藤村県令と小宮山正廣翁の業績

2018・8・10 作成 
2019・3・13 藤村紫朗と小宮山弥太郎の年譜を追加
          撮影2018・7・13 

        甲府市愛宕町 妙遠寺境内
はじめに
 津久井郡郷土資料館の保存に関し、相模原市議会への請願文書を以て保存が出来ないか行動を起こした。その請願は議会の多数決によって、否決され、通いつめた資料館は取り壊され現在は更地になってしまった。結局、議会の賛同を得たことで取り壊しの大義名分のお墨付きを与えてしまったような気分となり何とも情けない気分で毎日を過ごしている。
 昭和18年7月11日付け毎日新聞で登呂遺跡発見のニュースを報じた森豊さんは後年、「歴史読本 昭和46年7月号」に「遺跡破壊公害を告発する」と題し、破壊されて行く遺跡の現状を訴えました。そしてはじめの部分に「綾羅木(あやらぎ)の悲劇」の現状を訴え遺跡保存への警告を発しました。
 「綾羅木の悲劇/轟音をとどろかせながら十一台のブルドーザーが荒れくるっていた。昭和四十四年三月八日夜のことである。山口県下関市綾羅木(あやらぎ)の郷遺跡はみるみるうちに破壊

 正廣翁之碑銘
されていった。/急を聞いて駆けつけた同市教委、下関始源文化研究会(会長国分直一東京教育大学教授・会員二十余人)のメンバーや下関市大生らはスクラムを組んで、ブルドーダーの前に立ちはだかって制止しようとしたが「産業開発の方が大切だ」とブルドーダーはますます荒れくるい、一夜明けた九日朝の光の中に遺跡は被爆地のようなさんさんたる状況を呈していた。/「史跡の価値は消失した」と関係者たちは呆然と立ちつくしていた。/綾羅木遺跡は響灘(ひびきなだ)に面する大地の上にある弥生文化を中心とする大遺跡である。昭和三十年頃発見され、国分直一氏(当時下関水産大学教授)や金関丈夫(九州大学教授)らによって調査され、食物貯蔵のタテ穴数百、出土遺物もおびただしく、日本唯一の陶けんとうけん 土+員土笛)の発見などをふくんだ重要な遺跡で、その面積も十万平方メートルといわれ、市教委から文化庁へ史跡指定の申請が出されていた。そころがこの遺跡の存在する丘陵は鋳物の鋳型を作るのに必要な良質な珪砂(けいさ)が埋蔵されており、高度経済成長の波はこの珪砂開発にもおよんで、四十年秋、地元の土地所有者との間に採砂業者(本社名古屋市)が契約を結び作業を開始した。調査発掘と砂採取が時を同じくしてはじまったのである。(略)」
 遺跡や文化財を守ることは、どれほど大変な事か、私もいくつもの現場を見てきました。恩師清水小太郎先生に何とか報いたいと思ってのことでしたが何とも残念な結末となってしまったことを悔いているのである。
 そうした中、まったくの偶然であったが甲府市が発行した「甲府の石造物」と云う書物のコピーを遠縁にあたる研究者から送られた。697ページはあったが、次の698ページがなかった。
 内容は小宮山弥太郎翁の頌徳碑のことで「正廣翁之碑銘」の碑文が記されていた。次のページには恐らく石碑の建立に貢献した人々の名前の続きがあるのだろうと思っていた。だが、そのことが何だろうと、返って気になりはじめ、とうとう698ページを求め甲府に帰郷したのであ
る。駅の北口を下りて直ぐには県立図書館が、移転された旧睦沢学校は駅前広場の正面に堂々とありました。この違いは何だ。私は暑い暑い夏の中をレンタル自転車に乗って石碑を遠妙寺に訪ねた。そして真新しい698ページと共に碑文と対面した。

