馬本の水神さん
    87歳の加藤福太郎さんから聞いた話  
                  聞き取り 2008・5・24 馬本の向瀧寺で
この水神さまは、すぐ下の魚屋さんの庭のところにありました。
そこには大きな樽が置いてありました。樽からは水がこぼれ池になっていました。
村の人たちはその水を樽から汲んでご飯を炊いたり 、顔を洗ったり、風呂にも使いました。
樽の水は毎日の生活になくてはならない大切な水でした。
 その水源は、2キロほど上流の山の岩場から湧き出す湧水で、そこから用水路を流れ、途中から川を挟んだ吉原(きっぱら)地区にも枝分かれしていました。
 樽と用水路の間には、竹を半分に割った樋がかけてありましたが、そのうち松の木をくり貫いた樋に変わりました。
 近くの人たちはそこに水汲みに行きましたが、下の人たちはそこから更に竹を筒抜いた管をつなげ、水道管のようにして水をよびました。(魚屋のオバさんの話)
 馬本用水は12・13軒ある全戸で管理をしていました。水番の日になると木でできた50センチ位の台形の形をした「番ち」と呼ばれる当番板が回ってきました。
 水番にあたると用水の見回りをしました。夏は沢ガニが穴を開けたり、冬は氷が張って水が来なくなってしまうので直すのに大変でした。台風のような手に負えない時には総出で直しました。普段の日の当番は一軒で行い(水源から)水を連れて来なくちゃならない。用水の水がなくなると下の沢まで水汲みに行きました。
 水番の証の「番ち」が今どうなっているかお訊ねしました。「さあ・・・。」もう、どこにあるか、分からなくなるくらい前の加藤さんが子供の頃のお話です。
 大きな樽のところにあった厳しい倶利伽羅竜の水神さんも、いつしかその役目を終えられ向瀧寺の境内に遷されました。

        「番ち」や水源の岩場、用水路や吉原(きっぱら)への分枝点が今
        どんなふうなっているか気になったので書き付けました。 
聞き取り 保坂



          参考 相模原市のHP 藤野町域の水道事業
          水源はヤツボ 
          城山・津久井の湧水
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