28
(頁)
|
大正五年の九月初旬、八年ぶりで日光へ行くこゝなった。日光から中宮祠へ十年目で上って見た。此處迄來ると湯元へ行って見たくなる、そして十二年目で湯本で逗留して、金精峠をこえて、上州利根郡の丸沼まで遠足した。山らしい山には登らなかった。二〇二四米と註さるゝ金精峠の頂上が自分の達した最高點である、おなじみの女峯さへ特に斷念した。
日光も久しぶりで来て見ると大分變ったことが目につく、停車場も大そう立派になった、※電氣鐡道があの狭い町を走って居る、出来ることなら大谷川へそうた方へなり、又は山側へなり新しく道をつけ、そこへ電鐡を通じて貫ひたいと思った。
山内(サンナイ)が大層よくなった。道路もあるきよくなり、所々に道しるべが出来て、不案内な人でも地圖か案内記位をあてにして一人であるけるのは有難い、又一般に清潔になったのは何より心地よい、山内には専用の電氣を起して、神社佛閣街路を初め、寺院住宅に之を用ゐ、洋燈を一切廢したのは結構なことである。只何やら有難味のうすくなったのは、輪王寺の衆徒なる※圓頂緇衣の人々が※肉食妻帯をなし、※般若湯などゝ云ふ隠語を用ゐるに及ばなくなったことで、この方が自然なのではあらうが、慥(たしか)に佛よりも人間に近くなった※證據である。
東照宮や二荒山神社の寶物を持寄って、寶物館と云ふ特別な建物の中へ陳列することにしたのはわるい考ではあるまい、しかし土足で上る可く出来て居る床の上を素足や白足袋のまゝあるかせられるのには些(いささ)か閉口せざるを得ない。そしてあゝいふ特種の建物を造る位なら、退屈顔な女看守のかはり
|
※電氣鐡道
※山内(サンナイ):栃木県日光市山内にある地名で、日光山内とは日光東照宮・日光山輪王寺・日光二荒山神社・家光廟大猷院(などのある一帯をさす
※圓頂緇衣(えんちょうしい):「円頂」は髪を剃って、丸めた頭のことで、緇衣は 1
墨染めのころも。しい。2 僧侶
※肉食妻帯:出家修行者が肉を食し,妻をめとること。
※般若湯:僧家で、酒のこと。
※證據(しょうこ):
|
|
29
(頁)
|
に、事情に通じた案内人を置いて、丁寧に説明したらよささうなものだ、尤も案内記を賣って居るのだから、それを求めてよく番號と引くらべて見たら會得出来る筈なのであらうが、随分面倒な仕事だしそれに短時間に見終らうと云ふ人々の爲めには不適當である、それも經費や人選等の點から行ひ難しとなら、品物に一々詳しい説明をつけたらよささうなものだ、現在の番號札と、燈籠へ「燈籠」と云ふわかりきった札をつけたり、精々極簡単な説明數行を附けただけでは如何にも不親切である、例へば日光強飯(ごうはん)の式の一部を示す人形の説明などは、強飯の何たるかを知って居る人にはよいが左なくば納得しにくいだらう。人形の製作者の名などはなくもがなだ。多分當事者は常に人からほめられてのみ居て、苦言を呈する人に出遭はない為めあれでよい事と思って居るので、何も悪意があってあの様なやり方をして居るのではないのだらうが、改良の餘地は充分にあると思はれる。
西町即ち入(いり)町の方は兵隊で一杯であった。其他日光到る處巡査で充満して居て、うっかり散歩にでも出るとわるいことをしないのにひどく叱られる。田舎巡査の癖で只々横柄な言辭を弄したり、理由もないのに人民を叱ったりすれば自分がえらくなるものと心得てか、時には横暴な挙動さへ目につくことがある、あゝいふ輩(やから)は充分に訓戒して巡査の職の何たるかを教へ、それでもわからぬ奴(やつ)は免職にでもして呉れなければ、第一人民が迷惑すること一通りではない、兎角日本の巡査は人民を保護することをせずに只威張るのを本職とでも心得るのか、じんみんを虐げることのみ考へて居るには困ったものである。
日光の町は右の様な譯で、散歩もおろ(く)出来ず、名所を訪はんにも兎角に通行止めの厄難に逢ふので、避暑の爲めに留る人の數は從って少い、寧ろ涼しい中宮祠に登って汗をかゝずに自由の空氣を呼吸した方がましである。
日光では瀧へも行かず山にも登らず、只折を見計ってそれでもビク(く)もので、瀧ノ尾と本宮とを訪
|
日光強飯(ごうはん)の式:
輩(やから):1 (族)同じ血筋の人々。一家一門。眷属。一族。うから。 2 同類の者たち。仲間。連中。ともがら。特に、よくない連中。
|
|
30
(頁)
|
ねたにすぎなかった。是等は共に二荒山神社の別宮であるが、近來は社務所で少しも修繕に意をそゝがない為に、見る影もない有様である。瀧ノ尾に昔からあった多寶銕塔を寶物館に移して「國寶」などゝ云ふいかめしい札をうってあるが、それが元入って居た※堂宇などは荒れ次第、床は落ち軒は傾くと云ふ次第で涙の催すを禁じ得ない。
植物公園が佛岩(ほとけいは)蓮華石(れんげいし)に写ったので一度は是非行って見たいと思って居たが、これも通行止めとなる恐れがあると、ある人から忠告されていたので、雨天の日を選んでこっそりと見物に行った。※望月直義氏は元氣益々盛で、日光山植物近況を物語られた、同氏は男體山上にカウシンサウとムシトリスミレとを多量に發見したと言はれたが何の邊であるか一度自身檢分したいものだ、同氏の言によると男體のツガザクラは今は一本もないさうで、又女峯のハヒマツも小さいのは絶無になったさうである。
昔は中宮祠へ行くといっては中々臆劫なものであったが、今は電車で馬返まで行かれる様になったので、一寸下駄ばきで遊びに行かれるのはさても便利な世の中である。明治三十五年より四十年と引つゞき洪水があって、大谷川へ沿ふた新道の大部分が破壊された爲め、今は通路も電車路も概して舊道を走ることになって居る、従って裏見へ行くにも清瀧へ行くにも便利になって好都合である。電車の終點は舊の馬返の一二町下方で、そこに數軒の茶店が出て、着いた人々を呼び込むに忙しい。
