八木重吉年譜

2014・8・22 加藤武雄の研究ノートー@ 「汽車の中で」の全文を追加
2014・9・28 「八木重吉詩集 山雅房 発行 昭和17年」の目次欄を追加
2016・12・14 「八木重吉ーさいわいの詩人ー展」の図録を追加
2018・10・3 山口瞳著「小説吉野秀雄先生」の中から「短歌百余章」の部分を追加
2019,11,10 「コスモス 1輯」から遺稿17編を追加
 
1898 明治31 2月9日、南多摩郡堺村相原大戸4473に八木家の二男として誕生。 
      父籐三郎、母つた
1899 明治32 1
1900 明治33 2
1901 明治34 3
1902 明治35 4
1903 明治36 5 4月、第13回武相卯歳観音霊場めぐりが始まり、第24番札所大戸観音堂が御開帳となる。
1904 明治37 6 4月、相原尋常小学校大戸分校に入学
1905 明治38 7 2月4日、新潟県高田市南城町に島田登美生まれる。
1906 明治39 8
1907 明治40 9
1908 明治41 10 神奈川県川尻村尋常小学校へ通学
1909 明治42 11 6月 加藤武雄、川尻村川尻小学校准訓導に転じる。
1910 明治43 12 川尻村尋常小学校高等科へ進学、加藤武雄の教えを受ける。
1911 明治44 13
参考資料ー@  川尻村尋常小学校の高等科か、時期不明 調査中 2014・8.21 保坂
八木重吉の思い出  落合賢治
 重ちゃんは上品で、なんとなく近づきにくいようなところがありました。いつも、なにかこう夢を見ているような顔つきをしていました。
 こんなことがあったんです。冬のある日、そのころは教室にストーブがあって、薪を突っこくる鉄の棒がありました。その鉄の棒をいたずら連中がふりまわして、机のふたを楯
(たて)にしてあばれていました。わたしは頭はよくなかったんですが、どうしたわけかそのとき級長だったので、それをとめにかかったんですが、鉄の棒を引ったくろうとしたとたん、まちがって重ちゃんの口のところへぶっつけちゃったんです。口から血が出る、見れば前歯がかけている。
 早速受持の大房先生に呼びつけられて、いくら弁解してもだめなんです。それがくやしいやら、重ちゃんに申しわけないやらで、わたしはおいおい声をあげて泣きました。
 すると重ちゃんがやって来て「おい、オチ、いいんだよ」というんです。わたしは落合だからオチというあだな名だったんです。「おいオチ、もういいんだよ、オチのせえじゃないよ」と、しきりに慰めてくれるんです。
 それから二人は急に親しくなって、考査の点や、通信簿まで見せあう仲になりました。けれど、しまいには、わたしは見せるのがいやになりました。あんまり重ちゃんの点がいいので、できない自分の点を見せるのが怖
(おっかな)くなったんです。
 その時分はテニスが流行(はや)って、みんなやったものですが、重ちゃんのテニスは羽子のこ式だと笑われたものです。しかし、なかなかしっかりした気性で、体が小さいので鉄棒なんかうまくできなかったんですが、いつも歯ぎしりしてやっていました。そういう負けずぎらいなところが、たしかにありましたね。校長は町屋の小林権一郎先生でした。
  
※これは、昭和二十八年三月十五日はぐさ会主催の「八木重吉を偲ぶ会」の席上、その級友落合氏
  (原宿)の話されたことの要点を、同氏にはことわりなしに、当時の記録として、編集部でまとめたものと添え書きがありました。

      「はぐさ 12月号」P13 より  発行 昭和34年12月24日
1912 大正1 14 4月、神奈川県立鎌倉師範学校予科1年に入学、寮生活に入る。
    英語は抜群にできたが、体操、音樂は苦手だった。    
1913 大正2 15
1914 大正3 16
1915 大正4 17 2月23日、国文館書店より「透谷全集 上下」が刊行される。
4月、第14回武相卯歳観音霊場めぐりが始まり、第24番札所大戸観音堂が御開帳となる。
○この頃、「タゴールの詩と文」を読む。日曜日は、日本メソジスト鎌倉教会に通う。
1916 大正5 18
1917 大正6 19 3月25日、教育実習生として教えた附属小学校の卒業式に参列する。

 後列左から2番目が八木重吉さん
記念写真の裏面に記された文章
愛らしき五十の教へ児!『汝等のインノセンスよ永遠なれ』と、幾度インベインに叫びしことか、地上のパラダイスは汝等の専有物なり、この無邪気なる教へ児を忘るゝのは、即ちわが愛の命の終わる日なり、あゝ楽しかりき十週よ。あゝなつかしきその追憶よ!   (他にに生徒全員の名前もあり)
             所蔵 八木重吉記念館
3月26日、鎌倉師範学校本科第一部を卒業、小学校本科正教員の免許を受ける。
4月、東京高等師範学校文科第三部英語科予科に入学、東京大塚の寮に入る。
 この頃、内村鑑三の著作に感化されキリスト信者となる。油絵始める
1918 大正7 20 6月、弟、純一郎の豊島師範学校時代の英語の先生であった北村透谷未亡人ミナ(美那)を新小川町の家に訪ねる。
   【資料ー@】記述の変化 『透谷全集 下巻』への書き込み(原本)
七年六月の或る日、未亡人、美那子氏を新小川町に訪ふた時、『記念としては、たったこれだけです。』と、古い、小形の、殆んど色のあせてしまった一葉の寫眞を出して見せられた。自分は、ただ、だまって、二人のうつってゐるそのかたみにみいった。  『原稿は一枚もありません、藤村さんに問ひ合せても返事も下さいません。 ほんとに惜しいです』と云はれた。   此の本の巻頭には藤村氏の言葉が載っている。未亡人の云はれた言葉にくらべて変な、むしろ寂しい氣がした。
【資料ーA】弟、野坂純一郎が「『透谷全集 下巻』への書き込み」を写し取った記述
「八木重吉五十年祭のしおり」から「重吉の愛読書・その他」より
北村透谷全集/私の豊島師範学校時代の英語の先生の一人は透谷未亡人、北村美那氏であった。私の紹介で重吉は高師在学中に北村美那の住居を訪れ面談したことがあった。大正七年六月のことであった。当時の感想を重吉が持っていた透谷全集の最後のページに次のように記している。七年六月の或る日、美那子氏を牛込区新小川町に訪ふた時、記念としてはたったこれだけです、と、古い小形の殆んど色のあせてしまった一葉の写真を出して見せられた。自分は、ただだまって、二人(筆者註=藤村と透谷)の姿に見いった
                参考 加藤武雄の年譜   島崎藤村の年譜
○この年、「透谷全集」を読む。
○この頃、同級生と小石川区指谷町の小石川福音教会のバイブルクラスに出席する。
1919
大正8 21 1月25日、駒込基督会の富永徳磨牧師を初めて訪ね受洗を懇請する。
2月6日、高師同級生の親友吉田不二雄の急死にあう。
3月2日、駒込基督会において、富永徳磨牧師より洗礼を受ける。
3月 級友、吉田不二雄の遺稿集「一粒の麥」に永野芳夫とともに巻頭を寄せる。
告ぐ餘りに急だった。餘りに突然すぎる。自分等の胸は、或る見えぬものに壓しつけられてゐる。けれど、−けれど不二雄君の死は事實なのだ。君は、君の云った「大きなもの」を暗示して逝ってしまった。君が生前非常に骨を折って発刊しようとした雑誌は君のしによってしばらくは生まれ得ぬことになったが、土に蒔いた「一粒の麥」から萌え出づべき靈の芽は、君を知る人々の胸にいつか尊い収穫となって輝くにちがひない。こゝに數多き君の遺稿から數篇を上梓して、遺族知己に頒たうとする。
         大正八年三月十日               永野芳夫
八木重吉  
5月4日に駒込基督会の夜の礼拝に出席したのを最後に富永のもとを離れる。
12月、スペイン風邪(第2波)が流行し、重吉、肺炎を併発する。神田駿河台橋田病院に3ヶ月間の入院生活の後退院、堺村の自宅で療養。
       注:この時の父のふるまいが、大正15年2月の「赤い花」に記述してありました。 保坂記
1920 大正9 22 ○本科3年に進み寮に戻ろうとしたが『肺病やみ』といわれて寮を追われ、池袋の素人下宿に入る。
10月、「福音之研究」と題するノートを作り、「聖地物語」や旧約聖書の研究をする。
○この秋、高師英語劇大会で舞台背景の絵を描く。
1921 大正10 23 3月、同宿の小学校教諭石井義純(よしずみ)に頼まれ島田とみの勉強を一週間みる。

池袋下宿時代の人たちと 中央は小学校教師石井義純(よしずみ)
3月26日、東京高等師範学校(文科第三部英語科)を卒業し、師範学校、中学校、高等女学校の英語科教員の免許(免第四一九一号)を得る。
4月、重吉、初任地兵庫県御影師範学校、英語教諭として赴任
7月15日、陸軍に6週間、現役兵として姫路の歩兵第39連隊に入営。
8月25日、六週間現役除隊となり第二国民兵役に編入される。
9月、島田とみに手紙で愛を告白する。
11月、東京高等師範の恩師内藤卯三郎にとみへ正式な結婚の申し込みを依頼する。
12月、手紙で連絡をとりながら冬休み。とみと共に兄の慶治、内藤、重吉の4人で芝公園内の茶店で出あう。
1922 大正11 24 1月、横浜市本牧神社に於いて、内藤卯三郎の仲立ちにより婚約が成立する。

 前列左から とみ、重吉 
  後列左から 兄島田慶治、内藤卯三郎、父 藤三郎
(略)婚約の式のときには、私はその里子姉のお召の縞の着物と紫の色の紋付の羽織を借りて出席した。静姉さんが奇麗に化粧をしてくれたが、まだお下げ髪だった私は、ただただ固くなって黙って坐っていた。もちろんそのときは八木の実家の複雑な反対などは少しも知らなかった。その夜、八木と私とは内藤先生のお宅に泊めていただいた。(略)二人は夜の街に出かけた。この時のことはいまも鮮烈な想い出でであるが、あとで八木は「接吻」と題する十五枚の短篇小説に書いて私に送ってくれた。
   吉野登美子『琴はしずかに』より

