痛快、
 武田博士の「日光遊行雜記・日光の栞(書評)」を楽しむ。


 上記の内容は「山岳第十一年第二號」に掲載されています。読んでみますと、これほどの痛快は他にないでしょう。博士33才の記録です。日光をこよなく愛した博士ならではの語りです。たっぷりとお楽しみ下さい。
  全体が21頁もあり、完成までには時間がかかります。(御容赦の程を)・・・・(スイマセン)

参考 武田博士が、項目別に解説文を寄せた「日光山寫眞帖」 大正十年三月 発行
           注 各項目名については、武田博士の大正十年三月の項を参照願います。 2018・2・12 保坂
 
           表紙                       武田理学博士解説  
 

           奥付の部分                   九 東照宮御厩(英文) 




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42 白根登山に関しては言ふ迄もなく諸君の熟知せらるゝ處であるが、従来の登山客は大抵白根澤を上って前白根に出る月並みの道を上下するにすぎない。湯本から登るとすれば先づ金精峠を登り其頂上から左に折れて尾根傳ひに前白根の一角に出ることも出来る、但途中笈岩の所を上るのが難塲だと言ふがそれも充分用意して行けば絶対に不可能なことはないのである。奥白根の頂上から大爆裂口を経て上州に下るのは必ず興味あることゝ思ふが、自分は未だ之を決行する機會のないのを遺憾に思ふ。此路によって下山すれば地図に所謂遠鳥居とある白根の一の鳥居の處に下るので、路は隋分荒れて居ることゝ思ふが、一の鳥居からは一ノPに出る舊道(こみち)を清水(しみづ)に戻り、萬一行き暮れたらこゝらに一泊するか、左なくば第一日に五色沼の附近に野営して二日掛でやれば充分である。
 二千米突以上の峠で金精峠程の立派な道のついて居るのは多く見ぬ處である。現在では九尺幅の石さへゴロゴロして居ない誠に楽な道である。湯元を出て一時間許りで金精神社に達する、社は倒木におしつぶされて哀れな有様であるが、それでも一銭銅貨一個と五銭白銅一個が賽してあったのは御利益に変わりのない
證據(しょうこ)であらうか。社から頂上まで半時間とはかゝらぬが、休憩時間を入れて全體で一時間半と見積れば湯元から金精峠の頂上迄達することが出来る。峠の上州側は割合に水害を蒙らないので昔ながらの路である、三十分乃至(ないし)三十五分で清水に着く、此處は清水ノ沼の東俣の端に當る處で、前には沮洳(しょじょ)な地があるし、又道を横切って清冽な水が湖にそゝいで居る。景も悪くはないから小憩地としては適當である。
 昔は五萬分の地図に線點を以て示してある路によって一ノPまで無人の境を行ったものだが、近年千明氏が丸沼で養魚を初めて新道を造って以来立派な路が開かれて通行には極めて便利である。只慾を言へば今少し低く湖に沿ふて道をつけたのなら更によいだらうと思はれる。
 新道によって進むと十餘町で沼の北俣が木の間から見參に入る。此處で一寸此湖の名稱について一
笈岩
證據(しょうこ)
沮洳(しょじょ):土地が低くて水はけが悪く、いつもじめじめしていること。また、その土地。
43 言する。昔は何と呼んで居たのか知る由もないが、嘉永二年版逸見豊次郎著増訂大日本奥地地図には、此處に一湖を記してタウラ沼とか呼んであるのがおぼろげに見える。此れが三湖の何れに當るや又全部の総稱にや不明であるので、之を考證の資料とはなし難い、割合に近年發行のものでは陸地測量部の二十萬の地図に笈沼と記してあるが、五萬のには菅沼とある、菅沼なる名は震災豫防調査會報告第二十七號にも出て居る、近年一般此名を以て呼ぶが土人は依然として清水ノ沼と稱して居る、其理由は前記の東俣の頭に清水が流入するので此處を清水とでも呼びそれから清水ノ沼と云ふに至ったのではないかと云ふ臆説もあるが自分は否と答へるより致方がない、此湖は五萬分の地図にて見る如くY字形をなして居るので其の東方に向ふ腕を東俣と稱し北方の腕を北俣と云ふ、此北俣なる名は可なり古いもので一八八三年出版の Handbook for Japan 第二版にも、載って居る、又此部をハス沼(斜沼の義)とも呼ぶものがあるが餘り廣く行はれては居らぬらしい、笈岩なる名は笈沼にちなんで命じたものかと云ふ説もあるが、日光のものは此名を用ゐず、若しこれが上州の名だとすると笈岩の見えぬ方面の人間が此の如き名を附けるのは一寸會得出来にくい。此他猶(なほ)地質調査所の地図を参照する必要があるが、生憎(あいにく)手元にないから他日機会あるまであづかりとする。
 北俣の沼が見えてから程なく右に入る細徑がある、これについて行くと少し下って湖畔に出る、此處に小舎があって据風呂抔
(など)の轉(ころ)がって居る處から考がへると滞在にも事を缺かないらしい。こゝから少し左手の山中に入り左から來る細徑に合して右に曲ると復湖畔に出て、それから水際を傳って湖水の落口に出る、清水の湖頭から四十五分程はかゝかる。此處で清水ノ沼の水は三百米突も下って丸沼に注ぐので、其處中上部に八町瀧と云ふ見る程でもない瀧が懸って居る。此れから細徑は恐ろしい急な山坡(さんは)を降って丸沼畔に出て、千明養魚塲に達するのである、そこまで八町瀧の上から三十分許りはかゝる。
 養魚塲の建物の主部は往年此の山奥の湯沢の湯を引いて温泉宿を経営せんとしたのが、浴客がない