電車で馬返に着いた自分は、荷物を「つた屋」に託して馬で旅店まで送らせることゝし、徒歩中宮祠に向った。この邊も道が大そうよくなって、自動車を通ずる計畫さへあるさうであるが、未だ其運びに至らないのは大に※慶賀せざるを得ない、日光の人間がいくら物質的になったとて、中宮祠へ自動車を通せんと計畫するなど實に以ての外なはなしである、飛行器が便利だからとて(日本では未だ中々さうは行くまいが)自分の首へ凧をいはひつけて大風に乗じて飛んで見る様なものだ、世の中には馬鹿な人間も數多あるが、中宮祠へ乗合自動車を通ずる様な考を起す奴は、鬼怒川へでも飛び込んで死ん
|
※堂宇(どう‐う):堂の軒。堂の建物。
※望月直義:日光植物園初代の主任。生涯を通じて五百城文哉と関わりが深い。水戸藩士の出身。松村任三とは遠縁にあたる。
※慶賀(けいが):喜び祝うこと。祝賀。
|
|
31
(頁)
|
だ方がまだ社會の爲めになるだらう。
馬返を出て數町行って、前二荒の風穴の下あたりから、路は一寸大谷川の右岸を通ることになる、従って俗に謂ふ旭瀧のしぶきにぬれる患もなく、更に左岸にうつり、深澤(みさは)をこえて深澤の茶屋に着く、これは大體大昔の路のつけ方にならったやり方で、自分はこの方がすきだ。此邊の崖に稀品シラヰヤナギの若い木が二三本あるのを見かけたのはうれしかった。
深澤から登りも楽になった、木陰で涼しいのに、一歩一歩今迄に比しては急に上るので有難い。地蔵堂俗にいふ※女人堂が改築されたのもうれしかった。やがて方等般若の二瀧の見える茶屋に着く、向って右の小さなのが方等、左の大なのが般若と日光山志には出て居るが、五萬分及二十萬分の地圖等には逆に出て居る、どちらが正しいのか自分は斷定することが出来ない。
所謂劒ヶ峯も樂なものだ、中ノ茶屋迄の距離も短いので骨の折れるぬ内に御小休と云ふことになる。中ノ茶屋は今馬返の「つた屋」で經営して居るので、こゝにはトラキチランの發見者なる神山寅吉が居る、昔よく山へ連れて行ったことがあるので尋ねて見たが、かけ違って逢はずにしまったのは残念であった。
中ノ茶屋からモー一と息(もうひといき)登ると何とか云ふ茶屋がある、不要な所なのでついぞ休んだことがない、それから僅かで大平(おほだひら)の入口に出る。近年こゝの路の左の小高い峯に茶店が出来て、見晴の茶屋と銘打ってある、茶店は其名にたがはず實に見晴しのよい所で、是非登って見る必要がある、眺望は一寸丹青山上のそれに似て居る。(丹青山については本誌第一年第一號にある梅澤學士の記事を参照されたい)。馬返から此處まで三四十分で達することが出来る。此茶屋の地所は二荒山神社に属して居るので、同社で道をつくってあとは地上權を入札で貸すので、借權者が家を建てゝ商賣して居るのだと云ふことである。
|
※女人堂(にょにんどう):女性の参詣を禁じた寺院で,特に女性のために特設した堂舎。女性はここで修行などをする。 |
|
32
(頁)
|
大平の入口から右の方の山中に入る路が明について居るのを認めた。或は地圖の所謂方等の瀧の水源の方へでも下る道かとも思ったが、生憎之をたしかめる機がなかった。大平の本當の味を知らんと欲する人は、男體へ寄った方の木立の中へ入る必要がある、實に深林と云ふことを感ずることが出来る、而も數町歩いて道路に出れば直に身は※俗人の間にあると云ふ所の對照が面白い。
中宮祠は近年焼けてから旅店が山側の方へ建ったのは衛生上結構なことである。以前湖水にさしかゝって家があった頃は洗ひものにも煮物にも湖水の水を用ゐたので、自分の様な神經質の者は中宮祠では何も食ふ勇氣がなかったものだ。今では焼き残った家の外は皆山側にあるだけでも心持がよい、二階三階立の立派な旅店が軒をならべてあるが、何だか奥まで見すかされる様な伽藍堂式なので、自分に斯様な所に逗留する氣にはなれない、處が幸米(こめ)屋が歌が浜に行く道で湖水の大尻から二町半許りの地にある元のロシアの大使の別荘を買ひ込んで、これを多少改造して旅店を営んで居るので、一通りは少なく閑静で而も見晴らしのよい此處が大いに氣に入った、目下新築の三階も略完成して多数の客の宿泊にも便利となった。九月の初めのことで丁度客も込合って居ない時なので、二室占領して一を居間に一を寝室に用ゐて、ゆる(く)滞在が出来たのは好都合であった、それに日光と違って※無暗に通行止がないだけでも氣がのび(く)する、巡査の顔を見ないだけでも心持がよい。
米屋の二階に出て眺めると、正面には白根山が※屹立し、右には湖水からぬけ出たかと見へるまで、整然たる三角形の黒木立の男體山がそびえて居る。白根の左には其外輪山のつゞきの錫(すゞ)ヶ嶽と更に其の南にはズット低い宿堂坊山が見える。或る朝のこと、前夜着いた客の一人がこの景を見て番頭を呼んで種々の質問を發して居たが、奥白根の爆裂の痕跡にひどく驚いて、恐ろしくひゞの入っている山だなあと嘆じて居ると、ハイ左様でハイ、と調子を合せる番頭の切口上もふるって居た、ひゞもあゝひどく入っては一寸かなはない。
|
※俗人(ぞくじん):1 世俗の名利などにとらわれている人。風流を解さない教養の低い人。
2 僧に対して、世間一般の人。世俗の人。
※無暗(むやみ):1 結果や是非を考えないで、いちずに物事をすること。また、そのさま。
2 物事の状態が度を超えて甚だしいさま。ひどい。
※屹立(きつりつ):山などが高くそびえ立つこと。
|
|
33
(頁)
|
