吉野秀雄関連年譜             yosinohideo-nenpu.html
2019・11・14 「河」についての資料を追加
2019・11・25 「米川稔短歌百首」本の蒲表紙に記された二首を追加
 八木重吉の年譜を作ると、どうしても吉野秀雄さんの年譜が作りたくなる、それで、八木重吉の年譜の最後の方は、自然と吉野秀雄さんのことが多くなってしまった。それではまずいと思いながら重吉さんが全く知らない、吉野秀雄さんと云う人の年譜も「どこかで、作らなくては・・・。」と思うようになってしまう。
 これらの年譜は、二人の人生を共に歩んだいっそのこと「登美子さんの年譜」と、した方が良いのかも知れないが、ここでは、吉野秀雄さんの作品等を含ませながら、その一生を辿って見たいと考えました。
 己を深く見つめ、人生を楽しんだ吉野秀雄と云う人物の年譜(作成中)です。
「吉野秀雄の歌」が「広報たかさき」に50回に亙り連載されていた。 2002年12月号 「上州路・吉野秀雄のこと 原一雄」より
子規遺稿第一篇 竹の里歌 明治39年再版」に挟まれた、短冊(10×5p位)13枚に「本の名と吉野藤」とあるを見つける。 2019・11・4
秀雄は、何故、佐藤耐雪(吉太郎)を知ることができたか。 会津八一のようにか、また、高村光太郎についても 2019・11・29
良寛堂建設に伴う建設費に「寄贈書絵画の売上」が含まれているが、その写しとか行方等どのようであるか。 2019・12・4 
西暦 和年号 主な出来事 重吉 登美子 秀雄 はつ子
1895 明治28年
1896 明治29年
1897 明治30年
1898 明治31年 2月9日、重吉、東京府南多摩郡堺村相原4473、父籐三郎、母ツタの次男として生まれる。 0
1899 明治32年 1
1900 明治33年 7月3日、重吉の弟(三男)純一郎が生まれる。
6月、会津八一が根岸の子規庵を訪ねる。
2
1901 明治34年 3
1902 明治35年 7月3日、吉野秀雄、高崎市新町46番地、吉野藤一郎、サダの次男として生まれる。 4 0
1903 明治36年 5 1 0
1904 明治37年 4月1日、重吉、大戸学校に入学する。 6 2 1
1905 明治38年 2月4日、島田登美、新潟県高田市南城町、父助作、母イトの三女として生まれる。 7 0 3 2
1906 明治39年 1月、高濱清(虚子)著「子規遺稿第一篇 竹の里歌」が再版される。 吉野秀雄文庫所蔵 y01/03166342
本書は他から購入したか譲り受けたものかは不明。P68と69の間に短冊(10×5p位)13枚が挟まれてありました、短冊には、購入したいと思う書名とその左下側に「吉野藤」と社名が自筆で記されてありました。 2019・11・24 AM 確認済 保坂
8 1 4 3
1907 明治40年 9 2 5 4
1908 明治41年 重吉、神奈川県川尻村尋常高等小学校へ通学。 10 3 6 5
1909 明治42年 吉野秀雄、生来虚弱のため、祖父母の家に預けられ、富岡尋常高等小学校に通う。 11 4 7 6
1910 明治43年 12 5 8 7
1911 明治44年 13 6 9 8
1912 明治45年 4月1日、重吉、鎌倉の神奈川県師範学校に入学する。 14 7 10 9
1913 大正2年 15 8 11 10
1914 大正3年 16 9 12 11
1915 大正4年 4月、高崎の家に戻り、高崎商業学校に入学する。この時の国語の担任に、長塚節の縁者と云う丹羽泰蔵がいて、正岡子規や長塚節についての影響を受ける。 17 10 13 12
1916 大正5年 18 11 14 13
1917 大正6年 1月、秀雄、祖父藤作が亡くなる。(享年62歳)
3月26日、重吉、神奈川県師範学校を卒業する。
4月1日、重吉、東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学する。
7月19日〜8月22日まで、秀雄、兄健太と東北・北海道を旅行、北海道大沼公園で短歌二首を作る。
19 12 15 14
1918 大正7年 20 13 16 15
1919 大正8年 3月2日、重吉、駒込基督会徳永徳磨牧師により洗礼を受ける。
12月、重吉、スペイン風邪に罹り、肺炎を併発して重症となる。
21 14 17 16
1920 大正9年 4月、秀雄、慶應義塾大学理財科予科に入学する。少年時代より『福翁自伝』を愛読していた。
11月2日、出雲崎良寛寺(良寛堂・建立)会計調査がなされる。   
 収入(内訳) 791円50銭 出雲崎町内九十六人寄附金
755円00銭 市外三十三人寄附金
9350円00銭 寄贈書画売上代
206円69銭 家屋売払銀行利子
 収入合計 11103円19銭 収入合計
 支出(内訳) 277円45銭 事務費
1578円41銭 勧財費
2271円40銭 土地買入費
3486円61銭 工事費い
26円07銭 利子
 支出合計 7639円94銭 支出合計
 差引残高 3463円25銭
「出雲崎町史 資料編 V 近代・現代編 発行 平成元年10月 「用留」 第4章 出雲崎町の教育・文化 P493」から図表にしました。
○重吉、本科3年に進み寮に戻ろうとしたが『肺病やみ』といわれて寮を追われ、池袋の素人下宿に入る。
22 15 18 17
1921 大正10年 3月、重吉、池袋の下宿に同宿していた石井義純に頼まれ、島田とみの勉強をみる。
3月31日、重吉、兵庫県御影師範学校(現・神戸大学)の教諭兼訓導(英語科)に任じられる。
7月15日、重吉、陸軍の6週間現役兵として歩兵第三九連隊に入営する。
11月、重吉、東京高師の恩師内藤卯三郎にとみへ正式な結婚の申し込みを依頼する。
12月、重吉、手紙で連絡をとりながら冬休み。とみと、とみの兄、内藤の4人で芝公園内の茶店で出あう。
23 16 19 18
1922 大正11年 1月、重吉、横浜市本牧神社に於いて、内藤卯三郎の仲立ちにより婚約が成立する。
4月、秀雄、慶應義塾大学経済学部に進む。 
7月5日、安田新三郎が「留散東(ふるさと・筆者 良寛)」を「金屬版印刷所/七條憲三」から刊行する。
安田新三郎は安田靫彦の本名。「靫彦は前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ1981年、1986年、1996年に切手に用いられた。良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。」Wikipediaより
所蔵:吉野秀雄文庫 y01/03191505  和綴本
7月19日、内藤氏が列席して、重吉(24才)と、とみ(17才)が結婚する。兵庫県御影町石屋川の借家に住む。 
9月5日、佐藤吉太郎(耐雪)が「北越新報社」から「出雲崎の史的趣味」を刊行する。 pid/964486
良寛堂ここは當町随一の舊家と稱せられる橘屋山本氏の舊屋敷址である。(略)私が二十年來蒐集せる各家の記録によって出雲崎編年史を執筆中、由緒ある橘屋を思ひ、憤悶の情を俳諧に籍りて一生を晦韜した以南を思ひ、崇高清純な人格者たる良寛上人を慕ふのあまり、衷情つひに偲ぶ能はず、斷然禿筆を抛(なげう)って、この歴史ある尊き橘屋の舊址を拓らき、そこに碑を建て小庵を營み、永く後世に上人の徳光を傳へ、あはせて上人誕生の霊地を記念することが、出雲崎の歴史を明らかにする上に最も大なる意義を有する事だと覺悟し、自ら立ってそれの企劃を進めたのが、大正四年天長の佳辰であった。/ 
而して爾來春秋七星霜、此間、終始一貫行動をともにして、力をその事の爲めに致されたるは元全久院住職塚本本格道師であって、更に町内重立の多くは、發起人として浄財を喜捨し、工事を助成せられたのであった、尚この良寛堂造営の歴史として永遠に傳へて忘るる能はざる事は大正當代の左記(このでは下記)大家が、良寛上人敬意のあまり、喜んでこの造営工事を輔佐加勢せられた事である。なほ此堂宇は藤原時代末葉唯一の建造物として高雅な様式を以て鳴る宇治鳳凰堂の一角に範を採り、更に安田靫彦畫伯が舟形肘木の線と感じとに考慮を運らされて出來上ったのである。
憤悶(ふんもん):いきどおり、もだえること。憤懣(ふんまん)。
晦韜(とうかい):1 自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと。2 身を隠すこと。姿をくらますこと。

衷情(ちゅうじょう):うそやいつわりのない、ほんとうの心。衷心。
佳辰(かしん):めでたい日。よい日柄。
輔佐(ふさ):身分の高い人をたすけて事を処理すること。また、その人。ほさ。
□良寛堂造営顧問
豊山大學長 権田雷斧 曹洞宗師家 新井石禅 東洋大學長 大内青巒 美術学校長 正木直彦
美術家 安田靫彦 大愚良寛著者 相馬御風
□自家作品
 寄贈大家芳名

  《書》
高津柏樹 三浦観樹 松浦厚 神尾光臣 河東碧梧桐 北野元峰 横尾賢宗 山田孝道
九鬼隆一 北條時敬 高濱虚子 大内青巒 高田道見 秋野孝道 南條文雄 建部遯吾
大西良慶 松本文三郎 高村竹隱 土宣法龍 内藤湖南 安田呉竹 長尾雨山 山本意山
菅原時保 筒井寛聖 佐伯不東 梅原靈巖 新井石禅 石川素堂 日置黙仙 河野霧海
權田雷斧 弘津説三 上村観光
□自家作品
 寄贈大家芳名

  《畫》
下村観山 安田靫彦 橋本關雪 木村光年 伴 壽山 竹内栖鳳 橋本獨山 田村月樵
富岡鐡齋 武田黙雷 田能村小笠 三輪越龍 三木翠山 小西編年 田中松斎 服部五老
藤井松山 江上瓊山 人見少華 山口八九子 田中松峰 橋本紅影 柴田晩葉 前田一鶯
吉田柳外 山瀬春嶺 井村方外 坂田舟皐 富所友竹 諸橋湘江 津端道彦 伊藤龍涯
今井爽邦 奥原晴翠 倉田松濤 須田霞亭 豊原瑞雨 富取芳谷 山岸痩石 木下静涯
尾竹越道 八木岡春山 尾竹竹坡 松野霞城 谷洗馬 中村不折 池上文僊 阿出川眞水
村上委山 藤山鶴城 寺崎廣業 田村豪湖 森脇雲溪 高取稚成 横山大観 川合玉堂
平福百穂 加納鐡哉 伊藤鐡石 小杉未醒 池上秀畝 小堀靫音 小川芋錢 前田青頓
結城素明 大村西崖 山田介堂 土田麥僊 上村松園 松林桂月 小林古徑 川端龍子
□金品喜捨人芳名
 但金壱百圓價格以上
山田権六郎 久須美東馬 吉田武助 石川萬次郎 山岸喜藤太 關眞次郎 石田友吉
市川辰雄 玉巻竪太郎 田巻三郎兵衛 伊藤亀太郎 新津桓吉 内藤鷲郎
檜材半價提供者  伊豆國修善寺村新井主人 相原寛太郎
9月16日、出雲崎「良寛堂」の建立(完成)式が行なわれる。
 
  良寛堂 棟札 出雲崎町史 資料編V 近代・現代 発行 H1・10・15

  
24 17 20 19
1923 大正12年 5月26日、長女、桃子誕生する。
12月、秀雄、下谷上根岸の子規庵を訪ね、子規の令妹の話や遺墨に感激する。
25 18 21 20
1924 大正13年 3月、秀雄、肺患に罹り、喀血して帰郷する。大学を中退し経済学部を断念する。 
   以後、国文学の独修に励む。また、正岡子規や伊藤左千夫以下「アララギ」派歌人の歌集を読む。
6月、重吉、佐藤清著『キーツの藝術』を購入、佐藤清宛てに手紙を書く。
8月、秀雄、富岡の家で乾性肋膜炎を発し、高熱に苦しむ。この時、子規の「竹之里歌」を手本にして作歌を志す。
床上雑詠 二
ゆくりかに寒蝉
(かんせん)なくや床(とこ)の上(へ)にわれひさしくを呆(ほ)けゐたるらし
その尻音
(しりね)さみしく去(い)にし寒蝉に床辺(とこべ)にはかに夕づくをおぼゆ
昼の月消
(け)ぬがに空をわたるときいのちひとむきに愛(を)しとおもへり     「天井凝視」より
12月15日、会津八一(秋草道人)著「南京新唱」が「春陽堂」から刊行される。 pid/913593
12月29日、重吉 、長男陽二誕生する。注 創元社 八木重吉全集では翌年「1月1日陽二誕生」と有り 
26 19 22 21
1925 大正14年 3月31日、重吉、千葉県立東葛飾中学校に転任する。
4月、秀雄、会津八一著『南京新唱』を読んで傾斜する。
8月1日、重吉、「秋の瞳」を新潮社(定価70銭)より刊行。   
8月、秀雄、鎌倉七里ヶ浜の鈴木療養所に転地。
12月、秀雄、鎌倉長谷光則寺門前の借家に住む。
27 20 23 22
1926 大正15年 4月、秀雄気管支喘息を発し、これが持病となる。
  同月、会津八一に初めて手紙を書き、『南京新唱』の中の二三の歌について教えを乞う。
7月、重吉、茅ヶ崎町十間坂5224の寓居にて自宅療養を始める。
12月、吉野秀雄かねてより婚約していた、富岡生まれの栗原はつと鎌倉に於て結婚する。
12月、鎌倉を去って高崎の家に帰る。 「陽壮年譜」より
12月、秀雄、歌集『天井凝視』(私家版)を刊行する。
相州三崎
漕ぎいでて青海中
(あおわたなか)とおもへれば舟のさむしろの冬の蠅あはれ
いのち
みごもれる妹
(いも)をおもへば道のべの愛(かな)しき子らは沁みて見るべし
つつしもて妹
(いも)(も)り経しいのち一つ吾子(あこ)につたへて悔(くい)あるべきや  「苔径集」より
28 21 24 23
1927 昭和2年 1月〜3月、秀雄、静岡伊東で療養。
豆州伊東温泉
くさまくら旅のやどりの春を遠み狼星
(おほかみぼし)の冱(さ)ゆる
菜畑
(なばたけ)に置く霜のそこはかとなく霧(き)らふ日ざしや人を恋ひしむ        「苔径集」より
3月、弟、八木純一郎と、故郷の大戸観音堂に火鉢一対を奉納する。 
4月、秀雄、長女皆子が誕生する。
  同月、前橋桑原病院にて痔瘻を手術する。術後大喀血し、危険に瀕する。
上州前橋桑原病院
わが母はわれに来たりて言葉なく脛
(すね)なでさすりおほしたまへる
四月十日あかつき四時
(よじ)に血をはくと知らざりしかば疑わざりし
いのちかけてわが生緒(いきのお)をつなぐべみ血になれといひて飯(めし)は噛むなり
  (生・息の緒)いきのお:1 いのち。たまのお。魂。ふつう「息の緒に」の形で、命のかぎりの意に用いる。    「苔径集」より
      「―に思へば苦し玉の緒の絶えて乱れな知らば知るとも」〈万・2788・作者不詳〉

