1199 |
正治元年 |
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・ |
9月、栄西、幕府主宰の不動尊供養の導師を勤める。 |
1200 |
2 |
・ |
・ |
1月2日、道元、京都に生まれる。父は内大臣久我通親、母は松殿関白基房の女。
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幼名は信子丸。両親が誰であるかについては諸説ある。/四国地方には道元の出生に関して、「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承が残っている。これはキリストや聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものであると考えられる。/伝記である『建撕記』によれば、3歳で父(通親)を、8歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子になった。また、一説によれば、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったとも言われている。この時の逸話として残っているのが、誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を、その花に群がっていた虫ごとむしりとって食べはじめ、無言のうちにその申し出を拒否する意志を伝えたという話である。「ウィキペディア」より
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〇この年、栄西、北条政子の請により頼朝一周忌の導師を務める。政子建立の寿福寺住職に招聘される。
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1201 |
建仁元年 |
1 |
・ |
・ |
1202 |
2 |
2 |
・ |
〇この年、栄西、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護によって京都に建仁寺を建立する。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。 |
1203 |
3 |
3 |
・ |
・ |
1204 |
元久元年 |
4 |
・ |
7月、頼家、殺される。(23才)
〇この年、栄西、『日本仏法中興願文』を著す。 |
1205 |
2 |
5 |
・ |
・ |
1206 |
建永元年 |
6 |
・ |
9月、栄西、なき重源の後を受けて東大寺勧進職に就任、大仏殿の造営を完成させる。 |
1207 |
承元元年 |
7 |
・ |
〇この年の冬、道元、父を五年前に亡くして母が死去。その波瀾の多かった薄幸の生涯に、発心する。
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(参考)一日示して云く、佛法の爲めには身命を惜むことなかれ。俗猶ほ道の爲には身命をすて、親族をかへりみず、忠を盡し節を守る。是れを忠臣とも云ひ、賢者とも云ふなり。昔漢の祖、隣國といくさを起す時、ある臣下の母、敵國にありき。官軍も二た心ろ有らんかと疑ひき。高祖も彼れ若し母を思ひて敵國へさることもやあらんずらん、若しさあらば軍やぶるべしとてあやぶむ。爰に彼の母も、我が子もし我れによりて我が國へ來ることもやあらんかとおもひ、誡めていはく、われによりていくさの忠をゆるくすることなかれ、我れもしいきていたらば汝二た心ろもやあらんと云ひて、劍に身をなげてうせてけり。其の子本より二た心なかりしかば、其のいくさに忠節を致す志深かりけると云ふ。況や衲子の佛道を存するも、必ず二た心無き時、まことに佛道に契ふべし。(略) 正法眼藏隨聞記第五 侍者 懷奘編 全集第三巻 附録 P129 |
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1208 |
2 |
8 |
・ |
〇この春より、道元、世親菩薩の倶舎論を閲(けみ)し、昼夜精を励まして修学したまう。 |
1209 |
3 |
9 |
・ |
〇この年、栄西、京都の法勝寺九重塔再建を命じられる。 |
1210 |
4 |
10 |
・ |
・ |
1211 |
建歴元年
3・9改元 |
11 |
・ |
〇この年、栄西、『喫茶養生記』を著す。 |
1212 |
2 |
12 |
・ |
〇この年、養父※師家公将(まさ)に大師に※加冠し、※顯要(けんえう)の職に奏薦せんと思はれ、其の期方に定なり。補任の職亦將に決せんとせり。続く→@へ 《元服する。》 承陽大師御傳記