湖水では毎日ヨットが數隻出てかぜのまに(く)走る姿は美しい。和船で出かける客も往々ある、名所廻りと號して、中宮祠より歌ヶ濱に出て立木の観音を拝し、それから八町出嶋を見て寺ヶ崎に上り、慈覺大師の創造に係ると云ふ薬師寺に詣で、それより上野嶋に到って男體山を拝して歸るのである。中禅寺湖の名所は未これのみでなく、白(しろ)岩、赤岩を初め、西方千手(せんじゅ)入の方には種々見る可きものがある。舟を艤して湖を東西に縦漕するのも面白い、白岩の西に梵天石と云ふがある、これは昔※船禅定の時梵天を立てた古跡であるさうなが、五萬分の地圖には梵字石と記してある、又※日光山誌には弘法大師が梵字を點じたからだと云ふので同じく梵字岩と出て居る。俵石と云ふのは俵の様な形の石で、昔は大黒天を其上に安置したさうだが、今は何もない。赤岩と云ふのは火山岩らしい赤色の岩が露出して居る處で、たしか紅葉の名所とか覚えて居る、千手の観音堂は千手の入の南隅に位し一寸勝形の地である、其の側に観音清水と云ふ清水が湧出して居る。一寸した川の様になって流れ出るのだが、極近所から湧出るのである、千手の砂利と云ふのは観音堂の下の岩石(石英斑岩?)が※ばい爛したもので、北岸の火山岩と大に趣を異にする處から人の注意する處となったのである。千手の北隅に冠石と云ふのがある、これは三角形の小石が水際にあるもので大して目に立つ程のものでもない。
千手の入りには、柳澤、外山(とやま)澤等の小流三四あって、湖水に注いで居る。外山澤の落口に山師數名小屋がけをして住ひ、近傍を開墾してソバ、ダイコン等種々のものを作ってあるが、成績は可なり良いとか、一寸見たところ出来ばえもよい様である。元来この邊は笹原であるのを、開墾を業として居る者を雇って兩三年前兆の如く畑地にしたのだとか、其開墾専門業の者は大抵夫婦連れの共稼ぎと云ふ調子で、夫は重い大きな先が両方へ折れた、冂形の鍬を打振て笹の根を一尺位の深さに堀り起すと、妻がそれをふるひ分けて根や石を除き、忽(たちまち)にして廣大な面積を開墾して終るのだと云ふことを聞いた、而も其の料金は極めて廉なもので、一坪十銭位とは驚く程安値である、それで一日六十坪を開墾し終
|
※船禅定の時梵天を立てた古跡であるさうな:
※日光山誌:
※ばい爛(ばいらん):風化作用のうちで,化学変化を起さずに,気温変化による膨張収縮や水の凍結などの
物理的な力によって岩石が破砕する現象をいう.現在この語は使用されていない。 注 変換不能 ばい(雨+毎 合字) |
|
34
(頁)
|
るとは早いものである。
千手の入りから尚奥へ入ると千手ヶ原と云ふ小平地がある、この邊を一に※薊平とも云ふさうである、それを半里も進んで中山(なかやま)の蔭へ出ると西(さい)ノ湖(こ)と云ふ小湖がある、四邊山で囲まれて※幽邃の境である。湖の一隅に※沮洳の地があってスゲの類やイトキンパウゲなどが生じて居る。水は清く中にはアカハラやマス等も放ってあるさうだが、舟はなく漕ぎまはって遊ぶことの出来ないのはものたりない氣がする。湖の水は柳澤となって中禅寺湖に注ぐのであるが、減水すれば少しも流れず、全然隔離された水瀦(みずたま)りとなり了するのである、そして大岳の方から流れ出て柳澤に合する澤も水が全くなくなることがあるが、それでも柳澤の落口には可なり多量に水がある、つまり地下を水がくゞって来て意外な處で湧出して川となって湖水(中禅寺)に注ぐことヽなるのである。西ノ湖の岸の一部には僅許りアシが生じて居る外あとは笹か樹木が生じて居る、オホズミの大木やシヲヂがある、又此邊にはニレの大樹が深山オホナラに交って生じて居るが、北海道にあるニレとは枝ぶりが大分異ってしられて居ない。笹の間にはゴマナが澤山咲いて居た。
外山澤に沿ふて立派な林道が出来て居て、夏は※地橇、冬は雪橇を用ゐて外山澤の奥から材木を出して居る、地橇とはつまり地上に用ゐるもので、林道に一二尺置にころがしてある丸木の上をすべって動くもので、材はオジョヲレの如き丈夫なものを用ゐ、其下面に※荏ノ油を塗って滑動するやうにして用ゐるのである、西ノ湖に行くには、この林道について數町進み、やがて外山澤に大きなナラの一本橋のある處からこれと別れて、彼の橋を渡り林中を眞直に進むので、少し行くと左から來て右に行く一小徑があるがこれは柳澤から來るものとかである、それにかまはず眞直に行けば一軒の百姓家があるのを過ぎて、柳澤の上流を渉り、復林中を少し行くと左に湖水を見るのである、目下は外山澤から菖蒲ヶ濱に出る立派な道が出来て居るから(自分は此の道は通過しなかった、只其一部を望見したのみ
|
※薊平(あざみだいら):
※幽邃(ゆうすい):景色などが奥深く静かなこと。また、そのさま。
※沮洳(しゅじょ):土地が低くて水はけが悪く、いつもじめじめしていること。また、その土地。
※地橇(そり):
※荏ノ油:荏(え)ごまの油。古来より建築用に使われる乾性油。木材の表面に膜をはるので防水効果がある。
逞う
|
|
35
(頁)
|
である)これによって中宮祠から全然陸路によって西ノ湖に達することも出来る。或は菖蒲ヶ濱から舟を貸して行くのもよい。菖蒲ヶ濱の沖からは太郎山も見えて景色がよい。
中禅寺湖に舟を浮べて見て特に感ずるのは、其四周の山に生じて居る密林の美しさである。箱根湖の周圖が主としてハコネダケの生ぜる山で目にたつ程の森林がないのは葦ノ湖の價値を下げること一と通リでない、それと反對に中禅寺湖の四周の山の密林殊に常緑樹は、景にどれだけの風致を添ふるであらうか、この密林ありて初めて中禅寺湖は生きるのである。この常緑樹も今や漸く跡を絶たんとして居る。※足尾から吹き寄せる毒風は南岸の山の頂を已(すで)に坊主にしてしまった、阿世潟峠の上なとは殊に悲惨である、此山、黒槍岳の方面は山が高いだけに、毒風の達する量も少い故か、枯木の數もやゝ少いが、それでも肉眼で明に枯木や瀕死の樹木が見える。此のまゝで進めば今後十年したら中禅寺湖の南岸は一樹の影だになくなるであらう、そして男體の下部も追では此の毒霧毒風の爲に到底とり返しのつかぬ赤裸にされてしまふのだ。其頃には清瀧附近の山は無論足尾の現在の状態と選ぶ所がなくなり、日光山の眞の美點は何處に求めることが出来る様になるだらうか。水害は益々起り、山はくづれ、人家は流れ貴重だとかいふ人命は一抹の水泡と共にきえるのである、其時になって人の子は自から植ゑた罪の爲めに亡さるゝのだ、そして喜んで成佛するのだらう。此の如く自然を虐(しいた)げても我慾を※遑(たくまし)うせんとする者が、自分と同じく、少くも形態學上から、人類として取扱はれ、社会や國家をなす分子であるのかと思ふと、もう一刻も早く人間をやめてしまひたい、そして青空を翔る白雲とてもなって※殘忍な人類の面上に天から※睡してやりたい。
