加藤武雄、犬田卯(しげる)
        「農民」を創刊

                                作成 2008・9・15

昭和元年(12月25日改元)(1926)
      6月、藤森成吉、加藤武雄、木村毅編纂「農民小説集」を刊行。
      8月、加藤武雄、「農民文芸の研究」を犬田卯(しげる)と共著で「春陽堂」から刊行。
昭和2年(1927)
     10月、農民文芸会の機関雑誌 「農民」、編集者犬田卯・発行者加藤武雄で創刊。
昭和3年(1928)
      6月、機関雑誌「農民」が、六月号で突然終刊(通巻9号)となる。
資料 加藤武雄はこんなたとえ話をもって嘆いた。「僕は一人で重い荷物を引いて坂道を登っているつもりだった。 ところが、途中でふとうしろを振り返ると、荷車に誰も乗っていないじゃないか。これにはがっかりしたね。」
   加藤武雄年譜より抜粋

小作争議のはじまり
 「米騒動」は大正7年(1918)年、シベリア出兵を見こした米の買占めや投機によって、米の値段が戦前の四倍にも跳ね上がりました。8月、怒った富山県魚津町に住む漁民の妻たちは、こうした状況に、米価の安売りを求めて立ち上がりました。米価の引き下げや生活難の打開を求めようとしたこうした運動は小作人の小作料引き下げ運動や一般労働者の待遇改善運動とも連動しながら、拍車をかけ全国的な規模に広がって行きました。
 だが、それよりも前から近代の小作争議は始まっていました。
 凶作や風水害を始めとする自然災害の他に日露戦争以後から県営による米穀検査制度が開始されたことです。検査制度に合格するためには労力のかかる乾燥や調製・俵装(二重俵)等、かなりの負担を強いられるようになりました。
 とりわけ、小作農にとって負担がつのりました。地主側は小作米の徴収にあたり上級の合格米を基準にしがちなため、小作農が、それ以下の等級で小作米を納出(供出)するには、量の割増しや差額の負担をせまられる結果となり、全国各地で小作料の延滞や不払い運動が起こり始めていたのです。
(検査の等級は、産米検査を甲・乙・丙・不合格の四級、移出米検査は、一等から四等および不合格の五級に区分されました。)
 こうした制度的な問題や慢性的な不況が原因となって「小作争議」や「労働争議」が繰り返されたのです。
機関雑誌「農民」のあけぼの
 こうした状況のなかで鉱山や工場で働く労働者や地主制度にあえぐ労働者や農民をテーマにした小説が世間の注目を集めるようになってきました。活発化した農民運動は左図でも分かるように離合集散を繰り返しました。お互いの主義主張の違いは時間の経過と共により明確化し分裂を繰り返しました。
 犬田卯(しげる)と加藤武雄で始めた機関雑誌「農民」もそうした複雑な環境をふまえながら昭和2年10月に創刊されたのです。
 発刊の母体は「農民文芸会」で、創刊号には発刊に至るまでの経緯が、「農民文芸会略史」として書き記されています。その最初は大正11年10月、神田明治会館で行われた「フィリップ十三周忌記念講演会」としています。当時、フィリップの名は、日本ではほとんど知られていない状況でしたので彼の愛読者でもあった吉江喬松・小牧近江・中村星湖・井汲清治等が中心となり講演会を発起したとあります。
 そうして、吉江喬松は記念すべき「フィリップ十三周忌記念講演会」の席上、「大地の声」と題しフィリップ及び農民文芸に関する極めて暗示深い講演をされたのです。
 「農民」の発行母体である「農民文芸会」の会員や創刊号に原稿を寄せた人々には様々な、主義主張を持った人々が集まりました。加藤武雄はそのことを熟知してか、「創刊の辞」のなかで「・・・・・・・・私達の集まりがそもそも大同団結であって、各自の個人や思想やに在する小異を問はない一種の自由連合なのである。」と云いきりました。
 活動に参加する人々がみなそうであればよいのですが第1次「農民」も分裂を余儀なくされ昭和3年の6月号で前ぶれもなく終刊となってしまいました。加藤武雄は後年「僕は一人で重い荷物を引いて坂道を登っているつもりだった。ところが、途中でふとうしろを振り返ると、荷車に誰も乗っていないじゃないか。これにはがっかりしたね。」と云って嘆きました。
 しかし、一瀬豊は加藤武雄の思想を真正面から受け入れ、全ての農民に対し「大同団結」を訴えました。
 後年、加藤武雄は結核に病む一瀬豊を山梨県旧上野村の実家に見舞いました。第1次「農民」から既に8年もの歳月が流れていました。
 