2月、風邪を引き病臥。
3月2日付、島田とみ宛てに「洗礼を受けた日」のことを書簡に記す。
 今日ー三月二日は、洗礼受けた日です。あゝ丁度三年前の今日であった。三年ー三年・・・あゝあれから三年経ったのか! 長い様でもあった。短い様にも思はれる。しかし、僕には苦しい年月であった。特別に悩みの年月であった。一番悲しいのは、自分の信仰が三年経っても遅々として進まないことです。この2/3経たねばその日は来ないのだ!
3月、学期末休みを利用して上京、とみと休日を楽しむ。重吉は腹膜炎に罹(かか)っていた。
5月、短篇習作「接吻」を書く。とみが腹膜炎に罹る。それを聞いた重吉は急ぎ上京、。「とみを御影へ連れて療養させ、自分の手で教育するから」と、兄慶治を説得「とみ」を女子聖学院4年級で中途退学させる。
7月19日、内藤氏が列席して、重吉(24才)と、とみ(17才)の結婚式が行われる。。
   兵庫県御影町石屋川の借家に住む。 
9月、新聞を台紙に墨を塗り、スケッチした絵を張り合わせる。
   1922−「夕ぐれ前の海」、1922・9−「初秋」「森」「松並木」、1922・9・18−「柳」「ポプラ」
○この秋頃からキーツの詩を読み始める。
1923 大正12 25 3月、御影町柳851の借家に移る。
5月26日、長女、桃子誕生
10月22日付で「よせあつめ」のノートを作り、芭蕉やドイツ近代詩人の詩(原文)を筆写する。
1924 大正13 26 1月、ノート「憶えがき第二巻」に詩集購入のリストを書き記す。 
佐藤惣之助 正義の兜・狂へる・満月の川・深紅の人・荒野の娘・華やかな散策〇〇〇〇・水を歩みて・雪に書く 薄田泣菫
(すすきだきゅうきん)
泣菫詩集
日夏耿之介
  (ひなつこうのすけ)
轉身の頌古風な月 上田敏 上田敏詩集
富田砕花(さいか) 富田砕花詩集 金子光晴 こがね蟲
〇〇〇〇 〇〇〇〇 深尾須磨子 眞紅の溜息
白鳥省吾(しろとりせいご) 世界の一人・大地の愛・楽園の途上・共生の旗・若き郷愁 澤ゆき子 孤独の愛
福士幸次郎 恵まれない善・太陽の子・展望 前田春声
(しゅんせい)
韻律と独語
加藤介春 獄中哀歌・〇〇〇〇 野口米次郎 二重国籍者の詩・吾が手を見よ・林檎一つ落つ・山上に立つ・ヨネノグチ代表詩
川路柳紅 川路柳紅詩集路傍の花・かなたの空・勝利・曙の声・歩む人・予言 佐藤春夫 〇〇〇〇我が一九二二年 品切れ
三木羅風(露風 廃園・寂しき曙・露風集・良心・青き樹かげ 堀口大學 月光とピエロ水の面に書きて新しき小径
北原白秋 白秋詩集第一巻 萩原朔太郎 月に吠える・ 〇〇〇〇 品切れ
渡辺渡 天上の砂 生田春月 感傷の春・春月小曲集・慰めの國・澄める青空
山村暮鳥 三人の處女・聖三稜玻璃(大正四年)・小さな穀倉より(大正六年)・穀粒(大正九年) 多田不二 悩める森林
室生犀星 愛の詩集(七年)第二愛の詩集(十一年)・田舎の花(十一年)忘春詩集(十一年)〇〇〇〇〇〇〇〇 藤森秀夫 こけもも・若き日影
國木田独歩 独歩詩集 霜田史光 流れの秋
大藤治郎 忘れた顔 西條八十 蝋人形 
佐藤清 愛と音楽海の詩集
石川啄木 啄木全集・〇〇〇〇〇〇〇〇
           〇〇〇〇 黒塗りのため判読困難、詩集は購入済のものか不明 検討要
                  ●    赤鉛筆での丸い印   三木羅風(トラピスト修道院時代の雅号)
5月9日付、”The Collection of Essays on John Keats”と題するノートを作成、キーツ研究が本格化する。  
6月、佐藤清著「キーツの藝術」が「研究社」から刊行され購入する。
6月、来日したタゴールの講演を神戸に聞きに行く。
6月18日、「毬とぶりきの独楽」と題した一群の詩が生まれる。
「毬とぶりきの独楽    大正十三年六月十八日編
  憶え書
毬とぶりきの独楽及びそれよりうへにとぢてあるのは、皆今夜「六月十八日夜」の作なり。これ等は童謡ではない、むねふるへる日の全
すべてをもてうたへる大人の詩である。まことの童謡のせかいにすむものはこどもか神さまかである。  
                 
「昭和17年 発行八木重吉詩集 P89」より 
○この秋、加藤武雄の助力により処女詩集「秋の瞳」を編纂する。
12月29日、長男 陽二誕生
1925 大正14 27 3月31日、千葉県柏東葛飾中学(現千葉県立東葛飾高等学校)に英語科教師として赴任、教職員住宅は千代田村豊四季番外42号。
7月17日(金)付、「読売新聞」に「いきどほり」など四篇の詩を発表、初めての原稿料2円を手にする。この原稿料で、人々に分けようと20銭の「聖書」10冊を購入する
いきどほり
  わたしの/いきどほりを/殺したくなった
かけす
  かけす が/とんだ/わりに/
  ちひさな もんだ/かけすは/
  くぬ木ばやしが すきなのか。/な



 
 消ゆるものの/よろしさよ/
  桐の 疎林(そりん)に きゆるひとすぢ/
  に/ゆるぎもせぬこのみち


  ぬくい 丘で/かへるがなくのを きいてる/
  いくらかんがへても/かなしいことがない
       町田市立図書館・「素朴な詩人」では「7月14日付」とあり、 確認済 2016・12・24 保坂
8月1日、「秋の瞳」を新潮社(定価70銭)より刊行
  
    「文章倶楽部 8月号」  大正14年 
     加藤武雄が書いたと思われるコマーシャル文。
巻首に
 八木重吉君は、私の遠い親戚になってゐる。君の阿母さんは、私の祖父の姪だ。私は、祖父が、その一人の姪に就いて、或る愛情を以て語ってゐた事を思ひ出す。彼女は文事を解する。然う云って祖父はよろこんでゐた。
 私は二十三の秋に上京した。上京前の一年間ばかり、私は、郷里の小学校に教鞭をとってゐたが、君は、その頃、私の教へ子の一人だった。−君は、腹立ちっぽい、気短かな、そのくせ、ひどくなまけ者の若い教師としての私を記憶してくれるかも知れないが、私は、そのころの君の事をあまりよく覚えてゐない。唯、非常におとなしいやゝ憂鬱な少年だったやうに思ふ。
 小学校を卒業すると、君は、師範学校に入った。私が、その後、君に会ったのは、高等師範の学生時代だった。その時、私は、人生とは何ぞやといふ問題をひどくつきつめて考へてゐるやうな君を見た。彼もまた、この悩みを無くしては生きあたはぬ人であったか? さう思って私は嘆息したが、その時はまだ、君の志向が文学にあらうとは思はなかった。
 君が、その任地なる摂津の御影から、一束の詩稿を送って来たのは去年の春だった。君が詩をつくったと聞くさへ意外だった。しかも、その時
(ママ)が、立派に一つの境地を持ってゐるのを見ると、私は驚き且つ喜ばずにはゐられなかった。
 私は、詩に就いては、門外漢に過ぎない。君の詩の評価は、此の詩集によって、広く世に問ふ可きであって、私がこゝで兎角の言葉を費す必要はないのであるが、君の詩が、いかに純真で、しかも、いかに深い人格的なものをその背後にもってゐるか? これは私の、ひいき眼ばかりではなからうと思ふ。
   大正十四年六月          
                           加藤武雄

     
     私には、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。
     この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、
     あなたの友にしてください。
8月「文章倶楽部 8月号」に八木重吉の詩、9篇が「緑蔭新唱 新進四家」の中で発表される。その後、佐藤惣之助主宰の「詩之家」同人となって同誌に詩を寄せ、かつ「銅鐸」にも詩を発表し草野心平らと交わる。
椿
 つばきの花が/ぢべたへおいてる。/あんまり/
 おほきい木ではないが/
 だいぶ まだ 紅いものがのこっている/
 ぢつにいい木だ/こんな木はすきだ



 死のうかと おもふ/そのかんがへが/
  ひよいと のくと/ぢつに/もったいない こころが/
  そこのところにすわってた


  もうさう筍の/たけのこは/すこし くろくて/
  うんこのやうだ/ちっちゃくて/生きてるやうだ
 


  ふきでてきた/と いひたいな/あをいものが/
  あっちにも/こっちにもではじめた/なにか かう/
  まごまごしてゐてはならぬ/
  といふふうな かんがへになる



 悲しみを/しきものにして/しじゅう 坐ってると/
  かなしみのないやうな/いいかほになってくる/
  わたしのかほが 
絶望
  絶望のうへへすわって/うそをいったり/
  憎らしきおもうたりしてると/嘘や/にくらしさが/
  むくむくと うごきだして/ひかったやうなかほをしてくる



  いちばんいい/わたしの かんがへと/あの 雲と/
  おんなじくらゐすきだ


断章
 ときたま/そんなら/なにが いいんだ/
  とかんがへてみな/たいていは/もったいなくなってくるよ


  あっさりと/うまく/春の景色を描きたいな/
  ひよい ひよい と/ふでを/かるくながして/しまひに/
  きたない童(コドモ)を/まんなかへたたせるんだ



   「緑蔭新唱 新進四家」より
        
9月、「文章倶楽部 9月号」に、「松林」と「原っぱ」の2篇が掲載される
9月26日付、「詩 よい日」の題名のついた手作り詩集ができる。
9月27日、鶴見の三笠園での「詩之家」野外詩会に出席する。
10月、「詩之家」に「花がふってくると思ふ」、「母をおもふ」など六篇を発表する。
(金子光晴の詩に続いて)
花がふってくると思ふ
花がふってくるとおもふ
花が散ってくるとおもふ
このてのひらにうけとらうとおもふ



つまらないから
明るい陽のなかにたってなみだをながしてゐた


こどもが病む
こどもがせきをする
このせきを癒そうとおもふだけになる
ぢぶんの顔が
巨きな顔になったような氣がして
こどものうへに掩ひかぶさらうとする


ひびいてゆこう
おほぞらを
びんびんとひびいてゆこう


母をおもふ
けしきが
あかるくなってきた
母をつれて
てくてくあるきたくなった
母はきっこ
重吉よ 重吉よといくどでもはなしかけるだらう


風が鳴る
とうもろこしに風がなる
死ねよと鳴る
死ねよとなる
死んでゆこうとおもふ
10月、「詩神」に「雨の日」「あさがほ」など八篇を発表する。
11月、「詩之家」に「秋のひかり」、「ふるさとの川」「ふるさとの山」など八篇を発表する。
11月、「近代詩歌」に「竹を切る」を発表する。
竹を切る
こどものころは
ものを切るのがおもしろい
よくひかげにすわって
竹をきりこまざいてゐた

11月22日、手作り詩集「晩秋」を書きとめる。
明日
まづ明日も眼を醒まそう
誰がさきにめをさましても
ほかの者を皆起すのだ
眼がハッキリとさめて気持もたしかになったら
いままで寝てゐたところはとり乱してゐるから
この三畳の間へ親子四人あつまらう
富子お前は陽二を抱いてそこにおすわり
桃ちゃんは私のお膝へ
 おててをついて
いつものようにお顔をつっぷすがいいよ

(以下略 一頁分) 
「この詩についてとみは「琴はしずかに」の中で「ここには八木の心の中や私たちの日常が活写されている」と記す。全67篇の詩を収録)
                 「八木重吉−さいわいの詩人−展」よりの説明文より

12月、「詩之家」に「とんぼ(ゆうぐれ)」を発表する。
12月30日、八木重吉→加藤哲雄(武雄の弟)宛に手紙を送る。
参考資料ーA(全文) 哲雄様
 先日、砧村のあなたの御兄様をおたづねしたとき、あなたの歌集「暗黒時代」をいただいてまゐりました。至純なるあなたの歌ごころをしみじみと、懐しくおもひました。
 私の眼の前には、川尻小学校の庭で、あなたが背中をまるくしていらした、あなたの尋常三年の頃の姿があざやかに浮びます。よく私の兄からの手紙を御兄様へとどけていただきましたっけね。あの頃から、私も、ぐっと年をとってしまい。三十と云ふ年に近づいてきてしまひました。哲雄さんも、立派な青年になってしまひました。早いもんですね。
  あなたが奮闘の農村生活をなさり乍ら、かくまで、歌に御精進のことを勇ましくも美しく考へます。而も、すでにすでに、歌の正道のとびらを一つ開かれてをられますのを拝誦いたし、あなたの、しっかりした、天分と共に、私は心から祝わずにはをられません。
 重ねて、あなたが農村にをられ、深く深く自然に味到せらるることを祝します。どんないやな事、くるしい事、つまらない事があっても、やはり私は農が天地の正義であると信じます。私ごとき、こんな仕事は、まことに、天を汚し、又自らを汚すものだとおもふて怖ろしいのであります。あなたの歌はきっと、いやが上にも醇平として、醇なる世界にすすまれることと信じます。『いつかはきっとあこがれの光明に接』せらるることを信じて疑ひません。
 どうぞ、お父さまをはじめ皆々さまによろしくお伝へ下さいませ。哲雄さんもおついでありましたら是非くこの陋屋
(ろうおく)を訪れて下さいませ。
 まづはお祝ひのことばのみ申しあげました。
           十二月三十日            八木重吉

