宮崎からの手紙
     
旧城山町にもあった畑地かんがい跡
                    
作成 2011・1・22
 相模原市は平成15年4月、畑地かんがい用水大野支線と東西分水工を相模原市登録有形文化財(建造物)に指定しました。畑地灌漑の施設は戦後の食糧難を救うため県の事業として昭和38年に完成しました。その一方、昭和33年8月になると相模原地域は首都圏整備法による市街地開発区域(第1号)に指定され市内の工場誘致が始まりました。こうしたことから畑地のかんがい施設は充分な機能を発揮しないまま、次第に使われなくなって行きました。
 明治初年、相模原台地に水路を通し田んぼを作る構想はここで立ち枯れとなりました。かんがい施設を利用してきた多くの人たちも記憶が次第に薄れ、当時を知る人たちもだんだん少なくなりました。残ったかんがい施設は残念ながらゴミ捨て場のようになったりしているところも見受けられました。
 戦後の食糧難を補うために始められた「県営相模原畑地かんがい事業」は、相模ダム下流の沼本から久保沢分水槽を水源とし藤沢市に至る大規模なかんがい用水で、実に16年の歳月を費やし昭和38年に完成しました。しかし、その後の食糧事情の好転や都市化により、充分に機能を発揮しないまま使われなくなって行きました。
 ここ旧城山町にも畑地かんがい用水がありました。現在は旧相模原市内のかんがい用水と同じように使われなくなっています。都井沢地区にもあったようですがどのようになっていたかは不明で、今後の調査を待ちたいと思います。

   
 大山道・赤坂から見た向原地区の畑地灌漑地跡  4本あった灌漑用水路跡(水色)

  
谷ヶ原浄水場                  谷津川

  
谷津川・女瀧                 谷津川を横断する管路(サイフォン)跡

  
用水路跡@                    用水路跡A

  
使われなくなった灌漑用水路跡 

  
用水路跡、用水の使用方法によって穴を狭めたりして水量調整をしたようです。場所によっては下の写真のようにコンクリートの水路を欠いたりして常時水が流れ込むようにしている所もありました。これとは別に、支給されたU字型をしたパイプを水路にかけ畑に流し込みました。

  
向原地区、段丘面直下の水路跡、この水路は山野地区の原宿用水に合流し鳩川に注がれていました。

  
山王林付近の用水跡、道路を横断する時の水路は道路の両端に枡を作り、サイフォンの原理に従い道路の下を流した。北から2番目の水路跡、途中で水路は無くなっていますが、当時の形状をよく伝えています。

 
                            北から3番目の水路跡。


北から4番目(南端)の水路跡

八木薫さんから聞いた話
@畑地灌漑は総ての家の人たちが賛成した訳ではなかった。上野原では失敗した。
A水路から畑に水を入れるときはサイフォンを使った。サイフォンは組合持ちになっていたので、そこ
から借りた。
B水路が道路を渡るときは、サイフォンの原理で道路の下を通した。道路の両端には深さが背丈ほどもある箱が作ってあった。
C畑に水を流す時はサイフォン以外に
水路の中に石を入れて水を溢れさせた。
D水路から流れ出た水は畑の境を流れるようにして、畝ごとに流し込んだ。
 この水路には下流域を含めコンクリート製の水路が、なかったようです。水路の跡の両側には新しい家が立ち並んでいました。末端はどこまで延びていたか不明です。再調査を要す。