中宮祠附近で外に遊びに行く所は近くでは歌ノ濱の観音、寺ヶ崎、阿世潟などで、健脚な人は男體山へ登るのもよからう。湖水を匝(めぐ)って阿世潟へ行く路は、歌ノ濱を通過するもので、歌ノ濱から先きは細徑或は湖に入り或は崖に上りなどして、初夏にはツバメオモトの白花をふみ、初秋にはヤマトリカ
|
※足尾から吹き寄せる毒風は南岸の山の頂を已(すで)に坊主にしてしまった。:
※逞(たくまし)う: たくましくする
※殘忍(ざんにん):凶悪でむごい,残忍である
※睡(ねむら)して:@心身の活動が一時的に休止し、目をとじて無意識の状態になる。ねる。
A 死ぬ。また、死んで埋葬されている。
B(能力・価値などが)活用されない状態である。 C活動をやめて静かである。
D目をつむる。目を閉じる。 |
|
36
(頁)
|
ブトの紫花に導かれて行く、昔ながらの山道が何となくなつかしい。寺ヶ崎は通例舟で訪ふ所であるが、陸路強いて行かれぬでもない。但し路らしい路もないので、往々湖中の岩石をのり越えたり又は※荊〇(けいし)をおしわけて行くより致方がない。男體山へは中宮祠から直上三里を號する、毎年舊暦七月一日より七日までは※禪定と稱へて、數萬の※賽者が白衣で山へおし登るので、登山料は一人金三十五銭を徴収する。それで差引少なくも二十五銭は純益となるので、二荒山神社は優に數千圓の實収がある譯であるが、それでも※末社※摂社は申すに及ばず、女峯、太郎等の山頂の社は荒廃にまかせてあるので、金が餘って困る位だそうな。
湯元に行くには舟で菖蒲ヶ濱まで行くか、或は全然徒歩によるか、或は一部なり全部なり人力車を賃するかであるが、昨今は四人乗の實に見すぼらしい、どこぞの掃溜めからでも拾って来た様な馬車が湯本に往復する、乗車賃は一人片道四十五銭とか五十銭とか聞いたが、斯様な乗ものを利用しやうと云ふ驚志家があるかと思ふと、世間は廣いものだと感ずる。
湖の北岸に沿ふて菖蒲ヶ濱に出るに徒歩一時間許を要する、相變らず心持のよい路で、ひどく暑くもない木陰を行くのは愉快であるが、西澤金山行の馬が盛に通るので粗野な馬子に出會ふのは決して有難いことではない、しかし舟行は晴天には可なり暑いことを覺悟せねばなるまい。
菖蒲ヶ濱には帝室林野管理局の養魚塲がある、謹で拝観を願ったら、随意に見ろと云ふ係員の御言葉なので仰に従って随意に見ることにした、池が澤山出来て居て、地獄澤から引いてある清水が始終流れて居る間を、大小数百のマスが泳いで居るのも見事である。此外には西澤金山で用ゐる電氣の發電所もある、近々之を擴張して、金山まで ※鐡索を通じて貨物の運搬を開始するのだとか、多數の工夫は入り込んで戦場ヶ原の三本松の邊には何とか商會の出張所などさへ出来て、黄金崇拝家をして※欣然たらしめて居る。
|
※荊〇(けいし):荊棘(けいきょく) 1 イバラなど、とげのある低い木。また、そういう木の生えている荒れた土地。
2 障害になるもの。じゃまになるもの。困難の多いたとえ。 3
人を害しようとする心。悪心。 注 (し)変換不能 草冠+刺の合字
※禪定(ぜんじょう):1 精神をある対象に集中させ,宗教的な精神状態に入ること。また,その精神状態。
2 富士山・白山・立山などの霊山に登り,行者が修行すること。 3 山の頂上。絶頂。
※賽者(さいじん):神社・仏閣にお参りする人。賽者。
※末社(まっしゃ):1.本社に付属した神社。2.たいこもち。
※摂社(せっしゃ):本社に付属し、その祭神と縁の深い神を祭った社(やしろ)。格式は末社より上位。
※鐡索(てっさく):鉄の太い針金をより合わせた綱。また、ケーブル カー
※欣然(きんぜん):よろこぶ様子。よろこんで。 |
|
37
(頁)
|
菖蒲ヶ濱から三四町も行くと地獄の澤に出る、立派な橋が出来て奮のと二條かゝて居る。地獄の茶屋の向こふにチヨイと登ると直おなじみの龍頭の瀧で、小亭が出来て居て観客の休むに便利である。龍頭の瀧について坂路を上ると復一茶亭の舊跡とも稱す可きものがある、一時龍頭の瀧などゝ號して客を呼んだものだが、今は廢れてしまった。
これから朝なら日を背負って暑い道を登るのだ、昔はこの邊から戦場ヶ原の入口まで一帯にオホナラ等の林であったのだらうか、今は無残な跡を止めて居るにすぎない。
湯元道で一番自分のきらひなのはこの龍頭瀧の上の登りである。景のよい戦場ヶ原も炎天には日陰はなし、それに工夫、土方、馬子、俗客の群に出會ふのが如何にも苦痛なので、別路を考へて居たのだが、フトしたことから子田代(こだしろ)の原を經て湯元に出る路を發見したので、これを次に紹介することにする。さっきの龍頭の瀧の茶店から少し上ると道の中程に二三十坪程の平地があって、もと※小屋掛でもして木を挽いたらしいあとがある、こゝから左の方に細徑が通じて居る、甞(かつ)て菖蒲が原の發電所へ湯川から水を呼んだのかと思はるゝ樋の残骸がある、その向って右にある細徑を進めばよいのである。龍頭瀧の上流を左に瞰(み)て行くと色々な形をした岩石の間を水が流るゝの状は慥(たしか)に一覧の價値がある、川は或は狭まり或は廣くなるが、數町も行くと、両岸が漸く相近ずいて橋がなくとも楽に岩から岩へとび移って彼岸に達せらるゝ所がある、現今では立派な粗朶橋が架してあるから馬さへ自由に達する程である、こゝで川を渡らずに行けば戦場ヶ原の入口の茶屋の所に出るが、路は變も奇もないらしい。川を渡って行けば一寸草原でまだ若いカラマツなどが立って居る、漸く進むと間もなくオホナラの密林に入る、オホナラに交って百尺亭々たるカラマツが多少あるが、直して巨大なオホナラで、純林と稱してもよい、地は概して平坦で僅に上下あるのみである、林中風は透さぬが日陰を行くので炎天よりは餘程樂である。此のオホナラの純林は戦場ヶ原の西に連って、やがては湯本の湯瀧の下一帯
