津久井郷土資料室再開に向け
  (旧神奈川県津久井郡蚕業指導所中野支所)
 陳情書を相模原市議会に提出した
ところ
   
「否決」され、取り壊されました。
                          
                撮影 2017.11.27
  →  → 
 旧神奈川県津久井郡蚕業指導所中野支所     取り壊された津久井郷土資料館    旧城山民俗収蔵庫(旧學校給食センタ)

2016・2・29  作成
2016・9・24 タイトルに「ところ否決され取り壊されることとなりました。」の部分を修正追加
2016・9・24 (相模原)郷土懇話会が津久井郡郷土資料館を訪れた記事を追加
2016・11・21 「文化財建造物における博物館環境 −資料を守るために−」のまとめの部分を追加

2017.11・28 更地になってしまった旧津久井郷土資料館の敷地と写真2枚を追加
2018・4・25 岩田書院 新刊ニュース No 1027 追加する。

 今に生きるのも困った頃、戦後の日本を救った産業施設が、相模原に二ヶ所残されています。そのひとつは、養蚕に関わる施設であり、また、広大な相模野平原を潤おわせた畑地灌漑施設です。養蚕施設としては、もう「旧津久井郡郷土資料館」の建物しか残されておりません。将来に語り継ぐためにも、再考をお願い致します。解決の道はある筈です。

  平成27年4月15日付 神奈川新聞より

参考資料 
懇話会の津久井城山探査と津久井郷土資料館見学記
                 桐生 亮
 昭和五十年十一月三十日、スト権ストの日にもかかわらずお集まり下さった懇話会幹部諸氏の研究心旺盛なことにはまったく頭が下がった。講師は歴史学、民俗学のベテラン津久井資料館の柴胡庵先生(金井茂氏)、参加されたのは金井利平氏、篠崎芳治氏、江成栄氏、末森敢氏、槇田正子氏、座間惣吉氏と筆者の八人であった。/ここに研修の一端を記します。/津久井城は海抜三七四メートルの山で、まわりの地形をたくみに利用した日本でも珍しい「根古屋式山城」である。/鎌倉時代につくられ、歴史にクローズアップされたのは戦国時代で(略・津久井城山探査の記述の後)津久井郡郷土資料館は昭和四十六年四月七日に創立され、民俗資料は津久井湖に水没した人たちの遺品と民俗学者鈴木重光氏の寄贈による。又民俗学に関す
る多くの書籍はやはり鈴木重光氏の寄贈によるものが主となっている。いずれも珍しいものばかりであるが、ここに述べる余裕がないのではぶく。終わりに講師の金井茂氏、ならびに懇話会幹部諸氏の御指導に対し心からなる敬意と感謝の意を表します。
            
昭和51年8月発行  「郷土相模原 復刊 第六号」より一部


 平成28年2月10日、模原市議会に陳情書を御提出致しました。陳情書をお読み下さる前に、平成十二年「中野地域振興協議会」と「中野まちづくり委員会」が共同発行されました「ふるさとの民話と伝承」と云うご本の一文です。サブタイトルはー郷土の歴史と湖底に沈んだ村々ーです。
 陳情書をお読み下さる前に、御一読頂けましたら幸いに存じます。宜しく御願い申し上げます。
○渡船場のふるさと、川坂 大用明雄さん 談
 昔、津久井街道の裏街道として往来の激しかった頃、川坂には、川和(今の中野)と三井を結ぶ渡船場がありました。当時は川幅も広く、水量も豊かだったので、常時、船頭が渡しの近くに住んでいて、往来する人々を船で渡していました。この土地に船頭を仕事として住み着くようになった歴史は古く、江戸時代の半ば頃からと言い伝えられています。

   中野村絵図(部分)天保14年(1843) 
        ダムに沈んだ川坂の集落と相模川の中洲

 昭和十五、六年頃までは、相模川に鮎漁に訪れる人も多く、この川坂の渡しは大変に繁盛したものでした。また、この渡しからは、相模川を上下する高瀬船も数多く見受けられたものでした。
 私の家が、この川坂の地に住むようになったのは、確か、大正の初め頃のことで、今年でちょうど五十年位になるでしょうか。当時、この川べりの川坂には、私の家と船頭の家に二軒しかなく、私の家では、主として鮎漁の案内などをして
いました。昭和の初め頃に水車小屋ができて、この土地に住むようになった家は漸く三軒になりました。私の家でも、鮎漁の案内とそうした人たちが泊まる旅館を経営する傍ら、水車小屋を作って近隣の人たちの米や麦などを搗(つ)いて生計をたてるようになりました。
 その後、相模ダムが完成するとともに相模川の水量も減ってしまい、川坂の渡しもすっかり廃れて、船頭さんの一家も他へ引っ越してしまいました。また、電気が動力として使われるようになると、水車を利用する人もなくなり、、この川べりの川坂には、私の家が一軒だけとなってしまいました。
 戦後、私の家では、鮎漁と農業を半々にしながら生計をたてていたのですが、やがて、砂利採集業者が四軒ほど越してきましたので、この川べりもだいぶ賑やかになってきました。
 昭和三十三年、神奈川県議会で、城山ダムの建設が決定され、その後、様々な経緯を経て、いよいよ、この地を去らなければならなくなった時、この地に生まれ、育った私には、この川べりの地に忘れられないほどに沢山の思い出があり、非常な寂しさに襲われたものです。
 子どもの頃、よく目のあたりにした、五反の帆を張った高瀬船、川下りの時には薪や炭をのせ、上りには米や麦、魚などを載せていたものでした。また、川下りの遊覧船(屋形船)もよく見られ、二十人ほど乗り込んだ人々が酒などを酌み交わしながら、楽しそうな笑い声をあげて、荒川の方へ下って行きました。
 私の家では鮎をとり、東京方面に出していたことから、私はよく父と一緒に川へ鮎捕りに出かけたものでした。こうして、あの頃のことを思い出して見ると、やはり、相模川で楽しかった水遊びや魚捕りのことが一番印象に残っているようです。
 昭和三十六年十月、県との補償に対する調印も終り、その翌年の三十七年から、川坂地区の水没関係者の他地区への移転も始まりました。その内訳は、二本松へ二戸、小網へ一戸、橋本へ一戸、川坂の上段へ一戸となっています。これも時勢の流れとはいえ、私たちにとっては、住み慣れた郷土を離れることは、死ぬほど辛いことでした。でも、私たちが犠牲になることにより、沢山の人たちの幸せな生活を築くことになることを思うと、「これでいいのだ」と思わないわけにはいかないのです。

                           (表紙の部分)