退院
藁床
(わらどこ)の尻のあたりの寝くぼみの湿(し)けたるところ蠅むらがれり         「苔径集」より
汗喘吟

(よ)ものか汗もしとどに咳(せ)きつづけ且(かつ)はさ蠅(はへ)の唸(うな)りを開けり
口ごもり経唱(きゃうとな)へつつわが背(せな)をさすり飽(あ)かざる母を泣くなり
夜ふかく蚊帳
(かや)の蚊焼くとわが牀(とこ)を妻はいくたび廻(めぐ)らむものか
  もなか(最中):1 真っ盛り。さいちゅう。2 中央。まんなか。       「苔径集」より
5月、重吉、東洋内科医院の分院、茅ケ崎の南湖院に入院する。 
同月、内藤卯三郎が、イギリス留学を前に病院を見舞う。
6月頃以降、秀雄、退院後、この年の秋冬病状が最も悪く、連日連夜呼吸困難となり酸素を吸う。
10月26日午前4時30分、重吉、「とみ」の名を呼びながら昇天する。
29 22 25 24
1928 昭和3年 2月12日、野菊社より「貧しき信徒」(序文加藤武雄・収録詩103篇)を刊行される。  
8月頃、秀雄、千葉県那古に約一ヶ月間転地療養する。
南房州
きてみれば布良
(めら)の家群(やむら)の人気(ひとけ)なさ道にも藻(もく)を乾しひろげたり
安房
(あは)の路ここに果(は)つればむらさきの木槿(むくげ)を煽(あふ)るそとうみのかぜ   「苔径集」より
   
煽る(あおる〔あふる〕):1 うちわなどで風を起こす。また、風が火の勢いを強める。 2 風が物を揺り動かす。また、風を受けて物が動く。
12月1日、秀雄、「河 第2年(12月號)河發行所」に「百日紅 10首」を発表する。pid/1471363 
さるすべる花さけにけりいくめぐり めぐれば人のこころ澄むらくに
けさほどの時雨さむざむすぎ
たらむ さるすべりの幹に觸りておもふも
朝雨のここにそそぎし水たまり 花のくれなゐをうつして澄めり
さるすべりほつ枝の花にまぎれつつ ひそむ
蜻蛉(あきつ)あまたをる見ゆ
とのぐもりうちおほふなべにさるすべり 花の揺るぐはかなしましもよ
傘形に咲き足らひたるさるすべり 花のめぐれる空のしたした

いくめぐり(幾廻・幾巡):いくかえり。何回。いくたび。
たらむ:…であるだろう。▽いったん断定したことに対して、ややためらって推量する。
ほつ枝
蜻蛉:トンボ・秋津
あまた(数多):数多く。たくさん。
とのぐもり:空一面に雲がたなびいてくもること。たなぐもり。
ちおほふ(打ち覆ふ):ちょっとかぶせて隠す。かぶせる。
なべに→野辺に:野原。  
検討要 2019・11・12 保坂
  吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に  柿本人麿 (万葉集36) 
ましも:(真下):まっすぐ下。ちょうど下。直下?(ちょっか)
常仙寺
この寺に來し道とほくいくところ 大犬蓼
(オオイヌタデ)の穂は赤かりき
秋の日のここにも黄なる墓地かげの いささ流れに蛇あそぶらし
常仙寺:群馬県高崎市並榎町
いささ:小さい、わずかな、ささやかな、などの意を表す。
もろこし賣
降りいでし雨に小急ぐ街角に もろこし賣の火は爆
(は)ぜてゐぬ
よすぎなりもろこし賣の
さむしろに その子ねむりつ小夜更けにけり
さむしろ(狭筵):むしろ。
   新古今集 秋下   きりぎりす鳴くや霜夜(しもよ)のさむしろに衣(ころも)片敷(かたし)きひとりかも寝む
12月9日、秀雄、鎌倉極楽寺村の旧友の家を訪ね、翌日、忍性の墓に詣でる。
谷杉のくらき木間(このま)に烏瓜(からすうり)び朱(あけ)さへや冬はうらさびしくて
忍性菩薩石塔
(にんしゃやうぼさつせきたふ)の道は人の行き絶えて落葉に踏みまどふなり  「苔径集」より
〇登美子、この年ごろか、東京池袋に住み、二人の遺児の養育のため、無我夢中で働く。
〇この年、秀雄、宮崎丈二編集の詩文雑誌『河』の同人となり、昭和14年12月号に至る。
               注 同人の期間については、最終の期間が未確認なので検討要 2019・11・20 保坂
23 26 25
1929 昭和4年 1月、秀雄、「河. 第3年(1月號)(23)」に「艸心堂茶飯帳(一) 」を発表する。  pid/1471364
  同月、秀雄、感冒より肺炎を発し、危篤状態に陥る。
月1日、秀雄、「河 第3年(2月號)(24) 河發行所」に「極楽寺村 16首」を発表する。pid/1471365
十二月九日、鎌倉極楽寺村に舊友の假寓を訪すれ宿り、翌朝附近のの谷間に良観上人忍性の墓を展した。
極楽寺村の冬の朝日のかぐはしき 昨夜
(よべ)は宿りて雨を聴きしを
谷戸
(やと)ふかく朝日は遅ししらじらと 切薯(いも)でに庭に乾されつ
忍性
(にんじゃう)菩薩御墓道は人踏まず 落葉積りて腐れゐにけり
墓石に文字一字なき尊さを われはおもひてめぐりはてつつ
八おもてにめぐり見るべく墓石を かくは組みける人のこころを
墓石を仰ぐ足うらにうづたかく 鴨脚樹
(いてふ)の落葉雨をふくめり
鴨脚樹
(いてふ)の葉今朝も墓石に落つるなり まこと大徳(だいどこ)はねぶり果てけむ
よべの時雨打ちたるままか墓石の臺石の苔濡れ光りをり
しぐれ
小夜時雨外には降りて病める児を みとれる妻は疲れはて居り
しぐれの雨外に降りゐるこの夜さり 疊の上を匐
(はらば)へる蠅あり
淋しさもいつか沈みてゆくならし 水鉢親しくも雨の夜頃は
山茶花
山茶花を夜の庭より手折り來て 明るき部屋に活けにけるかな
2月、病中の歌十首を会津八一(秋艸道人)に示し批正を請い、以後も時折批正を続ける。
月、秀雄、「河. 第3年(3月號)(25)」に「病床雜詠」を発表する。  pid/1471366 
4月、秀雄、「河. 第3年(4月號)(26)」に「牀上調心―(病床雜詠其二)」発表する。 pid/1471367
  同月、秀雄、鎌倉に転地し暫らく滞在する。
 「二人は我にひとりなる 佐野進」より」
5月、秀雄、「河. 第3年(5月號)(27)」に「艸心堂茶飯帳(二)」を発表する。 pid/1471368
6月、秀雄、「河 第3年(6月號)(28) 河發行所」に「守命鈔 24首」を発表する。pid/1471369

太虚洞に宿る  三首
雨風のはげしき夜にてありけれど こころは怪
(け)しく澄みて居りしか
安らけき吾兄
(わがせ)の寝息きくことの ややに久しくてわれもねぶりぬ
わがための朝の手水
(すすぎ)に浮きてゐし 一ひらさくら忘れ得ざるも
鎌倉親不知山  五首
ものの嫩芽
(わかめ)きほひてもゆる山坂に われかぐはしき息吐きにけれ
見下
(みおつ)しのなぞへの木の間風通ひ その麓田の蛙聞ゆも
春日照る山の脊道の白土に 静けきものか わが影落ちぬ
親不知山きほふ若葉も然れども その上にして海は光れり
親不知山ふもとの路の蒲公英は 人に知られずほほけゆくめり

嫩芽(どんが):若い芽。新芽。
なぞへ:ななめ。はすかい。また、斜面。
脊(せ):せぼね。せ。
蒲公英(タンポポ)
大佛境内  一首
いにしへの大佛寺の礎石
(いしずゑ)に 赤き櫻の萼(がく)散りかかる
妙本寺   二首
黒き蝶めぐりに飛びてこの寺の 法輪海棠も花咲きにけり
本堂の板縁めぐる下駄の音 春もたけたれこのしづけさを
海宿旦暮   四首
うら安く在りと告ぐべしおのづから 朝はこもれる潮の香を知る
聞きなれし夕べあしたの潮騒
(しほさゐ)は たまたま夜半に覚めてあはれむ
海崎
(うなさき)の枯草まじり生ふる草の日にけに著(しる)く萌ゆるあはれさ
海崎
や浪のしぶかふきはみまで 春たけなはに草萌えし見ゆ
    日にけに(ひに異に):日々に変わって。日増しに。
病床雜咏補遺 九首

ねつつ見る本を支ふる指先に わが血脈(けちみゃく)の打ちてゐるかも 
われ病みて四十日間經し間 人々何をなして居りしか
春といへどいまだゆるまぬ霜土に 青き多羅の葉散りにけるかも
長病みの髪はうらがせ吹く風の あはれまつたく春の風なり
なまぬるくただよふ風を吐き吸へば 生きのなげきは盡きずあるらし
なまぬるく曇りし夕べはたはたと
稗鳥あそび鳴かず居る見ゆ
春めきし風のさぶしさ遠くなる ご詠歌のこゑ枕にきこゆ
せめてひと日雛の祭病むわれを 忘れよ妻よたのしくを居れ
わが病一段落のつきしかば 妻をねぎらひ里へ遣
(や)りけり
稗鳥(ひえどり):ヒヨドリの別名。
6月、秀雄の一男生後間もなく死亡(俗名なし)
7月、秀雄、「河. 第3年(7月號)(29)」に「艸心堂茶飯帳(三)」発表する。 pid/1471370 
8月、秀雄、「河. 第3年(8月號)(30)」に「雜詠」発表する。 pid/1471371 
  同月、茨城県岡田の長塚節の生家を訪ね母堂に会う。
下妻の沙沼にて長塚節を憶ふ
(ひのくら)はいまのうつつに渦巻けど十(とを)まり四(よ)とせ人は死ににき
晩梅雨
(おそつゆ)のしぶく夕暮れ沙沼(さぬま)べにわれ立ちにきといつか忘れめや
    閘(ひのくら):@水門。ひのくち。「閘門」 A門をあけたてする。せきとめる。     「苔径集」より
9月、秀雄、「河. 第3年(9月號)(31)」に「夏日雜詠」を発表する。 pid/1471372
10月、秀雄、河. 第3年(10月號)(32)」に「宇部伎乃花」を発表する。pid/1471373 
11月、秀雄、「河. 第3年(11月號)(33)」に「艸心堂茶飯帳(四) 」を発表する。 pid/1471374 
12月1日、秀雄、「河 第3年(12月號)(34) 河發行所」に「秋雨秋晴 20首」を発表する。 pid/1471375

秋雨秋晴 二十首(全)
友の妻死す       一首
友の妻死にし時間を今おもへば われは吾妻
(わづま)を愛し居りしか
勝信童子百日忌   二首 
雨強しこころはもとなその墓と 墓に至りし妻にかかれり
死にし子を全く忘れてゐる日多し 百日忌日にそれを嘆きつ
神農原村蛇崩行   六首
甘牟良路
(かんらぢ)は峡(かひ)のたどり路秋雨に いたくも土は流されしかな
秋雨のみちの水泥
(みどろ)におのづから あはれむべきか馬尿(うまくそ)のいろ
軒下にあそぶ子女
(こめ)らの貧しさを 秋雨なかにふりかへり見ぬ
村里は秋蠶
(あきご)盛りのしづけさよ 子守のひそむ暗き軒かげ
秋蠶いま三ねぶりの村を横切りて 山川のPを見むと降
(お)り行く 
山川の五百筒岩群
(ゆついはむ)に生ふ葛の葉がへりもせず暗き雨打つ 
鎬の出水     三首  
出水川岸の竹藪を崩えしめて 青竹あまたPに倒れたり
出水川にそひて歩めば菎蒻の 莖太草も雨雫く見ゆ
出水川のP筋を遠く石の洲に 蓼の丹
(に)の穂の寂びて揺れ合ふ
阿久津沼   四首
秋曇る阿久津の沼にえたらしの あぎとふ音と雨と疑ふ
    