据風呂
山坡(さんは):(山頂と平地の間の)傾斜した山腹,山の斜面.
44 ので終に廃業の悲運に立到った其の廃屋を修理し安全の位置に移したもので、これに隣て新築の物置や孵化塲がある、此處は去る明治卅八年に尾瀬の帰途ネバ澤から山越して下って來た所で自分には舊知の地である、今は養魚場であるので終歳人煙絶えざる有様であるから一ノ瀬へ出る道路も従来と異なって立派に営まれて山人には好都合である。
 丸沼と其次の大尻沼との関係は猶切込と刈込との関係の如しだが、只丸沼の水が大尻沼に注いで、やがて小川の源をます違があるのみである。
 丸沼から本道を清水まで戻るのは中々倦きる道である、可なり急いで歩いても一時間半はかゝる清水から金精をこえて湯元に達するには二時間あれば餘る、金精峠の頂上は大分木が倒れた爲め眺望が従前よりもよくなった、湯湖の一部を見下し、其向ふに男體の雄姿が聳えて居るのは悪い景ではない。
 明治卅八年に湯元の「勝」、あの詐欺を兼業とでもして居るのではないかと某氏が評した宮川の「勝」にひどい目にあった自分は、其後當分白根登山を断念した位で、湯本に暫く登らなかったのも其れが理由の一つであった、十二年後の今日でも「勝」は依然人に嫌はれながらも山案内をするさうである。が、外に適當な案内者はないかと捜した勞空しからで、長岡多一と云ふ男を見付け得た、大正五年に三十九と云ふからまだ
山歩きは向十年保険付きで大がらな逞(たくま)しさうな男で極めて着實さうで、又山の様子も中々詳しい、高山植物の名も可なり知って居るさうだがそれはどうでもよい。自分は此好案内者を得たのを喜んで諸君に推薦する。同人は日光の諸山は大抵知って居る、機があったら尾瀬へ行って様子を見てくると言って居たから追ては尾瀬の案内にも役に立つ様になるだらうと思ふ。附近の山の案内料は前白根金一圓、奥白根金一圓二十銭、太郎山金一圓七十銭、男體山志津廻り中宮祠下り二日路にて金二円と云ふ事である、此人間なら案内者手帳を與ふ可き資格があらうと信ずる。
 湯元から中宮祠に歸るのには戦場ヶ原を通過するのが便利で且得策だと思ふ。湯坂を下りて古賀谷

