資料・相模川の砂利採取
                    2013・5・29 内容を一部修正

砂利を選別して建材に 津久井郡農協発行 山河幾星霜より
 境川の河川改修工事(津久井土木時代)は下流域から進められ、二期目は田圃の広がる広田地区が改修工事の対象となってまいりました。そこにはかつて原宿用水として利用されていた、用水の取水口が残されています。取水口の周辺は相模川から運ばれた川原石で護岸が築かれています。また、その支流でもある小松川の護岸にも相模川から運ばれた石が延々と築かれ、一見万里の長城のようにも見えています。両岸の石組は魚やカワセミの棲
家になっています。また、ホタルが幼虫から蛹になる頃には、岸辺の土や石垣の隙間を棲家にしながら土繭を作り過ごします。こうして築かれた護岸の石材は全てが人の手によって相模川から運ばれて来たのです。
 またこのあたりは関東ローム層で覆われているため一度雨が降るとすぐに道がぬかっため、昭和二年には、地元の青年団が中心となって道路や校庭内に砂利を敷いたことなどの記録も残されています。 
  昭和十五年になると河水統制事業が開始され、相模ダムの建設が始まりました。そして下流の沼本ダムからは旧城山町の谷ヶ原浄水場に向け随道が掘られました。この時も相模川の石や砂利が建設資材として大量に使用され、隧道工事口前にはインクラが設置され相模川の砂利が搬入されて行きました。
 川砂利は復興や経済の発展と共に大量に消費され続け、また上流にダムが出来たことによって砂利の堆積がなくなりました。こうした環境の変化によって新たな浸食が始まり河床が下がり続けましたたため、橋脚等の構造物が危険な状態となって来ました。こうした現状が続く中昭和39年(1964年)に入り砂利採取法が強化され荒川、多摩川や相模川で全面的な砂利の採取が禁止されるようになりました。
 身近な砂利、生産地の思いを厚木が生んだ農民作家、和田伝は「五風十雨」と云う随筆集の中に、そうした当時の状況を記録に残しました。

和田伝著 「五風十雨」より  春の相模川  砂利船
 両岸の平野に青畳のやうにのびた麦畑の上空で雲雀が声をからして囀つてゐるにはゐるが、それが人の耳には近ごろは殆んどはひらない。川原は砂利船の騒々しいモオトルの音、バケットコンベアの音、鍋トロの音でしづかに話もできぬほどだからである。砂利船と言えば厚木付近から馬入の川口までで今日二十一艘もはひつてゐるのであるが、最近また一艘ふえた。この春にはもう一艘ふえるとかきいた。これもオリンピック景気といふやつで、東京の砂利の需要激増はいまのところ見さだめもつかぬといふことである。
 五十個からつらなるバッケコンベアは気がふれたやうに間断なく水面下二十尺の底から砂利を掬ひあげては高みの選別機まで運んでゐる。そこであけられ大きさによって別々のところに落とされるのであるが、捨てられる砂やガラがこれもまた気がふれたやうな叫びをあげて高みから落下してゐる。選別された精撰砂利を駅まで運ぶ鍋トロも陽炎のなかを血相かへて突走つてゐる。かくて小田急だけでも一日千五百頓、貨車にして七十車両の砂利を毎日新宿まで運んでゐるのである。川原は野天の工場のやうなものにかはりはてた観がある。
 この川原のオリンピック景気は、十四年までまる三年はつづくことだらう。勿論オリンピックそのものに砂利がいるといふのではなく、それを契機として東京の諸工事の繰上げがなされるからである。いつたい東京には今後どれだけの砂利がいることか? 私などこの東京への砂利採取地に住んでゐる者には、それが人事でなく考へられるのであるが、考へると憂鬱になるのである。東京の砂利は主としてはコンクリート原料になるのであるが、今後東京の建築物はどれくらゐコンクリート建てに建てかへられたら一段落といふことになるのであらうか? 最近の東朝の報ずるところでは、宮城を中心とする丸ノ内の防火区域で今後コンクリート建てに建てかへなければならぬ戸数二万五千戸のうち、現在まだ僅々三千戸しかできてをらないといふことである。こんなことを考へただけでも呆然とせざるを得ない。
 相模川の砂利は、専門家の見積りによれば今後十数年で採りつくしてしまふさうである。これは相模川ばかりでなく、現在東京への砂利はこのほか利根、入間、渡瀬の諸川からはひつてゐるのであるが、(多摩川はすでにもう採りつくしてしまつてある。)これらの諸川もほぼ同じ状態にあるさうだ。さうなると砂利船の機構をさらに精巧に大がかりにし、現在水面下二十尺しか掘れないでゐるのを四十尺も掘るといふふうにしなければならないが、或はさうするよりも運賃は嵩んでももつと遠くから例へば富士川や大井川あたりから運んだ方が勝つことになるのかも知れない。
 実はさうなつた方がどれほどいいか知れないとこの地方の人々は思つてゐる。相模川は水面下四十尺までは砂利の層であるが、四十尺も堀りまくられたら大変なことになるのである。現在でも漁師や釣人はどれほどこの砂利船を呪つてゐるか知れない。二十尺も掘りとうたあとはまるで淵のやうになつて溜つてをり、さういふところが到るところにできてしまひ、鮎が好んで遊泳する清冽な瀬がだんだんとなくなつてしまつてゐる。濁りを好むうぐひや丸太(うぐひの二歳以上の大もの)にしても、二十尺から掘り下げられては底から冷たい湧水がするので依りつかない。夏になるとそこで人がよく溺れ死ぬ。それが四十尺にでもなつたら魚どころか人も寄りつけぬことになるのである。
 上流から大水が出るたびに砂利は流されてくるのであるが、それは二三年してもせいぜい一尺かそこいらである。二十尺掘つたところがまたもとのやうに埋まりそこに清冽な瀬ができるのは何年の後か見当もつかない。現在の四十尺の砂利層も何年かかかつて積つたものであるとすれば、四十尺掘つてしまつても、いつかはもと通りになるのまも知れないが、しかし、その間は相模川も魚一ぴきすまぬ川、といふよりはただの水路といふものになつてゐなければならぬだらう。東京のコンクリート建てのことを考へると、こんななさけない想像も人事でなくわくのである。
              昭和13年5月発行 発行所 砂子屋書房
                        
 
 相模川の砂利を運搬したインクラ跡

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