吉野秀雄関連年譜             yosinohideo-nenpu.html
2019・11・14 「河」についての資料を追加
2019・11・25 「米川稔短歌百首」本の蒲表紙に記された二首を追加
 八木重吉の年譜を作ると、どうしても吉野秀雄さんの年譜が作りたくなる、それで、八木重吉の年譜の最後の方は、自然と吉野秀雄さんのことが多くなってしまった。それではまずいと思いながら重吉さんが全く知らない、吉野秀雄さんと云う人の年譜も「どこかで、作らなくては・・・。」と思うようになってしまう。
 これらの年譜は、二人の人生を共に歩んだいっそのこと「登美子さんの年譜」と、した方が良いのかも知れないが、ここでは、吉野秀雄さんの作品等を含ませながら、その一生を辿って見たいと考えました。
 己を深く見つめ、時に人生を楽しんだ吉野秀雄と云う人物の年譜です。
「吉野秀雄の歌」が「広報たかさき」に50回に亙り連載されていた。 2002年12月号 「上州路・吉野秀雄のこと 原一雄」より
子規遺稿第一篇 竹の里歌 明治39年再版」に挟まれた、短冊(10×5p位)13枚に本の名と「吉野藤」とあるのを見つける。 2019・11・4
秀雄は、何故、佐藤耐雪(吉太郎)を知ることができたか。 会津八一のようにか、また、高村光太郎についても 2019・11・29
良寛堂建設に伴う建設費に「寄贈書絵画の売上」が含まれているが、その写しとか行方等どのようであるか。 2019・12・4 
高田博厚はどのような人物か気になる 昭和4年 高橋元吉著「詩集 耶律 限定300部」の編輯に携る 2020・1・15

西暦 和年号 主な出来事 重吉 登美子 秀雄 はつ子
1895 明治28年
1896 明治29年
1897 明治30年
1898 明治31年 2月9日、重吉、東京府南多摩郡堺村相原4473、父籐三郎、母ツタの次男として生まれる。 0
1899 明治32年 1
1900 明治33年 7月3日、重吉の弟(三男)純一郎が生まれる。
6月、会津八一(19才)が根岸の子規庵を訪ねる。
2
1901 明治34年 3
1902 明治35年 7月3日、吉野秀雄、高崎市新町46番地、吉野藤一郎、サダの次男として生まれる。 4 0
1903 明治36年 5 1 0
1904 明治37年 4月1日、重吉、大戸学校に入学する。 6 2 1
1905 明治38年 2月4日、島田登美、新潟県高田市南城町、父助作、母イトの三女として生まれる。 7 0 3 2
1906 明治39年 1月、高濱清(虚子)著「子規遺稿第一篇 竹の里歌」が再版される。 吉野秀雄文庫所蔵 y01/03166342
本書は他から購入したか譲り受けたものかは不明。P68と69の間に短冊(10×5p位)13枚が挟まれてありました、短冊には、購入したいと思う書名とその左下側に「吉野藤」と社名が自筆で記されてありました。 2019・11・24 AM 確認済 保坂
8 1 4 3
1907 明治40年 9 2 5 4
1908 明治41年 重吉、神奈川県川尻村尋常高等小学校へ通学。 10 3 6 5
1909 明治42年 吉野秀雄、生来虚弱のため、祖父母の家に預けられ、富岡尋常高等小学校に通う。 11 4 7 6
1910 明治43年 12 5 8 7
1911 明治44年 13 6 9 8
1912 明治45年 4月1日、重吉、鎌倉の神奈川県師範学校に入学する。 14 7 10 9
1913 大正2年 15 8 11 10
1914 大正3年 16 9 12 11
1915 大正4年 4月、高崎の家に戻り、高崎商業学校に入学する。この時の国語の担任に、長塚節の縁者と云う丹羽泰蔵がいて、正岡子規や長塚節についての影響を受ける。 17 10 13 12
1916 大正5年 18 11 14 13
1917 大正6年 1月、秀雄、祖父藤作が亡くなる。(享年62歳)
3月26日、重吉、神奈川県師範学校を卒業する。
4月1日、重吉、東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学する。
7月19日〜8月22日まで、秀雄、兄健太と東北・北海道を旅行、北海道大沼公園で短歌二首を作る。
19 12 15 14
1918 大正7年 2月、相馬御風編「良寛和尚詩歌集」が春陽堂から刊行される。
5月、相馬御風が、「大愚良寛」を春陽堂から刊行する。
20 13 16 15
1919 大正8年 3月2日、重吉、駒込基督会徳永徳磨牧師により洗礼を受ける。
8月、相馬御風(解説)「良寛和尚遺墨集」が春陽堂から刊行される。
12月、重吉、スペイン風邪に罹り、肺炎を併発して重症となる。
21 14 17 16
1920 大正9年 4月、秀雄、慶應義塾大学理財科予科に入学する。少年時代より『福翁自伝』を愛読していた。
11月2日、出雲崎良寛寺(良寛堂・建立)会計調査がなされる。   
 収入(内訳) 791円50銭 出雲崎町内九十六人寄附金
755円00銭 市外三十三人寄附金
9350円00銭 寄贈書画売上代
206円69銭 家屋売払銀行利子
 収入合計 11103円19銭 収入合計
 支出(内訳) 277円45銭 事務費
1578円41銭 勧財費
2271円40銭 土地買入費
3486円61銭 工事費い
26円07銭 利子
 支出合計 7639円94銭 支出合計
 差引残高 3463円25銭
「出雲崎町史 資料編 V 近代・現代編 発行 平成元年10月 「用留」 第4章 出雲崎町の教育・文化 P493」から図表にしました。
12月、相馬御風が「良寛和尚尺牘」を春陽堂から刊行、はしがきを執筆する。
○重吉、本科3年に進み寮に戻ろうとしたが『肺病やみ』といわれて寮を追われ、池袋の素人下宿に入る。
22 15 18 17
1921 大正10年 3月、重吉、池袋の下宿に同宿していた石井義純に頼まれ、島田とみの勉強をみる。
3月31日、重吉、兵庫県御影師範学校(現・神戸大学)の教諭兼訓導(英語科)に任じられる。
7月15日、重吉、陸軍の6週間現役兵として歩兵第三九連隊に入営する。
11月、重吉、東京高師の恩師内藤卯三郎にとみへ正式な結婚の申し込みを依頼する。
12月、重吉、手紙で連絡をとりながら冬休み。とみと、とみの兄、内藤の4人で芝公園内の茶店で出あう。
23 16 19 18
1922 大正11年 1月、重吉、横浜市本牧神社に於いて、内藤卯三郎の仲立ちにより婚約が成立する。
4月、秀雄、慶應義塾大学経済学部に進む。 
7月5日、安田新三郎が「留散東(ふるさと・筆者 良寛)」を「金屬版印刷所/七條憲三」から刊行する。
安田新三郎は安田靫彦(ゆきひこ)の本名。「靫彦は前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった。「飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ1981年、1986年、1996年に切手に用いられた。良寛の書の研究家としても知られ、良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。」Wikipediaより      所蔵:吉野秀雄文庫 y01/03191505  和綴本
7月19日、内藤氏が列席して、重吉(24才)と、とみ(17才)が結婚する。兵庫県御影町石屋川の借家に住む。 
9月5日、佐藤吉太郎(耐雪)が「北越新報社」から「出雲崎の史的趣味」を刊行する。 pid/964486
良寛堂ここは當町随一の舊家と稱せられる橘屋山本氏の舊屋敷址である。(略)私が二十年來蒐集せる各家の記録によって出雲崎編年史を執筆中、由緒ある橘屋を思ひ、憤悶の情を俳諧に籍りて一生を晦韜した以南を思ひ、崇高清純な人格者たる良寛上人を慕ふのあまり、衷情つひに偲ぶ能はず、斷然禿筆を抛(なげう)って、この歴史ある尊き橘屋の舊址を拓らき、そこに碑を建て小庵を營み、永く後世に上人の徳光を傳へ、あはせて上人誕生の霊地を記念することが、出雲崎の歴史を明らかにする上に最も大なる意義を有する事だと覺悟し、自ら立ってそれの企劃を進めたのが、大正四年天長の佳辰であった。而して爾來春秋七星霜、此間、終始一貫行動をともにして、力をその事の爲めに致されたるは元全久院住職塚本本格道師であって、更に町内重立の多くは、發起人として浄財を喜捨し、工事を助成せられたのであった、尚この良寛堂造営の歴史として永遠に傳へて忘るる能はざる事は大正當代の左記(このでは下記)大家が、良寛上人敬意のあまり、喜んでこの造営工事を輔佐加勢せられた事である。なほ此堂宇は藤原時代末葉唯一の建造物として高雅な様式を以て鳴る宇治鳳凰堂の一角に範を採り、更に安田靫彦(ゆきほこ)畫伯が舟形肘木の線と感じとに考慮を運らされて出來上ったのである。
憤悶(ふんもん):いきどおり、もだえること。憤懣(ふんまん)。
晦韜(とうかい):1 自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと。2 身を隠すこと。姿をくらますこと。

衷情(ちゅうじょう):うそやいつわりのない、ほんとうの心。衷心。
佳辰(かしん):めでたい日。よい日柄。
輔佐(ふさ):身分の高い人をたすけて事を処理すること。また、その人。ほさ。
□良寛堂造営顧問
豊山大學長 権田雷斧 曹洞宗師家 新井石禅 東洋大學長 大内青巒 美術学校長 正木直彦
美術家 安田靫彦 大愚良寛著者 相馬御風
□自家作品
 寄贈大家芳名

  《書》
高津柏樹 三浦観樹 松浦厚 神尾光臣 河東碧梧桐 北野元峰 横尾賢宗 山田孝道
九鬼隆一 北條時敬 高濱虚子 大内青巒 高田道見 秋野孝道 南條文雄 建部遯吾
大西良慶 松本文三郎 高村竹隱 土宣法龍 内藤湖南 安田呉竹 長尾雨山 山本意山
菅原時保 筒井寛聖 佐伯不東 梅原靈巖 新井石禅 石川素堂 日置黙仙 河野霧海
權田雷斧 弘津説三 上村観光
□自家作品
 寄贈大家芳名

  《畫》
下村観山 安田靫彦 橋本關雪 木村光年 伴 壽山 竹内栖鳳 橋本獨山 田村月樵
富岡鐡齋 武田黙雷 田能村小笠 三輪越龍 三木翠山 小西編年 田中松斎 服部五老
藤井松山 江上瓊山 人見少華 山口八九子 田中松峰 橋本紅影 柴田晩葉 前田一鶯
吉田柳外 山瀬春嶺 井村方外 坂田舟皐 富所友竹 諸橋湘江 津端道彦 伊藤龍涯
今井爽邦 奥原晴翠 倉田松濤 須田霞亭 豊原瑞雨 富取芳谷 山岸痩石 木下静涯
尾竹越道 八木岡春山 尾竹竹坡 松野霞城 谷洗馬 中村不折 池上文僊 阿出川眞水
村上委山 藤山鶴城 寺崎廣業 田村豪湖 森脇雲溪 高取稚成 横山大観 川合玉堂
平福百穂 加納鐡哉 伊藤鐡石 小杉未醒 池上秀畝 小堀靫音 小川芋錢 前田青頓
結城素明 大村西崖 山田介堂 土田麥僊 上村松園 松林桂月 小林古徑 川端龍子
□金品喜捨人芳名
 但金壱百圓價格以上
山田権六郎 久須美東馬 吉田武助 石川萬次郎 山岸喜藤太 關眞次郎 石田友吉
市川辰雄 玉巻竪太郎 田巻三郎兵衛 伊藤亀太郎 新津桓吉 内藤鷲郎
檜材半價提供者  伊豆國修善寺村新井主人 相原寛太郎
9月16日、出雲崎「良寛堂」の建立(完成)式が行なわれる。
 
  良寛堂 棟札 出雲崎町史 資料編V 近代・現代 発行 H1・10・15

  
24 17 20 19
1923 大正12年 2月、相馬御風が「愚庵和尚その他」を春陽堂から刊行する。
5月26日、長女、桃子誕生する。
12月、秀雄、下谷上根岸の子規庵を訪ね、子規の令妹の話や遺墨に感激する。
子規庵を訪ふ  4首
七口
(ななくち)の傷穴傷み仰(あふ)のきて書きつづけたり仰臥漫録
ふたむかし経ちて荒れたる庭になほ芽ぶき花もつ草のありとふ
年々
(としどし)に荒れゆく庭にひと本(もと)の松の梢(うれ)のみは延びまさるなり
常臥
(とこぶし)の人の成しける業(わざ)見ればわれらは恥ぢて死ぬとも足らじ
                       
全集第二巻 「短歌作品拾遺」 P219より
25 18 21 20
1924 大正13年 3月、秀雄、肺患に罹り、喀血して帰郷する。大学を中退し経済学部を断念する。 
   以後、国文学の独修に励む。また、正岡子規や伊藤左千夫以下「アララギ」派歌人の歌集を読む。
6月、重吉、佐藤清著『キーツの藝術』を購入、佐藤清宛てに手紙を書く。
8月、秀雄、富岡の家で乾性肋膜炎を発し、高熱に苦しむ。この時、子規の「竹之里歌」を手本にして作歌を志す。
床上雑詠 二     十八首
ゆくりかに寒蝉
(かんせん)なくや床(とこ)の上(へ)にわれひさしくを呆(ほ)けゐたるらし
その尻音
(しりね)さみしく去(い)にし寒蝉に床辺(とこべ)にはかに夕づくをおぼゆ
昼の月消
(け)ぬがに空をわたるときいのちひとむきに愛(を)しとおもへり     「天井凝視」より
12月15日、会津八一(秋草道人)著「南京新唱」が「春陽堂」から刊行される。 pid/913593
12月29日、重吉 、長男陽二誕生する。注 創元社 八木重吉全集では翌年「1月1日陽二誕生」と有り 
26 19 22 21
1925 大正14年 3月31日、重吉、千葉県立東葛飾中学校に転任する。
4月、秀雄、会津八一著『南京新唱』を読んで傾斜する。
8月1日、重吉、「秋の瞳」を新潮社(定価70銭)より刊行。   
8月、秀雄、鎌倉七里ヶ浜の鈴木療養所に転地。
11月、相馬御風が「一茶と良寛と芭蕉」を春秋社から刊行する。
 
 「一茶と良寛と芭蕉」扉  
緒言郷土に帰住してからこゝ十年ほどの間に私の書き溜めた随筆を讀みかへして見て、その中に一茶、良寛、芭蕉ーその三故人に関する文章の多いのに、私は自分ながら少々驚き氣味であった。そして何といふことなしに、此の三故人について自分の書いたものだけを一巻に纏めて見たいやうな氣になった。中には既刊の文集の中に収めて置いたものも四五篇はある。しかし、特に以上の三故人に関する文章だけをかうして一巻にまとめて見る爲にこゝに再び取り上げて見ることも必ずしも無意味でないといふ風に考へられたので、それも敢てすることにした。無論最初から計畫を立てゝ書いたものでないから、重複もあれば撞着もあらうが、その代り書くために書いたといふやうなわざとらしさはない筈である。いはゞ三人の故人を話材にした爐邊の閑談といったやうな埒もない無駄話である。だが、総じて昔の人は此の閑談といふものを何よりも楽
しんだらしい。閑談を楽しんだ故人について語るに吾等また閑談を以てする。そこにも必ずしも意義なしとは云へまい。高いところからも講じたり、四角張って論じたり、尤もらしく説いたりすべく、私達はあまりに物臭になりすぎた。どうか私の此のつまらない一巻が、さうした打ち解け話を求められる人々の燈下徒然の閑談に一夜の相手とでもなり得るやうに、それ位が現在の私としてのせい〔ぐ〕の念願であった。
                       
大正十四年晩秋越後糸魚川の陋居にて   相馬御風記
12月、秀雄、鎌倉長谷光則寺門前の借家に住む。
27 20 23 22
1926 大正15年 4月、秀雄気管支喘息を発し、これが持病となる。
  同月、会津八一に初めて手紙を書き、『南京新唱』の中の二三の歌について教えを乞う。
7月、重吉、茅ヶ崎町十間坂5224の寓居にて自宅療養を始める。
12月、吉野秀雄かねてより婚約していた、富岡生まれの栗原はつと鎌倉に於て結婚する。
12月、鎌倉を去って高崎の家に帰る。 「陽壮年譜」より
12月、秀雄、歌集『天井凝視』(私家版)を刊行する。
相州三崎   一首
漕ぎいでて青海中
(あおわたなか)とおもへれば舟のさむしろの冬の蠅あはれ
いのち    
 二首
みごもれる妹
(いも)をおもへば道のべの愛(かな)しき子らは沁みて見るべし
つつしもて妹
(いも)(も)り経しいのち一つ吾子(あこ)につたへて悔(くい)あるべきや  「苔径集」より
28 21 24 23
1927 昭和2年 1月〜3月、秀雄、静岡伊東で療養。
豆州伊東温泉  五首
くさまくら旅のやどりの春を遠み狼星
(おほかみぼし)の冱(さ)ゆる
菜畑
(なばたけ)に置く霜のそこはかとなく霧(き)らふ日ざしや人を恋ひしむ        「苔径集」より
3月、弟、八木純一郎と、故郷の大戸観音堂に火鉢一対を奉納する。 
4月、秀雄、長女皆子が誕生する。
  同月、前橋桑原病院にて痔瘻を手術する。術後大喀血し、危険に瀕する。
上州前橋桑原病院  十二首
わが母はわれに来たりて言葉なく脛
(すね)なでさすりおほしたまへる
四月十日あかつき四時
(よじ)に血をはくと知らざりしかば疑わざりし
いのちかけてわが生緒(いきのお)をつなぐべみ血になれといひて飯(めし)は噛むなり
  (生・息の緒)いきのお:1 いのち。たまのお。魂。ふつう「息の緒に」の形で、命のかぎりの意に用いる。    「苔径集」より
      「―に思へば苦し玉の緒の絶えて乱れな知らば知るとも」〈万・2788・作者不詳〉

退院     
 一首
藁床
(わらどこ)の尻のあたりの寝くぼみの湿(し)けたるところ蠅むらがれり         「苔径集」より
汗喘吟
   四首
(よ)ものか汗もしとどに咳(せ)きつづけ且(かつ)はさ蠅(はへ)の唸(うな)りを開けり
口ごもり経唱(きゃうとな)へつつわが背(せな)をさすり飽(あ)かざる母を泣くなり
夜ふかく蚊帳
(かや)の蚊焼くとわが牀(とこ)を妻はいくたび廻(めぐ)らむものか
  もなか(最中):1 真っ盛り。さいちゅう。2 中央。まんなか。       「苔径集」より
5月、重吉、東洋内科医院の分院、茅ケ崎の南湖院に入院する。 
同月、内藤卯三郎が、イギリス留学を前に病院を見舞う。
6月頃以降、秀雄、退院後、この年の秋冬病状が最も悪く、連日連夜呼吸困難となり酸素を吸う。
7月24日、芥川龍之介が自殺する。
10月26日午前4時30分、重吉、「とみ」の名を呼びながら昇天する。
29 22 25 24
1928 昭和3年 2月12日、野菊社より「貧しき信徒」(序文加藤武雄・収録詩103篇)を刊行される。  
8月頃、秀雄、千葉県那古に約一ヶ月間転地療養する。
南房州   二首
きてみれば布良
(めら)の家群(やむら)の人気(ひとけ)なさ道にも藻(もく)を乾しひろげたり
安房
(あは)の路ここに果(は)つればむらさきの木槿(むくげ)を煽(あふ)るそとうみのかぜ   「苔径集」より
   
煽る(あおる〔あふる〕):1 うちわなどで風を起こす。また、風が火の勢いを強める。 2 風が物を揺り動かす。また、風を受けて物が動く。

赤ん坊       (詩)

赤ん坊の眞黒な瞳に
おれの顔が映りてあり
赤ん坊の目は大きくゆたかにして
おれの顔は小さく見すぼらし


おれは病身なれば
赤ん坊の世話は何から何まで母さん任せなり
赤ん坊は正直者にて
母さんにはいつも親しくして笑顔などを見せ
おれなどのことは見向きもせずしててんで眼中にはなきなり


赤ん坊よ
母さんに似る勿れ
ましておれの如き者には似る勿れ


おれの病室の襖を
まだ開けざるうちに
何がうれしきか
はや大聲に叫ぶ赤ん坊の叫びよ
あいつには實に肺肝
(はいかん)をつかるるなり


赤ん坊の叫びは
よろこびのためなるか
かなしみのためなるか
大人の知ったかぶりをやめよ
赤ん坊の叫びは
弾力のほとばしり生長の懸聲
ただそれだけのああ純粹一念の魂


みなに可愛がられるやうに
赤ん坊に皆子と名づけしに
ほんとにみなに可愛がられて
はや誕生も間近きまでに育ち來れり


赤ん坊は
母さんの背中に
ねんねこの中より小さき頭だけをいだして
母さんの動くところへは
何處へでも一緒に動きゐるをみれば
母さんと赤ん坊との深き強きつながりの
いみじさのほども思はるるなり


ほらごらん
赤ん坊の無心の創造物
大きな青い美しい鼻汁の提燈袋


ある朝庭に白雪つもりゐたり
赤ん坊はたまげて變な顔をなしゐたるが
やがてうれしさうに足をばたつかせはじめたり
赤ん坊は雪といふことも白さといふことも白らねども
そこの變化を駭きまた嬉しむ心ははなはだ強きなり




はや誕生も間近きまでに:「赤ん坊」の作詩は4・3月かと思われます。
  昭和61年 発行 「山國の海鳴」より


土呂    (詩)

死んだら土呂になれ

一塊の土呂の静けさよ
あだあらゆる感覺をたち超えた

限りない大地のねむりの静けさよ

死んだら土呂になれ
だがそれは死んでみてからの話だ

生きてゐる上は土呂を踏んまへろ

一塊の土呂の醜さよ
またすべての汚物の掃捨場である
はてしない大地の貧婪
(どんらん)なる醜さよ

生きてゐる上は土呂を踏んまへろ
元来宗教なんてものは誤魔化しなのだ

生きることは大空を仰いで胸を張ることだ
死ぬことは土呂にもぐりこんで沈黙に歸することだ

自分にわかってゐるのはこれだけのことだ

しかし自分にわかってゐなければならぬのもこれだけのことだ

                 昭和61年 発行 「山國の海鳴」より
12月1日、秀雄、「河 第2年(12月號)河發行所」に「百日紅 10首」を発表する。pid/1471363 
さるすべる花さけにけりいくめぐり めぐれば人のこころ澄むらくに
けさほどの時雨さむざむすぎ
たらむ さるすべりの幹に觸りておもふも
朝雨のここにそそぎし水たまり 花のくれなゐをうつして澄めり
さるすべりほつ枝の花にまぎれつつ ひそむ
蜻蛉(あきつ)あまたをる見ゆ
とのぐもりうちおほふなべにさるすべり 花の揺るぐはかなしましもよ
傘形に咲き足らひたるさるすべり 花のめぐれる空のしたした

いくめぐり(幾廻・幾巡):いくかえり。何回。いくたび。
たらむ:…であるだろう。▽いったん断定したことに対して、ややためらって推量する。
ほつ枝
蜻蛉:トンボ・秋津
あまた(数多):数多く。たくさん。
とのぐもり:空一面に雲がたなびいてくもること。たなぐもり。
ちおほふ(打ち覆ふ):ちょっとかぶせて隠す。かぶせる。
なべに→野辺に:野原。  
検討要 2019・11・12 保坂
  吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に  柿本人麿 (万葉集36) 
ましも:(真下):まっすぐ下。ちょうど下。直下?(ちょっか)
常仙寺   二首
この寺に來し道とほくいくところ 大犬蓼
(オオイヌタデ)の穂は赤かりき
秋の日のここにも黄なる墓地かげの いささ流れに蛇あそぶらし
常仙寺:群馬県高崎市並榎町
いささ:小さい、わずかな、ささやかな、などの意を表す。
もろこし賣
降りいでし雨に小急ぐ街角に もろこし賣の火は爆
(は)ぜてゐぬ
よすぎなりもろこし賣の
さむしろに その子ねむりつ小夜更けにけり
さむしろ(狭筵):むしろ。
   新古今集 秋下   きりぎりす鳴くや霜夜(しもよ)のさむしろに衣(ころも)片敷(かたし)きひとりかも寝む
12月9日、秀雄、鎌倉極楽寺村の旧友の家を訪ね、翌日、忍性の墓に詣で五首の歌を詠む。
極楽寺開山忍性菩薩石塔   五首
谷杉のくらき木間
(このま)に烏瓜(からすうり)び朱(あけ)さへや冬はうらさびしくて
忍性菩薩石塔
(にんしゃやうぼさつせきたふ)の道は人の行き絶えて落葉に踏みまどふなり  「苔径集」より
〇登美子、この年ごろか、東京池袋に住み、二人の遺児の養育のため、無我夢中で働く。
〇この年、秀雄、宮崎丈二編集の詩文雑誌『河』の同人となり、昭和14年12月号に至る。
               注 同人の期間については、最終の期間が未確認なので検討要 2019・11・20 保坂
23 26 25
1929 昭和4年 1月、秀雄、「河. 第3年(1月號)(23)」に「艸心堂茶飯帳(一) 」を発表する。  pid/1471364
  同月、秀雄、感冒より肺炎を発し、危篤状態に陥る。
月1日、秀雄、「河 第3年(2月號)(24) 河發行所」に「極楽寺村 16首」を発表する。pid/1471365
十二月九日、鎌倉極楽寺村に舊友の假寓を訪すれ宿り、翌朝附近のの谷間に良観上人忍性の墓を展した。
極楽寺村の冬の朝日のかぐはしき 昨夜
(よべ)は宿りて雨を聴きしを
谷戸
(やと)ふかく朝日は遅ししらじらと 切薯(いも)でに庭に乾されつ
忍性
(にんじゃう)菩薩御墓道は人踏まず 落葉積りて腐れゐにけり
墓石に文字一字なき尊さを われはおもひてめぐりはてつつ
八おもてにめぐり見るべく墓石を かくは組みける人のこころを
墓石を仰ぐ足うらにうづたかく 鴨脚樹
(いてふ)の落葉雨をふくめり
鴨脚樹
(いてふ)の葉今朝も墓石に落つるなり まこと大徳(だいどこ)はねぶり果てけむ
よべの時雨打ちたるままか墓石の臺石の苔濡れ光りをり
しぐれ
小夜時雨外には降りて病める児を みとれる妻は疲れはて居り
しぐれの雨外に降りゐるこの夜さり 疊の上を匐
(はらば)へる蠅あり
淋しさもいつか沈みてゆくならし 水鉢親しくも雨の夜頃は
山茶花
山茶花を夜の庭より手折り來て 明るき部屋に活けにけるかな
2月、病中の歌十首を会津八一(秋艸道人)に示し批正を請い、以後も時折批正を続ける。
月、秀雄、「河. 第3年(3月號)(25)」に「病床雜詠」を発表する。  pid/1471366 
4月、秀雄、「河. 第3年(4月號)(26)」に「牀上調心―(病床雜詠其二)」発表する。 pid/1471367
  同月、秀雄、鎌倉に転地し暫らく滞在する。
 「二人は我にひとりなる 佐野進」より」
5月、秀雄、「河. 第3年(5月號)(27)」に「艸心堂茶飯帳(二)」を発表する。 pid/1471368
6月、秀雄の一男生後間もなく死亡(俗名なし)
6月2日、秀雄→竹山普一郎宛
妻今朝男子を出産したが、赤ン坊は肝臓肥大で、一時間計りこの世にゐて死んで了った。小生は茫々然としてゐる。 この世はカケの連続だ。一瞬の間にいやなサイの目が出る。危険でたまらぬ。右取急ぎお知らせ迄。妻は異常なし。安心を乞ふ。
6月6日、秀雄→竹山普一郎宛
一昨日悔みのお手紙見た。篤志を謝す。三日夕方死児を抱いて富岡町に至りそこで葬送、翌日再び同地へ行って墓所に詣り本家で経をあげてその夕方帰った。何となく疲れてゐて何をどうといふ気持にもなれん。昨夜あたりから随分眠たくなりだした。今日は静かな雨、ぽつ[く]本でも見はじめようと思ふ。幸ひ妻には異常なし、四十日間汽車にのってはならんといはれてゐるので殊によると小生一人先きにそちらへ行くかもしれん。尤もまだ何事も確定はせずにゐるが。昨日「思想」六月号送った。野上の文章の中に「闌位」の文字があり、今考へてゐる。それと「幽玄」との関係を、無論理屈でいく問題ではないがね。清水君便りくれた。元気になってきた由で小生もよろこんでゐる。兄はその後も元気の事と思ふ・乱筆蕪文で失礼。
6月、秀雄、「河 第3年(6月號)(28) 河發行所」に「守命鈔 二十四首」を発表する。pid/1471369
太虚洞に宿る  三首
雨風のはげしき夜にてありけれど こころは怪
(け)しく澄みて居りしか
安らけき吾兄
(わがせ)の寝息きくことの ややに久しくてわれもねぶりぬ
わがための朝の手水
(すすぎ)に浮きてゐし 一ひらさくら忘れ得ざるも
鎌倉親不知山  五首
ものの嫩芽
(わかめ)きほひてもゆる山坂に われかぐはしき息吐きにけれ
見下
(みおつ)しのなぞへの木の間風通ひ その麓田の蛙聞ゆも
春日照る山の脊道の白土に 静けきものか わが影落ちぬ
親不知山きほふ若葉も然れども その上にして海は光れり
親不知山ふもとの路の蒲公英は 人に知られずほほけゆくめり

