船に乗ったお地蔵さん(岩船地蔵)

2008・9・31
2009・11・20
2011・4・5
2020・3・5 
作成
山梨県上野原市西原地区を追加
町田市上山田町養樹院を追加
「龍泉寺・蓮の花弁に現れた一葉観音像」を追加

 相模原市内に6基、船に乗ったお地蔵さんが確認されています。まだどこかにあるのかも知れませんが台座が船の形をしています。しかし良く見ると、お地蔵さんが船の横や縦の方向を向いていたり、またお地蔵さんと舟の部分との石質が違っていたり、他の地域では船に乗っていないで「岩船地蔵」と呼んでいるところもあります。それから伝承では谷が原にあるお地蔵さんのように相模川の水難事故で亡くなった供養塔とも呼んでいます、また水との関係からか「雨乞い地蔵さん」などと呼んでいるところもあります。
 船に乗ったお地蔵さんの実際の起源は何時ごろから始まったのでしょうチョット考えてみました。
 船に乗ったお地蔵さんを「岩船地蔵」(以下、岩船地蔵)と呼んでいます。伝播の期間は非常に短く、今から凡そ300年前の享保4年から10年迄の7年間に集中しています。この時期はェ盛上人が江戸の東叡山から今の栃木県岩舟町にある高勝寺と云う寺に派遣された時期と重なります。高勝寺は天台宗の寺院で、青森の恐山、鳥取県の大山と並ぶ日本三大地蔵のひとつに数えられている霊地です。
 熱狂的とも云える布教活動は広い地域に及びました。甲斐の記録では、「信濃を経由して、神輿を奉じ、旗、天蓋を立てた「下野の国岩船地蔵念仏踊り」がやって来て三味線、尺八、鉦、太鼓で念仏を唱え、踊り子には男女の子供をこしらえ、村々を一、二日ずつ練り歩いて、これを祀った」とあります。
 こうした、布教活動は途中で幕府の介入もあり長くは続きませんでしたが、今に伝える「お念仏」のなかに当時の人々が熱狂しながら受け入れた理由があるように思えます。
 昔は、暮らしの中に宗教と云うものが根付いていましたので、私たちは「死んだらどこに行くのだろうか」と云う問いかけに「地獄かな極楽か、天国」それとも「阿弥陀さまか海の彼方か」と云った死生観とか、現在よりもはるかに信仰心と云うものが深かったと思います。
 時宗の開祖、一遍上人は34歳の時、信州の善光寺を訪れました。その時「二河白道」の絵図を見て感得し郷里の窪寺にその絵を描いて掲げました。絵図の右側は濁流が、左側に火の海が見えています。そして、その中央に幅数十センチの、1本の道が見えています。その奥には阿弥陀様がいて手前にはお釈迦様がいます。その絵図を見ているのは旅人ではなく自分なのです。さて、どうやってこを渡ろうかと、つまり「この世からあの世」へ移ろうとする一本の道なのです。
 こんなことも考えられます。神道では人は死ぬと命(カミ)になります。精進川を渡りカミの国に行きます。仏教ではお地蔵さんに付き添われ三途の川を渡って閻魔さんのところに行きます。生前悪いことをしていると舌を抜かれると云われてきました。また三途の川は3つに分かれていて深かったり浅かったり橋がかかってあったり、どのコースを通るかは人によってそれぞれの違いがあるのだと信じられてきました。
 こんなことを書くと、たちまち非難轟々となるところですが、昔の人たちはそうしたことを真剣に考えていました。こうした話は親から子へ、そして孫へと代々伝えられて行きました。またこうした話を職業にする専門の集団もいました。「地獄図」や「立山曼陀羅図」などを使っいながら巧みに語る「絵解」の人々です。
 また、地方によっては「お棺」のことを「フネ」と呼んでいるところがあります。一遍上人は「阿弥陀様への道」を船に乗って行くところまでは考えていませんでした。
 岩船信仰は江戸時代それも、たった7年間という短い時期に爆発的な勢いで広がりましたが、やがてその岩船地蔵さんの信仰も、また人々の記憶の中から薄らいで行きました。だがその記憶は人々の死を悼む「お念仏」のなかに僅かながら残されていきました。だれも見たことも行ったこともない「あの世」の世界へ「きみょうちょうらい我が親よ 歌や念仏が好きならば 極楽船えと乗りたまえ 先船乗るのが釈迦様よ 中船乗るのが我が親よ 後船乗るのが弥陀様よ 蓮の蓮華にさおさして 極楽浄土へつきたまへ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀」と、唱えひたすら念仏をしていたのです。
 死の行方、何で行くの、どこかで聞いたような話ですが、船に乗って行く。当時のまったくと云っていい新しい考え方は人々の心を魅了しました。
 船に乗ってお地蔵さんと一所に極楽へ行くのです。その発想は当時の大発見だったのです。