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※養父師家:母(伊子)の弟・内大臣・関白
※加冠:元服の儀式の際,元服する者に冠をかぶせること。またはその際,冠をかぶせる役をする者。武家の場合は烏帽子親と称された。
※顕要(けんよう):地位が高くて重要なこと。また、そのさま。
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〇この年の春、道元、木幡の山荘を出て、比叡山の麓の叔父(師家の弟)※良観法印(良顕法眼)を訪ね、出家の決意を述べる。
注 ※良観法印:秋月龍a著「道元入門」年譜 ※良観法眼 承陽大師傳記
※良顕法眼:唐木順三著「仏堂修行の用心」年譜
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藤原母方系図
承陽大師御傳記
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資料:→@より 「蓋し當時の公卿は。大概閥族家例を以て補任せられ。敢って年齒の長幼を問はざるを以てなり。大師竊(ひそか)に之を聞き。自ら忖度したまはく。※塵累(ぢんるい)漸く※纏綿(てんめん)して。益々出難を※[ケイ]礙(けいげ)す。苟(いやしく)も相家の[チョウ]嗣(ちょうし)にして、朝廷の卿輔(けいほ)に補せらるゝときは。遽(にはか)に世を遁(のが)れ家を出づべからず。假令(たとひ)幸にして志しを遂ぐるも。頗る皇家の恩眷(おんけん)に[コ]負(こふ)し。而して又累を家門に及す。其の罪誠に鮮少(せんせう)ならずろ。是に於いて大師竊に其の志しを決したまひ。一夜更闌(かうたけなは)に人定りて後。粛然として乃父乃母の寝室に向かひ。多年愛育慈撫の劬勞を禮謝し。一掬無限の感涙を袖にし。自ら憶念したまはく。流轉三界中。恩愛不能斷。棄恩入無爲。眞實報恩者と。竟(つい)に遁(のが)れて家を出でたまへり。時に春月微雲(びうん)に罩(こ)められ。※花影※幽徑に徘徊し。香風脈々として。輕寒衣襟を襲ふ。既にして四明の山麓に達し。外叔良観法眼の禅室を叩きたまふ。法眼は基房(もとふさ)公の子師家(もろいえ)公の弟大師が生母の兄にして。叡山の※上綱(じゃうかう)。※顕密の先達なり。この時法眼驚(おどろ)き迎へて其の所由を問ひたまひしかば。大師具(つぶさ)に其の志しを告げたまへり。法眼其の加冠の期近くして。補任の將に決せんとすることを思ひ。且(かつ)阿兄の驚嘆と親戚の愛惜とを顧慮し。深く素志の翻回(ほんくわい)を※慫慂(しょうよう)したまひしに。大師固く拒みてのたまはく。慈母逝去の時※遺誡(ゐかい)して。吾が亡き後には。必ず剃髪染衣して佛法を修行し。逝きにし父母の冥福を資(たす)け。(略)」
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※塵累(じんるい):俗世間のわずらわしさ。世の中のうるさい関係。
※纏綿(てんめん):@ まつわりついて離れないさま。A 情愛のこまやかなさま。
※[ケイ]礙(けいげ):こだわりとか妨げ
※花影(かえい):月の光などによってできる花の影。特に、桜の花の影。
※幽径(ゆうけい):奥深い静かなこみち。
※上綱(じょうこう):1 《「じょうごう」とも》僧綱(そうごう)のうち、上位の者。
※顕密(けんみつ):顕教と密教。
※慫慂(しょうよう):そうするように誘って、しきりに勧めること。
※遺誡(いかい):子孫などのために残しておくいましめ。ゆいかい。
承陽大師御傳記 p20〜21
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〇この年、道元、横川(よかわ)般若谷の千光房に入る。
〇この年、栄西、法印に叙任。 |
1213 |
建保元年 |
13 |
・ |
4月9日、道元、天台座主公円について剃髪受戒する。
4月10、道元、延暦寺に登り円頓戒壇院で菩薩戒を受ける。
5月、栄西、権僧正に任ぜられる。頼家の子の栄実が、栄西のもとで出家する。
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1214 |
2 |
14 |
・ |
注〇この年の春、道元、比叡山を下り、園城(三井)」寺に公胤に疑問を質し、その指示を受けて、建仁寺の栄西に参ずる。秋月龍a著「道元入門」年譜 |
1215 |
3 |
15 |
・ |
7月5日、栄西が亡くなる。享年75歳
『大乗院具注歴日記』の裏書きによって、7月5日京都建仁寺で入滅したことが確定している。
