加藤武雄と小山金次さんが
      見た
「下田の地蔵」さまについて

                          作成2011・2・15
 明治43年5月、加藤武雄は「文章世界菖蒲号」に応募小品として「下田の地蔵」と云う作品を投稿しました。この応募小品欄の中には他に堀切重雄が「硫黄」、石野緑石が「七歳の時の印象」、小池孤舟が「農家」、藤原東川が「弟」、秋山五村が「山の村の家」、そして谷崎精二が「春によくある日の一日」等、投書家たちの作品が掲載されていました。
 「下田の地蔵」は後年「合掌」と改題され作品の一部が手直しされましたiが、加藤武雄の人生観が滲み出た作品となっています。加藤武雄はこの作品を最後に故郷川尻村を離れ東京へと向かいました。目指すは小説家への道です。東京には既に終生をともにする盟友、中村武羅夫が待ち受けていました。
 「下田の地蔵」と云う作品は、そうした加藤武雄の投書時代を知る上で欠かせない存在となっています。
 廻り地蔵と云う風習は既になくなりましたが、作品に登場するお婆さんの心境は深く、今も人の心を打つ作品となっています。
 本項では、「下田の地蔵」に登場するお地蔵様を手掛かりに廻り地蔵として各、村々を廻った状況を、小山金次さんの著書「三田今むかしを中心にしながら、廻り地蔵とはどのようなものであったかを再現してみました。小山金次さんは郷土史以外にもホタルの増殖研究等もされ我々の大先輩で私も御指導を受けました。
 尚、掲載された資料は小山様のご好意で、原文をそのまま引用させて戴きました。

「下田の地蔵」   加藤冬海
 婆様
(ばあさん)は縁側で孫の足袋つぎをしてゐた。力弱い西日(にしび)が、丸く着ふくれた肩の辺(あた)りから、白髪(しらが)のそそけた鬢(びん)や皺(しわ)だらけの小さい顔をきいろく淡々と照らした様(さま)が寂然(じゃくねん)として見えた。
 其傍
(そのそば)で十二三の孫娘が赤い巾(きれ)で何か縫(ぬ)って居(い)たが「夫(それ)からお婆様(ばあさん)どうしたの?」と振仰(ふりあお)いだ、目と眉(まゆ)との間の離れたおっとりした子である。
「夫
(それ)からなあ、さうするとなあ。」
 婆様
(ばあさん)はうろ覚えの昔話をまだるっこい口調(くちょう)で話した。一語(ひとこと)云っては歯の抜け切った口をもぐもぐさせる、すると、唇(くちびる)の上に垂(た)れた鉤鼻(かぎばな)がそれにつれて上下に動く。「夫(それ)からなあ」と云って、孫娘の顔を見る時、眼鏡(めがね)のおくの窪んだ眼が優しい光を放(はな)った。
 孫娘は「ふんふん。」と熱心にきいてゐた。軒端
(のきば)の紅梅(こうばい)の花が一片二片(ひとひらふたひら)静かにこぼれた、けふは珍しく風も吹かず、麦の青くのびた前の畑に塵埃(ほこり)の舞ひ立つも見えぬ、でも、庭先の粟殻(あわがら)がかさかさと鳴る折々は、ぽかぽかとした空気の中を流れる一脈(いちみゃく)の寒気(さむけ)が、老婆の衰(おとろ)へた神経をぞくぞくと戦(おのの)がせた。
「寒くなったなー。未だ中々寒い。」と話の中途
(ちゅうと)で婆様(ばあさん)が云った。
「ああ、夫
(それ)からー?」
 白い鶏
(にわとり)が紅(べに)の褪(あ)せた肉冠(とさか)をふりたてて、とっとっと飛んで来た。
 話がやっと了
(お)へると、孫娘はふと思ひついたというふ風に、
「あ、おばあ様
(さん)、もう下田の地蔵様が来るよ。昨日中澤迄来てたんだから。」
「おお、さうだな。」と婆様
(ばあさん)は手をさしおいた。
 下田の地蔵様とは云うけれど、其
(そ)の下田とは何処(どこ)であるかさへ此辺(このへん)の人は知ってゐ無い。もう何十年の昔から毎年一回宛此村(つづここのむら)へも廻ってくるのだ。別に持ちあるく人があるではなく丁度郵便の様(よう)に村から村へと送られてゆくので、相応(そうおう)に信心するものもあり一年には可也(かなり)の賽銭(さいせん)を集めて故郷(こきょう)に帰るといふ奇體(きたい)な地蔵様である。此地蔵様に願(ぐわん=がん)を掛(か)けるには、地蔵様に捧(ささ)げられてある古い幡(はた)ー「奉納地蔵尊年月日何村何の誰(だれ)」とかいた幡を借りておいて、翌年来た時願果(がんはた)しに新しい幡を拵(こしら)へ、夫(それ)に添(そ)えて返納(へんのう)するのである。婆さんは何年ならず、毎年此地蔵様の幡を借りといた。
「ぢや、幡を拵
(こしら)へとかざなるめえー。光(みつ)、阿母様(おっかさん)(とこ)へ行ってな、晒(さらし)を一尺ばかり貰(もら)って書いて呉(く)れろよ。」
「ああ。」と光
(みつ)は立って行った。
 しばらくすると、此静かな村の一角に、かあんかあんと鉦(かね)の音(ね)はきこえて来た。
 かあん、かあんー。
 其鉦の音をきくと、婆様
(ばあさん)は過去幾十年の事が走馬灯の様におもひ出された。
 あの地蔵様に毎年種々
(いろいろ)な願掛けした。子を欲しいとかけた願、姑(しゅうと)の病気が癒(なお)る様にと願掛けた願、旅に出た夫(おっと)の為に掛けた願、子の為に掛けた願、家運の為に掛