相模原市議会議長
   ○○○○殿


陳情

津久井郷土資料室の早期再開をお願い致します















                 提出日  平成二十八年二月十日
                 住所   (省略)
                 陳情者  保坂健次  印





      津久井郷土資料室の早期再開を求める陳情

 津久井郷土資料室は昨年4月より、設備の老朽化と云う理由で休止となり、現在は蔵書や民具類の目録づくりが行われています。今後の運用方法については私達には分かっておりません。
 津久井郷土資料室は、かつての神奈川県津久井郡蚕業指導所中野支所として昭和27年10月に、現在の相模原赤十字病院の隣接地から移転され、昭和46年4月にその役目を終え「津久井郡郷土資料館」として開館致しました。
 館内には、平成19年度相模原市立博物館年報によれば、考古資料354箱、歴史資料688点、民俗・生活資料14503点と云う膨大な数の品々を収蔵し他を圧倒しています。
 民具類は、城山ダム建設のため湖底に沈んだ当時の人々の生活用具を始め、生業として来た機織機や鮎籠・帆等の魚労具等もあり当時の生活を偲ぶことができます。
 民俗・生活資料の約1万4千点は、旧相模湖町(内郷村)若柳の鈴木重光氏が民俗学研究のために収集したもので、現在も目録作りが行われていると云う状況です。
 日本民俗学は柳田國男によって創設され、大正7年の夏には、その柳田國男を始め各界の専門家が集まり日本で最初のフィールドワークが地元内郷村で行われました。その人々を案内したのは鈴木重光氏と長谷川一郎氏でした。その模様の一部始終は新聞にも掲載され、地元の人々も夜遅くまで話し合いの輪に加わったと云われています。こうした当時の生々しい記録は勿論津久井郷土資料室に保存されています。
 市博物館によれば収蔵資料を精査し展示場所や保管場所を決めるとありますが、それよりも県下に残る唯一の蚕業指導所であることを強力にアピールし養蚕が盛んであった頃の面影を残す中野商店街と一体化すれば新たな観光資源にもなります。
津久井郷土資料室は養蚕地帯の中に生まれた近代・文化・産業遺産として、その地位を十二分に発揮するものと信じています。このような施設は県下でも見られない貴重な存在であり、相模原市に残る唯一無二の文化財です。
 津久井郷土資料室の建物は壊すことなく復原保存、また全ての収蔵物は分散散逸されることもなく、早期に再開されますことを伏して陳情致します。



                  補助資料(別冊の表紙)

                      平成28年2月10日
相模原市市議会議長殿 
相模原市文教委員会委員長殿
相模原市立博物館長殿




     津久井郷土資料室の再開をお願い致します
            (補助資料)



再開までの準備

   一部耐震工事を実施し建物を保存する。
   所蔵目録は継続して作成する
   官民一体の(仮称)再開準備会を発足させる。

開館後の運用方法(改善案)
   建造物を相模原市有形登録文化財(建造物)に指定する。
   運営日 金・土・日 8:45〜16:45分とする。
   定期的な、研究発表会並びに、それに伴う企画展示を行う。




                    陳情者の住所(省略) 
                    陳情者 保坂健次


                  補助資料 1/3

   津久井郷土資料室の建物は登録文化財に指定し保存すること(主旨)

 明治3年6月、田名を訪れた英国人のマクレガーは、相模川を眺めながら、台地の情景を「この崖の上から八王子の方面に、ほとんど切れ目なく桑畑の台地が拡がっている(英文)」と当時の印象を、ザ・ファーイースト(極東新聞)に伝えました。この日、マクレガーは相模川を田名から小倉まで遡り日本で最初のカヌーを行いました。
 当時の相模野台地は、一面の桑畑であったことが窺われます。そして、横浜の開港と共に、蚕から得られた生糸は諸外国に輸出され日本の基幹産業となって行きました。
その後、養蚕業は社会の変遷と共に衰退し、相模原では平成22年、旧津久井町根小屋菊池原稔様の養蚕を最後にその長がきに亘る歴史に幕を閉じました。
 こうしたことから、現在では桑畑もなくなり、畑と畑の境のほんの僅かな空間に見られる程度となってしまいました。また永い間の経験から生まれた養蚕技術は伝承の意味を無くし消え去ろうとしています。
 そうしたことから、相模原市では町史の編纂を通じ養蚕に係る用語とか飼育方法等の調査研究を進め記録保存に努められていることは御承知の事と思います。
津久井郷土資料室(旧津久井郡郷土資料館)の建物は、かつて養蚕が盛んだった頃の「元神奈川県養業指導所中野支所」の施設で老朽化はしているものの、当時を知ることの出来る貴重な文化遺産となっています。
 養業指導所の前身「神奈川県養業取締所中野支所」は大正九年に設置され、この地方の中心的機関とし蚕糸業界の発展に寄与してまいりました。昭和二十七年十月には、その発展にふさわしい新庁舎として、現在の日赤相模原病院の地から現地に移され、新たな竣工がなされ指導所となりました。その後、同地に津久井急病診療所が開設されることから、建物の向きを北側へ移装し敷地の形状に合わせたことから、現在では左側の一部分が削り取られておりますが、玄関を入って直ぐ左には小窓が取り付けられ受付が出来るようになっています。またその右側は応接間、その奥の広間は研究室となっていました。床は板で張られ黒光りをなしたその形状は、歴史の古さをそのまま伝えています。
 この建物は、年代的には指定文化財の基準に満たないかも知れませんが、当時を知ることの出来る貴重な文化財であることに間違いありません。こうした文化財を消滅から守るために1996年、新たな文化財登録制度が誕生いたしています。この文化財登録制度の運用によって、津久井郷土資料室の保存をより明確なものにすることも出来ます。そして、建物が保存されることで、一部の補強工事をしなければなりませんが、従来通り行われていた収蔵物の保存と閲覧が再び可能となります。
 津久井郷土資料室の内部には大量の民俗関係資料が保管されています。その中央部には、鈴木重光氏が収集した第一級の民俗資料と書籍類があります。また、その東側の部屋には機織機や鮎籠等の民具類が収められています。それぞれの民具類は津久井湖誕生によって、故郷を離れることを余儀なくされた皆様の生きて来られた証であり、後世に伝え残すべき貴重な文化遺産です。


                  補助資料 2/3


 (1/3より)建物は老朽化したから壊すのではなく、将来のために耐震工事を追加し保存すべきです。また、鈴木重光氏の資料は目録が完成した段階で、分散収容するのではなく一ヶ所で保存すべきです。かつて柳田國男が中心となり旧内郷村に於いて行われた、日本で最初のフィールドワークは今も日本民俗学の金字塔です。
その日本最初のフィールドワークを案内したのは、地元鈴木重光・長谷川一郎であり、その存在は後世に向け語り継ぎ、顕彰して行くべき存在です。