終歳(しゅうさい):一年中。年中。
45 の一口水迄は上るよりも下る方が餘程樂だ、殊に古賀谷から少し湯元によった所は大層道路が修理されてあるが、元来日光地方の路普請と云ふのは澤や湖から砂利と砂とを採って来て只道路にぶちまてるだけなのだから見かけはよいが、歩きにくいこと請合だ、それで餘計手をかけてある湯坂の下方などは上りにはなる可く避けた方が得策だ。湯元へ行くには小田代を通って行くと此點に於ても利益がある、路は少しまはりになるがそれでも菖蒲ヶ原から二時間半かけたら充分湯元の旅舎まで達することが出来る。
 古賀谷の邊は逆川
(さかさがは)が推出したので驚くべき川原となり風致を損じた事一通りではない、しかし勝道の一口水の依然湧出して居る。古賀谷で橋を渡って少し行って左へ小徑を傳って十二三町も行くと光徳の沼へ出る、昔は一廉の沼で鴨が降りたりしたが、三十五年の大荒れ以来年々御澤(おさは)がこゝへ進出して、沼は為めに大半うまって逆川の一部が少し膨んだにすぎぬ見すぼらしいものとなった、五萬分の地圖にある程の大さはとてもない。
 戦場ヶ原の本道から光徳の方へ入る間道の入口の側に牛小屋が出来て、近所に牛が澤山放牧してある、湯元の旅舎の南間の経営して居るものとかで、よい思付きである、山中の高原に牛の群れが徘徊して居る景もわるくはないが、せめて首に
クラリヨンでもつけたら尚よからうと思った。
 戦場ヶ原の本道は乗合のガタ馬車が通る位だから、幅も廣くなり、其他の點に於てもよくなった様だが、寧ろ馬の通る位の程度にして置いて、日光山志の繪にある様な細徑を通じて置く方が適當だと思ふ、無暗に道を廣げることが必しも常によいとは言へまい。
 三本松の茶店も金山の爲めに繁盛する様だ、金山が盛大になるのはよい事かも知れないが、黄金の前には自然とか風致とかの
感念をおし氣もなく打すてゝしまふ人種の住んでいる國では、こんなとは盛にならない方が國の爲めに結構だと思ふ、戦場ヶ原へ鐡索をかけて、鐡尿を運搬されては到底たま
クラリヨン:
感念(かんねん):感じ方。考え方。
46 るものではない。こんな手合にかゝると、誰かゞ男體山の底は鉛で出来て居るとでも、言はうものなら、坑道をほるなんて手ぬるいことはして居ないで、ダイナマイトで山をふきとばしても、其鉛を採らうとするのだらう、そしてそれが國家に功労があると云ふので勲章の一つでも貰ふと云ふ世の中だ。拝金宗のかたまりだと云って、日本人がけなす米國に、ナショナルパークの設があることを知って居る者は日本國中に何人あるだらう。そしてさういふことを聞かぢっても真似をしやうとする奴もない。此頃は兎角わるいことで、猫も杓子もサンフランシスコ邊迄洋行して、日米騒動を起こさなければ、碌でもないことばかりを直輸入するのが關の山で、よく眼光を紙背に徹して欧米の真相を捕捉して歸る者が、所謂洋行歸りと崇拝さるゝ者の中に幾人あるだろう。
 久しぶりで戦場ヶ原をよく見ると、葉の細いスゲの一種が夥
(おびただ)しく繁茂したものだ、其の爲にツルコケモヽやヒメシャクナゲなどは大に壓迫されて、僅に生残ったミヅゴケの間にちゞかんで居る。近年はツルコケモヽの實を拂下げて、両に二升位な價ね盛に賣出すと云ふことだが、その位ならツルコケモヽの保護をして、その繁殖を計ったらよささなものだ。自然に相當の保護を加へて之を利用するのはよい事だが、自然を虐(しいた)げても限りなき人慾を満たさうとするのは奨励すべき事ではない。
 湯元の方から来て戦場ヶ原を出はづれる所に、五萬分の地図には赤沼と云ふ可なり大きな沼が記してある。十餘年間こゝに堤を築いてコヒだかフナだかを飼養した人間があったが、不成功とあって今は全く中止し、堤もなくなって今は平地に水がチョロ(く)と流れて昔の夢のあとを語って居る、其頃だとて此池は地図上にしるしてある程の大きさではなかった。五萬分一の地図の
瑕瑾の一つは、小形の池沼の大きさが餘りに不正確なのと、年中水(たた)ゆるものと、単に沮洳の地をなして居るものとの區別が、餘に實際に遠ざかって居ることがある。序にモ一つの苦情を言ひたいのは、澤や山やの名で古来俚人にだけでもよく通じて居るものが、あまりに多く省略されて居ることだ。しかし大體に於て誤の少い
手合(てあい):1 連中。やつら。やや軽蔑していう。「ああいう手合いとは付き合いたくない」 2 たぐい。種類。
拝金宗(はいきん):金銭を最高のものとして、極度に尊重すること。高橋義雄著『拝金宗』に、「拝金宗とは米国人のいわゆる
   オールマイティー・ドルラル(すべてはドルである)という言葉を翻訳した」、この本が有名となって、
   慶應義塾は「三田の拝金教」であり、福澤諭吉は「拝金教の教祖」であるとも云われ非難された。

