霊随上人に関する研究と今後の課題
                      
                作成 2009・1・18
                追記 2010・1・12
                追記 2010.5・30 無量光寺に霊随上人肖像図を追加
                追記 2010・8・17 藤沢市円行矢崎家掛軸を追加
                追記 2011・3・19 国分寺市伝祥応寺跡出土板碑を追加
                追記 2011・6・29 当麻地区市場で発見の石碑を追加
                追記 2011・10・11旧五日市町の念仏塔を追加
                追記 2012・9・10 参考 一遍上人像を追加
                追記 2012・12・15 飯能市金蓮寺板碑を追加
                追記 2012・12・17 緑区上九沢 梅宗寺の念仏供養塔を追加
                追記 2013・3・23 旧津久井町鳥屋念仏塔の建立にまつわる文書が発見される
始めに
 津久井郡が相模原市と合併になり、その違いや共通性を求めてこれまで取材を続けてまいりました。そうした中で、津久井郡のどこの集落に行っても「南無阿弥陀仏」と刻んだ石碑に出会いました。その数は半端な数ではなく、大きなものもあれば小さなものもあり全てに圧倒されてしまいました。「なでだろう」そう思いながらついついとその石碑群を訪ね親しみを覚えるようになりました。
 現在、調査は途中ですが、ここでちょっとまとめてみることにしました。これまでの調査の結果から名号塔(石碑)には一定の法則のようなものがあるように思えてきたからです。
 そうした調査状況を皆様にお知らせし今後の研究に役立てればと思いながら少しまとめて見ました。
 皆様からのご批判やご意見をお待ちしております。


1 霊随上人名号塔と徳本上人名号塔との違い
    霊随上人名号塔には「一遍上人五十二代 他阿花押」と彫られてあります。「前他阿 五十二
   世」との表記もあり、代と云う刻字の彫られ方にも特長のあることが分かりました。
    遊行寺五十二世との比較研究がありましたが生存期の違いもあり名号塔については無量光寺
   五十二世です
   霊随上人名号塔が一般的だと思いました。
    書体につきましては両上人とに大きな隔たりがあります。花押は霊随上人の場合は「他阿 花
   押」とあり徳本上人の場合は「徳本 花押」となっています。
    徳本上人の花押は大まかに+印があります。霊随上人花押についてはと誤読していた地
   域のありましたが、花押そのものは一般的な形になっています。
    石碑は自然石が多く使われ、特に旧相模原市以南では七沢石が多く使われ、その一部は方形
   状に加工されています。近年の環境の変化により石碑の崩壊が始まっています。


2 六字名号塔の分布状況からの考察   
   旧藤野町は全てが霊随上人名号塔
   旧相模湖町は霊随上人が多く徳本上人名号塔は1基のみ
   旧津久井町は両名号塔が混在している。
   旧城山町は徳本上人が多く霊随上人は1基のみ
   以上の結果から道志川の北側(上津久井)に霊随上人上人名号塔が多く、南側(下津久井)に
  徳本上人名号塔が多く分布していました。
   霊随上人名号塔はこれまでの調査によると藤沢市の北部から旧高座郡全体に幅広く分布してい
  るようです。 


3 霊随上人と徳本上人六字名号塔の境界
   これまでの調査した限りではひとつの集落内に霊随上人上人名号塔と徳本上人名号塔は混在し
  ていないことが分かりました。これは二人の上人がそれぞれ浄土宗の僧侶であったことに起因して
  いると思われます。(霊随上人は元浄土宗の僧侶であった。)
  
そのことを想起させる名号塔が二基、上津久井と下津久井の境界上に残されていました。
   また 、霊随上人の俳句の中に徳本上人を慕う句が残されており、両者の間には住み分けがなさ
  れていたと思われます

  
二基の六字名号塔とは
 
 旧城山町小倉宮原地区  徳本上人名号塔の左側の刻字→  開○ 一遍上人五十二代 他阿花押
  
旧津久井町青根長昌寺   霊随上人名号塔の左側の刻字→  名蓮社號誉上人称阿弥陀仏徳本行者

   上記の石碑にはそれぞれの左側面に徳本上人名号塔の場合は他阿、つまり霊随上人が、また
  霊随上人名号塔には  徳本と刻字が施され相互の繋がりを想起させています。
 
   名蓮社號誉上人称阿弥陀仏徳本行者について、港北区の法華寺にある徳本上人名号塔の背
  面に同文の刻字があります。名蓮社號誉上人とは徳本上人のことで上記の名号塔から両者の深
  い繋がりを認めることができます。
   ○蓮社とは浄土宗僧侶に多くある名となっています。