〇この年、道元、園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める。
〇この年、懐弉禅師(後の永平寺二世)が比叡山にて出家する。 |
1216 |
4 |
16 |
・ |
・ |
1217 |
5 |
17 |
・ |
8月25日、道元、建仁寺に入り、栄西の弟子明全に参ずる。
注〇この年、道元、「本来本法性」、「天然自性身」という教義に大疑問を抱く。
注 疑問について、建保2年説もあり 検討要 唐木順三著「仏堂修行の用心」年譜
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1218 |
6 |
18 |
・ |
・ |
1219 |
承久元年 |
19 |
・ |
1月、実朝、公暁に殺される。(28才)
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1220 |
2 |
20 |
・ |
・ |
1221 |
3 |
21 |
・ |
〇この年、栄西の高弟、栄朝が世良田に長楽寺を開く。
〇この年、承久の乱が起り、後鳥羽・順徳・土御門の三院が配流される。
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参考
「承久の時、順徳帝越後の寺泊より勅使を立て御嶽に奉幣あり、使人ここえ輿を止めて登山せり今その地を萩堂と称す(三間に四間)」 甲斐國志 |
甲府市平瀬・順徳山常説寺 板輿(いたこし) |
1222 |
貞応元年 |
22 |
・ |
・ |
1223 |
2 |
23 |
・ |
2月22日、道元、明全らとともに建仁寺を出て博多から南宋に渡り諸山を巡る。
4月の初め、明全一行は明州に入港、船中にて阿育王山の老典座と会う。
7月、明全一行が天童山景徳寺に入る。
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「入宋した道元は天童山景徳寺に掛錫し、臨済宗大慧派の無際了派の会下において修禅に励み、禅生活の多くの基調を体得し、只菅打坐(しかんたざ・ひたすら坐る)による自己の宗教的立場の方向を発見する。
竹内道雄執筆「栄西と道元」 P139」 |
〇この年、日蓮が生まれる。 |
1224 |
元仁元年 |
24 |
・ |
・ |
1225 |
嘉禄元年 |
25 |
・ |
5月1日、道元、天童如浄(にょじょう)禅師に相見する。
秋月龍a著「道元入門」年譜・唐木順三著「仏堂修行の用心」年譜
5月27日、明全亡くなる。(41歳)
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明全(みょうぜん、元暦元年(1184年)- 嘉禄元年5月27日(1225年7月4日))は、伊賀国出身の鎌倉時代前期の臨済宗の僧。号は仏樹房。 初め延暦寺の椙井房明融に師事し、その後栄西に師事して法を継いだ。1223年(貞応2年)道元・高照・廓然らを伴って中国の宋に渡り、景福寺の妙雲、ついで栄西の師でもある太白山景徳寺の無際了派の下で学んだ。太白山にいること3年、病に倒れ、景徳寺了然寮で遷化してしまった。 道元は明全との師弟関係9年の間に、天台教学・臨済宗黄龍派の禅・戒律などを学んだが、明全の遺骨を持ち帰り「舎利相伝記」を表し、明全の戒牒に奥書を記して永平寺に納めた。「ウィキペディア」より |
7月2日、道元、初めて如浄禅師の方丈に参じ、「教外別伝(きょうげべつでん)、祖師西来の大意如何」を問う。
5月1日、相見しているので、この年譜では「初めて」を削除する。 2012・2・16 保坂
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(参考)寶應元年七月初二日參二方丈一。道元拝問。諸方今稱二教外別傳一。
而爲レ看二祖師西來之大意一。其意如何。 承陽大師聖教全集 第三巻 附録 P1 |
9月18日、道元、天童如浄から「身心脱落」の語を聞いて体得、「仏祖正伝」の菩薩戒を受ける。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を如浄から受け継ぎ、印可を受ける。
(その際の問答記録が『寶慶記』(題名は当時の年号に由来)。 |
1226 |
2 |
26 |
・ |
〇この年、道元、「宝慶記」を著す。 (宋の年号/宝慶二年) |
1227 |
安貞元年
(12・10
改元) |
27 |
・ |
7月17日、如浄禅師が亡くなる。(66歳)。
〇この年、帰国前夜『碧巌録』を書写したが、白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある(一夜碧巌)。