註 えたらしはやなぎはやともいふ小魚なり
古沼にそそげる水を草おどろ かきわけ見れば澄みてせせらぐ
古沼をめぐり果てむとせしかども 垂りたる稲を踏むをおそれぬ
古沼の片寄面
(かたよりおも)はさがしまに 稲穂のみだれそのんままの影
浅間山の古墳  三首
ゆゆしくもかくは築
(つ)かれし古塚の まさめに纏ふ秋のみのりを
古塚の後方
(しりえ)のまろみさぐるとき 稲子の羽音幽(かそ)けみにけり
      註 この古墳は規模宏大なる前方後圓型なり
夕焼けし天
(あめ)の下びし浅間(せんげん)の 塚の松樅四本(よもと)とは知る
鶴巻古墳   一首
鶴巻の古塚二つさきがけて 木の葉を降らす垂穂田の上
〇この年、秀雄、「寒蝉」の歌を詠む。
このゆふべ寒蝉(かんせん)なけりふたたびははや啼かざらむ声にあるがに   「苔径集」より 
24 27 26
1930 昭和5年 1月、秀雄、「河. 第4年(1月號)(35)」に「日記帳より」を発表する。  pid/1471376 
2月、秀雄、「河. 第4年(2月號)(36)」に「越年」を発表する。 pid/1471377
通俗な映画観ながらわがいたく泣きしこころぞいかなるものか
わが妻のみごもりたるを知りてより二月
(ふたずき)にして母に申しぬ  「苔径集」より
3月、秀雄、「河. 第4年(3月號)(37)」に「艸心堂茶飯帳(五)」を発表する。 pid/1471378 
4月、秀雄、「河. 第4年(4月號)(38)」に「霜苔」を発表する。 pid/1471379
5月、佐藤耐雪(吉太郎)を頼り新潟県出雲崎に赴き、良寛(没後)百年祭式典に参列、橘屋旧地、光照寺、島崎木村家、隆泉寺、国上山五合庵等ゆかりの遺跡を巡る。
越信羇旅吟
途上
碓氷嶺
(うすひね)の雨の夜明けにうらさむく朝餉(あさげ)の卵食ひぞわがする
妙高
(めうかう)のふもとの畔(くろ)の毛莨(きんぽうげ)かすかなるものか旅にし見れば

越後柏崎にて貞心尼の墓に詣づ
うるはしき尼
(あま)なりきとふ山藤の短き房(ふさ)を墓にたむけぬ
    とふ(問う)
出雲崎
雨くらき海のおもての
(みを)のすぢこの町に着きて家間(いへかひ)に見つ
あわただしく我は来
(こ)しかど濁波(にごりなみ)の藻(も)をただよはすことも見るべし
(こし)の国淡(あは)き若葉にまぎれつつ山藤の総(ふさ)もほぐれそめしか
蒼波
(あをなみ)に霞ながれて見えわかぬ佐渡が島根は恋ふらくの島
耐雪翁今夜
(たいせつをうこよひ)ねんごろに酒たまふ六年(むとせ)おもひて来(きた)りけるわれに
 澪すじ(みをすぢ・澪筋):川や海の中で船の通れる水路となっている深み。みおの道筋。みお。
  ※耐雪翁(たいせつおう):佐藤吉太郎のこと
島崎村木村家にて良寛禅師の遺墨を観る
貼りまでの屏風のすその消息は疊に這ひてわれは読みけり
おびただしき禅師
(ぜんじ)の遺墨(ゐぼく)まなかひにはなはだ時を惜しまざらめや

同家邸内良寛禅師終焉の地−−
いにしへはうつつにあらず
苜蓿(うまごやし)ここにいたづらに生(お)ひしげるのみ
   ※苜蓿(うまごやし・もくしゅく):マメ科の越年草。ヨーロッパ原産。各地に自生。茎は地をはって30センチメートルほどになり、
     葉は有柄で互生し、倒卵形の三小葉をもつ。春、葉腋(ようえき)に黄色の小花を開く。緑肥・牧草ともする。うまごやしは別名


島崎村なる良寛禅師の墓に詣づ
島崎の
(なはて)にみればあしびきの国上(くがみ)の山はまぢかくぞ見ゆ
   ※畷(縄手・なわて):1 田の間の道。あぜ道。なわて道。2 まっすぐな長い道。

国上山乙子神社
乙宮(おとみや)斎庭(ゆには)に入りておのがじしわれらつつましく(ぬて)をゆらしつ
    ※斎庭(ゆには):斎(い)み清めた所。祭りの庭。
    おのがじし(己がじし):各自がめいめいに。それぞれに。
    鐸(ぬて・たく):1 銅または青銅製の大型の鈴。扁平な鐘の中に舌(ぜつ)があり、上部の柄(え)を持って振り鳴らす。鐸鈴。ぬて。ぬりて。
             2 大形の風鈴(ふうりん)。

国上山
熊笹
(くまざさ)の枯葉(かれは)しぬぎてたくましく独活(うど)は伸びいでぬ春としいへば
    しぬぎて:

    独活(うど):ウコギ科の多年草。山野に生え、高さ約1.5メートル。茎は太く、葉は羽状複葉で、互生する。若芽は柔らかく、香りがあり、食用。栽培もされる。

五合庵
萌え立てる板谷楓の下蔭ゆいほりの屋根をまたかへりみつ

    下蔭ゆ:
    
いほり(庵)
寺泊
弥彦
(いやひこ)の茂り夏さび荒海(あらうみ)に落つるあはれさはここに見るべし
   茂り夏さび;(検討要)

信州柏原一茶終焉の地
寒酸
(かんさん)な命(いのち)尽きにし土蔵(つちくら)はあゆみ度(はか)るにいく足(たし)もなし
   寒酸(かんさん):貧しく苦しいこと。また、そのさま。
妙高黒姫飯綱(めうかうくろひめいづな)をここにふりさけて更に斑尾(まどろ)の山をかなしむ

野尻湖畔

(略)       「苔径集」より 
羇旅(きりょ):1 たび。旅行。 2 和歌・俳句の部立(ぶだて)の一つで、旅情を詠んだもの。  
   参考 良寛:宝暦8年10月2日(1758年11月2日) - 天保2年1月6日(1831年2月18日))
8月、秀雄、長男陽一誕生
秋季雜咏
虫が音もおとろへにける草叢に鴨跖草
(つきくさ)はいま実をむすびをり
  ※草叢(そうそう):草の茂った所。
  ※鴨跖草(つきくさ);1 ツユクサの別名。名は、花の色がよく染みつくからとも、臼(うす)でついて染料としたからともいう。「苔径集」より 
25 28 27
1931 昭和6年 1月〜2月、秀雄、感冒より再び肺炎を発し、必死に闘病する。
女童
風邪癒(かぜい)えて面細
(おもほそ)りせる女童(めわらは)のあたまなでつついつくしみすも  「苔径集」より 
4.5月頃、秀雄、鎌倉に転地する。  再調査要 2019・11・4 保坂
海辺の宿
(よは)ふかく西風(にし)吹きつのり床下(ゆかした)に砂巻きかへす音(おと)さわぐなり
うららけき浜の
ひねもす潮垂(しおた)るる荒布和布(あらめにぎめ)を人は運びぬ
     ひねもす(終日):朝から晩まで続くさま。一日中。しゅうじつ。
(すえ)いかになりゆかむ身か世にうとき書(しょ)に耽(ふけ)りつつかくありながら
見越山(みこしやま)
おしなべて夕風わたる松山の松の木(このま)に桜みだれたり
   ※おしなべて(押し並べて):1 全体にわたって。一様に。概して。2 (あとに格助詞「の」を伴って)ありきたり。なみなみ。
   ※閨iま):あいだ。あい。二つのもののあいだ。( ひそかに。こっそり。いえる。病がよくなる。)   「苔径集」より
  研究課題 見越山は名越坂のことか 2019・12・7 保坂
6月、秀雄、妻子三人を伴い鎌倉に定住すべく本籍をこの地(小町三百七十番地)に移す。
実朝唐草窟(からくさやぐら)
実朝
(さねとも)の窟(やぐら)の前の墓原(はかはら)にまだ新しき墓も立ちをり   「苔径集」より 
26 29 28
1932 昭和7年 27 30 29
1933 昭和8年 1月、秀雄、鎌倉郊外笛田の山内義雄宅で、初めて会津八一に会う。
   これを機に、八一の認める一人の門人として出入りを許される。 「吉野秀雄歌集の特色 大井恵夫」より
4月、秀雄、三男荘兒誕生。 
7月、秀雄、吉野藤東京店に勤め、宣伝用月刊雑誌『吉野(藤)マンスリー』を独力で作る。
    この年の8月号から戦時統制による休刊まで90冊を発行する。
〇この年、鵠沼(くげぬま)の松岡静雄の許に通い、上代文学や言語学を学ぶ。う。
28 31 30
1934 昭和9年 29 32
1935 昭和10年 5月、秀雄、茨城県下館に旧友竹山普一郎を訪ね、筑波山に遊ぶ。
11月27日、重吉の兄政三が亡くなる。
12月5日、秀雄、松岡静雄著「多胡碑断疑 煥乎堂 (非売品)」に「附記」を記す。 
30 33 32
1936 昭和11年 2月、高村光太郎が「詩人時代」に「八木重吉の詩について」を寄稿する。また、同号に八木重吉の遺稿、3編が掲載される。  
2月23日、次女結子誕生  
5月23日、松岡静雄が死去(享年58歳) 
8月、甲府に慶應時代よりの歌友須賀幸造を訪ねる。
10月、吉野秀雄が「河発行所」より「苔径(たいけい)集」を刊行する。 Pid/1221294
  
 「苔径集」 発行 河発行所 
大正十三年 六十三首       昭和六年 八十首
大正十四年  三十九首       昭和七年 五十首
大正十五年(昭和元年) 二十九首       昭和八年 四十七首
昭和二年 二十九首      昭和九年 四十二首
昭和三年 十五首       昭和十年 七十七首
昭和四年 六十首       昭和十一年 三十九首
昭和五年 四十三首       後記
10月22日付で高村光太郎から吉野宛に書簡が送られる。
 「随分なげやりな詩歌をこのごろは眼にしますがそれとはまるで類を異にしたかういふ作品をよむ事はよろこびです」と「苔径集」の感想を述べる。

 高村光太郎が吉野秀雄に宛てた書簡
〇この年、米川稔と協力して鎌倉短歌会を開催、万葉集・金槐集・梁塵秘抄等を輪講、昭和37年4月迄続ける。 
31 34 33
1937 昭和12年 8月、秀雄、喘息を病みて後、新潟県赤倉に療養する。 
12月29日、桃子女子聖学院二年生(15才)にて昇天。
32 35 34
1938 昭和13年 1月、秀雄、「河. 第12年(1月號)(131)」に「初冬雜詠」を発表する。 pid/1471380
3月、秀雄、「河. 第12年(3月號)(133)」に「萬葉集講義卷三」のこと ・ 睦如鈔」を発表する。 pid/1471382
5月、秀雄、「河. 第12年(5月號)(135) 」に「草屋殘歌」を発表する。pid/1471384
6月、秀雄、「河. 第12年(6月號)(136)」に「雜歌」を発表する。pid/1471385 
7月、秀雄、「河. 第12年(7月號)(137)」に「雜歌」を発表する。/pid/1471386
8月1日、秀雄、「河 第12年 
河發行所」に「雜歌 6首」を発表する。 pid/1471387
     また、同号に高村光太郎が「孤坐」を発表する。
泰山木の高き梢(こずえ)に咲く花の花心(くわしん)をみむと二階より見つ
法帖の二まき三巻(みまき)買はむこと氣にかかりゐてたのしむに似つ
このほどの
悒鬱(いぶせ)來由(よりどころ)酒をのみつつ解きほぐしをり
銀座來て稀にはわれもおごりせむ四圓とふ洋食をむさぼりくらふ
商人
(あきんど)の卑しさに常觸れをれば士農工商の順も故あり
いかならむ嘆きなりともささやけき私事(わたくしごと)(なみ)す時世(ときよ)
法帖(ほうじょう):古今の名筆を鑑賞し手本とするため,原本を写し取り,これを木や石に刻み,さらに拓本にとって折帖仕立てにしたもの。
悒鬱情(いぶせ):心配事などがあり、心がふさがること。
來由(らいゆ・よりどころ):物事の現在に至った理由。いわれ。由来。らいゆう。
いかならむ(如何ならむ):@どうだろう。どんなであろう。Aどうなることだろう。Bどのような。
蔑る(なみ・する): ないがしろにする。あなどる。
9月、秀雄、「河. 第12年(9月號)(139)」に「雜歌」を発表する。  pid/1471388
10月、秀雄、「河. 第12年(10月號)(140)」に「雜歌」を発表する。 pid/1471389 
11月、秀雄、「河.第12年(11月號)(141)」に「艸心洞雜歌」を発表する。 pid/1471390 
12月、秀雄、「河. 第12年(12月號)(142)」に「艸心洞雜歌」を発表する。 pid/1471391
33 36 35
1939 昭和14年 1月、親友須賀幸造、宇都宮にて逝く。
1月1日付、秀雄、「越後タイムス」に「 芸術の製作と鑑賞における学問の力の限界について(上)」を寄稿する。
1月8日付、秀雄、「越後タイムス」に「 芸術の製作と鑑賞における学問の力の限界について(下)」を寄稿する。
1月22日付、秀雄、「越後タイムス」に「 艸心亭小咄集(下)」を寄稿する。
2月12日付、秀雄、「越後タイムス」に「 流行宗教というものの一つについて(下)」を寄稿する。

2月26日付、秀雄、「越後タイムス」に「ブルーノ・タウトを憶ふ(上)」を寄稿する。  
3月5日付、秀雄、「越後タイムス」に「ブルーノ・タウトを憶ふ(中)」を寄稿する。
   また、同号に雛エ之介が」畫室と人生」を寄稿する。
3月12日付、秀雄、「越後タイムス」に「ブルーノ・タウトを憶ふ(下)」を寄稿する。
3月19日付、秀雄、「越後タイムス」に「野田村村長 (たる)藤吉翁(上)」を寄稿する。
3月19日付、市川達吉が「越後タイムス」に「往復信信 タウトと竹細工 (吉野秀雄氏へ)」を寄稿する。
3月26日付、秀雄、「越後タイムス」に「 往復信信 お答えかたがた(市川達吉さんへ)」を寄稿する。