(表面の碑文・実際は縦字
正廣

翁之

碑銘

         日蓮宗管長大僧正  杉田日布篆額
翁諱正廣通稱彌太郎其先出于峽鹽後郷楠氏曾祖父勘四郎襲姻戚小宮山家以爲氏考彌兵衛妣楠氏翁其長子也幼而
頴悟性好木工年甫十五就島村半平翁修社寺佛宇之建築及彫刻法夙有出監之稱幕末爲田安家作事頭明治維新後官衛
建築概模洋風翁潛心折衷彼術大有所得逮藤村紫朗氏爲我縣令盛興土木之工使翁董焉初築造梁木琢美二黌及勸製
絲場時明治七年也是爲我縣洋風建築之嚆矢八年師範學校甲府及静岡裁判所縣立病院成十年山梨縣廳舎成十二年鶴
瀬駒飼日川甲運諸橋架設及猿橋修築成是皆係翁設計企畫也十八年鐡舟山岡氏欲建鐡舟寺於駿州依翁有所計於此時
設計遠州奥山方廣寺伽藍二十年藤村縣令轉任愛媛縣翁亦應聘赴之董督其縣新築工事居五年而致仕歸ク組織大工組
合指導後進三十二年以後專監督諸官衛工務傍爲神祠佛宇之設計者不遑屈指也大正六年膺奉建會監督武田神社新
築前比明治十年縣人起武田會欲建神社不果三十四年其議再起復不果而止雖然其設計悉出於翁之手也
今上在東宮也四十五年行啓吾縣翁刻蓬莱山之形以奉獻之得嘉納之榮焉焉大正四年仍皇室大典賜木杯及酒饌時年八十
四翌年飄然登富嶽人皆頌其矍鑠晩年嗜插花枝窮其薀奥號松壽齋一園翁以文政十一年十月廿日生以大正九年五月八
日沒享年九十有三配石部氏生四男二女長文太郎嗣家頃日有志胥謀建碑于上府中妙遠寺塋域微予文予素受翁知遇諠
不可辭乃敍其概銘曰
嗚呼良匠 温故知新  創意超凡 妙技絶倫
老而益壮 祺介斯人 壽考垂百 光榮萬春
大正十五年五月八日 甲府 村松甚蔵 撰   石工 星野芳近
肥前 秀島醇三 書
      

(裏面の碑文)

       有

       志

       人

       芳

       名




地方 加藤菊次郎  清水かのへ 東京 発起人
 早野金蔵  林宣壽   細田照近   中村大三  村松甚蔵 
 箕輪庄太郎 武内孝一  向井清太郎  渡邊通喬   駒井壽太郎
 小林重太郎 竹内静二  内藤實蔵  眞山な  大木善右衛門
 荻野豐平 窪田徳太郎  星野芳近  眞山正太郎   武井常助
 佐藤國吉  内藤作五郎  遠藤作蔵  眞山謹次郎  伊藤彦七
 佐野廣  加藤庄太郎  市川市造  川口  中込常祐
 大澤伊三郎 前島豐蔵  青柳甚甫   角田一忠   玉越米次郎
 劍持元次郎  廣瀬徳太郎   窪澤源二郎  堀内宗吉  橋本伊七
 土屋台三郎 保坂常造 北海道  小松勝三郎 志願人
 小松千代 橋本幾造  渡邊藤平  小宮山熊次郎  小宮山文太郎
 小澤安造 石部房吉  渡邊勝重  小宮山森三郎
 野中富蔵 清水周次郎  渡邊胤之  小宮山貞造
 古谷律造 今井利十郎  新海藤次郎

「甲府の石造物」に記されていた碑文の内容と実際 (正誤表も兼ねる(実際の正誤表の有無については未確認 2018・8・10 保坂))
    例 →島  実際の碑文ではの意
正廣翁之碑銘
(正面)日蓮宗管長大僧正  杉田日布篆額
杉田日布:身延山久遠寺81世法主・日蓮宗24代管長。字は湛誓(たんせい)、内閣総理大臣石橋湛山の実父。
翁諱正廣通稱彌太郎其先出于峽鹽後郷楠氏曾祖父勘四郎襲姻戚小
于(ここに)
宮山家以爲氏考彌兵衛楠氏翁其長子也幼而悟性好木工年十五
 
