中沢の飯場跡
  
     ここを圏央道が通ります。
2019・7・29 荒木陸軍大将視察関連資料を追加
2020・3・28 昭和18年の項に権守芳泉著「こんなこともあった」を追加

 圏央道の建設が着々と進められています。永い間、鬱蒼とした竹藪の中に、朝鮮人の方がかつて故郷を離れ働いていた寄宿舎(通称:飯場)の跡がありました。飯場から工事現場まで歩いた道、飯場の土台の石組などブルドザーの騒音とともに今掻き消されようとしています。近い将来、圏央道は完成するでしょう。その時、河水統制事業で働いた多くの日本人と共に朝鮮や韓国の人々のことも忘れないで欲しいと思います。
 資料は十分ではありませんが、圏央道建設が進む中で書き留めたことを少しまとめて見ました。文章表現に不備のところがあろうかと思いますがお許しください。

                          
撮影2013・1・10
   

                        
更新 2007・5・15 
   
   圏央道の建設が進む中沢のトンネル部分     撮影2007・4・21

   
   この伐採されたところに朝鮮の人たちが住んだ飯場がありました。撮影2007・5・19
 
  過酷な津久井道トンネル工事
 昭和15年、河水統制事業開始により相模ダムの建設が始まりました。横浜や川崎などの大都市に向け電力や工業用水や水道水を供給するためで、その一部は相模原市などの近郊灌漑用水にも利用されました。工事は戦争の終わった後も続けられダムの完成は昭和22年の6月となりました。
 相模湖に溜められた水は相模川を沼本ダムまで流し、そこから先を旧城山町にある谷ヶ原浄水場まで導水トンネルが掘られました。その名を「津久井道」と云います。
 取水口は当初、千木良村赤馬地区に作る計画でしたが途中から三井の川井地区に変更されました。トンネルの総延長は6237メートル、内径が6メートルもある大隧道トンネルです。
 三井〜中沢の区間は地盤が軟弱のため工事が難航、当初の計画を大幅に変更しながら進められました。朝鮮人の方々も日本人に混じって道を掘り続け、昭和18年4月25日、津久井隧道が貫通しました。そして、貫通の喜びとは裏腹に、この工事でも朝鮮人の尊い命が奪われました。今は語り継ぐ人も少なくなりましたが、当時の様子をこんな風に伝えています。
 排土口から構内に入った。カンテラをかけダイナマイトの箱を肩に担いで下って行った。途中で爆発した。助け出されたが体半分に小石が刺さった状態であった。
 その頃、城山には医者がいなかったので、付き添ってはいたが、手の施しようがなかった。やがて死んだ。地元の年寄り達が気の毒に思い念仏を唱えた。
 夜、飯場からは、遠い故郷を思ってか時折「アリラン」や「トラジ」の歌が聞こえていた。
   
                 相模川河水統制事業計画図  神奈川県企業庁史より

   
                畑久保の八木さんが描いた絵図に一部を加筆しました。
                 ピンクのラインは圏央道のコース

  昭和17年6月末、厚生省所管の中央協和会の作成した朝鮮人労働者の全国一覧によると
熊谷組与瀬作業所 400人   与瀬町
大倉組沼本作業所 473人   内郷村
熊谷組相模川作業所  407人   川尻村
      (計) 1280人    ー
 の朝鮮人労働者が働いていました。与瀬の作業所(飯場)は今の相模湖交流センターの所で、
 熊谷組作業所は川尻村(現相模原市城山町)の畑久保地区と中沢地区に分散されていました。

 
   草競馬が行われた普門寺前の畑地
昭和15年4月15日の草競馬
 いつもは14日の観音様のまつりに行われていましたが、この日は雨だったので草競馬は翌日に行われました。
 草競馬というよりも優勝者に青、赤、黄などの旗が贈られたことから旗競馬とも呼んでいました。旗はスフで、でき三尺四方の大きさだったといいます。馬は近在から80頭が出馬して競い合ったそうです。
 この日は稚児行列も行われ女の子が15人、男の子も1人が加わってとても賑わいました。
 見物人の中にはチョゴリを着た朝鮮人もいて村中でこの日を楽しみました。
                    (S15年の時期については再調査要)