3月26日付、秀雄、「越後タイムス」に「野田村村長 (たる)藤吉翁(下)」を寄稿する。
4月2日付、秀雄、「越後タイムス」に「 妄談(上)」を寄稿する。
4月9日付、秀雄、「越後タイムス」に「 妄談(下)」を寄稿する。
4月23日付、秀雄、「越後タイムス」に「 ことばの根本問題」を寄稿する。
4月30日付、秀雄、「越後タイムス」に「 日本語の微妙さ!その一例・ハモという感動詞について(その一)」を寄稿する。
4月〜5月、秀雄、信州・京都・奈良を旅する。旅中血痰がある。

5月7日付、秀雄、「越後タイムス」に「日本語の微妙さ! その一例・ハモという感動詞について(その二)」を寄稿する。
5月14日付、秀雄、「越後タイムス」に「 日本語の微妙さ! その一例・ハモという感動詞について(その三)」を寄稿する。
5月14日付、阿部達雄 が「越後タイムス」に「「ことばの根本問題」について」を寄稿する。   
5月21日付、秀雄、「越後タイムス」に「 日本語の微妙さ!その一例・ハモという感動詞について(その四)」を寄稿する。
5月21日付、秀雄、「越後タイムス」に「阿部達雄氏の説を読んで」を寄稿する。
5月28日付、秀雄、「越後タイムス」に「 日本語の微妙さ!その一例・ハモという感動詞について(その五)」を寄稿する。
6月4日付、秀雄、「越後タイムス」に「日本語の微妙さ!その一例・ハモという感動詞について(その六)」を寄稿する。
6月4日付 、安野茂が「越後タイムス」に「漢字・漢語の問題(上)」を寄稿する。    
6月11日付、秀雄、「越後タイムス」に「 のんびりした咄(一)」を寄稿する。
6月11日付 、阿部達雄が「越後タイムス」に「再び吉野氏の説を読んで(上)」を寄稿する。   
6月11日付 、安野茂が「越後タイムス」に「漢字・漢語の問題(下)」を寄稿する。    
7月16日付 、安野茂が「越後タイムス」に「漢字漢語必要論者 吉野秀雄氏を反駁する(上)」を寄稿する。

6月18日付、秀雄、「越後タイムス」に「 のんびりした咄(二)」を寄稿する。
6月18日付、阿部達雄が「越後タイムス」に「再び吉野氏の説を読んで(下)」を寄稿する。
6月18日付、「越後タイムス」に「貝殻大会 「潮騒」感想批判 桑野俊郎 瀬木夜光 吉野秀雄 青山参里 星野徳一郎 和田真 宮島義雄 藤田美代 千原春子 河原哲 山川渉 大島吉之介 平岡豊 市川達吉 冨士武二 瀬下耽 阿部房子 砂田茂一郎 K.S」が掲載される。

6月25日付、秀雄、「越後タイムス」に「仮名書きローマ字 書き論者 安野茂氏の説を駁す」を寄稿する。
7月2日付、秀雄、「越後タイムス」に「シバイヌ追考」を寄稿する。
7月2日付、秀雄、「越後タイムス」に「仮名書きローマ字 書き論者 安野茂氏の説を駁す」を寄稿する。

7月9日付、秀雄、「越後タイムス」に「吉原重雄君の遺稿集と彼の思ひ出(上)」を寄稿する。
7月16日付、秀雄、「越後タイムス」に「吉原重雄君の遺稿集と彼の思ひ出(中)」を寄稿する。
7月16日付 、安野茂が「越後タイムス」に「漢字漢語必要論者 吉野秀雄氏を反駁する(上)」を寄稿する。
7月23日付 、安野茂が「越後タイムス」に「漢字漢語必要論者 吉野秀雄氏を反駁する(下)」を寄稿する。

7月23日付、品川力が「越後タイムス」に「本郷雑記 −吉野秀雄氏に−」を寄稿する。   
7月23日付、秀雄、「越後タイムス」に「国字問題を一時打ち切る」を寄稿する。

7月23日付、秀雄、「越後タイムス」に「吉原重雄君の遺稿集と彼の思ひ出(下)」を寄稿する。
7月30日付、秀雄、「越後タイムス 終刊号」に「タイムスに別る!!」を寄稿し終刊を惜しむ。
7月30日付、安野茂が「越後タイムス」に「一時の休刊と信じたい」を寄稿する。
                 ※ 「越後タイムス」 所蔵 柏崎市立図書館 
〇この年より、秀雄、数年間、市内田辺松坡大人(田辺元・田辺至兄弟の父)の許に通い詩経・杜詩の講義を聴く。、
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1940 昭和15年 6月、会津八一(秋艸道人)に従って、群馬県下の高崎・吉井(多胡碑)・伊香保・榛名山を旅する。
7月9日、八木陽二、聖学院中学四年生(16才)にて昇天。
〇この年、八一、秀雄の家を訪ね、二三日を逗留する。また、秀雄の家を「艸心洞」と命名、揮毫する。 
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1941 昭和16年 1月、8年間を継続した「吉野(藤)マンスリー」が廃刊となる。 
9月、秀雄、病弱の陽一の保養のため、榛名湖畔に滞在する。
榛名湖畔奄留吟
湖岸
(うみぎし)にひよわき吾子(あこ)が手をひけりむかしのわれとわが父に似て
右いかほ左あがつま善光寺道秋雨(あきさめ)そそぐ石の道しるべ
9月、秀雄、父藤一郎の『世界一巡紀行』(吉野藤東京店)を編集発行する。
○この年、とみ、茅ヶ崎の南湖院に事務員として勤務する。
〇この年、秀雄、高木一夫編集の『博物』同人となり6月号より歌文を載せ19年1月号まで続く。
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1942 昭和17年 〇この年より、はつが胃の異常を訴えるようになり妻を伴い磯部鉱泉で療養する。 
6月、秀雄、京都及び奈良県各地を旅する。
7月、八木とみ子(代表)、「八木重吉詩集(限定500部)」を山雅房から刊行。
8月9日、秀雄、「鶴岡 臨時増刊 生誕七百五十年記念 源實朝號」に「金槐集研究書目解題」を発表する。
12月、米川稔、軍医少尉として集されニューギニアに赴く。
〇この年より、秀雄、山田珠樹(当時東京帝大文学助教授・森鴎外女婿)・松本たかしと交わる。)
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1943 昭和18年 1月、米川稔が軍医として応召される。
参考 召集と応召の違いか   出展:歌34(12) 野村清著「米川稔と柊二」 前年12月、1月 検討要 2019・11・28 保坂
応召(おうしょう)呼び出しに応じること。特に、在郷軍人などが召集に応じて軍務につくこと。
召集(しょうしゅう):「人を召し集めること」を指す言葉。目上の人が目下の人に対して、特定の場所に集まるように指示を出すという意味がある。
  @ 大勢の人を呼び出して集めること。
  A 国会を開会するため衆参両院の国会議員に対し、一定の期日に国会に集合することを命ずること。内閣の助言と承認により国事行為として天皇が詔書によって行う。
  B 旧憲法下において、在郷軍人・国民兵などを、軍隊に編入するために呼び集めること。
4月、秀雄、奈良県各地を旅する。
11月、山田珠樹逝く。
〇登美子、この年の末、高村光太郎が幻となった八木重吉第四詩集についての序文を寄せる。
38 41 40
1944 昭和19年 2月25日、田辺松坡大人逝く。
6月、長野県戸倉に滞在し病を養う。この地の古池進を知る。
      をさな子の服のほころび汝(な)は縫へり幾日か後(のち)に死ぬといふものを 
8月29日、吉野はつ子、鎌倉伊藤病院にて逝く。(享年42歳)
9月15日、米川稔、ニューギニア島ウェワク附近にて自決戦死。(戦後判明・47歳)
〇この頃より吉野藤への出店を怠る。
11月6日、登美子、両腕に亡き夫、重吉のの詩稿の入ったバスケットを持ち、吉野家の養育係として入る。
12月5日、「はつ子百日忌」のため秀雄は皆子を連れ富岡の弟三郎の家に向かう。
39 42 41
1945 昭和20年 1月末〜2月、秀雄、中村琢二・小池厳や近藤栄一らと伊豆に遊ぶ。
2月、会津八一(秋艸道人)より歌人として世に立つことを許される。
3月10日、東京大空襲、吉野藤東京店が焼失する。 
3・4月、秀雄、喀血臥床す。
4月15日、老いた登美子の母が、高崎の空襲下でショック死したという電報が兄から届く。 
4月から5月にかけて、妙本寺境内の海棠の花が咲く頃、三人でお花見に行く。
 
 
5月、藤の花が咲く頃、「訪印人善雅」と題する三首に求愛の気持を歌にしたか。「寒蝉集 p113・114」
うち望む友が住家(すみか)は藁屋根に山藤の房咲きなだれたり
二階住みの君檐端
(のきば)あしびきの山藤の花いまさかりなれ
山の藤庭藤のごと咲き
足らひ世さがにそむくきみを慰む
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む/柿本人麻呂
足らふ(たらふ):すべて不足なく備わっている。完全である。
よのさが(世の性):世の常のこと。世間のならい。
8月15日、秀雄と3児は疎開先の富岡で、登美子は病弱な陽一と共に鎌倉で終戦をむかえる。
        注 「陽壮年譜」では二児とあり再調査が必要 2019・11・26 保坂
10月〜11月、秀雄、長野県平岡の中村琢二の疎開先を訪ふ。→新潟県中條の会津八一の疎開先→柏崎→さらに小池厳と共に京都・奈良→三重県賢島を旅する。
11月、鎌倉文庫主催の文化講座で「会津八一(秋艸道人)の歌」について数回に亙り講ずる。
11月22日秀雄の母サダ逝く。享年67歳
40 43
1946 昭和21年 1月13日、「越後タイムス」が復刊する。
2月、鎌倉の諸友と静岡県伊東・網代に遊ぶ。
4月、秀雄「鎌倉アカデミア」文学部の教師となる。(25年9月廃校まで)
5月頃、秀雄、久米正雄・小島政二郎と新潟県下を講演する。
5月30日、良寛著・秀雄釋文による「良寛禪師自選歌集 ふるさと  十一組出版部」を刊行する。 pid/1700999
 
「布留散東」 発行者 安田新三郎発行 T11・7発行 
  所蔵:吉野秀雄文庫 y01/03191505

 
「ふるさと」 釋文 吉野秀雄 発行 昭和21・5 
 所蔵:吉野秀雄文庫 y01/03170354
解説(全文)/良寛禅師の自筆歌稿「ふるさと」は墨附十三葉の冊子にして、原本は安田靱彦氏の珍襲にかかり、複製は大正十一年七月七條憲三氏の金属印刷所より非売品として刊行され、越後出雲崎なる禅師が生家橘屋の屋敷址に佐藤吉太郎氏等相謀りてかの良寛堂を建立せる際の記念品として配布せられたり。余夙よ つと)にこれを座右にして、細描鐡線の勁(つよ)きが裡に蔵する滋味無量の書美と醇粹暢達の歌詞との渾然たるを愛賞措かざるや年久しく、而して今ここにその釋文を作りて江湖に頒たんとするの所以(ゆえん)は、件の複本と雖(いえど)も既に希覯なること。禅師の万葉假名草體を盡く讀みとるは必ずしも容易ならざること、是素(もとより)禅師がかりそめの手控へにはあらめど尚めづらかなる自選歌集の一種として観るも敢(あえ)て差障なかるべきこと、從って世の編纂物の類とは自ら趣きを異にして禅師直接の微妙なる息吹きの内籠れること、一集甚だ秀逸に富めること、間々推敲の痕(あと)をも探り得ること等に因るものとす。即ち、禅師の歌は禅師の書と相俟ちて神氣ひと際奕々たるは今更言ふを須ゐざれども、釋文の文學的價値のみを以てしても、これを一般化するの意義決して尠少ならざることを信ずればなり。本集に収むるところ長歌三首、反歌一首、施頭歌六首、準施頭歌一首、短歌五十首、他に禅師が次第由之の短歌一首を交へたり。而して、集中の長歌に國上山五合庵に移り住まひて春秋十とせを過ししよしあるは禅師六十歳に近き頃の述懐と覺しく、施頭歌に山蔭の眞木の板屋とあるを國上山麓乙子祠畔の草庵と見ればこは五十九歳以後の詠出なるべく、依てこの稿本の成りし時期も略□察するに難からざらんか。昭和丙戌晩春 吉野秀雄
珍襲(ちんしゅう):珍しいものとして大切にしまっておくこと。珍蔵。
きこう(希覯): めったに見られないこと。非常に珍しいこと。
尠少(せんしょう):非常に少ない・こと
12月、群馬県伊香保に遊ぶ。
12月、千葉県大平に北田昌一を訪ね、九十九里に遊ぶ。
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1947 昭和22年 1月、秀雄、「創元 創刊号」に「短歌百餘章」を発表する。 Pid/1336689 
               参考  小林秀雄編「創元」創刊号に記された吉野秀雄の歌
 