妣:ヒ         頴:エイ ヨウ ほさき
甫:はじめ  すけ
→島村半平翁修社寺佛之建築及彫刻法有出監之稱幕末爲田安家
就:つく  つける     宇:のき いえ 
夙:つとに
作事頭明治維新後官衛建築模洋風翁心折衷彼術大有所得逮藤村
概:おおむね   潛:ひそむ もぐる
潜心(せんしん):心を落ち着かせてその物事に取り組むこと。
紫朗氏爲我縣令盛興土木之工使翁→董焉初築造梁木琢美二及勸製
菫:キン すみれ   董トウ・ただす
黌(コウ オウ):まなびや。学校
絲場時明治七年也是爲我縣洋風建築之嚆矢八年師範學校甲府及静岡
嚆:さけぶ 
嚆矢(こうし):1 「嚆」は叫び呼ぶ意 かぶら矢。
        2 物事のはじまり。最初。
裁判所縣立病院成十年山梨縣廳舎成十二年鶴瀬駒飼日川甲運諸橋架
設及猿橋修築成是皆係翁設計企→畫也十八年→舟山岡氏欲建鐡舟寺於
駿州依翁有所計於此時設計遠州奥山方廣寺伽藍二十年藤村縣令
轉:テン 
愛媛縣翁亦應赴之董督其縣新築工事居五年而致仕歸ク組織大工組

聘(へい):1 贈り物を持って人を訪問する。
       2 礼を尽くして人を招く。
董:ただす 
董督(とうとく):「董」はただす意〕 監督して正すこと。とりしまること
合指導後進三十二年以後專→監督諸官衛工務傍爲神祠佛之設計者不
祠  ネ
宇;のき、家  
屈指也大正六年奉建會→監督武田神社新築前比明治十年縣人起 
遑:いとま ひま 
膺:あたる  うつ 
武田會欲建神社不三十四年其議再起復不果而止雖然其設計出於 
果:はたす はてる     雖:いえども 
然:しかり  しかし     悉: ことごとく
翁之手也
参考 乎(か。や。かな)助字    手。
今上在東宮也四十五年行啓吾縣翁刻蓬莱山之形以獻之得嘉納之榮 焉:エン いずくんぞ 
焉大正四年皇室大典賜木杯及酒時年八十四翌年然登富嶽人皆
仍:よる しきりに   饌:そなえ 
飄:つむじかぜ
矍鑠晩年插花枝窮其奥號松壽齋一園翁以
文政十一年十月→廿
頌:ほめる たたえる  
矍鑠(かいしゃく):年をとっても、丈夫で元気のいい様子 
嗜:たしなむ 
奥(うんおう):学問・技芸などの最も奥深いところ。
廿  
日生以大正九年五月八日沒享年九十有三配石部氏生四男二女長文
太郎嗣家頃日有志胥謀建碑上府中妙遠寺域微
→予→予素受翁知遇
胥:あい みる   于:ここに
塋:はか       豫:ヨ あらかじめ
不可敍其概銘曰
諠(かまびすしい):やかましい。騒がしい
辭:ジ やめる ことば
敍:のべる
嗚呼良匠 温故知新 創意超凡 妙技絶倫 
老而益壮 人 壽考垂百 光榮→萬
祺:(キ ギ さいわい)  介:(カイ たすける)
斯:この かく
大正十五年五月八日          甲府 村松甚蔵撰  石工 星野芳近
                   肥前 秀島醇三書


裏面の芳名

  有

  志

  人

  芳

  名




地方 加藤菊次郎  清水かのへ 東京 発起人
 早野金蔵  林宣寿   細田照近   中村大三  村松甚蔵 
 箕輪庄太郎 武内孝一  向井清太郎  渡通喬   駒井寿太郎
 小林重太郎 竹内静二  内藤    大木善右衛門
 荻野 窪田徳太郎  星野芳近  山正太郎   武井常助
 佐藤吉  内藤作五郎  遠藤作蔵  山謹次郎  伊藤彦七
 佐野  (記述なし)加藤庄太郎  市川市造  川口  中込常祐
 大伊三郎 前島  青柳甚甫   角田一忠   玉越米次郎
(記述なし)劍持元次郎  瀬徳太郎   窪源二郎  堀内宗吉  橋本伊七
 土屋台三郎 保坂常造 北海道  小松勝三郎 志願人
 小松千代 橋本幾造  渡藤平  小宮山熊次郎  小宮山文太郎
 小安造 石部房吉  渡勝重  小宮山森三郎
 野富蔵 清水周次郎  渡胤之  小宮山貞造
 古谷律造 今井利十郎  新海藤次郎