  
  相模川の砂利をこの沢伝いにインクラで運搬しました。 インクラの鉄塔があった跡
  この斜面に導水路から掘り出した土や岩石を置いた。
                             撮影2006・11・25〜26
   
                         導水路工事の入り口跡

    
  日本一番のウラジロガシ           親方・上役夫婦が住んだ住居跡、
                             右側にインクラの鉄塔があった。

   
  中沢飯場跡に続く道           石祠  大正十一年十月建立 山本助作
  この道を通って工事現場に行った。    ここに水力を利用した繭の乾燥場があった。

   
  中沢に架かる土橋

   
   往時を偲ばす地蔵菩薩像         山王様を抜けると三井や名手へ 甲州裏街道とも呼ぶ

  
  中沢飯場跡の石組み、貯蔵庫か

   
  飯場の土台部分

  
  中沢飯場跡に散乱していた茶碗など(屋根のない博物館で保管しています)
  
   
  屋敷の庭跡か不明                中沢


 水車小屋跡
米搗き水車小屋にあった臼
 
 「死人橋の下の堰から水を引き、50メートルほど川下に、よっちえい(寄合い:方言)車と呼ばれる水車小屋がありました。古びた大きな水車で、のんびりとした速度で休
むことなく廻り続けていました。その跡地はL字の窪地になって残っていました。」 
                                    安西貞吉さんの話から


  
 中沢山王道の切通し                畑久保の飯場跡

    畑久保の八木さんから聞いた飯場の話
@沼本から谷が原の発電所までトンネル工事が行われた。

A労働者は主に朝鮮人であり交代で休みを取りながら作業をしていた。

B重労働のため食事は麦の入った飯だが自由にドンブリで食っていた。

C近所の住民とのトラブルはなかったと思うが、余り近づかなかった。

D朝鮮人同志での結婚式は風習の違いから珍しがられ見に行った。

Eブタを飼育して時々殺し労働者の食事にしていた様だ。

F飯場から労働者が他の労働現場に逃げたという事が1回あり、その労働者が友人を連れてきたとき(引抜き)は体罰を加えられた。夜中、親方の前で見せしめのためか、木刀で打たれていたことを憶えている。親方は新潟県生まれで宮本といい親方の長男は結婚していたが胸を患っていた様だ。

G排土口から構内に入った。カンテラをかけダイナマイトの箱を肩に担いで下って行った。
途中で爆発した。助け出されたが体半分に小石が刺さった状態であった。その頃、城山には医者がいなかったので、付き添ってはいたが手の施しようがなかった。やがて死んだ。地元の年寄り達が気の毒に思い念仏を唱えた。


Hインクラと呼ぶ空中ケーブルで相模川から砂利を運搬して縦坑からセメントを混ぜて落としていたがその機材は20年頃まで一部残っていたが今はない。
                                  (1995年に聞き書き)

I排出坑から出る排土で谷を埋める話があったが地元の反対で実現しなかった。沢が埋められていたら交通の面で良かったと思う。

J夜、飯場から遠い故郷を思ってか時折「アリラン」や「トラジ」の歌が聞 こえてきた。

K工事の終了と同時に引き上げたがその人夫達はその後、他所でトンネル工事をしていた様だが、終戦後は国に帰ったと思う。消息は分からな くなり自然と忘れられて行った。今はその当時の記憶を思い出すにも、 時間の経過で思い出すことが困難になり、当時を知る人が少なくなっている。

  
 
 

  
   谷津川の飯場跡
谷津川の飯場
 昭和18年の夏、台風があり上流で土砂崩れが発生した。谷津川は旧佐原木町の入口の所から暗渠になっていたので、その入口部分に木の根が引っかかり、濁流が道路沿いに溢れた。下の朝鮮人の住んでいた家が濁流にあい「たすけてー」と八木家に駆け込んで来た。
 その後どうなったかは、昔のことなので分からない。八木薫さんから聞いた話
 

