父が描いた裏庭からの景観図 (昭和30年代初め頃の様子)   yumurayama.html


 昭和34年8月、台風七号が、甲府盆地を襲撃しました。この絵は台風七号が襲う前の湯村山から片山迄の景観です。以前の湯村山は、この絵のように松の樹木で覆われていましたが、七号台風によってなぎ倒されてしまいました。
 畑にはトウモロコシの花が咲き、その後ろの方には荒川の土手にニセアカシアの木も沢山生えていました。
左の、小高い丘は、江戸時代か、もしかして、それ以前かも知れない堤防の跡です。この堤防は甲州流と呼ばれる築堤法で、できていて、それぞれに「一ノ出し」、「二ノ出し」、「三ノ出し」と云うふうに何本も連なって雁が飛ぶような姿に似せていました。父の描いた絵はそのうちの一つの堤防の跡です。その築堤法は川幅を広くして、丈夫で頑丈な高い堤防を築くのではなく、あくまでも、流速を弱めるところに力点をおいた築堤法となっていました。増水時には堤防と堤防の空間から水を溢れさせ遊水池となるようにして、結果的に流速が弱まるような機能を持たせました、また、堤防を強固なものにするため竹や木を植えました。絵の左側上の二本の木はクヌギの木です。クヌギの木は独特な方法で管理されていました。つい最近まで知らなかったのですが、「台場伐り」と云うのだそうです。伐採時にはハシゴを使い、樹木の途中から幹を切る方法です。災害はいつ起こるか予測もつかないため、クヌギを根本から伐採すれば、春には発芽しますが、幼木は柔いため、濁流に揉まれた場合には傷つき易く流されてしまうことが予想されます。また、クヌギは複雑に根を張るため堤防の強度はより強められ決壊を防いでいました。
 古い堤防の跡は砂地の中のあり、荒川扇状地の中間地にあたるため、普段でも流速が早く、増水時には濁流となって流れます。関東地方のような、粘着力のある赤土(粘土層)で覆われていないため、崩れやすく、堤防にクヌギの木を植えることは、堤防を決壊から守る先人の知恵だと思っています。
 クヌギは成長が早く、冬仕事として10年位の間隔で伐採が行われていました。伐採したクヌギの多くは、ホダ木を含め竈や風呂の焚付にも使われていました。
  クヌギの木を途中から伐採することは、野生動物からの被害を受けにくくなり、クヌギの樹木そのものを守ることにも繋がっていました。そうして、そのことが堤防を決壊から守ることに繋がっていたのです。そして、そこに住む人たちにとっても生活の糧として、なくてはならない存在となっていました。
 夏になるとクヌギの木からは樹液が溢れ、沢山の昆虫たちが暮らし、甲府の市街からは、土手づたいに大勢の親や子どもたちが昆虫採集に来て、みんなで楽しみました。
 母は、訪れた子どもたちや付添の親たちに野菜をあげたり、井戸水を何回も汲み出したり、トイレを開放していました。私も、そんな光景を見ることが楽しみにしていましたが、時代の変化とともに、甲州流と呼ばれてきた堤防の跡も次第になくなり、そして、いつしか昆虫もいなくなり、思い出だけとなってしまいました。
 今、父の描き残してくれた、この絵が沢山の昆虫たちがいた証でもあり、「台場切り」と云われる伐採法を確認できる貴重な一枚であることを、嬉しく、今はただ感謝でしかありません。ありがとう、お父さん。
参考
方言:カナブン/ショウチュウ  クワガタのオス/シンゲン

研究論文
服部保・南山典子・上田萌子・澤田佳宏著「クヌギの基礎情報と台場クヌギの成因」 
兵庫自然研究報告7 p33−48 2021年6月
上田萌子・義本琢磨著「大阪府能勢町における台場クヌギ林の存在状況」  ランドスケープ研究86(5) 2023

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