相模原市藤野町日連の杉地区に伝わるお念仏と和讃

 8 辻にお立ちややる 六地蔵 助け給えや 六地蔵 六道の辻にも
   迷わぬように 導き給えや 六地蔵
   南無阿弥陀仏 南無阿弥陀

10 極楽浄土の真中に 黄金の御堂が お立ちある 銭ねで聞けても あきもせず
   念仏六字の 六の字で 聞ければあくよと南無阿弥陀
   南無阿弥陀仏 南無阿弥陀

12 きみょうちょうらい我が親よ 歌や念仏が好きならば 極楽船えと乗りたまえ
   先船乗るのが釈迦様よ 中船乗るのが我が親よ 後船乗るのが弥陀様よ
   蓮の蓮華にさおさして 極楽浄土へつきたまへ
   南無阿弥陀仏 南無阿弥陀

21 きみょうちょうらい正月の 二日の晩の初夢に 成仏するとこ 夢に見た
   判じておくれよ嫁ご殿 判じてあげますはは様よ
   六十六ではまだ早い 七十七でもまだ早い 八十八の祝いして
   九十九の三月の桜の花の咲く頃に そろそろ支度をなさいませ
   金の屏風を張り揃え 綾や錦の幕を張り 金襴緞子の旗を立て
   お地蔵菩薩のお手引きで 極楽浄土の真中へ
   南無阿弥陀仏 阿弥陀仏 

22 きみょうちょうらい下つけのゆわ舟地蔵のお召し舟 舟は白金
   魯は黄金 柱は金銀蒔絵して 綾や錦の帆を上げて 極楽浄土へ乗りこむにゃ
   極楽浄土の法門は 知恵や力じゃ開きゃせない 念仏六字でさらとあけ
   南無阿弥陀仏 阿弥陀仏

           会報 文化財第2号 お念仏 森久保 花子
           発行 昭和52年12月 藤野町文化財保護委員会

                       撮影 2017・12・22
  
    愛甲郡愛川町半原 下新久 辻の神仏 岩船地蔵 旧 hanbara71.jpg
                  注 風化が激しく判読が困難となる。2017・12・27 保坂 

      
   相模原市塩田 さくら橋脇

     
   相模原市藤野町

     
   相模原市津久井町青野原 龍泉寺      同左
   参考 「蓮の花弁に現れた一葉観音像」
承陽大師御傳記第十八章 帰朝及び其の前後の消息 P82〜83
 (略
)已にして大師の舟大洋に出づ。水天一色。渺として際涯なく。太陽の出没をみて。僅に東西の方向を知るのみ。一日黒雲天の一方より起り。漸く大空に彌蔓(みなん)す。舟子色を失なふ。既にして颶風忽ちに起り。暴雨大いに至る。怒涛狂瀾洶湧澎湃し。一扁の弧舟は。已(すで)に將に覆沒せんとすること数回。滿船みな叫喚悲慟(きょうかんひどう)し。各々死を待つが如し。大師蓬窓に在り黙然として端座し。少頃時を移したまひしに。忽ちにして観世音菩薩は。一片に蓮葩(れんぱ)に駕し。大師の舟頭に出現したまふ。須臾(しゅゆ)にして、風雨徐(しづか)に収まり。波濤漸く平(たいら)かにして。扁舟遂に危難を免るゝことを得たり。大乗妙典普門品に、衆生困厄(こんやく)せられ。無量の苦身に逼(せま)るに。観音の妙智力は。能(よ)く世間の苦を救ひ。神通力を具足して。廣く智方便を修し。十方諸[く]の國土に。刹として身を現ぜずといふことなし。或は巨海に漂ひ流れ。龍魚諸[く]の危難あらんに。彼の観音の力を念ずれば、波浪も沒(しづむ)ること能(あた)はずと。蓋し是れ之を謂ふなり。大師と観音浄聖と。唯佛與佛なり。乃能究盡なり。誠に最勝最尊の事ならずや。既にして十數日風順に波穏かにして。舟肥後の國河尻(かじり)に達しぬ。(略)
颶風(ぐふう):1 強く激しい風。2 熱帯低気圧や温帯低気圧に伴う暴風をいう古い気象用語。
須臾(しゅゆ):しばし・一瞬
困厄(こんやく):苦しむこと。困難。難儀。
具足(ぐそく): 1 物事が十分に備わっていること。    「道元さんの年譜・承陽大師御傳記」より