  天野家文書から「徳本上人念仏塔」と云うことが分かりました。 

施主 鳥屋村  201×96×44 文政3年8月
 この念仏碑には「一遍上人第五十二代 (前)他阿 花押」の表示がないので、果たして霊随上人の名号塔か疑問だったが筆跡や自然石を平らにした堺の文様が旧藤野町篠原の福寿院に刻まれた名号塔と文様と同じだったことから、霊随上人名号塔としてカウントしていたところ、敬友している久保沢の村田さんから明治大学が所有する天野家文書の中に、鳥屋念仏塔建立に伴う文書が見つかったと連絡が入りました。
 詳細に関しては何れ、村田さんから報告があると思うのでここでは、概略のみ記すことにした。
 文書は横冊になっていて表紙には「文政元年 諸控帳  寅七月日」とあり、次に「覚 徳本念仏供養塔 寄附  ○○と続いている。」ここで注目したいのは、霊随上人の筆跡で「徳本念仏供養塔」としている所である。これと同じようなことが文政2年に徳本上人と記して念仏碑が旧津久井町東開戸に建立されている。この名号塔の筆跡は霊随上人の
ものではないが表現方法が類似しています。
 道志川や串川沿いにこうした傾向が強く見られる。徳本上人と霊随上人とがクッションのような役割を果たしながら「住み分け」をしている。その共通性とは何か今後の研究の必要性が高まる。


参考 横浜市港北区師岡町、熊野山金寿院法華寺境内の徳本上人名号塔の金石文

 南面  南無阿弥陀佛 徳本 花押

 西面  願以此功徳普及於一切
     我等與衆生皆共成佛道

 北面  文政元戉寅 年
     名蓮社號誉上人称阿弥陀仏徳本行者 
     十月六日示滅 

 東面


法華寺六字名号塔


 恭惟往生施極楽之教本阿弥陀経西方極楽世界其功徳荘厳最為荘一
 也 弥陀如来摂諸衆生(略)
 (略)                       越南紀
 国日高郡志賀庄櫛村産有曰徳本上人念仏行者也 其神通妙用功徳荘厳
 (略)
 勝数焉 扶桑国中之緇素宰官居士庶民咸無不心服堯茲師岡上下獅子ヶ谷
 樽大豆戸寺尾篠原菊名太尾大曽根綱島宮田山田上下高田林等拾
 六ヶ村之善男女結者日月修浄行有 年焉 嗚呼生者必滅老少不定常哉
 文政元戉寅年星行年六十一歳而十月初六日 於東都一行院終示寂矣於是
 乎社中善男女如失盲者之相如喪生身之父母渇仰慟哭而不止焉 因建立
 (略)
3−1 霊随上人と徳本上人六字名号塔の融合性
 @厚木市内の寺院に地蔵菩薩を挟んで両方に霊随上人と徳本上人の六字名号塔が並んでいる。
 A霊随上人の時代が過ぎると六字名号塔を建立する場合、ある程度の集落がまとまってひとつの
   名号塔を建立している。
   講中の単位に広がりが見られる。瑠璃光寺の徳本念仏碑、岡津古久・吉祥寺境内六字名号塔
 
4 霊随上人六字名号塔の不明なところ

 @年号のない六字名号塔がある
 A筆に勢いのない(草書体)六字名号塔がある
   一遍上人の筆跡だが何故、五十二代と五十六代の上人が建立したかは不明。
   尚、無量光寺には「一遍上人名号掛軸」と「一遍上人真筆掛軸」がある。(一遍、真教)
   掛軸の紐の部分に霊随上人の花押と思われる印が施されている。(研究要)


 当麻山内       新戸河原       花ヶ谷戸      当麻山内
 他阿          他阿 五十六主   一遍         一遍
                    
                                     参考
      
藤野町牧野・牧馬      藤野町小渕 中央高速道南側脇    国分寺市西元町伝祥応寺跡出土の板碑
 文政3年3月        天保三年 女講中          応永二十年 逆修
                                         協力 国分寺市教育委員会


埼玉県飯能市金蓮寺(こんれんじ)
応永七年(1400) 

参考
  
一遍上人像  南北朝時代     一遍上人像    鎌倉時代
    神奈川県立博物館所蔵      藤沢・清浄光寺所蔵
        りの道  NHK・毎日新聞社 平成16年10月 第三版 P47