眼光を紙背(しはい)に徹して:書物に書いてあることを、表面だけでなく真意まで理解することのたとえ。読解力に長けていること。
捕捉(ほそく):つかまえること。とらえること。
瑕瑾(かきん):きず。特に、欠点。短所。
沮洳(しょじょ):土地が低くて水はけが悪く、いつもじめじめしていること。また、その土地。
47 此図が吾人を益するこよは實に莫大なものである。男體図幅でモ一つ言て置きたいのは、外山澤の出て来る外山の位置が少し違ひはせぬかと思はれる。前白根山を記してある山の字の少し下で、外山澤が二岐する其中央にある小峯を、俚人は外山と呼んで居る。これは近くへ行かなくなっては到底見えぬ山である。予に言ふは此外山澤の奥、殊に其左の方の上流には可なり立派な瀧があるさうである。赤岩の瀧とかいふのはこれだかと思ふ。
 戦場ヶ原の本道は、再びオホナラの粗林に入ってやがて龍頭瀧の所を過ぎて菖蒲ヶ濱に出て往路を戻って中宮祠へ歸る澤である。
 中宮祠附近の山あるきをするには、米屋へ頼んで案内を雇へばよい、自分は小平留五郎と云ふのを使用したが可なり此處の山川に明い様で、而もおとなしい人間である、それでも稀には不正確な事がないでもなかった。
 日光も一通り奥まで歩いたから、再び帰路につくことにする、途中は一足とびにして日光町迄辿りついたことにする。さて、小倉山、萩垣両方面乃至鉢石などへ散歩して見た、特記することもないが稻荷川に一見立派な釣橋が出来る最中でであった、これが完成したら霧降方面へ行くに便利なことだらう。鉢石も昔と大同小異であるが、Fine Art on the upstairs だとか Peppermint first made here in Nikkou などと云ふ奇抜な
招牌(しょうはい)が大分増えた様だ、産物として(ひさ)ぐものは相変わらずの日光羊羹、日光唐辛を初め、下らない箱根細工の玩具や、コクハの蔓製の不恰好な杖位にすぎない、あれも何とか改良することが出来さうなものと考へられる、殊にコクハの杖に至っては在郷の兄いでさへ用ゐられたものではあるまいに、それより蔓を截(き)らずに其實を採った方が得策だらうと思ふ。
 日光山と云ふとあまり人口に
膾炙(かいしゃ)して居る故か、平々凡々の所の様に思ふひとがある、初歩の登山家なら知らぬと、天狗連や雷鳥の申し子などの行く可き所ではないと考へてる人もある様だ、併し此頃
コクハ(こくわ):サルナシ
鬻ぐ(ひさ)ぐ:売る。商いをする。
招牌(しょううはい):看板
膾炙(かいしゃ):「膾」はなます、「炙」はあぶり肉の意で、いずれも味がよく、多くの人の口に喜ばれるところから、
           世の人々の評判になって知れ渡ること。「人口に膾炙する」
48 なまものじりの奴等の間に流行する様な何々アルプスだとか、何とかライン杯と云ふ馬鹿氣た名をつける病氣に感染しないで、昔ながらの様子のある所が何となくなつかしい恒雪がないからとて、カールとかゞないからとて、山岳研究家が度外視する山ではあるまいと、頼まれもせぬ提灯(ちょうちん)を持て置く。
なまものじり(生物知り):いいかげんの知識しかないのに物知り顔をすること。また、その人。