津久井湖記念碑
城山ダム建設時の中沢飯場跡
 津久井湖の左岸、城山ダムの脇に津久井湖記念碑がある。また近くの津久井湖記念館には埋没した荒川集落を中心に民俗用具等が展示され当時を偲ぶことが出来ます。
 城山ダムの建設に携わった人々がどこに住んでいたか今後の調査に期待されていますが時の流れの中で忘れ去ろうとしています。
 中沢地区では山王様の前の広々とした所に飯場が作られました。コンクリート枡には沢から流れ出た水を竹の樋を使いながら枡に溜
め飲料水や風呂などに使われました。
 この津久井湖・城山ダムの歴史については湖底に沈んだ村・荒川の項を参照して下さい。

  
  記念碑の証(あかし)

   
  中沢に残るコンクリート枡
 昭和40年3月に城山ダムが完成しました。「出稼ぎ」と一言で済ませてしまっても良いのだろうか。コンクリート枡は中沢の沢の水を溜めた貯水槽である。今はだれも訪れる人もいない。忘れられた存在だ。日本の高度成長はこうした地方から集まった人々の労働力に支えられ発展していった。私達はこうした恩恵を忘れてはならない。飯場と云う切り口でまとめようとしたが、余りにも奥が深くまとめられそうもない。絶対に忘れないで欲しい。

  相模ダム等の年譜
西暦 和年号     出来事    
1938 昭和13年 1月24日、県臨時議会で地元出身の下條亮議員が建設反対の意見を述べる。
先祖伝来の墳墓の地を捨てるという悲惨な運命にある事は同情にたえない。として、補償問題・交通・移住地などの質問を行う。
1月26日、県臨時議会の最終日に建設予算等を議決、ダム建設が正式に決まる。 /相模湖町史
2月25日、県相模川河水統制計画事務所を与瀬町に開設 /相模湖町史
6月23日、知事が地元の勝瀬を訪問し説得する。/相模湖町史
   この会合には与瀬町・小原町・内郷町などの町村長をはじめ住民多数が参加する
1939 14年 5月2日、日連村勝瀬部落の補償決定 /相模湖町史
9月13日 工事施行認可申請が電気庁長官に提出、当初の計画の内容が大幅に改められる。  注意 県企業庁史 p400 同書p420では同年9月31日、逓信大臣に提出 とあり 
12月 相模原都市建設水道布設案県会で議決
1940 15年 8月、臨時県会で事業費の総額は当初の計画より1950万円増額した4680万円とし、工期も1年延長した昭和17年度迄とする案が可決する。
                 県企業庁史 p400
11月13日、津久井発電所の電気工事についても認可がおりる。
11月15日 日連村勝瀬部落の離村式 /相模湖町史
11月21日、津久井第1・2工区の工事契約が結ばれる。
津久井第1工区(大倉土木株式會社) 津久井ダム、取水口、導水隧道(3.210m)、土捨場工事
津久井第2工区(株式會社熊谷組) 導水隧道(3.006m)、水圧管路、発電所機械基礎、津久井分水池
放水路及び土捨場工事
11月25日 与瀬町で起工式が実施され工事が始まる/相模湖町史 県企業庁史p402
12月、津久井関係土木工事で着工早々、大出水を受ける。
1941 16年 6月 津久井隧道掘さく中に悪地盤にぶっつかり、実施設計とおりの工事ができなくなったため圧力隧道から自然流下式隧道に改める。県企業庁史p493
7月、再度、津久井工区で大出水に見舞われ津久井ダムの仮排水路などに大きな被害を受ける。
11月30日、津久井堰堤仮排水路が完成する。 /相模湖町史
12月末、相模ダムの仮排水路通水賂が完成する。
1942 17年 3月 熊谷組、大倉組に朝鮮人労働者が配置されはじめる /相模湖町史
9月23日、荒木陸軍大将一行が与瀬・沼本・久保沢・上溝・渕野邊方面を視察する。