 加藤哲雄様

     陋屋(ろうおく) @狭くてきたない家 A自分の家を謙遜して云う言葉
○この年、ブレークの詩を翻訳する。
1926 大正15
12・25
改元
28 1月、「詩神 正月号」に「母の瞳」・「お月見」の二篇を寄稿する。
母の瞳
 ゆふぐれ
  瞳をひらけば
  ふるさとの母うへもまた
  とほくみひとみをひらきたまひて
  かあゆきものよいひたまふここちするなり
お月見
 月に照らされると
  月のひかりに
  こころがうたれて
  芋の洗ったのや
  すすきや豆腐をならべたくなる
  お月見だお月見だとさわぎたくなる
1月、「日本詩人 1月号」に「不思議」ほか五篇を寄稿する。
不思議
  心が美しくなると
  そこいらが
  明るくかるげになってくる
  どんなふしぎがうまれても
  おどろかないとおもへてくる
  はやく
2月、「若草 二月号」に「素朴な琴」・「響」・「霧」・「故郷」の四篇を寄稿する。
素朴な琴
  この明るさのなかへ
  ひとつの素朴な琴をおけば
  秋の美しさに耐へかね
  琴はしづかに鳴りいだすだらう
 


  秋はあかるくなりきった
  この明るさの奥に
  しづかな響があるやうにおもわれる

  霜がみなぎっている
  あさ日はあがったらしい
  つつましく心はたかぶってくる


故郷
  心のくらい日に
  ふるさとは祭のやうにあかるんでおもわれる

2月、風邪で病臥。
2月7日、「赤い花」と云う名の手作り詩集を作成する。
私が三月も入院して/死ぬかと云われたのに癒って國へ俥で歸りつく日父は凱旋将軍のように俥のわきについて歩いてゐた黒い腿引(ももひき)をけつっきりひんまくって 出して尻をはしなう /あの父をおもふとたまらなくなる  
3月、柏にて肺結核を発病、東京九段の東洋内科医院で高田畊安博士の診断を受け、結核第二期と診断される。同月、草野心平が訪れ一泊する。
(略)昭和元年二十八歳の八木を柏の家に訪ねた二十三歳の草野心平は、後日の回想に、「家庭はいかにも温暖さうなのに、彼の顔は霙(みぞれ)のやうにさびしさうだった。それがひどく印象にのこった」ともらしている。(略)   
        吉野秀雄著、「やわらかな心・宗教詩人八木重吉のこと」より
4月、「詩之家 4月号」に「春」などの七篇を寄稿する。
5月、東洋内科医院の分院、茅ヶ崎町南湖院に入院する。
    同月、内藤卯三郎が、イギリス留学を前に病院を見舞う。
7月、「若草 七月号」に「桐の木」ほか二篇を寄稿する。
桐の木
桐の木がすきか
わたしはすきだ
桐の木んとこへいこうか


ひかる人
私をぬぐらせてしまい
そこのところへ ひかるような 人をたたせたい

はっきりと
もう秋だなとおもふころは
色々なものが好きになってくる
あかるい日など
大きな木のそばへ行ってゐたいきがする


7月、茅ヶ崎町十間坂5224の寓居にて自宅療養を始める。
9月20日頃、富永徳磨に宛てて、会いたいと云う主旨の手紙を書く。
10月2日、富永徳磨が重吉を見舞う。
10月発熱、耳下腺炎や腹痛などの余病を併発、絶対安静の生活を続ける。
1927 昭和2 29 3月 弟純一郎と、故郷の大戸観音堂に火鉢一対を奉納する。
   (平成23年4月30日、上大戸講中小屋から奉納された火鉢が発見される。)
4月5日、祖父政右エ門が死去。      宝寿院智光道安居士 行年82才 
4月、第15回武相卯歳観音霊場めぐりが始まり、第24番札所大戸観音堂が御開帳となる。
6月27日、東葛飾中学校を依願退職。
10月26日午前4時30分、「とみ」の名を呼びながら昇天する。
                墓石右側面 浄明院自得貫道居士 行年三十才
10月27日、午後4時から茅ケ崎の寓居でごく親しい人により告別式が営まれる。そのあと荼毘に付し、遺骨は生地堺村の八木家墓地に葬られる。
1928 昭和3 1月1日付、雑誌「草 3号」に「八木重吉追憶号」が特集される。
1月、「詩之家 第4年第1輯」に「八木重吉遺稿」、「冬」他10篇が掲載される。

心だけが燃え
木枯らしにみがかれる


ゆきなれた路の
なつかしくて耐えられぬように
わたしの祈りのみちを つくりたい


悔る

私がわるいのだと
いくらでもすなほに悔ゐられるときは
そっとしておいて 存分悔ゐさせてもらいたい


かほ

悲しみを
しきものにして
しじゅう坐っていると
かなしみのないような
いゝかほにんってくる
わたしのかほが

絶望
絶望のうへへすわって
うそをついたり
憎らしくおもふたりしてると
うそや
にくらしさが
むくむくと うごきだして
ひかったやうな かほをしてくる


松林

ほそい
松が たんとはえた
ぬくいまつばやしをゆくと
きもちが
きれいになってしまって
よろよろとよろけて みたりして
すこし
ひとりでふざけたくなった
夕陽
もうすこうし
心をやしなへば
この
あかい夕陽を
のこら
うれいむことができるだらう

断章
よろよろと
よろめいてゆく世だと おもわないか
これが
ぢごくの おもかげでないていへるか
木が 火をふいても ふしぎでない

松林
まつの木の
はやしをみてると
そのなかのほうを
みてると
妙な きがしてくる
どこかへ
かけだしたくなる

悲しみ
かなしみは
ひとつの内體をもっている
もしも
かなしみがきえるものなら
この原っぱにねころんでたら
その肉たいのままできえてゆくだらう
ここはすきだ


森へはゐりこむと
いまさらながら
ものといふものが
みいんな
空をさし そらをさしてるのに おどろいた
(薮田久雄写)
2月12日、野菊社より「貧しき信徒」(序文加藤武雄・収録詩103篇)が刊行される。
 
 「貧しき信徒」 野菊社 昭和3年
6月、短歌雑誌「野菊 6月号」に八木重吉詩集「貧しき信徒」批評号≠ェ特集される。
8月、「野菊」8月号に高村光太郎の書信(八木重吉第二詩集を贈られたこと
    への礼状)を掲載する。
   「八木重吉氏の今は遺書になる詩集「貧しき信徒」を拝受。よみ返して今更この敬虔
   
無垢な詩人を敬愛する情を強めました。かういふ詩人の早世を残念に思ひます。
   
ご近親の方々のお心も想像いたされます。詩集御恵与下さった事を厚く御礼申し上
    げます。 四月三十日

9月17日、若山牧水が亡くなる。(43才)
12月 加藤武雄が、「創作 12月号 若山牧水追悼号 第十六巻第十一号」に「汽車の中で」を寄稿する。

研究ノートー@ 「汽車の中で」の全文
 牧水氏の歌は、「離別」「死か芸術か」時代には随分愛誦した。しかし、僕は、氏の歌よりもむしろ紀行文の方をありがたく読んでゐた。「みなかみ紀行」の如き、実にたまらなくいゝと思った。
 一体に交友の少ない僕は、牧水氏とも不幸にしておちかづきにはなれなかったが、蔭ながら氏の人物には傾倒してゐた。
 「玲瓏
(れいろう)玉の如し」とは氏のやうな人を云ふのだらうと思ってゐた。
 お目にかゝったのは二三度しかなかった。もう五六年前になる。僕の従弟が鎌倉の師範学校に入学してゐるのが、恋愛問題で退学されそうになり、それの救解の為に、その従弟の兄ーといっても矢張、僕より十も年下の青年であったが、その兄と一緒に鎌倉へ出かけた事がある。その鎌倉行の汽車で、偶然氏と乗合せた。おくさんや子供さんと御一緒で、何でも東京から沼津のお宅へ帰られるところだったらしい。氏と、お話しをしたのはあとにも先にもその時だけだった。氏の手には瓶詰の正宗があった。「一つどうです。」と云って杯を下すった。細かく気を使ふなかなか如才ない方であった。が、眉宇の間、頗る毅然たるものがあった。−僕は、あの風(ボウ)も大好きである。
 鎌倉で降りてから、従弟が、「あれは何人
(だれ)です?」 と聴くので、
 「あれが若山牧水だよ。」
 さう云ふと、少しは歌などにも興味をもってゐたらしい従弟は、えらい人を見た感動を、その面上に浮かべた。
 その従弟も、その時鎌倉にゐた弟の方の従弟も、兄弟ながら間もなく相次いで死んだ。二人とも肺が悪かったのである。
 牧水氏の死を聞き、僕は、同時に、あの二人の従弟の事を思ひ出して、哀感の水の如く胸を浸すを感じた

研究ノートーA 野坂純一郎 ー重吉の愛読書・その他 より
 重吉の生家には長兄政二が愛読した「牧水歌集」があった。重吉もこの歌集に親しんでいたようである。
〇この年ごろか、東京池袋に住み、二人の遺児の養育のため、無我夢中で働く。
(略・重吉昇天の後)とみ子は東京池袋に住み、キリスト教の信仰に行きつつ、二人の遺児を養育するために、無我夢中で労働した。ミシン裁縫の内職一年あまり、白木屋の大塚支店と日本橋本店の店員十年、日本製綿工聯の文書係二年、そしてこの間、不幸にも長女桃子は女子聖学院二年生のときに、また長男陽二は聖学院中学四年生のときに夭折した。(略)
                 吉野秀雄著、「やわらかな心・宗教詩人八木重吉のこと P25」より 
1929 昭和4 ・    
1930 昭和5
1931 昭和6
1932 昭和7
1933 昭和8 12月8日、政三の妻デンが亡くなる。  戒名 操林院智室妙順大姉 行年 37才
1934 昭和9 5月5日、母ツタが亡くなる。       戒名 妙性院温容清節大姉 行年 60才
1935 昭和10 11月、「コスモス 1輯 p138〜150」に八木重吉の「遺稿」17編が掲載される。 pid/1506234
ばけもの屋敷 高村光太カ 亂抽詩鈔 高橋成直
藝術のための藝術の理論―佛蘭西の後期浪曼派および初期寫實派に於ける カサァニュ/
淀野隆三譯
デツサン
『詩の作り方』
大野五カ
萩原朔太カ
室生犀星 嘘をつく男 片岡敏
人物
批評に於ける二つの曝露意識
妹尾正彦
坂本コ松
ワグナァとバクーニン
―十九世紀ロマンチシズムの一批判
小野十三カ
現實に對する作家の位置 植村諦 庫田[ツヅル]
風景 矢部友衞 春の流れ外五篇 萩原恭次カ
狂人息子
哀れな者
高橋新吉
松永延造
怪畸傳抄
シュウォップ /
渡邊一夫譯
顛倒の書』から  眞→真 変換不能 岡本潤 日本詩の特殊性と詩壇 宍戸儀一
耳の鳥 棟方志功 エルエルフエルトの首 金子光晴
島崎藤村論―藤村的リアリズムと主情性 大川康之助 人物 田中行一
ふうろ 深澤紅子 森敦
北川冬彦論斷章 古谷綱武 福井謙三
東洋の滿月に就て―詩人藏原伸二カ君を論ず
山岸外史
印度人の冐險
ヴォルテエル/
井原彦六譯
修羅炎上 逸見猶吉 詩四篇 草野心平
遺稿 八木重吉 高村光太カ
光利一 おみい 坂本遼
シエリイ斷考―その作品と思想に就いて 石井日出夫 一輯の終りに 萩原恭次カ
受難者 北川冬彦
 遺稿(全詩)

 