注 東京欄の段 右から三人目及び六人目の名前の判読が困難なため写真にしました。
注 「甲府の石造物」より実際の碑文と比較した正誤ヶ所の読み方
(表面)
五行目 ※  就:つく つける  右欄に読み 嶋村を島村に訂正した意
七行目     菫:キン すみれ 董トウ・ただす を董に訂正した意
十行目 山岡
 名前はではなく鐡舟であることを訂正の意
(裏面)

(記述なし)劍持元次郎 名前がもれていたので追加したの意 
    真を旧字の眞に変更した意 
         
※な〇は私に判読できなかったので左に写真を添えまいた。 

〔解説〕 (省略)
西暦 和年号 藤村 小宮山 出 来 事
1828 文政11年 〇この年、小宮山弥太郎生まれる。
1829 12 1
1830 天保元年 2
1831 2 3
1832 3 4
1833 4 5
1834 5 6
1835 6 7
1836 天保7年 8
1837 8 9
1838 9 10
1839 10 11
1840 11 12
1841 12 13
1842 13 14
1843 14 15
1844 弘化元年 16
1845 2 17 〇この年、藤村紫朗が生まれる。
  熊本藩士、若くして十津川郷士らと高野山に義兵を挙げた勤王の志士で、
   維新以降は御親兵会議所詰・北越出先軍監・兵部権少丞などの兵事に従事する。
1846 3 1 18
1847 4 2 19
1848 嘉永元年 3 20
1849 2 4 21
1850 3 5 22
1851 4 6 23
1852 5 7 24
1853 6 8 25
1854 安政元年 9 26
1855 2 10 27
1856 3 11 28
1857 4 12 29
1858 5 13 30
1859 6 14 31
1860 万延元年 15 32
1861 文久元年 16 33
1862 2 17 34
1863 3 18 35
1864 元治元年 19 36
1865 慶応元年 20 37
1866 2 21 38
1867 3 22 39 12月、藤村紫朗・森丈助ら高野山に挙兵する。
1868 明治元年 23 40
1869 2 24 41
1870 3 25 42 〇この年、藤村紫朗、京都府省参事となる。
1871 4 26 43 〇この年、藤村紫朗、大阪府参事となる。
1872 5 27 44 7月、内藤伝右衛門『峡中新聞』(山梨日日新聞の前身)を創刊する。
8月3日、太政官より「学制」頒布される。
11月10日、「大小切騒動」首謀者として小沢留兵衛・島田富十郎死刑にする。
1873 6 28 45 1月22日、藤村紫朗、山梨県権令となる。
3月30日、藤村、小学校設立について各区長に、当面一区に一校を目標として設立に努力するよう通達する。
4月18日、各区長に対し小学校建設地と幼童の数を調査し報告することを命じる。
5月、「小学校創建心得」や、日常の冗費を省き学費を補うべきことを布達する。
6月、「学制解訳」を通達、頒布して学制の趣旨を周知せしめる。
1874 7 29 46 〇明治6年から7年にかけ多くの小学校が開設される。(明治8年調査で271校)
1月29日、道路開通告示発布。
7月、県、巨摩郡日野原新墾地移住規則を布達する。
10月12日、各区長に対し小学校用地として官有地、無税地等500坪以上を具状させる。
10月21日、藤村紫朗、山梨県令に昇任となる。
10月25日、甲府に勧業製糸場が完成する。
〇この年、洋風の啄美・梁木(やなぎ)両校が完成する。
1875 8 30 47 1月10日、身延山久遠寺本堂ほか75棟が焼失する。
4月5日、藤村県令、甲金・甲州枡の呼称廃止を付
10月、「室伏学校」が開校する。
12月4日、睦沢(むっさわ)小学校校舎が完成する。(下山大工/松木輝殷(まつき・てるしげ)
  