嫩芽(どんが):若い芽。新芽。
なぞへ:ななめ。はすかい。また、斜面。
脊(せ):せぼね。せ。
蒲公英(タンポポ)
大佛境内  一首
いにしへの大佛寺の礎石
(いしずゑ)に 赤き櫻の萼(がく)散りかかる
妙本寺   二首
黒き蝶めぐりに飛びてこの寺の 法輪海棠も花咲きにけり
本堂の板縁めぐる下駄の音 春もたけたれこのしづけさを
海宿旦暮   四首
うら安く在りと告ぐべしおのづから 朝はこもれる潮の香を知る
聞きなれし夕べあしたの潮騒
(しほさゐ)は たまたま夜半に覚めてあはれむ
海崎
(うなさき)の枯草まじり生ふる草の日にけに著(しる)く萌ゆるあはれさ
海崎
や浪のしぶかふきはみまで 春たけなはに草萌えし見ゆ
    日にけに(ひに異に):日々に変わって。日増しに。
病床雜咏補遺 
九首
ねつつ見る本を支ふる指先に わが血脈(けちみゃく)の打ちてゐるかも 
われ病みて四十日間經し間 人々何をなして居りしか
春といへどいまだゆるまぬ霜土に 青き多羅の葉散りにけるかも
長病みの髪はうらがせ吹く風の あはれまつたく春の風なり
なまぬるくただよふ風を吐き吸へば 生きのなげきは盡きずあるらし
なまぬるく曇りし夕べはたはたと
稗鳥あそび鳴かず居る見ゆ
春めきし風のさぶしさ遠くなる ご詠歌のこゑ枕にきこゆ
せめてひと日雛の祭病むわれを 忘れよ妻よたのしくを居れ
わが病一段落のつきしかば 妻をねぎらひ里へ遣
(や)りけり
稗鳥(ひえどり):ヒヨドリの別名。
7月、秀雄、「河. 第3年(7月號)(29)」に「艸心堂茶飯帳(三)」発表する。 pid/1471370 
8月、秀雄、「河. 第3年(8月號)(30)」に「雜詠」発表する。 pid/1471371 
  同月、茨城県岡田の長塚節の生家を訪ね母堂に会う。
下妻の沙沼にて長塚節を憶ふ   二首
(ひのくら)はいまのうつつに渦巻けど十(とを)まり四(よ)とせ人は死ににき
晩梅雨
(おそつゆ)のしぶく夕暮れ沙沼(さぬま)べにわれ立ちにきといつか忘れめや
    閘(ひのくら):@水門。ひのくち。「閘門」 A門をあけたてする。せきとめる。     「苔径集」より
9月、秀雄、「河. 第3年(9月號)(31)」に「夏日雜詠」を発表する。 pid/1471372
10月、秀雄、河. 第3年(10月號)(32)」に「宇部伎乃花」を発表する。pid/1471373 
11月、秀雄、「河. 第3年(11月號)(33)」に「艸心堂茶飯帳(四) 」を発表する。 pid/1471374 
12月1日、秀雄、「河 第3年(12月號)(34) 河發行所」に「秋雨秋晴 二十首」を発表する。 pid/1471375

秋雨秋晴 二十首(全)
友の妻死す       
一首
友の妻死にし時間を今おもへば われは吾妻
(わづま)を愛し居りしか
勝信童子百日忌   
二首 
雨強しこころはもとなその墓と 墓に至りし妻にかかれり
死にし子を全く忘れてゐる日多し 百日忌日にそれを嘆きつ
神農原村蛇崩行   
六首
甘牟良路
(かんらぢ)は峡(かひ)のたどり路秋雨に いたくも土は流されしかな
秋雨のみちの水泥
(みどろ)におのづから あはれむべきか馬尿(うまくそ)のいろ
軒下にあそぶ子女
(こめ)らの貧しさを 秋雨なかにふりかへり見ぬ
村里は秋蠶
(あきご)盛りのしづけさよ 子守のひそむ暗き軒かげ
秋蠶いま三ねぶりの村を横切りて 山川のPを見むと降
(お)り行く 
山川の五百筒岩群
(ゆついはむ)に生ふ葛の葉がへりもせず暗き雨打つ 
鎬の出水     
三首  
出水川岸の竹藪を崩えしめて 青竹あまたPに倒れたり
出水川にそひて歩めば菎蒻の 莖太草も雨雫く見ゆ
出水川のP筋を遠く石の洲に 蓼の丹
(に)の穂の寂びて揺れ合ふ
阿久津沼   
四首
秋曇る阿久津の沼にえたらしの あぎとふ音と雨と疑ふ
    
註 えたらしはやなぎはやともいふ小魚なり
古沼にそそげる水を草おどろ かきわけ見れば澄みてせせらぐ
古沼をめぐり果てむとせしかども 垂りたる稲を踏むをおそれぬ
古沼の片寄面
(かたよりおも)はさがしまに 稲穂のみだれそのんままの影
浅間山の古墳  
三首
ゆゆしくもかくは築
(つ)かれし古塚の まさめに纏ふ秋のみのりを
古塚の後方
(しりえ)のまろみさぐるとき 稲子の羽音幽(かそ)けみにけり
      註 この古墳は規模宏大なる前方後圓型なり
夕焼けし天
(あめ)の下びし浅間(せんげん)の 塚の松樅四本(よもと)とは知る
鶴巻古墳   
一首
鶴巻の古塚二つさきがけて 木の葉を降らす垂穂田の上
〇この年、秀雄、「寒蝉」の歌を詠む。
寒蝉    一首
このゆふべ寒蝉
(かんせん)なけりふたたびははや啼かざらむ声にあるがに   「苔径集」より 
24 27 26
1930 昭和5年 1月、秀雄、「河. 第4年(1月號)(35)」に「日記帳より」を発表する。  pid/1471376 
2月、秀雄、「河. 第4年(2月號)(36)」に「越年」を発表する。 pid/1471377
日常雜詠   五首
通俗な映画観ながらわがいたく泣きしこころぞいかなるものか
わが妻のみごもりたるを知りてより二月
(ふたずき)にして母に申しぬ  「苔径集」より
3月、秀雄、「河. 第4年(3月號)(37)」に「艸心堂茶飯帳(五)」を発表する。 pid/1471378 
4月、秀雄、「河. 第4年(4月號)(38)」に「霜苔」を発表する。 pid/1471379
5月、秀雄、佐藤耐雪(吉太郎)を頼り新潟県出雲崎に赴き、良寛(没後)百年祭式典に参列、橘屋旧地、光照寺、島崎木村家、隆泉寺、国上山五合庵等ゆかりの遺跡を巡り、「越後羇旅吟」と題する二十三首の歌を詠む。
越信羇旅吟    (全)二十三首
  ※
羇旅(きりょ):1 たび。旅行。 2 和歌・俳句の部立(ぶだて)の一つで、旅情を詠んだもの。
途上  二首
碓氷嶺
(うすひね)の雨の夜明けにうらさむく朝餉(あさげ)の卵食ひぞわがする
妙高
(めうかう)のふもとの畔(くろ)の毛莨(きんぽうげ)かすかなるものか旅にし見れば
越後柏崎にて貞心尼の墓に詣づ
うるはしき尼
(あま)なりきとふ山藤の短き房(ふさ)を墓にたむけぬ
    とふ(問う)
出雲崎  五首
雨くらき海のおもての
(みを)のすぢこの町に着きて家間(いへかひ)に見つ
あわただしく我は来
(こ)しかど濁波(にごりなみ)の藻(も)をただよはすことも見るべし
(こし)の国淡(あは)き若葉にまぎれつつ山藤の総(ふさ)もほぐれそめしか
蒼波
(あをなみ)に霞ながれて見えわかぬ佐渡が島根は恋ふらくの島
耐雪翁今夜
(たいせつをうこよひ)ねんごろに酒たまふ六年(むとせ)おもひて来(きた)りけるわれに
 澪すじ(みをすぢ・澪筋):川や海の中で船の通れる水路となっている深み。みおの道筋。みお。
  ※耐雪翁(たいせつおう):佐藤吉太郎のこと
島崎村木村家にて良寛禅師の遺墨を観る  二首
貼りまでの屏風のすその消息は疊に這ひてわれは読みけり
おびただしき禅師
(ぜんじ)の遺墨(ゐぼく)まなかひにはなはだ時を惜しまざらめや
同家邸内良寛禅師終焉の地   一首
いにしへはうつつにあらず
苜蓿(うまごやし)ここにいたづらに生(お)ひしげるのみ
   ※苜蓿(うまごやし・もくしゅく):マメ科の越年草。ヨーロッパ原産。各地に自生。茎は地をはって30センチメートルほどになり、
     葉は有柄で互生し、倒卵形の三小葉をもつ。春、葉腋(ようえき)に黄色の小花を開く。緑肥・牧草ともする。うまごやしは別名

島崎村なる良寛禅師の墓に詣づ   一首
島崎の
(なはて)にみればあしびきの国上(くがみ)の山はまぢかくぞ見ゆ
   ※畷(縄手・なわて):1 田の間の道。あぜ道。なわて道。2 まっすぐな長い道。

国上山乙子神社   一首
乙宮(おとみや)斎庭(ゆには)に入りておのがじしわれらつつましく(ぬて)をゆらしつ
    ※斎庭(ゆには):斎(い)み清めた所。祭りの庭。
    おのがじし(己がじし):各自がめいめいに。それぞれに。
    鐸(ぬて・たく):1 銅または青銅製の大型の鈴。扁平な鐘の中に舌(ぜつ)があり、上部の柄(え)を持って振り鳴らす。鐸鈴。ぬて。ぬりて。
              2 大形の風鈴(ふうりん)。

国上山   一首
熊笹
(くまざさ)の枯葉(かれは)しぬぎてたくましく独活(うど)は伸びいでぬ春としいへば
   しぬぎて:

   独活(うど):ウコギ科の多年草。山野に生え、高さ約1.5メートル。茎は太く、葉は羽状複葉。若芽は柔らかく、香りがあり、食用。栽培もされる。
五合庵   一首
萌え立てる板谷楓の下蔭ゆいほりの屋根をまたかへりみつ

    下蔭(したかげ):枝葉で日光がさえぎられた、樹木の下の部分。
    
いほり(庵)
寺泊     一首
弥彦
(いやひこ)の茂り夏さび荒海(あらうみ)に落つるあはれさはここに見るべし
  茂り夏さび;(検討要)
信州柏原一茶終焉の地 二首
寒酸
(かんさん)な命(いのち)尽きにし土蔵(つちくら)はあゆみ度(はか)るにいく足(たし)もなし
  寒酸(かんさん):貧しく苦しいこと。また、そのさま。
妙高黒姫飯綱(めうかうくろひめいづな)をここにふりさけて更に斑尾(まどろ)の山をかなしむ
野尻湖畔
 五首
越後路(えちごぢ)を信濃(しなの)に越えて妙高(めいかう)の霧がくるるは北にかすけし  「苔径集」より 
   参考 良寛:宝暦8年10月2日(1758年11月2日) - 天保2年1月6日(1831年2月18日))
8月、秀雄、長男陽一誕生
秋季雜咏 五首
虫が音もおとろへにける草叢に鴨跖草
(つきくさ)はいま実をむすびをり
  ※草叢(そうそう):草の茂った所。
  ※鴨跖草(つきくさ);1 ツユクサの別名。名は、花の色がよく染みつくからとも、臼(うす)でついて染料としたからともいう。「苔径集」より 
25 28 27
1931 昭和6年 1月〜2月、秀雄、感冒より再び肺炎を発し、必死に闘病する。
闘病五句  二十三首
わが妻の飲めとすすむることあはれ鯉の生血
(いきち)を日毎(ひごと)にし飲む
壁に貼
(は)れる光圀墓誌銘拓本(みつくにぼしめいたくほん)は毎日読み飽かぬふしあり
(とこ)のうへに飯(いひ)食ふ箸を休めてはとほくはかなき物思ひすも
(せ)くごとに背(せな)をさすりて(う)まざりし妻の心は永く秘むべし
    ※
倦ずる(うんずる):1 あきる。 2 嫌だと思う。うんざりする。 3 気を落とす。失望する。
   
秘める(ひめる):内に隠して人に知られないようにする。また、内部にもつ。秘する。
(もみ)の木(こ)くれひらきそめつと妻のいふ白梅(しらうめ)の枝(えだ)は床(とこ)より見えず
   
くれひらきそめつ:検討要 2019・12・27 保坂 
女童    一首
風邪癒
(かぜい)えて面細(おもほそ)りせる女童(めわらは)のあたまなでつついつくしみすも  「苔径集」より 
2月、高橋元吉著「詩集 耶律 限定300部」が「やぽんな書房」から刊行され、秀雄と高田博厚がその編集を行う。出版記念会は新宿中村屋で行われ、高村光太郎、倉田百三らが出席した。その直後、高田博厚は欧州に旅立った。尚、吉野秀雄の参加についての有無は未確認のため注意 2020.1・13 保坂 pid/1233612
4.5月頃、秀雄、鎌倉に転地する。  再調査要 2019・11・4 保坂
海辺の宿     三
(よは)ふかく西風(にし)吹きつのり床下(ゆかした)に砂巻きかへす音(おと)さわぐなり
うららけき浜の
ひねもす潮垂(しおた)るる荒布和布(あらめにぎめ)を人は運びぬ
    ひねもす(終日):朝から晩まで続くさま。一日中。しゅうじつ。
(すえ)いかになりゆかむ身か世にうとき書(しょ)に耽(ふけ)りつつかくありながら
見越山(みこしやま)    一首
おしなべて夕風わたる松山の松の木(このま)に桜みだれたり
   ※おしなべて(押し並べて):1 全体にわたって。一様に。概して。2 (あとに格助詞「の」を伴って)ありきたり。なみなみ。
   ※閨iま):あいだ。あい。二つのもののあいだ。( ひそかに。こっそり。いえる。病がよくなる。)   「苔径集」より
  研究課題 見越山は名越坂のことか 2019・12・7 保坂
6月、秀雄、妻子三人を伴い鎌倉に定住すべく本籍をこの地(小町三百七十番地)に移す。
実朝唐草窟(からくさやぐら)  三首
葬処(はふりど)は荒田(あれだ)となりぬかりそめに供養(くやう)の塔を墓と伝へし
実朝
(さねとも)の窟(やぐら)の前の墓原(はかはら)にまだ新しき墓も立ちをり
み墓辺(はかべ)の春は閑(しづ)けき日の溜り峰上(をのや)には松のこゑも澄みつつ   「苔径集」より 
 注 「実朝唐草窟」の歌は 「苔径集/見越山の次に続いているので6月とはかぎらないので注意が必要です 2019・12・27 保坂
梅雨の頃  六首
妙隆寺
(めうりゅうじ)の法華太鼓(ほっけだいこ)のひびく夜(よ)に床(とこ)には就かずうなだれてをり
少なくも五六十の金を呉れといふ手紙やぶきて芥川箱(ごみばこ)に捨つ
ふるさとの毛野
(けぬ)の山より雷湧(らいわ)くとラヂオ報じぬ想ひみるべかり 
稲敷川  一首
夜の浜辺    
三首
黄裳書屋を訪ふ  
十六首
新釈迦堂跡  
二首
あら草
(くさ)の霜枯れにけるかたはらに著我(しゃが)ははじけりともしき光を
仙覚
(せんがく)の葬(はふ)りの窟(やぐら)ここといへど正(まさ)しき証書(しるしふみ)にのこらず
  
仙覚(せんがく)は鎌倉時代初期における天台宗の学問僧。権律師。中世万葉集研究に大きな功績を残した。Wikipedia 妙本寺辺り
瑞泉禅寺の道 
 六首
冬枯(ふゆが)るる楢山(ならやま)の蔭に音ありて清水(しみず)は細く苔ゆしたたれり
山水
(やまみづ)のしたたりつたふひとすぢの冬苔(ふゆごけ)は青くかつ光るかも
山水
(やまみづ)の苔より落ちて湛(たた)へたる醤油の樽も苔むしにけり
苔水
(こけみづ)のすゑは落葉にながれ入りそこにしてまた土に沁みけり
幽(かす)かなる谷戸
(やと)の奥かな道のべの老梅(らうばい)の蕾すでにこまかき
六百年
(むほとせ)は易(やす)からぬ(ま)か夢想国師が築(きづ)きし林泉(しま)もただの池なり
    林泉(りんせん):1 林や泉水を配して造った庭園。 2 世を逃れて隠れ住む地。
寿福寺  三首
竝松
(なみまつ)のおのづからなるこごし根の根土(ねつち)のなりに苔は古(ふ)りたり
    
こごし(凝し):岩などがごつごつしている。
     岩が根の こごしき道を 石床(いわとこ)の 根延(ねば)へる門(かど)に 朝(あした)には 出で居て嘆き
     夕(ゆふべ)には 入り居恋ひつつ ぬばたまの 黒髪敷きて  略 (挽歌・/万葉集 3329)

冬さぶる苔の色かも枯松葉
(かれまつば)しきりにこぼれ積(つも)らむとする
天水釜
(てんすゐがま)の腐れたる水に夕映(ゆうばえ)の茜(あかね)はさむししばしのぞくを 
宇都宮辻の大松  一首
大松
(おほまつ)の澄む松風(まつかぜ)は冬空(ふゆぞら)に消えなむとしてまたひびきつう  「苔径集」より 
26 29 28
1932 昭和7年 〇この年の春、秀雄、「春季雑詠 十七首」の歌を詠む。
幼な子の告ぐるをきけばいづくにかぼうふら生(あ)れて動きゐるらし
妻もいひわれも然
(しか)思ふ天井(てんじゃう)にさわぐ鼠は蚤おとすらし
〇この年、白蓮の花がおとふ頃、「上州高崎公園  二首」の歌を詠む。
白木蓮花(はくれんくわ)おとろふる下(した)に花屑(はなくづ)を掃く人をりて園(その)はしづけし
はるかなる三国
(みくに)の雪は一目(ひとめ)見よ春ふかくして瑠璃にかがよふ
〇この年、秀雄、藤の花のおとろへる頃、「相州藤沢遊行寺 二首」の歌を詠む。
きてみれば遊行(ゆぎやう)の寺(てら)の藤なみはむらさ散りて白ぞ垂りたり
むらさきの藤は向うにおとろへぬ白藤
(しらふぢ)垂るる下(した)にやすらふ
〇この年、秀雄、秋冬に「秋冬雜詠 十二首」の歌を詠む。
海寄(うみより)の空に稲妻(いなずま)のひらめきて山下道(やましたみち)を我は行きけり
かたぶきて聴けども今は寒蝉
(かんせん)の遠く徹(とほ)らむこゑにあらぬを
しぐれの雨霽
(は)れてつめたき夕かげに松の葉がくり粉虫(こなむし)ぞ群(む)
    
がくり:物事が急に折れたり、取れたりするさま。また、気力などが急に衰えるさま。がっくり。
27 30 29
1933 昭和8年 1月、秀雄、鎌倉郊外笛田の山内義雄宅で、初めて会津八一に会う。
   これを機に、八一の認める一人の門人として出入りを許される。 「吉野秀雄歌集の特色 大井恵夫」より
〇この年、秀雄、「武州杉田梅林 三首」の歌を詠む。
花に早き梅の林にそひゆけば下作(したさく)の青菜(あをな)はら目に沁む
   
はら目:
梅園
(うめぞの)のめぐりに立てる粗朶垣(ひびがき)の貝殻(かひがら)白し夕ぐれにけり
苔むせる野梅(やばい)いく本(もと)ありのままに垣内(かきつ)に入れて人家居(いへゐ)せり
〇この年、秀雄、「光則寺  一首」の歌を詠む。
白梅(しらうめ)はちらほら咲きてくれなゐの含(ふふ)める梅に枝交(えだかは)したり
〇この年、秀雄、「伊豆の旅  三首」の歌を詠む。
春の日は暮れなづみつつひと時の黄(き)なる野づらに鶯鳴くも
   暮れなずむ(暮泥):日が暮れそうで、なかなか暮れないでいる。
     のづら(野面):1 野のおもて。野原。

星空
(ほしぞら)に山焼くる火のなびかひて古奈(こな)の湯の村の夜(よ)はふけしづむ
     なびかふ(靡かふ):なびき合っている。
古奈村
(こなむら)の夜更けの道の白木蓮(はくれん)はつめたき月の光(かげ)に濡れゐし
4月、秀雄、三男荘兒誕生。 全集・陽壮年譜共 記述なし
〇この年頃か、秀雄、「妻盲腸炎の手術を受けし折に  十首」の歌を詠む。
病む妻の離被架(りひか)に靠(もた)れつかのまをわれは居睡るはかなくもあるか
洗面器
(てあらひ)の消毒液に蛾の死ぬる宵宵(よひよひ)にして梅雨(つゆ)は深みぬ
7月、秀雄、吉野藤東京店に勤め、宣伝用月刊雑誌『吉野(藤)マンスリー』を独力で作る。
    この年の8月号から戦時統制による休刊まで90冊を発行する。
〇この年、秀雄、「夏秋雜詠 十四首」の歌を詠む。
駒込(こまごめ)の易者占(うら)へてわが運もやがて展(ひら)けむといふはまことか
をさな児
(ご)の二人(ふたり)の頭(かうべ)こもごもに撫でつつあれやこころがなしき
わが庭に住みつける亀はこの日頃落
(お)ち柿(がき)の汁を吸ひて生くらし
かへりみてかかるおのれを甘(あまな)はずにがにがしさに堪へぬことあり
ひとり飲むこの夜の酒や何(なん)すれぞかなしきまでに 心澄みゆく
     心(こころ)澄む:雑念が消えて、澄んだ心になる。
〇この年、鵠沼(くげぬま)の松岡静雄の許に通い、上代文学や言語学を学ぶ。
28 31 30
1934 昭和9年 〇この年の百日紅の花が咲く頃、「京都博物館他 十首」の歌を詠む。
京都博物館 五首
宋僧可宣三自自省語墨搨三幅(そうそうかせんさんじせいごぼくたふさんぷく) ※たどきも ※しらに愛(をし)みつきなく
広場
(ひろば)は雨に小暗(をぐら)し百日紅(さるすべり)の濡るるはだへもまた寒げなる
   たつき(方便・活計):A手がかり。手段。方法。よるべ。 B(様子などを知る)手段。見当。
    しらに(知らに):知らないで。知らないので。

知恩院 一首
おがひきの倒れ木こなすさまを見て暮れはてにけむ寺にのぼらず
     ※こなす(熟す):1 食べた物を消化する。2 かたまっているものを細かく砕く。
洛西松尾 二首
松尾
(まつのを)の古(ふ)りにし路にそそぐ陽(ひ)は秋かたむきて透(とほ)る黄(き)のいろ
洛西西芳寺林泉 
二首
木洩
(こも)れ日(び)はかすかなれども杉苔(すぎごけ)の性(さが)はあはれに葉をとぢめたり
29 32
1935 昭和10年 〇この年の梅の花が散る頃、「武州金沢行  五首」の歌を詠む。 
海ちかき六浦(むつら)のみちはうらうらに春日(はるび)ながるる貝敷ける道
林泉図絵
(りんせんづゑ)寺に伝はりてしのばるる現(うつつ)の池は春のそよけき
くれなゐの梅散る庭に葭簀
(よしず)もて海苔乾されてぞ人のけもなし
〇この年の春雷の頃、「相州広河原温泉 六首」を詠む。
山もとの新墾路(にひはりみち)をわがゆけばかぎろひのぼる枯草(かれくさ)のうへに
     ※
ぎろい〔かぎろひ〕【陽炎】 1 かげろう。
箱根よりいかづち雨の移りきて春しづもれる峡(かひ)とよもす
     ※
どよもす(響もす):古くは「とよもす」 鳴りひびかせる。どよめかせる。
5月、秀雄、茨城県下館に旧友竹山普一郎を訪ね、筑波山に遊ぶ。
常州筑波紀行 六首
筑波嶺の頂
(いただき)の風の痛(いた)けれど常陸国原はのどに霞みぬ
咲きのこる山桜花きびしくて老木のうれは若葉しにけり

      ※うれ(末):草の葉や茎、木の枝の先端。こずえ。うら。
〇この年の朴(ほほ)の花が咲く頃、「相州箱根山中吟 九首」の歌を詠む。
去年(こぞ)の穂のなごりもしるき芒野(すすきぬ)にその新草(にひやか)は萌(も)えいでにけり
(ほほ)の木に白き花さき ※うつつなく箱根のやまの春も尽きむか
     ※うつつなし(現無し):1 何かに気を取られて、ぼんやりしているさま。正体もない。2 思慮分別のないさま。たわいない。
〇この年、秀雄、「神楽舎翁(ささらのやのおきな)を訪ひまつる 四首」の歌を詠む。
神楽舎翁(ささらのやのおきな)を訪ひまつる   四首
先生にみ教
(をしへ)をうくるひと日だにおのれさびしく蔑(さげす)みをらな
かしこまるわが ※まなかひに先生は痩せていませば常
(つね)すがすがし
先生のみ前
(まへ)にウヰスキーを飲む我は酒をたしなむとかって申しし
鵠沼
(くげぬま)の小松林(こまつばやし)の新(にひ)みどり長(た)けにけるかな月影のもとに
  まなかひ(目(ま)交ひ):目の先。目の前。
〇この年、秀雄、「在勤小詠 八首」の歌を詠む。
在勤小詠     八
五階の窓朝明けぬればま向ひのビルの四階に人眠る見ゆ
若者らの不平をきくも憎からずかたみに酒を酌
(く)み交(かは)しつつむむ
我を見て話
(はなし)やめしがこの者らほとのかなしさをいひゐたるべし
(みせ)のうちのいづらとださぬ扉(とびら)ある間隔(かんかく)をきて夜半(よは)にばたつく
  のいづら():店員の表情、または情景か、野面 検討要
11月27日、重吉の兄政三が亡くなる。
12月5日、秀雄、松岡静雄著「多胡碑断疑 煥乎堂 (非売品)」に「附記」を記す。  pid/1259207
30 33 32
1936 昭和11年 2月、高村光太郎が「詩人時代」に「八木重吉の詩について」を寄稿する。また、同号に八木重吉の遺稿、3編が掲載される。  
2月23日、次女結子誕生  
5月23日、松岡静雄が死去(享年58歳) 
8月、甲府に慶應時代よりの歌友須賀幸造を訪ねる。
甲州赤富士  二首
富士が嶺(ね)は奇(くし)びの山か低山(ひきやま)の暮れ入る時を赤富士と燃ゆ
〇この年、秀雄、「武州御岳  三首」の歌を詠む。
茂りたつ狭間(はざま)にわたす竹樋(たかどひ)の裂目(さけめ)を水のほとばしり散る
〇この年、秀雄、「松岡静雄先生五十日祭  五首」の歌を詠む。
先生の御座(ござ)のみ跡を隔りてわれら控へぬ在(おは)すがごとし
安らけくみ霊
(たま)は五十日(いか)を経(へ)ましけむ門人(もんじん)われらただ惑(まど)ふとに
先生の五十日
(いか)を祀(まつ)ると四十まり二冊の著書を床(とこ)にかざりつ
みいのちの迫れる際(きは)も眼光(まなひかり)つらぬきとほす君が写真(うつしゑ)
海近き庭夕づきて吹きしなふ小松のうれをみ魂
(たま)通へか
         ※ うれ(末):草の葉や茎、木の枝の先端。こずえ。うら。 
   注 作歌の配列が違うかも知れないが、「」そのままに配列したので注意か必要か検討要
〇この年、秀雄、「をさな子  六首」の歌を詠む。
(かど)べよりわれに馳せ寄る三人子(みたりご)のいづれの手をし執(と)りなばよけむ
〇この年、秀雄、「夏日雜詠  十四首」の歌を詠む。
陽のほてりよどめる室(しつ)に店泊(みせどま)りの床(とこ)敷くわれよ身を病ましむな
弟に父の日頃をたづぬれば酒飲み寝足らひ働かすらし
〇この年の「送り盆」の日、秀雄、「円覚寺  三首」の歌を詠む。
ふるさとに送りの盆の済むゆふべ暮色(くれいろ)ふかし妙香(めいかう)の池
死にし子を憶ふ現
(うつつ)木隠(こがく)れの燈(ひ)にまつはれる虫は静けし
    木隠れ(こがくれ):重なりあった木の枝葉の陰に隠れてはっきりと見えないこと。
10月、吉野秀雄が「河発行所」より「苔径(たいけい)集」を刊行する。 Pid/1221294
  