|
※小屋掛(こやがけ):仮小屋をつくること。特に、芝居や見世物のための小屋をつくること。また、その小屋。
|
|
38
(頁)
|
の地に及び、それより戦場ヶ原の四隅に續いて居るのだが、此邊は其最美なるもので稀に見る處のものであるから、森林の趣味を有する人や修學旅行の際などには特に来て一覧す可きものと思ふ、これも数年内にまた人の子の手にかゝって伐採さるゝかも知れない。
林の中を概して西北指して行くと十數町で、一寸北に向って進むと小さな坂路を上ることになる、路が二本あるが何れを行っても直に合するから心配するに及ばない、これを上ってだら(く)と右手に下ると、こゝで初めて路が二岐する、左のを取って山の裾について復西北から西の方へだら(く)降りに進むと二四町で、木の間から小田代ノ原が見える、林を出離れてパッと明くなって原が直目の前に開展される、前面には前白根の續きの山雅蟠(わだか)まって左の方に錫ヶ岳の一角が現れる。少し行くと路が二岐する、左のを行くと直に復二つに分れる、眞中のは眞直に行って小田代ノ池に入ってしまふので水が乾いて居るにあらねば通行は出来難い、左のものは池のふちを周って其對岸に近い所で外山澤からの道に合する、池の水は増減があるので、池を匝る路は時に池水に蔽るゝことがある。それで時には左方の小高い草原や笹の中に入る處もあって、知れにくいが通過には左したる困難はない。殊に池畔にミヅゴケなどで足を陷(おとしい)れる様な所は皆無であるから心配はいらない。小田代ノ瀧は五萬分の地圖には池らしく記してないが、大雨の後に少し水の溜る位な所を立派な池の様に印してある點かち(ら)考へても、此の池はモチツト池らしく取扱って貰ひたいものだ。外山澤からの路に合して暫くは草に蔽(おおわ)れたる細路をたどるのだが、やがて立派な道路となって、山の裾を通って東北に走るのである。後に立戻って前述の三本の内の右の徑はどうかと云ふと、これは小田代ノ原の東の縁を略北微に西に走って、林の端の草の中に通じ、やがて十町程で外山澤からの路に合するのである。時間に餘裕のない場合又は池をめぐるのがいやな時にこの路を行けば距離は大に短縮する譯である。此邊は近年御料局でカラマツの植林をやって居るので、後來立派な林が出来るだらう。道も其の爲め昨年頃かよくした
|
39
(頁)
|
と云ふ話である。
これから再びオホナラの林に入ってだら(く)下りに東北指して行けば、數町で※泉門(いづみかど)に出る、これは路の右方の崖下にあって清水が絶えず湧出して居る、飲用に差支はない様に見受けたが崖から降るに一寸億劫である。此處から右に戦場ヶ原の一部※糠塚の後方が見える。泉門を過ぎ、だら(く)と下って一寸した橋を渡り復數歩上ってオホナラの林に入り左にまがって少し降りぎみになって進むと、間もなく湯川を渡る橋に出る、兩岸は巨木枝を交へ水は静に流れ、景もわるいとは決して申し難い。これから川について左に少し行って小坂を上ると全面は開けて、こゝにも森林亂伐の惨状を物語って居る。一軒の百姓屋の前をすぎて行くと、日は遠慮なく照りつける、笹や雑木の繁った所を行くと二三町で湯本道と湯瀧道と別るゝ所へ出る
This pass leads to Yumoto through Yudaki Waterfall と云ふ奇抜な道しるべが怪しげな字で書きつけてある。
此處から湯元に行く道は別段申すにも及ばない、只昔から見るとサルヲガセが著しく減じたのが目につく。
湯元には現今主な旅店が五軒ある、本誌第一年第一號で御紹介して置いた番頭の居た山田屋は餘程以前につぶれ、近年吉見屋が其建物を板屋に引取られてから、あとは南間、米屋、釜屋、渡邊旅館で、餘は三流以下のもの二三にすぎない。贅澤を望む人は南間がよからう、左なくば板屋は居心のよい家で而も驚く程安値である、一體日光町は知らぬが中禅寺でも湯元でも、信州の諏訪などに比較すると遥かに安値で而も取扱がよく女中などでもわかりがよい、尤も諏訪や長野の様な所は信州意外にはたんとあるまい。
湯元附近には散歩に行く所がないと苦情を言ふ人もある様だが、出懸ないから悪(わる)いので、少しまめな人なら雨天でゞもなくば退屈することはあるまい。湯湖に舟を浮かべるもよし、湯滝を訪ふも面白いし、泉
|
※泉門池(いずみやどいけ)は、戦場ヶ原の北西端にある池沼。
※糠塚(ぬかづか)は、戦場ヶ原のほぼ中央部にある丘。周囲には高層湿原の植生が見られる。 |
|
40
(頁)
|
門あたりは散策には丁度よい距離である、又は古賀谷(こがや)から光徳(くわうとく)あたりへ行くもよからうし、遠路をいとはぬ人は西澤金山へも行ける、山路を恐れぬ人は蓼ノ湖、切込、刈込を訪ひ、或は白根、太郎に登り、又は金精峠をこえて丸沼あたり迄行くも面白からう。次に其二三のものゝ道筋をザット紹介する。
湯元の北隅自在湯の元の傍を通って細徑を上る、初め少し急で上り切ると山腹を横に行く。笹が可なり茂って居るが大して歩きにくゝもない、数町で左方に水が見える、細徑をたどってこれに下ると蓼ノ湖の一端に出る、縁を周って對岸に出ることも出来る。元来此処は四方山で、取まかれた山中の一小凹地で、俚人は此地をタテと呼んで居る、湖は山より落つる水の溜ったもので落口もないが乾き上るともなく、冬は堅氷に閉されてしまふのである。魚類としては多少のマスが放ってあるのみである、此の縁にはタデノウミノコンロンサウがある、其他スゲの類なども生じて居る。