  
出土の板碑    伝祥応寺跡          手前:塚 中央部:旧鎌倉街道 奥:伝祥応寺跡
 

                                     ↑
 元禄4年(1691年)3月、当寺35世他阿是名上人が「麻山集」を編さん、27の疑問点を「宗門行状記」にまとめ27番目の最後に一遍上人真筆と云われる「熊野万歳峯の名号塔」の事項を書き込み後世に検討の余地を残している。

 B文政 政に装飾性を認める六字名号塔がある
 C密教系の影響を受けた六字名号塔がある
 D自然石の表面に加工を施した六字名号塔がある
 Eこれは何か 相模原市津久井町韮尾根(ニロウネ)、阿弥陀堂跡
   

  
  左右は「講中」 上下は「徳本」
F珍しい名号塔
 相模原市当麻 無量光寺境内 吾妻権現 蚕種石か隣りに蚕に似た石がある。
 一番下は宝船か五の線が刻まれ○×印が刻まれている。その延長上を辿ると、宮殿か南無阿弥陀仏の名号があり、屋根の頂点には宝珠が置かれている。
 養蚕の吉凶を占う道具か、宝船に蚕を置いてその進む方向を見たか、このことを記した伝えがない。

5 念仏をどのような方法(祈り方)で伝播していったかが不明。
 双盤念仏、沖縄のエイサー、地蔵盆などで行われる民俗行事にどこか類似していないか。
 また集落に伝えられている念仏講に痕跡を認めることができるかは一切不明。
 六字名号の掛軸が保存されているところがあるが鉦、太鼓などについても不明。

 海老名市新宿地区での採話 2010・2・13
 講中内は浄土宗と真言宗の宗徒で構成されている。そのため、当番家の宗派に合わせ「南無大師遍照金剛」か「南無阿弥陀佛」かを、最初に唱えてから念仏を始めていた。大数珠を廻しながら線香がとぼれるまで唱える。
最初ゆっくりと始め先達に合わせだんだん早くなり最後はまたゆっくりと唱える。
普通のテンポの時は「ナムアミダンブツ」。早くなった時「ナンマンダブ」と変化する。同地区には徳本念仏碑、岩舟地蔵尊もあることから更なる研究が必要と思われる。
 祭壇に「一遍上人五十二代念仏掛軸」とお大師様の入った厨子を開け念仏を唱える。


藤沢市円行、矢部家に伝わる「南無阿弥陀仏」の掛軸

津久井を走る霊随上人 を拝見致しました
当家に一遍上人五十二代と記名のある写真の南無阿弥陀仏の直筆が有ります。
当家は遊行寺末寺(現在真徳寺)檀家であります。
遊行上人五十二代(一海上人)とばかり思っていました。
貴サイトで霊随上人を知りました。
実は今日お棚参りに見えられた住職と話したのですが、遊行上人五十二代なら一遍上人とは書かないのでは、という話になりましたので、これで納得出来ました。
 昔、遊行上人が当麻山無量光寺に月に1度か2度行っていた様なのですが、当家に寄ってから行かれたと聞いて居ります(泊っていたらしい)江戸時代の話かも知れません。
その様な訳でてっきり遊行上人だとばかり思っておりました。
 藤沢北部に碑がある様なので此方に来られた時にお書きになったのかも知れません
              2010・8・13 屋根のない博物館問い合わせメールより
あきる野市(旧五日市町)にもあった霊随上人六字名号塔(追記 2011・10・11)
 昭和62年に発行された「五日市の石仏」では藤沢一海上人として二基の六字名号塔を紹介していたが、筆跡から霊随上人のものと確認できた。東京都多摩地区には八王子市四ヶ寺、府中市二ヶ寺、青梅市二ヶ寺、多摩市・旧五日市町各一ヶ寺、計十ヶ寺の時宗寺院がある。当麻派寺院は青梅市の二ヶ寺。
 五日市周辺は「寒念仏塔」が二十基もあり念仏信仰の盛んなことを印象づけている。
 これまで、津久井地域を始めとする霊随念仏塔を調査してきたが、今後は調査の範囲を広げていく必要があると思う。八王子には「龍光寺の念仏塔」等もあり調査の範囲を広げたい。

6 霊随上人六字名号塔と今後
 今のところ旧高座郡内に、霊随上人六字名号塔が分布しているようだが、藤沢遊行寺と交渉があったかは依然不明である。
 文政期を中心に徳本念仏を共にしながら時を同じくして爆発的な信仰の伝播がありました。そうした信仰が現代では断絶しているようにも思えます。信仰の形態は如何のものか疑問ばかりが残りました。今後の作業としては、他の講中との関係、成立から現代までの課程など、その深層を探って見たいと思います。
 そして、できることならば祈りの復元まできればと考えています。更に、霊随上人は俳人でもあり採句の調査なども継続して行きたいと考えております。皆様方からの情報をお待ちしております。
 