県蚕業指導所(昭和30年代)
        「津久井郡文化財 養蚕と炭焼 産業編 1988」より

◎所蔵目録は継続して作成する
これまでも、平成8年4月に「展示資料案内」として目録が公表されました。この時は未だ十分な目録ではなかったため、現在も継続して目録づくりが行われています。そして将来は収蔵物の全てが検索が可能となり、利用の範囲が広がるものと期待されている。

◎官民一体の(仮称)再開準備会を発足させる。
今までは、市民が直接的に郷土資料館の運用に参加することはなく、個々に利用されていたように思われます。館内での活動を官民が協力し合い、例えば相模原地域全体のエコミュージアム構想構築のための施設と、云った長期的な目標を持ちながら協働の力によって、達成させることは、やがては地域を活性化させ、施設の利用効率の向上にも繋がると確信しています。
◎建造物を相模原市有形登録文化財(建造物)に指定する。
◎郷土資料館の運営日 金・土・日 8:45〜16:45分とする。
津久井郡が相模原市に合併以降は、火曜日〜日曜日を、利用日としていましたが、
再開後は、当面金曜日〜日曜日の週三日間とし、経費の削減を図る。



                  補助資料 3/3

◎定期的な、研究発表会並びに、それに伴う企画展示を行う。
館内をただ、開放するのではなく、来館者のサポートが可能となるような人材を養成する。また小規模でもテーマを定め、企画展示を行い、来館者に少しでも良い印象が得られるような企画を行う。また少しでも「郷土資料室に行きたい。(行って見よう。)」と思って頂けるよう研究の幅を深め接遇サービスの向上にも心掛けて行く。館内には山のように資料があり、それらを切り口に様々な研究発表を行う。
考えられるテーマ
1、民俗、相模川水運、富士講、道祖神、民家等
2、鈴木重光、長谷川一郎、柳田國男、武田久吉、天野貞祐、尾崎行雄、安西勝
3、養蚕、酪農、林業等、
4、教科書、大衆小説、雑誌等   
 また来館者に、こうした書籍や館内の民具類に直接触れることは、多様化している現代社会の中では無償の良薬ではないかと考えております。
 かつて、私は養蚕展を企画したことがありました。場内に藁を途中までかけた蔟折機(まぶしおりき)を並べておくと、静かに入って来られたひとりのお婆さんが突然「ワーッ」と叫んだのです。そして、その手を差しのべて蔟折機(まぶしおりき)に触れたのでした。後でご家族の方にお伺いしたところ、「このようなことは、今迄なかった。」と、ご本人はもとよりご家族の皆様方にも、大変喜んで戴きました。以来私は、そのことを座右の銘として行動を興しております。(保坂記)
まとめ
 以上を、書き述べてまいりましたが、従来の方法のままで、再開を望むことは、「相模原市公共施設白書 平成24年3月」を読むかぎり、無理ではないかと考えております。
 再開に向け、ここに新たな方法を述べ、一日でも早い再開を望むものです。将来的には新たな収蔵庫を新設する事、また発掘された土器石器類は「(仮称)相模原市立埋蔵文化財センター」での一括保存が望ましいとは思いますが、現実はかなり厳しいものと推察しております。その根底にある現実は、やはり「旧城山町民俗収蔵庫」の放置に他ならないと思うからです。
 管理する相模原市立博物館は、また市民を代表する相模原市議会はこのことを真摯に受け止めて戴きたいと思うのです。
 将来を担う子供たちのためにも一日にも早い津久井郷土資料室の再開を願っております。以上 





添付資料の一覧表と内訳

◎津久井郷土資料室の早期再開を求める陳情
  (HP、上記に掲載しました。)
◎津久井郷土資料室の再開をお願い致します。(補助資料)
  (HP、上記に掲載しました。)
◎冊子 昭和48年10月 案内要領 津久井の歴史と津久井郡郷土資料館
  (初代館長であった淵野辺出身の金井茂先生が初めて紹介した「津久井郡郷土資料館」の案内要領)
◎新聞記事 神奈川新聞 2015・4・15 “津久井の証人”存続を
  (神奈川新聞に掲載された、存続を惜しむ関連記事)
◎新聞記事 神奈川新聞 2015・8・22 博物館の窓から 6 民俗
                  県内有数の養蚕地帯
  (相模原博物館が神奈川新聞に連載した連載記事の一部)
◎津久井郡勢誌復刻・増補版 昭和53年12月 「養蚕業」の部分
  (津久井郡勢誌より津久井郡下の養蚕と蚕業指導所中野支所に係る関連記事の抜粋)
◎平成19年度相模原市立博物館年報 P21(抜粋)
  (博物館年報より、博物館関連施設収蔵資料点数リストの比較資料)
◎新聞記事 相模経済新聞 1996・6・10
 県行政センター「エコ・ミュージアム」を提言「4町を博物館に」
  (神奈川県が発表したエコ・ミュージアムの理念と4町を博物館にとする初めての基本構想)
◎相模原市公共施設白書 平成24年3月
 ウ「広域施設」のサービス水準に関する分析
 (大分類が行政系施設から保健・福祉施設までの、施設名、指標、利用者数を数値化し一覧表に
  まとめた年間利用状況表)と「広域施設」のサービス水準に関する分析の結果)



参考 文化財保護審議会へ、登録文化財指定に向けた審議の依頼文書

                                     平成28年2月23日
 文化財保護審議会長殿
 文化財保護課長殿

    津久井郷土資料室の登録文化財指定に伴う、審議の依頼について(依頼)

 時下、御清栄のこと、御慶び申し上げます。
下記についての、登録文化財指定につきまして、本年2月10日、相模原市議会議長宛に、「津久井郷土資料室の早期再開を求める陳情」書とその補助資料を添え御提出を致しました。
 昨年3月中旬に出された相模原市広報誌によりますと、老朽化と云う理由で津久井郷土資料室を休止(取壊)すると云った内容でありました。
 「津久井郷土資料室」の前身は「神奈川県津久井郡蚕業指導所中野支所」で昭和27年10月に現在の相模原赤十字病院の隣接地から移転された庁舎で、かつて養蚕業の盛んだった頃を物語る貴重な近代・文化・産業遺産となっています。
 施設は、戦後間もないことからあくまでも機能性を重視した建築構造となっています。決して、明治初期に建てられた豪華な※1旧開智学校とか今も横浜市内に残る近代建造物群とは性格を異にしております。「建築様式が優れている」とか、「随所に装飾性が見られる」と云った内容のものではありません。まさに戦後の復興期を象徴する建物なのです。
 陳情書にも書き記しましたが、建物は老朽化したから取り壊すのではなく、登録文化財に指定し、末永く保存することができれば、当時の面影の残る中野商店街と一体化することができ新たな観光資源として再出発することができるのです。
 どうか、御審議を頂き、後世に汚点を残さぬようくれぐれも宜しくお願い申し上げます。
    このような、施設はもうどこにもないのです。
   