 「苔径集」 発行 河発行所 
大正十三年 六十三首       昭和六年 八十首
大正十四年  三十九首       昭和七年 五十首
大正十五年(昭和元年) 二十九首       昭和八年 四十七首
昭和二年 二十九首      昭和九年 四十二首
昭和三年 十五首       昭和十年 七十七首
昭和四年 六十首       昭和十一年 三十九首
昭和五年 四十三首       後記
10月22日付で高村光太郎から吉野宛に書簡が送られる。
 「随分なげやりな詩歌をこのごろは眼にしますがそれとはまるで類を異にしたかういふ作品をよむ事はよろこびです」と「苔径集」の感想を述べる。

 高村光太郎が吉野秀雄に宛てた書簡
〇この年、米川稔と協力して鎌倉短歌会を開催、万葉集・金槐集・梁塵秘抄等を輪講、昭和37年4月迄続ける。 
31 34 33
1937 昭和12年 〇この年の正月から初夏にかけて「あけくれ   十六首」の歌を詠む。
事務室に掛けおく一休(いっきゅう)の一行(いちぎやう)を何ぞもと訊(き)く者もなく経(へ)
口癖に忙
(せは)しとのみぞあけくれの心にひびくなにひとくなく
春嵐とよむにぞ想ふ先生は
狭蝿(さばへ)を南風(はえ)の義と説きましき
      
狭蝿(さばえ):蠅 夏の初めにうるさく群がり飛ぶハエ(蠅,蝿)。陰暦五月ころの群がり騒ぐハエ。
声にいでてしばし読むほどあやにあやに気息ととのふ竹乃里歌
        ※あやに(奇に):言いようがないほど。不思議なまでに。むしょうに。
 
竹の里歌 子規遺稿 第一篇
再版 1906.1.1(明39)
研究資料 神奈川近代文学館:「吉野秀雄文庫」が所蔵している「竹の里歌」本の内訳
3682 竹の里歌 子規[著]再版 子規遺稿 第一篇 俳書堂 1906.1.1(明39) b/Y01/03166342
3683 竹の里歌 正岡子規[著] 岩波書店 1956.11.20(昭31) b/Y01/03166351
3684 竹の里歌 子規居士[著] 政教社出版部 1934.11.19(昭9) b/Y01/03166360
3685 竹の里歌 正岡子規[著] アルス 1922.1.15(大11) b/Y01/03166370
3686 竹の里歌 正岡子規[著] カルス 1923.3.3(大12) b/Y01/03166389
3687 竹の里歌 竹の里人規[著]  根岸短歌会 1904.5.28(明37) b/Y01/03166846



8月、秀雄、喘息を病みて後、新潟県赤倉に療養、十一首の歌を詠む。 
月かげを殊にさやかに受けつるは竹煮(たけに)の草の裏葉なるらし
家の妻うへの
くさぐさいひこしぬあはれとどおもふその家事(いへごと)
      
くさぐさ(種種):種類や品数の多いこと。さまざま。いろいろ。
〇この年、秀雄、「伊香保  二首」の歌を詠む。
妻子らと二夜(ふたよ)伊香保の湯を浴みぬ帰りてはまた費(つひ)えをいはむ
12月29日、桃子女子聖学院二年生(15才)にて昇天。
32 35 34
1938 昭和13年 1月、秀雄、「河. 第12年(1月號)(131)」に「初冬雜詠」を発表する。 pid/1471380
3月、秀雄、「河. 第12年(3月號)(133)」に「萬葉集講義卷三」のこと ・ 睦如鈔」を発表する。 pid/1471382
5月、秀雄、「河. 第12年(5月號)(135) 」に「草屋殘歌」を発表する。pid/1471384
6月、秀雄、「河. 第12年(6月號)(136)」に「雜歌」を発表する。pid/1471385 
7月、秀雄、「河. 第12年(7月號)(137)」に「雜歌」を発表する。/pid/1471386
8月1日、秀雄、「河 第12年 
河發行所」に「雜歌 6首」を発表する。 pid/1471387
     また、同号に高村光太郎が「孤坐」を発表する。
泰山木の高き梢(こずえ)に咲く花の花心(くわしん)をみむと二階より見つ
法帖の二まき三巻(みまき)買はむこと氣にかかりゐてたのしむに似つ
このほどの
悒鬱(いぶせ)來由(よりどころ)酒をのみつつ解きほぐしをり
銀座來て稀にはわれもおごりせむ四圓とふ洋食をむさぼりくらふ
商人
(あきんど)の卑しさに常觸れをれば士農工商の順も故あり
いかならむ嘆きなりともささやけき私事(わたくしごと)(なみ)す時世(ときよ)
法帖(ほうじょう):古今の名筆を鑑賞し手本とするため,原本を写し取り,これを木や石に刻み,さらに拓本にとって折帖仕立てにしたもの。
悒鬱情(いぶせ):心配事などがあり、心がふさがること。
來由(らいゆ・よりどころ):物事の現在に至った理由。いわれ。由来。らいゆう。
いかならむ(如何ならむ):@どうだろう。どんなであろう。Aどうなることだろう。Bどのような。
蔑る(なみ・する): ないがしろにする。あなどる。
9月、秀雄、「河. 第12年(9月號)(139)」に「雜歌」を発表する。  pid/1471388
10月、秀雄、「河. 第12年(10月號)(140)」に「雜歌」を発表する。 pid/1471389 
11月、秀雄、「河.第12年(11月號)(141)」に「艸心洞雜歌」を発表する。 pid/1471390 
12月、秀雄、「河. 第12年(12月號)(142)」に「艸心洞雜歌」を発表する。 pid/1471391
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1939 昭和14年 1月、親友須賀幸造、宇都宮にて逝く。秀雄、「挽歌 須賀幸造宇都宮にて逝く 五首」の歌を詠む。
旅空(たびぞら)に汝(なれ)をみとりて死なしめし骸(むくろ)の前の母の窶(やつ)れよ
春浅き二荒
(ふたら)の山の雪形(ゆきがた)を玉のすだれと我はかなしむ
1月1日付、秀雄、「越後タイムス」に「 芸術の製作と鑑賞における学問の力の限界について(上)」を寄稿する。
1月8日付、秀雄、「越後タイムス」に「 芸術の製作と鑑賞における学問の力の限界について(下)」を寄稿する。
1月22日付、秀雄、「越後タイムス」に「 艸心亭小咄集(下)」を寄稿する。
2月12日付、秀雄、「越後タイムス」に「 流行宗教というものの一つについて(下)」を寄稿する。

2月26日付、秀雄、「越後タイムス」に「ブルーノ・タウトを憶ふ(上)」を寄稿する。  
3月5日付、秀雄、「越後タイムス」に「ブルーノ・タウトを憶ふ(中)」を寄稿する。
   また、同号に雛エ之介が」畫室と人生」を寄稿する。
3月12日付、秀雄、「越後タイムス」に「ブルーノ・タウトを憶ふ(下)」を寄稿する。
3月19日付、秀雄、「越後タイムス」に「野田村村長 (たる)藤吉翁(上)」を寄稿する。
3月19日付、市川達吉が「越後タイムス」に「往復信信 タウトと竹細工 (吉野秀雄氏へ)」を寄稿する。
3月26日付、秀雄、「越後タイムス」に「 往復信信 お答えかたがた(市川達吉さんへ)」を寄稿する。

3月26日付、秀雄、「越後タイムス」に「野田村村長 (たる)藤吉翁(下)」を寄稿する。
月2日付、秀雄、「越後タイムス」に「 妄談(上)」を寄稿する。
4月9日付、秀雄、「越後タイムス」に「 妄談(下)」を寄稿する。
4月23日付、秀雄、「越後タイムス」に「 ことばの根本問題」を寄稿する。
4月30日付、秀雄、「越後タイムス」に「 日本語の微妙さ!その一例・ハモという感動詞について(その一)」を寄稿する。
4月〜5月、秀雄、信州・京都・奈良を旅する。旅中血痰がある。
信濃豊岡 七首
春雨(はるさめ)のなかよりみれば豊丘の棚田(たなだ)の土手に野火の跡黒し
東山法然院
  七首
法然院に来(こ)しくもしるししろたへの(さだん)のうへに菩提樹の影
   沙灘(さだん):(海・湖・川辺の砂・小石などのある浜・ 砂州
奈良万葉植物園  一首
この園の春の花みな過ぎつればいま土針
(つちばり)の白きが咲けり
猿沢の池  
二首
猿沢の柳の絮
(わた)の舞ひ飛びて池の面(も)しろしあはれ白しも
5月7日付、秀雄、「越後タイムス」に「日本語の微妙さ! その一例・ハモという感動詞について(その二)」を寄稿する。
5月14日付、秀雄、「越後タイムス」に「 日本語の微妙さ! その一例・ハモという感動詞について(その三)」を寄稿する。
5月14日付、阿部達雄 が「越後タイムス」に「「ことばの根本問題」について」を寄稿する。   
5月21日付、秀雄、「越後タイムス」に「 日本語の微妙さ!その一例・ハモという感動詞について(その四)」を寄稿する。
5月21日付、秀雄、「越後タイムス」に「阿部達雄氏の説を読んで」を寄稿する。
5月28日付、秀雄、「越後タイムス」に「 日本語の微妙さ!その一例・ハモという感動詞について(その五)」を寄稿する。
6月4日付、秀雄、「越後タイムス」に「日本語の微妙さ!その一例・ハモという感動詞について(その六)」を寄稿する。
6月4日付 、安野茂が「越後タイムス」に「漢字・漢語の問題(上)」を寄稿する。    
6月11日付、秀雄、「越後タイムス」に「 のんびりした咄(一)」を寄稿する。
6月11日付 、阿部達雄が「越後タイムス」に「再び吉野氏の説を読んで(上)」を寄稿する。   
6月11日付 、安野茂が「越後タイムス」に「漢字・漢語の問題(下)」を寄稿する。    
7月16日付 、安野茂が「越後タイムス」に「漢字漢語必要論者 吉野秀雄氏を反駁する(上)」を寄稿する。

6月18日付、秀雄、「越後タイムス」に「 のんびりした咄(二)」を寄稿する。
6月18日付、阿部達雄が「越後タイムス」に「再び吉野氏の説を読んで(下)」を寄稿する。
6月18日付、「越後タイムス」に「貝殻大会 「潮騒」感想批判 桑野俊郎 瀬木夜光 吉野秀雄 青山参里 星野徳一郎 和田真 宮島義雄 藤田美代 千原春子 河原哲 山川渉 大島吉之介 平岡豊 市川達吉 冨士武二 瀬下耽 阿部房子 砂田茂一郎 K.S」が掲載される。

6月25日付、秀雄、「越後タイムス」に「仮名書きローマ字 書き論者 安野茂氏の説を駁す」を寄稿する。
7月2日付、秀雄、「越後タイムス」に「シバイヌ追考」を寄稿する。
7月2日付、秀雄、「越後タイムス」に「仮名書きローマ字 書き論者 安野茂氏の説を駁す」を寄稿する。

7月9日付、秀雄、「越後タイムス」に「吉原重雄君の遺稿集と彼の思ひ出(上)」を寄稿する。
7月16日付、秀雄、「越後タイムス」に「吉原重雄君の遺稿集と彼の思ひ出(中)」を寄稿する。
7月16日付 、安野茂が「越後タイムス」に「漢字漢語必要論者 吉野秀雄氏を反駁する(上)」を寄稿する。
7月23日付 、安野茂が「越後タイムス」に「漢字漢語必要論者 吉野秀雄氏を反駁する(下)」を寄稿する。

7月23日付、品川力が「越後タイムス」に「本郷雑記 −吉野秀雄氏に−」を寄稿する。   
7月23日付、秀雄、「越後タイムス」に「国字問題を一時打ち切る」を寄稿する。

7月23日付、秀雄、「越後タイムス」に「吉原重雄君の遺稿集と彼の思ひ出(下)」を寄稿する。
7月30日付、秀雄、「越後タイムス 終刊号」に「タイムスに別る!!」を寄稿し終刊を惜しむ。
7月30日付、安野茂が「越後タイムス」に「一時の休刊と信じたい」を寄稿する。
                 ※ 「越後タイムス」 所蔵 柏崎市立図書館 
〇この年より、秀雄、数年間、市内田辺松坡大人(田辺元・田辺至兄弟の父)の許に通い詩経・杜詩の講義を聴く。
〇この年の秋、秀雄、「秋蝉  十三首」の歌を詠む。
秋蝉  十三首
蝉のこゑききつつ三里に灸据うる夏の盛(さか)りのこころかなしき
水涸れし泥
(うひじ)に草の花咲きて白鷺(はくろ)の池は秋づきぬらし
実朝が山の蝉とぞ詠
(よ)みにしは法師の蝉と固く定むる
   吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は來にけり  金槐集・秋・寒蝉鳴
夜叉
(やしゃ)の樹の黒く実熟(う)るる下蔭に山谷川のひびくさびしさ
法師の蝉
ひねもすきけばさ夜ふけの枕の耳に錯聴(さくちゃう)があり
   
ひねもす:日中。終日
松坡先生(しょうはせんせい)のお齢(とし)うかがふにわがよはい二つ重ねてはた二つ多き
〇この年の秋、秀雄、「水上 妙義 磯部 深谷  九首」の歌を詠む。
水上  三首
乏しらに茸
(きのこ)ならべて売る家あり日に幾人(いくたり)かここを通らむ
妙義  
二首
秋山は夕づきはやし老杉
(おいすぎ)のひまの紅葉をわが愛(を)しむとに
磯部 
 三首
学校へ朝かよふ子らや碓氷川
(うすひかわ)の橋の時雨(しぐれ)に濡れつつし見ゆ
深谷  
一首
ふかや葱深谷
(ふかや)の駅に積まれゐて埼玉(さきたま)あがた冬に入りけり
       あがた(県):地方。いなか。
        「
田面(たづら)なるわら屋の軒の薦簾(こもすだれ)これやあがたのしるしなるらん」〈夫木・三〇〉
34 37 36
1940 昭和15年 2月、秀雄、「吉野藤マンスリー 2月号」に、大正十二年に作られた「子規庵を訪ふ 四首」の歌を発表する。
6月、会津八一(秋艸道人)に従って、群馬県下の高崎・吉井(多胡碑)・伊香保・榛名山を旅する。
6月、秀雄、「釈勝信命日  三首」の歌を詠む。
子の柩抱(だ)きて越えゆく中山(なかやま)の若葉のひかりせつなかりにき
みどり児を葬
(はふ)りの途(みち)の山坂に逢ひし童(わらべ)に銭を呉れけり
子の面輪
(おもわ)すでに忘れておぼつかなただ戒名をこの日つぶやく      全集・年譜 「早梅集」
注 事前に富岡の墓地を訪れたか、八一との出会いとの関連は未検討 2019・12・20 保坂
7月9日、八木陽二、聖学院中学四年生(16才)にて昇天。
〇この年、八一、秀雄の家を訪ね、二三日を逗留する。また、秀雄の家を「艸心洞」と命名、揮毫する。 
35 38 37
1941 昭和16年 1月、8年間を継続した「吉野藤マンスリー」が廃刊となる。 
9月、秀雄、病弱の陽一の保養のため、榛名湖畔に滞在する。
榛名湖畔奄留吟  十二首
湖岸
(うみぎし)にひよわき吾子(あこ)が手をひけりむかしのわれとわが父に似て
右いかほ左あがつま善光寺道秋雨
(あきさめ)そそぐ石の道しるべ
9月、秀雄、父藤一郎の『世界一巡紀行』(吉野藤東京店)を編集発行する。
〇この年の初冬、秀雄、「蘆湖初冬 四首 」の歌を詠む。
湖尻(うみずり)の岸の木群(こむら)の散り黄葉(もみぢ)水のおもてに厚くつもりぬ
〇この年の冬、秀雄、「直江津  五首」の歌を詠む。
たのめなき冬の日ざしよ直江津の耶蘇会堂は檐傾(のきかし)ぎける
浅葱暖簾(あさぎのれん)のかげに爪弾(つまび)く昼の三味(しゃみ)ここは直江の津なる浜通り
       浅葱(あさぎ)::薄いネギの葉の色の意。「葱」を「黄」と混同して「浅黄」とも書く
〇この年、秀雄「洗硯  六首」の歌を詠む。
久しかりし一つの仕事終へてけふ心ゆくらに硯を洗ふ
応仁の乱れし世にも秋春
(あきはる)の野山遊びに生(せい)をもとめき
○この年、とみ、茅ヶ崎の南湖院に事務員として勤務する。
〇この年、秀雄、高木一夫編集の『博物』同人となり6月号より歌文を載せ19年1月号まで続く。
36 39 38
1942 昭和17年 〇この年より、はつが胃の異常を訴えるようになり妻を伴い磯部鉱泉で療養する。 
〇この年、秀雄、「寿福寺実朝忌  七首」の歌を詠む。
ひと巻の金塊集をえにしにてわれら歳歳(としどし)に君を弔(とぶら)
おもかげはもとなはかなし寿福禅寺の老柏槇
(らうびゃくしん)にさむき夕かげ
       
もとな:わけもなく。むやみに。しきりに。
〇この年、秀雄、「橡の花  九首」の歌を詠む。
病みふして障子の腰の硝子より梅のさかりを窺ふわれは
いにしへの人のなげきは
参宿(みつはし)の帯解くすべのなきをいひしか
      参宿(しんしゅく)、和名は唐鋤星(からすきぼし)、二十八宿の一つで西方白虎七宿の第7宿。距星はオリオン座ζ星(三つ星の東端の星)
〇この年、秀雄、「帰源院  六首」の歌を詠む。
春ふかきうらら陽を吸ひ飽けるかに黒き牡丹はくづれむとする
6月、秀雄、京都及び奈良県各地を旅し、二十三首の歌を詠む。
六孫王社  一首
さみだれは降りしきれれば神龍(しんりゅう)の池の反橋(そりはし)流れをなせり
東寺   一首
あなあはれ東寺(とうじ)の塔の夕雀ここの市路(いちぢ)に声のふりくる
   市路・市道(いちぢ):市(いち)へ通じる道。また、市にある道。
実朝公木像 三首
大通寺遍照心院安置  
造像の時代
(ときよ)はよしや降(くだ)るとも君に会ふ如(の)す仰がざらめや
まなこふせ何かを傷
(いた)む眉骨の厳(いか)しく隆(あが)る心邃(ふか)しも
遠く来てまみゆるわれに面伏
(おもふ)せてきみが憂へは底ごもりたり
   見える(まみえる):1 「会う」の意の謙譲語。お目にかかる。2 顔を合わせる。対面する。
     底ごもり
奈良博物館諸像    三首
みほとけは五体失(ごたいう)せしに心木(しんぎ)もて千とせの末のいまもすがしき
法隆寺   十五首
いかるがの代掻小田
(しろかきをだ)のにごり水ここにも塔の影ひたりたれ
蛍光(けいこう)の燈(あかり)照りそふ壁の絵のいやますますにいたましきかも
かべの絵を写す工
(たくみ)の筆洗(ひっせん)に日毎(ひごと)浮くとふその壁の粉(こ)
時のまもあかで崩るる壁の絵を たまのをかけてなげけもろもろ

      たまのを(玉の緒)::@美しい宝玉を貫き通すひも。 A少し。しばらく。短いことのたとえ。 B 命。
7月、八木とみ子(代表)、「八木重吉詩集(限定500部)」を山雅房から刊行。
8月9日、秀雄、「鶴岡 臨時増刊 生誕七百五十年記念 源實朝號」に「金槐集研究書目解題」を発表する。
白旗宮実朝祭献歌  五首
さすたけの君が祭は近づきて金塊集にひと夜親しむ
年どしに君祭る日はおのづから法師蝉
(ほしぜみ)の声風にただよふ
〇この年の秋、秀雄、「厨子行  九首」の歌を詠む。
ふりさけて心澄むかも秋の潮(しほ)和賀の海石(いくり)を白く噛みつつ
      
海石(いくり):海中の岩。暗礁。
〇この年、秀雄、「歎異鈔を誦みつつ  十二首」の歌を詠む。
うつし身の孤心(ひとりごころ)の極(きは)まれば歎異(たんい)の鈔(せう)に縋(すがらまくすも
ふるさとに母が称ふる念仏の底よりわれをいざなふ
12月、米川稔、軍医少尉として集されニューギニアに赴く。
〇この年より、秀雄、山田珠樹(当時東京帝大文学助教授・森鴎外女婿)・松本たかしと交わる。)
37 40 39
1943 昭和18年 1月、米川稔が軍医として応召される。
参考 召集と応召の違いか   出展:歌34(12) 野村清著「米川稔と柊二」 前年12月、1月 検討要 2019・11・28 保坂
応召(おうしょう)呼び出しに応じること。特に、在郷軍人などが召集に応じて軍務につくこと。
召集(しょうしゅう):「人を召し集めること」を指す言葉。目上の人が目下の人に対して、特定の場所に集まるように指示を出すという意味がある。
  @ 大勢の人を呼び出して集めること。
  A 国会を開会するため衆参両院の国会議員に対し、一定の期日に国会に集合することを命ずること。内閣の助言と承認により国事行為として天皇が詔書によって行う。
  B 旧憲法下において、在郷軍人・国民兵などを、軍隊に編入するために呼び集めること。
4月、秀雄、奈良県各地を旅し、「伎楽菩薩他 二十六首」の歌を詠む。
伎楽菩薩/東大寺宝前八角銅燈籠 八首
東大寺三月堂
  五首
鑑真和上尊像/
唐招提寺開山堂  七首
佐保山御陵/
聖武天皇の南陵光明皇后の東陵相ならびて一兆域をなす   六首
11月、山田珠樹逝く。
〇登美子、この年の末、高村光太郎が幻となった八木重吉第四詩集についての序文を寄せる。
38 41 40
1944 昭和19年 2月25日、田辺松坡大人逝く。
6月、長野県戸倉に滞在し病を養う。この地の古池進を知る。
戸倉  五首
木菟(づく)の鳴く窓の宵闇にい対(むか)へり家なる子らは粥すする頃か   早梅集
〇この年の夏、秀雄、「玉簾花  百一首」の歌を詠む。  寒蝉集
昭和十九年夏、妻はつ子胃を病みて鎌倉佐藤外科に入院し、遂に再び起たず、八月二十九日、四児を残して命絶えき、享年四十二、会津八一大人戒名を授けたまひて、淑真院釈尼貞初といふ
をさな子の服のほころび汝(な)は縫へり幾日か後(のち)に死ぬといふものを    
8月29日、吉野はつ子、鎌倉伊藤病院にて逝く。(享年42歳)
9月15日、米川稔、ニューギニア島ウェワク附近にて自決戦死。(戦後判明・47歳)
〇この年の初秋、吉野の兄嫁の時枝夫人からとみ子さんへ「鎌倉の弟が妻に死なれ四人の子供をかかえて困り果てているから助けてやって下さい」と手紙が送られる。 「わが胸の底ひに」より
〇この頃より「吉野藤」への出店を怠る。
11月6日、登美子、両腕に亡き夫、重吉のの詩稿の入ったバスケットを持ち、吉野家の養育係として入る。
12月5日、「はつ子百日忌」のため秀雄は皆子を連れ富岡の弟三郎の家に向かう。
39 42 41
1945 昭和20年 1月、秀雄、正月頃の歌を詠む。 「わが胸の底ひに」に掲載されていた全五首  P21より
元旦の暁起(あかときお)きて巻脚絆(まきぎゃはん)固くし締めてまうらすがしも
雑煮餅妹
(いも)が位牌にまづ供ふ春としもなき家内(やぬち)のしづもり
配給の餅
(もちひ)かぞへて母のなき四たりの子らに多く割当つ
鶴岡
(つるがをか)の霧の朝けに打つ神鼓(じんこ)あな(たうたふ)と肝にひびかふ  革+堂 変換不能
      □鞳(とうとう):鼓や太鼓などの鳴りわたるさま。

脚絆(きゃはん)つけ外套を着て家の内を旅の上なるごとく往来(ゆきき)
1月末〜2月、秀雄、中村琢二・小池厳や近藤栄一らと伊豆に遊ぶ。
   秀雄、この時、「富士 (全)二十一首」の歌を詠む。
大仁にて  八首 我命(わぎのち)をおしかたむけて二月朔日朝明(にがつついたちあさあけ)の富士に相對(あひむか)ふかも
修善寺にて  五首
三島にて   七首
三島大社にて一首
『寒蝉集』後記(部分) (後記の全文は昭和22年8月の項に掲載しましたので参照して下さい。 保坂)
(略)
しかるに、一昨年の春、富士山の歌十數首の叱正を乞うた折、先生は例になくこれを賞讃したまひ、ここにはじめて歌よみの一人として公然世に立ち向ふことを許されたのである。永年の鉗鎚に酬ゐることのできたこの時の自分のよろこびこそいかばかりであったらうか。すなはち、その後はもし發表をもとめる人あらば、拒まずに詠作を附することとし、かくて一年にして四百餘首に達したのである。(略)
      叱正(しっせい):しかる声。また、しかる言葉。
          ※鉗鎚(けんつい):禅家で、師僧が弟子を厳格に鍛え、教え導くことをたとえていう語。
2月10日付、会津八一(秋艸道人)より歌人として世に立つことを許される。 「わが胸の底ひに P52」より
秀雄→会津八一宛
拝復 二月四日御差出しの華翰検閲のためややおくれて昨日拝見仕候 「象徴」の拙歌おみとめ被下実に実にうれしく[く]奉存候 風聞によれば歌壇といふもののあれやこれやの中には小生を怪物と目するもあり又素人のまぐれあたりなるかの如く強ひて無視せんとする者もあるよしに候へ共すべて小生の関知せざるところに有之  小生はたゞ[く]真向微塵に歌作りぬき押し切り通す覚悟に御座候
先生の御褒めに預り且つ斎藤大人もほめ被下居り他の何千が何をこそ[く]申さうとも意を安んじて精進できる次第に有之候  しかし小生にとりてはここ二三年最も工夫を要し候場合如何卒折にふれてきびしき御鉗鎚の慈悲に浴したくくれ[ぐ]も奉冀上候<後略>  昭和二十年二月十日付
     注 文中に「象徴」とあるのは富士のことか、「わが胸の底ひに P52」では、昭和22年とあり、多分間違いではないか、 
          再検討が必要 2020・1・14 保坂

