水源はヤツボ 〜相模原市大島地区の湧水地帯を訪ねて〜 更新2008・5・14 追加2010.11.14 半在家地区を追加 相模川の左岸を小倉から大島河原に向かって歩いて行くと、途中いく筋かの水の流れに出会います。そこへ時折、野鳥がやって来て水遊びをしている。そんな光景に何故か心が癒されて行く散歩道。私は友人から妙に気になるヤツボの話を聞いていました。私はヤツボに、ある種の興味とこだわりを持ちながら今度は段丘沿いの上の道を歩くことにしました。道沿いは、昔からの家が多く通りの家の庭先には井戸が多く見られました。しかし11ヶ所もあるというヤツボは段丘崖の深い森の中にあって見つけるのにとても時間がかかりました。ヤツボは段丘崖から流れ出る湧水を溜めた井戸のことか。閑静な空間に雨のしたたる音だけが聞こえた。 相模川の段丘崖 神沢河原より 概略 城山町流れる谷津川や中沢は相模川段丘崖を縦に横断するような形で断層面を流れていますが、相模原台地を流れる鳩川、姥川、道保川や八瀬川は長い年月をかけてできた旧相模川沿いを流れやがて相模川に合流して行きます。 段丘崖からの湧水はそうした相模川が運んだ礫層と小仏層・中津層や依知礫層と呼ばれている基盤岩との接合部分から湧き出しています。 人々はこの湧水を利用しながら永い間暮らしてきました。大島地区ではそうした湧水地を特にヤツボと呼んで大切にしてきました。ヤツボは田名原段丘と陽原段丘が直接相模川に重なる箇所に多く、未だあるかもの知れませんが11ヶ所の報告例があります。 ヤツボに続く「水汲みの道」は、住居から崖に向かって下りて行くような形になっています。その構造は崖から湧き出す湧水がそのまま流れないよう、石で囲みダムのような形にして湧水を溜めます。また湧水は地下を流れて来ますのでどうしても泥が溜まりやすく、周囲からは落葉や土も入り込みます。そうした場合は一時的にダムを壊したり、栓を抜いたりしながら泥さらいをしました。 城山町の久保沢や小倉地区にも大島地区のヤツボと同じような構造をした湧水地があり共通の井戸文化を持っていました。 下記に参考としてヤツボと非常によく似た構造をしている「青梅市畑中の親井戸について」の論文がありましたので御参考にして下さい。 参考 親井戸と長屋井戸 −青梅市畑中の場合− 鈴木晴也
「相模原の地形・地質調査報告書(第2報) 相模原市地形・地質調査会」より 井戸の深さ 相模原段丘(上段) 通常20メートル以上掘らないと水が出てこない。 但し、宙水(ちゅうみず)部分に当たれば本水より浅いところで水が出て来る。 田名原段丘(中段) 7〜10メートル前後を掘ると水が出てくる。 陽原段丘(下段) 3〜5メートル前後を掘ると水が出てくる。 ヤツボの分布 a、大島境松 Y家のヤツボ 城山町の境に近く、松があったが今は枯れない。田名原段丘と相模川河床との間の段丘崖急斜面の 中腹に所在する。飲料水の利用が主であるが、明治から昭和の初期にかけては、生糸の撚糸のため の水車動力としても利用していたという。 b、大島坂上 S家のヤツボ
c、大島中ノ郷 H家のヤツボ ヤツボに続く道 ヤツボに続く道
八大竜王:その中でも娑羯羅(沙伽羅とも)が雨乞いの神として深く信仰されており、弘法大師が
d、大島中ノ郷 H家のヤツボ 田名原段丘と相模川河床との間の段丘崖急斜面の中腹に所在していたが今はない。 e、大島榎戸 O家のヤツボ
f、大島原村 O家周辺のヤツボ 道路の先に湧水池があったが今は暗渠となって側溝から湧水が流れる。 水甕 田名原段丘崖からの湧水 湧水池 田名原段丘崖で見た 陽石 魚網の石錘(おもり) 清水原遺跡 田名原段丘の生崖の下部に所在する。飲料水の利用が主でかつては溜まりの部分が3区分され、 上部が飲料水用、中部が野菜洗用、下部が洗濯用、最下部で足などを洗った。水量はかなり少なく なりかつては屋敷神を浮島のようにして祀った池の跡が見られる。隣にも湧水池があったが今は暗 渠となって道路脇から音をたて水が流れる。近くの道路脇には陽石が道祖神として祀られている。 また近くの清水原遺跡からは大量の石錘が出土し相模川でサケやアユなどを採っていたことが分か る。 g、大島水場 S家のヤツボ
ていて藤田紋造と云う人が作ったことから「モンゾウヤツボ」の名がある。現在はコンクリートで 固められ、生活用水の排水口となってしまった。 h、大島水場 S家のヤツボ 水場のヤツボ
左 水場湧水 右 水場川 日々神社とタブノキ 陽原段丘と相模川河床との間の段丘崖急斜面の中腹に所在する。壺状の池になっていて2メート ル×5メートル程度の大きさがある。ほぼ昔のままの形態で現存し、日々神社の御神水としても利 用されている。また隣を「大島原村大貫家のヤツボ」周辺を水源とする細川が流れ小規模ながら侵 食谷を形成、伝説の「鏡の瀧」もある。また瀧の落差を利用て昭和30年頃まで水車小屋があっ た。現在は「水場のヤツボ」として登録文化財に指定されている。 神沢不動尊 堂内の倶利伽羅不動尊 i、 大島古清水 Y家のヤツボ