    
    旧神奈川県津久井郡蚕業指導所中野支所
                             
                        申請者名等 省略


建築様式や装飾性に対する反省 まとめ
 参考 ※1旧開智学校
 旧開智学校(きゅうかいちがっこう)は、長野県松本市開智に残る明治時代初期の洋風校舎で、文明開化時代の小学校建築を代表する建物として広く知られています。
 この頃、山梨県内では鳳来学校・飯野学校・春日居学校・春米学校・切石学校・於曽学校・貢川学校・玉田学校・穴平学校・野々瀬学校・勝沼学校・御影学校・里垣学校・学校・学校や津金学校等が建設され、寺や神社の木々が用材として使用されたと云う記録が残されています。明治12年6月のことで、山梨県令藤村紫郎が当時の内務卿をしていた伊藤博文に報告しています。
 この頃に建てられた建物を山梨県では特に藤村建築と呼び、現存している春米学校や津金学校の建物は県の文化財にも指定され、館内では民俗や歴史資料等が展示されています。
 また、明治11年7月、山梨県令藤村紫郎は、「御達案」として学区取締・戸長・学校幹事に対し「小学校建築方法得欠之儀ニ付テハ明治九年乙第三百拾壱号ヲ以テ及諭達置候趣モ有之候処猶其旨趣貫徹セサルカ、爾来資力不充分ナル村落ノ新築モ洋風模擬ノ構造不少、抑学舎建築ノ要ハ明治十年乙第七拾六号ヲ以テ相達候建築法ノ掲示ノ通リ位地其宣キヲ得、教場等其体裁ニ適ヒ新風ヲ流通シ築造堅牢其久キニ耐ルヲ主トシ、外観ノ義ヲ飾ルハ決テ本意ニ無之、然ルニ即今建築ノ既成ノ学舎ヲ観ルニ或ハ要用ナラサル層楼ヲ結構シ或ハ窓(マド)戸壁ヲ彩飾スト雖、(略)其力充分ナラスシテ今日ノ如キ築造ヲナスハ啻ニ冗費ノミナラス為ニ向来維持ノ方法ヲ障碍シ教育ノ衰頽ヲ来スモ難計ニ付右ノ得失猶篤ト研究シ不都合無之様取計フヘシ、此旨再応相達候事」と、当時の状況を戒めました。
 「山梨県近代教育史」の著者、清水小太郎は「(略)いま存在する藤村式学校建築の遺構が文化財として重要な価値をもつことは否定しないが、当時の疑洋風式の遺構が藤村県令教育奨励の象徴として、その建築を奨励しているように解される意味をもって藤村式校舎と呼称されていることは、ご本人藤村にとっては不本意のことと思われる。」と結び研究者への警告を発しました。
 「旧神奈川県津久井郡蚕業指導所中野支所」と呼ばれていた建物は旧開智学校や富岡製糸工場のような「建築様式が優れている」とか、「随所に装飾性が見られる」と行った内容の建物ではありません。その奥に見えて来る当時の歴史性を如何に感じていただけるか只それだけである。勿論、登録文化財としての指定基準である50年以上はクリアーしてのことである。この「旧神奈川県津久井郡蚕業指導所中野支所」の保存のための審議の依頼は、今は亡き恩師が無言で教えて下さった導きのような気がしてならない。先生は私に「ちゃんと勉強しているか」そして「逃げてはいけない」と云って下さっているような気がしてならないのである。
 学問はいつもいつも真理を追究しなければいけない。先生はそんな風に、負けそうな私を励ましてくれている。
 何十年振りに開いた 「山梨県近代教育史」の本をあらためて読み返し何とも情けない思いをしております。
 私は、故郷を離れ51年目の春を今年迎えます。そして、相模原市役所前で行われいる「桜まつり」を毎年楽しみにしている一人でもあります。「今年は桜まつりか、選挙の時は若葉まつりの年だよね。」なんて云いながら、郷里のみなさんの登場するパレードに見入ったり、郷土の食べ物を食べたり、たとえ話を交わさなくても、そこにいるだけで何故か楽しくなる一日となっているのは不思議なくらいです。思えば布団袋一個が始まりでした。
 そんな故郷は、かけがいのない宝物なのです。
 津久井の山々にはそうした故郷を思い起こせるどこか懐かしい風景が広がっています。
 蚕のことを私のふるさとではオボコサンと呼んでいます。相模原ではオコサマと呼んでいるそうですね。そんな語らいを私は「桜まつり」の会場や「津久井郷土資料室」で聞きたいのです。
 郷土のために、宜しく お願い申し上げます。生きている証のために
        どうか、津久井郷土資料室を壊さないで下さい。
      
 平成28年
 3月8日(火)後2時から 相模原市文化財保護審議会  相模原市役所会議室棟2階 第3会議室 
 3月10日(木) 文教委員会 (否決)
 3月15日(火) 文教委員会(予備日) 9:30〜
 3月24日(木) 9:30 相模原市議会本会議(委員長報告、(否決したことを)採決)

 H28・11・12 神奈川県立博物館 人文講座
       「文化財建造物における博物館環境 −資料を守るために−」 まとめの部分より

  ・建物の歴史的文化的価値 (それ自体が資料である)