3月10日、東京大空襲、吉野藤東京店が焼失する。 
3月、秀雄、「紅梅 二首」の歌を詠む。
紅梅   二首
紅梅をふたたび君の
(た)びしかば紅梅の瓶に紅梅を挿す
わが壁の多胡
(たご)のいしぶみの墨摺(すみず)りにかなひて映えつ紅梅の枝
       ※たぶ 賜ぶ・給ぶ(たぶ):お与えになる。下さる。▽「与ふ」の尊敬語。
3月、梅の花が散る頃、松本たかしが岩手県稗貫郡八重畑村、川守田賢孝方へ疎開する。
松本たかし疎開   三首
菜畑
(なばたけ)に梅散るゆふべ訪ひ寄りて松本たかしみちのくへ去る
病むわれを三たびあひ見て陸奥
(みちのく)へ遠別(とほわか)れゆく君も痩せつる
みちのくのいづくぞ八重畑
(やへはた)とふ村にひたすらいとへ春の寒さを
注:疎開の日時が空襲の前後かは不明  検討要 2019・12・21 保坂
3・4月、秀雄、喀血臥床す。
〇この頃か、中村琢二も疎開する。
中村琢二疎開  二首
一瓶
(ひとびん)の麥酒(ビール)五人に頒(わか)たれて舐(ねぶ)るがごとし相別れなむ
かたき飯
(めし)心ゆくまで食ひ足りて互(かた)みに別るかなしきろかも
4月15日、老いた登美子の母が、高崎の空襲下でショック死したという電報が兄から届く。 
4月から5月にかけて、妙本寺境内の海棠の花が咲く頃、皆子さんと三人でお花見に行く。
 
              (イメージ絵・保坂)
5月、藤の花が咲く頃、「訪印人善雅」と題する三首に求愛の気持を歌にしたか。「寒蝉集 p113・114」
うち望む友が住家(すみか)は藁屋根に山藤の房咲きなだれたり
二階住みの君檐端
(のきば)あしびきの山藤の花いまさかりなれ
山の藤庭藤のごと咲き
足らひ世さがにそむくきみを慰む
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む/柿本人麻呂
足らふ(たらふ):すべて不足なく備わっている。完全である。
よのさが(世の性):世の常のこと。世間のならい。
8月15日、秀雄と3児は疎開先の富岡で、登美子は病弱な陽一と共に鎌倉で終戦をむかえる。
     注 「陽壮年譜・全集・年譜」では二児とあり再調査が必要 2019・11・26 保坂 (吉野が皆子さんを連れて行ったため)
敗戦  七首
ふるさとにたまたま在りて老母(おいはは)とけふのみ勅(のり)に哭きいさちけり
母なき子その
就中遠空(なかんづくとほぞら)の末の二人に寒さ来(き)むかふ
       ※就中(なかんずく〔‐づく〕):[副]《「就中」を訓読みにした「なかにつく」の音変化》その中でも。とりわけ。
10月7日〜11月2日、秀雄、長野県平岡の中村琢二の疎開先を訪ふ。→新潟県中條の会津八一の疎開先→柏崎→さらに小池厳と共に京都・奈良→三重県賢島を旅し「夜間P川他 百首(寒蝉集)」の歌を詠む。
夜間P川信濃平岡村なる中村琢二画伯が疎開先にて  五首
村里の泉に朝の息たちてこころしたしく冬は来向かふ
旅にありて友が情けに食ひ足れば家に餓
(かつ)うる子らし愛(かな)しさ
秋霖  五首
秋艸庵
越後中条の町はづれなる観音堂が庫裡に、会津八一大人をおとなふ   十二首
観音の堂のかたへに結
(ゆ)ふ庵(いほ)の白き障子よ籠(こも)り在(ま)すべし
一枚の羽織に足袋
(たび)をそへもちてわれは来にけり旅の長路(ながて)
荒れ朽ちてさむき厨
(くりや)に朝を夕(よ)をいとなむ君が物思(も)はざれや
北海大風
越後柏崎の浜にいでて狂瀾を観る   六首
北の海の冬呼ぶ風ぞ砂に這ふ枯莎草(かれかうぶし)根掘(ねこ)じむはかり 
      莎草:雑草、カヤツリグサ科のハマスゲのことか
          根掘じ(ねこじ):樹木などを根のついたまま掘り取ること。

荒海(あらうみ)の磯元(いそもと)ゆする高浪(たかなみ)の秀(ほ)さき吹かれて飛沫奔(しぶきわし)れり
旅上偶成
  五首
(たま)の木に組むが例(ためし)の稲架(いなはさ)を山狭小田(やまがひをだ)は杉(すぎ)の木間(このま)
夜の汽車の暗き灯
(ほ)かげにとりいでぬ亡妹(なきも)が書写(しょしゃ)傘松道詠(かさまつだうえい)
        
※傘松道詠:このくくりについては、道元、唐木順三、紀野一義、川端康成等々の系譜があり別途まとめます。
                               2021・1・8 年頭にあたって 保坂 

加治川原中洲
(なかす)の薄(すすき)かがよへば堤桜(つつみざくら)は葉を降らすなり
        
かがよう:(耀う/赫う):きらきら光って揺れる。
をとつひの風に歪(ゆが)みし洋傘(かうもり)をけさは時雨(しぐれ)にさして旅ゆく
旅の身は妹
(いも)を恋(こほ)しみ仏具屋に入りて購(あがな)ふ念仏の数珠(じゅず)
西芳寺林泉  
十三首
法隆寺     
十二首
薬師寺  
(全)十一首/塔婆 六首
西塔址(さいたふあと)石のくぼみの雨水(あまみづ)にあな東塔(とうたふ)の影ぞさやけき
        
さや−け・し(清けし・明けし):@明るい。明るくてすがすがしい。 A 清い。すがしい。きよく澄んでいる。
西塔のいしずゑに立つわが外に人なき庭を鶺鴒歩
(せきれいあり)
仏足石を拝して故里に病あつき母を懐ふ  三首
(しに)近き母をこころに遠つ世の釈迦(さか)の御足跡(みあと)の石をしぞ擦(さす)
  東燈遠望   二首
唐招提寺  
(全)八首/ 五首
金堂
  二首
ふき放つ前面
(おもて)の柱めぐりゆきめぐり戻りてものをしぞ想へ
開山堂  一首
室生路   
 五首
猿沢池  
(全)三首/ 二首
  
ある朝投身屍体を見る  一首
志摩 
 十五首
これやこの古き手振(てぶ)りか志摩人(しまびと)ら田舟(たぶね)を浮けて晩稲(おしね)刈り込む
  また、秀雄、「晴陰集」にも奈良や西芳寺の歌、二十一首を詠み入れる。
秋篠寺   (全)十一首  四首
講堂の伎芸天像を 
 四首
東塔の址にて
  三首  
隈笹をかきわけさぐる礎石(いしずゑ)は楢の落葉に下隠りゐたり
腐れゆく落葉に且つは落葉降り八個
(やつ)のいしずゑ埋(うも)れむとする
(たか)むらを洩(も)れくるゆふ日おぼつかな土壇(どだん)の上の朽葉湿めりに
        おぼつかなし:@ぼんやりしている。ようすがはっきりしない。ほのかだ。A気がかりだ。不安だ。不審だ。疑わしい。
枯山水 十首
11月、鎌倉文庫主催の文化講座で「会津八一(秋艸道人)の歌」について数回に亙り講ずる。
11月22日秀雄の母サダ逝く。享年67歳
たらちねの母  (全) 二十一首/十七首
昭和二十年十一月二十二日、母高崎にて逝く。享年六十七。仏法を篤信し、およそなすべきをなしたるの人なりき
こときれし母がみ手とり懐(ふところ)に温(ぬく)めまゐらす子なればわれは
上州富岡にて納骨の折に 
 三首
妻の骨(ほね)けふ母のほねひと年(とせ)にふたたびひらく暗き墓壙(はかあな)
またおもひいでて
   一首
在りし日の母が勤行(つとめ)も正信偈(しゃうしんげ)わが耳底(みみぞこ)に一生(ひとよ)ひびかむ  「わが胸の底ひに」より
〇この年、秀雄、「えにし 五首」の歌を詠む。
前年の歳の暮れより八木とみ子わが家に来りて家政を執る、密かに読みて
われに嬬(つま)子らには母のなき家にえにしはふかしきみ来りける
うつし世の大きな悲しみを三たびまで凌ぎし人は常にやさしき
いはむすべせむすべもなき子らに我に君がすがしき声徹
(とほ)るかな
わが吐ける生血
(なまち)を器滌(うつはすす)ぎくれし人の情けは身にしむものを
ますらをの雄心
(をごころ)もなく泣きいさち消(け)ぬかなりしが君に救はる
        
いさち:泣き叫ぶ。わめく。         「晴陰集」
40 43
1946 昭和21年 1月13日、「越後タイムス」が復刊する。
2月、鎌倉の諸友と静岡県伊東・網代に遊ぶ。
伊東と網代    八首   
ゆうぐれて伊豆の旅籠
(はたご)に著きしとき燈光(ほかげ)及びをり庭のしら梅
防波堤の蔭の日向
(ひなた)に居る我に海苔掻く音はかなしみを寄す 晴蔭集
4月、秀雄、後の「鎌倉アカデミア」文学部の教師となる。(25年9月廃校まで)
5月、秀雄、会津先生の御厚意で「夕刊新潟新聞」の歌壇選者となる。 「わが胸の底ひに P44」より
5月頃、秀雄、久米正雄・小島政二郎と新潟県下を講演する。
5月30日、良寛著・秀雄釋文による「良寛禪師自選歌集 ふるさと  十一組出版部」を刊行する。 pid/1700999
 
「布留散東」 発行者 安田新三郎発行 T11・7発行 
  所蔵:吉野秀雄文庫 y01/03191505

 
「ふるさと」 釋文 吉野秀雄 発行 昭和21・5 
 所蔵:吉野秀雄文庫 y01/03170354
解説(全文)/良寛禅師の自筆歌稿「ふるさと」は墨附十三葉の冊子にして、原本は安田靱彦氏の珍襲にかかり、複製は大正十一年七月七條憲三氏の金属印刷所より非売品として刊行され、越後出雲崎なる禅師が生家橘屋の屋敷址に佐藤吉太郎氏等相謀りてかの良寛堂を建立せる際の記念品として配布せられたり。余よ つと)にこれを座右にして、細描鐡線の勁(つよ)きが裡に蔵する滋味無量の書美と醇粹暢達の歌詞との渾然たるを愛賞措かざるや年久しく、而して今ここにその釋文を作りて江湖に頒たんとするの所以(ゆえん)は、件の複本と雖(いえど)も既に希覯なること。禅師の万葉假名草體を盡く讀みとるは必ずしも容易ならざること、是素(もとより)禅師がかりそめの手控へにはあらめど尚めづらかなる自選歌集の一種として観るも敢(あえ)て差障なかるべきこと、從って世の編纂物の類とは自ら趣きを異にして禅師直接の微妙なる息吹きの内籠れること、一集甚だ秀逸に富めること、間々推敲の痕(あと)をも探り得ること等に因るものとす。即ち、禅師の歌は禅師の書と相俟ちて神氣ひと際奕々たるは今更言ふを須ゐざれども、釋文の文學的價値のみを以てしても、これを一般化するの意義決して尠少ならざることを信ずればなり。本集に収むるところ長歌三首、反歌一首、施頭歌六首、準施頭歌一首、短歌五十首、他に禅師が次第由之の短歌一首を交へたり。而して、集中の長歌に國上山五合庵に移り住まひて春秋十とせを過ししよしあるは禅師六十歳に近き頃の述懐と覺しく、施頭歌に山蔭の眞木の板屋とあるを國上山麓乙子祠畔の草庵と見ればこは五十九歳以後の詠出なるべく、依てこの稿本の成りし時期も略□察するに難からざらんか。昭和丙戌晩春 吉野秀雄
珍襲(ちんしゅう):珍しいものとして大切にしまっておくこと。珍蔵。
夙に(つとに): ずっと以前から。早くから。
きこう(希覯): めったに見られないこと。非常に珍しいこと。
尠少(せんしょう):非常に少ない・こと
9月14日、鎌倉寿福寺で行われた米川稔の三周忌に、出征の際にとどめた遺髪を墓壙に納める。
遺髪 七首
  
ニューギニア島にて戦死せし歌友米川稔の三周忌を九月十四日鎌倉寿福禅寺に修し、
  出征の際にとどめたる遺髪を墓壙に納む。
  
  なきがらは荒磯(ありそ)ブーツに曝(さら)されてただ髪の毛を墓におさむる  晴蔭集
  注 墓におさむる→墓にをさめき 昭和25年 米川稔七回忌法要(自筆)
12月のはじめ、グローヴが吉野と偕子さんと私とを群馬県伊香保へ連れ行く。 「わが胸の底ひに P49」より
  この時、秀雄「伊香保厳冬 (全)十三首」の歌を詠む。
伊香保厳冬 (全)十三首/十首
雪山は眼(まぶた)にまぶし国境(くなさか)のひと夜のみだれしづもりにけり
見晴にのぼりて
 三首
冬岡に蝶残りゐて立枯(たちが)れし(うけら)の苞(つと)の舞へりやとおもふ
    オケラ(朮、)はキク科オケラ属の多年草。近縁種とともに生薬として用いられる。
        また若芽を山菜として食用にもする。別名、ウケラ、カイブシとも呼ばれている 
12月半ば、千葉県山武郡大平村に吉野と二人で北田昌一を訪ね、九十九里に遊ぶ。「わが胸の底ひにP50」より
  この時、秀雄「九十九里浜遊草 十六首」の歌を詠む。(北田昌一は重吉亡き後も桃子、陽二を遠くから見守る)
九十九里浜遊草 (全)十六首
師走十七日大平村広根より蓮沼南浜にいでて   十六首
冬ざれの武射(むさ)の広野をおしつつみ九十九里浜ゆ潮(うしお)とよもす
     
冬ざれ(ふゆざれ):草木が枯れはてて寂しい冬の風物のようす。また、そのような冬の季節。
        どよもす(響もす):《古くは「とよもす」》声や音をひびかせる。鳴りひびかせる。

九十九里の辺(へ)にも沖にも降りそそぐ(あま)つ冬日のけふおぎろなし
    天つ(あまつ):[連語]《「つ」は「の」の意の格助詞》天の。天空の。
    おぎろなし: (「なし」は形容詞をつくる接尾語) 広大である。果てしなく奥深い。
冬の海に向ふさびしさ極まれば座舟(すゑふね)の蔭に身をひそませつ
浜砂に鳥の足跡三種
(みいろ)ありて殊にかそけし千鳥らしきは
       かそけし(幽し):かすかである。淡い。
果てもなき浜の中らに喘息しつつわが現身(うつしみ)よ小さし
    半ら・中ら(なから):@ およそ半分。なかば。A 中間のあたり。真ん中あたり。B 途中。なかほど。
41 44
1947 昭和22年 1月、秀雄、「創元 創刊号」に「短歌百餘章」を発表する。 Pid/1336689 
               参考  小林秀雄編「創元」創刊号に記された吉野秀雄の歌
 
  創元 第一輯 
  編輯者 小林秀雄
  発行所 創元社
  発行 昭和廿一年十二月





繪畫
梅原龍三郎特輯
原色版 水禽圖(見返し) 昭和十七年
虎    (扇面) 昭和十九年
夢一、二、 昭和二十一年
自畫像 昭和二十一年
三彩壺 昭和十八年
素描 彩弟 昭和十八年
三鈴 昭和十八年
雪  昭和十八年
姑娘 昭和十八年
本文 梅原龍三郎 青山二郎
短歌百餘章 吉野秀雄
モオツアルト 小林秀雄
詩(四篇) 中原中也
土地(小説) 島木健作
表紙ーカット・梅原龍三郎、装幀・青山二郎   本扉ーカット、青山二郎
(略)年が明けて、二十二年の一月になって『創元』創刊号に「短歌百余章」が発表された。『創元』は定価百円という当時としてはすこぶる豪華な雑誌であった。雑誌も、先生の歌も、すぐに評判になった。この歌に関して、次のような伝説が残っている。『創元』の実質的な編集長であった小林秀雄さんは、この原稿を受けとって、読みおわるなり、凄い勢いで山を駈けおりてきて、吉野先生の門を叩き、こう言ったというのである。「このなかに八首だけよくない歌がある!」つまり、あとの歌は、全部いい、全部傑作であるという意味だったのである。これは伝説というよりは、事実に近いものであると思われる。『創元』に発表された、「短歌百余章」は、よく知られているように、先生の前夫人、はつ子さんの死の前後を詠んだものである。(略)
            山口瞳「小説・吉野秀雄先生」より
2月、秀雄。「苦楽 2月号」に「弄影鈔(ろうえいしょう) 71首」を発表する。
昭和十九年夏妻はつ子胃を病みて鎌倉佐藤外科に入院し遂に再び起たず八月二十九日四兒を殘して命絶えき享年四十二會津八一大ひと戒名を授けたまひて淑眞院釋尼貞初といふ
No No  歌 
1 八月の西日除(よ)けむと丸窗(まるまど)に板戸を閉(さ)して汝(なれ)を病ましむ
2 日盛りに壕(がう)堀りいそぐ横須賀のちまたうろつき薬をさがす
3 手を束(つか)ね傍看(そばみ)るごとくおろおろと黙(もだ)せるわれを(なじ)りてくれよ
手(て)を束(つか)・ねる :腕組みをする。また、傍観する。手をこまぬく。
詰る(なじる):相手を問いつめて責める。詰問する。
4 (すわ)りてはをりかぬればぞ立上り苦しむ汝(なれ)を我は見おろす
をりかぬればぞ
5 をさな子は死にゆく母とつゆ知らで釣りこし魚(うお)の魚籃(びく)を覗かす
6 (ひたひ)(ひ)やすタオルの端(はし)に汝(な)がなみだふきやりてはたわが涙拭く
7 この秋の寒蝉(かんせん)のこゑの乏(とぼ)しさをなれはいひ出づ何思ふやら
8 物食はむ力もつきし汝(な)が膳(ぜん)をいきどほりもちてわれはむさぼる
む‐りょく(無力):体力や勢力などのないこと。また、そのさま。むりき。
9 炎天に行き遭ひし友と死(しに)近き妻が柩(ひつぎ)の確保(かくほ)打合はす
10 歩みゐて流るる涙のごはねば道邊人(みちのべびと)いぶかしみ(た)
道辺(みちべ):道のほとり。道ばた。みちのべ。
いぶかしむ(訝しむ):不審に思う。
佇(たたずむ)
11 病妻(やみづま)の胃腑(ゐのふ)の痛みさ夜中のわれにひびきて胃の疼(うづ)きくる
12 幼兒(をさなご)の服のほころびを汝(な)は縫へり幾日(いくひ)か後(のち)に死ぬとふものを
13 院内(ゐんない)に居處(をりど)もなくて物干場(ものほし)のかげに煙草を喫ひつつし哭く
   
哭く(なく):声を出して泣き叫ぶこと
14 潔きものに仕ふるごとく秋風の吹きそめし汝(な)が床(とこ)のべにをり
1 母の前をわれはかまはず縡切(ことき)れし汝(なれ)の口びるに永く接吻(くちづ)
   縡切(ことき)れし;
2 隣室(りんしつ)の患者憚(はばか)り聲あげて泣きも得せずて苦しよわれは
3 息絶えしなれ(汝)の面(おもて)の蚊を追ふと破れ団扇(うちは)をわがはためかす
4 事つひにここにいたりぬ死床(しのとこ)の敷布(しきふ)(ひだ)をわれはみつむる
事つひ:
襞(ひだ):1 衣服や布地などにつけた細長い折り目。
5 亡骸(なきがら)にとりつきて叫ぶをさならよ母を死なしめて申譯もなし
おさなら(幼等):幼いこどもたち。
6 命なき汝(な)が唇(くちびる)のうごめくと母はつぶやきわれも(しか)見つ
然・爾(しか):そのように。さように。そのとおり。そう。
7 夜の風に燈心蜻蛉(とうすみとんぼ)ただよへり汝(な)がたましひはすでにいづくぞ
燈心蜻蛉(とうすみとんぼ):イトトンボの異名。
8 新聞紙(しんぶんがみ)を呉れよなどいふ老母(おいはは)は屍體(したい)に何をなさむとすらむ
なさむ:
9 探照燈の光箭交(くわうせんか)わす夜空(よぞら)なり生死一大事(しゃうじいちだいじ)決まりたるなり
10 さ夜更けの風は冷えびえ秋めきて汝(な)が死面(しおもて)に觸れかゆくらし
11 死顔(しにがお)に化粧(けはひ)したれば須菩提(しゅぼだい)の下脹(しもぶく)れなるおもざしに似つ
須菩提(しゅぼだい):インドの僧。釈尊の十大弟子の一人。善現などと漢訳される。
おもざし(面差し):顔つき。顔だち。面だち。
12 老母(おいはは)とふたりの通夜(つや)の夜のほどろ瓶(かめ)のカンナをあふる風つよし
      ほどろ(程ろ):1 夜の明けるころ。 2 ほど。頃。
13 とことはになれは死にせり八月二十九日は暁方(あけがた)月赤く落つ
    とことわ(常):《古くは「とことば」》永久に変わらないこと。また、そのさま。とこしえ。
14 (のこ)されし吾(あ)とおい母にあかつきの梟(ふくろふ)きこゆ千葉谷(ちばがやつ)より
1 (かばね)にもいまは別れむ泣きぬれて嘆異(たんゐ)の鈔(せう)を誦(ず)しまつりつつ
2 葬儀車に乗せられし汝(なれ)をいつくしみ柩(ひつぎ)の蓋(ふた)に掌(て)を掛けてゆく
3 隠坊(おんばう)は汝(な)が喉佛(のどばとけ)全きを珍しむなり佛なれよ
隠坊(おんぼう ): 死者の火葬・埋葬の世話をし、墓所を守ることを業とした人。
全き(まったき):完全で欠けたところのないこと。
4 手抱(たむだ)ける汝(な)が骨壺(こつつぼ)に温(ぬく)みあり山をどよもす秋蝉のこゑ 
どよもす(響もす):《古くは「とよもす」》声や音をひびかせる。鳴りひびかせる。 
1 いのちありて汝(なれ)が作りし唐茄子(たうなす)とトマト供へて葬(とむら)ひをなす
2 汝等(いましら)の胸に母在りとをさならに説ききかしつつこころ虚(むな)しよ
3 いくばくか汝(なれ)にかかはるかもかくもひたぶるに唱ふ速證菩提(そくしょうぼだい)
かもかくも:どのようにも。とにもかくにも。
ひたぶる(頓):1 いちずなさま。ひたすら。2 完全にその状態であるさま。 4 はなはだしいさま。すこぶる。
とんしょうぼだい(頓証菩提):速やかに悟りの境地に達すること。死者の追善供養のときなどに、
                極楽往生を祈る言葉として唱える。速証菩提。
4 配給酒(くばりざけ)たまありてわれは酔ふ何たどきに子らや生くべき
    方便(たずき)1 生活の手段。生計。2 事をなすためのよりどころ。たより。よるべ。3 ようす。状態。また、それを知る手がかり。
5 をさな子が母を夢みし語り言(ごと)くりかへしわれは語らしめつつ
6 (な)が魂(たま)はいづくさまよふ末の子の手をひき歩む夜の道暗し
7 工場(こうば)より日暮れ疲れて戻る子をねぎらふ聲よ彼世(あのよ)ゆひびけ
8 配給の麥酒(ビール)もてきて飲みかはし大佛次郎(おさらぎじろう)われをはげます
9 臺所に泣く女童(めわらは)よ叱りたる自(し)が父われも涙ぐみゐる
10 しみじみとおもひひそめて哀しまむ一日(ひとひ)だもなくて今日七七忌(しちしちき)
11 あはれ汝(な)が去年(こぞ)積みし戦果貯金もて厨子(づし)と位牌を購(あがな)ひ得つる
12 酒のみてしだいに痺(しび)れくるわれをいづくにか別なる我が意識す
13 雨ながら門(かど)の木犀(もくせい)匂へればわが嘆かひも五(い)十日經(かへ)にけらし
14 秋の夜を暇(いとま)つくりて子供らに物教ふるぞいまのなぐさみ
15 庭先の檀(まゆみ)の朱(あか)をうるはしみ妹(いも)が骨壺(こつつぼ)ふりかへりみつ
16 末の娘(こ)と障子の穴をつくろへり汝(なれ)の位牌に風は泌(にじ)ませじ
つくろう〔つくろふ〕(繕う):1 衣服などの破れ損じたところや物の壊れた箇所を直す。補修する。
                2 乱れた身なりなどを整える。整え装う。
17 股長(ももなが)に共にいを寝しぬばたまの夜床(よどこ)つめたき巖(いは)と化したり
寝(い)を寝(ぬ):眠る。睡眠をとる。
ぬばたま(射干玉の・野干玉の】:1 「ぬばたま」の実が黒いところから、「黒し」「黒髪」など黒いものにかかり、さらに、
                「黒」の連想から「髪」「夜(よ)・(よる)」などにかかる。 
                 2 「夜」の連想から「月」「夢」にかかる。
18 念佛を稱(とな)へながら或る折のなまめきし汝(な)が聲一つ戀ふ
19 渚近く鯔(ぼら)のはねとぶ夕まぐれわがかなしみは極(きは)まらむとす
はねとぶ
夕まぐれ(ゆふまぐれ):夕方の薄暗いこと。また、その時分。
20 独身(ひとりみ)に寒さはひびき管制の燈(あかり)の下(した)孑然(げつねん)とをり
   