 消ゆるものの
 よろしさよ
 桐の 疎林に きゆる
 ひとすぢ
 ゆるぎもせぬこのみち


 しどめ

 しどめの 花は
 かんざしに にてる
 いい はなだ



 こころ

 死のうかと おもふ
 その かんがへが
 ひょいと のくと
 ぢつに
 もったいない こころが
 そこのとこにすわってた


 
竹林

 竹のはやしへ きて
 泣くものは よもや あるまい






 絶望

 絶望の うへへすわって
 うそをいったら
 憎らしくおもふたりしてると
 うそや
 にくらしさが
 むくむくと うごきだして
 ひかったようなかほをしてゐる


 松

 まつばやしの
 ほそい 松は
 かぜが ふくと
 たがひちがひ
 たがひちがひに ゆれる




 柿の葉

 柿の葉は うれしい
 死んでもいい といったふうな
 みづからを 無(な)みする
 その ようすがいい



 椿

 ちっと
 くすぐったそうに
 机のうへの やえ椿が
 さいだあの 古びんに ささってゐる
 いい 花だ


 涙

 めを つぶれば
 あつい
 なみだがでる





 斷章

 すべて
 もののすえのは いい
 竹にしろ
 けやしに しろ
 そのすえが 空にきえる あたり
 ひどく しづかだ


 
原っぱ

 蛇なんか
 おっかないから
 くさはらへ
 はいりこまなかった
 ただ
 ひろく
 みわたしてゐた


 斷章

 よろよろと
 よろめいてゆく世だと おもわないか
 これが
 ぢごくの おもかげでないといへるか
 木が 火をふいても ふしぎでないか




 ああちゃん

 ああちゃん!
 むやみと
 原っぱを あるきながら
 ああちゃん と
 よんでみた
 こひびとの名でもない
 母の名でもない
 だれの名でも ない


 こども

 ゆふぐれの
 はらっぱ へ
 こどもが
 かしこまってる
 しどめの實が
 ひとついぶなってるやうだ




 松林

 ほそい
 松が たんとはえた
 ぬくい まつばやしを ゆくと
 きもちが
 きれいになってしまって
 よろよろとよろけてみたりして
 すこし
 ふざけたくなった


 松林

 まつの木の
 はやしを みてゐると
 その なかおほうを
 みてると
 妙な きがしてくる
 どっかへ
 かけだしたくなる



 原っぱ

 ずゐぶん
 ひろい
 いっぽんのみちを
 むしゃうに あるいてゆくと
 こころが
 うつくしくなって
 ひとりごとをいふのが うれしくなる


 松風

 松の
 しん林へ はねると
 まつかぜが きこえる
 きこえなくなることもある





 もくもくした日

 もくもくした はるの日だ
 ひろい
 原っぱのすえを
 白木の卒塔婆を かついで
 きたない
 赤んぼを しょった女がゆく
 おこったように はやくゆく


 桐

 しろいそらへ
 きりの
 わか芽が ほぐれてゆく





末尾の添え書き八木重吉は昭和二年十月二十六日相州茅ケ崎に於て病没した。享年三十歳。ここに發表したものはその未發表遺稿の一部である。(草野附記)」
11月27日、兄政三が亡くなる。       戒名 理性院義山政道居士 行年 43才  
1936 昭和11 2月、高村光太郎が「詩人時代」に「八木重吉の詩について」を寄稿する。
  また、同号に八木重吉の遺稿、3編が掲載される。
  
  「詩人時代 2月号」

いざわが身のこととなったけふ
まづしさにやすんずることのなんと幸いこと
こころならずもまづしいゆゑにいきどほり
ぐちもいひさもしいおもひもわく
いぢけたこころはわれながらいぢらしい
ひとすじのつよくはりのある心がよみがへらないなら
かひのあるいのちはとりもどし得ない



ちからないものなりと
みづからにみきわめをつけるけふ
ふるさとのやまのそのやまおくの
ふとした谷あひのちいさいながれがおもはれる
なにゆゑおもはれるのかぢぶんにもわからぬ


ある冬の日
なにもかも
したしげだけれど
はなればなれに
/くっきりと おもはれる日
  

    八木重吉の詩について    高村光太郎
 八木重吉の詩をおもひ出すのはたのしい。たのしいと言っただけでは済まないやうな、きれいなものが心に浮かんで来る。もういつの頃だらう。大正の末か昭和のはじめ、あんないい、せつない、星のやうな詩人が居たと思ふたけでも、がさつな氣持ちがじっとりして来る。ふっと浮んで誌がそこらの身辺にみちみちてゐる事を感じる。
 私は八木重吉を個人的に知らないし、その人柄をもトピック風には記憶してゐない。知ってゐるのはその詩集、「秋の瞳」と、「貧しき信徒」の中の彼だけである。三十で死んだといふ彼のはかない生涯から、しかしこんなに人の魂を慰めてくれる息を吐いて往ってくれた事はありがたい。詩が呼吸のやうなものだといふ事を教へられるのは、詩にたづさはる者にとって限りなく心強い。詩は大地が「霜を出す」やうに詩人が出すものなのだ。詩の形式は如何様にもあれ、結局詩は出されるやうになって出され、消されるやうになって消されるのだ。それでよいのだ。出されるやうにならない處には百篇の詩型あって一片の詩もない。八木重吉は詩につつまれてゐた。彼の思ひせまった、やはらかな詩はふりかへらずに居られない。
   草をむしれば
   あたりが かるくなってくる
   わたしが
   草をむしってゐるだけになってくる
        (「貧しき信徒」に所収)
と彼はいふ。詩は此處にあるのだ。どんな厖大な詩にしろ
※1魁偉な詩にしろ、新奇な詩にしろ、この一點をはづれたものは※2こけおどしに過ぎない。
 頃日、一人の氣位の非常に高い友人が来ていった。今の世上の詩と稱するものは皆うす汚いといった。此友人は眞に心の高い立派な人であるが、若し八木重吉のやうな詩人をもうす汚いといふならば、それは、氣位の高い人の病であるところの、自己以外を決して了解し得ぬほど高い成層圏にもう突入してしまったことを意味するであらう。
(十年十月)

 魁偉(かいい):顔の造作やからだが人並外れて大きく、たくましい感じを与えるさま。また、いかついさま。
 ※2こけおどし:愚か者を感心させる程度のあさはかな手段。また、見せかけはりっぱだが、中身のないこと。また、そのさま。
10月、吉野秀雄(35歳)が「河発行所」より「苔径集」を刊行する。 Pid/1221294
  
 「苔径集」 発行 河発行所 
大正十三年 六十三首       昭和六年 八十首
大正十四年  三十九首       昭和七年 五十首
大正十五年(昭和元年) 二十九首       昭和八年 四十七首
昭和二年 二十九首      昭和九年 四十二首
昭和三年 十五首       昭和十年 七十七首
昭和四年 六十首       昭和十一年 三十九首
昭和五年 四十三首       後記
1936年(昭和11)10月22日付で高村光太郎から吉野に宛て書簡が送られる。
 「随分なげやりな詩歌をこのごろは眼にしますがそれとはまるで類を異にしたかういふ作品をよむ事はよろこびです」と「苔径集」の感想を述べる。

 高村光太郎が吉野秀雄に宛てた書簡
1937 昭和12 12月29日、 桃子女子聖学院二年生(15才)にて昇天。 戒名 春岳妙信童女   
1938 昭和13
1939 昭和14 11月、「歴程 第9号」に「夜汽車(遺稿)」が掲載される。
夜汽車(遺稿)
 
おほきな河のうへを
  夜の汽車でとほる
  むこうのほうにも
  橋があるらしく
  いちれつの灯がかわにうつって
  とつひとつ
 ながいながい ひかりになってゐる
1940 昭和15 7月9日、陽二聖学院中学四年生(16才)にて昇天。    戒名 夏山陽道居士  
1941 昭和16 10月3日、父籐三郎が裏手の荏柄八幡社に鳥居を奉納する。(古希記念)
○この年、とみ、茅ヶ崎の南湖院に事務員として勤務する。
(略)茅ヶ崎の南湖院に生涯孤独の身を寄せ、それからおよそ四年間事務員として勤務した。茅ケ崎は八木終焉の地であり、そのことがとみ子を引きつけていたのであろう。ーそして、昭和十九年末、茅ケ崎からわが家へつながるわけだ。/(略・当時を振り返り)ことに南湖院のころは、音楽や詩歌の愛好熱をふきこみ、若い患者たちと愛の光をおたがいに分かち持とうと心がけていたようで、しぜんに八木の詩のファンもふえていった。おととし若くして亡くなった詩人に柴田元男しばたもとおなどはその有力な一人だ。  
                 吉野秀雄著、「やわらかな心・宗教詩人八木重吉のこと P25」より
 
1942 昭和17 7月、八木とみ子(代表)、「八木重吉詩集(限定500部)」を山雅房から刊行。
 
 「八木重吉詩集」の見返し

 高村光太郎が、詩人三ツ村繁蔵に声をかけ、三ツ村が山雅房に詩集出版の交渉し、草野心平・佐藤惣之助・加藤武雄・山本和夫・八木とみらの協力で出版した。これは戦後創元選書の「八木重吉詩集」と弥生書房版「定本詩集」刊行の掛け橋となる。
   