蓼ノ湖のタデは日光強飯の句にもあるが、これは果してタデの種類であるか或は全然斯様なものはないのかも知れない、同じ句にある御花畑の唐幸なるものはどうも實際にあらうとも思へぬ、しかし※中禅寺の木唐皮や霜降のゴキノミ(ツクバ子のこと)が事實あることから思ふと、強て想像を逞うして或はクリンユキフデの如きものでも言ったのではないかとも推測出来ないでもない。つまらぬことだが清盛の死因が診斷(臆噺?)しやうと試る人のある世の中故、この位なことに數行の餘白を費しても編輯員から抹殺さるゝ様なこともあるまい。
蓼ノ湖から舊路に立ちもどって、尚前進するとやがて一寸峠とも云ひさうな所に出る、之を下るとやや原野とでも言った様な平地を澤が縦横に荒れ狂った所に出る、此邊を大野又は大野ヶ原などゝ稱える。此の原の入口とも云ふ可き所の道の左側に一小池がある、浅い池で中にはミクリの一種が一面に生じて居る従来名がないものであるから新にミクリノ池と云ふ稱呼を與ふることにした。五萬分の地圖に1707 と記してあるあたりである。
|
41
(頁)
|
大野原を縦に走って刈込湖に注ぐ大きな澤が地圖に記してあるが、此澤は平常は無水である。或は木立の中を或は笹の中を多少上下して行くこと數町で急に澤に下ってそれを横斷することになる、此邊は去る卅五年の大暴風雨に荒れた處で、今でも當時の※凄滄な状態が思ひ出でらるゝ。地圖には立派に橋が三っも記してあるが實際は一ツもない、が其の三ツ目の橋のあらりで澤を渡りかへして復木立のうす暗い中を暫く行くと切込湖の一端が目に入る。切込、刈込の二湖はちまり蓼ノ湖の大なる様なもので落口のない湖である、そして二湖は細い水道でつながって居て、南湖の水面は同じ高さである、五萬分一の地圖には大なる方面も先づ目に入る方のを刈込とし他を切込としてあるが、これは※却で反對ではないのかと思はるゝ疑がある、目下之を云々するに充分の材料を持たぬから只疑を存して※博雅の士の教を乞ふすることゝする。(※臆斷を試みても抹殺は致しませんでしたのに。編輯員)
湖について少し行くと小渓の左より來りて湖にそゝぐものをこえ複数十間樹林を行って更に澤が左の山からおしだした處に出る、此二渓は水が絶えぬ様であるが、地圖には一向に記してない。此の荒れ出した澤をこえると茶店の廢趾がある、泥土が四邊に飛び散って、洪水當時の如何に悲惨であったかを語るに足るのである。
地圖の所謂切込湖も方へは林中路なき所を第一の湖について辿れば達することが出来る、湖は共に深さうでフナが棲息する他魚はないと云ふ。
此二湖を過ぎて尚上れば一八七三米の金田(かねだ)峠に出る。頂上の眺望は鹽原方面の山岳より磐梯山まで見えるさうだが、自分は晴天に此上に立ったことがないので如何とも申し難い。峠を越ゆれば西澤金山へも、或は栗山の川俣へも出られるので、金山からさきは現今は道路もよし通行自在だと云ふことである、只金田峠の路は去年は一度笹を刈ったさうだが、今年は草木繁茂にまかせてあるのでやゝ困難を感ぜざるを得ない。
|
※凄滄(せいそう):
※却(きゃく): しりぞく・かえって 1.しりぞける。おしかえす。受けつけない。欲望をおさえる。
2.後ろへさがる。しりぞく。ひく。
※博雅の士(はくが):学問・技芸に広く通じ、道理をわきまえていること。
※臆斷(おくだん):おしはかってきめること。臆測による判断。
|
|
42
(頁)
|
白根登山に関しては言ふ迄もなく諸君の熟知せらるゝ處であるが、従来の登山客は大抵白根澤を上って前白根に出る月並みの道を上下するにすぎない。湯本から登るとすれば先づ金精峠を登り其頂上から左に折れて尾根傳ひに前白根の一角に出ることも出来る、但途中※笈岩の所を上るのが難塲だと言ふがそれも充分用意して行けば絶対に不可能なことはないのである。奥白根の頂上から大爆裂口を経て上州に下るのは必ず興味あることゝ思ふが、自分は未だ之を決行する機會のないのを遺憾に思ふ。此路によって下山すれば地図に所謂遠鳥居とある白根の一の鳥居の處に下るので、路は隋分荒れて居ることゝ思ふが、一の鳥居からは一ノPに出る舊道(こみち)を清水(しみづ)に戻り、萬一行き暮れたらこゝらに一泊するか、左なくば第一日に五色沼の附近に野営して二日掛でやれば充分である。
二千米突以上の峠で金精峠程の立派な道のついて居るのは多く見ぬ處である。現在では九尺幅の石さへゴロゴロして居ない誠に楽な道である。湯元を出て一時間許りで金精神社に達する、社は倒木におしつぶされて哀れな有様であるが、それでも一銭銅貨一個と五銭白銅一個が賽してあったのは御利益に変わりのない證據(しょうこ)であらうか。社から頂上まで半時間とはかゝらぬが、休憩時間を入れて全體で一時間半と見積れば湯元から金精峠の頂上迄達することが出来る。峠の上州側は割合に水害を蒙らないので昔ながらの路である、三十分乃至(ないし)三十五分で清水に着く、此處は清水ノ沼の東俣の端に當る處で、前には※沮洳(しょじょ)な地があるし、又道を横切って清冽な水が湖にそゝいで居る。景も悪くはないから小憩地としては適當である。
昔は五萬分の地図に線點を以て示してある路によって一ノPまで無人の境を行ったものだが、近年千明氏が丸沼で養魚を初めて新道を造って以来立派な路が開かれて通行には極めて便利である。只慾を言へば今少し低く湖に沿ふて道をつけたのなら更によいだらうと思はれる。
新道によって進むと十餘町で沼の北俣が木の間から見參に入る。此處で一寸此湖の名稱について一
|
※笈岩
※沮洳(しょじょ):土地が低くて水はけが悪く、いつもじめじめしていること。また、その土地。 |
|
43
(頁)
|
