船に乗ったお地蔵さん・(岩船地蔵)
相模原市内に6基、船に乗ったお地蔵さんが確認されています。まだどこかにあるのかも知れませんが台座が船の形をしています。しかし良く見ると、お地蔵さんが船の横や縦の方向を向いていたり、またお地蔵さんと舟の部分との石質が違っていたり、他の地域では船に乗っていないで「岩船地蔵」と呼んでいるところもあります。それから伝承では谷が原にあるお地蔵さんのように相模川の水難事故で亡くなった供養塔とも呼んでいます、また水との関係からか「雨乞い地蔵さん」などと呼んでいるところもあります。 船に乗ったお地蔵さんの実際の起源は何時ごろから始まったのでしょうチョット考えてみました。 船に乗ったお地蔵さんを「岩船地蔵」(以下、岩船地蔵)と呼んでいます。伝播の期間は非常に短く、今から凡そ300年前の享保4年から10年迄の7年間に集中しています。この時期はェ盛上人が江戸の東叡山から今の栃木県岩舟町にある高勝寺と云う寺に派遣された時期と重なります。高勝寺は天台宗の寺院で、青森の恐山、鳥取県の大山と並ぶ日本三大地蔵のひとつに数えられている霊地です。 熱狂的とも云える布教活動は広い地域に及びました。甲斐の記録では、「信濃を経由して、神輿を奉じ、旗、天蓋を立てた「下野の国岩船地蔵念仏踊り」がやって来て三味線、尺八、鉦、太鼓で念仏を唱え、踊り子には男女の子供をこしらえ、村々を一、二日ずつ練り歩いて、これを祀った」とあります。 こうした、布教活動は途中で幕府の介入もあり長くは続きませんでしたが、今に伝える「お念仏」のなかに当時の人々が熱狂しながら受け入れた理由があるように思えます。 昔は、暮らしの中に宗教と云うものが根付いていましたので、私たちは「死んだらどこに行くのだろうか」と云う問いかけに「地獄かな極楽か、天国」それとも「阿弥陀さまか海の彼方か」と云った死生観とか、現在よりもはるかに信仰心と云うものが深かったと思います。 時宗の開祖、一遍上人は34歳の時、信州の善光寺を訪れました。その時「二河白道」の絵図を見て感得し郷里の窪寺にその絵を描いて掲げました。絵図の右側は濁流が、左側に火の海が見えています。そして、その中央に幅数十センチの、1本の道が見えています。その奥には阿弥陀様がいて手前にはお釈迦様がいます。その絵図を見ているのは旅人ではなく自分なのです。さて、どうやってこを渡ろうかと、つまり「この世からあの世」へ移ろうとする一本の道なのです。 こんなことも考えられます。神道では人は死ぬと命(カミ)になります。精進川を渡りカミの国に行きます。仏教ではお地蔵さんに付き添われ三途の川を渡って閻魔さんのところに行きます。生前悪いことをしていると舌を抜かれると云われてきました。また三途の川は3つに分かれていて深かったり浅かったり橋がかかってあったり、どのコースを通るかは人によってそれぞれの違いがあるのだと信じられてきました。 こんなことを書くと、たちまち非難轟々となるところですが、昔の人たちはそうしたことを真剣に考えていました。こうした話は親から子へ、そして孫へと代々伝えられて行きました。またこうした話を職業にする専門の集団もいました。「地獄図」や「立山曼陀羅図」などを使っいながら巧みに語る「絵解」の人々です。 また、地方によっては「お棺」のことを「フネ」と呼んでいるところがあります。一遍上人は「阿弥陀様への道」を船に乗って行くところまでは考えていませんでした。 岩船信仰は江戸時代それも、たった7年間という短い時期に爆発的な勢いで広がりましたが、やがてその岩船地蔵さんの信仰も、また人々の記憶の中から薄らいで行きました。だがその記憶は人々の死を悼む「お念仏」のなかに僅かながら残されていきました。