j、 大島古清水 N家のヤツボ 陽原段丘と相模川河床との間の段丘崖急斜面の中腹に所在する。飲料水の利用が主であるが、明治 から昭和の初期にかけては、精米、製粉の水車動力としても利用されていた。 k, 大島古清水 Y家のヤツボ 陽原段丘と相模川河床との間の段丘崖急斜面の中腹に所在し、湧水は横穴の中にある。 飲料水の利用が主であるが、明治から昭和の初期にかけては、生糸の撚糸のための水車動力と しても利用されていた。ヤツボは横穴の中の細長い壺状の池になっていて2メートル×10メートル 程度の大きさがある。 年代不詳 大島村絵図 大島村絵図の作成年代はいつごろのものか分かりませんが、神沢不動と記入された周辺に水田の表記があることからヤツボを水源に流れ出た湧水を利用した田んぼになっています。田んぼの面積は享保12年の年貢割付状によると耕地面積全体の0.37パーセントとなって僅かです。また村鑑の田方之儀では「谷之間より出候少々天水」とあるように谷間から湧き出す僅かな水量を利用して田んぼが作られていました。 参考@ 相模国高座郡大嶋村鑑 享保十三年 申八月 (前略) 一 従御公儀様御借附ヶ御拝借米金一切無御座候事 (略) 一御年貢米之儀、当村田方少分にて、御米江戸廻シ等百姓難儀仕候ニ付、 去未年迄ハ年ニより、八王子千人衆御扶持方米ニ相納、或ハ江戸納被仰付候節も、 御蔵前御張紙御値段ヲ以金納ニ仕候御事 (略) 一御年貢御取箇之儀、去未より来ル酉年迄三箇年定免御願申上ヶ、願之通被仰付候事 一田方之儀、谷之間より出候少々天水ニ而仕付仕候事 参考A 代官日野小左衛門年貢割付状 享保十二年 未より酉迄三ヶ年定免割付之事 一高八百八拾壱石四斗九升弐合 相模国高座郡大島村 比反別弐百拾壱町七畝八歩 (211町6反7畝 8歩) 内 田方七反七畝廿四歩 (7反7畝24歩) 畑方弐百拾町八反九畝拾四歩 (210町8反9畝14歩) 田名・半在家地区のヤツボ 半在家自治会館の脇 八瀬川沿のヤツボ 参考地 国指定史跡 川尻石器時代遺跡 城山町久保沢 清水 作図 八木薫さん 城山町小倉 湧水池 ヤツボの語源について 珍しいヤツボと云う語源を「おおさわ風土記 昭和57年7月発行」では「こんこんと清水が湧き出る泉があり、八ヶ所ある所から八ツ壺といわれるようになりました。」とあるようにヤツボのヤは数量を表わすと報告しています。これに対し地形的な立場から「「大島地区の自然と文化 おわりに」では、「ヤツボ」はやはり「ヤ(谷)」+「壺(ツボ)」と考えるのが自然のようである。」と報告しています。 今後の研究にその語源を委ねたいところですが、参考に城山町を流れる谷津川の表記のところで興味のある部分が見つかりました。作者の八木七之助は4枚の「久保沢と谷津川の絵図」の中から、現在私たちが呼んでいる谷津川のことを寛文想像図の中では「谷ツ」、元治元年図では「谷津」、明治9年図では再び「谷ツ」と表記しました。このことから「ヤツツボ」が「谷ツ壺」となり、いつの頃かは分かりませんが「ヤツボ」となったと考えられます。 ここは大いに論議を呼びたいところです。そして、多くのみなさまにヤツボへの関心を深めて戴きたいそんなふうに思います。 参考資料 博物館資料調査報告書 大島地区の自然と文化 平成11年発行相模原市立博物館 相模原市民俗調査報告書 大島・上矢部・田名・上溝・当麻地区の民俗 2002・3発行 相模原市立博物館 おおさわ風土記 昭和57年7月発行 おおさわ風土記協力会 模原市史 第1巻 昭和39年11月発行 相模原市史編さん委員会 相模原市史 第5巻 昭和40年11月発行 相模原市史編さん委員会 多摩のあゆみ 111号 特集 武蔵野の古井戸 平成15年8月発行 たましん地域文化財団 相模川事典 1994 平塚市博物館 相模原の地形・地質調査報告書(第2報) 相模原市地形・地質調査会 武蔵野の集落 矢嶋仁吉著 古今書院 1955年1月 4版発行 生きている水路 渡部一二 1984年8月発行 東海大学出版会 八王子 湧水ネックレス構想 渡部一二・丹青総合研究所 1988年6月発行 かたくら書店 都市と保存 下巻 保存の経済学 昭和50年4月発行 鹿島出版会 縄文人との対話 戸沢充則 1987年11月発行 名著出版 相模川・桂川流域の縄文時代 平成18年10月 相模原市立博物館 続 仏像 −心とかたち− 望月信成・佐和隆研・梅原猛 昭和40年10月発行 NHKブックス30 神秘の水と井戸 山本博著 昭和53年5月発行 学生社 城山・津久井の湧水 戻る |