      「農民」創刊号 第1卷 第1号 10月号




       「農民」創刊号 第1卷 第1号 昭和2年(1927) 10月号 「創刊の辞」

  
「農民」創刊号に掲載された農民文芸会の会員(募集以前に於ける会員)
人名 主な出来事
一瀬豊 山梨の農民文学者
犬田卯 加藤武雄と機関紙雑誌「農民」を創刊する。
五十公野(いずみの)清一 『庄内平野 豪農本間の曝露』 昭和7.10、「大地主」 国文社 昭17
石川三四郎 フェピアン社会主義者
石原文雄 山梨の農民文学者。五高卒、「風車」の同人(1927.5発足)
原田吟平 農政研究(第5巻 第12号)大正15年8月「農業政策上の原則」、 農政研究(第12巻第1号) 昭和8年1月「統制経済と農家経済の更生」
帆足図南次 中山議秀と「農民リーフレット」を刊行
小野田益三 「一番鷄は鳴く」 (1927年)
岡田怡川 「文化教育学概論」 甲子社書房 1926、「集団勤労の本質及方案」 1938、「体系的国民道徳要領教育大意精義」 太陽堂書店 1925
和田傳 早大卒、新進作家
渡辺信義 農民詩人
加藤武雄 作家
吉江喬松 早大教授、仏文文学者
吉地昌一 農民詩人、「岡田菊次郎伝」 昭和29年5月 安城市役所発行】『萌えいづる草』1928/泰文館書店、『生命線(時局詩集)』1931/日本新論協會、『草原の夢(長篇叙事詩)』1933/泰文館、『愛の門』1934/弘道閣 、「解説二宮尊徳翁全集」 同全集刊行会 昭13
高橋季暉 大正末期から昭和初期にかけて活躍した農民劇作家。「百姓一揆」(長編戯曲) 昭文堂 大15
田中清月 -
竹内愛国 1925年に下中弥三郎を中心に石川三四郎、江渡狄嶺、中西伊之助、竹内愛国、渋谷定輔らによって農民自治会を結成、当初は、石川ら在京知識人と、地域農民とが合同で農村自治運動を高揚せしめようとする運動であった。
大導寺浩一 「最上川の歌」、「ふるさとの馬に」
中村星湖 山梨県出身。日本女子高等学院(現昭和女子大学)英文学教授、「少年行」
中山議秀 早大卒、新進作家
中村孝助 農民詩人、大正14年雑誌『芸術と自由』に「土の歌」を発表して文壇に登場した農民歌人(1901〜74)
牛山平八郎 -
上田久七 都市と農村の娯楽教育 (1938年)
延原政行 無産新聞
大槻憲二 フロイトの研究者
大沢雅休 書家。大槻三好や金子信三郎らと『若人』を創刊。
黒島傳治 プロレタリア文学作家。「渦まける島の群」
國井淳一 『痩枯れた土』1926/文藝日本社、『雜草に埋れつゝ』1929/大地舎
山川亮 大正十年二月十五日秋田県土崎港にて、第一次『種蒔く人』を創刊した同人。「18ページのリーフレット型小冊子」で、同人にフランスから帰った小牧近江や金子洋文、今野賢三、山川亮、畠山松治郎、近江谷友治の六名がいた。三冊で休刊。「泥棒亀とその仲間」
鑓田研一 「満洲建国記」S17、新潮社
眞船豊 「鼬(いたち)」双雅房1935、「山参道」二見書房S17、「裸の町」コバルト社 S21
福富菁兒 詩人、「海の馬鹿」 交蘭社1930、
小山勝清 1918年に堺利彦の門下生となる。その後労働運動や農民運動を経て柳田国男に師事、民俗学に関心を持つ。児童文学の創作で、「少年倶楽部」に『彦一頓知ばなし』でデビュー、「それからの武蔵」や「山犬少年」等がある。
小山啓吾 「教育は教育者の独占物にあらず」 長野県安茂里散鐸会
相田隆太郎 山梨出身の農民作家
佐左木俊郎 「熊の出る開墾地」、「黒い地帯」
佐伯郁郎 内務官僚
湯浅眞正
水野葉舟 1883〜1947。本名盈太郎。東京下谷生れ。与謝野鉄幹の新詩社で無二の親友高村光太郎と知る。明治38年に早稲田大学政経科卒業。窪田空穂の創刊した歌誌「山比古」の同人となり、詩歌を発表。のち自然主義文学の影響により、散文に転じた。『響』『森』等の小品集を刊行する。大正13年文壇を去って千葉県に移住した。
白鳥省吾 詩人
渋谷栄一 農務官僚
柴田劍太郎
日高只一 早大教授、英米文学者
久木今作
(本名 木村荘太)
1918年、婚約者齋藤もとと共に宮崎県日向に赴き、武者小路実篤の新しき村に参加。入村後にもとと結婚。1919年、新しき村を離れる。1920年頃、ロマン・ロランの翻訳に専念。「農に生きる」(1933年)

