「二月会」と加藤武雄
           更新 2008・5・3
           更新 2008・10・21 津久井郡青年団史の「「二月会」の概要について」項を追加

 下記の資料@は、農民作家加藤武雄が郷里の川尻村で小学校の教師をしていたころの回想文です。どなたが書いたものか今となっては知る由もありませんが、作者はみんなで観音堂に集まり、文を書いたり、本を読み合ったりしたことをまるで昨日のことのように懐かしみました。
 そして作者は、ともに学び遊んだ仲間たちのことを決して忘れていませんでした。短かった「二月会」の活動ではありましたが、これぞ加藤武雄文学の礎と云うべき原風景ではなかったかと思うのです。
 昭和27年11月18日、幼な友だち(八木訴平、八木儀助、金子茂一、弟の哲雄)と連立って故郷の山に遊びました。
  本沢の見晴らし台に  幼などち いむれてあれば 楽しくもあるか   武雄 (65歳)


     畑久保  慈眼寺の観音堂
資料@
  「はぐさ」  昭和35年7月号
より
  「二月会」と加藤武雄
 昭和31年9月7日、成城町での加藤武雄先生の葬式のとき、たくさんの花輪やささげ物の中に、「二月会」という木札をつけた盛花があったことに気づいた人は、大ぜいの会葬者の中でもまれだったろう。
 明治四十年前後のころ、まだ郷里にあった青年加藤武雄の提唱で、都井沢・畑久保の青年たちが今いうサークル活動を起こした。ちょうど二月だったの
で「二月会」がいいやということで会の名をきめた。
 青年たちは村人が仕事を休む日(いわゆるモノビ)に畑久保の観音堂に集合し、図書、雑誌を読み合ったり、作文を書いてみたり、道ぶしんを自発的にしたりした。また会員の八木儀助。金子茂一が交渉係となって、中沢の安西安五郎(八王子に安西喜笑堂)という勧工場を開いた安西権五郎の父所有の畑(小字仁、今の城山下バス停留所の前)を借り、そこに桑を栽培して各自に分配し、余りは売却して、その金で本などを購入し、ときには少しの酒をのんだり、もち菓子を食ったりもしたという。「何アーに、武雄さんはナ、百姓は嫌キレエだったからナ、自分じゃ手を出さずにナ、采配セーヘーを振るべえぇよ」ということだったが、やはりこの運動は、城山町文化史を書くとしたら、その一ページを飾るものであろう。
 現在残っている記念写真によってそのメンバーを示すとつぎのとおり。(●印は故人)
八王子神宮写真館で撮影したもの
     ○八木儀助
     ●八木きん平
     ●加藤武雄
     ●八木敬蔵(八木貞一氏叔父)
     ●金子清作(穴川の樋口姓をつぐ)
     ○金子茂一
     ●金子政吉(金子強氏父)
     ○八木秀雄(八木武一郎氏叔父・角田氏・荒川に住)
もう一枚のも右と同じ人々。これは芝三田四国町東海林写真館撮影のもの。東京見物でもしたときか。このほかに、左の三人も会員であった。
     ○八木信三(八木茂君叔父)
     ●八木秀雄(畑久保大西の人)
     ●安西武三郎(安西義平氏叔父)
 全部で十一名中、今なお元気な人はわずか四名。いづれも七十歳以上。
 話もらしたが、当時の川尻小学校斉藤元近を招いて講話を開いたこともあるという。畑久保観音堂内にある文庫には現在でも「二月会」の朱印を表紙におした図書がたぶん何冊かは残っているだろう。また、青年団第一支部用紙類入れのトランクの底には、二月会員の毛筆書きの作文をとじた一冊が入っているはずだが、あのトランクは誰のもとに保管されているだろうか。もちろん、当時すでに天下る式の川尻村青年会というのがあったそうだが、先覚的な加藤青年の提唱により、下からもり上がったところに「二月会」の意義を認めるべきだろう。それだからこそ、今でも残った人たちはいかにもなつかしげに当時を語ってくれるのである。青年団支部の申し送りの中に、当時の作文集が入っているところから察すると、その後「二月会」は青年団に合流して、発展的解消をとげたのであろう。
トランクの中の作文集や、文庫の本などは、当時を偲ぶよすがとして、しっかりと保存の方法をとるべきではなかろうか。また現在会員から、もっと思い出ばなしが聞きたいものである。
 とまあ、これで、加藤先生霊前の盛り花の由来がわかったのである。