  孑然(けつぜん):孤独なさま。孤立しているさま。
1 家出づるお骨(こつ)の母を見送ると暁(あけ)の寒さに慄ふをさなら
慄(りつ):恐ろしくて身震いする。
2 年の瀬の星屑(ほしくづ)満つる天(あめ)の下(した)(な)が骨壺(こつつぼ)をかかへもちたり
3 (こつ)つぼを入れし鞄(かばん)は上(うへ)の娘(こ)とわれと(かた)みに膝に載せあふ
互に(かたみ‐に):《「片身に」の意》たがいに。かわるがわる。
4 多胡(たご)の野(ぬ)のもみぢ葉晴れてふるさとへ汝(なれ)のみ靈(たま)はいま歸り來ぬ
多胡(たご)の野(ぬ)
5 冬枯るる大桁(おほげた)の山雪白き浅間の嶺(みね)や魂(たま)も見よかし
大桁(おほげた)山:群馬県富岡市と下仁田町との境にある山。
6 城山(じやうやま)にもみぢ折りしはむかしにてけふの黄葉(もみぢ)のむなしき明り
7 四五人がただただ寒さのみいひてここの野寺に百日(ひゃぃにちき)忌終る
8 堂裏(だううら)がたぴし歪(ゆが)む骨棚(こつだな)に汝(なれ)のお骨(こつ)を置きて去るなり
  がたぴし:1 建物や家具などのつくりが悪く、また、扱いが乱暴なために、きしむさま。また、その音。
9 酒飲みてわれは泣くなり泣き泣きて死ににし者の母にうつたふ
うつたふ(訴ふ):うったえる。
10 人の世はさぶしくもあるか年暮るるふるさとの驛(えき)參宿(みつほし)(み)
參宿(みつほし)・参(しん):二十八宿の一。西方の第七宿。現在のオリオン座の中央部に三つ連なって並ぶ星をさす。
              からすきぼし。みつらぼし。三つ星。参宿。
瞻る(まばる):《「目?(ま)?張る」の意》目を大きく開いてよく見る。注視する。
1 かの際(きわ)におのが一生(ひとよ)をつきつめて幸(さきは)ひとなして汝(な)はほほゑみし
2 生きのこるわれをいとしみわが髪を撫でて最期(いまは)の息に堪(た)へにき
3 信ずれば子らを頼むといまさらに豈いはめやといひて死にけり
豈(あに):あとに打消しの語を伴って、強い否定の気持ちを表す。決して…ない。
はめ(羽目):好ましくない,または追いつめられた状況・事態。
4 雜煮餅妹(いも)が位牌にまづ供ふ春としもなき家内(やぬち)のしづもり
5 大寒(だいかん)さ夜のくだちに時定(き)めてわが目覺(めざ)むるは妹(いも)の呼べかも
さ夜:「さ」は接頭語》よる。よ。
だち(降ち):夜半過ぎ。「くたち」とも
6 空襲は日を夜を措(お)かねポケットに妻が位牌のありて寝起きす
7 (な)がための寫經(しゃきゃう)の料(しろ)となりてしか去(い)ぬる年買ひし雀頭(じゃくとう)の筆
   雀頭の筆:巻筆の一種。穂の太く短いもの。椎実筆(しいのみふで)。雀頭筆(じゃくとうひつ)。
8 何よりもおのれ斃(たふ)しそ母なくて子らの四たりが掻縋(かいすが)る身を
9 既在其中矣(すでにそのなかにあり)とふ言(こと)の葉をわれはつぶやく朝(あした)ゆふべに
既在其中矣 『論語』子路篇の一文父爲子隱、子爲父隱。 直在其中矣。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。
 直(なお)きこと其の中に在り。そこに、(本来の)正直さがあるのです。
4月1日、秀雄、「人間 第二巻四號」に「秋篠寺 十二首」を発表する。
4月27日、長女皆子と吉原グローヴ(新二)が結婚、秀雄、「嫁ぐ子 七首」の歌を詠む。
嫁ぐ子 七首
    四月二十七日長女皆子結婚す
嫁ぐ子とわれたたずめば夕桜わかかへるでにはららかに散る
とつぐ日の近づける子のふるまひの荒あらしきは何を傷
(いた)めか
古箪笥削り直さむ千円の金にもわれは辛うじて堪ふ
とつぐ子が欲しと冀
(ねが)ふを許しけり秋艸道人歌の一軸
亡き妻の帯締むる子に自(し)が母のおもかげありやつらつらに見む
上毛
(かみつけ)より負ひ来し米のそくばくを赤く炊(た)きけり父の心は
5月、秀雄、中村琢二と共に、氷川丸にて横浜より神戸に至り、大阪府箕田・奈良(春日野の藤花を観る)へ旅する。この時、秀雄、「大和行雜歌 (全)四十五首」の歌を詠む。
大和行雜歌
氷川丸船中 
 六首
箕面新緑  
 四首
堀朋近郊   
二首
東大寺  
 四首
南京紫藤 
 (全)十八首/飛火野にて  十三首
春日野にて  
三首
南円堂にて  
二首
南都晩春 
(全)十一首/ 三首
薬師寺にて  
一首
浄瑠璃寺にて  
八首
〇この年の夏、小林秀雄が吉野の家を訪ねる。
(略)小林秀雄さんが手作りのかぼちゃをもって、吉野の家をおたずね下さったことがあります。ちょうど吉野は留守で、私がお相手をしているうちに、八木の詩集を見て下さることになりました。小林さんはパラパラめくって見て、
夕焼
ゆう焼をあび手をふり手をふり胸にはちいさい夢をとぼし手をにぎりあわせてふりながらこのゆうやけをあびていたいよ
ーという詩に目をとめ、「これはいい詩ですね。この詩集をしばらく貸して下さい」と、おっしゃって下さったのです。ちょうどそこへ吉野が帰ってきて、これは絶対いい詩です、ほんものです、太鼓判をおしてくれ、これが縁となって創元選書の一冊として『八木重吉詩集』があらためて世に出ることになったのです。中国から帰国されたばかりの草野心平さん、小林さん、吉野、私の四人で、小林さんの家で出版の打合せをしたときのうれしさは忘れられません。
(略) 
          「文芸春秋 42年12月号 四十年を看病に生きて 吉野登美子」より
8月29日、亡きはつ夫人の三回忌法要を瑞泉寺で営む。
8月30日、秀雄、「創元社」から『鹿鳴集歌解』を刊行する。
〇この年の秋の彼岸のある日、豊道和尚からお電話で、「今日は富士の真上に夕日が沈むのでおのぼり下さい」と電話があり、さっそく二人で出かけ(一覧亭より)荘厳な(富士)の景色を眺める。
                             「わが胸の底ひに P55」より
10月20日、秀雄、「創元社」から「寒蝉集」を刊行する。
 
  寒蝉集 (扉)
後記(全文) 昭和十一年『苔徑集』といふ集を編んで、これに先立つ十二年間の作歌六百十三首を世に問うて以来、もはや十年餘りを閲した。この間も自分は孜々としてこの一筋にはげみ、およそ千七八百首を詠み得たが、ここにはその中から、昭和十九年夏より翌二十年秋に至る一年数箇月のあひだの製作四百四十一首をとり出でて、ひとまづ一巻とした。本集に収めた歌の大部分は、既に、『創元』『人間』『象徴』『群像』『苦楽』『知慧』『創造』『文藝春秋』『新生活』『新風』『知音』『婦人文庫』『女性』『婦人朝日』『婦人畫報』『週刊朝日』『毎日新聞』『読新聞』『夕刊新潟』『夕刊新大阪』その他の諸雑誌諸新聞に發表した作品であるが、發表してここに加へなかったものもあり、改竄を経て加へたものもあり、新たに補作したものも二三十首はあるであらう。秋艸道人会津八一先生が特に題簽を賜り、巻扉を飾り得たことは、まことに身にあまる光榮である。また畏友小林秀雄兄が、自分の歌魂を信じて本集の印行を
慫慂し、懶惰な自分を折にふれて激励してくれたことに對しては、衷心感謝を捧げずにはゐられない。巻名の『寒蝉集』は漢音のままにカンセンシフととなへんことを冀(こいねが)ふ。寒蝉の文字、『倭名抄』には「加牟世美」と訓じてあるが、自分はなほカンセンの語音の清澄を愛する。また寒蝉の實體がホフシゼミかヒグラシゼミかは、源實朝の立秋の歌に見える「寒蝉鳴」及び「山の蝉」の語の解釋にもからんで、夙(つと)に論あるところだが自分はただおほまかに秋蝉の意として用ゐたのである。この集、妻の死を哭(なく)する歌によってはじまり、母の病をうれへこれを葬ふ歌をもってをはる。一は初秋他は中晩秋、いづれもその悲愁の日かず、秋蝉の喞嘖の韻きと分つことはできない。もって、これを冠して一巻の表徴とした次第であ。
慫慂(しょうよう):そばから誘いかけ勧めること。
懶惰(らんだ):めんどうくさがり、怠けること。また、そのさま。怠惰。らいだ。
喞嘖:喞(なく。すだく。虫が集まって鳴く。)/嘖(やかましい。かまびすしい。)
 昭和十九年この方はそもいかなる歳月であったらうか、國びと誰かその苦楚を嘆じない者があらうか。まして自分はたちまち家妻を奪はれて四児護育の任を孤肩に負ひ、戦争の激化と共に困憊いよいよはなはだしく、□□(体)の痩骨、ためにまったく歪曲した。亡き者が臨終に際して、みづからの痛恨を隠し、却て、生き残らばならぬ自分の苦労をいたはってくれたことも、故なきことではなかった。しかし自分は本集に掲げたやうな歌を、たまきはる命かけて詠み出づることによって、自分の懊惱を客観的ならしめ、よってからうじて行きゆく意志にかい(すが)ることができた。これは二十年三四月の交の病臥についても、八月敗戦の後の生活の混乱についてもまた同じである。もしも自分に自分の歌がなく、自分の歌が自分の精神を昴揚することがなかったならば、。どうして自分に今日の存在があったらうか。想へば、自分は實に藝術微妙の力に感激を新たにせざることを得ない。
困憊(こんぱい):困って疲れはてること。
懊惱(おうのう):悩みもだえること。
昴揚(こうよう):精神や気分などが高まること。また、高めること。
 二十年早春の頃、親しい二三子と数日を伊豆に旅したことは、恰(あたかも)も空襲のさなかであったとはいへ、前年來の自分の憂患をややときほぶし、詠風もおのづから明色を帯び來った如くである。また終戦後、信濃を経て越後に入り、これより先き、東京に戦火を蒙って疎開せられた会津八一先生を中條の里におとなひ申し、つづいて京都、奈良に十餘日を過して、やや久しぶりに古寺を巡礼し、帰途志摩半島に廻ったことも、米麥を負うての容易ならぬ旅ではあったが、なほ心を責めて、多少の感慨を制作に託することができた。
憂患(ゆうかん):心配して心をいためること。
なほ心を責めて():
 自分は昔経済の學に志した者だが、二十二三の頃たまたま正岡子規の竹乃里歌を讀んで作歌に興味を覚え、その系統たる伊藤左千夫、長塚節、島木赤彦、斎藤茂吉等諸大人の歌集にもすこぶるまなぶところがあった。また一方、大正十四年、会津八一先生の『南京新唱』を手にして愛誦惜くこと能はず、やがて機因熟して秋艸堂の門扉に門人として出入するに至り、親しく提撕をうけること、いまは二十年にも及んだ。先生、數ならぬ自分に慈愛隈なく策勵叱咤を加へてひたすら弧高の詩心を打成すべきことを訓へたまひ、軽々しく詠草を江湖に示すなどのことを快からずとするの風があられたので、自分は身をひそめて實作に専念し、わづかに鎌倉短歌會を組織して、四五人の人々と毎月近詠を互評し且つ古書を輪講することと、友人の編輯する歌誌に時に若干の歌を投ずる位の範圍で自らを戒めてゐた。しかるに、一昨年の春、富士山の歌十數首の叱正を乞うた折、先生は例になくこれを賞讃したまひ、ここにはじめて歌よみの一人として公然世に立ち向ふことを許されたのである。永年の鉗鎚に酬ゐることのできたこの時の自分のよろこびこそいかばかりであったらうか。すなはち、その後はもし發表をもとめる人あらば、拒まずに詠作を附することとし、かくて一年にして四百餘首に達したのである。自分の歌歴はかくの如く単純であり、何の語るべき特質もない。しかも、歌といふものは、年少より事に當って営々工夫を重ねつつ、齢五十を超えてやうやく一人前になれるかなれぬかの至難の藝術であることを信じてゐる自分としては、素よりおのが現在の程度の歌を甘なふわけにはいかない。ねがはくは、識者のきびしい批判をうけて今後いよいよ渾身の精力をこの一道に注ぎ、念々の稽古を積んでいつかは至妙の境地を窺ひたいものである。
提撕(ていせい):師が弟子を奮起させ導くこと。特に禅宗で、師が語録や公案などを講義して導くこと。ていぜい
策勵(さくれい):大いにはげますこと。また、大いにはげむこと。
江湖(こうこ):世の中。世間。一般社会。
叱正(しっせい):しかる声。また、しかる言葉。
鉗鎚(けんつい):禅家で、師僧が弟子を厳格に鍛え、教え導くことをたとえていう語。
甘なふ(あまなふ):1 同意する。承知する。2 甘んじて受け入れる。与えられたものに満足する。3 人の心に合うようにする。機嫌をとる。
至妙(しみょう):この上なく巧みなこと。また、そのさま。絶妙。
            昭和二十二年二月下浣吉野秀雄   /後記 終
10月26日、登美子と吉野秀雄が鈴木俊郎夫婦の司式により再婚する。 
      これの世に二人(ふたり)の妻と婚(あ)ひつれどふたりは我に一人なるのみ
     恥多きあるがままなるわれの身に添はむとぞいふいとしまざれや

     わが胸の底ひに汝
(なれ)の恃(たの)むべき清き泉のなしとせなくに 
  参考 たらちねの 母が手離(はな)れ かくばかり すべなきことは いまだせなくに 柿本人麻呂
      万葉集 No−2368 柿本人麻呂 「せなくに」は「為(せ)なくに)」で「未だ経験したことがない」の意
10月27日(翌日)、秀雄と登美子は、皆子とグローヴが連絡をとっておいてくれた伊東に二泊の旅行を行う。
11月、秀雄、「 かまくら (1) かまくら社 」に「良ェ詩餘響(一) 」を発表する。pid/1834134
11月10日、秀雄、四季書房から歌集『早梅集』を刊行する。
42 45
1948 昭和23年 1月、秀雄、「 かまくら (2) かまくら社 」に「良ェ詩餘響(二) 」を発表する。 pid/1834135
1月17日〜19日、秀雄、松本たかし・皆吉爽雨・福田蓼汀・上村占魚等俳人と新潟県湯沢に遊ぶ。 「陽壮年譜」 この時、秀雄、「雪中 七首」の歌を詠む。
雪積める道より低く家ならび苞入卵(つといりたまご)ひさぐ軒暗し
       
ひさぐ(鬻ぐ/▽販ぐ):《古くは「ひさく」》売る。商いをする。
雪晴れの湯沢の町を見おろせり屋根に雪なきはすなはち湯室
(ゆむろ)
2月、梅の花咲く頃か、秀雄、「御殿場の富士  八首」の歌を詠む。
天つ空東風(こち)のまにまに富士が嶺へ寄りゆく雲は遊べるごとし
富士が嶺に近くし立てば天
(あま)高く春の清雪(すがゆき)融くるけはひす
2月か3月か、水仙の花が咲く頃、秀雄、「城ケ島と三崎  十三首」の歌を詠む。
燈台を友は絵に描き枯草にころ臥(ぶ)すわれはうつらうつらに
島の丘おどろのかげの水仙はいまわが賞
(め)でてまた誰か見む
    おどろ(荊/棘): 草木・いばらなどの乱れ茂っていること。また、その場所やそのさま。やぶ。
この宿の欄干(てすり)の隙(ひま)に暮れきらぬ燈台見えて灯(ひ)の点(つ)きんけり
3月、「創元社」から「八木重吉詩集」が刊行される。
  
    八木重吉詩集 (表紙)
覺え書(全文)
二十四歳の御影師範教諭時代より後年の仰臥生活までの八木重吉の詩やノートは相當厖大な量にのぼってゐるが、本詩集には「秋の瞳」「貧しき信徒」「八木重吉詩集」の三冊の詩集と「病床無題」と題する晩年のノート四冊から選び出したものを収録した。
私が眼をとほした詩篇は七百二十篇、本詩集はそのうちの二百十七篇である。配列の順序は「秋の瞳」から始まり「病床無題」に終わるやう大體は年代順になってゐる。八木重吉没後二十年である。
  昭和二十二年五月十日
    草野心平

八木重吉年譜の末尾に「現在とみ子未亡人は鎌倉市小町370 吉野秀雄氏方に假寓」(草野心平編)」と有り
4月、東京高島屋に於て、松本たかしと軸物類の歌俳二人展を催す。
5月1日、秀雄、「苦楽 5月号」に「寧樂晩春 7種」を発表する。
飛火野にて
老杉
(おいすぎ)にかかる藤なみ中空(なかぞら)ゆあなむらさきの瀧つPをなす
憩ひつつここに愛
(をし)まむかへるでの瑞枝(みづえ)に藤の房さがれれば
せせらぎに蔓さしわたす山藤は十總
(とふさ)ばかりを水に寫せり
飛火野
(とぶひの)は春きはまりてやまふぢの花こぼれ來も瑠璃の空より
蒲公英
(たんぽぽ)の文様(あや)置く芝にひねもすを藤の花粒(はなつぶ)散りたまるらし
南圓堂にて
南圓堂にい添ふ藤棚紫は咲き足らひゐてて白ぞこぼれる
このゆふべふるき都のひた土に
あえかに白く藤のちり敷く
ひねもす(終日):朝から晩まで続くさま。一日中。しゅうじつ。
あえかに:か弱く、頼りないさま。きゃしゃで弱々しいさま。
5月、秀雄、「 かまくら (3) かまくら社 」に「良ェ詩餘響(三) 」を発表する。 pid/1834136
5月、この時より鎌倉の新文化祭のために月々万葉集を講義する。同会解散後は自宅で催し、25年10月29日より31年6月で完了する。
5月7日〜11日、秀雄、佐藤佐太郎・宮柊二と共に長野県戸倉に赴き、更科にて歌話、姥捨山にて遊ぶ。「陽壮年譜」
5月28日〜6月5日、秀雄、松本たかし・洞外石杖・上村占魚等と共に、岐阜県中津川→木曾→下諏訪→高木を廻り、なほ占魚と二人で塩尻→寿→浅間→松本→長野を旅す。「陽壮年譜」 
       ※高木:アララギ派歌人島木赤彦の柿蔭山房(しいんさんぼう)か検討要 2019・12・4 保坂
  この時、秀雄、「美濃中津川旅中吟 三十首」の歌を詠む。
中津川勝野正雄居  九首
中津川漫歩   三首
夜鴉
(がらす)山陰陽石  三首
苗木城址  勝野正雄・上村占魚同行  九首
唖の娘 羽田野苗子われらが後を追ひて山頂に来たる。 歌よむ人なり 四首
再び勝野居 二首
   また、この後の旅に、秀雄、「信濃道中歌  九十三首」の歌を詠む。
木曾谷  十一首
下諏訪  松本たかし・洞外石杖・上村占魚等と湊屋に投宿す  七首
諏訪明神下社  五首
高木村  島木赤彦が旧居をおとなふ。朝の間雨曇りゐしが、やがて晴れわたる。 十六首
今井邦子を見舞ふ   三首
旅上分袂 下諏訪駅にてたかしと別る。寒気はげしく郷人六月の雪来を憂ふ  二首
塩尻峠  占魚同行  五首
高野健介を訪ふ  東筑摩郡寿村   九首
浅間の湯  松本の東明雅に案内されて本家滝沢の湯に浴す。驟雨あり  五首
明雅方一泊  この夜鎌倉帰着の予定なりしが、占魚に誘はれてさらに旅程を延ばすこととしつ  五首
松本  三首
雪嶺 松本城濠端より眺望す。この日雨全くあがる  七首
乗鞍山  三首
長野善光寺   二首
亡き母と亡き妻と子の戒名を一つの息にわれは申しぬ
亡き妻の菩提とぶらひ今の妻がわれの帰りを待つことも思ふ

上村占魚居 帰途上州高崎に下車して占魚の家に宿る。  十首
7月11日〜14日、秀雄、群馬県妙義山に遊び、宿にて痛飲す。「陽壮年譜」
貫前神社/上毛一之宮、我幼時近隣の富岡に育ちてしばしばここに詣りき  五首
妙義山麓吟  五首
〇この夏、秀雄、「大聖歓喜天像/鎌倉宝戒寺秘仏を開扉して  五首」の歌を詠む。
相いだく歓喜(くわんぎ)の二天肉太(ししぶと)の手指足指に情(おも)ひこめたり
かき抱
(いだ)き女天(ひょてん)のこころ尽きせねば足指載せつ夫(せ)の足指に
締めかはす腕
(かひな)かひなの手力(たぢから)に鎌倉の世の鑿(のみ)を凝らしし
刻みつつ工
(たくみ)はおのが秘事(ひめごと)かなしみけりな大聖天像
    
かなしみ(悲しみ/哀しみ/愛しみ):1 悲しむこと。悲しい気持ちや心。悲嘆。2 (愛しみ)いとおしむこと。情愛。
〇この夏、秀雄、「夏季日常詠  二十首」の歌を詠む。
一皿の南瓜(かぼちゃ)食ひつつ米恋ふることばを抑ふ児らの前ゆゑ
学生ら別れて喫茶店に入りゆきつ教師の我にその余裕なく
真杉静枝さんに逢ふたびこの秋は孫もつ我の甘
(あま)くからかはる
まぐあひのあとを己が牀(とこ)の上(へ)に主(しゅ)を祈りてぞ寝に就く妻は
〇この夏、秀雄、「長尾峠  六首」の歌を詠む。
峠より向へる富士の夏いろは二藍(ふたあゐ)に見え(はなだ)ともおもふ
   ※二藍(ふたあい):藍の上に紅花を染め重ねた明るく渋い青紫色のこと。
   ※縹(はなだ):明度が高い薄青色。花色、月草色、千草色、露草色などの別名がある、これらは全てツユクサを表す。

9月12日〜17日、秀雄、上村占魚と共に群馬県草津に遊び、中沢晃三を知る。帰途、川原湯に立ち寄る。「陽壮年譜」 この旅で、秀雄、「草津秋情  十六首」の歌を詠む。
湯の川の湯気立てたぎつ谿を来て眼(まなこ)にさびし酸性藻類(さうるゐ)
薄日させば秋風わたり日かげりて時雨もよほす草津賽之河原

10月1日〜13日、秀雄、新潟の会津八一を訪ひ、佐渡を旅する。「陽壮年譜」
佐渡  十三首
あら海を渡る秋風大佐渡ゆ小佐渡へかけて空に声あり
もてなしの酒に足りつつ盃に浮きゐる秋の蚊も呑みにけり
秋雨の荒るる中より昼も夜も小比叡
(こびえ)の山にこほろぎ響(とよ)
越後雜詠   
(全)十一首/新潟 五首
新潟の灯ともる辻に荷を負へり佐渡の米舟をいまあがり来て
亀井算道場につどふ子らに射す秋の燈
(ひ)暗く更けつつぞゐし
秋艸堂 
 四首
先生はふた時あまり説きましぬわれ一人のみ聴くが惜しまる
車中   
二首
高稲架
(たかはさ)の壁を連ぬる野の面(おも)に国上(くがみ)の山は近く親しき
上州川原湯  九首
溪の湯の湧きいづるはほとり芭蕉句碑も巡礼塔も露ぞさむけき
    
参考 山路来て 何やら床(ゆか)し 菫(スミレ)草  (野ざらし紀行)
11月9日〜10日、秀雄、登美子を伴い、再び川原湯に遊ぶ。「陽壮年譜」
12月3日、長女皆子一家が渡米、この時、秀雄、(孫の彩子は生後2ヶ月)「出帆  四首」の歌を詠む。
十二月三日、長女皆子その夫その子と共に渡米す
会ざらむ別れならねどエインスワース号のタラップ渡る吾娘
(あこ)は泣きゐし
43 46
1949 昭和24年 1月、秀雄、「正月の歌 十五首」の歌を詠む。
年迎ふる妻子四人の声ごゑに去年(こぞ)にやや増す明るさおぼゆ
鶴岡
(つるがをか)の宮居を近み家ぬちに神鼓(じんこ)ひびくは聞かくしよしも
わが軒に青さをたもつ芭蕉葉の水霜とけて睦月
(むつき)の日さす
(こし)の高田かの耶蘇墓地に主(しゅ)の婢(ひ)らのクルスもいまは雪に埋(うも)れゐむ
4月29日〜5月3日、秀雄、高崎市珍竹林画廊に於て、福田貂太郎・上村占魚と共に「短歌・俳句・絵画近作三人展」を催す。
5月27日〜30日、秀雄、中村琢二・上村占魚と共に草津温泉に遊ぶ。
草津遊吟 六首
つばくろは湯畑(ゆばたけ)の上を飛び交(か)へり山寒ければ湯気を恋ひつつ
火の山の裾のゆふべを
郭公に応(こた)ふる声は筒鳥にして
          郭公(カッコウ)  筒鳥(ツツドリ)
6月4日〜5日、、秀雄、中村琢二・伊藤庸雄と共に群馬県迦葉山に登りて、仏法僧を聴く。「陽壮年譜」
上毛迦葉山行  八首
渓川のそそぐしぶきに濡れぬれて羊歯(しだ)の萌え葉はととのふらしも
時早き河鹿の声とまがふまで深山春蝉
(みやまはるぜみ)きよくひびき来(く)
    まがう(紛う):1 他のものとよく似ていてとりちがえる。一般には「まごう」と発音されることが多い。2 入り乱れる。
宵に降りし雨の気(け)こむるむばたまの闇に声あり仏法僧鳥
底ひなき闇に啼きいでてなきやみし仏法僧は何を訴ふ
迦葉
(かせふ)の山にひと夜は明けて苔づたふ水にまなこをわが洗ふなり
みづはかりは雨を喚
(よ)ぶ鳥この朝の若葉晴れにも雨恋ひて啼く
6月30日、木俣修との共著「互評自註歌集『寒蝉集』」を講談社から刊行する。
〇この年の夏から秋にかけ「夏秋遺悶詠  十五首」の歌を詠む。
おぼほしきわれを見かねて三合の酒買ひに妻は瓶(びん)かかへゆく
  
おぼめく:1 はっきりしないさまである。あいまいである。ぼやける。2 いぶかしく思う。不審に思う。3 はっきりわからないふりをする。はぐらかす。とぼける。
七月以降無月給にて働きぬ潔きを過ぐるおろかともおもふ
孤りなる夜に取り出でてアメリカの孫の写真に見入ることあり
わが彩子
(あやこ)すでに足立ち桑港(さうかう)のエリス街(がい)をば歩みそめゐむ
11月、秀雄、「みそさざい 十一月号」に「古俳句漫註 −几董句集『井華集』抄− 1」を発表する。
12月、秀雄、「展望 (48) 筑摩書房」 に「良寛の飲食生活」を発表する。 pid/1795807
〇この年、秀雄、「小菅刑務所詠  十三首」の歌を詠む。
(みづか)らを罪びととしてわれは来つ君らが纏ふ青衣(せいい)などは見じ
子規以来の写生の道を獄中に説かむ機会をわが恵まれつ
若若しくわれの話をノートする君は何にか罪なはれたる

44 47
1950 昭和25年 1月、秀雄、「小説公園 1(1);創刊號 六興出版社」に「冬濱抒情(短歌)」を発表する。 pid/11005072
1月、秀雄、中村琢二と共に静岡県戸田に旅す。「陽壮年譜」
1月、秀雄、「みそさざい 一月号」に「古俳句漫註 −几董句集『井華集』抄− 2」を発表する。
2月、秀雄、「みそさざい 二月号」に「古俳句漫註 −几董句集『井華集』抄− 3」を発表する。
3月、秀雄、「みそさざい 三月号」に「古俳句漫註 −几董句集『井華集』抄− 4」を発表する。 関連番号の有無未確認
6月、秀雄、新潟県柏崎・新潟(良寛百二十年記念遺墨展を観、会津八一を訪ふ)→島崎→出雲崎(佐藤耐雪を訪ふ)→高田→戸倉を旅す。
「陽壮年譜」
9月1日、秀雄、私家版『米川稔短歌百首 
印刷 越後タイムス』を編集出版し七回忌の供養に供える。
     
この時、宮柊二の助力を受ける。 吉野秀雄文庫:y01/03170499
  
    米川稔短歌百首
  所蔵:神奈川近代文学館
あとがきこの小冊子は、九月二十三日鎌倉寿福寺において米川稔七周忌法會を営むに當り、追善供養のため参列者各位へ贈呈することを主な目的として編んだものである。稔の作歌は昭和十年六月の『多磨』創刊と同時にはじまるが。同十二年末までの三十餘首は自ら捨て去ってゐるので、ここには關はらしめない。昭和十三年一月『多磨』一部會員となって以後の製作は、ひとたび諸雑誌諸新聞に發表したものを厳密に取捨選擇し、且つ語句に錬磨改修を加え、出征に先立って四冊の浄書ノートとして残した。その數千二百五十六首である。また従軍中の歌は。昭和十八年十二月十九日夜ニューギニア島ウエワク戦線で浄書を終へた「陣中詠定稿」と題するノートが何か特別の幸便によって送られ、思ひがけず入手することを得たのであった。その数二百十首、但し内十首はj常時に取材してゐる。かくて合計千四百六十六首が彼の創作活動の總収穫であったといふ結果になる。稔は歌詠みとしては珍しく晩學の徒ではあった
が、しかし四十二歳乃至四十七歳の満六年間に毎年平均およそ二百五十首づつを詠みつづけた事實は、彼の覺悟の確かさと精進の烈しさがいかに尋常一樣でなかったかを剰すところなく語ってゐるといへるであらう。百首を抽き出す仕事は吉野秀雄が當り、宮柊二の意嚮をも參酌した。できるだけ稔特有の風格を尊重し、一首々々入念に吟味したつもりではあるが、なほこれを讀む人々は多分秀逸の脱漏の少からぬことを慨嘆するに違ひない。實はさういふ聲の諸方に高まりゆく機會に乗じて、彼の遺言道り三百首収録の歌集をこそ上梓したいと念じてやまぬ次第である。(以下略)/米川稔よ。誠實敦厚の士、稔よ。生前の君を識る者、ことごとくここに君が冥福を祷ってやまない。
   昭和二十五年七月二十八日 吉野秀雄 謹記