〇翌日、大師天童山を拝辭、舟に上り江を下りたまふ。 承陽大師御傳記
相模原市緑区青野原
龍泉寺 一葉観音 |
「承陽大師御傳記/第十八章 帰朝及び其の前後の消息 P82〜83
(略)已にして大師の舟大洋に出づ。水天一色。渺として際涯なく。太陽の出没をみて。僅に東西の方向を知るのみ。一日黒雲天の一方より起り。漸く大空に彌蔓(みなん)す。舟子色を失なふ。既にして※颶風忽ちに起り。暴雨大いに至る。怒涛狂瀾洶湧澎湃し。一扁の弧舟は。已(すで)に將に覆沒せんとすること数回。滿船みな叫喚悲慟(きょうかんひどう)し。各々死を待つが如し。大師蓬窓に在り黙然として端座し。少頃時を移したまひしに。忽ちにして観世音菩薩は。一片に蓮葩(れんぱ)に駕し。大師の舟頭に出現したまふ。※須臾(しゅゆ)にして、風雨徐(しづか)に収まり。波濤漸く平(たいら)かにして。扁舟遂に危難を免るゝことを得たり。 |
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大乗妙典普門品に、衆生※困厄(こんやく)せられ。無量の苦身に逼(せま)るに。観音の妙智力は。能(よ)く世間の苦を救ひ。神通力を※具足して。廣く智方便を修し。十方諸[く]の國土に。刹として身を現ぜずといふことなし。或は巨海に漂ひ流れ。龍魚諸[く]の危難あらんに。彼の観音の力を念ずれば、波浪も沒(しづむ)ること能(あた)はずと。蓋し是れ之を謂ふなり。大師と観音浄聖と。唯佛與佛なり。乃能究盡なり。誠に最勝最尊の事ならずや。既にして十數日風順に波穏かにして。舟肥後の國河尻(かじり)に達しぬ。(略)
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※颶風(ぐふう):1 強く激しい風。2 熱帯低気圧や温帯低気圧に伴う暴風をいう古い気象用語。
※須臾(しゅゆ):しばし・一瞬
※困厄(こんやく):苦しむこと。困難。難儀。
※具足(ぐそく): 1 物事が十分に備わっていること。 「承陽大師御傳記」より |
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8月、道元、九州肥後の河尻(かじり)に帰着、建仁寺に入る。
9月2日、道元の育父、源通具が死去する。
10月5日、道元、「舎利相傳記(しゃりさうでんき)」を著す。
〇この年、道元、『普勧坐禅儀』を著す。
|
能忍(達磨宗)の没後は弟子の東山覚晏が教団を継承し、門下の懐奘(1198年
- 1280年)らと共に大和国(奈良県)の多武峰を中心として活動を続けた。ところが、今度は南都興福寺の門徒らの焼き討ちに遇い、越前国(福井県)に逃れた(1227年)。
越前では、白山系天台宗の拠点の一つである波著寺を本拠とした。覚晏の没後、1234年に懐奘が、1241年には、門弟中の懐鑑、義介(1219年
- 1309年)らが、深草(京都府)の興聖寺を本拠としていた道元の下に参じた。
「ウィキペディア」より |
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1228 |
2 |
28 |
・ |
・ |
1229 |
寛喜元年 |
29 |
・ |
〇この年の頃、懐弉禅師が道元禅師の門を叩くも、問答に負ける(『伝光録』第52章)。 |
1230 |
2 |
30 |
・ |
〇この頃より、天台教団の鎌倉仏教に対する迫害が激しくなり、道元、建仁寺を去って京都深草の極楽寺の別院安養院にて閑居に入る。 |
1231 |
3 |
31 |
・ |
〇この年、道元、『弁道話』を著す。 |
1232 |
貞永元年 |
32 |
・ |
・ |
1233 |
天福元年 |
33 |
・ |
〇この年、道元、深草の極楽寺旧蹟に観音導利興聖宝林寺(後の興聖寺)を開創する。
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道元は宋から安貞元年(1227年)に帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後、同寺を去って深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院に閑居した。寛喜元年(1229年)頃のこととされる。安養院はかつて深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡で、現在の京都市伏見区深草宝塔寺山町付近にあったと推定されている。天福元年(1233年)、道元は深草に興聖寺を開創する。『永平広録』によれば嘉禎2年(1236年)に開堂式が行われ、観音導利院興聖宝林禅寺と号した。なお、その前年の嘉禎元年(1235年)の「宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏」(『建撕記』所収)によると、当時の興聖寺には仏堂はあったが法堂と僧堂はまだなく、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていた。建築史家の太田博太郎は、この時点(嘉禎元年)からわずか1年足らずの嘉禎2年に伽藍が完成していたとは考えられないとしている[3]。