     
   相模原市城山町谷が原 大正寺境内 舟地蔵   城山町穴川 明観寺境内 渡海天神

  
  町田市中相原御嶽神社境内地蔵菩薩
右側  明治十三年春彼岸
左側 武蔵国多摩郡相原村
右下基壇 石工七澤村 北原詳重
他に17名の名前がありました。
 

 






































和年号 西暦 出来事
天平9年 737 行基によって大慈寺が建立される。
天平宝字5年 761 下野薬師寺境内(南河内町)に戒壇院が建立される。
宝亀元年 770 下野国都賀郡岩舟村静にて大山の僧、弘誓坊明願(ぐぜぼうみょうがん)が岩上で生身の地蔵尊出現を見る。〔高勝寺の始まり〕
宝亀3年 772 道鏡、配流先の薬師寺で歿す
延暦13年 794 11月、円仁が都賀郡みかも山の麓に生まれる。
円仁、大慈寺で6歳から9歳までの3年間修行する。
貞観6年 864 円仁、71歳で没す。同8年わが国で初めて「慈覚大師」という大師号を授かる。
元慶元年 877 大慈寺の僧、宥栄が高平寺を建立。
弘安3年 1280 一遍上人、奥州への旅の途中でにわか雨に遭遇、小野寺の里にて雨宿りを行う。 (聖絵巻5の2)
暦応2年 1339 薬師寺が安国寺と改名される。
寛文10年 1670 「岩船山縁起絵巻」が作成される。
宝永4年 1707 権大僧都ェ盛、東叡山寛永寺より高勝寺の住職となる。
正徳3年 1713 ェ盛、高勝寺の客殿と庫裏を造営する
正徳5年 1715 ェ盛、高勝寺の本堂である地蔵尊堂や厨子の建設に着手。
享保4年 1719 「下野の国岩船地蔵念仏踊り」の四五百人が町田の村々を廻る
六月十九日、下小山田村念仏→七月朔日、大沢念仏→二日、上小山田村念仏→十七日上矢部念仏、同日落合念仏→十八日、木曽念仏→十九日、下小山田念仏山崎→廿日、下小山田念仏
 ・・・・二三年ノ内ハ野も山も地蔵念仏ニて、昔ヨリ語伝ニも無之
(これなき)念仏仕廻(つかまつりまわり)、村々ニ地蔵建立、・・・・ 「野津田村年代記」より
享保5年 1720 高勝寺の本堂である地蔵尊堂が落成する。
享保9年 1724 高勝寺、本堂前に天明鋳物でできた大仏が建立される。
享保10年 1725 大慈寺、最澄が全国六ヶ所に建立したひとつの相輪とうを天明鋳物で再建する。
享保17年 1732 高勝寺、目黒で岩船地蔵尊の出開帳が行われる。
寛保2年 1742 高勝寺仁王門が建立。
寛延4年 1751 高勝寺三重塔が建立される。
宝暦13年 1763 丸山善太郎毎昭によって四基の灯篭が天明鋳物で造られる。
大正14年 1924 本堂が火災で焼失する。


 黄色でくくった年代は岩船地蔵尊が突如として出現し、造立された時期を表しました。

                          撮影2009・11・17
 
山梨県上野原市西原一ノ宮神社境内      廃校となった西原中学校

 
 奉建 立岩舩 地蔵 念仏 供養 敬白 享保四巳亥天五月吉日  

  
 町田市上小山田町 養樹院      岩船地蔵        阿弥陀三尊 年代不詳
                                 ↓

        巳亥は享保4年9月


  参考 大和市史 別編民俗 8(下)     発行 平成8年9月 大和市
      地蔵信仰と民俗   田中久夫    発行 1989年2月 木耳社
      神奈川の石仏    松村雄介    発行 昭和62年2月 有隣新書
      とちぎの史跡をめぐる小さな旅  監修 塙静夫 発行 2000年3月 下野新聞社
      とちぎの野仏     成島行雄   発行 1997年6月 花神社
      町田市史史料集第5集 近世庶民史料編U 発行昭和47年2月 町田市史編さん委員会
      慈覚大師       山田恵諦   発行 昭和38年4月 比叡山延暦寺
      西原の神仏信仰 山梨県上野原市立西原中学校 発行2007・1・30

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