  創元 第一輯 
  編輯者 小林秀雄
  発行所 創元社
  発行 昭和廿一年十二月





繪畫
梅原龍三郎特輯
原色版 水禽圖(見返し) 昭和十七年
虎    (扇面) 昭和十九年
夢一、二、 昭和二十一年
自畫像 昭和二十一年
三彩壺 昭和十八年
素描 彩弟 昭和十八年
三鈴 昭和十八年
雪  昭和十八年
姑娘 昭和十八年
本文 梅原龍三郎 青山二郎
短歌百餘章 吉野秀雄
モオツアルト 小林秀雄
詩(四篇) 中原中也
土地(小説) 島木健作
表紙ーカット・梅原龍三郎、装幀・青山二郎   本扉ーカット、青山二郎
(略)年が明けて、二十二年の一月になって『創元』創刊号に「短歌百余章」が発表された。『創元』は定価百円という当時としてはすこぶる豪華な雑誌であった。雑誌も、先生の歌も、すぐに評判になった。この歌に関して、次のような伝説が残っている。『創元』の実質的な編集長であった小林秀雄さんは、この原稿を受けとって、読みおわるなり、凄い勢いで山を駈けおりてきて、吉野先生の門を叩き、こう言ったというのである。「このなかに八首だけよくない歌がある!」つまり、あとの歌は、全部いい、全部傑作であるという意味だったのである。これは伝説というよりは、事実に近いものであると思われる。『創元』に発表された、「短歌百余章」は、よく知られているように、先生の前夫人、はつ子さんの死の前後を詠んだものである。(略)
            山口瞳「小説・吉野秀雄先生」より
2月、秀雄。「苦楽 2月号」に「弄影鈔(ろうえいしょう) 71首」を発表する。
昭和十九年夏妻はつ子胃を病みて鎌倉佐藤外科に入院し遂に再び起たず八月二十九日四兒を殘して命絶えき享年四十二會津八一大ひと戒名を授けたまひて淑眞院釋尼貞初といふ
No No  歌 用語・意味
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2
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1 (かばね)にもいまは別れむ泣きぬれて嘆異(たんゐ)の鈔(せう)を誦(ず)しまつりつつ
2
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20
1 家出づるお骨(こつ)の母を見送ると暁(あけ)の寒さに慄ふをさなら
2 年の瀬の星屑(ほしくづ)満つる天(あめ)の下(した)(な)が骨壺(こつつぼ)をかかへもちたり
3
4
5
6
7 四五人がただただ寒さのみいひてここの野寺に百日(ひゃぃにちき)忌終る
8
9 酒飲みてわれは泣くなり泣き泣きて死ににし者の母にうつたふ うつたふ(訴ふ):うったえる。
10
1 かの際(きわ)におのが一生(ひとよ)をつきつめて幸(さきは)ひとなして汝(な)はほほゑみし
2 生きのこるわれをいとしみわが髪を撫でて最期(いまは)の息に堪(た)へにき
3 信ずれば子らを頼むといまさらに豈いはめやといひて死にけり 豈(あに):あとに打消しの語を伴って、強い否定の気持ちを表す。決して…ない。
はめ(羽目):好ましくない,または追いつめられた状況・事態。
4 雜煮餅妹(いも)が位牌にまづ供ふ春としもなき家内(やぬち)のしづもり
5 大寒(だいかん)さ夜のくだちに時定(き)めてわが目覺(めざ)むるは妹(いも)の呼べかも さ夜:「さ」は接頭語》よる。よ。
くだち(降ち):夜半過ぎ。「くたち」とも
6 空襲は日を夜を措(お)かねポケットに妻が位牌のありて寝起きす
7 (な)がための寫經(しゃきゃう)の料(しろ)となりてしか去(い)ぬる年買ひし雀頭(じゃくとう)の筆
8 何よりもおのれ斃(たふ)しそ母なくて子らの四たりが掻縋(かいすが)る身を
9 既在其中矣(すでにそのなかにあり)とふ言(こと)の葉をわれはつぶやく朝(あした)ゆふべに 既在其中矣 『論語』子路篇の一文
父爲子隱、子爲父隱。 直在其中矣。
父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。
直(なお)きこと其の中に在り。
そこに、(本来の)正直さがあるのです。

4月27日、長女皆子と吉原グローヴ(新二)が結婚する。
5月、秀雄、中村琢二と共に、氷川丸にて横浜より神戸に至り、大阪府箕田・奈良(春日野の藤花を観る)へ旅する。
〇この年の夏、小林秀雄が吉野の家を訪ねる。
(略)小林秀雄さんが手作りのかぼちゃをもって、吉野の家をおたずね下さったことがあります。ちょうど吉野は留守で、私がお相手をしているうちに、八木の詩集を見て下さることになりました。小林さんはパラパラめくって見て、
夕焼
ゆう焼をあび手をふり手をふり胸にはちいさい夢をとぼし手をにぎりあわせてふりながらこのゆうやけをあびていたいよ
ーという詩に目をとめ、「これはいい詩ですね。この詩集をしばらく貸して下さい」と、おっしゃって下さったのです。ちょうどそこへ吉野が帰ってきて、これは絶対いい詩です、ほんものです、太鼓判をおしてくれ、これが縁となって創元選書の一冊として『八木重吉詩集』があらためて世に出ることになったのです。中国から帰国されたばかりの草野心平さん、小林さん、吉野、私の四人で、小林さんの家で出版の打合せをしたときのうれしさは忘れられません。
(略) 
          「文芸春秋 42年12月号 四十年を看病に生きて 吉野登美子」より
8月30日、秀雄、「創元社」から『鹿鳴集歌解』を刊行する。
10月20日、秀雄、「創元社」から「寒蝉集」を刊行する。
 
  寒蝉集 (扉)
後記(全文) 昭和十一年『苔徑集』といふ集を編んで、これに先立つ十二年間の作歌六百十三首を世に問うて以来、もはや十年餘りを閲した。この間も自分は孜々としてこの一筋にはげみ、およそ千七八百首を詠み得たが、ここにはその中から、昭和十九年夏より翌二十年秋に至る一年数箇月のあひだの製作四百四十一首をとり出でて、ひとまづ一巻とした。本集に収めた歌の大部分は、既に、『創元』『人間』『象徴』『群像』『苦楽』『知慧』『創造』『文藝春秋』『新生活』『新風』『知音』『婦人文庫』『女性』『婦人朝日』『婦人畫報』『週刊朝日』『毎日新聞』『読新聞』『夕刊新潟』『夕刊新大阪』その他の諸雑誌諸新聞に發表した作品であるが、發表してここに加へなかったものもあり、改竄を経て加へたものもあり、新たに補作したものも二三十首はあるであらう。秋艸道人会津八一先生が特に題簽を賜り、巻扉を飾り得たことは、まことに身にあまる光榮である。また畏友小林秀雄兄が、自分の歌魂を信じて本集の印行を
慫慂し、懶惰な自分を折にふれて激励してくれたことに對しては、衷心感謝を捧げずにはゐられない。巻名の『寒蝉集』は漢音のままにカンセンシフととなへんことを冀(こいねが)ふ。寒蝉の文字、『倭名抄』には「加牟世美」と訓じてあるが、自分はなほカンセンの語音の清澄を愛する。また寒蝉の實體がホフシゼミかヒグラシゼミかは、源實朝の立秋の歌に見える「寒蝉鳴」及び「山の蝉」の語の解釋にもからんで、夙(つと)に論あるところだが自分はただおほまかに秋蝉の意として用ゐたのである。この集、妻の死を哭(なく)する歌によってはじまり、母の病をうれへこれを葬ふ歌をもってをはる。一は初秋他は中晩秋、いづれもその悲愁の日かず、秋蝉の喞嘖の韻きと分つことはできない。もって、これを冠して一巻の表徴とした次第であ。
慫慂(しょうよう):そばから誘いかけ勧めること。
懶惰(らんだ):めんどうくさがり、怠けること。また、そのさま。怠惰。らいだ。
喞嘖:喞(なく。すだく。虫が集まって鳴く。)/嘖(やかましい。かまびすしい。)
 昭和十九年この方はそもいかなる歳月であったらうか、國びと誰かその苦楚を嘆じない者があらうか。まして自分はたちまち家妻を奪はれて四児護育の任を孤肩に負ひ、戦争の激化と共に困憊いよいよはなはだしく、□□(体)の痩骨、ためにまったく歪曲した。亡き者が臨終に際して、みづからの痛恨を隠し、却て、生き残らばならぬ自分の苦労をいたはってくれたことも、故なきことではなかった。しかし自分は本集に掲げたやうな歌を、たまきはる命かけて詠み出づることによって、自分の懊惱を客観的ならしめ、よってからうじて行きゆく意志にかい(すが)ることができた。これは二十年三四月の交の病臥についても、八月敗戦の後の生活の混乱についてもまた同じである。もしも自分に自分の歌がなく、自分の歌が自分の精神を昴揚することがなかったならば、。どうして自分に今日の存在があったらうか。想へば、自分は實に藝術微妙の力に感激を新たにせざることを得ない。
困憊(こんぱい):困って疲れはてること。
懊惱(おうのう):悩みもだえること。
昴揚(こうよう):精神や気分などが高まること。また、高めること。
 二十年早春の頃、親しい二三子と数日を伊豆に旅したことは、恰(あたかも)も空襲のさなかであったとはいへ、前年來の自分の憂患をややときほぶし、詠風もおのづから明色を帯び來った如くである。また終戦後、信濃を経て越後に入り、これより先き、東京に戦火を蒙って疎開せられた会津八一先生を中條の里におとなひ申し、つづいて京都、奈良に十餘日を過して、やや久しぶりに古寺を巡礼し、帰途志摩半島に廻ったことも、米麥を負うての容易ならぬ旅ではあったが、なほ心を責めて、多少の感慨を制作に託することができた。
憂患(ゆうかん):心配して心をいためること。
なほ心を責めて():
 自分は昔経済の學に志した者だが、二十二三の頃たまたま正岡子規の竹乃里歌を讀んで作歌に興味を覚え、その系統たる伊藤左千夫、長塚節、島木赤彦、斎藤茂吉等諸大人の歌集にもすこぶるまなぶところがあった。また一方、大正十四年、会津八一先生の『南京新唱』を手にして愛誦惜くこと能はず、やがて機因熟して秋艸堂の門扉に門人として出入するに至り、親しく提撕をうけること、いまは二十年にも及んだ。先生、數ならぬ自分に慈愛隈なく策勵叱咤を加へてひたすら弧高の詩心を打成すべきことを訓へたまひ、軽々しく詠草を江湖に示すなどのことを快からずとするの風があられたので、自分は身をひそめて實作に専念し、わづかに鎌倉短歌會を組織して、四五人の人々と毎月近詠を互評し且つ古書を輪講することと、友人の編輯する歌誌に時に若干の歌を投ずる位の範圍で自らを戒めてゐた。しかるに、一昨年の春、富士山の歌十數首の叱正を乞うた折、先生は例になくこれを賞讃したまひ、ここにはじめて歌よみの一人として公然世に立ち向ふことを許されたのである。永年の鉗鎚に酬ゐることのできたこの時の自分のよろこびこそいかばかりであったらうか。すなはち、その後はもし發表をもとめる人あらば、拒まずに詠作を附することとし、かくて一年にして四百餘首に達したのである。自分の歌歴はかくの如く単純であり、何の語るべき特質もない。しかも、歌といふものは、年少より事に當って営々工夫を重ねつつ、齢五十を超えてやうやく一人前になれるかなれぬかの至難の藝術であることを信じてゐる自分としては、素よりおのが現在の程度の歌を甘なふわけにはいかない。ねがはくは、識者のきびしい批判をうけて今後いよいよ渾身の精力をこの一道に注ぎ、念々の稽古を積んでいつかは至妙の境地を窺ひたいものである。
提撕(ていせい):師が弟子を奮起させ導くこと。特に禅宗で、師が語録や公案などを講義して導くこと。ていぜい
策勵(さくれい):大いにはげますこと。また、大いにはげむこと。
江湖(こうこ):世の中。世間。一般社会。
叱正(しっせい):しかる声。また、しかる言葉。
鉗鎚(けんつい):禅家で、師僧が弟子を厳格に鍛え、教え導くことをたとえていう語。
甘なふ(あまなふ):1 同意する。承知する。2 甘んじて受け入れる。与えられたものに満足する。3 人の心に合うようにする。機嫌をとる。
至妙(しみょう):この上なく巧みなこと。また、そのさま。絶妙。
            昭和二十二年二月下浣吉野秀雄   /後記 終
10月26日、登美子と吉野秀雄が鈴木俊郎夫婦の司式により再婚する。 
      これの世に二人(ふたり)の妻と婚(あ)ひつれどふたりは我に一人なるのみ
     恥多きあるがままなるわれの身に添はむとぞいふいとしまざれや

     わが胸の底ひに汝(なれ)の恃(たの)むべき清き泉のなしとせなくに 
  参考 たらちねの 母が手離(はな)れ かくばかり すべなきことは いまだせなくに 柿本人麻呂
      万葉集 No−2368 柿本人麻呂 「せなくに」は「為(せ)なくに)」で「未だ経験したことがない」の意
10月27日(翌日)、秀雄と登美子は、皆子とグローヴが連絡をとっておいてくれた伊東に二泊の旅行を行う。
11月、秀雄、「 かまくら (1) かまくら社 」に「良ェ詩餘響(一) 」を発表する。pid/1834134
11月10日、秀雄、四季書房から歌集『早梅集』を刊行する。
42 45
1948 昭和23年 1月、秀雄、「 かまくら (2) かまくら社 」に「良ェ詩餘響(二) 」を発表する。 pid/1834135
1月、秀雄、松本たかし・皆吉爽雨・福田蓼汀・上村占魚等俳人と新潟県湯沢に遊ぶ。 「陽壮年譜」
3月、「創元社」から「八木重吉詩集」が刊行される。
  
    八木重吉詩集 (表紙)
覺え書(全文)
二十四歳の御影師範教諭時代より後年の仰臥生活までの八木重吉の詩やノートは相當厖大な量にのぼってゐるが、本詩集には「秋の瞳」「貧しき信徒」「八木重吉詩集」の三冊の詩集と「病床無題」と題する晩年のノート四冊から選び出したものを収録した。
私が眼をとほした詩篇は七百二十篇、本詩集はそのうちの二百十七篇である。配列の順序は「秋の瞳」から始まり「病床無題」に終わるやう大體は年代順になってゐる。八木重吉没後二十年である。
  昭和二十二年五月十日
    草野心平

八木重吉年譜の末尾に「現在とみ子未亡人は鎌倉市小町370 吉野秀雄氏方に假寓」(草野心平編)」と有り
4月、東京高島屋に於て、松本たかしと軸物類の歌俳二人展を催す。
5月1日、秀雄、「苦楽 5月号」に「寧樂晩春 7種」を発表する。
飛火野にて
老杉
(おいすぎ)にかかる藤なみ中空(なかぞら)ゆあなむらさきの瀧つPをなす
憩ひつつここに愛
(をし)まむかへるでの瑞枝(みづえ)に藤の房さがれれば
せせらぎに蔓さしわたす山藤は十總
(とふさ)ばかりを水に寫せり
飛火野
(とぶひの)は春きはまりてやまふぢの花こぼれ來も瑠璃の空より
蒲公英
(たんぽぽ)の文様(あや)置く芝にひねもすを藤の花粒(はなつぶ)散りたまるらし