言する。昔は何と呼んで居たのか知る由もないが、嘉永二年版逸見豊次郎著増訂大日本奥地地図には、此處に一湖を記してタウラ沼とか呼んであるのがおぼろげに見える。此れが三湖の何れに當るや又全部の総稱にや不明であるので、之を考證の資料とはなし難い、割合に近年發行のものでは陸地測量部の二十萬の地図に笈沼と記してあるが、五萬のには菅沼とある、菅沼なる名は震災豫防調査會報告第二十七號にも出て居る、近年一般此名を以て呼ぶが土人は依然として清水ノ沼と稱して居る、其理由は前記の東俣の頭に清水が流入するので此處を清水とでも呼びそれから清水ノ沼と云ふに至ったのではないかと云ふ臆説もあるが自分は否と答へるより致方がない、此湖は五萬分の地図にて見る如くY字形をなして居るので其の東方に向ふ腕を東俣と稱し北方の腕を北俣と云ふ、此北俣なる名は可なり古いもので一八八三年出版の Handbook for Japan 第二版にも、載って居る、又此部をハス沼(斜沼の義)とも呼ぶものがあるが餘り廣く行はれては居らぬらしい、笈岩なる名は笈沼にちなんで命じたものかと云ふ説もあるが、日光のものは此名を用ゐず、若しこれが上州の名だとすると笈岩の見えぬ方面の人間が此の如き名を附けるのは一寸會得出来にくい。此他猶(なほ)地質調査所の地図を参照する必要があるが、生憎(あいにく)手元にないから他日機会あるまであづかりとする。
北俣の沼が見えてから程なく右に入る細徑がある、これについて行くと少し下って湖畔に出る、此處に小舎があって※据風呂抔(など)の轉(ころ)がって居る處から考がへると滞在にも事を缺かないらしい。こゝから少し左手の山中に入り左から來る細徑に合して右に曲ると復湖畔に出て、それから水際を傳って湖水の落口に出る、清水の湖頭から四十五分程はかゝかる。此處で清水ノ沼の水は三百米突も下って丸沼に注ぐので、其處中上部に八町瀧と云ふ見る程でもない瀧が懸って居る。此れから細徑は恐ろしい急な※山坡(さんは)を降って丸沼畔に出て、千明養魚塲に達するのである、そこまで八町瀧の上から三十分許りはかゝる。
養魚塲の建物の主部は往年此の山奥の湯沢の湯を引いて温泉宿を経営せんとしたのが、浴客がない
|
※据風呂
※山坡(さんは):(山頂と平地の間の)傾斜した山腹,山の斜面. |
|
44
(頁)
|
ので終に廃業の悲運に立到った其の廃屋を修理し安全の位置に移したもので、これに隣て新築の物置や孵化塲がある、此處は去る明治卅八年に尾瀬の帰途ネバ澤から山越して下って來た所で自分には舊知の地である、今は養魚場であるので※終歳人煙絶えざる有様であるから一ノ瀬へ出る道路も従来と異なって立派に営まれて山人には好都合である。
丸沼と其次の大尻沼との関係は猶切込と刈込との関係の如しだが、只丸沼の水が大尻沼に注いで、やがて小川の源をます違があるのみである。
丸沼から本道を清水まで戻るのは中々倦きる道である、可なり急いで歩いても一時間半はかゝる清水から金精をこえて湯元に達するには二時間あれば餘る、金精峠の頂上は大分木が倒れた爲め眺望が従前よりもよくなった、湯湖の一部を見下し、其向ふに男體の雄姿が聳えて居るのは悪い景ではない。
明治卅八年に湯元の「勝」、あの詐欺を兼業とでもして居るのではないかと某氏が評した宮川の「勝」にひどい目にあった自分は、其後當分白根登山を断念した位で、湯本に暫く登らなかったのも其れが理由の一つであった、十二年後の今日でも「勝」は依然人に嫌はれながらも山案内をするさうである。が、外に適當な案内者はないかと捜した勞空しからで、長岡多一と云ふ男を見付け得た、大正五年に三十九と云ふからまだ(ぐ)山歩きは向十年保険付きで大がらな逞(たくま)しさうな男で極めて着實さうで、又山の様子も中々詳しい、高山植物の名も可なり知って居るさうだがそれはどうでもよい。自分は此好案内者を得たのを喜んで諸君に推薦する。同人は日光の諸山は大抵知って居る、機があったら尾瀬へ行って様子を見てくると言って居たから追ては尾瀬の案内にも役に立つ様になるだらうと思ふ。附近の山の案内料は前白根金一圓、奥白根金一圓二十銭、太郎山金一圓七十銭、男體山志津廻り中宮祠下り二日路にて金二円と云ふ事である、此人間なら案内者手帳を與ふ可き資格があらうと信ずる。
湯元から中宮祠に歸るのには戦場ヶ原を通過するのが便利で且得策だと思ふ。湯坂を下りて古賀谷
|
45
(頁)
|
の一ト口水迄は上るよりも下る方が餘程樂だ、殊に古賀谷から少し湯元によった所は大層道路が修理されてあるが、元来日光地方の路普請と云ふのは澤や湖から砂利と砂とを採って来て只道路にぶちまてるだけなのだから見かけはよいが、歩きにくいこと請合だ、それで餘計手をかけてある湯坂の下方などは上りにはなる可く避けた方が得策だ。湯元へ行くには小田代を通って行くと此點に於ても利益がある、路は少しまはりになるがそれでも菖蒲ヶ原から二時間半かけたら充分湯元の旅舎まで達することが出来る。
古賀谷の邊は逆川(さかさがは)が推出したので驚くべき川原となり風致を損じた事一通りではない、しかし勝道の一口水の依然湧出して居る。古賀谷で橋を渡って少し行って左へ小徑を傳って十二三町も行くと光徳の沼へ出る、昔は一廉の沼で鴨が降りたりしたが、三十五年の大荒れ以来年々御澤(おさは)がこゝへ進出して、沼は為めに大半うまって逆川の一部が少し膨んだにすぎぬ見すぼらしいものとなった、五萬分の地圖にある程の大さはとてもない。
戦場ヶ原の本道から光徳の方へ入る間道の入口の側に牛小屋が出来て、近所に牛が澤山放牧してある、湯元の旅舎の南間の経営して居るものとかで、よい思付きである、山中の高原に牛の群れが徘徊して居る景もわるくはないが、せめて首に※クラリヨンでもつけたら尚よからうと思った。
戦場ヶ原の本道は乗合のガタ馬車が通る位だから、幅も廣くなり、其他の點に於てもよくなった様だが、寧ろ馬の通る位の程度にして置いて、日光山志の繪にある様な細徑を通じて置く方が適當だと思ふ、無暗に道を廣げることが必しも常によいとは言へまい。
三本松の茶店も金山の爲めに繁盛する様だ、金山が盛大になるのはよい事かも知れないが、黄金の前には自然とか風致とかの※感念をおし氣もなく打すてゝしまふ人種の住んでいる國では、こんなことは盛にならない方が國の爲めに結構だと思ふ、戦場ヶ原へ鐡索をかけて、鐡尿を運搬されては到底たま
|
※クラリヨン:
※感念(かんねん):感じ方。考え方。 |
|
46
(頁)
|