  機関雑誌「農民」の変遷
区 分 機関雑誌名 発行母体 編集者 発行者 発行期間 発行部数
第一期 農民 農民文芸会 犬田卯 加藤武雄 昭和2年10月〜3年6月号  9冊
第二期 農民 農民自治会 竹内愛国 昭和3年8月〜3年9月号  2冊
第三期 農民 全国農民芸術連盟 鑓田研一 昭和4年4月〜5年10月号  32冊
農民自治文化連盟 犬田卯 昭和5年11月〜昭和7年1月号
第四期 農本社会 農本連盟 河野康 森田重次郎 昭和7年2月〜5月号 7冊
森田重次郎 昭和7年7月〜9月号
第五期 農民 農民作家同盟 犬田卯 昭和7年11月〜8年9月号 8冊

   機関雑誌「農民」の執筆者とその作品数
区分 著者名 記事数 作品数 参 考
第1期 大槻憲二
鑓田研一
帆足図南次
相田隆太郎
一瀬豊
犬田卯
石原文雄
10





未調査
10





未調査
 「創刊の辞」を加藤武雄が執筆した。「・・・・私達の集まりがそもそも大同団結であって、各自の個人や思想やに在する小異を問はない一種の自由連合なのである。」とあるように大同団結による一種の自由連合として「農民」を創刊した。そうしたことから執筆者の間に考え方の幅があり、当初から分裂の様相を呈していた。そうした考え方の中にあって加藤武雄の思想に賛同した一瀬豊は真正面から農民の「大同団結」を訴えた。
第2期 鑓田研一
小山啓
犬田卯
加藤一夫
小川未明
和田傳










 第二次「農民」は、大同団結を呼びかけた相田隆太郎、一瀬豊、石原文雄、更には穏健的な吉江喬松、加藤武雄、日高只ー、白鳥省吾、佐左木俊郎等を一掃、「農民自治会」から「農民」を刊行したが、やがて農民運動を経済闘争と考えるグループと思想啓蒙運動とのグループに分かれた。そして後者のグループのメンバーによって全国農民芸術連盟が誕生、第三次「農民」文学運動に引き継がれて行く 
第3期 犬田卯
松原一夫
鑓田研一
寺神戸誠一
大沼健之助
27
16
14
13
10
19
14

13
 第三次「農民」は農民自治主義思想が浸透し、ことあるごとに反都市、反プロ、反近代が叫ばれていた。思想的対立は更に進み大槻憲二、和田傳等が清算され、「アナーキズム」の理論をめぐって鑓田研一や延島英一と対立、鑓田等は農民自治協会連合を組織して独立。やがて農民自治文化連盟を組織して再出発するが犬田卯もやがて除名されて機関誌名も「戦野」と改められた。
第4期 犬田卯
岡本利吉
森田重四郎
山川時郎
橘孝三郎
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 こうして一連の農民文学運動は事実上終わりを告げた。この後、犬田卯は昭和6年11月に「日本村治派連盟」結成に参画した。そして、昭和7年1月「農本連盟」結成に参加、機関誌「農本社会」を執筆して行く。

第5期 犬田卯
砂丘浪三
住井すゑ子
二宮茂
農民作家同盟








 第5期目の「農民」は犬田卯の個人雑誌といってもいいくらいで他からの拘束を受けずに執筆することができたが、それも8号で消え、農民文学運動は農相有馬頼寧の後援の元、国策に従い新たな局面を向かえて行く。
            上記図表は安藤義道著「犬田卯の思想と文学」から参照させて戴きました。
  
          「農民」創刊号 昭和2年10月発行 奥付

  参考資料
  郷愁の人  評伝・加藤武雄    著者 安西勝   発行 1978・10 昭和書院
  大正文学史    著者 臼井吉見   発行 昭和38年7月  筑摩書房
  週刊朝日百科 日本の歴史113 近代U3 財閥・恐慌・社会運動 昭和63年6月 朝日新聞社
  犬田卯の思想と文学 ー日本農民文学の光亡ー 著者 安藤義道 発行 1979・7 筑波書林
  受難の昭和農民文学  著者 佐賀郁朗 発行 2003・9日本経済評論社
  日本農民文学史   著者 犬田卯   発行 1997・1 農山漁村文化協会
  文学のこと文学以前のこと  著者 中野重治 発行 昭和22年11月 解放社
     ー農民文学の問題 「改造」1931年(昭和6年)5月号ー

          加藤武雄と一瀬豊・農民文学の扉
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