    睦沢(むっさわ)小学校校舎(植松光宏氏提供)
〇この年、旧津金学校々舎が完成する。
〇この年、藤村紫朗が再婚、森丈助が仲人役となる。
〇この年、甲府城の城池を埋立て新市街を建設する。
1876 9 31 48 3月13日、山梨裁判所甲府錦町に新築する。
5月29日、山梨県病院を錦町に開設する。
7月26日、甲府錦町に山梨県師範学校の新校舎が完成する。
〇この年、春米(つきよね)学校が完成する。(下山大工/松木高造(まつき・こうぞう)
1877 10 32 49 5月2日、藤村県令、「学校建築法」を制定する。 清水小太郎著「山梨県近代教育史 P3〜P7」に掲載
11月14日、山梨県庁が完成する。
  
     山梨県庁(植松光宏氏提供)
1878 11 33 50 〇この年まで、新築校舎数が190校となる。
〇この年、尾県(おがた)学校が完成する。
1879 12 34 51 〇この年、猿橋を修復する。 検討要:翌年(6・17〜23)明治天皇巡幸を迎える道路整備工事の一環
   鶴瀬橋、駒飼橋、日川橋、甲運橋等の諸橋も架設する。 
1880 13 35 52
1881 14 36 53
1882 15 37 54
1883 16 38 55 〇この年、山梨県師範学校が火事で焼失する。
1884 17 39 56 〇この年、山梨県師範学校二世が完成する。
 
   山梨県師範学校二世(植松光宏氏提供)
1885 18 40 57 〇この年、山岡鐡舟の求めに応じ、静岡県奥山方広寺の伽藍を設計する。 検討要:鐡舟寺
〇この年、東山梨郡役所(現愛知県犬山市明治村)が完成する。
1886 19 41 58 〇この年、文部省令で愛媛尋常師範学校の生徒定員が200名に増員される。
   従来の二番町校舎(旧松山藩明教館跡)では手狭となり、藤村知事の敏速な英断によって、
    同校移転新築工事費を起算する。
1887 20 42 59 3月8日、山梨県知事藤村紫朗が、愛媛県の知事に転じられる。
9月〜12月、幾人かの山梨県職員を愛媛県職員に転任させる。
遠藤宗義 補山梨県小学三等訓導・山梨県属・県会議事堂建設委員→愛媛県尋常師範学校長(内閣
相馬遂通 山梨県東八代郡書記→任愛媛県属文書課勤務
森 丈助 和歌山県高野山生まれ→高野山挙兵、山梨県地理課出仕、山梨県七等技手→愛媛県七等技手 土木課勤務
田島利貞 山梨県警部・南巨摩郡書記→愛媛県看守長
松村玄三郎 山梨県税収属→愛媛県税収属検税課勤務
菊池繁三 神奈川県尋常師範学校教諭→愛媛県尋常師範学校教諭
11月、佐久間某が「山梨日日新聞」に愛媛県の状況を寄稿する。
 明治20年11月の「山梨日日新聞」に、山梨県下の小学校教頭から愛媛県宇和島高等小学校に転勤した佐久間某の、松山見聞手記が投稿掲載されている。それによると、松山は道路が狭く官庁建物も旧態然の和風建築で外観がよろしくないと指摘している。本県は立地条件などから、このころもなお洋風要素を吸収した建築様式が育っていなかったと見られる。
           河合勤著「道後温泉神の湯本館の技術ルーツ」より
12月26日付、愛媛県臨時県会を招集し、愛媛尋常師範学校移転新築工事の承認を求める。
(愛媛県)知事宛                   呈出 学務課主任 遠藤属 (印)
                            明治二〇年一二月二六日
         回議
今般尋常師範学校新築之義御決定相成候ニ付キテハ、敷地ハ目下御詮議中ニ有之候得共、
此際速カニ起工ノ準備ヲ為スハ必要ニ付、工事請負人等相定メ度、然ルニ此回ノ工事ハ随分大事業にて、県庁ニテモ十分監督ヲ為サザレバ不相成議ニ付、其道に清シキ大工ヲシテ之ヲ受負ハシメラレ、能ク注意セシメテ他ノ私利ヲ図ルガ如キ者ニ受負ハシメラルルモノトハ、自ヲ異ナル取扱ヲ為シ、
経費ノ支払等ニ至ル〔まで〕、可成厚キ保護ヲ加ヘテ成功致度、幸山梨県甲府紅梅町大工小宮山弥太郎義ハ建築事業ニ頗ル精シキモノニ有之候間、特ニ之カ受負ヲ命セラレ候様致度、仍本人ヘ談示ノ末、当庁ニ於テ設計見積金額三万七千六百三十七円七十六銭七厘ヲ以テ、計画通リ出来可致旨、
別紙之通仮受負證書差出候ニ付、追って負テ本證書ト引替シムベキ見込ヲ以テ、受負方御聴許可相成哉、此段相伺候成
 