るものではない。こんな※手合にかゝると、誰かゞ男體山の底は鉛で出来て居るとでも、言はうものなら、坑道をほるなんて手ぬるいことはして居ないで、ダイナマイトで山をふきとばしても、其鉛を採らうとするのだらう、そしてそれが國家に功労があると云ふので勲章の一つでも貰ふと云ふ世の中だ。※拝金宗のかたまりだと云って、日本人がけなす米國に、ナショナルパークの設があることを知って居る者は日本國中に何人あるだらう。そしてさういふことを聞かぢっても真似をしやうとする奴もない。此頃は兎角わるいことで、猫も杓子もサンフランシスコ邊迄洋行して、日米騒動を起こさなければ、碌でもないことばかりを直輸入するのが關の山で、よく※眼光を紙背に徹して欧米の真相を※捕捉して歸る者が、所謂洋行歸りと崇拝さるゝ者の中に幾人あるだろう。
久しぶりで戦場ヶ原をよく見ると、葉の細いスゲの一種が夥(おびただ)しく繁茂したものだ、其の爲にツルコケモヽやヒメシャクナゲなどは大に壓迫されて、僅に生残ったミヅゴケの間にちゞかんで居る。近年はツルコケモヽの實を拂下げて、両に二升位な價ね盛に賣出すと云ふことだが、その位ならツルコケモヽの保護をして、その繁殖を計ったらよささなものだ。自然に相當の保護を加へて之を利用するのはよい事だが、自然を虐(しいた)げても限りなき人慾を満たさうとするのは奨励すべき事ではない。
湯元の方から来て戦場ヶ原を出はづれる所に、五萬分の地図には赤沼と云ふ可なり大きな沼が記してある。十餘年間こゝに堤を築いてコヒだかフナだかを飼養した人間があったが、不成功とあって今は全く中止し、堤もなくなって今は平地に水がチョロ(く)と流れて昔の夢のあとを語って居る、其頃だとて此池は地図上にしるしてある程の大きさではなかった。五萬分一の地図の※瑕瑾の一つは、小形の池沼の大きさが餘りに不正確なのと、年中水(たた)ゆるものと、単に※沮洳の地をなして居るものとの區別が、餘に實際に遠ざかって居ることがある。序にモ一つの苦情を言ひたいのは、澤や山やの名で古来俚人にだけでもよく通じて居るものが、あまりに多く省略されて居ることだ。しかし大體に於て誤の少い
|
※手合(てあい):1 連中。やつら。やや軽蔑していう。「ああいう手合いとは付き合いたくない」 2 たぐい。種類。
※拝金宗(はいきん):金銭を最高のものとして、極度に尊重すること。高橋義雄著『拝金宗』に、「拝金宗とは米国人のいわゆる
オールマイティー・ドルラル(すべてはドルである)という言葉を翻訳した」、この本が有名となって、
慶應義塾は「三田の拝金教」であり、福澤諭吉は「拝金教の教祖」であるとも云われ非難された。
※眼光を紙背(しはい)に徹して:書物に書いてあることを、表面だけでなく真意まで理解することのたとえ。読解力に長けていること。
※捕捉(ほそく):つかまえること。とらえること。
※瑕瑾(かきん):きず。特に、欠点。短所。
※沮洳(しょじょ):土地が低くて水はけが悪く、いつもじめじめしていること。また、その土地。 |
|
47
(頁)
|
此図が吾人を益するこよは實に莫大なものである。男體図幅でモ一つ言て置きたいのは、外山澤の出て来る外山の位置が少し違ひはせぬかと思はれる。前白根山を記してある山の字の少し下で、外山澤が二岐する其中央にある小峯を、俚人は外山と呼んで居る。これは近くへ行かなくなっては到底見えぬ山である。予に言ふは此外山澤の奥、殊に其左の方の上流には可なり立派な瀧があるさうである。赤岩の瀧とかいふのはこれだかと思ふ。
戦場ヶ原の本道は、再びオホナラの粗林に入ってやがて龍頭瀧の所を過ぎて菖蒲ヶ濱に出て往路を戻って中宮祠へ歸る澤である。
中宮祠附近の山あるきをするには、米屋へ頼んで案内を雇へばよい、自分は小平留五郎と云ふのを使用したが可なり此處の山川に明い様で、而もおとなしい人間である、それでも稀には不正確な事がないでもなかった。
日光も一通り奥まで歩いたから、再び帰路につくことにする、途中は一足とびにして日光町迄辿りついたことにする。さて、小倉山、萩垣両方面乃至鉢石などへ散歩して見た、特記することもないが稻荷川に一見立派な釣橋が出来る最中でであった、これが完成したら霧降方面へ行くに便利なことだらう。鉢石も昔と大同小異であるが、Fine Art on the upstairs だとか Peppermint first made here in Nikkou などと云ふ奇抜な※招牌(しょうはい)が大分増えた様だ、産物として※鬻(ひさ)ぐものは相変わらずの日光羊羹、日光唐辛を初め、下らない箱根細工の玩具や、※コクハの蔓製の不恰好な杖位にすぎない、あれも何とか改良することが出来さうなものと考へられる、殊にコクハの杖に至っては在郷の兄いでさへ用ゐられたものではあるまいに、それより蔓を截(き)らずに其實を採った方が得策だらうと思ふ。
日光山と云ふとあまり人口に※膾炙(かいしゃ)して居る故か、平々凡々の所の様に思ふひとがある、初歩の登山家なら知らぬと、天狗連や雷鳥の申し子などの行く可き所ではないと考へてる人もある様だ、併し此頃
|
※コクハ(こくわ):サルナシ
※鬻ぐ(ひさ)ぐ:売る。商いをする。
※招牌(しょううはい):看板
※膾炙(かいしゃ):「膾」はなます、「炙」はあぶり肉の意で、いずれも味がよく、多くの人の口に喜ばれるところから、
世の人々の評判になって知れ渡ること。「人口に膾炙する」 |
|
48 (頁) |
※なまものじりの奴等の間に流行する様な何々アルプスだとか、何とかライン杯と云ふ馬鹿氣た名をつける病氣に感染しないで、昔ながらの様子のある所が何となくなつかしい恒雪がないからとて、カールとかゞないからとて、山岳研究家が度外視する山ではあるまいと、頼まれもせぬ提灯(ちょうちん)を持て置く。
|
※なまものじり(生物知り):いいかげんの知識しかないのに物知り顔をすること。また、その人。 |
|