          下田地蔵の巡行想定図
た願、五人の孫の一人々々にも熱心にかけた願ー。
 で、婆様
(ばあさん)の去年の願は、其時身持(みもち)してた嫁の為に掛けたものであったが、願どほりに安産で、婆(ばあ)さんは多くの孫の中に、更
(さら)
に一人の可愛い男の子を加
(くわ)へる事ができた。
「有難
(ありがた)い事だ。」
 婆様
(ばあさん)は心の中でかう繰返(くりかえ)して、次第(しだい)に近附(ちかづ)いてくる鉦の音をきいた。
 光
(みつ)は幡をこしらへて持って来た。
 地蔵様は隣村
(となりむら)の人達に擔(かつ)がれて前の通りに来た。
婆様
(ばあさん)は新しい幡(はた)古い幡(はた)とを持って、杖に縋(すが)ってよぼよぼと門口(かどぐち)へ出た。
 ※@屋根のついた輦臺(れんだい)の上に地蔵様は安置(あんち)されて、紅い幡、白い幡の古いの新しいのが幾十旒
(いくじゅうりゅう)となく四方の扉(とびら)を蔽(おお)うて垂れてゐた、其間(そのあいだ)から紫色の香(こう)の烟(けむり)が縷々(るる)としてたち上(のぼ)るー。
 婆
(ばあ)さんはうやうやしく其前に合掌(がっしょう)した。そして、二つの幡を返納(へんのう)した。
「おばあさん、また幡を借りとくんだらう。」と光
(みつ)がきいた。
「ああ、何卒
(どうぞ)な。」と婆様は云ったが、また思ひかへして、
「いいや、もうよすべえよ。」
「何故
(なぜ?」
「何故でもなーもう別にお願ひ申す事も無
(ね)えからな。」
 婆様は眞實
(まったく)もう別に掛く可(べき)(がん)が無(な)かった。が、夫(これ)よりも、来年再(ふたた)び此地蔵様を迎へて願果しが出来るかどうかが六ヶ(むづか)しいと思ったのだ。それは、此二三年來いつもさうした懼(おそれ)を抱(いだ)かぬ事は無かったけれ共(ども)、何処(どこ)にか来た気強い自信があった。が、今年といふ今年は最早(もう)其の来年をたのむ心の張(はり)といふものが無くなったと思はれた。
「お地蔵様ともお別れだ。」
 こんな事を呟
(つぶや)いて、婆様(ばあさん)は、暫時(しばらく)見送ってゐた。
 地蔵様は彼村此村
(あのむらこのむら)の様々な人達の様々な願(ねがい)を負(お)ひ淡い夕日の中に紅白の幡をひらひらさせ、やや軽塵(けいじん)の立ち舞ふ村の道を除々(しづしづ)と彼方(かなた)に消えて行った。
 かあん、かあんと鉦が鳴る。
「ああ、願果
(がんはた)しが出来た、己(おれ)の漸(やっと)これで安心が出来たぞよ。」
 婆様
(ばあさん)はほっと安心した様に溜息(ためいき)して、光(みつ)の顔をみてほろりと涙を落とした。それは六十幾年の生(せい)を一(ひと)しづくに絞(しぼ)った涙(なみだ)であった。
  かあん、かあんー。
 心細
(こころぼそ)さうな鉦の音が漸々(だんだん)(かすか)になった。