「郷土資料集 素朴な詩人 八木重吉 町田市立図書館 1982」より
    冬の日

    冬の日は
    やわらかく
    慈悲の顔のように あかるい

       見返しの裏と表に記されていた「冬の日」の詩
     
綴の表紙名 綴りの作成年 詩の名前 (○印は題名のない詩篇)
1 石塊と語る 大正十二年編  詩21篇
2 私は聴く 大正十二年編 ○ 詩17篇
3 白い哄笑(ぐしょう) 大正十二年編 ○、秋のひとみ・白き響 詩17篇
4 巨いなる鐘 大正十二年編 ○ 詩12篇
5 不安な外景 大正十二年編 ○秋の瞳・秋のかなしみ・泪・葬列 詩12篇
6 感触は水に似る 大正十二年編 ○、〔心よ行っておいで〕 詩25篇
7 衿恃ある風景 大正十二年編 ○ 詩22篇
8 暗光 大正十二年編  詩11篇
9 庭上寂 大正十二年編 ○ 詩12篇
10 無題 大正十二年編
11 草は静けさ 大正十二年編  詩20篇
12 土をたたく 大正十二年四月編 秋の瞳 詩18篇
13 痴寂なる手 大正十二年五月二十日編  詩40篇
14 焼夷 大正十二年六月編  詩37篇
15 毬とぶりきの独楽 大正十三年六月十八日編  憶え書1葉 詩57編
16 純情を慕ひて 大正十三年十一月四日編 ○ 詩73
17 幼き歩み 大正十三年十一月十四日編 ○ 詩53
18 寂寥三昧 大正十三年十一月十五日ー二十三編 ○、三つの秋 詩44篇
19 貧しきものの歌 大正十三年十二月九日編 ○ 詩57篇
20 み名を呼ぶ 大正十四年三月編 ○ 詩63篇
21 桐の疎林 大正十四年四月十九日編 ○、やすらかな/死がまってゐる。/いらいらするな/いらいらとしても/こころのそこはやすらかにあれ
 43
22 赤つちの土手 大正十四年四月二十一日編 ○ 詩39篇
23 春のみづ 大正十四年四月二十九日編 ○ 詩
24 赤いしどめ 大正十四年五月七日編 ○ 詩32
25 ことば 大正十四年六月七日編 ○ 詩67
26 松かぜ 大正十四年六月九日編 ○ 詩18
27 論理は溶ける 大正十四年六月十二日編 ○ 詩32
28 美しき世界 大正十四年八月二十四日編 童(こども)・いきどほり・草をむしる・○・雲・水蜜桃・不思議・こどもが、歩く 詩43篇 「美しくあるく」も収蔵
29 うたを歌わう 大正十四年八月二十六日編 百日紅・あさがほ・雨・水爪を喰わう・お湯へはいらう・いいことをしよう・ある日 詩28 「蟲・雨の日」も収蔵
30 ひびいてゆこう 大正十四年九月三日編 こども・秋がくる日・ねが詩編ひ・愛・愛のことば・愛の家・花がふってくるとおもふ・秋の朝 21篇
31 花をかついで歌をうたわう 大正十四年九月十二日編 秋・光・雨・手うつくしきわたし・こどもが病む・雲・花とあそぶ・花・松葉 詩34編  「風が鳴る」も収蔵
32 母の瞳 大正十四年九月十七日編 お月見・太陽・光・ゆふぐれの松林・夕陽・母の瞳・影・秋の空・ふるさとの川・秋のこころ・雨・花 詩24
33 木とものの歌 大正十四年九月二十一日編 木とものの音・小石・死・秋・薪をくべよ・(栗)桃子のうたへることば 桃子満二歳餘・人形・富士 詩24
34 よい日 大正十四年九月二十六日編 桃子・切ること・日くれ・樫の木・けむり・瞳・母をおもふ
 詩42篇
35 しづかな朝 大正十四年十月八日編 涙・ねがひ・母・花・水たまり・秋の水・川・ひかる人・考がひかる・雨の音・森・本當のもの・雨・ゆるし・煙・ねがひ 詩40篇
36 日をゆびさしたい 大正十四年十月十八日編 日をゆびさしたい・夕焼・影・夜 詩34篇
37 赤い寝衣 大正十四年十一月三日編 木・ふるさと・うすら陽 詩43篇  「故郷」も収蔵
38 晩秋 大正十四年十一月二十二日編 茅・森・野茨の實・私の詩・明日・○・落日・炭火・落葉・母の顔・響・素朴な琴・菊 詩67編
39 野火 大正十五年一月四日編 楽しき心・冬・茅・幼い私・木枯 詩102篇
40 麗日 大正十五年一月十二日編 雀・日没 詩32篇
41 大正十五年一月二十二日編 微塵・冬・さむい晩・トマト 40篇
42 赤い花 大正十五年二月七日編 父・父・洗禮・顔・御馳走・冬・夜の踊・冬・冬・冬 詩54篇
43 信仰詩篇 大正十五年二月二十七日編 野火・病後・冬・早春・花・太陽・萬象・梅・夜と晝・病気・基督詩115篇
 八木桃子/八木陽二
佐藤惣之助 「絵でいへばアンリー・ルソー」 帯文(全文)より
 ここで私は重吉君の信仰、その神への観念ー といふものに触れない。只私のいひたいことは、重吉君のやうなナイーブな、絵でいへばアンリー・ルソーのやうな人間は稀であるといふことだ。私はこの世で、最もその魂がありのままに顔に現れてゐる人を見た。この複雑でセチ辛い世界で、白紙のやうな、小児のやうな、そしてユーモアさへも持ってゐた愛すべき詩人、八木重吉は稀なる人と詩との塊りであったといふことだ。詩之家の友も皆、重吉君の詩を愛した。涙をもって、微笑をもってそのことごとくが同君の人としての、心境としての、あの簡明で、美しく優しい詩の斐文を慕った。    
以下、「八木重吉詩集(限定500部)」に収録のなかった手作りの詩集   
                              (2016年 町田市民文学館重吉展で展示)
44 詩集 夾竹桃 1923年 詩17篇
45 詩集 龍舌蘭 1923年 詩10篇
46 詩集 虔しい放縦 1923年 詩40篇
47 詩集 静かなる風景 1923年 詩12篇
48 詩集 壺 1923年 詩8篇
49 詩集 木蓮 1923年1月 序文1篇 詩46篇
50 詩集 あしたの嘆き 1923年1月 序文1篇 詩31篇 
 (S57・八木重吉全集に未収録)
51 詩集 丘をよじる白い路 一九二三・八・二四 序文1篇 詩31篇
52 詩集 幼き怒り 大正十五年四月七日編 詩51篇
53 詩集 柳もかるく 1924・4・7 詩48篇
54 詩集 逝春賦 大正十三年五月二十三日 詩51篇
55 神をおもふ秋 大正十三年十月二十六日 詩76篇
56 詩稿 ものおちついた冬のまち  1925年1月14日 詩82篇
57 欠題詩群(一) 1924年10月 詩96篇
上記以外の手作り詩集、若しくは綴のようなものか?
 
(10番・58〜64番まで未確認 2016・11・21 保坂記)  2016年 町田市民文学館重吉展で未展示の作品
58 詩 篇  
59 詩 篇
60 詩 篇
61 詩 篇
62 詩 篇
63 詩 篇
64 詩 篇
 2016年 町田市民文学館重吉展で確認が出来なかった作品集  参考 「花と空と祈り」の編輯後記より
65 無題 大正十一年 千九百二十二年 洋紙14枚、和紙7枚バラ紙をひとまとめ
66 無題 大正十二年のものと推定 洋紙や藁半紙の断片を17枚とバラ紙2枚が挿む。
67 詩集 丘をよぢる白い路 一九二三・八・二四 40枚
68 詩集 鳩がとぶ  大正十二年九月二十八日 46枚
68 詩集 花が咲いた 大正十二年十月十八日 32枚
70 詩集 大和行 一九二三・一一・六 24枚
71 詩集 我子病む 大正十二年十二月九日 34枚
72 詩集 不死鳥 Jan・1st・1924 32枚
73 詩集 どるふいんのうた 一九二四・一・二〇 20枚  どるふいんに````の印あり
74 無題 第1・32面に「1924年10月編」とあり 400字原稿用紙58枚 
75 無題 本文の最初と第14枚目に「1924年10月編」とあり 改良半紙その他60枚と400字原稿用紙3枚とを2つ折りにした横綴じ帖藍色の表紙あるが無題
76 神をおもふ秋 大正十三年十月二十六日 400字原稿用紙43枚、そのうち紙片に詩をかいてはりつけたものが9枚 
77 詩稿 ものおちついた冬のまち 大正十四年一月十四日編(一九二五年) 400字原稿用紙38枚
78 無題 大正十四年の柏時代のものか 雑多な紙と原稿用紙等バラのまま11枚
    注 「無題」が数か所にあるのでダブっている可能性があり、今後の検討要 2017・2・23 保坂
      No65〜78 所在が未確認な作品集 後世のために所在の確認が必要 2017・2・23 保坂
(略)キリスト教を否定する風潮がおこった。登美は日本が第二次大戦に足を踏み入れたとき、この判断は神がしてくださるだろうとこころを決め、胸を悩む人々につとめた。/登美は重吉の未発表の詩は、このような時代にこそ読まれるべきであると信じたのである。登美は当時詩書出版を主としている山雅房の編集長の三ツ村繁蔵が詩誌「歴程」の同人であることを記憶していた。登美は重吉の詩の草稿をかかえて三ツ村の家をたづねていった。三ツ村は重吉の作品のよい理解者でもあり、登美の出版申入れに力を尽くそうといってくれた。/「売れるか売れないか無名の詩人の詩集なので山雅房主は大分渋りましたが、説きふせて、わたしと草野心平の装幀で出版させることにしたのです。その前に編集する必要があったので同じ『歴程』の山本和夫をさそって名栗温泉へでかけ、三、四日ほどかかって編集したのです。十七年の夏出版されますと、五百部は間もなく売切れてしまったのです。それで山雅房主にも損させず、登美さんにもささやかでしたが印税を支払うことができたのです」これは三ツ村繁蔵の回想談である。しかし、二人の出会いについては、登美は銀座の千疋屋で待ち合わせたのが最初であるといっている。
                
        山田野理夫著「わが妻うつくし」より
8月9日、吉野秀雄が鶴岡 生誕七百五十年記念 実朝号に「金槐集研究所目解題」を寄稿する。
實朝を祀る 座間司氏 金槐集研究書目解題 吉野秀雄
實朝 鎌倉文化聯盟 實 朝(新作能) 高濱虚子
實朝座談會記事 實朝座談會記事 源實朝自筆書状の解説 龜田輝時
源實朝関係主要文献 相田二郎 源實朝年譜 橋本敏夫
金槐和歌集鈔 佐々木信綱、校註本を底本 源實祭行事次第
金槐集選釋 米川稔 編輯後記 文化聯盟記念號編輯委員
  ○この日の実朝祭に於て、「實朝歌碑」の除幕式が行われる。
1943 昭和18 2、5、6月、小林秀雄が『文学界』に「實朝」を連載する。
4月、加藤武雄が「淡海堂出版」から「少女と教養」を刊行、「日本の女性」を所収。
  日本の女性」から、末尾の部分
(略)
彼女(とみ)はとうとう病気になった。そして、今は湘南のある病院に、療養かたがた女事務員のやうなものになって働いてゐるが、愛する者すべてを失ひつくした彼女の、夜明のねざめに、いかにさびしい濤(なみ)の音であるかと思ふと、さう思ふさへ私は胸が痛んでならなかった。/が、彼女は、まだ一つの望みがあった。それは、亡夫の詩集を出す事であった。八木重吉にはこれまで二冊の集があったが、いづれも不完全なものである。是非、定本をつくりたいといふ此の願ひは、幸ひ、重吉の詩を愛する一群の人々によって、つい此間の事だがやうやく達せられた。今私の机の上にある「八木重吉詩集」がこれである。/この詩にどれほどの価値があるか、正直のところ私にはわからない。しかし、とみ子さんの今までの事を思ふと、これこそ、文字に書いた詩以上の詩だといふ気がする。私は、これほどの純粋な愛を見た事がない。このとみ子さんの純情の中に、私は、静かな、そして、調べの高い一篇の詩を読む事が出来る。「よかったですね。しかし、これでいゝと思って安心して、そのためにがっかりして弱り込んぢゃいけませんよ。」/よろこびに顔を輝かして新刊の詩集をもって来た彼女に向って、私の妻は斯う云ってゐた。戦争であなたのやうな人も沢山出来てゐるのだからとも云ってゐた。彼女は深くうなづいてゐた。
〇この年の末、高村光太郎が幻となった八木重吉第四詩集についての序文を寄せる。
 詩人八木重吉の詩は不朽である。このきよい、心のしたたるやうな詩はいかなる世代の中にあっても死なない。死の技法がいかやうに変化する時が来ても生きて讀む人の心をうつに違ひない。それほどこれらの詩は詩人の心のいちばん奥の、ほんとの中核のものだけが捉へられ、抒へられてゐるのである。感じてゐながら言葉でそれを抒へる事のむつかしさを詩を書くほどのものは皆知ってゐる。よほど素直な心と、微を見る感覚との優れてゐるものでなければ此の境にまでは到り得ない。結局八木重吉といふ詩人の天から授かった詩的稟性が、人生の悲しみに洗はれ、人生の愛にはぐくまれ、烈しい内的葛藤の果にやっと到ることの出來た彼屬特の至妙な徹底境に、一切の中間的念慮を拂ひのける事が出來たからであらう。これらの詩はまことに彼屬自のものであり、唯一不二の妙薬であり、人はこれらの静かな詩をよんで却て烈しく動かされ、これらのやさしい詩をよんで却で湧き出づる力を與へられ、これらの淡々たる言葉から無限のあたたかさに光被せられる思をする。
 今この詩人と一心同體である八木夫人の手によって數種の遺著の中から最も然るべく選擇せられた詩篇が一冊にまとめられるといふ。この画像烈しい時代に生きるわれわれにとって、これはまことに得難い心の泉となるに違ひない。戦いのはざまにあって、これらの短い詩を一つ二つと讀む時のわれらの感動をおもふと極まりなく心たのしい。
1944 昭和19 8月29日、吉野秀雄妻、はつが逝く。(享年四十二歳)
12月、とみ、鎌倉の歌人、吉野秀雄宅に入り、四人の子(陽一・壮児・皆子・結子)の訓育に当る。
資料@ えにしに支えられ(全文) 
 長女皆子十八歳、次男陽一十五歳、三男壮児十一歳、末娘結子九歳。享年四十二歳の妻はつに先立たれ時の四十三歳の秀雄と、残された子供たちの年齢である。
『寒蝉集』の中の「玉簾花」のおびただしい歌から、当時の秀雄の気持ちを探るいくつかの歌を揚げてみようと思う。
  よしゑやし捺落迦
(ならか)の火中(ほなか)さぐるとも再び汝(なれ)に逢はざらめやは
  長
(をさ)の娘(こ)を母によく似つと人のいふにつくづく見つめ汝(なれ)ぞ恋(こい)しき
  おのずから朝のめざめに眼尻
(まなじり)を伝ふものあり南無阿弥陀仏
酔ひ痴
(し)れて夜具の戸棚をさがせども妹(おも)が正身(ただみ)に触るるよしもなし
 この年譜には、「四児をかかへて路頭に迷ひ吉野藤への出店を怠る」とある。そんな悲しみの中、秀雄の生家では四人の子供をかかえ、この物の逼迫した時代に、鎌倉の秀雄の家はどう暮らしているだろうと、母は特に気が休まることがなかった。子供の養育ができる人、それらしき教養を備えた人が望ましい。戦争の最中で食べることすら満足でない時に、お手伝いさんをあれこれ選んでいられるはずがない。そんな話が一族の間をかけ巡っているうちに、吉野藤東京店の兄が耳寄りの話を持ち込んできた。