 裏表紙(黄)に記されてあった自筆の二首  吉野秀雄文庫 b/Y01/03170499 より 2019・11・25 確認済 保坂
     米川稔を偲ぶ       吉野秀雄
  なき加らは荒磯ブーツにさらされて ただ髪の毛を墓にをさめき
  けだしくはいのちの際に詠み尓けむ 一首の哥よとはにむなしき
※研究資料  1987-12 短歌. 34(12)   野村清著/米川稔と柊二  pid/7899336
10月11日、重吉の父、藤三郎が逝く。
12月、会津八一鎌倉に来泊し。大佛次郎・小山富士夫・松下英磨等相会す。
 「陽壮年譜」
〇この年、秀雄、「東西百傑伝 第4巻 池田書店」に「良ェ」を発表する。 pid/1705502
45 48
1951 昭和26年 2月、秀雄、「二月以降」として歌を詠む。 「晴蔭集」から
風呂釜に薪木(たきぎ)くべつつ万葉の歌を読みをり明日講ずべく
北條氏滅びし岡の聖堂より今朝イースターの鐘がきこえる
わが庭に李(すもも)咲きそめてなほ寒き朝ひびき来る復活祭の鐘
アメリカに育つわが孫彩子
(あやこ)三歳爪にマニュキアをせる写真なり
さだかにはわれは見ねども蒲団皮を剥ぎては綿を妻の売るらし
けふ母の日なりと妻を昼寝させ子らが夕餉のトンカツ作る
3月13日〜15日、秀雄、中村琢二と共に静岡県西伊豆町安良里地方に旅する。
3月、秀雄、「みそさざい 三月号」に「「春風馬堤曲」贅註」を発表する。
4月、秀雄、「みそさざい 四月号」に「「春風馬堤曲」贅註」を発表する。 関連番号の有無については未確認
西伊豆安良里雜歌
船すてて安良里(あらり)の村を行くなべに海豚供養(いるかくやう)の碑も身にぞ沁む
五万頭いるか屠
(ほふ)りし滅罪に無遮会(むしゃゑ)修めきあはれいしぶみ
生くらくのたづきはかなし入海に海豚(いるか)追ひ込み撲(う)ち殺すとぞ
山びとが手にもつさくらこの春の初花なればふりかへり見つ
亡き母に逢ひゐし夢の覚めぬればここはこれ奥伊豆安良里
(あらり)の旅寝
無遮会(むしゃゑ):貴賤・僧俗・上下・男女の区別なくだれにでも財施・法施を行う法会。無遮施。無遮大会(だいえ)。
生くらくのたづきはかなし:
参考:
イルカの追い込み漁
安良里地区のイルカの追い込み漁は、明治時代から記録があり、昭和30年代まで盛んに行われていました。沖から多くの小船で、竹竿で水面を叩きながら、深く入り込んだ湾内の漁港に追い込んだそうです。一時期は、イルカ漁といえば安良里と言われていましたが、現在は全く行われていません。伊豆に「いるか供養塔」が7つありますがうち3つは安良里にあります。供養塔は、大量のイルカの捕獲に対してその霊を慰めるために建てられました。
「いるか供養塔 - 西伊豆町観光協会」 HPより
薬泉上毛磯部鉱泉に会合ありし折に
桜散る宿場(しゅくば)のみちをたどりきてくすり泉に喉うるほしつ
ふる里の富岡近き安らぎに磯部のいづみ湧くをしぞ聞く
うぶすなの春祭とて湯元なる薬師に赤き飯
(いひ)供へあり
三浦三崎春尽/本端寺にて
子規
(しき)の道につながる縁ぞ僧石杖(せきぢゃう)こよひ酒煮で我を抱かしむ
見桃寺にて

5月21日〜26日、秀雄、中村琢二と共に山形に至り、立石寺→高湯→肘折を旅する。
出羽各地詠/立石寺行
蔵王高湯にて
肘折の湯にて
清水にて
5月21日〜6月16日、秀雄、上村占魚と共に高知に至り附近巡覧の後→足摺岬に達す。町田雅尚斡旋す。帰途一人、宇和島→大洲(如法寺)→松山(子規の遺蹟を訪ふ)→今治→善通寺→琴平→高松→倉敷→玉島(円通寺)→網干(竜門寺)→奈良→名古屋→松本たかしと会して講演→岐阜県長良川の鵜飼いに遊ぶ。→中津川→浜松→鎌倉(この間二十日)  斡旋;(あっせん);間に入って双方をうまく取り持つこと。周旋
高知旅上吟/平和丸船上にて
大高坂城にて
国府趾にて
町田雅尚居にて
大田口にて 桜間金物店
高知要法寺にて
鹿持雅澄の墓所及び居趾、高知西北郊福井の井口山にあり
足摺岬 陸路によりて至る
金剛福寺
おのづから空海の雄図をおもふ
善通寺/土佐行の帰路、空海誕生の地を拝す。三浦恒礼子東道
境内に樹齢千五百年といふ老樟二幹あり、旧物眼前のおもひふかし
長良川清遊吟/松本たかしと共に、某夜舟をやとひて鵜飼一見の興をつくす
わが舟に鵜船の火の粉ふりそそぎ鵜
(う)らのきほひのいましきはまる
争うや親しむや鵜らのおのがじし逸
(はや)りにはやり潜(かづ)きにかづく
    上村占魚著「松本たけし俳句私解」  H14・3 刊行 P144より 「晴蔭集」 全集第1巻 P417・418
8月14日、〜21日、秀雄、新潟県高田→柏崎→新津→新潟(秋艸道人を訪ひ、良寛詩の講説を聴く)→白根を旅する。
8月下旬、秀雄、愛知県御油に小林一三を訪ひ、共に天龍下りを遊ぶ。
8月、秀雄、「みそさざえ 八月号」に「宗達光琳展とマチス展」を発表する。
9月、秀雄、徳島県北島に至り、阿波の鳴門の潮流を観る。
12月1日、秀雄、「小説公園 六興出版社」に「阿波の秋風」を発表する。(紀行文中の歌)
撫養(むや)の門(と)を引く潮はげし孫崎にゆきて早見む鳴門大潮
(わた)なかをたぎつ潮筋わが目にも一里豫はしるし五里に及ぶとぞ
秋の海をつらぬく潮P
とほしろし天(あめ)なるや星の河といひつべく
うろこ雲
(け)ぬがに曳くもうら安し秋の厄日の迫門(せと)の上高し
秋風か塞かるる浪か大鳴門潮見の岡にこの澄めるこゑ
狭戸走る海の中川力あまり外べば潮の逆流れすも
阿波の旅にこよひわが観る裸ショー小屋の中をも秋の風吹く

撫養:旧吉野川下流低地の北部にある地名。藩政時代から塩の生産が盛んであったが,現在は全廃。『土佐日記』には「牟野 (むや) 」と記される。
とおしろし:1) 大きく堂々たる様子である。雄大である。 2)気高く奥深い。
※消ぬがに:消えてしまいそうに   ・・・してしまうばかりに。    ※うらやす(心安):心が安らかなさま。
46 49
1952 昭和27年 5月、秀雄、「主婦と生活 7(5) 主婦と生活社」に「短歌選・名歌鑑賞 」を発表する。 pid/2306026
6月、『砂丘』が創刊され、この時より同誌歌壇の選者となる。(〜昭和42年6月)) 
6月、秀雄、 校訂による「良寛歌集 朝日新聞社 (日本古典全書)」が刊行される。 pid/1341631
10月4日、秀雄の父藤一郎逝く。(享年78歳)
10月26日、重吉25周忌に秀雄と登美子が招かれ、八木家を訪れる。
(略)吉野は二十七年八木の二十五年周忌法要のとき町田市にある八木の生家に行き、こんな歌を作ってくれています。
コスモスの地に乱れ伏す季(とき)にして十字彫(ゑ)りたる君の墓子らの墓
重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け
われのなき後
(のち)ならめども妻死なば骨(こつ)分けてここにも埋(うづ)めやりたし
(さかい)村の道秋晴れて歩みつつ蜜柑(みかん)むく手に蜂のきらめく
畠中に茶の木垣結
(ゆ)ふ墓どころ茶の花潔(きよ)しけふの忌日(きにち)
重吉が幼き頃のままならむ炉
(ろ)べの粗朶箱(そだばこ)子舟のごとし
   
「文芸春秋 42年12月号 四十年を看病に生きて 吉野登美子」より
   後半の三首は 吉野秀雄著、「やわらかな心・宗教詩人八木重吉のこと」より 
11月、新潟県新津→新潟(秋艸道人と11時間立ち続け論ず)→弥彦→柏崎を旅す。
11月下旬、秀雄、諸歌友と静岡県嵯峨沢に遊ぶ。
〇この年、秀雄が「世界偉人伝 第4巻 世界偉人伝刊行会 編
池田書店 」に「良寛」を発表する。pid/2996478
出家橘屋 /出家の動機 /圓通寺の修業と諸國遍歴 /五合庵の生活 /その藝術 / 晩年及び生涯の意義 /
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1953 昭和28年 2月、宮中歌会始めを培聴し、召人として上京せる秋艸道人と会う。
2月、秀雄著「短歌とは何か : 短歌の作り方と味ひ方 (学生教養新書) 至文堂」が刊行される。pid/1341883
4月〜5月、秀雄、中村琢二と共に山陽・九州を旅する。旅中、雲仙以後喘息を発し苦しむ。
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1954 昭和29年 2月9日、秀雄、鎌倉の潮会のために万葉集の講義を始め、昭和37年2月6日に全巻を終る。全集・年譜
  
注 「潮会」とは鎌倉高校同窓会の組織名か否か? 検討を要す。 また、「陽壮年譜」では「昭和35年に及ぶ」とある 2019・11・18 保坂
  
※ 「全集・年譜」では、「現在[三十五年当時]第九巻に達し、続行中」と表記されているので、「陽壮年譜」の表記漏れ 2019・12・19保坂確認済
5月、秀雄、小島政二郎・上村占魚と共に新潟県柏崎に至りて講演する。小竹久爾の尽力による。
後一人、野田(母の生家)→寺泊→大河津を旅す。
8月、秀雄、「小説新潮 8(11)
新潮社」に「外氣舍(短歌)」を発表する。   pid/6074716
9月、秀雄、「みそさざい 九月号」に「出雲崎の芭蕉碑」を発表する。
12月、諸歌友と神奈川県下強羅に遊ぶ。
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1955 昭和30年 1月、秀雄 、至文堂編「国文学 : 解釈と鑑賞 20(3)(226) 良寛特集」に「良寛の歌」を発表する。pid/3550177
良寛伝記上の諸問題 / 須佐普長 / 良寛の人間性 / 津田青楓 / 良寛の歌 / 吉野秀雄 / 良寛の詩 / 古川換一郎 /
良寛の書について / 長谷川耕南 / 良寛と俳句 / 志田延義 / 良寛と歌謡 / 峯村文人 / 良寛の書から / 酒井千尋 /
良寛の信仰 / 竹下数馬 / 良寛の遺跡 / 原田勘平 / 橘以南と良寛出家の遠因 / 佐藤吉太郎 /
日本のすぐれた詩人にして哲僧である良寛について / フィシヤー・ヤコブ /
良寛研究文献目録 / 関克巳 / 万葉集抄-39- / 久松潜一 / 源氏物語註釈-16-蓬生(七) / 佐伯梅友 /
志賀直哉「暗夜行路」(中)--現代文の鑑賞-21- / 長谷川泉 /
5月15日、神奈川県人会の建設する箱根強羅の「斉藤茂吉歌碑」の除幕式に出席祝辞を述べる。
5月、秀雄、松岡静雄大人二十年祭。
6月12日、兄藤作逝く。(享年55歳)
11月7日〜8日、妙義山の紅葉を観て、帰途富岡に墓参する。
〇この年、秀雄が、上原専禄等編「現代仏教講座 第5巻 角川書店」に「良ェ」を発表する。
   また、同書に紀野一義が「法華經」を発表する。 pid/2992418   
50 53
1956 昭和31年 1月9日、喀血し、以後半年間、療養する。
4月、糖尿病を誘発、市内ヒロ病院に20日間入院加療する。(10日〜30日)
5月11日、松本たかし逝く。
9月、秀雄、上村占魚と共に群馬県の草津→嬬恋→万座→長野県発哺→長沼を旅す。
  長沼の日本医大ヒュッテにて心臓に苦悶あり、下山して癒えたれば、更に一人、
  群馬県榛名山→長野県追分等を巡る。
10月、秀雄、遂g之助と共に県下強羅に遊ぶ。同伴の妻と蘆ノ湖→十国峠→熱海を巡る。
11月21日、会津八一、新潟医大病院にて逝く。(享年76歳)
11月20日、秀雄、新潟に至り、23日の荼毘に付し、24日、帰宅する。
立ち超えてあやしきまでにふるまひき本来是れ彼の獅子宮(ししきゅう)の人
あたかもや霊
(たま)還るときレオニヅの流星群は火箭(ひや)吹くらしも
いまよりは天
(あめ)の獅子座のかがやきを大人(うし)のまなこと観つつ励まむ
  
子宮(ししきゅう):黄道十二宮の第5宮。獅子座に相当するが、歳差のため春分点が移動し、現在は獅子座の西部から蟹座の西部にあたり、太陽は7月24日ごろこの宮に入る。
  ※レオニヅの流星群
しし座流星群、しし座に放射点を持つ流星群である。レオニズ(The Leonids)はレオニード(Les Leonides)などと呼ばれることもある。毎年11月14日頃から11月24日頃まで出現が見られ、11月17日頃に極大を迎える。八一は8月1日生まれで星占いでは獅子座に相当する、
  火箭(ひや)
昔の戦いで火をつけて射た矢。敵の施設や物資に火をつける目的で用いたもの。火矢(ひや)。この歌では流れ星。
11月、「週刊サンケイ 5(48)(250) 扶桑社」に「俳歌壇 / 吉野秀雄 ; 星野立子」が掲載される。 pid/1809929
11月、秀雄が「大世界 11(12)(275)
世界仏教協会 」に「良寛の生涯-1-」を発表する。 pid/3557358
12月11日、早大大隈講堂にて秋艸道人の告別式を行う。
12月、秀雄、秋艸道人についてニッポン放送より放送す。
51 54
1957 昭和32年 月、秀雄が「大世界 12(1)(276) 世界仏教協会」に「良ェの生涯―(二)」を発表する。 pid/3557359
年頭秋艸道人をおもふ
秋艸堂に花残りゐし油点草
(ほととぎす)その他の鉢も雪にうもれけむ  含紅集
車中迎春
空席もなく立つ人もなき夜行車に安らぎ見えて年立たむとす
1月27日付、秀雄、「東京新聞」に「寒食詩巻  −私の美術鑑賞−」を発表する。
2月、秀雄が「大世界 12(2)(277)
世界仏教協会」に良ェの生涯―(完)」を発表する。 pid/3557360
         
注 通巻276.277には「針土竜」があったが275号にはなかった、画家名か? 再調査要 2019・11・15 保坂
2月26日〜3月25日、登美子、ヒロ病院に入院、胆嚢の手術を行う。
春寒抄  四首
入院の日の朝われのセーターの穴つづりゐし汝
(なれ)を死なせじ   含紅集
野梅花墓立ちて四月はじめの十三年忌に   六首
ニューギニアの砂が残りし全てにてかみつけの野に君葬
(はふ)られつ
(たま)あらば赤城榛名を見渡して小塙(こばな)の村のむかしをし恋ひむ
4月13日〜15日、秀雄、上村占魚ら、「みそさざい」一行と群馬県伊香保・下仁田に遊ぶ。
十日の後、伊香保に行くことありて  十首
同行の俳人等春の夜といへど伊香保のこよひ夜寒の感じす
  含紅集
高崎郊外少林寺達磨寺にて   十首
二十何年ぶりにふるさとの野の雲雀
(ひばり)きくと思ひ聴く達磨寺の山に
芽吹楓と蕾桜の下かげにタウト旧棲の家小さし子さし
タウト旧居に住まふは誰か無常迅速各宣醒覚
(かくぎせいかく)の打板(だばん)掲げたり
(たけ)高く眼(まなこ)光りきナチに逐はれし人と言はれきブルーノ・タウト
タウトの碑に凭
(もた)るるわれの写真ありき友は戦死したりき
その夜。下仁田に泊りて    
八首
妙義のつづきらしき一峰
(いっぽう)に春日さす閑(のど)かさ見ゆれ宿の朝窓
4月20日〜23日、秀雄、田辺至・伊藤庸雄・大下豊道と共に長野県上諏訪→高遠→伊那に立ち寄り帰る。
中央線車中   二首
車窓より和尚指さしわれうなづき笹子峠の山吹を褒む
       ※
褒む(ほむ):「ほめる」の文語形。
信濃高遠行
 (全)三十二首 /四月二十一日払暁、上諏訪着   四首
   
  払暁(ふつぎょう):明けがた。あかつき。
網打つはは鈍甲(どんこ)捕るにかみづうみの柳芽ぶきし岸べの舟に
赤彦堂の暖簾
(のれん)かかるは何ひさぐ歌もいくらかは客呼ぶらむか
     
ひさぐ(鬻ぐ・販ぐ):《古くは「ひさく」》売る。商いをする。
日蓮宗蓮華寺、奥女中絵島の墓  二首
訪ひ寄れば竹筒に桜匂ひゐて絵島の墓に雨しながるる
絵島の墓の畔
(ほとり)におもふ三宅島に二十九年経し新五郎の上も
伊那市田畑耕氏方に一泊、二十三帰宅す 
 七首
天竜の雨の勢(きほ)ひを屋根越しに見てゐしがむずむずとなりて降り立つ
5月18日〜25日、秀雄、新潟県寺泊に赴き、照明寺(泊)にて講演する。→島崎・隆泉寺良寛墳墓→塩入峠・良寛歌碑→与板(森哲四郎を訪ふ)→柏崎(小竹久爾を訪ふ)→妙高(高田の)山田庸二郎と会す)→戸倉(古池進に会ひ、姥捨山に遊ぶ)→帰鎌
六月十日の歌  (全)七首
かすかなるよろこびありて午前十時われは飲酒す八幡社頭に
境内のさざえ屋にわれ酒酌むと人に知らゆなわが妻にさへ
壺焼きは家にも食へど露店
(ほしみせ)の磯臭きをぞわれは欲りする
      
欲りす(ほりす)::ほしがる。望む。
梅雨の三渓園  九首
古き塔いのちもてりや梅雨荒れの風に風鐸(ふうたく)鳴りやまずけり
上州秋畑山中吟 六首
鉱泉に着けば帳場に浴衣
(ゆかた)縫へり山里らしき気安さよしも
多胡
(たご)の羊(ひつじ)が産湯(うぶゆ)の井戸の水引きし風呂に入れたり梅雨さむき夜に
越えてゆく螢の火ありさ夜更けの河鹿頻き鳴く荒瀬の闇
(やみ)を 
 注 含紅集、昭和33年(P29)の項に
 信州姨捨晩春  
六首
 姨捨は春もさびしよ冠着
(かむりぎ)の嶺ゆく汽車の笛ひびき来て
    冠着駅(かむりきえき)は、長野県東筑摩郡筑北村坂井にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)篠ノ井線の駅名
    冠着山(かむりきやま)は、長野県千曲市と東筑摩郡筑北村にまたがる山。俗称は姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)

 姨捨の棚田を植ゑむ夏にしてまづしく暗し小田の水明り
伊藤呆庵歌集 序文(部分)より
 呆庵伊藤喜一郎さんにはじめて会ったのは(略)昭和三十二年五月二十日であった。わたしは前日まで越後寺泊へいっていて、その地の療養所で患者たちのために歌会を開き、その夜良寛の草庵の蜜厳院のあった照明寺で良寛についての講話を試みて寺に一泊し、翌二十日、二、三の歌友と車で島崎に至り、隆泉寺の良寛墳墓を拝み、塩入峠にできた良寛歌碑を一見し、それからかねての約により与板の森哲四郎さんを訪うたのであったが、森さんのお宅には、良寛を敬仰する土地の人びとと共に、三条から出向いた呆庵さんもいたのであった。その夕方良寛生家新木氏の菩提寺である徳昌寺に案内されたり、夜は数かずの良寛遺墨を拝見したり、もちろん、互いに良寛談に熱中したりして、私と呆庵--以下「さん」という敬称をはぶく--の二人は森さん方の二階に厄介になったが、枕を並べてなお良寛談は尽きず数時間をまどろんでの次の朝にもそれがつづくという次第で、ひじょうに楽しかったことをいまもはっきり記憶している(略)
             
昭和四十一年七月下旬病床にて記す。
吉野先生と呆庵
有がたし師に逢ふ初めは与板にて良寛和尚の縁に結
(むす)ばる  昭和三十二年五月二十日  呆庵
6月、坂口安吾の文学碑が、新潟県寄居浜の海岸に建立される。
7月25日、秀雄著「良寛和尚の人と歌」が「弥生書房」から刊行される。 pid/1344179
はしがき /良寛の生涯 /良寛の少年時代 /良寛の青年時代と出家の原因 / 寛の五合庵時代 / 良寛の晩年 /良寛の芸術について /良寛の愛について /良寛歌私解 /春の歌 / 夏の歌 /秋の歌 /冬の歌 /雑の歌 /索引 /口絵 良寛筆「ももなかの」の歌の墨本 /
8月、「出版ニュース = Japanese publications news and reviews : 出版総合誌 (386);1957年8月上旬号」に「良寛和尚の人と歌」が掲載される。 pid/10231306
8月26日〜28日、秀雄、大下豊道と共に静岡県川根→千頭→佐夜の中山→島田→静岡→登呂遺跡を旅す。この時、秀雄、「大井川の秋風 (全)六首」の歌を詠む。
  
   瑞泉寺豊道和尚と吉野秀雄 大井川上流・川根にて
大井川の秋風 五首
大井川に沿ひて十五里のぼりしがなほ水上(みなかみ)へ二十五里といふ
遠江千頭河原
(とほつあふせんずがわら)にこの年の初秋風の声ききにけり
うちわたす大井の河原石白み吹く秋風を白しともおもふ
   
うちわたす(打ち渡す):見渡す。眺めやる。
川根橋を朝渡るダム人夫らのシャツ遠白し秋の風ふく
トラックの埃に白き草なびけ佐夜の中山秋の風吹く

家山の三光寺   一首
軒端より斜めにしぶき広縁をぬらす夕立涼しかりけり



10月1日〜11日、秀雄、佐渡→与板→柏崎を旅する。
 〇この時、秀雄、「佐渡雜詠  (全)九首」の歌を詠む。
      注「含紅集」での歌の配列は「五剣山八栗寺」の次に掲載されていましたが、この年譜ではこちらの項に記しました。
2020・1・5 保坂
両津にて  四首
左手のわがリューマチスやや痛み加茂の湖べの秋の月に立つ
福島撤夫の家  
二首
母死にし寂しさに堪へす
すなどりにはげむ父よ君よ(かし)ぐ妹よ
    
すなどり(漁り):1 魚や貝をとること。すなどること。「漁り船」 2 漁(りょう?を業とする人。漁夫。漁師。
       ※炊ぐ(かしぐ):米や麦などを煮たり蒸したりして飯を作る。飯をたく

湯之沢にて  
二首
湯之沢の月夜に見れば奥手田の穂なみはけぶり刈小田し黒し
尖閣荘にて 
 一首
夜に入りて姫津の宿に着きにけり蛍光燈下こほろぎのこゑ
10月24日〜11月4日、秀雄、上村占魚と共に高知→室戸岬に遊ぶ。町田雅尚斡旋す。帰途香川県五剣山八栗寺に登り、秋艸道人遺作の銘を鋳たる銅鐸を搗きて供養する。→屋島→占魚と別れ奈良に立ち寄り→当麻・飛鳥地方を歩く。
11月始め京都→入洛中の亀井高孝・大佛次郎夫妻に会い同宿→博物館→詩仙堂→曼珠院→円通寺→高山寺→大覚寺を共に巡る。また、里見ク・吉井勇・上司海雲・杉本健吉其の他と会う。
  参考:後の昭和46年に、七人会(入江泰吉、上司海雲、熊谷九寿、杉本健吉、鈴木光、須田剋太、水島弘一)を結成、奈良の芸術文化に力を注がれた。
                                                   ウィキペディアより
 「陽壮年譜」
 〇この時、秀雄、「南海再遊抄 (全)七首/五剣山八栗寺 十四首」の歌を詠む。
南海再遊抄  (全)七首
町田雅尚居
  三首
椎の木の高きに椋鳥(むく)の巣箱見え蛇寄るを防ぐよき仕掛見ゆ
土佐の秋の暑さつづきて四日目のけふのゆふべは蚊柱立つも
枕べに携帯タヂオありビールあり遠来
(とほこ)しわれを君はいたはる
五剣山八栗寺
 十四首
秋艸道人が晩年銘辞を作りし讃岐の国五剣山八栗寺の洪鐘、道人の一周忌も近き十月六日(昭和三十三年)成りたりと聞き、十月三十日はるばる往いてこれを撞み以て供養す。俳人上村占魚同行す。
八栗寺に息あへぐ時はやきこゆわが大人(うし)の鐘の澄める韻(ひび)きよ
おそ秋の入り日にじめる大人(うし)の鐘帰命頂礼撞きにけるかも
三たびわれ君が鐘撞き同行
(どうぎゃう)の占魚が二つ打ちて納めし
11月19日、秀雄、長岡にて講演する。
11月20日、秀雄、新潟日報社講堂の秋艸道人記念講演会に、久保田万太郎・安藤厚生と共に講演する。
11月21日、新潟市瑞光寺にて会津八一の一周忌法要と歌碑の除幕式が行われる。
〇この年、秀雄、「新潟雜歌 (全)八首」の歌を詠む。
新潟雜歌秋艸道人一周忌  二首
旅の上のわれも下着の類替へて寒くつつまし小祥忌の朝
供華
(くげ)の菊峰を寄せつつ新しき墓にお骨は入りましにけり
 注 含紅集、昭和33年(P25)の項に
 冬景 (全)六首
 新潟寄居浜なる坂口安吾詩碑のほとり 四首
 詩碑の丘にシェパード馴らす女居り雪来む前の晴れしゆふぐれ
 詩碑とかかはりありや砂丘の松に凭(よ)り一少年のものおもふ見ゆ
 長岡大里伝四郎の家  
一首  
 良寛が書きし招牌
(かんばん)の生業(なりはひ)を今につづけて味噌作る家
 同福寿荘  一首
 植木みな背板囲ひにもものものしもみぢ散り敷きて雪を待つ庭
     
背板囲ひ:冬囲い
52 55
1958 昭和33年 1月〜4月、秀雄、体調不健康にて籠居。特に長男陽一の肺患重し。
4月15日、秀雄と陽一と壮児の校訂・編集による「定本八木重吉詩集」が弥生書房から刊行される。
4月27日、生家の前に「素朴な琴」の詩碑が建立される。この時、秀雄は病気のため欠席する。
6月4日付、秀雄、北川太一宛てに手紙を送る。 全集 8 No375
 拝復。昨日お便り拝見いたしました。拙稿、はじめ、かきましたら、何だかだらと長くなりましたので、大いにちぢめてかき直したのですが、それでもあのやうになり、失礼しました。幸ひに、多少の意味をお認め下されて、八月配本の月報にお用ゐ下さるよし、よろこび居ります。「書」と「歌」と二□申しましたので高村先生への恩□の万分の一にもむくいえたかとも存じます。八木重吉詩稿のことその他いろ〔く〕家内が御厄介になりをりまして恐縮に存じました。お送り願へた詩稿の写しはほんとに〔く〕に感謝の外ございません。なほも一つの分についても折をみてよろしくお願ひいたします。いつか又整理して重版させますつもりでございます。/何やかや御厄介にばかりなってをりますこと、心からお礼申し上げます。お暇ございましたら一度御来遊下さいまし。   匆々
6月、秀雄、「大和文華 六月号」に「通りすがりの大和」を発表する。
7月、友人田中吉備彦逝く。
田中吉備彦急逝  五首
比企(ひき)ヶ谷(やつ)にことしはじめて晩蝉(ひぐらし)の声澄むゆふべ君はみまかる
     みまかる(身罷る):《身が現世から罷?(まか)?る意》死ぬ。特に、中古では、自己側の者の死の謙譲語。
暑き日に死にせし君に秋草のすすき桔梗(きちかう)わがたてまつる
8月、秀雄、武田初与・田村鬼現と共に岐阜県長良川に遊ぶ。
美濃長良川行 このたびは雷雨の下の鵜飼いとなる  十三首
川上の昼夕立ちに水増せる長良(ながら)の鵜飼今宵観るべし
足半
(あしなか)を履ける人夫が舟曳くと〔□(からだ)を倒し磧(かはら)這ひゆく 身+區 変換不能
    足半(あしなか):かかとの部分のない短い草履(ぞうり)。
(とも)を漕ぐ父のだみ声にはげまされ舳(へ)に竿を遣(や)る少年愛(めぐ)
岐阜公園の宿
  五首
稲葉山の繁樹(しげき)より湧く秋の霧わが部屋に流れ込むが寂しき
逸少(いつせう)を臨せる八大(はちだい)の全紙幅鵜飼の宿にはからずも見し
   逸少(いつせう):王羲之(おうぎし)の名(あざな)、東晋の書家。
     ※八大山人(はちだいさんじん)明代末期から清代初期の画家・書家・詩人。

