴」「白虹」「嘆く白鳥」等其他三十余餘篇を著す。新潮社々員。  
                     (東京府下砧村成城学園前) 

       「昭和随筆集 第2巻 文芸協会編 日本学芸社 昭和11年4月発行」より

参考:登場人物(予想)と年齢  昭和9年(1934)
登場人物 年齢 生年月日 没年月日  記 事
前田晃 55 1879 1962 「文章世界」を創刊、花袋と二百四冊を発行。
中村星湖 50 1884 1974 代表作に「少年行」がある。
相田隆太郎 35 1899 1987 加藤武雄と「手紙の書き方」を発行。
川会仁 34 1900 1963 29才で新聞文芸社を設立。
一瀬豊 31 1903 1937?・12・6 享年34歳  2008年、七十回忌
石原文雄 34 1900 1971 代表作に丹沢正作を主題にした「太陽樹」を執筆。
村松志孝 60 1874 1974 1901(明治34)年、「南陽雅言」を編集(27歳)
加藤武雄 46 1888 1956 犬田卯と「農民」を創刊。

(一)
縁の深い先輩のM氏やN氏は甲州人 :前田晃、中村星湖

後輩の側では、在京のS君T君K君など  :相田隆太郎、川会仁
他に郷里にゐて文学の道に精通してゐるI君、F君、 :一瀬豊、石原文雄、

私の心は今自分を迎へて呉れようとしてゐる若い友人のI君やF君の上にあった。傷ついた若鷹のやうに病床に悶えながら東京を夢みてゐるI君や、毎月一篇位の習作に、根気よく居村の農民生活を描いているF君や、
(二)
Mさんといふ人は、女学校の先生をしながら、歌を作ってゐて、地方の歌壇には相当重きを成して居り、万葉の研究にも深いものがあるさうで、近著「東歌和解」を一冊贈られた。:村松志孝


          加藤武雄の年譜
          加藤武雄農民文学の扉
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