だれも見たことも行ったこともない「あの世」の世界へ「きみょうちょうらい我が親よ 歌や念仏が好きならば 極楽船えと乗りたまえ 先船乗るのが釈迦様よ 中船乗るのが我が親よ 後船乗るのが弥陀様よ 蓮の蓮華にさおさして 極楽浄土へつきたまへ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀」と、唱えひたすら念仏をしていたのです。 死の行方、何で行くの、どこかで聞いたような話ですが、船に乗って行く。当時のまったくと云っていい新しい考え方は人々の心を魅了しました。 船に乗ってお地蔵さんと一所に極楽へ行くのですヨ。その発想は当時の大発見だったのです。 相模原市藤野町日連の杉地区に伝わるお念仏と和讃 8 辻にお立ちややる 六地蔵 助け給えや 六地蔵 六道の辻にも 迷わぬように 導き給えや 六地蔵 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀 10 極楽浄土の真中に 黄金の御堂が お立ちある 銭ねで聞けても あきもせず 念仏六字の 六の字で 聞ければあくよと南無阿弥陀 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀 12 きみょうちょうらい我が親よ 歌や念仏が好きならば 極楽船えと乗りたまえ 先船乗るのが釈迦様よ 中船乗るのが我が親よ 後船乗るのが弥陀様よ 蓮の蓮華にさおさして 極楽浄土へつきたまへ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀 21 きみょうちょうらい正月の 二日の晩の初夢に 成仏するとこ 夢に見た 判じておくれよ嫁ご殿 判じてあげますはは様よ 六十六ではまだ早い 七十七でもまだ早い 八十八の祝いして 九十九の三月の桜の花の咲く頃に そろそろ支度をなさいませ 金の屏風を張り揃え 綾や錦の幕を張り 金襴緞子の旗を立て お地蔵菩薩のお手引きで 極楽浄土の真中へ 南無阿弥陀仏 阿弥陀仏 22 きみょうちょうらい下つけのゆわ舟地蔵のお召し舟 舟は白金 魯は黄金 柱は金銀蒔絵して 綾や錦の帆を上げて 極楽浄土へ乗りこむにゃ 極楽浄土の法門は 知恵や力じゃ開きゃせない 念仏六字でさらとあけ 南無阿弥陀仏 阿弥陀仏 会報 文化財第2号 お念仏 森久保 花子 発行 昭和52年12月 藤野町文化財保護委員会 撮影 2017・12・22 愛甲郡愛川町半原 下新久 辻の神仏 岩船地蔵 旧 hanbara71.jpg 注 風化が激しく判読が困難となる。2017・12・27 保坂 相模原市塩田 さくら橋脇 相模原市藤野町 相模原市津久井町青野原 龍泉寺 同左 参考 「蓮の花弁に現れた一葉観音像」
相模原市城山町谷が原 大正寺境内 舟地蔵 城山町穴川 明観寺境内 渡海天神
撮影2009・11・17 山梨県上野原市西原一ノ宮神社境内 廃校となった西原中学校 奉建 立岩舩 地蔵 念仏 供養 敬白 享保四巳亥天五月吉日 町田市上小山田町 養樹院 岩船地蔵 阿弥陀三尊 年代不詳 ↓ 巳亥は享保4年9月 参考 大和市史 別編民俗 8(下) 発行 平成8年9月 大和市 地蔵信仰と民俗 田中久夫 発行 1989年2月 木耳社 神奈川の石仏 松村雄介 発行 昭和62年2月 有隣新書 とちぎの史跡をめぐる小さな旅 監修 塙静夫 発行 2000年3月 下野新聞社 とちぎの野仏 成島行雄 発行 1997年6月 花神社 町田市史史料集第5集 近世庶民史料編U 発行昭和47年2月 町田市史編さん委員会 慈覚大師 山田恵諦 発行 昭和38年4月 比叡山延暦寺 西原の神仏信仰 山梨県上野原市立西原中学校 発行2007・1・30 城山の石仏たち 石仏修復への道 伊奈石のふるさと 赤い石仏・白い石仏 戻る |