                             八木薫さんが描いた当時の様子
資料 崎からの手紙  南九州開拓地に於ける相模原の陸稲  松生(まついけ)
 昭和二十六年であったと思いますが南九州開拓地即ち、宮崎県西都市茶臼原春日で開拓農業を営んで居りますが私は知人をたのみ相模原の陸稲の種を求め、二三升送ってもらったのであります。それが成績がよいので、付近の開拓農家にも広がり、喜ばれて居るのであります。
 その後今日その陸稲がどのようになって居るか、相模原の各位に御報告して感謝するとともに、今後も御指導を賜りたい念願で筆を執った次第であります。
 先ず陸稲の種を相模原に求めた理由は、相模原が畑作地帯として、長い歴史を有する先進地であり、陸稲栽培が盛んであり、反収も高い上に、品種の改良も進んでいると聞き及んでいたのが第一の理由であります。
 当茶臼原開拓地も、黒ボク火山灰の純畑作地帯で飯米確保の為陸稲に頼らざるを得ない所で(水田はないので)環境がよく似ておることが、第二の理由であります。
 当時宮崎を含む全九州的なことでありますが、畑作物特に陸稲の品種改良がなされておらず、在来種の黒目、白目は晩生長稈(ワラ)の為、台風又は干害にやられ、倒れ伏し易く二・三年に一度の収穫を見る位で開拓営農の重大障害となっていたことは第三の理由であります。
 当時の宮崎県の方針としては、水田の二化螟
(めい)虫防除対策に陸稲の早播きが、その繁殖源となることに悩み、早播きを県条例で禁止、抑圧に熱心で、品種改良どころでなかったことが第四の理由であったのです。
 そこで何とかして先進地の優良品種を求め、飯米を確保しようとして、相模原の種に着目したのであります。
 次に相模原の陸稲種子を播いての収穫実績は、大体反当玄米二石ぐらいの収穫を得ています。
 昭和三十三年度大旱魃は出穂期で五反歩収穫皆無と思われたが相模原の種子は、耐旱性が強く、又出穂期が少し早かったためか多少稔り遅れ穂が出て、反当玄米一石ほどの収穫がありました。
 勿論、他の開拓農家は収穫皆無です。此の秋以降外来の延納米を県より借り入れ、一ヶ年を外米のみで食いつないだのであります。
 相模原の種子を採用する農家は、部落十戸位に普及しまして、作付段別は、一戸平均二三段というところです。種子のの退化の傾向はあります。宮崎県農業試験所も目覚めて、農林陸稲二十一号同二十四号と、優秀品種を導入奨励し、他方水田も早期水稲に全面的に切換えが行われたのに加え、農薬の発達と共に、二化螟虫防除も徹底し、陸稲の早期播種の禁止条令も撤回されましたので、開拓地の陸稲栽培も落着いて来ました。しかし台風、旱魃、どちらかの常襲地帯なので、台風の来る八月初めか、七月末までに収穫出来て、旱魃に強く収量も多い品種を待望すること切なるものがあります。また災害があまり多いので一戸当り耕地平均二町歩の中、陸稲は二−三段にどこの家でも減らして最小限にとどめ、安全な甘藷
(かんしょ)作と畜産に重点が置かれています。
 何といっても経済力の弱小な南九州の開拓地では、飯米の確保は必要なので、非常な労力(除草)を要するにもかかわらず、陸稲栽培は続けられなければなりません。つまり「米は買っては食べられない」そうかと云って、都会の空気を吸った開拓者は、「米が食べたい。」というところです。
 相模原はわれわれ畑作高台地帯の開拓者にとって、忘れられない所なのです。それは畑作灌漑の大規模に行われた最初の所だからです。当地茶臼原の高台地にも水が引けたら、という夢を持って居ります。実は西都市の上流に工事中の九州一といわれている「一ツ瀬ダム」の完成によって、その夢が実現されそうなのであります。勿論相当の年月を要すると思いますが。その意味から言っても、相模原は、有名な酪農、養豚と共に、名実ともに我々の先進地であり、大先達なのであります。ことに御地が都心に近いのに比し、当地は、北九州まで列車で八−十時間という問題にならないハンデキャップああるにせよ、それはそれなり時勢が解決してくれるでありましょう。今私は、陸稲から乳牛、養豚まで、相模原に学びたい思いでいっぱいであります

             「郷土相原」 第十一集 昭和37年3月号より
取材を終えて
 戦後、日本の食料不足を解消するため開拓が行われました。明治初年、相模原台地を水田で潤すと云う大計画がありました。私はその様子がどのように変化していったか、今後どのような方向性を持って突き進んでゆくのかを考えさせられました。それは、原文をそのまま掲載した、「南九州開拓地に於ける相模原の陸稲」の小論を読んだ時から始まったのです。宮崎では、今もかんがい用水が現役で機能しています。宮崎は今、火山の噴火、牛の口蹄疫、鳥インフルエンザと三重苦に悩まされています。畜産農家の多い西都市茶臼原の一帯で相模原から生まれた、農林陸稲二十一号と同二十四号の品種を導入し、陸稲栽培が行われていたことを、また「今私は、陸稲から乳牛、養豚まで、相模原に学びたい思いでいっぱいであります。」と、結んで下さったことを・・・・。
 相模原畑地かんがい事業は時の流れの中で終わりを告げましたが、相模原開拓の精神は宮崎に受け継がれ開花していることを多くのみなさまに知って戴きたく、そんな思いを込めながら取材をさせて戴きました。

 

  参考
  畑地かんがい用水の今 相模野農民のあとさき 発行 相武台歴史同好会 2003年12月
  相模原開拓の歴史 相模原市農業協同組合協 著者金井利平 発行 平成元年8月
  写真集さがみ野の流れ 相模原市農業協同組合 平成5年10月
   大規模県営相模原開発畑地灌漑事業概要 相模原開発土地改良区 昭和30年8月
  相模原市農協二十年史 発行 相模原市農業協同組合 発行 昭和58年10月
  郷土さがみはら 第8集(扉) 昭和35年10月 
  九州農業試験場研究資料第88号温暖地畑のかんがい用水量に関するデータ集(V).
   ー一ッ瀬畑地かんがい事業地区の水需要 −..2001年3月

  温暖地畑のかんがい用水量に関するデータ集(V)− 一ッ瀬畑地かんがい事業地区の水需要−(6,530KB)



        相模野台地を横断した人
        当麻田開田の記念碑
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