南圓堂にて
南圓堂にい添ふ藤棚紫は咲き足らひゐてて白ぞこぼれる
このゆふべふるき都のひた土に
あえかに白く藤のちり敷く
ひねもす(終日):朝から晩まで続くさま。一日中。しゅうじつ。
あえかに:か弱く、頼りないさま。きゃしゃで弱々しいさま。
5月、秀雄、「 かまくら (3) かまくら社 」に「良ェ詩餘響(三) 」を発表する。 pid/1834136
5月、この時より鎌倉の新文化祭のために月々万葉集を講義する。同会解散後は自宅で催し、25年10月29日より31年6月で完了する。
5月、秀雄、佐藤佐太郎・宮柊二と共に長野県戸倉に赴き、更科にて歌話、姥捨山にて遊ぶ。「陽壮年譜」
5月〜6月、秀雄、松本たかし・洞外石杖・上村占魚等と共に、岐阜県中津川→木曾→下諏訪→高木を廻り、なほ占魚と二人で塩尻→寿→浅間→松本→長野を旅す。「陽壮年譜」 
       ※高木:アララギ派歌人島木赤彦の柿蔭山房(しいんさんぼう)か検討要 2019・12・4 保坂
7月、秀雄、群馬県妙義山に遊び、宿にて痛飲す。「陽壮年譜」
9月、秀雄、上村占魚と共に群馬県草津に遊び、中沢晃三を知る。帰途、川原湯に立ち寄る。「陽壮年譜」
10月、秀雄、新潟の会津八一を訪ひ、佐渡を旅する。「陽壮年譜」
11月、秀雄、登美子を伴い、再び川原湯に遊ぶ。「陽壮年譜」
12月3日、長女皆子一家が渡米する。(孫の彩子は生後2ヶ月)
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1949 昭和24年 4月29日〜5月3日、秀雄、高崎市珍竹林画廊に於て、福田貂太郎・上村占魚と共に「短歌・俳句・絵画近作三人展」を催す。
5月27日〜30日、秀雄、中村琢二・上村占魚と共に草津温泉に遊ぶ。
6月、秀雄、中村琢二・伊藤庸雄と共に群馬県迦葉山に登りて、仏法僧を聴く。「陽壮年譜」
6月30日、木俣修との共著「互評自註歌集『寒蝉集』」を講談社から刊行する。
12月、秀雄、「展望 (48) 筑摩書房」 に「良寛の飲食生活」を発表する。 pid/1795807
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1950 昭和25年 1月、秀雄、「小説公園 1(1);創刊號 六興出版社」に「冬濱抒情(短歌)」を発表する。 pid/11005072
1月、秀雄、中村琢二と共に静岡県戸田に旅す。「陽壮年譜」
6月、秀雄、新潟県柏崎・新潟(良寛百二十年記念遺墨展を観、会津八一を訪ふ)→島崎→出雲崎(佐藤耐雪を訪ふ)→高田→戸倉を旅す。
「陽壮年譜」
9月1日、秀雄、私家版『米川稔短歌百首 
印刷 越後タイムス』を編集出版し七回忌の供養に供える。
     
この時、宮柊二の助力を受ける。 吉野秀雄文庫:y01/03170499
  
    米川稔短歌百首
  所蔵:神奈川近代文学館
あとがきこの小冊子は、九月二十三日鎌倉寿福寺において米川稔七周忌法會を営むに當り、追善供養のため参列者各位へ贈呈することを主な目的として編んだものである。稔の作歌は昭和十年六月の『多磨』創刊と同時にはじまるが。同十二年末までの三十餘首は自ら捨て去ってゐるので、ここには關はらしめない。昭和十三年一月『多磨』一部會員となって以後の製作は、ひとたび諸雑誌諸新聞に發表したものを厳密に取捨選擇し、且つ語句に錬磨改修を加え、出征に先立って四冊の浄書ノートとして残した。その數千二百五十六首である。また従軍中の歌は。昭和十八年十二月十九日夜ニューギニア島ウエワク戦線で浄書を終へた「陣中詠定稿」と題するノートが何か特別の幸便によって送られ、思ひがけず入手することを得たのであった。その数二百十首、但し内十首はj常時に取材してゐる。かくて合計千四百六十六首が彼の創作活動の總収穫であったといふ結果になる。稔は歌詠みとしては珍しく晩學の徒ではあった
が、しかし四十二歳乃至四十七歳の満六年間に毎年平均およそ二百五十首づつを詠みつづけた事實は、彼の覺悟の確かさと精進の烈しさがいかに尋常一樣でなかったかを剰すところなく語ってゐるといへるであらう。百首を抽き出す仕事は吉野秀雄が當り、宮柊二の意嚮をも參酌した。できるだけ稔特有の風格を尊重し、一首々々入念に吟味したつもりではあるが、なほこれを讀む人々は多分秀逸の脱漏の少からぬことを慨嘆するに違ひない。實はさういふ聲の諸方に高まりゆく機會に乗じて、彼の遺言道り三百首収録の歌集をこそ上梓したいと念じてやまぬ次第である。(以下略)/米川稔よ。誠實敦厚の士、稔よ。生前の君を識る者、ことごとくここに君が冥福を祷ってやまない。
   昭和二十五年七月二十八日 吉野秀雄 謹記

 裏表紙(黄)に記されてあった自筆の二首  吉野秀雄文庫 b/Y01/03170499 より 2019・11・25 確認済 保坂 
     米川稔を偲ぶ       吉野秀雄
  なき加らは荒磯ブーツにさらされて ただ髪の毛を墓にをさめき
  けだしくはいのちの際に詠み尓けむ 一首の哥よとはにむなしき
※研究資料  1987-12 短歌. 34(12)  米川稔と柊二 / 野村清 pid/7899336
10月11日、重吉の父、藤三郎が逝く。
12月、会津八一鎌倉に来泊し。大佛次郎・小山富士夫・松下英磨等相会す。
 「陽壮年譜」
〇この年、秀雄、「東西百傑伝 第4巻 池田書店」に「良ェ」を発表する。 pid/1705502
45 48
1951 昭和26年 3月、秀雄、中村琢二と共に静岡県西伊豆町安良里地方に旅する。
5月、秀雄、中村琢二と共に山形に至り、立石寺→高湯→肘折を旅する。
5月〜6月、秀雄、上村占魚と共に高知に至り附近巡覧の後→足摺岬に達す。町田雅尚斡旋す。帰途一人、宇和島→大洲(如法寺)→松山(子規の遺蹟を訪ふ)→今治→善通寺→琴平→高松→倉敷→玉島(円通寺)→網干(竜門寺)→奈良→名古屋→松本たかしと会して講演→岐阜県長良川の鵜飼いに遊ぶ。→中津川→浜松→鎌倉(この間二十日)
          斡旋;(あっせん);間に入って双方をうまく取り持つこと。周旋
8月、秀雄、新潟県高田→柏崎→新津→新潟(秋艸道人を訪ひ、良寛詩の講説を聴く)→白根を旅する。
8月下旬、秀雄、愛知県御油に小林一三を訪ひ、共に天龍下りを遊ぶ。
9月、秀雄、徳島県北島に至り、阿波の鳴門の潮流を観る。
12月1日、秀雄、「小説公園 六興出版社」に「阿波の秋風」を発表する。(紀行文中の歌)
撫養(むや)の門(と)を引く潮はげし孫崎にゆきて早見む鳴門大潮
(わた)なかをたぎつ潮筋わが目にも一里豫はしるし五里に及ぶとぞ
秋の海をつらぬく潮P
とほしろし天(あめ)なるや星の河といひつべく
うろこ雲
(け)ぬがに曳くもうら安し秋の厄日の迫門(せと)の上高し
秋風か塞かるる浪か大鳴門潮見の岡にこの澄めるこゑ
狭戸走る海の中川力あまり外べば潮の逆流れすも
阿波の旅にこよひわが観る裸ショー小屋の中をも秋の風吹く

撫養:旧吉野川下流低地の北部にある地名。藩政時代から塩の生産が盛んであったが,現在は全廃。『土佐日記』には「牟野 (むや) 」と記される。
とおしろし:1) 大きく堂々たる様子である。雄大である。 2)気高く奥深い。
※消ぬがに:消えてしまいそうに   ・・・してしまうばかりに。    ※うらやす(心安):心が安らかなさま。

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1952 昭和27年 5月、秀雄、「主婦と生活 7(5) 主婦と生活社」に「短歌選・名歌鑑賞 」を発表する。 pid/2306026
6月、『砂丘』が創刊され、この時より同誌歌壇の選者となる。(〜昭和42年6月)) 
6月、秀雄、 校訂による「良寛歌集 朝日新聞社 (日本古典全書)」が刊行される。 pid/1341631
10月4日、秀雄の父藤一郎逝く。(享年78歳)
10月26日、重吉25周忌に秀雄と登美子が招かれ、八木家を訪れる。
(略)吉野は二十七年八木の二十五年周忌法要のとき町田市にある八木の生家に行き、こんな歌を作ってくれています。
コスモスの地に乱れ伏す季(とき)にして十字彫(ゑ)りたる君の墓子らの墓
重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け
われのなき後
(のち)ならめども妻死なば骨(こつ)分けてここにも埋(うづ)めやりたし
(さかい)村の道秋晴れて歩みつつ蜜柑(みかん)むく手に蜂のきらめく
畠中に茶の木垣結
(ゆ)ふ墓どころ茶の花潔(きよ)しけふの忌日(きにち)
重吉が幼き頃のままならむ炉
(ろ)べの粗朶箱(そだばこ)子舟のごとし
      
「文芸春秋 42年12月号 四十年を看病に生きて 吉野登美子」より
      後半の三首は 吉野秀雄著、「やわらかな心・宗教詩人八木重吉のこと」より 
〇この年、秀雄が「世界偉人伝 第4巻 世界偉人伝刊行会 編 池田書店 」に「良寛」を発表する。pid/2996478
出家橘屋 /出家の動機 /圓通寺の修業と諸國遍歴 /五合庵の生活 /その藝術 / 晩年及び生涯の意義 /
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1953 昭和28年 〇この年、会津八一(秋艸道人)に会う。
2月、秀雄著「短歌とは何か : 短歌の作り方と味ひ方 (学生教養新書) 至文堂」が刊行される。pid/1341883
4月〜5月、秀雄、山陽・九州を旅する。
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1954 昭和29年 2月、秀雄、鎌倉の潮会のために万葉集の講義を始め、昭和37年2月6日に全巻を終る)
             
 注 「潮会」とは鎌倉高校同窓会の組織名か否か? 検討を要す。 2019・11・18 保坂
8月、秀雄、「小説新潮 8(11)
新潮社」に「外氣舍(短歌)」を発表する。   pid/6074716
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1955 昭和30年 1月、秀雄 、至文堂編「国文学 : 解釈と鑑賞 20(3)(226) 良寛特集」に「良寛の歌」を発表する。pid/3550177
良寛伝記上の諸問題 / 須佐普長 / 良寛の人間性 / 津田青楓 / 良寛の歌 / 吉野秀雄 / 良寛の詩 / 古川換一郎 /
良寛の書について / 長谷川耕南 / 良寛と俳句 / 志田延義 / 良寛と歌謡 / 峯村文人 / 良寛の書から / 酒井千尋 /
良寛の信仰 / 竹下数馬 / 良寛の遺跡 / 原田勘平 / 橘以南と良寛出家の遠因 / 佐藤吉太郎 /
日本のすぐれた詩人にして哲僧である良寛について / フィシヤー・ヤコブ /
良寛研究文献目録 / 関克巳 / 万葉集抄-39- / 久松潜一 / 源氏物語註釈-16-蓬生(七) / 佐伯梅友 /
志賀直哉「暗夜行路」(中)--現代文の鑑賞-21- / 長谷川泉 /
5月15日、神奈川県人会の建設する箱根強羅の「斉藤茂吉歌碑」の除幕式に出席祝辞を述べる。
6月12日、兄藤作逝く。(享年55歳)
11月7日〜8日、妙義山の紅葉を観て、帰途富岡に墓参する。
〇この年、秀雄が、上原専禄等編「現代仏教講座 第5巻 角川書店」に「良ェ」を発表する。 pid/2992418
   また、同本に紀野一義が「法華經」を発表する。 
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1956 昭和31年 1月9日、喀血し、以後半年間、療養する。
4月、糖尿病を誘発、市内ヒロ病院に20日間入院加療する。(10日〜30日)
5月11日、松本たかし逝く。
11月21日、会津八一、新潟医大病院にて逝く。(享年76歳)
11月20日、秀雄、新潟に至り、23日の荼毘に付し、24日、帰宅する。
立ち超えてあやしきまでにふるまひき本来是れ彼の獅子宮(ししきゅう)の人
あたかもや霊
(たま)還るときレオニヅの流星群は火箭(ひや)吹くらしも
いまよりは天
(あめ)の獅子座のかがやきを大人(うし)のまなこと観つつ励まむ
  
子宮(ししきゅう):黄道十二宮の第5宮。獅子座に相当するが、歳差のため春分点が移動し、現在は獅子座の西部から蟹座の西部にあたり、太陽は7月24日ごろこの宮に入る。
  ※レオニヅの流星群
しし座流星群、しし座に放射点を持つ流星群である。レオニズ(The Leonids)はレオニード(Les Leonides)などと呼ばれることもある。毎年11月14日頃から11月24日頃まで出現が見られ、11月17日頃に極大を迎える。八一は8月1日生まれで星占いでは獅子座に相当する、
  火箭(ひや)
昔の戦いで火をつけて射た矢。敵の施設や物資に火をつける目的で用いたもの。火矢(ひや)。この歌では流れ星。
11月、「週刊サンケイ 5(48)(250) 扶桑社」に「俳歌壇 / 吉野秀雄 ; 星野立子」が掲載される。 pid/1809929
11月、秀雄が「大世界 11(12)(275)
世界仏教協会 」に「良寛の生涯-1-」を発表する。 pid/3557358
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1957 昭和32年 月、秀雄が「大世界 12(1)(276) 世界仏教協会」に「良ェの生涯―(二)」を発表する。 pid/3557359
2月、秀雄が「大世界 12(2)(277)
世界仏教協会」に良ェの生涯―(完)」を発表する。 pid/3557360
         