圖書紹介   日光の栞(日光案内書)    牧駿次著    大正3年5月20日 発行  Pid/948047 


第一 日光の位置
第二 社、廟、寺院沿革の概要
第三 廟社、寺院の略設
   
輪王寺・東照宮・奥の院・二荒山神社・大猷院・北白川宮殿下御廟・瀧尾社・二荒山別當・常光堂及法華堂・慈眼堂
第四 日光町附近の名所古蹟
   神橋・星の宿と深沙王社・獻木(けんぼく)の碑・山内と並木の老樹・保晃會公園・羚滿淵(かんまんふち)・小倉山・外山・赤古名の楓樹
第五 日光の山嶽
   赤薙山・女貌(にょほうさん)山・丹青山・専女山・帝釈山・小眞名子山・大眞名子山・男體山・太郎山・温泉ヶ嶽・金精峠・前白根山・白根山
第六 名山の案内
  
三山ガケと三難所・山の案内者に案内料
第七 原野
  
戦場ヶ原・野州原・千手ヶ原
第八 湖及沼
  
幸湖・湯の湖・西の湖・蓼の湖・赤沼・光徳沼・切込及刈込の湖・五色沼
第九 川と澤
大谷川 荒澤川 十一 外山澤
稲荷川 御澤 十二 柳澤
赤澤川 湯川 十三 冷澤
成澤川 地獄川
田母澤川 オヽネ澤
第十 瀧の重なるもの十九
霧降瀧 慈眼瀧 十五 龍頭瀧
胎内瀧 素麺瀧 十六 湯瀧
七瀧 華厳瀧 十七 緑瀧
寂光瀧 十一 白雲瀧 十八 庵の瀧
羽黒瀧 十二 阿含瀧 一九 美彌來(みやこ)瀧
相生瀧 十三 般若瀧
裏見瀧 十四 方等瀧
第十一  日光山管轄の略説
第十二  日光の氣候
第十三  日光に於ける四季の跳
      
春の野州花と夫れが名所案内・夏時の清涼・秋の紅葉及其勝地・冬景色の景観
第十四  日光の植物
一、 天然の一大植物園 三、 高山と植物と植物採取の注意 五、 楓樹の種類及山地
二、 御花畑 四、 開花の時期及其草花 六、 せき葉の製法
第十五  宇都宮より日光迄
        宇都宮・鶴田・鹿沼・文狭・今市・日光
第十六  日光より湯元迄
日光町 剣ヶ峯 地獄茶屋
清瀧 中の茶屋 猿ヶ茶屋
馬返 中宮祠 十一 古ヶ谷の茶屋
御澤 菖蒲ヶ濱 十二 湯元
第十七 日光植物分園
第十八 幸湖上の遊覽と壯觀 
第十九 幸湖畔の養魚場 附同湖遊漁案内
第二十 日光入湯元の温泉 /
第二十一 日光見物の費用と其時間
      
 拝観料・開門と閉門・観覧時間・車賃と駕籠代
第二十二 見物の方法と順序
第二十三 日光町より湯元方面の道路及霧降道 附宇都宮より日光間海面よりの高さ
第二十四 旅舍と晝食所及其料金 附旅舍繁閑の時期
第二十五 日光の土産物 /
第二十六 日光に於ける郵便事務         
第二十七 日光の宗ヘ
第二十八 日光近傍の名所案内
      西澤金山足尾銅山庚申山古峯神社宇都宮市宇都宮市大谷観音と其勝地宇都宮の兵営鹽原那須温泉
第二十九 遊覽臨時汽車
第三十  各地より汽車哩數及其賃錢
附録 汽車時刻表 電話


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223 もなし、植物分園が依然として佛岩にあるのはあまり迂遠な話ではあるまあいか。
 さて本文に入って先づ日光の山岳と云ふ表題の下を見れば、第一赤薙山の條に『此附近に産する植物の重なるもの』として種々列挙せる中にイハウツギ、ハクサンオナヘシ。ヘビノシダ等の聞なれぬ名もあり、又イチゲサウなど殊更に揚るは如何にや。第二女貌山に産する植物として列挙せる中イワキリンドウ、オイヘランなどは何かの間違にはあらずやと思はれる。




迂遠();

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まとめ
武田久吉博士(年譜)からの写真
資料 武田博士が観察した「富士越し龍と笠雲」について

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