 上記の内容を書いた作者は今となっては分かりません。作者は、加藤武雄の葬儀のときに見た盛花の木札によっぽど感心したのでしょう「二月会」の由来を書いたのです。後年、加藤武雄は犬田卯らと雑誌「農民」を発行、自宅を発行所として開放しました。そして理想に燃えた若かりしころの思いを「農民」に発展させて行ったのです。しかし前途は多難でした。「農民」は主義主張の違いから編者が次々と変わりやがて廃刊となってしまいました。加藤武雄は最後の最後まで農民小説を書きたいとその夢を託していました。そうした精神の根底に流れていたものは、おそらく、あの若かりしころの活動、「二月会」そのものではなかったかと思うのです。
 「はぐさ」は弟、加藤哲雄、梅子夫妻が主宰した短歌の雑誌でガリ版刷りでできています。初期のころは短歌以外にも詩や地域の歴史なども掲載されていました。現在、「はぐさ」は廃刊となっていますが、その全冊は津久井郷土資料室に大切に保管されています。

資料A 「津久井郡青年団史」の原稿より  所蔵 津久井郷土資料室
「二月会」の概要について        
追加 2008・10・21 
 「二月会」結成されたのは、明治39年2月で、発足の二月の名に因み「二月会」と命名した。
 「二月会」の会員は、都井沢、畑久保の二部落の、所謂「若い衆」をもって組織されていたが、年齢については特別な規制は設けられていなかったようだ。また、会員は男子に限られ其の数は20人程であった。
 「二月会」の活動の中で顕著なものに桑栽培があった。
これは、養蚕の盛んな時代であったので、地元農家から畑を二段歩程借り受け桑の栽培を行ったが、

都井沢 桑畑   撮影2008・10・18

会員 が桑畑 の各畝ごとに分担を定めて、栽培計画から収穫までの作業を実施し、相互に競い合い、収穫した桑は地元農家に頒売した。
 この他では、縄綯い機や足踏み精米機を購入し各々の作業を行ったが、こうした共同作業の中から得た収益は、会員に日当十銭というかたちで還付されたという。
 他方、一般教養を高めるための学習として視察事業を実施し、東京方面の文化を見学したり、また、読書活動も行った。

 明治四十四年頃、全国に青年会運動が盛り上が
り、川尻地区では川尻小学校の斉藤元近校長が指導的役割を果たしたというが、斉藤校長から「二月会」への統合の要請があり、明治四十四年に川尻青年会に合併すべく発展的解散を行った。
 「二月会」は規約もあったが現存していないし、足踏み精米機の小屋も加藤哲雄氏の屋敷内に存在したが、これも取り払われてしまった。また、当時の会員の最後の生存者であった金子茂一氏も昨年他界してしまった。
 只一つ、読者活動で使用された書籍が、現在都井沢の観音堂に残されているという。 

                      昭和52年   日発行
                      代表者 相川正信
                      発行所 津久井町郷土誌刊行委員会

        
 明治42年 川尻小学校の訓導たち
         
                  
 ↑二月会時代の加藤武雄

 
資料Aは津久井郷土資料室の「津久井郡青年団史」の原稿綴の中に保管されていました。記載の内容から、作者は都井沢や畑久保の方ではないように思えますが、桑の栽培計画を立て互いに競い合ったことや東京方面へ視察に出掛けたこと、また読書活動のことなども取材をしています。
 「二月会」の活動は資料Aの発見により、客観的な立場からより具体化された内容となりました。加藤武雄が目指した農民運動、その原動力はやはりこうした理想的で文化的な農民活動であったと思います。

 
            加藤武雄農民文学の扉
             加藤武雄の年譜
             教科書に載った加藤武雄
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