注 通巻276.277には「針土竜」があったが275号にはなかった、画家名か? 再調査要 2019・11・15 保坂
2月26日〜3月25日、登美子、ヒロ病院に入院、胆嚢の手術を行う。
4月13日〜15日、秀雄、上村占魚ら、「みそさざい」一行と群馬県伊香保・下仁田に遊ぶ。
7月25日、秀雄著「良寛和尚の人と歌」が「弥生書房」から刊行される。 pid/1344179
はしがき /良寛の生涯 /良寛の少年時代 /良寛の青年時代と出家の原因 / 寛の五合庵時代 / 良寛の晩年 /良寛の芸術について /良寛の愛について /良寛歌私解 /春の歌 / 夏の歌 /秋の歌 /冬の歌 /雑の歌 /索引 /口絵 良寛筆「ももなかの」の歌の墨本 /
8月、「出版ニュース = Japanese publications news and reviews : 出版総合誌 (386);1957年8月上旬号」に「良寛和尚の人と歌」が掲載される。 pid/10231306
11月21日、新潟市瑞光寺にて会津八一の一周忌法要と歌碑の除幕式が行われる。
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1958 昭和33年 1月〜4月、秀雄、体調不健康にて籠居。
4月(15)日、秀雄と陽一と壮児の校訂・編集による「定本八木重吉詩集」が弥生書房から刊行される。
4月27日、生家の前に「素朴な琴」の詩碑が建立される。この時、秀雄は病気のため欠席する。
10月15日、『吉野秀雄歌集』(「寒蝉集」と「晴陰集」を所収)を弥生書房から刊行する。
10月26日、北川太一氏が、新たな八木重吉詩稿十一綴りを発見、その知らせを受ける。
11月21日、東京石神井法融寺に会津八一の墓成り、三周忌法要が行われる。
12月25日、前橋より高橋元吉療養のため鎌倉に来住、旧交を温める。
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1959 昭和34年 1月26日、『吉野秀雄歌集』により読売文学賞を受賞する。
3月30日、秀雄が、草野心平編「高村光太郎研究 筑摩書房p233〜244」に「高村光太郎の短歌」を発表する。 
 また、同号に北川太一が「高村光太郎年譜」を編む。pid/1358430
(略・詩と歌)の最も密着した例として、「蝉を彫る」といふ詩を挙げて吟味してみつことににしよう。



蝉を彫る高村光太郎
冬日さす南の窓に坐して蝉を彫る。
乾いて枯れて手に軽いみんみん蝉は
およそ生きの身のいやしさを経ち、
物をくふ口すらその所在を知らない。
蝉は天平机の一角に這ふ。
わたくしは羽を見る。
もろく薄く透明な天のかけら。
この蟲類の持つ靈氣の翼は
ゆるやかになだれて迫らず、
黒と緑に装ふ甲冑をほのかに包む。
わたくしの刻む檜の肌から
木の香たかく立って部屋に満ちる。
時處をわすれ時代をわすれ
人をわすれ呼吸をわすれる。
この四畳半と呼びなす仕事場が
天の何處かに浮いているやうだ。

 この詩の第二・第三行は、前に掲げた蝉の歌の(四〇)にそっくりの感覚だ。また第四行は(四一)に相當し、第十一・第十二行は(四六)に少なくも半分は類似する。しかしながらまた、ものの本質を見分けるこののできる人には、この詩この歌において共通するのは素材だけの話で、おのおのの構造による表現の根本には、まるで別物だといふ點に氣づかぬわけはなかろう。歌は蝉を観察して一つの内容を捕捉し、これを截然とした世界に定着させてゐるし、詩は歌の内容を単なる蝉の属性として□々と疊み込み、そして最後に、「時處をわすれ時代をわすれ/人をわすれ呼吸をわすれる。/ この四畳半と呼びなす仕事場が/天の何處かに浮いているやうだ。」といふイマージュの世界へまで引き連れて行く。いづれがいいわるい、いづれが上だ下だではなく、歌には歌の呼吸があり、詩には詩の呼吸があるといふものだ。つまり高村さんは詩をよく知り、歌を十分知るが故に、二者を甄別(けんべつ)し、詩を歌の延長とせず、歌と詩の斷片としなかったのである。(略)
 詠作年代不明の高村さんの歌に、
 
山ゆきて何して來る山にゆきてみしみしあるき水のんでくる(七一)
といふのがある。この
希世の高士は、彫刻と詩の外に、短歌の世界をも濶達自在に「みしみしある」いた。この人をも素人とし、この歌をも餘技とするやうな態度がかりそめにも歌よみの側にあるならば、それこそ短歌を毒する玄人ぼけといふものにすぎぬのではなからうか。
甄別(けんべつ):はっきりと見分けること。
希世(きせい):世にまれなこと。世にまれなほどすぐれていること。
高士(こうし):1 志が高くりっぱな人格を備えた人物。人格高潔な人。 2 世俗を離れて生活している高潔な人物。隠君子。
濶達(かったつ):度量が大きく、小事にこだわらないさま。
参考
生きの身のきたなきところどこにもなく乾きてかろきこの油蝉(四〇)
どこに口があるかわからぬこの蝉に何をあたへんあたふるものなし(四一)
檜の香部屋に吹きみち切出の刃さきに夏の雨ひかりたり(四六)
4月17日〜19日、富岡にて掛軸・扁額類の個展を開く。
7月、秀雄、「墨美 (88) 墨美社」に「文化と伝統について-良寛と会津秋艸にちなんで」を発表する。 pid/2362631
10月28日、長男陽一肺の手術を行う。
12月1日、長男陽一、再手術を行う。
12月23日、長男陽一、三回目の手術を行う。
12月25日、重吉の新たに発見された詩稿を編んで「花と空と祈り」を再び弥生書房
から刊行する。
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1960 昭和35年 月、秀雄が「Books (117) Booksの会」に「書評「良寛全集」のこと 」を発表する。  pid/3541522
6月4日、秀雄が「古典日本文学全集 第21 (実朝集,西行集,良寛集) 筑摩書房」に「良寛集 吉野秀雄評釈 ・大愚良寛小伝」を分担発表する。pid/1661320  
6月10日、角川文庫『吉野秀雄歌集』が刊行される。
7月14日、鎌倉瑞泉寺に墓地を定める。
11月21日、武蔵野上石神井・法融寺にて会津八一五周忌法要に参列する。
     同日、境内に建立された道人歌碑の除幕式も行なわれる。

12月18日付、「越後タイムス 柏崎より」欄に「錘≠ェ母校野田小学校に図書館を寄付」と題された新聞記事が掲載される。
(本文)郡内黒姫村野田小学校(堀井校長)に四間×八間三十二坪の鉄筋コンクリート建図書館が個人寄付でこのほど建築されることになりました。この寄付者は同地出身の東京吉野藤遂g之助社長で、金子黒姫教育長の話では二百三十万円ほどが見込まれております。学校図書館の寄付といえば、古五十嵐与助翁が大洲小学校に百三十円を贈り立派な施設ができたことを思い起させますが、錘≠フ寄付はこれを大きく上回る額であり、郡市内小学校では唯一のものとなろうと期待されています。
〇この年、秀雄が、安田靱彦監修「良寛・遺墨集 筑摩書房」に「良寛の歌について」を発表する。pid/8799227
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1961 昭和36年 1月28日〜29日、深田久弥・上村占魚ら九人と茨城県大洗に遊び、親鸞・唯円の遺跡を巡る。
2月1日、「文藝春秋 二月号」に「瑞泉寺早春」と題し七首を発表する。
あなさやか睦月(むつき)の園の水仙を分け分けあゆむしだり尾の鶏(とり)
峯上
(おのへ)なる一覧亭の椎は見よ天(あめ)あたらしきひかり直射(たださ)
マタの薄黄の花に寄り立たな時はまだしき梅園(うめぞの)の奥
山水
(やまみづ)に寒晒(かんざら)しせる梅干の笊(ざる)さむざむと暮れかかり来つ
(を)せという松の実を噛め酌めといふ酒に酔ひけり君がまにまに
みづからの手に培
(つちか)ひて冬青き信濃野沢菜を君はもてなす
唐紙に凍
(こご)えてすがる馬追蟲(うまおひ)の透き色凄し夜も更けし灯に
しだり尾:しだ・り【垂り】細かい枝状に分れて、長く下方に下がる。長く垂れ下がる。
       あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂

時はまだしき:まだその時に達していないさま。まだ早い。未熟だ。
まにまに:他人の意志や事態の成り行きに任せて行動するさま。ままに。まにま。
馬追蟲:キリギリス科の昆虫。雄の鳴き声はスイーッチョと聞こえ、馬子が馬を追う声に似る。すいっちょ。
2月9日〜11日、3回にわたりNHKラジオにて「良寛の愛」について放送する。
6月4日付、「越後タイムズ」に「黒姫に吉野秀雄氏の歌碑」と題された記事が掲載される。
(本文・写真略)歌人吉野秀雄氏の歌碑が黒姫村故嵩。吉氏邸の庭に建てられてある。嵩。吉氏は吉野氏の伯父に当たる人、かやぶきのゆったりした母屋の前にひろがる庭には老木の木立が、初夏の光をさえぎり、落ちついた雅味あるたたずまいを見せていたが歌碑は、この一隅に建てられてある。
 越の
鄙この家に春の残りゐてわが背よりも高し大手毬の花
 わが伯父もわが母もこよひ仏壇より酒に酔ひ痴るる我を見まさむ

