新資料 コント六篇  酸漿(ほうづき)  加藤武雄
                       作成2009・5・20

 コント倶楽部24号 昭和21年4月発行
 コント倶楽部の創刊号は昭和13(1938)年10月に刊行されました。出版社は八洲書房です。その後の経緯については現在調査中です。
 加藤武雄が寄稿した酸漿」は「コント倶楽部」第24号の中にあり、昭和21年4月に3・4月の合併号として発表されています。
 編集者は武野藤介で自ら同号に「魚の皮」も発表しています。出版社は何時ごろか分かりませんが文学社となっています。
 同号の中には柏原一雄が「四百字の話」をまた「コント六篇」の中には、江口隼人が「幸福の墓」、俚那士郎が「或る勝利」、内田新八が「私の父と文造」や南達彦が「同病者」をそれぞれ発表しています。また六頁にわたって鈴木五郎が長篇「硫黄島の記」を書き下ろしています。
 コラム欄では当時の連合司令官の命令や声明の翻訳をめぐって、新聞など見たときに意味の通じないところがあることなど、編集者たちがさりげない言葉で綴っています。
 

コント六篇  酸漿  加藤武雄 

     その実下にうつむくゆえ額実に似たればなり。
     ほうづきは、ふくらかにて人のほうにたとへしなるべし

 日本人の主食たる米の産額は、国内経済の或る時期までは、正確に、人口の増加と比例してゐた。たとへば人口千五百万人の時には、千五百万石、二千万の時は二千万石といふ風に。しかし、これは人口の増加に米の産額が調子をを合わせたのではなく、米の産額を基本として、人口の方をそれに応じて加速したと見るべきで、それが為には、最近また流行になりさうな、バス・コントロオル以上の非常手段が強行されてゐたことは「おろす」とか「間引く」といふ言葉の普遍性によっても明らかに知る事が出来るであらう。
 九州の日田盆地では、殊に此の悪習が盛んであったが、明治の初年に、日田縣縣令になった松方正義は鋭意此の悪習を矯正することによって令名をかち得、それが彼の出世の階梯になったとうふ。松方のこの治蹟には、何等かの経済的措置の裏付けがあった筈だ。彼は、非常な子幅者で、名を覚えきれぬ程沢山の子供を持ってゐたといふが、これは多分その功徳でなどといふのは冗談だが、此の経済的措置に於ける手腕だ。他日の名蔵相松方を約束したと考へるのは、そんなにこじつけでも無からう。
 ところで、この余儀なくされた悪習に、一役買ってゐる植物がある。それが酸漿だ。
 ナス科に属する多年生草木。高さ60乃至90糎、茎は双生にして卵状楕円形、花は、黄緑白色のやや五裂せる花冠を有し、蕚
(ガク)は鍾形にて五裂し、花後、大きくなりて果実を包む。果実は球形で紅熟する。__と百科辞典にあるが酸漿といへば、先ず眼に浮ぶのはあの蕚(ガク)の袋に包まれたまんまるい紅の実だ。「六角堂に小僧一人、おまゐりがなけりゃ扉が開かん、ナアニ」と問へば「ほおづきほおづき紅酸漿、お灯をともさにゃ扉が明かん」とへる謎々問答などもあって、いかにも童話的な感じのするあの赤い実。それに紙の着物をきせれば、真っ赤な顔のほうづき人形になる。__あくまでも子供に縁のある、愛らしい可憐な酸漿ではある。
 この酸漿は、しかし、人の眼につく縁先などには、めったに植ゑてあるものでなない。
 庭の隅っこの草の中に、自然かの如くこっそりと潜んでゐたり、人里遠い山畑の片隅に、ひっそりと生えてゐたりする。
 ある時、六才の女の子のお光が、勢ひよく、畔に休んでゐる母の許に走り寄って来た。
 「母ちゃん、そら、こんなにたあんと、ほうづきがあったよ」
 真っ赤に熟した酸漿の実が、お光の右手にも左手にも、二つ三つづつのせられてゐた。
「まあ、何処にあったの?」と、きかうとして、お光の母は、その白々しさに、子供の前だがてれてしまった。
「母ちゃん、これ、鳴らすやうにしてお呉れ。」
「面倒だよ。母ちゃん、今そんな事をしてゐられ無えー」
「じゃ、食っちまふー」
「食っちまふって、馬鹿だな、種子べえで喰べられやし無えよ。それよりもね、家に持って帰ったら、母ちゃんがそれで、いいもうとをこしらへてあげる。」
 その夜、母は__四十の坂は六年越したが、その太り肉にまだみずみずしさを残してゐる寡婦は、六つの娘の為めに、ほうづき人形をこしらへた。女手の一人百姓の、毎日の野良仕事に節くれ立った無器用な指に紙を折って、それも可愛らしい人形が、一つ出来。二つ出来た。
「あれ、まだこせえるの?」
「もうひとつだよ。」と、三つ目の人形をこしらへかけた時、寡婦は、胸が切なくなって来た。長男が生まれたあと、二度目が出来た時、二人になっては働けないからと云って、それを敢へしたのは、自ら進んでの事だった。すると意地悪く、そのあくる年にまた出来た。それも、その方法で片付けた。三度目は、それから五年たってからだった。此の時は、どんなに苦しくても屹度育てる、育てさせて呉れと夫に哀願したのだったが、夫は許して呉れなかった。あの子を生んで置いたら、その後に長男を失った今でも、お光には五つ違ひの兄か姉かが出来てゐたらうに__。
「さあ、出来た。大事にして遊ぶんだよ。これ、みんな、光の姉ちゃんだよ。」
「己の姉ちゃん?」
「兄ちゃんかも知れ無えがな。」
「ううん、己の方が姉ちゃんだよ。」
「さうさう、もう一つこせえてやるべ。」と、母はふと何か思ひ起こしたやうな調子でいふ。
「あれ、まだこせえて呉れるの?」
「今度は、光の妹をな。」
 もう一つ余っていた酸漿は、おあつらへ向に前のよりも少し小さい。それに紙の着物を着せながら、光の母は少し赤くなった。それは、光の父が死んでから三年目にふとした過失からお胎に出来た子だった。あの人は、これを機会に、天下晴れて夫婦にならうと云って呉れたが、何しろ、自分より十も年下の男だった。
「__一うツ、二うツ、三ツう、四つ、母ちゃん、沢山こせえて呉れたなあ、うれしいなあ。」
 上機嫌の光の笑顔を母は重い心で眺めてゐた。

 あの赤い実の、中の種子を絞り出し、空ろになった袋を口に入れて鳴らせば、くうくう山鳩の鳴くやうな音を立てる。海ほうづきといふものもあるが、本式なのは、此の野のほうづきだ。口紅の濃い雛妓などがよく鳴らしてゐるが、多分、彼女も貧しい家に生まれて、若しかしたら、この酸漿のご厄介になりかけた事があるかも知れぬ。生れざれしならば__と、いふのは、残刻きはまりなき言葉が、それが悪魔の言葉か神の言葉かは、なかなか判定はつかない。とにかく、私は、無邪気な雛妓の口に鳴るほうづきの音を聞いて、いろいろと物を思はせられた事がある。
 


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