  ・活用することで残る、地域の活性化

  ・当初の建物の機能や用途の部分を残し、
   かつ、博物館としての役割を果たさなければならない。



△陳情第2号 津久井郷土資料室の早期再開を求めることについて (議会議事録・全文)
○竹腰早苗委員長 陳情第2号津久井郷土資料室の早期再開を求めることについてを議題とする。
 お諮りする。質疑に入る前に担当部局より本件に関する現状等について説明を求めたいと思うが、これに異議ないか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○竹腰早苗委員長 異議ないので、担当部局の説明を求める。
◎笹野教育局長 それでは、津久井郷土資料室に係る現状等について説明する。
 津久井郷土資料室は、昭和46年に旧津久井4町が共同で資料展示施設として開設したものである。
 主な収蔵資料としては、津久井湖に水没した集落にお住まいだった方々が使用されていた民具や生活用品、また、相模湖町ゆかりの郷土史研究家であられた鈴木重光氏が生前に収集された雑誌や書籍、その他の文化資料など、約1万5,000点である。
 施設は昭和27年に建築された神奈川県蚕業取締所の建物を利用していたもので、建築後60年を超え、建物の老朽化が進んでおり、平成26年10月に簡易耐震診断を実施したところ、大震災が発生した際には倒壊の可能性が高いとの診断がなされたものである。こうしたことから、利用される方の安全確保の視点、さらに屋根や外壁等の傷みや雨漏りなどのため、収蔵資料にとって適切な環境を維持確保することが困難である状況などを勘案し、昨年の3月をもって一般公開を休止したところである。なお、建物については、周辺の状況等も見極めながら、平成29年度以降に解体を考えている。
 休止するまでの間の利用状況だが、平成26年度、1年間の来館者は延べ592人、1日当たり2.0人であった。
 収蔵資料については、津久井地域の歴史や文化に関する大変貴重なものであることから、展示の再開に向けて、本年度、目録とその収蔵資料との照合作業を進めているところである。平成28年度中に民具等については民間倉庫に移し、紙の資料等については燻蒸の上、温度、湿度の管理などの環境の整っている博物館の特別収蔵庫へ移し、しっかりと保存していく予定である。
◆江成直士委員 我が会派としては、今、教育委員会のほうから御説明いただいたが、陳情者の考え方、思いも承りたいと考えている。したがって、お許しいただけるのであれば、何らかの機会をつくって陳情者に質問したり、意見を伺いたいと考えている。お取り計らい願う。
◆米山定克委員 この件については、陳情者よりはがきや大量の資料もいただいたし、私自身も過去に現地に行き、しっかり内容を見て理解しているつもりなので、あえて文教委員会に陳情者を呼ぶ必要はないと考えている。
○竹腰早苗委員長 他に意見はないか。(「進行」と呼ぶ者あり)
 お諮りする。陳情第2号に関しては、陳情者の意見を聞く機会を設けることに賛成の委員の起立を求める。
   〔賛成する者あり〕
○竹腰早苗委員長 賛成少数。
 よって、陳情者の意見を聞く機会を設けないことに決した。
 これより質疑を行う。
◆古内明委員 まず、建物の老朽化のために昨年3月末で一般公開を休止したということだが、地元や市民に対してどのような周知を行ってきたのか。
◎佐藤博物館長 平成26年10月に簡易耐震診断を行い、その結果を踏まえた一般公開の休止について、まず、翌月の11月に鈴木重光氏の孫に当たる方へ報告をした。12月には津久井4町のまちづくり会議へ報告し、さらに津久井地区自治会連合会役員会へ報告した。年が明け、昨年1月には相模原市議会へ情報提供を行い、次に広報さがみはら2月1日号で休止の周知を行った後、昨年3月末をもって一般公開の休止をした。
◆古内明委員 そのときの地域の方々の反応はどうだったのかということと、地域の方々に御理解いただいたのか、反対意見はなかったのか伺う。
◎佐藤博物館長 関係者の方あるいは地元に説明を行ったが、いずれも反対意見はなかった。そのことから御理解をいただいているものと考えている。
◆古内明委員 陳情者は建物の復原保存ということ、津久井郷土資料室は貴重な文化財であるということを言われているが、市ではどう認識しているのか。
◎小俣文化財保護課長 津久井郷土資料室だが、この建物は昭和27年に建設されたもので、一部、当時の建築を残すところもある。また、同資料室は昭和27年から昭和40年代前半まで養蚕の県立技術指導所として開設され、その後、津久井郡郷土資料館となり、さらに現在は相模原市の津久井郷土資料室となっている。前身の津久井郡郷土資料館から津久井の建設業協会の方々にも一部利用されており、言ってみれば、津久井の戦後史を語る建物と考えている。しかし、現在の建物は建設当時の施設の一部を現在の位置に移築したもので、建造物として意匠のすぐれたところもそう多くはないのかなと考えている。また、建物内部も当時の養蚕の技術指導所を思わせるような部分も余り見えないような形と認識しているところである。
◆古内明委員 歴史的建造物である富岡製糸場や小原宿本陣のように幕末に建てられた建物であれば、無条件で登録できると思うが、この津久井郷土資料室を市の指定や登録文化財にすることはできないのか。
◎小俣文化財保護課長 先日、私どもの文化財保護審議会の専門委員の方にも現場を見てもらった。いつも登録、指定等を行う場合、事前に候補としてなり得るかどうかも含めて専門家の御意見を聞いており、今回もそのような形で専門家の御意見を聞いたところ、なかなか現状では難しいというお話をいただいた。しかし、津久井地区の戦後史を語る上では重要な資料だろうということで、そのためには現物として残す方法もあるが、その建物の記録をしっかりとって、それを残すことが必要だろうというような御指摘をいただいているところである。
◆古内明委員 資料室については、いろいろ考え方がわかった。また、陳情者は資料がいろいろなところに行ってしまってばらばらになってしまうのではないかということを心配しているが、そのあたりの市の考えを伺う。
◎佐藤博物館長 津久井郷土資料室の現況について先ほどもふれたが、建物は建築後60年を過ぎ、老朽化が進み、雨漏りがあり、温湿度管理がなされていないことから、特に紙資料については劣化が進んでいる状況がある。これらのことから、紙資料については保存環境の整った建物がある博物館の収蔵庫で保管し、民具は一括して民間倉庫で保管するということで、博物館が一括管理をして散逸がないようにしていく予定である。
◆古内明委員 陳情者は郷土資料室にあった資料は価値あるものだとの御意見だが、市としてこの資料についてはどういった位置づけになると認識しているのか。
◎佐藤博物館長 陳情者が言われるとおり、収蔵している資料の貴重性、希少性というのは十分認識しており、きちんと保存していくことと同時に、また、市民の方の目に触れるようにするなど、資料の活用のほうもしていきたいと考えている。
◆江成直士委員 まず、市民向けに説明して、反対はなかったということだが、何について反対がなかったのか明確ではないが、どこまで説明されたのか。つまり、休止ということまでなのか、それとももっと先まで説明されているのか。
◎佐藤博物館長 まずは、耐震診断の結果について、危険だということなので一般公開を休止しますと説明した。その中で、この建物は平成29年度以降解体しますということも説明している。建物や資料の関係については、特段こうしてほしいというような希望はなかったと聞いている。