   加藤武雄は主人公の「バアサン」のことを、「婆様」と記し、ルビに「ばあさん」と振り仮名をつけました。
   改題された「合掌」の中では、「おばあさん」と表記をしています。
   この項では初稿どおり「婆様」と表記しました。

 ※@屋根のついた輦臺(れんだい)の上に地蔵様は安置(あんち)されて
   ↓
 ※A:近所の子供が五、六人、何か口々に言いながら、その周囲に群れていた。
  乳母車ほどの小さな車の上に屋根のついたお厨子があって、その中にお地蔵様が安置されて

 ※@:「下田の地蔵」   ※A:「合掌」 大正8年11月

下田の廻り地蔵
下田子育延命地蔵   小山金次
 
毎年一月二十日頃になると下田の子育地蔵様が回って来た。
正確には下田子育延命地蔵菩薩と言う。横浜市港区下田町にある、曹洞宗真福寺の御本尊様であり、高さ台座とも40センチ余りで左手に子供を抱いた木造りの座像であり、黒塗りの御厨子に納められている。
この寺の(略)
又いつの頃からかこの寺に御本尊様とまったく同じ子供を抱いた木彫りの地蔵様が同じ型の御厨子に入ったもう一体の地蔵様があり、この地蔵菩薩が各地を巡行された、子育延命地蔵菩薩とお聞きました。
 この地方を世話人として代々巡行された、家号三田川当主串田政一氏宅に残る三代前の串田孫兵衛氏が明治二十七年に、真福寺地蔵尊天井寄附連名帳によると、この頃も武州多摩郡と相州津久井郡と相模に一分当広く廻っていたことがわかる。
八王子も千人町から八幡町、小門、横山町とあり小宮加住の一部から川口横川二分方恩方元八王子長房片倉相原川尻村久保沢谷ヶ原九沢大島田名から橋本と百八十余名の家々を廻った寄附帳に書き綴られている。
その後を継いだ串田直一郎氏が昭和十五年頃まで廻られた。
 明治四十年生まれの小山仁一氏に明治から大正の頃のこの地蔵様の事を聞く事が出来た。当時は東の村境まで村人達が迎えに行き、先の村の方々から輿に納められた地蔵様や幟旗などを受け継ぎ村内の数軒を鉦をたたきながら廻り宿の家に付き、夜は村の人達が集まり、一晩念仏を唱えお籠もりを行い翌日世話人を先頭に赤や白の下田子育延命地蔵菩薩と書いた幟を持つ人輿を担ぐ人鉦をたたき女子供を交え次の村境まで送ったとの事です。
 串田喜一氏、明治四十四年生まれで串田直一郎氏の息子さんの話しで、昭和八〜九年頃父親に付いてこの輿を担ぎ祖父孫兵衛が書き綴られた明治の寄附帳にある地方、南多摩の西部一帯と相模の西部を廻った。
正月の始に父親が下田の寺に行き御厨子に入った地蔵様を借り受け一反風呂敷にて背負って帰り、一月十日頃から散田の寺上から八王子市内と廻り始めた地蔵様を迎える家では、赤飯を作ったり、煮染を煮て大きな皿に盛付奥座敷に上げた。地蔵様に蜜柑などと共に供え先達(父親)が鉦を叩き念仏を唱え、近所の方々のおまえりが済むと供え物にてお茶を飲み子供達にも供物として分け与えられた。
又地蔵様が宿る宿の家も毎年同じ家にて宿をお願いした。宿の家では所によっては大勢の方が集まり、夜念仏や御詠歌などした後、供え物にてお茶を飲みを遅くまで話し続けていた。
 供をした私達も手厚い接待を受けた。こうして一日五軒から七軒位廻り一月末に橋本の先の小山田の世話人の家に地蔵様だけを渡し輿は持帰り蔵の中に保管しておいたが、戦時中は廻らなかったので物置に置いたため焼失してしまったとの事である。
 私の記憶する下田の地蔵様は昭和十年頃からであろう。三田の東の方(今の大谷ガラスの前の道)から世話人の串田真一郎さんが着物姿で、中折帽子をかぶり二重回しと言う外套を着、紺の風呂敷包みを背負って鉦を叩きその後を間口六十センチ位奥行七〜八十センチ高さ九十センチ程の屋根の付いた輿を二人の小父さんが前後を担ぎ前の人が二メートル位の、赤い布に下田延命地蔵尊と書いた細長い旗を持って来た。一月二十日頃であったろう。時には雪もあり身を刺すような北風に吹かれ鉦の音も遠くなったり近くなったりしながら聞こえて来た。やがて宿の家に付くと輿のまま奥の座敷に上がり、明かりを点し線香を焚き、用意しておいた物を供え、世話人が鉦を叩いて念仏を唱える。近所の子供を連れた母親や年寄りが集まり、紙でひねった何銭かのおひねりを上げ子供の安全等を祈願し、お札を頂いた。世話人と供の人達には酒など出して持て成した。
 