1888 21 43 60 1月6日付、学校建設に伴う、有志総代府中町仲田伝之□以下27名連署の「城北誘致嘆願書」が提出される。
1月13日付、土木課主任井上属が知事宛てに諮問書提出する。
1月、師範学校の建設用地を本屋町・府中町一帯と決定、建設工事を着工する。
2月29日、突然、 藤村紫朗愛媛県知事を退職して郷里熊本に帰り、やがて熊本農工銀行の頭取に就任した。
「海南新聞」明治二一年三月三日付は、「殖産興業に熱心せらるゝは夫の養蚕の奨励を以て明なる所にして、余輩も亦大に此挙を賛成する所なりと雖も其此等に熱心せらるゝの余り或は少しく干渉の弊に陥ることは無きやとは昨今世人の専ぱら唱導する所なりし」と評した。  愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行
4月23日、小宮山弥太郎の請負工事分に就いて、新知事白根専一との間で契約調印が行われる。
 建築工事は曲折を経て、本館とその両翼の二教棟は小宮山弥太郎の設計により県直轄工事とし、その他の教室棟・男(女)寄宿舎棟・食堂浴室棟・体操場・付属小学校・幼稚園・門衛その付属建物及び外構工事一式は小宮山弥太郎の請負にするという、異例の形で出発した。
             河合勤著「道後温泉神の湯本館の技術ルーツ」より
1889 22 44 61
1890 23 45 62 9月、愛媛県師範学校が完成する。(一部敷地の収用なが難航したため工事の竣工が遅れた)
 
     愛媛県師範学校(植松光宏氏提供)
〇この年、藤村紫朗、国会開設とともに貴族院議員に勅選される。
1891 24 46 63
1892 25 47 64 7月、道後温泉「神の湯本館」が坂本又八郎により起工される。
1893 26 48 65
1894 27 49 66 4月、道後温泉「神の湯本館」が竣工する。
1895 28 50 67 4月9日、夏目漱石が松山中学の英語教師として当地に着任する。
漱石はこの日、海路、三津浜港に到着し、一番町の松山中学に赴いて着任の挨拶、その夜は三番町の「きどや旅館(城戸屋旅館)」に宿泊した。
1896 29 51 68 4月10日午前9時、漱石(29歳)は三津浜港から、熊本の第五高等学校へ向け出航する。
〇この年、藤村紫朗が男爵となる。
1897 30 52 69
1898 31 53 70
1899 32 54 71
1900 33 55 72
1901 34 56 73
1902 35 57 74
1903 36 58 75
1904 37 59 76
1905 38 60 77
1906 39 61 78
1907 40 62 79
1908 41 63 80
1909 42 64 81 1月5日、藤村紫朗(64歳)が亡くなる。
1910 43 82
1911 44 83
1912 大正元年 84 皇太子(後の大正天皇)の山梨行啓に際して、蓬莱山を形どった彫刻を献上する。
1913 2 85
1914 3 86
1915 4 87
1916 5 88
1917 6 89
1918 7 90
1919 8 91
1920 9 92 5月8日、小宮山弥太郎が亡くなる。 
  晩年は挿花の道をたしなみ、松壽一園と号し風雅の余生を送った。 
1921 10
1922 11
1923 12
1924 13
1925 14
1926 昭和元年 5月8日、甲府遠妙寺の境内に「正廣翁之碑銘」と記された顕彰碑が建立される。
1927 2