◆江成直士委員 確認だが、建物が古くなって耐震上の問題があって危険だから公開を休止する、そして建物については解体する、そこまで含めて説明して、反対がなかったから了解だという理解でよろしいのか。
◎佐藤博物館長 そのように承知している。
◆江成直士委員 昨年2月1日号の広報さがみはらでお知らせしたというので、見てみた。ちょうどこの号は相模原の文化財に親しもうという特集で、旧石器ハテナ館や民俗芸能大会などいろいろあるが、なかなか見つからず、最後のほうに津久井郷土資料室については公開を休止しますということで、たしか2行か3行であった。この違いはなぜ生まれたのか。
◎佐藤博物館長 広報さがみはら2月1日号で一般公開の休止をお知らせしたが、今、言われたとおり、休止についてしか触れていない状況がある。
◆江成直士委員 細かい話まで全部知らせなければならないかどうかというのはそんなに大した議論ではないかと思いながら、しかし、市民にお知らせした、それから地域にもお諮りしたということであれば、そこはやはり丁寧に説明があってしかるべきではないかと思う。
 そこで、今、基本的な認識は伺った。中にある資料は大変、希少性もあり、重要だと。それから、あの建物は津久井の戦後史を語るものとして大変重要であると。私は見に行ったが、率直に言って、ただ見ただけではそんなことはわからない。だけど、やはり歴史がある。先ほどの説明では、戦後の早々から昭和40年代前半まで、あそこは津久井の養蚕の拠点施設の一つで、あそこでいろいろな取り組みが行われたと。ある意味、そういう建物があれば、そういう歴史があったんだということが想起できるし、語ることもできるわけである。なくなってしまうと、なかなか語れないし、思い出すことも難しい。私も養蚕農家のせがれだった、津久井は直接知らないが、上溝に検綿所や乾燥場があったり、父親と牛車に乗っかって繭を運んで、上げ下ろしを手伝った思い出もあるし、そこから養蚕作業の苛酷さ、しかし、繭が収穫できたときの喜びを感じ、繭を形どったお正月の団子など、いろいろな思い出につながって、本当に懐かしくてたまらないが、いずれにしても、戦後の日本あるいはこの地域の地域経済、農業経済を支えて、昭和40年早々に役目が終わったとはいえ、その後の高度成長時代につなげる役割を果たしたわけである。そういう意味では、その歴史性というのはすごく重要だと思う。それを認識されているという炯眼には心から敬意を表する。
 しかし、いろいろな現状を見れば、残すのは難しいのではないか。私も現場を見たが、率直に言って、あれを耐震補強して残すのは費用対効果の問題からいってもどうなのかなと思う。何とか残せないかなという思いも残りつつ、資料の希少性というが、その希少性というのはやはり資料があそこに収集し、あるいはあそこで展示されてきたということとも絡まり、その資料は地域性や郷土性と一体のものだと思う。だから、あの資料の値打ちは津久井で展示をされたり、活用されたりということに大きな意味があると認識している。その点については、教育委員会はどのように考えているのか。
◎佐藤博物館長 まず、資料の希少性のお話だが、例えば明治からの雑誌や古文書等があるが、明治45年だとしても100年以上たっている。それを自然の環境に近い温度、湿度の中で今まで残っていたことがまれだと考えている。今、その地域で見られたとしても、それを50年後、100年後に持っていかなければならないのが博物館の使命だと考えている。温湿度の変化が一番紙に悪いと言われているので、まずは資料をきちんと保存したいと考えている。また、地域のものは地域で見たいという気持ちはわかっているので、巡回展等についてもこれから検討していきたいと考えているので、御理解いただきたい。
◆江成直士委員 地域性、郷土性があるというのは、そこに置けないかという意味である。一方で、貴重な資料なので温湿度管理ができたきちんとした管理体制をとらなければ、資料として保存するということが担保できないということもあるので、しかるべく機能を備えたところに置かなければならない。ただ、一方で地域性や郷土性、資料との一体性を考えなければならないとしたら、何か方法はないのか。すぐには出ないにしても、何か検討する方向性はないかと思う。例えば、現在、津久井にある公共施設の一部を使うとか、あるいは全部は無理でも、そういったところを活用して一部を展示して、展示方法について考えるとか。今すぐできる、できないと答えるのは難しいかもしれないが、そういうことについて検討するような予定はないのか。
◎佐藤博物館長 地域のものは地域で見たいという気持ち、心情というのは理解しているので、津久井地域の公共的なもの等についても検討していくべきだと考えている。
◆江成直士委員 関連して、これを調べているうちに情報として入ったが、川尻小学校の敷地にある旧城山町の給食センターが今、倉庫のような状態になっているが、ここにも城山町時代の大変貴重な民俗生活資料、生活器具みたいなものが相当収蔵されていて、そのままになっているということだが、これはどういう経過で、今後どうなるのか。
◎佐藤博物館長 旧城山町の給食センターについても博物館の管理となっている。こちらは合併前の旧城山町の教育委員会が所蔵していた郷土資料−−中身は手動の消防ポンプや民具等だが、こちらも津久井郷土資料室の民具等と同じく、きちんと保存していくことを検討していくものと考えている。ただ、一遍にはできないので、今は津久井郷土資料室を手掛けるが、これからやっていこうと考えている。
◆山口美津夫委員 陳情者は建物と資料の保存という2点を言われており、資料については散在しないように、また、100年後を見据えて残すような処置をするということだが、建物については今あるものは大変危険だということで、取り壊すということである。しかし、今、江成委員が聞かれたとおり、津久井の戦後史にもかかわるような建物だということだが、どういった記録のとり方をするように考えているのか。例えば、関係者の方とその建物に一緒に入って、中でこの建物はこういうものでしたよとビデオで撮るのか、ただ写真だけで終わってしまうのか、そういったところをお聞きしたい。
◎佐藤博物館長 保存にはいろいろな形があるが、記録保存という形をとる。簡単に言えば、図面や写真、当時のことを書き記すものだが、先ほど津久井町史の話をさせてもらった。平成29年に津久井町史の文化遺産編を発行する予定なので、そちらに記録保存という形で残していったらどうかと考えている。
◆米山定克委員 私も過去にこの資料室を訪れたが、貴重な資料があった。柳田國男さんが地元の鈴木さんだったか、有名な方にはがきを書いていて、それが残っていて、私もびっくりした。たしか石老山で写真を撮ったものを、鈴木さんかどうかわからないが、はがきを出している。それが当時の横浜貿易新聞−−今の神奈川新聞だと思うが、それに載っており、非常に貴重な資料があると思った。我々は過去の資料を現在見るが、現在から未来の人のためにしっかり保存しなければならない。そのために、産業別等、いろいろな分野別にして、すぐにわかるような目録をつくってほしい。当時、はがきを借りていいですかと言ったら、持っていってくださいと言われ、1週間ぐらい借りたことがある。これでいいのかなと思って、すぐに返した。確かに受付もおられるが、自由に入って自由に出られるので、盗難もかなりあるのではないか。しっかりとした資料なので、永久保存するぐらいの気持ちで目録をつくってもらいたい。巡回展をやるということなので、巡回展もしっかりやってもらいたい。資料が大事だと思うが、分類別目録はしっかりつくっていくのか伺う。