 兄の家で働いている娘の叔母がひとり者で、八木登美子といった。中学校の教師で詩人でもあった八木重吉と結婚し、二人の子供をもうけたが、夫を亡くしその後二人の子供にもつぎつぎに先立たれ、今は天涯孤独の身で、療養所の事務員として暮らしているということだった。しかも吉野藤に勤める娘さん一家が、横浜の強制疎開でどこかへ転居しなければならなかったとき、吉野家の世話になって高崎に疎開していた。そんな縁があることから秀雄の兄嫁が、登美子未亡人に「鎌倉の弟が妻に死なれ、四人の子供を抱えて困り果てているので、助けてやってください」と手紙を送っていたのである。昭和十九年の初秋のことだった。
 それを聞いた秀雄は、その女性に手紙を送り窮状を訴えた。九月一九日付けである。その文の一節に、「血涙を流した者がここに何人かより集り血涙を流した者にのみ許される人生」を歩もう、という秀雄の言葉に登美子は心を動かされた。そして
(登美子は秀雄が、)歌を作る人ときいたので『アララギ』を山ほど借りてきて探したが、吉野秀雄の名はついになかった。のちに秀雄は結社には所属しない歌人と知る。
 二通目は十月十二日付で、間もなく登美子は鎌倉の吉野家を兄と訪ねることになった。登美子は初めて秀雄を見た瞬間、この人のところなら来てもいいと直観した。誠実さ溢れた人柄は重吉と同じと見てとったのである。その日登美子は、『八木重吉詩集』を置いて帰った。
 三通目の手紙は、重吉の手紙に感動したと書いてあり、末尾に三つの歌が書かれていた。
 人の妻下駄と傘持ちゆうぐれの駅に待てるをわれに妻なし
 配給の麦酒もてきて共に飲み大仏次郎われをはげます
 子供部屋に残りし太鼓とりいでて敲ちうつこころ誰知るらめや
          三首とも『寒蝉集』
 このうち三首目の歌が特に心に沁みて、登美子は思わず涙を流した。
 その後、登美子は疎開先の兄を高崎に訪ね、秀雄の母に会うと「秀雄を助けてやってください」と頼まれるのだった。兄はせっかくきたのだから、白衣観音を見てゆけと案内した。
 鳥川の長い橋を渡り、五百段をこえる石段を登り、山頂の白い参道を歩き観音様の前に額ずくと、しみじみと越し方が思われ手を合わせた。心に高まりが感じられた。
 八木登美子が秀雄の家に入ったのは、はつの納骨を翌月に控えた、
十一月六日のことである。登美子は両腕に、亡き夫重吉の詩稿の入った柳のバスケットを抱えていた。
   2002・12 「上州路  特集ー生誕百年記念ー 超俗の人 吉野秀雄」より
    佐野進著 「二人は我にひとりなる −歌でつづる吉野秀雄と二人の妻−えにしに支えられ」より
  
   上記の文章は佐野様のご配慮によりご掲載させて戴きました。改めて感謝申し上げます。 
  研究課題:秀雄の没後、「詩集 山國の海鳴」が刊行されるその時代背景考察のための資料  2017・12・23  保坂
   ※「やわらかな心」では「(略)茅ケ崎から昭和十九年の末に我が家へ移ってきたのだが(略)」とあり、再確認が必要
                                              2017・12・25 保坂

資料A その年の暮、登美は鎌倉小町にある吉野家から子どもの養育をするひとがほしいと申し込みを受けた。登美の姪が吉野家の当主秀雄の兄の家で働いていることから、その兄は登美の人となりをきいていた。登美もまた吉野秀雄とその家族達のことをきき知った。  山田野理夫著「わが妻うつくし」より
1945 昭和20 2月末〜2月上旬、秀雄、伊豆方面を旅する。
3月10日、東京大空襲、吉野藤東京店が焼失する。
 東京だけではなく、爆撃は各地に拡がり、私の母と兄が疎開した高崎までが、激しい爆撃にさらされた。そして四月十五日のこと、老いた母が、空襲下でショック死したという電報が兄から届いた。私はすぐにも飛んでゆきたい気持ちだったが、ちょうど折りあしく吉野が喀血してねていてそれもできない。それにしてもなんといういたましい死に方だったのであろう、最後まで私の身の上を案じつづけていた母の死をおもいながら、私は風呂の火をたきつけてうずくまって泣いていた。その時、病臥中だったはずの吉野が傍らにそっと立って、「おばちゃんを妙本寺へ連れていってあげる」といってくれた。私はこのときのことを今も忘れることができない。」吉野と皆子さんと私と三人で出かけた。ちょうど桜や海棠の花が真っ盛りで、お寺の庭はひっそりとしずもっていた。私は鎌倉へはじめて吉野に連れていってもらった所であるが、酷たらしい世の中の出来事が嘘に思えるように、美しい静かな世界であった。
病床(やみどこ)を起きいでくれば琴弾(ことひき)の小橋(こばし)の眺め春も闌(た)けにし
琴弾の橋の際
(きは)なるさくら花一瓣(ひとよ)あまさで水にこそ散れ
散りざくらただよふ水は楓
(かへるで)のはやさ みどりの影をひたしぬ
      闌(た)けにし:@いちばん盛んな時。最盛時。 A盛りを過ぎてやや衰えかけた時。
        1978・10 吉野登美子著「わが胸の底ひに」より。
(略)
とみ子がどうしてそんな家にがまんできたか、後のち なにげなく洩らしたことから推察するに、一つには、八木に感化されたキリスト教の精神があり、この困りはてた一家につくして立て直してやろうと思ったらしい。二つには、八木も胸の病に倒れたが、この家のあるじも胸を病むとは、これもそういう運命だと観じたらしい。三つには、吉野が金にもならぬ歌をつくる者だということは、詩歌の徒は貧乏しても信用がおけるという解釈から、かなり気に入ったらしいのである。しかし、とみ子は八木を忘れかねてそれまで再婚を拒んできたのだろうし、わたしもはつ子を失った悲しみは、まだなまなましいし、おいそれどうこうと、ことを運ぶわけにはいかない。昭和二十年のわたしの歌に、
   うつし世の大き悲しみを三たびまで凌
(しの)ぎし人は常にやさしき
   いはむすべせんすべもなき子らに我が君がすがしき声徹
(とほ)るかな
   わが吐ける生血(なまち)の器濯(うつはすす)ぎくれし人の情けは身にしむものを
 などとあるのは、詞書きの一句に「密かに詠みて」とあるように、わたしのひとり秘めた感謝の声であった。そして昭和二十年、敗戦後の初冬にこの世を去ったわたしの母は、死の直前上州へ見舞いに行ったわたしに、「お前の行く末が案じられるが、八木さん(とみ子のこと)と再婚してはくれぬか」といい、これに対し「いまはなんともいえない」と答えたことを覚えている。便利のゆえに娶ろうとするのはおたがいの屈辱だと信じていたからだ。(略)
           昭和40年4月、秀雄著、「婦人画報・前の妻・今の妻」より。
10月、秀雄、会津八一を新潟に訪ねた後、一人で柏崎、奈良、京都、志摩を旅する。
11月22日、秀雄の母、サダが逝く。(享年67歳)
1946 昭和21 2月、小林秀雄が「創元社」より「無常といふ事」を刊行、「実朝」を所収する。
1947 昭和22 1月、『創元 第1輯』が創刊、吉野秀雄が「短歌百餘」、また中原中也の詩四篇などが掲載される。
   
注 国会図書館所蔵本と原本を照合、「草→章」であることを確認済。 2018・2・20 保坂 Pid/1336689 
(略)年が明けて、二十二年の一月になって『創元』創刊号に「短歌百余章」が発表された。『創元』は定価百円という当時としてはすこぶる豪華な雑誌であった。雑誌も、先生の歌も、すぐに評判になった。この歌に関して、次のような伝説が残っている。『創元』の実質的な編集長であった小林秀雄さんは、この原稿を受けとって、読みおわるなり、凄い勢いで山を駈けおりてきて、吉野先生の門を叩き、こう言ったというのである。「このなかに八首だけよくない歌がある!」つまり、あとの歌は、全部いい、全部傑作であるという意味だったのである。これは伝説というよりは、事実に近いものであると思われる。『創元』に発表された、「短歌百余章」は、よく知られているように、先生の前夫人、はつ子さんの死の前後を詠んだものである。(略)
            山口瞳「小説・吉野秀雄先生」より

この年の夏、小林秀雄が吉野の家を訪ねる。
(略)小林秀雄さんが手作りのかぼちゃをもって、吉野の家をおたずね下さったことがあります。ちょうど吉野は留守で、私がお相手をしているうちに、八木の詩集を見て下さることになりました。小林さんはパラパラめくって見て、
夕焼
ゆう焼をあび手をふり手をふり胸にはちいさい夢をとぼし手をにぎりあわせてふりながらこのゆうやけをあびていたいよ
ーという詩に目をとめ、「これはいい詩ですね。この詩集をしばらく貸して下さい」と、おっしゃって下さったのです。ちょうどそこへ吉野が帰ってきて、これは絶対いい詩です、ほんものです、太鼓判をおしてくれ、これが縁となって創元選書の一冊として『八木重吉詩集』があらためて世に出ることになったのです。中国から帰国されたばかりの草野心平さん、小林さん、吉野、私の四人で、小林さんの家で出版の打合せをしたときのうれしさは忘れられません。
(略) 
          「文芸春秋 42年12月号 四十年を看病に生きて 吉野登美子」より
10月26日、とみと吉野秀雄が鈴木俊郎夫婦の司式により再婚する。
これの世に二人(ふたり)の妻と婚(あ)ひつれどふたりは我に一人なるのみ
恥多きあるがままなるわれの身に添はむとぞいふいとしまざれや
わが胸の底ひに汝
(なれ)の恃(たの)むべき清き泉のなしとせなくに
            吉野秀雄 『晴陰集』より
1948 昭和23 3月、「創元社」から「八木重吉詩集」が刊行される。
1950 昭和25 3月1日、鈴木俊郎が「神を呼ぼう」を「新教出版」より刊行する。
 
 昭和32年6月 第6版
 跋  鈴木俊郎
 八木重吉の詩に、わたくしはほとんど傾斜するものであります。かれの詩を読むことは、わたくしのこころを、きよめることであります。純粋無雑、愛情のあふれたる、かれの詩のごときをわたくしは知りません。
 誠実、眞のありのままの素朴な表現、しかも人のこころと自然のすがたをそのうごきにおいて捉えるあの手法のぎりぎりの確かさ、日常慣用の平凡なことばのあの大膽自由な駆使、その詩想のゆたかさとするどさ、その詩境のふかさとくつろぎ、かれの詩は、日本人の詩のなかにあって、独一のジャンルをなすものであると思います。