八大が心ゆくばかり書きしかば四十疊敷の広間もせまし
〇この夏の盆の頃か、秀雄、「日常雜歌  十三首」の歌を詠む。
ふるさとの観音山に金ピカの観音湯呑売るはかなしき
どうなりとかまはねど昔わが生
(あ)れし部屋のあたりは道路となりつ
七年忌の父十三年忌の母思へばただ温かさのみぞ残れる
秋の夕日富士の右
(みぎり)に沈みけり真上ならむは彼岸前後か
気管支炎の湿布巻けども秋暑き汗に堪へねば裸にてゐる
10月12日、秀雄、県下三崎本端寺(洞外石杖住職)境内に松本たかしの墓と句碑建ち墓誌を書きて傍らに刻す。注:「昭和41年3月下旬 松本たかしの墓誌銘を書き三浦三崎本端寺に送る」の記述もあり 「陽壮年譜」 再検討要 2019・12・9 保坂
10月15日、『吉野秀雄歌集』(「寒蝉集」と「晴陰集」を所収)を弥生書房から刊行する。
10月、秀雄が担当した「会津八一全集 第四巻(中央公論社)」が刊行される。
10月21日付、秀雄→千葉県山武郡大平村北田昌一宛てに手紙を送る。  全集8 No 378
拝啓 とみ子宛お葉書拝見 その後は御無沙汰失礼いたしました。とみ子目下神経痛臥床中のため代筆にて申しあげますが八木の生家は中央線浅川駅下車、相原(アヒハラ)行のバスにて大戸(オホト)橋下車、すぐ左に見えます。町田市相原大戸(旧堺村大戸)八木藤雄が当主ですから訪ねて下さい。浅川からのバスいくつも出ませんが、十二時に一つ出ることは、確実、約一里あり、バスなければタクシーより外ありません。とみ子二十六日の命日にも病気のためまゐれません。お帰りに当方へお立寄り下さい。「底本八木重吉全集」おそくなりましたが、一部今日発送贈呈しました。とみ子サインできず、私が代理でかきました。
10月26日、北川太一氏が、新たな八木重吉詩稿十一綴りを発見、その知らせを受ける。
11月6日〜7日、秀雄、遂g之助と共に県下の強羅に遊ぶ。同伴の妻と共に大涌谷に紅葉を観る。
箱根の歌 (全)十五首/十一首
まれまれに老嬬(おいづま)伴れし日も暮れぬ強羅(ごうら)の園の紅葉林に
茂吉歌碑の鏡なす石の夕光
(ゆふかげ)を黄葉明(もみぢあか)りと見て過ぎにけり
大涌谷にて  四首
富士見亭に寒さ避(よ)け居る窓の外(そと)(からす)啼きたち紙屑が飛ぶ
11月19日、秀雄、前橋にて旧友高橋元吉・福田貂太郎及び伊藤信吉と会す。 
11月21日、東京石神井法融寺に会津八一の墓成り、三周忌法要が行われる。
初冬雜歌  (全) 六首
十一月二十一碑、武蔵野上石神井なる真宗法融寺にて秋艸道人の法要をいとなむ  六首
三日後の二十四日、道人の遺墨を観ん用ありて越後高田なる藤林家に至る  二首
高田長養館にて  三首
11月24日〜25日、秀雄、所用にて新潟県高田に至る。
11月29日〜12月1日、秀雄、武田初与・田村鬼現と共に岐阜県中津川に遊ぶ。
12月15日、高田博厚また来たり会す。
12月25日、前橋より高橋元吉療養のため鎌倉に来住、旧交を温める。
53 56
1959 昭和34年 1月1日、秀雄、熱海市錦町東龍別館より→吉野とみ子宛てに手紙を送る。 全集8 No381
賀春 己亥元旦
静かな宿で浴室もきれいで咳も減り右足の神経痛も軽くなりああ思ひきって来てよかったとよろこび居ります。熱海の夜景は実にうつくしく年を惜しむにふさはしいものでした。元朝は細雨  部屋の下の紅梅がぬれてゐます。広間の隅でもかまはぬからいま二泊させろと交渉中です。
1月、秀雄、五味智英のNHKテレビ「萬葉集講座」にゲストとして出演する。
1月、秀雄が担当した「会津八一全集 第5巻(中央公論社)」が刊行される。
1月26日、『吉野秀雄歌集』により読売文学賞を受賞する。
1月30日付、秀雄、→鈴木春雄宛てに手紙を送る。    全集8  No382
拝復。受賞についてのおことばありがたう存じました。これから又しっかりやるつもりです。短冊は遠からぬ将来にかいて送ります。鮭のうたにでもしますかな。--いくぶん俳味がありますから。四月二十九日(天皇誕生日)当地瑞泉寺(ズヰイセンジ)でみそさざいの会ひらくよしで、すでに申込みおきました。どうかいらして下さい。そして拙宅にもお寄り下さい。今日はこれから出京してテレビ(教育)明日は又出京して講演(読売)、原稿もいそがしくやりきれません。マスコミは□しく、これにまき込まれては命がたまりません。出来るだけ「自由」と「独立」をむしばまれることなく、歌作に専念したいと期してをります。貴兄の御元気と句境の進展を心からいのり居ります。匆々。
1月31日、秀雄、東京読売ホールに於いて「読売文学賞」受賞者の講演会が行われる。
2月、秀雄、「在家仏教 二月号」に「一茶とその生涯 ー現代に生きる経典ー」を発表する。
3月30日、秀雄が、草野心平編「高村光太郎研究 筑摩書房p233〜244」に「高村光太郎の短歌」を発表する。また、同号に北川太一が「高村光太郎年譜」を編む。pid/1358430
(略・詩と歌)の最も密着した例として、「蝉を彫る」といふ詩を挙げて吟味してみつことににしよう。



蝉を彫る高村光太郎
冬日さす南の窓に坐して蝉を彫る。
乾いて枯れて手に軽いみんみん蝉は
およそ生きの身のいやしさを経ち、
物をくふ口すらその所在を知らない。
蝉は天平机の一角に這ふ。
わたくしは羽を見る。
もろく薄く透明な天のかけら。
この蟲類の持つ靈氣の翼は
ゆるやかになだれて迫らず、
黒と緑に装ふ甲冑をほのかに包む。
わたくしの刻む檜の肌から
木の香たかく立って部屋に満ちる。
時處をわすれ時代をわすれ
人をわすれ呼吸をわすれる。
この四畳半と呼びなす仕事場が
天の何處かに浮いているやうだ。

 この詩の第二・第三行は、前に掲げた蝉の歌の(四〇)にそっくりの感覚だ。また第四行は(四一)に相當し、第十一・第十二行は(四六)に少なくも半分は類似する。しかしながらまた、ものの本質を見分けるこののできる人には、この詩この歌において共通するのは素材だけの話で、おのおのの構造による表現の根本には、まるで別物だといふ點に氣づかぬわけはなかろう。歌は蝉を観察して一つの内容を捕捉し、これを截然とした世界に定着させてゐるし、詩は歌の内容を単なる蝉の属性として□々と疊み込み、そして最後に、「時處をわすれ時代をわすれ/人をわすれ呼吸をわすれる。/ この四畳半と呼びなす仕事場が/天の何處かに浮いているやうだ。」といふイマージュの世界へまで引き連れて行く。いづれがいいわるい、いづれが上だ下だではなく、歌には歌の呼吸があり、詩には詩の呼吸があるといふものだ。つまり高村さんは詩をよく知り、歌を十分知るが故に、二者を甄別(けんべつ)し、詩を歌の延長とせず、歌と詩の斷片としなかったのである。(略)
 詠作年代不明の高村さんの歌に、
 
山ゆきて何して來る山にゆきてみしみしあるき水のんでくる(七一)
といふのがある。この
希世の高士は、彫刻と詩の外に、短歌の世界をも濶達自在に「みしみしある」いた。この人をも素人とし、この歌をも餘技とするやうな態度がかりそめにも歌よみの側にあるならば、それこそ短歌を毒する玄人ぼけといふものにすぎぬのではなからうか。
甄別(けんべつ):はっきりと見分けること。
希世(きせい):世にまれなこと。世にまれなほどすぐれていること。
高士(こうし):1 志が高くりっぱな人格を備えた人物。人格高潔な人。 2 世俗を離れて生活している高潔な人物。隠君子。
濶達(かったつ):度量が大きく、小事にこだわらないさま。
参考
生きの身のきたなきところどこにもなく乾きてかろきこの油蝉(四〇)
どこに口があるかわからぬこの蝉に何をあたへんあたふるものなし(四一)
檜の香部屋に吹きみち切出の刃さきに夏の雨ひかりたり(四六)
4月17日〜19日、富岡にて掛軸・扁額類の個展を開く。
4月16日、秀雄、新潟に至り、NHK教養特集番組のために「伝統と文化」と題して講演、同月30日に放送される。
4月下旬、秀雄、喀血が続き、年内は専ら療養に努める。
7月、秀雄、「墨美 (88) 墨美社」に「文化と伝統について-良寛と会津秋艸にちなんで」を発表する。 pid/2362631
7月30日付、秀雄、「北海道新聞」に「与謝蕪村の涼味」を発表する。
8月。秀雄、病床を出でて高知に赴き、夏期大学のために「会津八一全集」読後感について講演し、また町田雅尚と共に物部川上流に旅す。帰りて療養する。 「陽壮年譜」
南国の秋   (全) 九首
高知の朝市  二首
亡き友のたかしが詠みし句のままにお城さやかに市(いち)の菊薫る
横波三里   三首
秋の室戸岬   四首
岬より荒海へ向き戦死者の墓はあたらし三百基とぞ
水の如く  (全) 三十首
心暗きあけくれに 十八首
南国土佐のメロデイを口ずさみつつ肺手術入院に子は出で行くよ
八月中旬病床を出でて高知に赴く
 六首
物部川の川上へ向ふ途中はからずも吉井勇の旧居を見る  六首
雨戸繰りてのぞく伏庵(ふせいほ)荒れにけり囲炉裏に残る石の如き灰
風狂の果てといへども山住みをここと定めし心はあはれ
8月、秀雄、「二玄社版『高村光太郎書』」に「解説・高村光太郎の書」を発表する。
10月28日、長男陽一肺の手術を行う。
12月1日、長男陽一、再手術を行う。
12月23日、長男陽一、三回目の手術を行う。
12月25日、重吉の新たに発見された詩稿を編んで「花と空と祈り」を再び弥生書房
から刊行する。
  
  花と空と祈り


〇この年、秀雄、「晩秋の大和路  (全) 十四首」の歌を詠んで「含紅集」に載せていたが、ご本人の体調や陽一さんの手術のことなどもあり、新たに奈良へ行かれたかは検討の余地あり。配列の順序については「後記」からも読みとれました。  2020・2・12 保坂
54 57
1960 昭和35年
1月1日、秀雄、NHK第二放送にて、河田順・松村英一両氏と新春歌談「私の好きな歌」が放送される。
月、秀雄が「Books (117) Booksの会」に「書評「良寛全集」のこと 」を発表する。  pid/3541522
1月下旬、秀雄、昭和22年8月に刊行した「鹿鳴集歌解」の書き直しにかかる。
1月27日、秀雄、「佐藤耐雪翁逝く 三首」の歌を詠む。
三十五年一月二十七日八十五歳永眠
禅師(ぜじ)の心世に伝へまく一
(いつ)以て貫きし君さやけきもあるか
二十代
(はたちだい)の名無きわれにもねんごろに酒を賜ひき耐雪翁な
    
ねんごろ:(懇ろ):《「ねもころ」の音変化》1 心がこもっているさま。親身であるさま。 2 親しいさま。特に、男女の仲が親密であるさま。
久駕美山に君と登りし若き日よわれさへ齢(よはひ)傾きにけり
1月、秀雄、「芸術新潮 一月号」に「日本美を開眼させる三章」を発表する。
  
    注 (全体が二十一章からなり、そのうちの三章を受け持つ・全集4 解説より)
2月、秀雄、潮会萬葉集講座が満六年をむかえる。
2月3日、秀雄、遺言を作成する。
2月初旬、秀雄、中村琢二ほか三人と伊豆安良里へ四日間旅する。
2月下旬、秀雄、都下東村山町萩山の上村占魚居を訪ひて一泊、占魚、佐藤佐太郎夫妻と狭山湖にて鴨猟す。
狭山の鴨猟  十一首
狭山湖(さやまこ)の奥の鴨場のここに会ふひそけき春を省みにけり
さきはひはかくの如きか占魚居に写生を論じ酒呑み足らふ

   
幸ひ: 読み方:さいわひ、さきわひ、ちわひ、ちはひ、さきはひ
2月、陽一、四回目の胸部手術が行われ重体の日々が続く。
3月、秀雄、筑摩書房依頼のあった『大愚良寛小伝』の58枚を脱稿する。
3月、秀雄、若尾和呂夫妻と美濃多治見・土岐市なる妻木→下石→駄智の各町を巡り名古屋にて武田初与夫妻と会する四日間の旅を行う。 
随所即詠 (全) 二十五首
虎叡山永保寺 十六首
雨降らぬ冬をすごしし臥竜の池澱(よど)みは暗く水ぬるむらし
  臥竜(がりょう):1 臥(ふ)してうずくまっている竜。
          2 天にも昇る勢いや能力をもちながら、じっと横になって寝ている竜。すぐれた能力をもちながら、世に知られていない人物。
須賀幸造がここに励みし禅堂に土岐の瀬音を聴くはむなしき
妻木  五首
安良里にて  四首
3月、秀雄、甥金井道夫を伴い三浦三崎の本端寺の松本たかしの墓に詣で、後、城ケ島に渡り、移転後の白秋歌碑を見る。
3月下旬、秀雄、日本短波放送より「盤桂和尚と私」を放送する。
4月、秀雄、尾山驚二郎・田辺操・加藤富美子・妻とみ子ら十二と共に瑞泉寺にて花見の会を催す。
4月中旬、秀雄、三浦三崎に至り、白秋歌碑・梁田貞音楽碑の移転式及び除幕式に列席、白秋夫人と話す。
4月23日、秀雄、妻とみ子を伴い、英勝寺→寿福寺に赴き虚子の墓、米川稔の墓に詣でる。
4月29日、秀雄宅にて、NHK地方番組による「私の土佐日記」と題する番組取材が行われる。
6月4日、秀雄が「古典日本文学全集 第21 (実朝集,西行集,良寛集)
筑摩書房」に「良寛集 吉野秀雄評釈 ・大愚良寛小伝」を分担発表する。pid/1661320  
6月10日、角川文庫『吉野秀雄歌集』が刊行される。
6月12付、秀雄、「越後タイムス」に「金沢文庫の兼好展/
原題「初夏の散歩」」を発表する。
7月14日、鎌倉瑞泉寺に墓地を定める。
7月、秀雄、「みそさざえ 七月号」に「「風雅の誠」について」発表する。
8月、秀雄、「みそさざえ 八月号」に「「風雅の誠」について」発表する。 
関連番号の有無については未確認
11月21日、武蔵野上石神井・法融寺にて会津八一五周忌法要に参列する。
     同日、境内に建立された道人歌碑の除幕式も行なわれる。

12月、秀雄、潮会萬葉集講座第十巻を終える。
12月18日付、「越後タイムス 柏崎より」欄に「錘≠ェ母校野田小学校に図書館を寄付」と題された新聞記事が掲載される。
(本文)郡内黒姫村野田小学校(堀井校長)に四間×八間三十二坪の鉄筋コンクリート建図書館が個人寄付でこのほど建築されることになりました。この寄付者は同地出身の東京吉野藤遂g之助社長で、金子黒姫教育長の話では二百三十万円ほどが見込まれております。学校図書館の寄付といえば、古五十嵐与助翁が大洲小学校に百三十円を贈り立派な施設ができたことを思い起させますが、錘≠フ寄付はこれを大きく上回る額であり、郡市内小学校では唯一のものとなろうと期待されています。
12月、秀雄、若林泰雄らと伊豆湯ヶ島・湯川屋に投宿、国士峠(こくさんげ)に登り、浄蓮の滝を見て帰鎌した三日間の旅を行う。
12月、秀雄、「芸術新潮 十二月号」に「モダンな古仏たち
 −日本彫刻名宝展を見て−」を発表する。
〇この年、秀雄が、安田靱彦監修「良寛・遺墨集 筑摩書房」に「良寛の歌について」を発表する。pid/8799227
〇この年
(?)の秋、甲斐を訪れ「甲斐の葡萄園/甲斐の秋 (全)二十首」の歌を詠む。 
甲斐の葡萄園 (全)十首/六首
歩み入りし葡萄の園に白き卓白き椅子ありわれを寄らしむ
勝沼よりバスにて甲府に至り旧友
須賀幸造)の墓にまゐる  四首
君が墓たづね来(こ)しかどすべもなし飲み残し持てるぶだう酒そそぐ
甲斐の秋
 (全)十首 
塩山より恵林寺を訪ひて古庭を観る 七首
池水に梯子(はしご)を立てて滝口の差し出の松を庭師手入れす
古寺を保つ経費
(いりめ)も思ひつつ林泉(しま)に刈り込む庭師らを見る
勝沼の葡萄園に憩ひて 
 三首
かもかくも今日の安らぎよ葡萄食(は)み葡萄酒すする葡萄棚の下
                 
 「含紅集」・時期再調査要 2020・1・13 保坂
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1961 昭和36年 1月28日〜29日、深田久弥・島村茂雄・田村鬼現・上村占魚ら9人と茨城県大洗に遊び、親鸞・唯円の遺跡(稲田山西念寺・清寿山報仏寺)を巡る。
常陸大洗にて  五首
大洗の宮の前なる磯鳥居浪かぶりては海中(わたなか)に立つ
(むら)千鳥歩む磯部の岩に附く石〔サ〕(あをさ)の青ぞ冬の冴えなる  〔サ〕 草+専
常陸の野寺  (全) 二十六首
赤塚の近くに報仏寺あり  四首
再興の報仏寺すら崩(く)えむとす唯円房(ゆいゑんばう)が在(ま)ししあとどころ
河和田の唯円と呼べき歎異抄
(たんいせう)つづりし人ぞこの里の人
河和田の姓を継ぎ来
(こ)し老いの僧檀家はわづか十二戸と侘ぶ
数丁先きなる畑なかに道場の跡残れり
   十首
稲田へ廻りて西念寺に詣る。親鸞庵居の地なり  七首
慕はしき心一途
(いちづ)に訪ひくれば稲田の森は寒(かん)の夕凪(ゆうな)
大洗にて。その他
  五首
2月1日、「文藝春秋 二月号」に「瑞泉寺早春」と題し七首を発表する。
あなさやか睦月(むつき)の園の水仙を分け分けあゆむしだり尾の鶏(とり)
峯上
(おのへ)なる一覧亭の椎は見よ天(あめ)あたらしきひかり直射(たださ)
マタの薄黄の花に寄り立たな時はまだしき梅園(うめぞの)の奥
山水
(やまみづ)に寒晒(かんざら)しせる梅干の笊(ざる)さむざむと暮れかかり来つ
(を)せという松の実を噛め酌めといふ酒に酔ひけり君がまにまに
みづからの手に培
(つちか)ひて冬青き信濃野沢菜を君はもてなす
唐紙に凍
(こご)えてすがる馬追蟲(うまおひ)の透き色凄し夜も更けし灯に
しだり尾:しだ・り【垂り】細かい枝状に分れて、長く下方に下がる。長く垂れ下がる。
       あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂

時はまだしき:まだその時に達していないさま。まだ早い。未熟だ。
まにまに:他人の意志や事態の成り行きに任せて行動するさま。ままに。まにま。
馬追蟲:キリギリス科の昆虫。雄の鳴き声はスイーッチョと聞こえ、馬子が馬を追う声に似る。すいっちょ。
2月9日〜11日、3回にわたりNHKラジオにて「良寛の愛」について放送する。
2月、秀雄、草津に旅する。上野駅にてスキー行の深田久弥夫妻にたまたま出会い同行、高崎より乗車せる上村占魚ともども草津の大阪屋に宿泊する。
2月、秀雄、亀井高孝・大佛次郎・高田博厚らと小山富士夫を囲む会を開く。
3月、秀雄、山本健吉講師のNHK教育テレビ「日本の文学「会津八一」」にゲスト出演する。」
3月26日〜28日、秀雄、伊豆湯ヶ島に旅し、湯川屋に二泊する。
4月、秀雄、「淡交 四月号」に「一条恵観公山荘拝見の記 −私の好きな茶室−」を発表する。
5月、秀雄、群馬県館林の女子高校にて講演する。翌日、富岡に至り弟三郎に会う。
6月4日付、「越後タイムズ」に「黒姫に吉野秀雄氏の歌碑」と題された記事が掲載される。
(本文・写真略)歌人吉野秀雄氏の歌碑が黒姫村故嵩。吉氏邸の庭に建てられてある。嵩。吉氏は吉野氏の伯父に当たる人、かやぶきのゆったりした母屋の前にひろがる庭には老木の木立が、初夏の光をさえぎり、落ちついた雅味あるたたずまいを見せていたが歌碑は、この一隅に建てられてある。
 越の
鄙この家に春の残りゐてわが背よりも高し大手毬の花
 わが伯父もわが母もこよひ仏壇より酒に酔ひ痴るる我を見まさむ

       ※鄙(ひな):いなか。都を離れた土地。鄙(ひな):いなか。都を離れた土地。
昭和二十九年、野田を訪れた吉野氏の歌、建立は遂g之助氏(吉野藤社長)緑こく染めあげられた庭木立の枝ぶりの中で、ただ一つ、入り口の大手毬の白い大輪が咲きくずれて、こけむす土の上に落ちていた。【写真はその歌碑】
6月17日〜19日、秀雄、伊藤に至り「笛」の句会を傍聴、高野素十・島村茂雄・田村鬼現・岩見静々・松本つや女らに会う。
6月、秀雄、「藤蔓通信 六月号」に「蕪村夏季句抄」を発表する。
7月4日〜9月26日迄、NHKラジオより13回にわたり「万葉の詩情」を放送する。
7月、秀雄が「大和文華 = Semi-annual journal of eastern art (35)
大和文華館」に「沙門良寛の歌の真価 」を発表する。 pid/7934569
7月、三浦半島荒崎に日本歌人クラブの中村正道・生方たつゑ・阿部静枝・呼子丈太朗らと赴き一泊する。
9月3日付、「越後タイムス」に「吉野藤錘ミ長寄付の野田小図書館できる」と云う見出しで掲載される。
(本文)吉野藤社長遂g之助氏の寄付になる黒姫村野田小学校図書館がこのほど完成しました。工費三百万円、鉄筋コンクリート四間×八間の平屋建て、おそらく独立した学校図書館建物としては、郡市内小中学校でもっとも立派なものではないかといわれています。竣工の記念式典は、寄付者の錘≠フ都合をまって行われることになっています。
9月25日、日本出版クラブにて伊豆書房・若林泰雄の会を催す。(参会者:三枝博音・上林暁・淀野隆三・和田芳恵ら総勢9名)
10月15日〜17日、秀雄、伊豆湯ヶ島に至り湯川屋に投宿、2泊する。
12月10日、秀雄、NHK総合テレビ番組「心と人生」にて「歌よみと人生」と題して放送する。
12月24日〜26日、伊豆湯ヶ島に至り投宿する。翌25日、三枝博音・上林暁・淀野隆三・大竹新助ら総勢二十余名が参集、猪鍋を囲みて歓談する。
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1962 昭和37年
2月3日、鶴岡八幡宮節分会に年男として舞殿にて豆を撒く。
3月より、病に臥せる。
3月2日、中村琢二が紅梅の枝を持ちて来訪する。
4月14日、次女結子、半沢茂夫に嫁す。
4月21日付、秀雄、「産経新聞」に「鎌倉の大仏」を発表する。
5月、糖尿病の悪化を言い渡される。
6月中旬、三浦三崎水産高校の校歌を作詞する。
7月中旬、藤沢市立六会(むつあひ)中学校を作詞する。
8月12日、実朝祭歌会に出席すること能はず、飯岡幸吉・山崎方代ら歌会の帰りに立寄る。
11月上旬、中村琢二の「画室の女」が文部大臣賞を受賞する。
12月26日、陽一、「瑞泉寺境内名所絵図」を作り大下豊道(第二十八世住職)のもとに渡す。
    ※「瑞泉寺境内名所絵図」は残念ながら現存しないことを確認する。  2019・12・23 確認済 保坂
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1963 昭和38年
1月、秀雄、「越年前後  三十首」の歌を詠む。
二階より独楽の唸りの聞ゆるなり三十二歳病める子がまはす
子に借りて臥処
(ふしど)にわれも廻すかな古国(ふるぐに)伊勢の竹鳴(たけなり)の独楽
2月、『短歌二月号』に歌三十首載る。
2月4日付、「毎日新聞」夕刊に秀雄著、「あるがままの人生」が掲載される。
3月26日、父藤一郎の顕彰碑、高崎市立南小学校の庭に建立される。
5月5日付、秀雄、「サンデー毎日 五月五日号」に「国宝二点」を発表する。