◎佐藤博物館長 実は、相模原市が引き継いだときにもう既に目録ができており、今はその目録に基づいて棚卸作業、目録と収蔵資料の突き合わせを行っているので、そこの部分は大丈夫である。だた、目録にない雑誌などが今まで紛失したというようなことは聞いたことがある。目録については、今、言われたとおり、例えば品物別だとか、時代別にできるものがあればいいと思うので、そこはまた博物館に持ち帰って検討したい。より検索しやすいものが今あるかどうか把握していないが、いろいろなキーワードから探せたり、例えば写真から探せたり、そういったことも検討していくべきだと思っている。
◆鈴木晃地委員 先ほど局長の説明の中で、平成26年の来館者は1日平均2人だというお話だが、ちなみにこの2人には市の職員や行政職員も含めて換算されているのか。
◎佐藤博物館長 先ほどの人数はいわゆる延べということなので、同じ方もいるかもしれない。市の職員が入った場合でもカウントするということで、市の職員が入った数字になっている。アンケート等をとっていたわけではないので、どなたが何回入ったかは記録がない状態である。
◆鈴木晃地委員 そうすると、可能性としては2人以上はまずないということで、2人以下になってしまうかと考えるが、ちょっと視点を変えて、これまでと同様に市民や住民にもう一度、見てもらう、物によっては触れてもらえるようなことはこれからも可能になるのか。
◎佐藤博物館長 実は、あそこにある民具等も本当はさわってはいけないものだが、展示の仕方にはさわるというものもある。先ほど博物館では学習指導展というものを行っているというお話をした。昨年は火熨斗といって炭を入れたアイロンだとか、あるいはダイヤル式の黒電話を展示し、こういったものをさわったりして子供たちが実感できるようになっている。これは博物館の学芸員と相談するべきだが、そちらにある民具等も、もしさわっていいものがあれば、そのときに展示をして、みんなでさわったり、見たり、感じてもらうということができるかと思う。
◆鈴木晃地委員 これまで1日2人程度来館されていたが、これまで以上に教育上、非常に大切なものだと思うし、先ほどのアイロンなども、正直、私は見たこともさわったこともない。そういうことを考えると、巡回展の中でさわるということも可能性としてはあるのか伺う。
◎佐藤博物館長 巡回展というのは子供から大人まで自由に見るというイメージだが、今、博物館では貸し出しキットということで、そういった昔のものを学校などに貸し出しするようなことをやっている。そこに当てはめるかどうかは別だが、なるべく教育的な配慮ができるように見たりさわったりできるようにしたい。博物館でさわってもらうことも大事だし、巡回展等、出先でさわったりすることも大事だと思う。中には壊れてしまうようなものもあるので、それはこれからの検討課題としたいと考えている。
◆鈴木晃地委員 私は南区に住んでいるが、例えば南区の端から津久井の端まで子供を連れて見に行くというのは非常に労力がかかり、貴重なものだということは把握していながらも、なかなか難しいというのが、多分、来館者数にも反映されているのかなと感じている。もちろん、津久井にあることに非常に意味があるものだし、津久井で展示をしていくことについては今後、必ず検討してもらいたいが、まずは博物館でしっかりと目録をつくってもらいながら保管し、それが完了したら子供たちの教育という意味で、これも可能性の中であるが、学校に貸し出して、子供たちが見て触れてさわって、最終的には体験をしてもらうほうが、津久井の郷土資料というものを相模原全体に浸透させることにつながるのではないかと個人的には思う。その可能性がぜひとも高まるように要望する。
◆小野沢耕一委員 今回の陳情は非常に重要なものだと理解している。陳情の趣旨として、建物の保存と資料の保存という2つがあるわけである。資料の保存については、皆さん議論されているように非常に重要なものがある。この保存については陳情に賛成するわけだが、建物についていろいろ議論があった。この建物は養蚕をした場所ではなく、その技術指導所であったということである。先ほど江成委員も言われたが、私自身も小さいころから父親が養蚕をやっており、多分、津久井のほうでも最後のほうだったと思うが、自宅の屋根裏まで使って生糸をつくった経験がある。しかし、そういうものが残っているわけではないということである。建物の資料としては重要だということで記録保存するということである。私もすぐそばにあるものだから、ちょこちょこ見ているわけだが、ついこの間も見てきた。入り口から入ったところの天井部分は昔のつくりになっているが、先ほど説明があったように建設業協会がずっと使っていた。面積的には半分ぐらい、ほとんど床も壁も改造されている。それから、資料室については、床については昔のままだが、壁については張りかえられているのかなという感じがした。そういう中で、できれば昔のような形にして残してもらえればという気もするわけだが、いろいろ伺うとかなり莫大な費用がかかるということである。しかし、今のままで置くと、先ほど説明があったように温湿度や光等によって、残せている貴重な紙資料や民具が逆に変化してしまうということである。ただ、やはり収蔵資料である民具にしても紙資料にしても、これをほかで見るのではなく、やはり先ほど江成委員が言われたように、地域性や郷土性があるものなので、そういう意味で津久井の中で見たいということだが、これは私も同感である。資料の保存は博物館だとしても、津久井地域において資料を見たい、また、津久井地域で見ることが重要だと理解している。そういう思いに対して、どのように考えているのか。
◎佐藤博物館長 資料については、これからまた先の100年、200年と保存していく必要があると思っているので、博物館のほうできちんと保存していきたい。
◆小野沢耕一委員 津久井で見たいということについては、先ほど巡回展という答弁があったが、それではちょっと納得できないという気持ちである。やはり当然、施設が必要である。現在の施設を保存することについてはなかなか難しいと理解しているが、将来的には津久井地域で常設展示が基本である。ここではっきり言っておく。先ほど今後の予定を聞いたところ、来年度は全部、資料の整理をして、博物館のほうで紙資料については燻蒸したり、温湿度等の管理ができる場所で保管するということで、それらについては常設展示ではなくても巡回展等でできることがあればやるということだった。その点については、とりあえず専門家が整理するということなので安心するわけだが、建物での常設展示に向けて、多少、時間はかかるかもしれないが、将来的には津久井につくってもらいたい。先ほども言ったように、津久井で資料を見る、津久井で展示をする、これを基本として、今、考えられることは公共施設の有効活用である。ここで津久井消防署が新しいところに動く。あの建物があく。当然、改修が必要だろう。それから、少子化に伴って、学校の空き教室もしくは学校によっては空き校舎ということも考えられるのではないか。もう一つは、教育委員会の管轄ではないが、今、津久井地域では市営住宅の老朽化に伴う再編ということでどんどん古いものを壊している。相当空き地ができている。こういう用地についても利用することが可能ではないかと考えている。