                                              
無量光寺に霊随上人肖像図が発見される(追記2010.5・30 ) 

天保五甲午年 霊随上人 七十二歳 肖像画
      模写 保坂 2010・5・30
 武蔵野大学仏教文化研究所、小野澤眞先生によって「霊随上人肖像図」が発見されました。保存状態は決して好ましいとは云えませんが長い間、密閉状態の中で保存されていたため、色彩が実に鮮やかで上人の眉毛や手の爪など細部にわたって確認することができます。
 構図は中央上段に「南無阿弥陀仏」とあり、中央下段に霊随上人像が描かれています。左側には「午 七十二歳」とあり烙印が押されてあります。
 左図から布教の方法も垣間見ることができます。右手に数珠を持ち、左手に小さな白い紙を二枚持参しています。これは明らかに「南無阿弥陀仏」と記された名号札で、首からは名号札の入った赤い札箱も架けています。
 また右手には蕾の蓮も持たれています。今後の研究を進ませねばなりませんが、中央線藤野駅の東側、甲州街道脇に建立されている「寶号塚」に蓮花化生と記されていることからも、蓮は法具として布教活動の中で盛んに持ち
いられました。
 宗祖一遍上人の原点に還り、賦算活動を積極的に行った形跡を伺わせる貴重な肖像画です。 (実物の肖像画の掲載は御遠慮させて戴きました。)

相模原市当麻・市場で発見の念仏碑
         撮影2011・6・28

市場 聖徳太子 年号判読不明


 旧城山町の久保沢地区を中心に意欲的な活動を続けている「「久保沢の昔、むかし、少し昔」を語る会(会長八木薫さん)」と云うユニーク団体がある。機関紙第31号の中に、当麻山無量光寺周辺を調査した記録の中に割れた霊随上人念仏塔の記載があった。場所は市場と云う集落の南外れの道が大きく曲がる「聖徳太子」と記された石造物の脇にあった。調査の時点では小さな崖の斜面にころがるようにあったと云う。
 記載の文字は「相ъ木 秋本儀左エ門」と
あり、最初から市場にはなかったような気がしている。こう云うこともあるものかと、建立の場所についても考えなければと問題点とした。素晴らしい発見に嬉しい。 


 

参考
          撮影2012・12・3

相模原市緑区上九沢 梅宗寺
津久井にも多い念仏供養塔
 最初は分からなかったが、どこの石仏群の中にも、枡のような形をした念仏供養塔を見ることが多い。
 この寺の境内には今は分からなくなってしまったが地面より少し高くし塚のようになっていた。こうした念仏塔を方々で見かける。作られた時期も左図の場合、宝暦とあり比較的古い。形状が単純なため他に報告を見ないが近世念仏信仰史を考察する意味でも重要と思われる。
 地蔵菩薩像をはじめ「女人講中」と記されているのも特徴的だ。今後の研究に期待したい。

    史料との出会い物語  座間美都治著  発行 昭和59・11・3
    相模原の歴史と文化  座間美都治著  発行 昭和50年5月 
    相模湖町文化財調査報告書 第1・2集 郷土さがみこ 1983 相模湖町教育委員会
    ふじ乃町の旧寺院 昭和63年3月 藤野町教育委員会
    藤野の石仏 藤野町教育委員会  発行昭和53年3月
         五十二世の名号塔
    厚木市史 近世資料編(3)文化文芸 平成15年11月 厚木市教育委員会
    日本文化史 家永三郎著 昭和34年12月 岩波新書 367 P51
    芭蕉読本 潁原退蔵著 昭和41年8月十刷 角川文庫 1052
    一遍上人語録  大橋俊雄校注 岩波文庫  発行 1985・5
    当麻山の歴史 座間美都治著 昭和49年9月発行 発行所 当麻山無量光寺
    津久井郡文化財石像編 津久井郡文化財調査研究会 昭和58・9発行
    ふじ乃町の野立石像群 藤野町文化財保護委員会 発行平成9年12月
    ふじ乃町の野立石像群神社と寺院追録 藤野町文化財保護委員会 発行昭和50年3月
    藤野町史研究誌 第3号 藤野町史編さん委員会 発行 1993年3月
         一遍上人五十二代 他阿 霊随  吉野甫
    藤沢市史研究 16号 藤沢市文書館編 発行 1983・2  昭和58年
    時宗五十二代名号塔について 樋田豊宏 P71〜77  

            相模原市・当麻の風土 
            津久井を走る霊随上人
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