 しかも、かれの人間観と自然観には、その根底にあってそれを支えそれを生み
出すものがありました。それはかれの信仰でありました。神、キリスト、聖霊、かれはかならずしもつねにそれを語りませんが、かれはそのなかにあって「生きうごきまた在」った人でありました。かれの詩は、かれの信仰の表白のほかの何ものでもありませんでした。これがかれの詩を比類なきものにし、かれを日本に於ける最初のすぐれたキリスト教詩人としているの(で)あると思います。
 このたびわたくしは遺族から示された夥しいこの詩人の手稿のなかから、二六一編の詩をえらんで、この信仰詩集を編みました。作詩の年代にとらわれず、内容にしたがって分類をこころみましたが、それはこの詩人のこころを表わすに善き方法であったと思います。
 かれの美しい詩は人のこころを美しくせずにはいません。この詩集がそれにふさわしい多くの眞実の読者を発見し、かれらのこころをきよめあたためることをいのりつつ、これをくるしい今の世に送ります。
  一九四九年十二月     鎌倉にて  鈴木俊郎
    参考 重吉が生前中、鈴木俊郎の聖書研究会に通っていたことから、鈴木氏が編集されました。
10月11日、父籐三郎が亡くなる。  戒名 寿徳院常真法悦宥円大徳 行年 79才
1951 昭和26 12月30日付、創元文庫版「八木重吉詩集」改装刊行される。
1952 昭和27 10月26日、重吉25周忌に吉野秀雄と登美子が招かれ、八木家を訪れる。
(略)吉野は二十七年八木の二十五年周忌法要のとき町田市にある八木の生家に行き、こんな歌を作ってくれています。
 コスモスの地に乱れ伏す季
(とき)にして十字彫(ゑ)りたる君の墓子らの墓
 重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け
 われのなき後
(のち)ならめども妻死なば骨(こつ)分けてここにも埋(うづ)めやりたし
 (さかい)村の道秋晴れて歩みつつ蜜柑(みかん)むく手に蜂のきらめく
  畠中に茶の木垣結
(ゆ)ふ墓どころ茶の花潔(きよ)しけふの忌日(きにち)
  重吉が幼き頃のままならむ炉
(ろ)べの粗朶箱(そだばこ)子舟のごとし
        
「文芸春秋 42年12月号 四十年を看病に生きて 吉野登美子」より
        後半の三首は 吉野秀雄著、「やわらかな心・宗教詩人八木重吉のこと」より 
1953 昭和28 3月15日(日)、吉野秀雄が川尻村公民館に招かれる。
(略・「われのなき後(のち)ならめども妻死なば「骨(こつ)分けてここにも埋(うづ)めやりたし」)はわたしの遺言とみなしてもよい。これらの歌を雑誌で読んだ加藤武雄の弟加藤哲雄は、翌年の春、わたしを八木の郷里に近い川尻村公民館に招き、わたしは八木についての私見を講話した。そのおりにも八木の生家を訪(おとな)い、墓にもうでた。ただ昭和三十三年春、八木の生家の庭にできた詩碑の除幕式に、病気で列席できなかったことをいまも遺憾におもっている。
        吉野秀雄著、「やわらかな心・宗教詩人八木重吉のこと」より 
8月15日、柴田元男が「詩行動社」から「天使望見」を刊行する。
1954 昭和29
1955 昭和30
1956 昭和31 4月2日、高村光太郎が肺結核により中野三丁目の自宅で死去。(73才)
4月4日、高村光太郎の葬儀に、病気で伏していた秀雄に代わり登美が赴く。
     み柩(ひつぎ)の白木にぢかに連翹(れんげう)のコップ置かれし簡素を妻言う  秀雄
9月1日、加藤武雄が死去。
12月9日、中野区中野文化会館で「八木重吉没後三十年記念講演会」が開かれる。
講演:草野心平・大江満雄・伊藤信吉・佐古純一郎・吉野秀雄・三ツ村繁・山本和夫・野坂純一郎
     畑中良輔はまた、師範、教師時代の友人たちによる想い出話等
1957 昭和32
1958 昭和33 4月15日、吉野秀雄と長男の陽一の校訂・編集による、
   「定本八木重吉詩集」が弥生書房から刊行される
 詩人八木重吉の詩は不朽である。このきよい、心のしたたるやうな詩はいかなる世代の中にあっても死なない。死の技法がいかやうに変化する時が来ても生きて讀む人の心をうつに違ひない。それほどこれらの詩は詩人の心のいちばん奥の、ほんとの中核のものだけが捉へられ、抒へられてゐるのである。感じてゐながら言葉でそれを抒へる事のむつかしさを詩を書くほどのものは皆知ってゐる。よほど素直な心と、微を見る感覚との優れてゐるものでなければ此の境にまでは到り得ない。結局八木重吉といふ詩人の天から授かった詩的稟性が、人生の悲しみに洗はれ、人生の愛にはぐくまれ、烈しい内的葛藤の果にやっと到ることの出來た彼屬特の至妙な徹底境に、一切の中間的念慮を拂ひのける事が出來たからであらう。これらの詩はまことに彼屬自のものであり、唯一不二の妙薬であり、人はこれらの静かな詩をよんで却て烈しく動かされ、これらのやさしい詩をよんで却で湧き出づる力を與へられ、これらの淡々たる言葉から無限のあたたかさに光被せられる思をする。

 
注(今この詩人と一心同體である八木夫人の手によって數種の遺著の中から最も然るべく選擇せられた詩篇が一冊にまとめられるといふ。この画像烈しい時代に生きるわれわれにとって、これはまことに得難い心の泉となるに違ひない。戦いのはざまにあって、これらの短い詩を一つ二つと讀む時のわれらの感動をおもふと極まりなく心たのしい。

4月27日、生家の前に「素朴な琴」の詩碑が建立される。
   秀雄は病気のため欠席する。
10月26日、北川太一氏が、新たな八木詩稿十一綴りを発見、その知らせを受ける。
(略)<定本>の出た年の秋、『高村光太郎全集』の編集者で、わたしと文通のあった北川太一が、茨城県の某所※1宮崎稔宅)で八木詩稿十一綴りを発見した。そのしらせをうけた十月二十六日は、八木の満三十一年の祥月命日で、ふしぎなおもいがあった。これによって『<新資料八木重吉詩稿>花と空と祈り』という選集を、やはりうちの家族が力をあわせて編んだ。(略)
               吉野秀雄著、「やわらかな心・宗教詩人八木重吉のこと」より 
        注:※1宮崎稔宅)についの出典:八木重吉全集 第三巻 年譜P470 より
1959 昭和34 12月25日、「花と空と祈り」が弥生書房から刊行される。
   北川太一氏により発見された草稿をもとに、吉野秀雄・登美子・壮児が編集する。
 
  「花と空と祈り」
はしがき(全文)
 八木重吉の詩稿十一冊が新たに発見された。そのなかから、およそ四割にあたる三百六十篇を選んで、この本を編んだ。独立した一冊の本であると共に、またおのずから『定本 八木重吉詩集』(昭和三十三年 彌生書房刊)の補遺をなすであろう。新資料の十一冊を、大正十一年(重吉二十五歳)から大正十四年(二十八歳)までの年代順にわけ、ローマ数字のTUV・・・XIの中扉をつけた。作品の配列も各冊の原稿のしぜんの流れにしたがい、バラ原稿は適宜に処理した。各冊の解説は「編輯後記」にゆずった。無題の詩が大部分なので、このたびは細目の目次をつくらなかった。表記法は、すでに『定本』で実行した通り、新かなづかいに統一した。この本の標題の「花と空と祈り」は、新資料全
体についての印象としてつけた。口絵はXIのなかのもので、大正十四年の作。模造紙にかいてある。
1965 昭和40 1月、秀雄、「日本」に「宗教詩人八木重吉のこと」を寄稿する。
4月、秀雄、「婦人画報」に「前の妻・今の妻」を寄稿する。
1966 昭和41 8月15日、秀雄が激しい心臓発作を起こす。
(秀雄が、)激しい心臓発作を起こし、以来二十三回も発作に苦しんできたのですが、最期は実に安らかな顔で何の苦しみもなく逝ったのが、せめてものことでした。昨年八月の発作のときは医者にも見放されそうになったのを、気力で奇跡的に持ち直しました。このとき、
     彼の世より呼び立つるにやこの世にて引きとむるにや熊蝉の声
という歌を作り、もし自分が死んだらこの歌を風呂敷にでも染めてお返しに配れ、といい残しておりました。今度はとくに遺言というほどのものはなく、この歌が吉野の辞世の歌だと思っています。死ぬ少し前に私に、
「おまえといっしょになってよかった。おれはしあわせだったよ。」「ただ看病だけで、歌も作らず何もしなくてすみません」「歌なんか作らなくていいんだよ。一所懸命看病してくれて、ほんとにありがたかった」と申しておりました。
         「文芸春秋 42年12月号 四十年を看病に生きて 吉野登美子」より
1967 昭和42 7月13日、吉野秀雄(65才)が他界。
1968 昭和43 5月、山田野理夫が「わが妻うつくしーうたびとの妻の記録ー」を「秋元書房」から刊行する。
6月、「日本の詩歌 23 中原中也・伊東静雄・八木重吉」が中央公論社より出版される。
12月5日、山口瞳が「小説・吉野秀雄先生」を「別冊文藝春秋106号」に発表する。
(略)人間がこの世にあることの悲しさをこんなに深く、美しく、微妙に、悲しく、調べ高く歌いあげた歌はめったにあるものではない。「短歌百余章」は、このような力技と嘆きと、いってみれば、先生のぎりぎりの人間の表出の連発であったのである。そうではあるけれども、私は必ずしも先生の歌の全部を評価したわけではなかった。私は、先生という人間は、なにからなにまで、まるごとすっぽり大好きだが、つまり、惚れこみ打ちこんでいる者の一人だけれども、歌のすべてをよしとする者ではない。先生の生き方にも疑問があった。とくに、『寒蝉集(かんせんしゅう)』の「彼岸」以後の作品については、たびたび議論することがあった。これも、こちらの稚気に発するものであったかもしれないが、たとえば、次の歌をどう見るか。

 
我命(わぎのち)をおしかたむけて二月朔日(ついたち)朝明(あさけ)の富士に相対(あひむか)ふかも

 絶唱というべきものであるが、こんなふうにひたぶるに、全力的に、富士を詠んでしまえば、あとの富士山の歌ができなくなってしまうのではないか。また、私のよく知っている吉野秀雄という偉丈夫(いじょうふ・ぶ)が、病弱にして巨人である先生が、体をやや猫背にして、もっとも寒い二月一日という日に、全力をあげて富士に立ち向かっているという姿はよくわかるのであるが、ここから吉野秀雄という姿を消してしまうと、わけのわからぬ歌になってしまう。
     稚気(ちき):子供のような気分。子供っぽいようす。
     ひたぶる(頓/一向): いちずなさま。ひたすら。
1969 昭和44 11月、廣澤榮が、「シナリオ作家協会編 シナリオ」に「わが恋わが歌」を寄稿する。
1970 昭和45
1971 昭和46 8月28日、電々公社相原寮(旧相原中継所)の屋上に於て「盆踊りとビヤーガーデンの夕べ」を開催、「八木重吉作品展」の中で、詩集「貧しき信徒」をガリ版刷りにまとめ発行する。
  
 この「貧しき信徒」の原本は、当時シリーズ本で中央公論社から発売されていた、「日本の詩歌 中原中也・八木重吉・伊藤静雄」の中から38編を抽出し、来場者の皆様にお土産として200部ほどを印刷配布させて戴きました
  
若いころの懐かしい思い出話です。(保坂記)
               