 私の気持ちとしては、建物を取り壊すことについてはやむを得ない。ただし、津久井で公共施設等の有効活用を含めて、また新しい施設を設置してほしいという気持ちが強いわけである。津久井地域の人にとっては、どうしても津久井地域で再開する必要があり、ここだけはなかなか譲れないところである。そういう意味で、非常に重要なことなので、市の考えを局長に伺いたいと思っている。ぜひ前向きに答弁をいただきたい。
◎笹野教育局長 今、将来的な展示の場所についてお話があった。津久井郷土資料室の貴重な収蔵資料については、教育委員会としてもできるだけ多くの市民の皆さんに津久井の歴史に触れてもらいたいと考えており、現在、将来的にということになるが、そうしたごらんいただける場所を探しているというか、検討しているところである。これらの収蔵資料については、津久井地域の歴史や文化を語るものとして大変貴重なものであると我々も認識している。先ほど江成委員も同様の趣旨のことを言われた。私どもとしても、場所探しの検討に当たっては、小野沢委員のお話にもあったが、市として公共施設の保全・利活用基本指針も定めているので、既存の公共施設の有効利用や複合利用ということが基本になるところであり、現時点で具体的にどこと申し上げるわけにはいかないところだが、将来的に可能な限り、津久井地域内にそうした市民の皆様に見ていただく場を再開できるように今後取り組んでいきたい。
◆小野沢耕一委員 将来的にそういう施設を考えるという回答をいただいた。今回の陳情について、資料、民具の保存については賛成するが、建物を残すことについては、非常に残念ではあるが、今のような回答をいただいたので、やはり安全に資料が常設展示できるような施設をつくってもらう方向で考えたい。断腸の思いであるが、やむを得ないと思っている。
○竹腰早苗委員長 他に質疑はないか。(「進行」と呼ぶ者あり)
 本件の取り扱いについて、発言があったらお願いする。
◆江成直士委員 貴重な時間をいただき、また、貴重な議論もいただいて、私も委員の一人として大変感謝を申し上げたい。具体的には、きょうの採決については先延ばして引き続き審査してもらいたいと思う。
 理由は2点ある。1点は、きょうのせっかくの議論を会派に持ち帰り、また、会派でも十分な議論、納得の上に採決に臨みたいということである。皆さんも同じ立場なので、それはそちらのわがままだと言われればそうかもしれないが、そのように思っている。もう1点は、この陳情を出された方をどう受けとめるかということである。陳情の中身もさることながら、私はやはり歴史を受けとめて伝承していくということは一人一人の取り組みであり、この津久井における地域資料、文化的資料の継承についても、住民の一人でも多くが積極的にかかわるということが大事だと思う。そういう意味では、この陳情者の方を私はそんなに詳しく存じ上げているわけではないが、そういう方の思いも受けとめた上で、そしてまた、この資料をどう生かしていくかということでは、その方の十分な理解も受けた上で結論を出しても遅くないのではないか。私の認識では十分時間があると思っている。そういう点から、この段階での採決については先延ばしをしてもらって、次回の会議まで引き続き審査してもらいたい。お諮り願う。
◆小野沢耕一委員 江成委員の気持ちは十分わかるが、やはり資料も大事である。次の方向を定めることについても、先ほど局長から答弁があった。これらを方向づけするためにも、先延ばししたところで次の会議でどのような結論が出るのか、私が文教委員会の委員になれるかどうかもわからないので、私自身としては断腸の思いだが、建物の取り壊しについてはやむを得ないと思っている。早急に次の手だてを考えてもらう、方向を出してもらうほうがいいのかなと考えているので、採決をしてもらいたい。
◆米山定克委員 この陳情について時間をかけて議論をしたが、私も津久井郡勢誌という本を読んで、津久井の歴史というのはすごいなと思った。また、あそこの郷土資料館に行ったときに生々しく残っていることに、すごい資料があったんだなと思った。建物について、局長が話されたとおりの方向性が出たので、あえて継続してまた論議するより、未来のために本当にしっかり保存してもらうと同時に、局長の答弁を信じて、ここで採決したほうがいいと思っている。
○竹腰早苗委員長 他に発言はないか。(「進行」と呼ぶ者あり)
 お諮りする。陳情第2号を今後引き続き審査することに賛成の委員の起立を求める。
   〔賛成する者あり〕
○竹腰早苗委員長 賛成少数。
 よって、陳情第2号は今後引き続き審査としないことに決した。
 これより討論を行う。
◆江成直士委員 私どもは先ほど申し上げたように、この機会での採決については先延ばしして引き続き審査というお願いをした。お二人の委員から反論をいただき、重々納得するものがある。しかし、この思いについては基本的には変わらないということである。
 ただ、いざここで採決ということになれば、そういう状況の中で一定の結論を出さなければならない。今までの議論を伺って、私も本当に小野沢委員が言われたように断腸の思いである。この陳情の2つの要素のうち、資料については保存して公開するということで、すぐに公開は無理だが、それに向けた手だてを具体的に教育委員会でも行っているし、今までの議論の中で地域性や郷土性も踏まえた対応を追求していくという声もいただいている。この間、現地を見に行ったが、建物の中に津久井地域の小学校の子供たちが見学した様子を新聞に書いたものを掲示していた。昔の生活用具を取り上げて説明を聞いたことを記録したり、きれいな丁寧な絵を書き、文字を書いて、こういうものを見せてもらったことへの感謝の思いもにじみ出しながら、すばらしいものができていた。温故知新という言葉があるが、故きを温ねて新しきを知るというのは私たちが次の時代を切り開いていくための大きな要素だと思う。そういう意味では、この陳情が提起した課題は大変有意義なものがあると思うが、この段階で結論を出せということであれば、まことに残念だが、建物の存続を含む陳情には賛同いたしがたく、断腸の思いで反対の討論とする。
○竹腰早苗委員長 他に討論はないか。(「進行」と呼ぶ者あり)
 ないので、以上をもって討論を終結する。
 これより採決に入る。
 陳情第2号津久井郷土資料室の早期再開を求めることについては、採択することに賛成の委員の起立を求める。
   〔賛成する者なし〕
○竹腰早苗委員長 賛成なし。
 よって、陳情第2号は不採択とすべきものであると決した。
 以上で本委員会の審査は終了した。
 お諮りする。委員会審査報告書等の作成等については、委員長に一任願いたいと思うが、これに異議ないか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○竹腰早苗委員長 異議ないので、一任願う。
 以上をもって文教委員会を閉会する。
   午後7時52分 閉会


  今後の参考としよう書籍
    森屋雅幸著 「地域文化財の保存・活用コミュニテ」 発行 岩田書院 2018・2
             −山梨県の擬洋風建築を中心に−

                         
                   湖底に沈んだ村・荒川
                   政令指定都市相模原の誕生と津久井四町の消滅
                   麻溝の牛蒡(ゴボウ)まつり
                   武田久吉博士(年譜)からの写真
                 歌人、小林與次右ヱ門の生涯 ー戦後初の公選制による相模原町町長ー
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