興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)、道元が越前に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶した。その後慶安2年(1649年)、淀城主の永井尚政が万安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが今ある興聖寺である[4]。
「ウィキペディア」より |
〇この年の夏安居日(旧暦4月16日〜7月15日の3ヶ月間)の頃、「正法眼蔵」の巻にある「摩訶般若波羅蜜」を著す。
7月15日、道元禅師『普勧坐禅儀』を撰述。国宝 永平寺蔵 (28・7p×319p)
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(略)
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〇この年の中秋の頃、「正法眼蔵」の中の最初の巻にある「現成公案」を、鎮西太宰府の俗弟子、楊光秀のために著す。 |
1234 |
文暦元年 |
34 |
・ |
3月、道元、『学道用心集』が成る。延文2年(1357)に刊行される。
〇この年、道元のもとに 孤雲懐奘が入門する。
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懐奘はこのとき三十七歳。懐奘は多武峯の覚晏のもとで教外別伝の禅を学んでいたが、道元が京都に帰来して建仁寺に在りと聞き、好奇心をもって道元を訪ね対談。やがて敬服して入門を乞うたが、独立した草庵を開くまで待てと云われて待機していた。この年漸く会下に参じたのである。この年あるいは次の年から「隋聞記」の筆録を始める。 「仏道修行の用心・年譜」 |
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1235 |
嘉禎元年 |
35 |
・ |
8月15日、道元、懐弉禅師に伝戒。
同年 冬至日、道元禅師『真字正法眼蔵』編集。 未確認 2020・2・17 保坂 |
1236 |
2 |
36 |
・ |
10月15日、興聖寺僧堂の開堂式が行われ、我が国最初の純粋禅による修道生活が開始される。
12月末日、懐弉禅師を興聖寺最初の首座に任じ、※秉払を行わしむ。
※秉払(ひんほつ):《払子(ほっす)を手にとる意。「ひんぽつ」とも》禅宗で、住持が払子をとり、法座に上って説法すること。
また、住持に代わってその資格のある首座(しゅそ)が説法すること。 |
1237 |
3 |
37 |
・ |
〇この年、道元、「典座教訓」を著す。 |
1238 |
歴仁元年 |
38 |
・ |
〇この年、「隋聞記」の筆録終る。 |
1239 |
延応元年
(2・7改元) |
39 |
・ |
4月25日、道元、「重雲堂式」を著す。
末尾に「暦仁二年己亥四月二十五日、觀音導利興聖護國寺開闢沙門道元示」とあり |
1240 |
仁治元年 |
40 |
・ |
・ |
1241 |
2 |
41 |
・ |
〇この年の春頃、多武峯(とうのみね)覚晏(かくあん)門下(達磨宗)の懐鑑を始め、義介(ぎかい)・義演(ぎえん)・義準などが道元禅師の門下に入る。
同年 比叡山で学んでいた寒巌義尹(ぎいん)禅師も道元禅師に参じる。 |
1242 |
3 |
42 |
・ |
4月12日、道元禅師が近衛殿に謁して法談に及ぶ(『示近衛殿法語』)。
同年、心地覚心(臨済宗法灯派)が道元禅師より菩薩戒を受ける(『円明国師行実年譜』)。
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研究テーマ:「承陽大師傳記 P117」によれば、「(この頃、(略)枉駕(わうが)説法したまいしこと一百餘回。受菩薩戒の弟子二千餘人に及ぶ。相模の國鎌倉浄土宗光明寺開山良忠(りやうちう)上人。紀伊の國由良臨済宗興國寺開山法燈國師を始めとして。(略)」とあり |
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1243 |