9月23日、荒木大将視察日程表  所蔵 市立相模原博物館

   建設事務所前での記念撮影
(中央:荒木貞夫陸軍大将・前列向って左から三人目が岩本信行県議会議長・同四人目が氏家文彌土木技師・六人目が金野賢彌建設事務局長・後列向って右端が伊東剛事務所土木課長)




10月、津久井ダムの掘さくの大半を終了する。
  ダムコンクリートの打ち込みは約25%に達する。、津久井隧道は6.250m中6.000mの掘さくを終える。
〇年末より、資材不足で工事期限が延長される。
1943 18年 4月25日 津久井隧道貫通。 中国人労働者が就労 /相模湖町史
〇この年、日本大学、早稲田第二高等学院等生徒など学徒動員実施される。
学徒動員された七学校:日本大学土木科・早稲田第二高等学院・横浜高等工業学校建築科・県立平塚農業学校・県立愛甲農業学校・県立相原農蚕学校・私立藤沢中学校
                    /相模湖町史     
 
 〇この頃、ダム建設工事募集のポスター(時期不明)
   旧津久井郷土資料館所蔵
〇この年秋、2度にわたる出水によって、相模ダムの仮締切りを流出、被害が続出する。
12月31日、津久井発電所1号発電機が運転を開始する。
〇この年に起きたこととして、権守芳泉が「こんなこともあった」と「広報城山 第124号 城山散歩」の項に書き留める。
こんなこともあった三十三回の終戦日をむかえて思い出したことを語ってみよう。時は昭和十八年、相模川を与瀬でとめて人造湖をつくり、その水を隧道で谷ヶ原まで運び、上水道、発電所、灌漑等に用いるという大工事であった。そのため大ぜいの朝鮮の人が労働に駆り出されて来て、たちまち谷ヶ原在住人口の何十倍という人で埋った。したがってあちら式の結婚式や葬式、または月を祭る行事などみることができて、私等が朝鮮にいる様な錯覚さえ起ることがあった。さて。一方、戦争はますますはげしくなり、若い者は招集され、残ったものは食糧の供出にあおられた下手を作ると自家保有量どころか、買ってまで納め、その責任を果たさなければ罰せらる樣な時であった。(以下・略)
         「広報城山 第124号 城山散歩 昭和53年10月1日発行」から抜粋
1944 19年 1月3日、津久井発電所が送電を開始する。
10月、津久井発電所の2号機もフル運転を開始する。
12月21日、相模貯水池、貯水開始 /相模湖町史
〇この年、日本大学、早稲田第二高等学院等生徒など学徒動員実施される。/相模湖町史
〇この年から資材の不足から軍需省の設備変更令が出される。
1945 20年 2月28日、相模発電所送電開始   注/相模湖町史  企業庁史では 2月23日 
6月21日、資材不足により工事中止 /相模湖町史
1946 21年

相模ダムに表示
7月27日 米国からの資材補給により工事再開 /相模湖町史
8月28日 「相模湖」と命名し、命名式を実施 /相模湖町史
1947 22年 4月1日、県相模川河水統制事業建設事務所廃止する。 /相模湖町史
6月6日 建設工事殉職五六柱の慰霊塔除幕式が行われる。/相模湖町史
6月14日 相模ダム近くで、竣工式を実施する。 /相模湖町史
「相模湖完成五十周年を想ふ」   −元一地権者の声− (全文掲載予定)
                        平成九年二月一日  〇〇
 
参考資料
津久井歴史ウオーク 前川清治著 東京新聞出版局  発行2003・3
広報紙 なかざわ自治会 第1号  平成14年7月2日 発行
神奈川県企業庁史 昭和38年3月 発行
相模湖町史歴史編 相模湖町史編さん委員会 H13・3 発行
  第五節 相模川河水統制事業と地域社会
神奈川県の戦争遺跡 神奈川県歴史教育者協議会編 1996・6 発行
市立相模原博物館所蔵 上溝村諸家文書 0337
教育文化 No15 1998 発行 湘北教育文化研究所 
ふるさとに心注いで 鈴木重彦著 (有)新生企画 発行 平成13年2月28日

湖底に沈んだ村・荒川
城山に来た学童疎開の子供たち
横浜水道はじめて物語 

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