       ※鄙(ひな):いなか。都を離れた土地。鄙(ひな):いなか。都を離れた土地。
昭和二十九年、野田を訪れた吉野氏の歌、建立は遂g之助氏(吉野藤社長)緑こく染めあげられた庭木立の枝ぶりの中で、ただ一つ、入り口の大手毬の白い大輪が咲きくずれて、こけむす土の上に落ちていた。【写真はその歌碑】
7月4日〜9月26日迄、NHKラジオより13回にわたり「万葉の詩情」を放送する。
7月、秀雄が「大和文華 = Semi-annual journal of eastern art (35)
大和文華館」に「沙門良寛の歌の真価 」を発表する。 pid/7934569
9月3日付、「越後タイムス」に「吉野藤錘ミ長寄付の野田小図書館できる」と題された新聞記事が掲載される。
(本文)吉野藤社長遂g之助氏の寄付になる黒姫村野田小学校図書館がこのほど完成しました。工費三百万円、鉄筋コンクリート四間×八間の平屋建て、おそらく独立した学校図書館建物としては、郡市内小中学校でもっとも立派なものではないかといわれています。竣工の記念式典は、寄付者の錘≠フ都合をまって行われることになっています。
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1962 昭和37年 2月3日、鶴岡八幡宮に年男として舞殿にて豆を撒く。
3月より、病に臥せる。
5月、糖尿病の悪化を言い渡される。
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1963 昭和38年 2月、『短歌二月号』に歌三十首載る。
3月26日、父藤一郎の顕彰碑、高崎市立南小学校の庭に建立される。
6月10日より『毎日新聞』夕刊に「心のふるさと」の連載が始まる。
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1964 昭和39年 4月21日、『短歌研究』へ百首、『短歌』へ三十首を作る。 59 62
1965 昭和40年 1月28日、高橋元春、鵠沼松ヶ岡にて逝去。
3月20日、秀雄が、吉田絃二郎 著,土村正寿(絵)「良寛
ポプラ社 (世界伝記全集 ; 4)」に「〔解説〕良寛和尚の一生」を脱稿する。  pid/1655203
3月29日〜30日、前橋煥乎堂書店画廊にて個展を開催する。
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1966 昭和41年 8月15日、秀雄が激しい心臓発作を起こす。
9月16日、自身の墓文字を揮毫する。
〇この年、吉野秀雄著「やわらかな心
講談社」 が刊行される。  pid/1672931
61 64
1967 昭和42年 2月10日、随筆集「心のふるさと」が筑摩書房より刊行される。
見出し 日付 見出し 日付 見出し 日付
唐招提寺の鑑真和上像 38・5・5 興福寺の龍燈鬼 39・4・1 東大寺の重源上人像 40・1・12
清拙正澄遺偈 6・10 東大寺の誕生釈迦仏 4・6 東慶寺の水月観音像 2・19
鎌倉大仏 6・19 東大寺の不空羂索観音立像 4・13 虚堂智愚墨蹟 2・25
大愚良寛書「愛語」 6・24 固山一鞏墨蹟 4・20 忍性律師五輪塔 3・4
高山寺の明恵上人坐禅図 7・1 浄瑠璃寺の九体阿弥陀 4・27 円応寺の鬼卒像 3・10
鶴岡八幡宮の弁才天坐像 7・8 覚園寺の薬師三尊坐像 5・4 証菩提寺の阿弥陀三尊像 3・16
足利尊氏清水寺願文 7・22 無学祖元の墓塔 5・11 過去現在因果経 3・26
親鸞上人画像 7・29 常盤山文庫の聖観音立像 5・25 東大寺門額 4・1
金戒光明寺の山越阿弥陀図 8・5 玉虫厨子の捨身飼虎図 6・1 仙高フ豊干図屏風 4・15
道元の普勧坐禅儀 8・12 法華寺の十一面観音立像 6・8 妙法院の風神雷神像 4・29
興福寺の阿修羅像 8・26 弘法大師の潅頂記 6・15 宇治橋断碑 5・11
薬師寺の聖観音立像 9・2 中尊寺の一字金輪坐像 7・1 法華寺の維摩居士坐像 5・23
杉本寺の十一面観音立像 9・9 伝橘逸勢の伊都内親王願文 7・6 拙庵徳光墨蹟 6・6
正倉院の麻布墨絵仏像 9・16 興福寺の乾闥婆像 7・13 夢窓国師墨蹟 6・13
瑞泉寺の夢窓国師像 10・1 旧山田寺の仏頭 7・27 因陀羅の布袋図 6・20
秋篠寺の伎芸天像 10・7 盤珪和尚墨蹟 8・3 平家納経 6・27
覚園寺の大宝篋印塔 10・27 那智滝図 8・14 伝曽我蛇足の臨済図 7・4
一休和尚墨蹟 11・5 土佐の柴折薬師 8・19 送海東上人帰国図 7・11
東大寺の金銅大燈篭 11・12 法隆寺五重塔落書 9・1 絶海中津書唐詩 7・18
大燈国師墨蹟 11・18 一山一寧墨蹟 9・6 清凉寺の釈迦如来立像 7・25
薬師寺の東塔 11・25 法隆寺天蓋付属の天人 9・15 西行の一品経和歌懐紙 8・1
法隆寺の夢違観音像 12・2 光明寺の当麻曼荼羅縁起 9・21 清滝権現画像 8・8
隅寺心経 12・9 弘明寺の十一面観音立像 9・29 法界寺の壁画飛天 8・22
孝謙天皇の百万塔 12・16 光触寺の阿弥陀三尊像 10・5 信貴山縁起絵巻 8・29
覚園寺の黒地蔵 12・23 浄妙寺の退耕行勇坐像 11・2 花園天皇画像 9・5
浄瑠璃寺の吉祥天立像 39・1・6 可翁の寒山図 11・10 普賢菩薩像 9・12
寿福寺の栄西禅師像 1・24 如拙の瓢鮎図 11・17 仏鑑禅師墨蹟 9・19
元興寺の薬師如来立像 1・27 雪舟の慧可断臂図 11・23 慈恩大師像 5・26
唐招提寺の如来形立像 2・6 子元祖元墨蹟 12・1 釈迦金棺出現図 10・3
道鏡自筆の牒 2・13 聖一国師遺偈 12・8 後白河法皇奥書 10・10
病草紙 2・24 六波羅蜜寺の空也上人像 12・21 阿弥陀聖衆来迎図 40・10・17
信海の不動明王像 3・2 牧谿の鶴図 40・1・5 深大寺の釈迦倚像  未掲載
一休和尚画像 3・9 兀庵(ごつたん)普寧墨蹟 1・11 薬師寺の仏足石歌碑  未掲載
慈雲尊者墨蹟 3・16 江ノ島の弁才天坐像 1・28
白隠の[ビ]猴(びこう) 3・23 円応寺の初江王坐像 2・5
あとがき」(末尾の部分)
(略)
昭和六年以来鎌倉に住み、ここの美術もしぜんに見てきた。さういふものを思ひ出しつつ、選びとっては書いた。実物を知らずに書いたのは、墨蹟類に少しあるのを別にすると、一、二しかなく、それは文中にその旨断ってある。(略)わたしは昭和三十七年春以来の病人で、殊に病の一つに双脚のリューマチがあって動く自由がなく、わが家の書棚から本を探し出すことにさへ、苦労しつづけた。この一事がわたしにはいちばん印象が強い。しかしともかくここに出版される運びとなったことを心からよろこんでゐる。/(略)
 注 日付について 「あとがき」に「(編集部註・各篇末尾の年月日は毎日新聞掲載の日付をあらはす)」と添書あり。 2019・11・21 保坂
4月16日、第一回釈迢空賞を受賞する。
5月、秀雄が伊藤呆庵著「伊藤呆庵歌集野島出版」に序文を寄せる。  pid/1348179
参考:序 吉野秀雄 /呆庵歌 三百五十三首 / 松之山温泉 二十四首 / 寒蝉集を読む 五首 /母を憶ふ歌 十八首 / 晩春月岡温泉 九首 / 初冬月岡温泉 五首 / 森哲四郎氏を訪ふ 八首 /出雲崎にて 四首 /冬の和倉温泉 十二首 /清流五十嵐川 八首 / 九州に旅して 五首 / 新春伊夜日子の宮 六首 / 越の千崖を偲ぶ 五首 / 良寛和尚を讃ふ 十二首 /鎌倉行 初めての折 七首 / 鎌倉行 次の折に 五首 / 鎌倉行 三たび目 六首 / 江之島行 七首 /甥をいたむ歌 四首 / をみならの歌 十一首 / フードセンター再建 九首 /み墓べに 七首 /酒を讃ふ 六首 /曽祖父五十回忌 五首 /亡児七郎を偲ぶ 四首 / 直志を悼む歌 十三首 /まちづくり 六首 / 近火 五首 /信濃路の秋 六首 /出土の埴輪女 五首 /吉野先生と呆庵 十二首 /金婚の賀 四首 /父と母 三十三首 / 妻の歌 十五首 / 孫の子ら 十一首 /をりをりの歌 四十二首 / 心ごころ 九首 /あとがき /
7月13日、吉野秀雄沒(65歳) 戒名 艸心洞是観秀雄居士
10月、「短歌. 14(10) 
追悼吉野秀雄特集 角川書店」が刊行される。  pid/7899072
最後の歌 十六首   吉野秀雄 / 吉野秀雄君に敬服す  里見ク /思い出二つ三つ 小島政二郎 /吉野さんの近著 川端康成 /にくい奴 大佛次郎 /美しい行為 草野心平 /二度の旅 深田久彌 / 死と隣りあわせ 和田芳恵 /吉野秀雄氏の文芸 宮柊二 / 一種の風格  佐藤佐太郎 /吉野先生の酒と旅との思い出二つ   大竹新助 /吉野さんの書 小竹久爾 /會津八一と吉野秀雄  松下英麿 吉野秀雄と松本たかし 皆吉爽雨 /より添う人 料治熊太 /吉野秀雄のこと 宮川寅雄 / 万葉集と歎異抄とをむすぶ 西郷信綱 / 吉野さんの眼 中村啄二 /信の人吉野秀雄氏を憶ふ 津曲淳三 /「短歌百餘章」など 赤松大麓 /『寒蝉集』前後 江藤淳 /吉野秀雄ずいもん 上村占魚 /鎌倉の夏の雲 石川宮子 /吉野秀雄と松岡静雄 松岡磐木 /学友吉野秀雄君を偲ぶ 金子佐一郎 / 気力尽きるまで 半沢結子 /含羞の人  吉野壯兒 /作品 五十首 七月十三日以降   安立スハル /作品 五十首 方代の歌   山崎方代 /最後の日記 自六月二十三日至七月十一日   吉野壯兒 /吉野秀雄著書解題   斎藤正二 /吉野秀雄年譜   吉野壯兒 /(以下・略)
注 ※
吉野秀雄年譜   吉野壯兒」:国会図書館デジタルコレクション 目次欄の表記をそのままに写したが、実際は 「吉野陽一 吉野壯兒編」とあったので注意  2019・11・24 保坂
10月、「短歌研究. 24(10) 短歌研究社」が刊行される。 pid/7889737
(略)/最後の歌 未推敲原稿   吉野秀雄 /吉野秀雄臨床記   吉野とみ子 / (略)/
〇この年、秀雄が 「良寛の書簡 良寛 著,BSN新潟美術館編 BSN新潟放送」に「良寛の書簡について」を発表する。 pid/2513247 
〇この年、秀雄 が「日本史の人物像 第8
筑摩書房 」に「良寛―大愚良寛小伝」を発表する。pid/2973419
62 65
1968 昭和43年 4月12日、『含紅集』その他に於て「第18回芸術選奨」が贈られる。
7月6日、瑞泉寺に於て第一回艸心忌と歌碑の除幕式が行われる。
     
死をいとひ生をもおそれ人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ 
     
(裏面) 吉野秀雄を敬愛するもろもろの人あひ集ひてこれを建つ ときに昭和四十三年七月  艸心忌
7月14日、高崎公園に於て歌碑の除幕式が行われる。
     
白木蓮の花の千万青空に白さ刻みてしづもりにけり
12月5日、山口瞳が「小説・吉野秀雄先生」を「別冊文藝春秋106号」に発表する。

8月、「短歌 15(8) 角川書店」に「『群鶏』読後感(遺稿) / 吉野秀雄」が掲載される。   pid/7899083
12月8日、富岡市一峰公園に於て歌碑の除幕式が行われる。
     甘楽野をまさに襲はむ夕立は妙義の峰にしぶきそめたり
63
1969 昭和44年 〇この年、伊藤整等編「日本現代文学全集 第108 (現代詩歌集) 講談社」が刊行される。 pid/1674341
漢詩篇 /
中野逍遙 /
逍遙遺稿 抄 /

詩篇 /
大手拓次 /藍色の蟇 抄 /
西條八十 / 砂金 /
尾崎喜八 /田舍のモーツァルト /
百田宗治 / 靜かなる時 /
田中冬二 / い夜道 /
八木重吉 /秋の瞳 /
安西冬衞 /軍艦茉莉 /
吉田一穗 /海の聖母 /
萩原恭次カ /死刑宣告 抄 /
丸山 / 帆・ランプ・鴎 /

詩篇 /
北川冬彦 /戰爭 /
村野四カ / 亡羊記 /
小野十三カ / 大阪 /
山之口貘 / 思辨の苑 /
伊東靜雄 /わがひとに與ふる哀歌 /
立原道造 /萱草に寄す / 曉と夕の詩 /

短歌篇 /
川田順 / (鷲 /
前田夕暮 /收穫 /
尾山篤二カ /草籠 /
土屋文明 /山下水 /
土田耕平 /杉 /
吉野秀雄 /寒蝉集 /
宮柊二 /日本挽歌 /
俳句篇 /
飯田蛇笏 /靈芝 /
水原秋櫻子 / 葛飾 /
西東三鬼 /變身 /
中村草田男 /長子 /
山口誓子 /凍港 /
加藤楸邨 /颱風眼 /
石田波ク /雨覆 /

作品解説 /
漢詩篇・詩篇・伊藤信吉 /
短歌篇・俳句篇・山本健吉 /
年譜 /
參考文獻 /


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1970 昭和45年 65
1971 昭和46年 66
1972 昭和47年 4月12日、長男陽一が逝く。(42歳) 67
1973 昭和48年 68
1974 昭和49年 69
1975 昭和50年 〇この年、吉野秀雄著「良寛 : 歌と生涯 筑摩書房(筑摩叢書, 216)」が刊行される。 70
1976 昭和51年 10月24日、八木重吉50年祭が町田市立相原小学校で行われる。 
10月26日、弥生書房より吉野登美子著『琴はしずかに』が刊行される。
71
1977 昭和52年 72
1978 昭和53年 10月31日、吉野登美子、「わが胸の底ひに」を「弥生書房」から刊行する。 73
1979 昭和54年 74
1980 昭和55年 75
1981 昭和56年 76
1982 昭和57年 77
1983 昭和58年 78
1984 昭和59年 3月、関俊治他執筆「元吉・秀雄 みやま文庫」が刊行される。
   高橋元吉年譜: p109〜116 吉野秀雄略年譜: p209〜215
6月吉日、施主八木藤雄が、八木重吉・桃子・陽二の墓のとなりに、登美子の墓を建立する。 
10月26日、八木重吉記念館が、開館する。
79
1985 昭和60年 80
1986 昭和61年 7月5日、吉野秀雄著「詩集 山國の海鳴」が「紅書房」から刊行される。 81
1987 昭和62年 82
1988 昭和63年 83
1989 昭和64年 84
1990 平成2年 85
1991 平成3年 86
1992 平成4年 87
1993 平成5年 1月、塚原明水が「信濃教育 (1274) 信濃教育会,大日本教育会」に「本との出会い/吉野秀雄著「良寛和尚の人と歌」」を寄稿する。   pid/6070839
8月、大星光史が「短歌 40(8)(524)
角川書店」 に「会津八一の歌と人-8-相馬御風と吉野秀雄 」を寄稿する。また、同号に大越一男が「良寛歌と近代短歌(良寛歌一首)」を寄稿する。  pid/7899411
88
1994 平成6年 89
1995 平成7年 90
1996 平成8年 91
1997 平成9年 92
1998 平成10年 93
1999 平成11年 2月12日、登美子が昇天する。(94歳) 94
2000 平成12年 9月、責任編集やなせ・たかし「月刊詩とメルヘン」に「特集 八木重吉詩集」が編まれる。
2001 平成13年 11月、松本市壽が「三田文學 80(67) p.142-146」に「<随筆>吉野秀雄と良寛」を発表する。
2002 平成14年
2003 平成15年
2004 平成16年
2005 平成17年
2006 平成18年
2007 平成19年
2008 平成20年
2009 平成21年
2010 平成22年 11月、高田容夫(たかだよしお)が「柏崎市立野田小学校 NOTA発学校だより」に図書室に掲げられている吉野秀雄筆の扁額「読書尚友」についてのお話を全校朝会で行なう。
2011 平成23年
2012 平成24年 柏崎市立野田小学校(廃校)が新道小に統合される。
        注 吉野秀雄筆の扁額「読書尚友」についてのその後について、調査要 2019・11・19 保坂
2013 平成25年
2014 平成26年
2015 平成27年 11月、高田容夫が「燕市立小池小学校 学校だより 月花星」に「読書尚友」のタイトルで吉野秀雄の歌を紹介する。
2016 平成28年
2017 平成29年
2018 平成30年
2019 令和元年
2020 令和2年
2021 令和3年
2022 令和4年
2023 令和5年
2024 令和6年

参考資料
八木重吉詩集 八木重吉著 創元社  発行 昭和23年3月
上州路 2002年12月号 「−生誕百年記念−  超俗の歌人 吉野秀雄 あさを社 発行 平成14年12月
短歌. 14(10) 追悼吉野秀雄特集 角川書店 pid/7899072
   
吉野陽一・吉野壮兒編 吉野秀雄年譜 発行 昭和42年10月 注 特に「陽壮年譜」とする。
元吉・秀雄 執筆者代表 関俊治 みやま文庫 発行 昭和59年3月30日


八木重吉の年譜 
小林秀雄編「創元」創刊号に記された吉野秀雄の歌
吉野秀雄、門人として「多胡碑斷疑」の附記
参考 多胡碑・上野三碑関連資料集
「金槐集研究所目解題」を読む、 

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