6月10日より『毎日新聞』夕刊に秀雄著、「心のふるさと」の連載が始まる。
8月19日より、三回にわたりNHKラジオより秀雄著、「心のうた」が放送される。
8月21日、秀雄、「中村琢二、このたび買ひ入れしオースチンに余と陽一を乗せ、長子中村良太の運転にて鎌倉山に至り、はじめて結子の家を見る。余降りられず、江ノ島へ出、馬入川まで行きて戻る。」
9月1日、中村琢二父子と葉山より三浦三崎・城ケ島へドライヴ、陽一同行す。
9月2日、結子退院し、はじめて孫を見る。龍太と命名する。
11月9日、横須賀線鶴見事故にて三枝博音被災死亡の報に驚愕す。
11月12日、とみ子、北鎌倉円覚寺内帰源院で三枝博音の葬儀に列す。葬儀の帰り、伊豆湯ヶ島の安藤「湯川屋」主人、大竹新助が、葬儀の帰りに来訪す。全集・年譜
11月21日、亡妻はつ子の母、栗原ゑんが逝く。(享年86歳)  全集・年譜
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1964 昭和39年
1月13日、「毎日新聞」に秀雄著、「良寛の(愚)について」が掲載される。
3月18日、瑞泉寺豊道和尚が来訪、書院落成せるよし聞く。 全集・年譜
4月1日、壮兒、日本リサーチセンターに就職す。
4月2日、陽一、私立三浦高校に週2日絵の教師として勤め始める。
4月21日、『短歌研究』へ百首、『短歌』へ三十首を作る。
4月、秀雄、「芸術新潮 四月号」に「久方の光のどけき −宗達「西行物語絵巻」−」を発表する。
10月11日・17日・25日付、秀雄、「越後タイムス」に「勝田忘庵翁を憶ふ」を連載する。
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1965 昭和40年
1月28日、高橋元春、鵠沼松ヶ岡にて逝去。
2月26日、瑞泉寺豊道和尚来りて、余と陽一と作りし境致図を染めし布巾をもたらす。 
全集・年譜
2月、秀雄、「藤蔓通信 二月号」に「凡兆の俳句/
原題は「きさらぎ随想」」を発表する。
3月20日、秀雄、吉田絃二郎 著,土村正寿(絵)「良寛
ポプラ社 (世界伝記全集 ; 4)」に「〔解説〕良寛和尚の一生」を脱稿する。  pid/1655203
3月29日〜30日、前橋煥乎堂書店画廊にて個展を開催する。
4月8日、秀雄、虚子七回忌に参列の途次、四国の町田雅尚・上村占魚来訪す。 全集・年譜
5月12日、陽一(35歳)、横須賀線車中にて突然精神的転機ありしよし聞く。 全集・年譜
5月19日、陽一、乱心す。 全集・年譜
6月8日、半沢茂夫・結子一家引越し来る。 全集・年譜
10月22日、医師より糖尿病非常に悪しといはる。 全集・年譜
10月23日、秀雄、旧城山町都井沢加藤家の墓地に、小説家加藤武雄の墓文字を画く。全集・年譜
12月15日、遂g之助亡くなる。
60 63
1966 昭和41年
3月23日、秀雄、松本たかしの墓誌銘書きて三浦三崎本端寺へ送る。 全集・年譜  「陽壮年譜」
      注:昭和33年10月の項にも同様な記述があり、解説が必要 2019・12・15 保坂
4月2日、半沢一家と車にて花見に行く、長谷大仏・鎌倉山・片瀬・由比ケ浜・厨子・金沢八景・三浦三崎・葉山を巡る。
4月9日、加藤武雄文学碑除幕式、県下津久井郡城山町にて行はれ、とみ子出席す。 
全集・年譜
7月6日、陽一、入院以来はじめて外泊を許されて帰宅す。
 全集・年譜
8月8日、陽一、再び外泊を許さる。 
全集・年譜
8月15日、秀雄が激しい心臓発作を起こす。
9月16日、自身の墓文字を揮毫する。
12月31日、陽一、外泊を許されて帰宅す。 
全集・年譜
〇この年、吉野秀雄著「やわらかな心
講談社」 が刊行される。  pid/1672931
〇この年、秀雄、「含紅集・病床雜咏」の項に、「四十年五月の半ばわが家に出来事があった」(23首)と題し、特にの歌を詠む。全集・年譜
病床雜咏四十年五月の半ばわが家に出来事があった 23首(全)
永病みの足立たぬわが目の前にあるべきことか長男狂ふ
わが生
(せい)ももはやこれまでか二階より放火を叫ぶ子の声ぞする
うづたかく積めるおのれの油彩画に火を掛けしより正気
(しょうき)戻らず
老いて病むこのわれを捨て放(ほふ)らかし勝手気随に倅(せがれ)は狂ふ 
ヴェトナムの戦(いくさ)鎮めに出で立つと勇むに苦笑すれど嗤(わら)へず
気ぐるひのわが家(や)に生じ投げつけし枠付画布は梢(こずゑ)に白し
狂ふ子を警官等抑へ連れ去りぬいかになりゆくや子とわれと妻
事の事後飯岡幸吉訪ひ寄りつあやしかりけむ家の内外
(うちそと)
県知事への減額嘆願書ゆうべ纏め今朝は高校の辞職届書く
肺手術八回ののち小康も束の間にして子は狂気する
幼くして若くして子が苦しみし病気数無くつひに狂ふよ
恐しき一事ありわれも妻も死にて狂ひし子のみひとり生き残る
念仏に救ひのありや得分かねど掻
(かい)すがるほかはなくて唱ふる
称名に安心
(あんじん)はなし揺れやまぬかなしき心うながせば申す
訪ふ人の悔みを述ぶるかにいへばわれも喪に居る如く応対す
狂ふとも命よりたふとしとわれみづからにいひきかせども

不安きざすほどの幸福もありとかや逆運にして拉(ひし)がれ通す
從前の涙は虚事といふに似てわけのわからぬ涙夜半に湧く
聯想は畏
(かしこ)かれども冷泉(れいぜい)の帝(みかど)の狂気親しくおもふ
気ぐるひしみかどの歌ふ惨
(すさま)じき声に出家しき右兵衛佐佐理(うひゃうゑのすけすけまさ)
いまのわれの僅かたのしむは冷蔵庫にひやせる水を呷
(あふ)り飲むこと
芝の上の餌台
(ゑだい)に雀飛び交(か)へり気狂ひのなきものら明るく
狂院の子がためにもわが病床
(やみどこ)にいとなむ仕事殖(ふ)やさねばならぬ

61 64
1967 昭和42年
2月10日、陽一、外泊を許されて帰宅す。 全集・年譜
    同日、随筆集「心のふるさと」が筑摩書房から刊行される。
見出し 掲載日付 見出し 掲載日付 見出し 掲載日付
唐招提寺の鑑真和上像 38・5・5 興福寺の龍燈鬼 39・4・1 東大寺の重源上人像 40・1・12
清拙正澄遺偈 6・10 東大寺の誕生釈迦仏 4・6 東慶寺の水月観音像 2・19
鎌倉大仏 6・19 東大寺の不空羂索観音立像 4・13 虚堂智愚墨蹟 2・25
大愚良寛書「愛語」 6・24 固山一鞏墨蹟 4・20 忍性律師五輪塔 3・4
高山寺の明恵上人坐禅図 7・1 浄瑠璃寺の九体阿弥陀 4・27 円応寺の鬼卒像 3・10
鶴岡八幡宮の弁才天坐像 7・8 覚園寺の薬師三尊坐像 5・4 証菩提寺の阿弥陀三尊像 3・16
足利尊氏清水寺願文 7・22 無学祖元の墓塔 5・11 過去現在因果経 3・26
親鸞上人画像 7・29 常盤山文庫の聖観音立像 5・25 東大寺門額 4・1
金戒光明寺の山越阿弥陀図 8・5 玉虫厨子の捨身飼虎図 6・1 仙高フ豊干図屏風 4・15
道元の普勧坐禅儀 8・12 法華寺の十一面観音立像 6・8 妙法院の風神雷神像 4・29
興福寺の阿修羅像 8・26 弘法大師の潅頂記 6・15 宇治橋断碑 5・11
薬師寺の聖観音立像 9・2 中尊寺の一字金輪坐像 7・1 法華寺の維摩居士坐像 5・23
杉本寺の十一面観音立像 9・9 伝橘逸勢の伊都内親王願文 7・6 拙庵徳光墨蹟 6・6
正倉院の麻布墨絵仏像 9・16 興福寺の乾闥婆像 7・13 夢窓国師墨蹟 6・13
瑞泉寺の夢窓国師像 10・1 旧山田寺の仏頭 7・27 因陀羅の布袋図 6・20
秋篠寺の伎芸天像 10・7 盤珪和尚墨蹟 8・3 平家納経 6・27
覚園寺の大宝篋印塔 10・27 那智滝図 8・14 伝曽我蛇足の臨済図 7・4
一休和尚墨蹟 11・5 土佐の柴折薬師 8・19 送海東上人帰国図 7・11
東大寺の金銅大燈篭 11・12 法隆寺五重塔落書 9・1 絶海中津書唐詩 7・18
大燈国師墨蹟 11・18 一山一寧墨蹟 9・6 清凉寺の釈迦如来立像 7・25
薬師寺の東塔 11・25 法隆寺天蓋付属の天人 9・15 西行の一品経和歌懐紙 8・1
法隆寺の夢違観音像 12・2 光明寺の当麻曼荼羅縁起 9・21 清滝権現画像 8・8
隅寺心経 12・9 弘明寺の十一面観音立像 9・29 法界寺の壁画飛天 8・22
孝謙天皇の百万塔 12・16 光触寺の阿弥陀三尊像 10・5 信貴山縁起絵巻 8・29
覚園寺の黒地蔵 12・23 浄妙寺の退耕行勇坐像 11・2 花園天皇画像 9・5
浄瑠璃寺の吉祥天立像 39・1・6 可翁の寒山図 11・10 普賢菩薩像 9・12
寿福寺の栄西禅師像 1・24 如拙の瓢鮎図 11・17 仏鑑禅師墨蹟 9・19
元興寺の薬師如来立像 1・27 雪舟の慧可断臂図 11・23 慈恩大師像 5・26
唐招提寺の如来形立像 2・6 子元祖元墨蹟 12・1 釈迦金棺出現図 10・3
道鏡自筆の牒 2・13 聖一国師遺偈 12・8 後白河法皇奥書 10・10
病草紙 2・24 六波羅蜜寺の空也上人像 12・21 阿弥陀聖衆来迎図 40・10・17
信海の不動明王像 3・2 牧谿の鶴図 40・1・5 深大寺の釈迦倚像  未掲載
一休和尚画像 3・9 兀庵(ごつたん)普寧墨蹟 1・11 薬師寺の仏足石歌碑  未掲載
慈雲尊者墨蹟 3・16 江ノ島の弁才天坐像 1・28
白隠の[ビ]猴(びこう) 3・23 円応寺の初江王坐像 2・5
あとがき」(末尾の部分)
(略)
昭和六年以来鎌倉に住み、ここの美術もしぜんに見てきた。さういふものを思ひ出しつつ、選びとっては書いた。実物を知らずに書いたのは、墨蹟類に少しあるのを別にすると、一、二しかなく、それは文中にその旨断ってある。(略)わたしは昭和三十七年春以来の病人で、殊に病の一つに双脚のリューマチがあって動く自由がなく、わが家の書棚から本を探し出すことにさへ、苦労しつづけた。この一事がわたしにはいちばん印象が強い。しかしともかくここに出版される運びとなったことを心からよろこんでゐる。/(略)
 注 日付について 「あとがき」に「(編集部註・各篇末尾の年月日は毎日新聞掲載の日付をあらはす)」と添書あり。 2019・11・21 保坂
2月19日、日通伊豆富士見ランドにて、余の歌碑除幕さる。「四季の富士」といふ一石四面銅板はめ込みの歌碑なり、壮兒夫妻・半沢一家列席し、孫龍太、除幕のリボンを引く。全集・年譜
注:1966年(昭和41年)、日通伊豆観光開発の運営による、「日通伊豆富士見ランド」として開業、その後、来園者の減少に伴い、1999年(平成11年)に閉鎖された。こうしたこともあり「歌碑」もその使命を終え、令和元年7月、第52回艸心忌において、取り外された銅板の四枚が法要の行われた瑞泉寺書院の床の間に展示されました。 保坂

      注 銘板の配列についてはどのような状態であったかは不明のため注意要 2020・1・19 保坂
3月31日、陽一退院す。全集・年譜
4月1日、紅梅学園の菅寿子園長来りて、陽一の職員となる件につき相談す。
全集・年譜
4月16日、角川書店の石本隆一より電話あり、「第一回釈迢空賞」を余にくるよし、受諾す。
皆吉爽雨
  同日、蛇笏賞を受賞する。全集・年譜
5月10日、陽一、職員として厚木の紅梅学園に入る。 
全集・年譜
5月、秀雄が伊藤呆庵著「伊藤呆庵歌集
野島出版」に序文を寄せる。  pid/1348179
参考:序 吉野秀雄 /呆庵歌 三百五十三首 / 松之山温泉 二十四首 / 寒蝉集を読む 五首 /母を憶ふ歌 十八首 / 晩春月岡温泉 九首 / 初冬月岡温泉 五首 / 森哲四郎氏を訪ふ 八首 /出雲崎にて 四首 /冬の和倉温泉 十二首 /清流五十嵐川 八首 / 九州に旅して 五首 / 新春伊夜日子の宮 六首 / 越の千崖を偲ぶ 五首 / 良寛和尚を讃ふ 十二首 /鎌倉行 初めての折 七首 / 鎌倉行 次の折に 五首 / 鎌倉行 三たび目 六首 / 江之島行 七首 /甥をいたむ歌 四首 / をみならの歌 十一首 / フードセンター再建 九首 /み墓べに 七首 /酒を讃ふ 六首 /曽祖父五十回忌 五首 /亡児七郎を偲ぶ 四首 / 直志を悼む歌 十三首 /まちづくり 六首 / 近火 五首 /信濃路の秋 六首 /出土の埴輪女 五首 /吉野先生と呆庵 十二首 /金婚の賀 四首 /父と母 三十三首 / 妻の歌 十五首 / 孫の子ら 十一首 /をりをりの歌 四十二首 / 心ごころ 九首 /あとがき /
6月2日、釈迢空賞受賞式。とみ子・壮兒・半沢茂夫を市ヶ谷私学会館へ遣はす。 全集・年譜
6月11日、陽一・壮兒夫妻・半沢一家集ひて、釈迢空賞受賞の祝をなす。 
全集・年譜
7月13日、吉野秀雄沒(65歳) 
戒名 艸心洞是観秀雄居士
10月、「短歌. 14(10) 
追悼吉野秀雄特集 角川書店」が刊行される。  pid/7899072
最後の歌 十六首   吉野秀雄 / 吉野秀雄君に敬服す  里見ク /思い出二つ三つ 小島政二郎 /吉野さんの近著 川端康成 /にくい奴 大佛次郎 /美しい行為 草野心平 /二度の旅 深田久彌 / 死と隣りあわせ 和田芳恵 /吉野秀雄氏の文芸 宮柊二 / 一種の風格  佐藤佐太郎 /吉野先生の酒と旅との思い出二つ   大竹新助 /吉野さんの書 小竹久爾 /會津八一と吉野秀雄  松下英麿 吉野秀雄と松本たかし 皆吉爽雨 /より添う人 料治熊太 /吉野秀雄のこと 宮川寅雄 / 万葉集と歎異抄とをむすぶ 西郷信綱 / 吉野さんの眼 中村啄二 /信の人吉野秀雄氏を憶ふ 津曲淳三 /「短歌百餘章」など 赤松大麓 /『寒蝉集』前後 江藤淳 /吉野秀雄ずいもん 上村占魚 /鎌倉の夏の雲 石川宮子 /吉野秀雄と松岡静雄 松岡磐木 /学友吉野秀雄君を偲ぶ 金子佐一郎 / 気力尽きるまで 半沢結子 /含羞の人  吉野壯兒 /作品 五十首 七月十三日以降   安立スハル /作品 五十首 方代の歌   山崎方代 /最後の日記 自六月二十三日至七月十一日   吉野壯兒 /吉野秀雄著書解題   斎藤正二 /吉野秀雄年譜   吉野壯兒 /(以下・略)
注 ※
吉野秀雄年譜   吉野壯兒」:国会図書館デジタルコレクション 目次欄の表記をそのままに写したが、実際は 「吉野陽一 吉野壯兒編」とあったので注意  2019・11・24 保坂
10月、「短歌研究. 24(10) 短歌研究社」が刊行される。 pid/7889737
(略)/最後の歌 未推敲原稿   吉野秀雄 /吉野秀雄臨床記   吉野とみ子 / (略)/
11月20日、故吉野秀雄、編者吉野とみ子・吉野陽一・吉野壮児「歌集 含紅集」が弥生書房から刊行される。
 
   含紅集 扉
あとがき/(前中略)<含紅>といふ集名は、この「あとがき」を書かうとした今日の病床の嘱目にもとづく。−芝生の庭には初秋の細雨がけむり、その向うのやや荒れた歌壇や植込みの下には、大毛蓼や緋衣草や紅蜀葵などの赤い花が目につき、淡紅を加へれば芙蓉の花も咲いてゐる。老後の歌集なので今度は逆に色の派手な<紅>の字を用ゐようかと漠然と考へてゐたことが、偶然オホケタデの花穂の<紅>と結びついて、一瞬成就したわけだ。昭和四十一年九月八日吉野秀雄 謹記
追記ー九月八日以後の歌も最後に添へてゆくつもりだが、命終までのものまで入るかどうかは、もとより予知しかねる(十月九日早暁)

附記かねて彌生書房との約束で歌集出版のことは決まっていたが、この「あとがき」を記してのちも、本人としてはもう一度目を通してからと思いつつも病勢好転せず、遂に四十二年七
月十三日没し、定稿として渡すことができなかった。まことに残念ではあるがやむことを得ない。一切は遺された妻子の手に委ねられたわけである。万全を期したいが、どの程度故人を満足させるものが出来るであらうか。題名は。はじめ『紅露集』、後に『紅蓼集』名付けられ、後記を書いた時点でもそのようなつもりであったらしいが、今年に入ってから『含紅集』ではどうだろうかと言い出し、周囲の賛成もあり本人もこの方に心惹かれたようである。よって「あとがき」の一部を改めて『含紅集』と命名した次第である。「最後の歌」未定稿のまま今回発表することになった。/(略)/昭和四十二年九月十日編者 吉野とみ子吉野陽一吉野壮児
〇この年、秀雄が 「良寛の書簡 良寛 著,BSN新潟美術館編 BSN新潟放送」に「良寛の書簡について」を発表する。 pid/2513247 
〇この年、秀雄 が「日本史の人物像 第8
筑摩書房 」に「良寛―大愚良寛小伝」を発表する。pid/2973419
62 65
1968 昭和43年 4月12日、『含紅集』その他に於て「第18回芸術選奨」が贈られる。
7月6日、瑞泉寺に於て第一回艸心忌と歌碑の除幕式が行われる。
     
死をいとひ生をもおそれ人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ 
     
(裏面) 吉野秀雄を敬愛するもろもろの人あひ集ひてこれを建つ ときに昭和四十三年七月  艸心忌
7月14日、高崎公園に於て歌碑の除幕式が行われる。
     
白木蓮の花の千万青空に白さ刻みてしづもりにけり
12月5日、山口瞳が「小説・吉野秀雄先生」を「別冊文藝春秋106号」に発表する。

8月、「短歌 15(8) 角川書店」に「『群鶏』読後感(遺稿) / 吉野秀雄」が掲載される。   pid/7899083
12月8日、富岡市一峰公園に於て歌碑の除幕式が行われる。
     甘楽野をまさに襲はむ夕立は妙義の峰にしぶきそめたり
63
1969 昭和44年 〇この年、伊藤整等編「日本現代文学全集 第108 (現代詩歌集) 講談社」が刊行される。 pid/1674341
漢詩篇 /
中野逍遙 /
逍遙遺稿 抄 /

詩篇 /
大手拓次 /藍色の蟇 抄 /
西條八十 / 砂金 /
尾崎喜八 /田舍のモーツァルト /
百田宗治 / 靜かなる時 /
田中冬二 / い夜道 /
八木重吉 /秋の瞳 /
安西冬衞 /軍艦茉莉 /
吉田一穗 /海の聖母 /
萩原恭次カ /死刑宣告 抄 /
丸山 / 帆・ランプ・鴎 /

詩篇 /
北川冬彦 /戰爭 /
村野四カ / 亡羊記 /
小野十三カ / 大阪 /
山之口貘 / 思辨の苑 /
伊東靜雄 /わがひとに與ふる哀歌 /
立原道造 /萱草に寄す / 曉と夕の詩 /

短歌篇 /
川田順 / (鷲 /
前田夕暮 /收穫 /
尾山篤二カ /草籠 /
土屋文明 /山下水 /
土田耕平 /杉 /
吉野秀雄 /寒蝉集 /
宮柊二 /日本挽歌 /
俳句篇 /
飯田蛇笏 /靈芝 /
水原秋櫻子 / 葛飾 /
西東三鬼 /變身 /
中村草田男 /長子 /
山口誓子 /凍港 /
加藤楸邨 /颱風眼 /
石田波ク /雨覆 /

作品解説 /
漢詩篇・詩篇・伊藤信吉 /
短歌篇・俳句篇・山本健吉 /
年譜 /
參考文獻 /


64
1970 昭和45年 65
1971 昭和46年 66
1972 昭和47年 4月12日、長男陽一が逝く。(42歳) 67
1973 昭和48年 68
1974 昭和49年 69
1975 昭和50年 〇この年、吉野秀雄著「良寛 : 歌と生涯 筑摩書房(筑摩叢書, 216)」が刊行される。 70
1976 昭和51年 10月24日、八木重吉50年祭が町田市立相原小学校で行われる。 
10月26日、弥生書房より吉野登美子著『琴はしずかに』が刊行される。
71
1977 昭和52年 72
1978 昭和53年 10月31日、吉野登美子、「わが胸の底ひに」を「弥生書房」から刊行する。 装幀:串田孫一 73
1979 昭和54年 74
1980 昭和55年 75
1981 昭和56年 76
1982 昭和57年 77
1983 昭和58年 78
1984 昭和59年 3月、関俊治他執筆「元吉・秀雄 みやま文庫」が刊行される。
   高橋元吉年譜: p109〜116 吉野秀雄略年譜: p209〜215
6月吉日、施主八木藤雄が、八木重吉・桃子・陽二の墓のとなりに、登美子の墓を建立する。 
10月26日、八木重吉記念館が、開館する。
79
1985 昭和60年 80
1986 昭和61年 7月5日、吉野秀雄著「詩集 山國の海鳴」が「紅書房」から刊行される。 81
1987 昭和62年 82
1988 昭和63年 83
1989 昭和64年 84
1990 平成2年 85
1991 平成3年 86
1992 平成4年 87
1993 平成5年 1月、塚原明水が「信濃教育 (1274) 信濃教育会,大日本教育会」に「本との出会い/吉野秀雄著「良寛和尚の人と歌」」を寄稿する。   pid/6070839
8月、大星光史が「短歌 40(8)(524)
角川書店」 に「会津八一の歌と人-8-相馬御風と吉野秀雄 」を寄稿する。また、同号に大越一男が「良寛歌と近代短歌(良寛歌一首)」を寄稿する。  pid/7899411
88
1994 平成6年 89
1995 平成7年 90
1996 平成8年 91
1997 平成9年 92
1998 平成10年 93
1999 平成11年 2月12日、登美子が昇天する。(94歳) 94
2000 平成12年 9月、責任編集やなせ・たかし「月刊詩とメルヘン」に「特集 八木重吉詩集」が編まれる。
2001 平成13年 11月、松本市壽が「三田文學 80(67) p.142-146」に「<随筆>吉野秀雄と良寛」を発表する。
2002 平成14年
2003 平成15年
2004 平成16年
2005 平成17年
2006 平成18年
2007 平成19年
2008 平成20年
2009 平成21年
2010 平成22年 11月、高田容夫(たかだよしお)が「柏崎市立野田小学校 NOTA発学校だより」に図書室に掲げられている吉野秀雄筆の扁額「読書尚友」についてのお話を全校朝会で行なう。
2011 平成23年
2012 平成24年 柏崎市立野田小学校(廃校)が新道小に統合される。
        注 吉野秀雄筆の扁額「読書尚友」についてのその後について、調査要 2019・11・19 保坂
2013 平成25年
2014 平成26年
2015 平成27年 11月、高田容夫が「燕市立小池小学校 学校だより 月花星」に「読書尚友」のタイトルで吉野秀雄の歌を紹介する。
2016 平成28年
2017 平成29年
2018 平成30年
2019 令和元年
2020 令和2年
2021 令和3年
2022 令和4年
2023 令和5年
2024 令和6年

まとめの途中で
 年譜は未だ未完だけれど、骨子は出来たような気はしている。これから、遺された短歌と検証作業に入る。それにしても、長男陽一さんが不憫でならない。もし許されるとしたら瑞泉寺に奉納された「瑞泉寺境内名所絵図」があるとすれば拝見させて戴きたいと思う。そうして、「流れ灌頂」と云うか、その御前で、御供養のしるしを手向けたいと思う。  2019・12・15 保坂
 そして、陽一さんは、優れた芸術家だと確信している。芸術家は苦しみもがき、そのもがきからぬけでようとすることを知っている。突然に画材を振りまいて燃やしたのはそのためではないか。どうか、安らかにと。人生は重い荷物を背負って行くものだと云うが、そんなことは無頓着に、ひょうひょうとして生きて行けたらとも思うが如何なものか。
 昨日、地元の小学校で「〆縄づくり」に招かれた。その中に、特別に明るくもなく、暗くもなく、実にひょうひょうとして、〆縄づくりに挑んだ子供がいた。家からちゃんと〆縄に飾る品々も用意して、中々の出来映えであった。終わりの会では、質問もしてくれた。私は思わずその子に「(みんなに)作品を見せてあげて」と云った。 
 縄編みの先ず、最初は両方に3本づつ、藁を打ち袴を取ったものを両手に持ち、藁を手のひらで擦りながら、撚りを入れる手順から行う。編むのは次の段階だが、私は撚りを入れることに先ずは集中させた。最初は中々できなかったが諦めないよう、縄文人や糸の話などして集中させた。興味なさそうにしていた子供が一人いたので、心配したがやがて素晴らしい縄を編みはじめた。後で考えると、その子は「どうすれば」と、じっと考えていたのだった。そして、笑顔になった。 2019・12・17 保坂
 12月22日、神社の餅つきに参加した。例年のことだが、私は最初の一年は杵に触れることすらできなかった。また、正直なところ出たくはなかった。子供の頃のことだが私は、餅を搗くのが苦手だった。杵を持つといつもフラフラしてしまい旨く中心に当たらなかった。また、臼が石でできていたので、杵を潰したりしてそのカケラが餅の中に入ってしまい、うまくできなかった。「くるり棒」も最初はうまくできなかった。そうした身近な出来事でもこだわりを見つけなければ、何も出来ない、少しも前に進めない。これはもうやるしかないのだと。その深みとこだわりと弱みがあってこそ、人は前に進めるのだと。人は皆、芸術家なのだと。  2019・12・25 保坂
 「吉野秀雄関連年譜」をここまで、集めて来たが、張り付ければ貼り付けるほど、奥が深まってゆく、この辺で止めなければと思うほど、また集めて見たくなる。それほどに吉野秀雄さんは「魅力的な人物」だと気がついてゆく。私は、もう文献などでしか分からなくなってしまった登美子さんから、そんなきっかけを作って頂いたような気がしている。ありがたいと思う。そうして人の情けにも身に沁みた。








 
旅上偶成 (昭和二十年十月)
夜の汽車の暗き灯
(ほ)かげにとりいでぬ亡妹(なきも)が書写(しょしゃ)の傘松道詠(かさまつだうえい)

えにし 
(昭和二十年)
わが吐ける生血(なまち)を器滌(うつはすす)ぎくれし人の情けは身にしむものを

九十九里浜遊草 
(昭和二十一年
冬の海に向ふさびしさ極まれば座舟(すゑふね)の蔭に身をひそませつ

参考資料
八木重吉詩集 八木重吉著 創元社  発行 昭和23年3月
上州路 2002年12月号 「−生誕百年記念−  超俗の歌人 吉野秀雄 あさを社 発行 平成14年12月
短歌. 14(10) 追悼吉野秀雄特集 角川書店 pid/7899072
   
吉野陽一・吉野壮兒編 吉野秀雄年譜 発行 昭和42年10月 注 特に「陽壮年譜」とする。
元吉・秀雄 執筆者代表 関俊治 みやま文庫 発行 昭和59年3月30日
相馬御風の人と文學 編者 紅野敏郎・相馬文子  名著刊行会 発行 昭和57年6月
  良寛研究への道 修羅から在家的出家 長谷川洋三 / 相馬御風の書 相川政行
一茶と良寛と芭蕉 相馬御風著 春秋社 発行 大正15年3月 17版
吉野秀雄全集 第8巻 筑摩書房 発行 昭和45年12月
瑞泉寺豊道和尚絵詞 原田耕作著 大下一真編 青娥書房 発行 1998年10月
わが胸の底ひに 吉野登美子著 弥生書房 発行 1978年10月初版 
寒蝉集  吉野秀雄著 創元社 発行 昭和22年10月 
歌集 含紅集 吉野秀雄著 弥生書房 発行 昭和42年11月

   上村占魚(うえむらせんぎょ) 

八木重吉の年譜 
小林秀雄編「創元」創刊号に記された吉野秀雄の歌
吉野秀雄、門人として「多胡碑斷疑」の附記
参考 多胡碑・上野三碑関連資料集
「金槐集研究書目解題」を読む、 

教科書に載った加藤武雄

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