原宿と原宿用水
2019・5・1 「令和の始め」を追加する

 
        原宿用水の境川取水口跡


 
 小松川に架かる原宿用水コンクリート橋 昭和3年御大典記念に建立


 
 
       町屋地区を流れていた原宿用水跡


       原宿の町並み@
道路側から原宿用水路、梅木、母屋、納屋、用水路、屋敷林、畑の順で並んでいました。



       原宿の町並みA
            かってこの場所に用水路があり、梅の並木が続いていました。

 江戸時代の初め、川尻村の太兵衛と理兵衛の二人の名主が代官の命令で久保沢に市を開きました。二人は力を合わせ二千人もの人を使って市をつくったのですが、太兵衛が市の利益を一人じめにするといって争いになりました。そこで代官はもう一つ市をつくれと命じ、理兵衛はやむをえず久保沢の東の原に市をつくりました。野原に人が住む町をつくるためには水が必要です。境川から水を引き用水路をつくりました。小松川の上には木の樋(とい)をおいて水道の橋をかけ、馬の背のように高くなった参道付近は深く掘り下げてできたのが原宿用水です。参道には橋がかかり深さが約三メートル、幅は両側の土手をふくめ九メートルほどもありました。初めは通りの真中に一本、家の裏側にそれぞれ一本づつ計三本の水路が流れていましたが、後に家の前後一本づつ計四本の水路をつくりました。用水の終わりには水田もつくられました。 
 久保沢と原宿の市は、津久井町の中野に市が立つようになると衰えましたが、久保沢は三、十三、二十三、原宿は七、十七、二十七の日の月六日、市が開かれ六斎市とよばれ賑わいました。市は今の原宿自治会館あたりで開かれ各地から薪、炭、米、野菜、織物等の物資が集まりました。寛永七年(1630)には三十四軒の家が立ち並びその後ろ側には短冊形に区切られた畑が整然と続いていました。家の奥側には屋敷林があり薪や堆肥の材料となりました。
 原宿用水は命の水として大切にされ、当番を決めて見まわりをしたり、定期的に堀さらいをして守ってきました。しかし昭和四十年代になるとその役目を終え大部分が道路として埋め立てられ現在では砂地区と宿内の一部に見られるだけとなってしまいました。
 現在昔の様子を伝えるものはほとんどありませんが、家の裏を流れた用水路を堰き止め、落差を利用しながら皿や茶碗を洗ったドンドンとよばれる洗い場がありました。


        井戸から汲み上げた貴重な水をためた水瓶



        「どんどん」があった頃の原宿用水
                   撮影 1999・1・18 




         明治初年の頃の原宿


     平成7年頃の原宿 平成7年頃の原宿(拡大図)


























                   ↑津久井街道と大山道が交差する原宿の街
                          撮影1993・9・18

↑蚕影社

  ↑ロープに巻かれたままの
  愛宕大権現石塔
 
↑大山石尊大権現石塔 
 
   
  
      大山石尊大権現石塔 
南面 東正面 北面 西面


















船塲




























西




みち



















 高
 瀬
 講
 中
 小





宿







 基壇に刻まれている「小倉高瀬講中」、「荒川高せ講中」とは、相模川を行き交う、高瀬舟で働く人々のことで、大山詣りの人々が小倉から高瀬船に乗って、大山詣りをされたことが読み取れます。
 大山道は東西南北幾筋もありますが、船に乗って大山詣りをしていた人たちがいたことが証明できる大変貴重な石塔となっています。
 
      愛宕大権現石塔 
 南面  東正面  北面  西面






宿内
安全





















當町中



















 「愛宕大権現石塔」は、原宿の辻に祀られている頃からも、四つに割れたままで、ロープに巻かれていました。
 また、その石塔正面上には「奉再」と刻まれていることから、元の愛宕大権現石塔もあり、今も地蔵堂の中に祀られています。判読は困難な状態になりつつありますが、天明□歳と読むことが出来ました。
 両者に一体、何があったのか、今となっては、まったく分からなくなってしまいました。