寛元元年 |
43 |
・ |
7月、道元、 越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移る。途中、朽木の領主佐々木信綱の招きに応じ、朽木に立ち寄る(興聖寺の由来)
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比叡山の圧迫甚だしく、ついに興聖寺を離れて越前志比荘吉峯寺に移る。この一年間に「正法眼蔵」に収められている二十五巻が成立。この年の前後が道元の最も多く眼蔵を講説した年である。 「仏道修行の用心・年譜」 |
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1244 |
2 |
44 |
・ |
7月、道元、吉峰寺から傘松に大佛寺を開く。 |
1245 |
3 |
45 |
・ |
4月15日※結夏、大師※上堂の説法の中の前後に天華墜下、※恭敬供養(くきゃうくいやう)を奉る。
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※結夏(けつげ):夏安居?(げあんご)?を始めること。また、始める日。陰暦4月16日。
※上堂(じょうどう):1 禅宗で、住持または導師が法堂(はっとう)に上がって説法をすること。
2 禅宗で、食事のために僧堂に上がること。 3 禅寺座敷の上段の間。
※恭敬(くぎょう):つつしみうやまうこと。きょうけい。 永平寺・霊験 1 |
9月25日、初雪の一尺ばかり降りける時
※長月(ながつき)の紅葉(もみぢ)のうへに雪(ゆき)ふりぬ みる人誰(だれ)はことの葉のなき
※長月(ながつき):陰暦9月の異称。「傘松道詠」歌より 傘松道詠歌より |
1246 |
4 |
46 |
・ |
6月15日、道元、大佛寺を「永平寺」と改め、自身の号を希玄と改める。
同日、『知事清規(『日本國越前永平寺知事清規』)』が成立する。
巻末には「于時寛元丙午夏六月十五日 越宇永平開闢沙門道元撰
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1247 |
宝治元年 |
47 |
・ |
1月15日、大師、布薩を修行し説戒したまひしに、五色の彩雲靉靆(あいたい)す。
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布薩(ふさつ):同一地域の僧が毎月2回、新月と満月の日に集まって戒本を誦し、互いに自己反省し、罪過を懺悔(さんげ)する行事
説戒(せっかい):布薩に同じ
靉靆(あいたい:1 雲や霞(かすみ)などがたなびいているさま。 永平寺・霊験 2
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8月3日、道元、波多野義重らの招請により教化のため、鎌倉に出発する。
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寶治元(1243)年相州鎌倉に在して最明寺(さいみゃうじ)道崇禪門(だうさつぜんもん)の請(こひ)によりて題詠十首
※教外別傳(けうげべつでん)
あら磯の波も※えよせぬ高岩に かきもつくべきのりならばこそ
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※教外別伝(きょうげべつでん):仏陀の教えは,言葉によって伝達された場合もあったが,仏教の真の精髄は言葉によって 表現しうるものではないので,心から心へと直接伝達されるとする考え方。すなわち,禅宗は他の宗派と異なって,仏陀の言葉では表わせない真の精神を受けているものだとする。(→不立文字)
「傘松道詠」歌より |
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〇この年、道元、鎌倉にて北条時頼と会談、菩薩戒を授ける。『永平広録』巻3−251 |
1248 |
2 |
48 |
・ |
3月13日、道元、永平寺に帰山する。
4月〜11月12日に至るまで、永平寺僧堂の内外に於いて、時々に殊勝なる異香馥郁(ふくいく)す。是諸天善神の大師の化益を尊重し讃嘆し。恭敬し供養し奉る
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馥郁(ふくいく):よい香りがただようさま。 永平寺・霊験 3 |
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1249 |
建長元年 |