藤村記念館 旧睦沢学校校舎
NPO法人甲府駅北口まちづくり委員会/甲府市教育委員会 パンフより
まとめ
 日本の大きな彫刻史とか建築史で大きく舵を切ったところは、平安時代から鎌倉時代へ、また、江戸時代から明治へと変わった変革の時と云われています。また、ものの考え方も大きく変革した時であったと思います。
 だが、そこに生きる人々は絶えず前を見て真剣に生きて来ました。東大寺の南大門を建てたのも、興福寺の優れた彫刻も皆、伝統に培われた奈良の仏師たちでもありました。
 時代は変わり、明治のはじめ山梨県内に多くの擬洋風建築を手懸けた大工の棟梁、小宮山弥太郎もまた以前は田安家の作事頭をしていました。彼の顕彰碑に刻み込んだ漢詩の部分には「嗚呼良匠 温故知新 
創意超凡」と歌われています。「ローマは一日にならず」とか、あの都市の素晴らしさも、よどみなく、限りなく続いて来た壮大な文化の流れの一端であることを感じています。
 甲府駅北口広場の正面には、藤村建築のひとつである旧睦沢学校が藤村(ふじむら)記念館として再興されてありました。また、本年に入ると地元では擬洋風建築をテーマに文化財の保存と活用の立場から「地域文化財の保存・活用のコミュニテイ」と云う書籍が若手の研究者から出版されました。
 旧津久井郷土資料館はなるほど、来館者数や建物の耐久性は頑強とは云えないかも知れない。しかし、そこに創意工夫を凝らすことはいくらでもできたのである。現在は取り壊され既に更地と化してしまったが、それで全てが終わったのではない。ここに大いなる反省がなければ一歩も前に進めないのだ。
 後世に伝承し続ける。そのことの大切さを私は命あるかぎり、ふんばりたいとそんな風に考えています。
再調査の要について
身延山久遠寺の再建、山岡鐡舟との関係(特に三保の鐡舟寺、方広寺)、武田神社と上杉神社との関係、猿橋と甲州道中に関する資料
愛媛県での5年間での出来事、
県令と近代教育との関係下山大工との技術交流はあったか

津久井郷土資料室の早期再開を求める陳情書を相模原市議会議長に提出しました。(否決)
湖底に沈んだ村・荒川
政令指定都市相模原の誕生と津久井四町の消滅

参考資料
野上嘉三郎著 筑紫熱血 : 神州正気 国友社 並老母登千子藤村紫朗上書 / 明23.2 pid/778388
伊予史談 (273) 伊予史談会 伊予史談会 1989-04 /pid/8100807
       道後温泉神の湯本館の技術ルーツ -藤村紫朗知事の英断と功績ー / 河合勤
       尚 本項に掲載した写真の原版は、上記の論文の中から転写を行ないました。 あらためて感謝申し上げます。 保坂
山梨県甲府勧業場之図 (山梨県立図書館蔵)
       曜斎国輝/画 山中市兵衛  形態1:錦絵 形態2:原 大きさ:35 119 枚数:1マイ
日本蚕業雑誌 (87) 日本蚕業雑誌社 1895-10 pid/1577632
       藤村紫朗氏の蠶業談 / p31〜32
弘道 (212) 日本弘道会 日本弘道会 1909-11 pid/6057757
       史傳 近藤椎山彰コ碑 / 藤村紫朗 / p14〜15
棲神 : 研究紀要 (53) 身延山短期大学学会 [編] 身延山短期大学学会 1981-03  pid/2209286 
       身延山と藤村紫朗県令(本県第五代知事) / 林是幹 身延山諸堂建立考 / 林是晋 /

山梨のいしぶみ −小宮山弥太郎の碑 藤村式建築の第一人者− 山梨日日新聞社 発行 昭和52年2月
甲府市史調査報告書4 甲府の石造物 甲府市役所 発行 平成5年3月
国指定重要文化財甲府市藤村(ふじむら)記念館 旧睦沢学校校舎 NPO法人甲府駅北口まちづくり委員会 甲府市教育委員会 パンフレット
清水小太郎著「山梨県近代教育史」 発行 昭和62年5月


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