原宿・亀付共同井戸石組
 元々は、蚕影社南側、講中小屋の北側にありましたが、道路の拡張工事によって、旧原宿自治会館の敷地内に一旦移され、次に原宿自治会館の建設に伴って、現在地の原宿堀公園の南西の角に移されました。二回の移動によって、石組の表面に文字が刻まれてありましたが剥離現象が進んだままの状態になっていましたので、多分その移動中に、なくなってしまいました。

 旧原宿自治会館広場の敷地内には、桜の木とムクロジュの木が生い茂っていました。秋の始めの台風の後に行くとムクロジュの実が沢山落ちていました。昔は、その実を揉むと泡がたくさん出るので洗濯に使ったとお年寄りから聞きました。このムクロジュの木は他にも、小松川に架かる「原宿用水橋」の脇の「元屋敷」にもありました。



                        撮影1998(H10)・11・19

秋葉灯籠 竿と基壇の部分の銘文
石灯籠 竿 基壇 参考
南面の刻字名 愛宕大權現 宿内安全
西面 金毘羅大權現 文政 丑歳 暮春 穀旦  丑歳(うしどし):文政12己丑(1829)
八幡大菩薩 石工 煤箇谷 川田亀吉
東面 秋葉大權現 講中
     穀旦(こくたん):(「穀」は善い、幸いの意。「旦」は日の意) よい日。吉日。佳辰。吉旦。


2001(平成13)・11・25 乱雑のままだった石塔群
令和のはじめに
 市神社の裏側に、四神を祀る「石灯籠」や四つに割れたままになっていた「愛宕大権現」石塔も、「大山大権現」石塔の下に敷かれてあった基礎の石等にも交じって乱雑に置かれたままになっていましたので、平成15年8月から10月にかけ、無残のままになっていた石塔群の修復作業を行ないました。
 石塔類の中には、「宿内安
全」とか「火難消徐」と云った文字の刻まれている石塔も含まれていました。
 原宿は地下水のある所まではとても深かったので、井戸掘りはとても難しく、四ヶ所しか掘ることが出来ませんでした。それで、宿(しゅく)の始まりと共に小松川から水を引くことを考えました。その用水の管理には特に気を使い、「井戸さらい」など、人々は年中行事として取り組みました。冬は小松川の水量も少なくなり、用水を流れる水も、また少なくなりました。そのため、冬の火災には特に気を使いました。また、夏は伝染病などにも気を使いました。そうした気の使いようを「人々の願い」として神々を信仰してきました。宿内で代々祀った「愛宕の神」や「秋葉の神」は火伏の神なのです。
 人は時により、神を乱雑にすることがありますが、また、思いおこすこともあります。それで良いのかも知れませんが、私としては、派手でなくとも何事も細くてもいい長く続けて欲しいと思いました。
 絆は見えない糸で結ばれている。古くさい言葉かも知れませんが、たまには「講中」とは、どのような組織であったか?とか、考えて見ることも良いのかも知れません。ひょっとして何かがその先に見えて来るような気がしています。
 令和の御代は人和む平和な時代であって欲しいと願っています。
石仏修復への道     
2019・5・1 令和のはじめに 保坂


 市神社・稲荷社の前には「奉納」と刻まれた石柱があり、その上に馬がいて、どなたかが乗っているようにも見える石像物を確認することが出来ます。
 右手に「杖」、左手に「宝珠」を持ったような、お姿をされていますが、上部が欠損しているのでよくわかりません。ただ、馬の鞍には葵の御紋が刻まれていました。
 「城山町史4 資料編 民俗 P384」には次のような記述がありました。
 この愛宕大権現供養塔は、火伏の神としての信仰から建立されたものであろう。古くは角柱の供養塔の上に馬上の愛宕大権現の像があったといい、塔碑の前面に三つ葉葵の紋が刻まれていたため、乗馬で通行した人たちはここで下馬して通過し、再び馬に乗ったとも伝えられている。本源は京都市嵯峨の愛宕神社である。


   最後まで残っていた原宿用水路跡 





原宿の市神様と亀付共同井戸石組 
原宿のこかげさんまつりと地蔵まつり
石仏修復への道 

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