9月、編者田中清光・吉野とみ子が「八木重吉ー未発表遺稿と回想」を「麥書房」から刊行する。
また、同書に宮崎稔が「人と作品 −雑誌特集を中心に」の項から「四十五歳の八木重吉」についてを寄稿する。 (原文)
                   (調査中 2017・2・26  保坂)
1972 昭和47
1973 昭和48 10月26日、「八木重吉没後47年記念講演会」が町田市堺中学校で開かれる。
    講演 藤原定・山室静・佐古純一郎・大江満雄・野田宇太郎
1974 昭和49 ・   
1976 昭和51 10月21日、生家の入り口に、草野心平書、「詩人八木重吉生家 詩碑 墓地」と記した石碑が建立される。
10月24日、八木重吉50年祭が行われる。 町田市立相原小学校
  「八木重吉五十年祭のしおり」に弟、野坂純一郎が「重吉の愛読書・その他ー」を寄稿する。
  相原幼稚園入口に「ふるさとの川」の詩碑が建立され、詩碑の除幕を登美子夫人が行う。
10月、吉野登美子が「琴は静かに」を「彌生書房」から出版する。
1977 昭和52 6月、責任編集やなせ・たかし「月刊詩とメルヘン」に「水や草は いい方方である」が掲載される。
(題)水や草は いい方方である
はつ夏の/さむいひかげに田圃がある
そのまわりに/ちさいながれがある
草が水のそばにはえている
みんな いいかたがたばかりだ
わたしみたいなものは
顔がなくなるようなきがした
エッセイ 星屑ひろい ぼくの好きな八編の詩 
F八木重吉も立原道造とおなじく絶対的なファンがいますので、どの詩をえらんでも、不満、あるいはどの詩をえらんでも感動ということになるのでしょうが、「水や草は、いい方方である」にしました。理由は特に題が気にいったのです。 
               やなせ・たかし
より
7月1日、内藤卯三郎が逝く。享年86歳没
10月、山口瞳が「文芸春秋」から「小説・吉野秀雄先生(文庫本)」を刊行する。
    同書に「秋冬雑詩(遺稿)」の標題で「ばった・栗・赤とんぼ・梅・よい日・芭蕉・夕焼」が所収される。
1978 昭和53 10月、吉野秀雄著、「やわらかな心」が「講談社文庫」から刊行される。
10月31日 、吉野登美子著、「わが胸の底ひに」が「彌生書房」から刊行される。
1980 昭和55 10月20日、NHKテレビ放映  3CH教育テレビ PM20時〜
   文化シリーズ文学への招待「現代詩の青春八木重吉 秋の瞳」 出演 宗左近、郷原宏
1981 昭和56 11月15日 NHKテレビ放映  3CH教育テレビ PM20時〜
    宗教の時間「近代日本の求道者、八木重吉」 出演、田中清光、関 茂
1982 昭和57 8月、筑摩書房が「八木重吉全集 全三巻 編集 草野心平・田中清光・吉野登美子のカタログが刊行される。
刊行にあたって  草野心平
 八木重吉の作品が全三巻のかたちで世にでることになった。そのことは死後五十五年、間断することなく八木重吉の詩が生き続けてきたことの証拠でもある。
「私は、友がなくては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。」これは処女詩集「秋の瞳」の序である。日本の近代・現代の詩を通じてこのやうな言葉を序にした詩人は一人もゐまい。また小学生が使ふやうな言葉で、その生涯を通じて書き貫ぬかれたといふことも他に例を見ない。「これらの詩を読んでつまらないといふ人もあるかもしれない。けれども私は誌とはこういうものであるといふことを先づきっぱり断言しておく。詩とは実にこのやうなものを言ふのである。」私のやうな無頼と思はれてゐる人間が「キリスト」の詩に就いて、そのやうに断言することはをかしいと思ふ人がゐるかもしれないが、無頼にしろ「キリスト」にしろ詩はその沸騰から生まれる。三十数年前の自分の言を更に激しく私は断言したいのである。それにしても吉野登美子夫人が、普通ならホゴにしかねない雑記断片までも大切に保管してくれたものだと、そのことに心打たれる。「重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け」と歌った吉野秀雄も全集出版よろこんでくれる。些の疑ひもなくそして私は八木重吉に言ひたい。今にして君の「友」はゐるゐる。そして益々殖えてゆくっだらうと。 一九八二・六・二六
刊行にあたって)  田中清光
二十九歳の若さで八木重吉がこの世を去って五十五年、その間、山雅房版の『八木重吉詩集』(昭17)、草野心平の編になる『八木重吉詩集』(昭23・創元社)。吉野秀雄他の編んだ『定本八木重吉詩集』(昭33・彌生書房)と、この夭折した詩人の詩を今日に手渡す営みは続けられてきた。
その陰には、詩人と死別してから、戦時下にも遺稿を懸命に守りぬいてきたとみ子夫人の努力があったわけであるが、今回、夫人の手許に保存されてきた全遺稿をもとに『八木重吉全集』全三巻が編まれることになった。この遺稿を中心に、生前の刊本はもちろん、雑誌・新聞への発表詩も出来るかぎり調査し、さらに書簡類の探索も行ない、また日記・散文・翻訳も収録して、現在可能なかぎりの完全な全集が刊行できることになった。本全集の編集の特徴は、八木重吉の遺した詩を、刊本・詩稿・生前雑誌等発表詩、に分けて提示し、そこから重吉生前の意図を読みとれるようにしたことである。誌稿については没後の長年月の間にバラバラになった状態から、重吉の遺したままの形態に復原して収録するという作業を行った。さらにテキストの校訂については、初稿、二稿、雑誌発表形、刊本収録形を照合し、それぞれの関連やヴァリアントを注いで示した。本全集によって、重吉の全貌がはじめて明らかにされるわけであるが、これによって従来広く読まれていながら必ずしも正当に読まれて評価されているとはいいきれない、しかし日本の詩の問題からみても日本の宗教詩人としても逸することのできない希有の詩人に対する、よき読者の一人でも多く現れることを念願して編集に携った。

言葉の発行体の秘密  大岡信
           (省略)

十字架           串田孫一
           (省略)

たんねんにいちねんに  紀野一義
 私が八木重吉に非常にひかれるようになったのは戦後になってからである。終戦の翌年の春、中国軍に解放され日本に還って来たものの、広島の家はなくなり、家族は死に、やむなく津山へ嫁した姉を頼って本蓮寺という寺に厄介になった。この津山の町に、内村鑑三の高弟森本氏の建てたキリスト教図書館があり、そこに日参した私はやがて森本氏の知遇を受け、原始キリスト教の講義を聴き、八木重吉の詩に触れたのだった。のちに私は歌人吉野秀雄に傾斜し、歌人の二度目の妻が八木重吉未亡人であることを知り、いよいよ八木重吉が好きになった。重吉の詩では<かなしい日はかなしみのみちをゆきくらし/よろこびの日はよろこびのみちをゆきくらし/たんねんにいちねんにあゆんできたゆえ>というのが一番好きである。切ないほど丹念に一念に生きてきた自分の半生をふり返り、いよいよ重吉の人柄に心ひかれるのである。
月、「八木重吉全集第一巻 詩集 秋の瞳・詩稿Tが筑摩書房から刊行される。
10月、「素朴な詩人 八木重吉」が町田市立図書館より刊行される。
10月、「八木重吉全集第二巻 詩集 貧しき信徒・詩稿U・訳詩・散文・書簡が筑摩書房から刊行される。
11月、「八木重吉全集第三巻 初期詩稿・日記・島田とみ宛書簡 付年譜が筑摩書房から刊行される。
1983 昭和58
1984 昭和59 2月、筑摩書房が、田中清光編による「八木重吉文学アルバム」を刊行する。
宗教詩人八木重吉のこと   吉野秀雄
 世にキリスト教文学とか仏教文学とかいふ概念はある。また聖書は詩であり、内村鑑三は詩人であるといふやうないひ方もあるが、もつとせまい、しかしながらもっと純粋な意味において、詩と信仰を合体させた八木のやうな<宗教詩人>は、ほとんど稀有なのではなからうか、詩歌をつくる人は、ふつう信仰をかへりみない、いはば詩歌をつくるいとなみのうちに救ひがあらうといふものだ。そして信仰をもつ人は、当然詩歌をつくる必要にせまられない。八木は詩人の稟性
(ひんせい)に恵まれながら、しかも不屈の信仰をつかみ、詩と信仰の二者は炎をあげつつ見事に燃焼し合った。中だるみしようにもすべのない、数へ年三十歳までの息もつかせぬ短い青春であった。 
                「八木重吉文学アルバム」の帯文より
6月吉日、施主八木藤雄が、八木重吉・桃子・陽二の墓のとなりに、登美子の墓を建立する。
10月26日、八木重吉記念館が、開館する。
1985 昭和60
1986 昭和61 7月5日、吉野秀雄著「詩集 山國の海鳴」が「紅書房」から刊行される。
1987 昭和62
1988 昭和63 10月26日、田村智義により、八木重吉像が生家に建立される。
  
正面
八木重吉像

裏面
一九八八年十月二十六日
          八木藤雄建之
          田村智義作

1994 平成6 3月、財団法人相原保善会によって、「人と人のあひだを・・・」の詩碑が大戸小学校入口に建立される。
1995 平成7 1月、那須香が、「梅光女学院大学 日本文学研究 No30」に「八木重吉研究 −重吉の詩観」を発表する。
4月、山崎萌子編「文芸春秋刊 文春文庫 女の生き方 四〇選 上」に「吉野登美子著 四十年を看病に生きて」を所収する。
1998 平成10 7月、四十宮英樹が「広島大学 日本研究Vol12」に「信仰と詩作の背理 八木重吉「私の詩」の解釈をめぐって」を発表する。
1999 平成11 2月12日、登美子が昇天する。(94歳)
2000 平成12 9月、責任編集やなせ・たかし「月刊詩とメルヘン」に「特集 八木重吉詩集」が編まれる。
2002 平成14 12月、「上州路 12月号」に「特集 生誕百年記念 超俗の歌人 吉野秀雄」が編まれる。
 
 上州路 12月号
吉野秀雄のこと 原 一雄 吉野秀雄の県内歌碑
 ーふるさとの地に抱かれてー
佐野 進
高崎での吉野藤一郎
−秀雄の父−

森田秀策
良寛の心で生きた生涯 吉野秀雄
市川忠夫
吉野秀雄の短歌 高橋誠一 私の好きな一首
吉野秀雄歌集の特色 大井恵夫    手の指は・・・ 今井與兵衛
二人は我にひとりなる
ー歌でつづる吉野秀雄と二人の妻ー

佐野 進
   その墓に手を・・・
   死はすでに
吉田ひさの
小比木とく子
艸心忌
ー吉野秀雄を敬愛する人々の集いー

佐野 進
相模と酒と外国と
吉野秀雄年譜
富岡昭晴
2011 平成23 4月30日、上大戸講中小屋〔大戸観音堂の境内〕から、大戸観音に奉納された一対の火鉢が発見される。
2012 平成24
10月26日 午後1時より 八木重吉没後八十五年の茶の花忌が開かれる
2013 平成25 10月27日、大戸小学校の3・4年生が創作発表「相原の詩人〜八木重吉の世界」を上演、好評を博する。
2014 平成26
2015 平成27
2016 平成28 10月22日〜12月25日、町田市民文学館に於いて「八木重吉 −さいわいの詩人−展」が開かれる。
2017 平成29 1月11日、「茶の花忌」を主宰してこられた八木藤雄様が御逝去される。
12月、八木藤雄様遺品整理の中で、吉野秀雄短歌一首の掛軸と吉野秀雄に宛てた登美子からの手紙一通が発見される。
2018 平成30 11月25日(日)、保坂、相原まちづくり協議会主催の講演会で「八木重吉の世界」を語る。
 主に、昨年12月に発見された、掛軸と手紙の内容と失われた詩群の一部についてを語りました。講演終了後の御意見の中で、相原駅に重吉コナーの設置とか、原本の散在は他にもあるのかと云った御意見等がありました。

参考 H26・9 塩尻駅構内に展示された「第28回 全国短歌フォーラムin塩尻」での情景。
2019
2020
2021


資料
日本の詩歌23 中央公論社 、「素朴な詩人 八木重吉」1982 町田市立図書館より抜粋

現代詩文庫 1031 八木重吉 思潮社 発行 1998年7月
八木重吉文学アルバム 田中清光編 筑摩書房 発行 昭和60年9月初版第2刷 
詩人八木重吉 田中清光 麥書房 発行 1979・6・30 改訂第1版
創作 若山牧水追悼号 第十六巻第十一号 創作社 発行 昭和3年12月
郷土資料集 素朴な詩人 八木重吉 町田市立図書館 1982
八木重吉詩集 山雅房  発行 昭和17年7月  
開館10周年記念八木重吉 −さいわいの詩人(うたびと)−展 町田市民文学館ことばらんど 担当 神林由貴子 発行2016年10月
高村光太郎全集 第八巻 筑摩書房 発行 昭和33年1月

梅香真所愛 重吉兄弟、故郷の観音堂に火鉢を奉納す

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