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1月1日、大師、永平寺に於いて羅漢尊者の大供養会修行中、十六大阿羅漢尊者の木像及び書像悉く皆大光明を放ちたまへり。 永平寺・霊験 4
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十六大阿羅漢尊者:『大阿羅漢難提蜜多羅所説法住記』(だいあらかんなんだいみたらしょせつほうじゅうき)によると、仏滅800年経ち、ナンディミトラ(慶友)大阿羅漢が大衆に説いたとされる、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を済度する役割をもった16人の阿羅漢。 |
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〇この年、波多野義重が永平寺に『大蔵経』を納める旨、書状にて知らせる。
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雲州太守、応に大蔵経を書写して当山に安置すべしの書到る上堂に、挙す。僧、投子に問う「一大蔵経に、還、奇特の事有りや、也、無しや」と。投子云く「演出、大蔵経」と。投子古仏、既に恁麼に道う。山門多幸。因みに一偈有り、雲水の為に道わん。乃ち云く、演出、大蔵経、須く知るべし、大丈夫・天人・賢聖類、幸いに護身符を得たり。正当恁麼の時、如何。良久して云く、世間、必ず阿羅漢有り、善悪、豈、因果の途無からんや、と。
『永平広録』巻5−361上堂 |
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1月5日の夜半に、大師子院の霊山院庵室に在して、花山院入道宰相及び其の他の道浴を接化したまふ。時に神鐘の霊饗あり。 永平寺・霊験 4
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(永平寺霊験のこと)後、大師或る人の問に答へたまひて
當山に。つきがねのこゑきこえ候事。御たづねにつきて申候。この七八年のあいだに。たび〔く〕覚え候なり。今年正月五日子時。花山院宰相入道と希玄(きげん)と。霊山院の菴室(あんしつ)に。佛法の談義(だんぎ)するところに。かねのこゑ二百こゑばかりきこえる。そのおほきさ。京の東山の清水寺のかね。もしは法勝(ほうしょう)寺のかねのこゑほどに候へば。ずいきしてきゝ候。そゞろにたふとくおぼえ候。宰相もふしぎなれいちなりと。ずいきしいりて候ひき。入道ぐせられて候中將兼ョ(かねより)朝臣。一室に候ひながらきかず候。めのと子に右近蔵人入道徑資法師(けいしほうし)。これもきかず候。そのほか女房二三人さふらひ。七八人候も。みなうけたまはり候はず候。そのほか(略)
承陽大師御傳記 P156.157
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〇この年の10月頃か、道元禅師発病する。 |
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1月6日、『正法眼蔵』最後の1巻である「八大人覚」を著す。
7月15日、永平寺住職の座を、弟子の弧雲懐弉禅師に譲る。
8月5日、波多野義重の進言により道元禅師が病気療養のため上洛の途につく。
途中、木ノ芽峠を越える
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越後路より都におもむきし時木芽山(このめやま)といふ所にて
草の葉に首途(かどで)せる身の木(こ)の目やま くもに路あるこゝちこそすれ
「傘松道詠」歌より |
8月15日、道元禅師中秋に因む和歌を詠まれるが、事実上辞世の歌となる。
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五十四年
照第一天
打箇※1□跳
触破大千
※2口
渾身無覓
活落黄泉
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五十四年
第一天を照らす
箇の※1□跳を打して
大千を触破す
※2口
渾身に覓むる無し
活きながらに黄泉に落つ
※1□→変換不能 足ヘン+享 ※2□→変換不能 口ヘン+夷 |
8月28日、道元、俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で没す。(54歳。死因は瘍とされる。)
9月10日、懐弉、永平寺に道元の遺骨を持ち帰る。
9月12日、永平寺方丈の間にて、入般涅槃の儀式に準えた法事が行われる。
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