普門寺オシャリ様 撮影2007・3・14  久保沢観音堂 撮影2008・5・13
 この木造の地蔵様を納めてある輿のまわりには、中が見えない程沢山の小さな人と言うか猿を型ち取った物や、柿の実を型ち取った人形(今のぬいぐるみ)や貝殻を綺麗な布で包み紐を付けた物など吊るしてあり、その中から一つ子供のお守りとして借り受
け、魔除けとして子守の背負い紐や子供の腰紐に付けていた。子供が一年間丈夫で育つと翌年新しい物を倍にして返した物である。
こうして三田の部落を五〜六軒廻り泊まる事もなく行かれたと思う。
この子育地蔵は古く江戸時代からこの地方を廻っていたと思われ、その当時から代々串田家が世話人であった事と思うが、串田家に残されている物の中には、孫兵衛氏が明治二十七年に真福寺地蔵尊天井寄附連名帳に世話人として記された帳簿があるのみにて、それ以前の事を明かす物はなく、横浜市の真福寺に行き伺って見たが、大正十五年の世話人名簿の中に串田真一郎と書かれた帳簿が一冊あるのみにて、昔の事を明かす物はなかった。
 昔は乳児期の死亡や疫病の流行などにより子供の死亡率が高く、そのため人々はこうした地蔵菩薩等を拝し子孫繁栄を祈願し、心のよりどころとして子供を育てた事と思はれる。有名な下田延命子育地蔵菩薩である。


上段 明治廿七年一月 地蔵尊天井寄附連名帳(の一部)     八王子市 串田家文書
下段 明治廿八年一月 稲毛下田地蔵尊(の一部) 

参考 当初考えていた下田地蔵の巡行想定図
まとめ
 私は小山さんにお会いするまで、下田地蔵の巡行の様子を左図のように考えていました。下田地蔵に関する小山さんの研究は既に承知しておりしたが、どんな姿で巡行していたかは分りませんでした。電話をしてみようとか、手紙を書いて見ようとかいろいろ考えましたが、決心がつかないでいました。その訳は三年間も音信が途絶えていたためでした。
「このままでは・・・」と思いながら、思い切って小山さんの家を尋ねることにしました。小山さんは陽の良く当たる縁側におられました。もしやと思っていましたので兎に角ほっとしました。「すいません」と謝って、それから堰を切ったように、いろいろなお話を伺いました。空白の三年間は大病をされ入院をされていたのだそうです。
 私は小山さんの記録を手掛かりに連名帳からあらためて巡行の形態を知ることができました。連名帳の裏には小山さんの添え書きもありました。昭和15年頃まで行われていたこと、真福寺には三体の地蔵様があり一つは静岡伊豆方面に、一つは東京板橋方面、そして多摩や相模原、町田方面を廻っていたことなどです。加藤武雄の短篇小説を手掛かりに「下田の地蔵」さまとはどのようなものか、その一方で小山さんは鉦を打ちながら先達として巡行した串田家の立場からご研究をされておられました。若かりし加藤武雄と小山金次さんが最後に見たそれぞれの下田の地蔵さんへの思い。こうした貴重な記録からかっての下田の地蔵様について知ることができたのです。

 「文章世界 菖蒲号第五巻第六号) 下田の地蔵 加藤冬海」 博文館 明治43年5月 日本近代文学館所蔵
 「三田今むかし」 ー下田の廻り地蔵 下田子育延命地蔵ー 小山金次 印刷 有泉印刷 発行 平成2年11月
 加藤武雄読本 −望郷と回顧− 監修 和田傳 加藤武雄読本刊行会 発行 昭和57年11月
  多摩の巡行仏 ー東京都と神奈川県(川崎・横浜市)ー 中島恵子 町田市立博物館 発行 1990・3
  狛江市文化財調査報告書第8集 狛江市の巡行仏  狛江市教育委員会  発行 昭和62年3月
  「下田の地蔵」 中村亮雄 「ひでばち」 第十一号 ひでばち民俗談話会 発行 昭和 


              
加藤武雄と一瀬豊・農民文学の扉
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