八王子城址の霊随上人六字の名号塔について
                          作成2009・5・6
始めに
 私は、村下要助著「地下たび族が書いた生きている八王子地方の歴史」と云う本を読んで、「もしかして」と思いながら城の案内をして下さったボランテアの野原さんと「南無阿弥陀仏」と刻まれた六字の名号塔のある場所に行きました。六字の名号塔は曳橋の下を過ぎて御主殿の滝の入口にありました。筆跡から直ぐに霊随上人六字名号塔であることが分かりました。後々のために、ここまでの経緯を少し記しておきます。

霊随上人六字名号塔がどうして御主殿の滝のとなりにあるか
 昭和48年の4月末頃、村下要助さんが八王子市城山川の河川改修中に、川の中に転がっていた六字の名号塔を発見されました。
 その場所は城下の宮前地区から分かれて御霊谷戸に入る城山川左岸の辻のところで、発見された当日は今にもブルドーザで押し、穴を掘って埋めてしまう寸前だったと云います。
 困り果てた村下要助さんは新たな名号塔の移転先を探しましたがどこも断られ決まらなかったと云います。

移動時の記念写真(左より鈴木・村下・清水・小松)
 六字名号塔が城山川に転がっていた辻
 移送の当日は、城下の三光寺さんに回向をして戴き、半日がかりで御主殿の滝の入口に遷したそうです。運搬は上野町の吉村造園のユニック車で運こび、八王子城山会小松敏盛会長、郷土史研究家の清水睦敬先生と鈴木健治先生が立ち会われたそうです。また移送の記念にと名号塔の脇に沙羅双樹の木を植えられたそうですが二年後に新芽が出なくなりとうとう枯れてしまったと云います。
 名号塔が建立された「御主殿の滝」の周辺は、落城の際、御主殿にいた女性や子供、将兵たちが滝の上で自刃をし、次々と身を投じた所と伝えています。 
 近年、八王子城が落城した旧暦の6月23日を特に「落城忌」と呼び戦で亡くなった人々や牛馬の霊に対し追善のご供養が行なわれるようになりました。そうして、この六字の名号塔にもいつしか塔婆が建てられるようになりました。

  
 六字の名号塔            御主殿の滝
表面に一遍上人第五十二代 南無阿弥陀仏 他阿 花押 
裏面に天保3年3月建立とあります。
 霊随上人は、明和6(1764)年に生まれ、天保6(1835)年71歳で歿しました。その間、当麻山無量光寺(相模原市当麻)第52代他阿上人として各地に念仏を広め六字の名号塔を建立しました。名号塔は藤沢市北部から座間市、海老名市、大和市や相模原市内にもあり、中でも旧津久井郡内が圧倒的に多くなっています。相模川の以西では愛川町、厚木市にもあり、現在74基が確認されています。
 これから更に調査をしなければなりませんが武蔵国では、今のところ八王子城址に建立されている供養塔のみで大変貴重な存在となっています。
 また、この時期は、徳本上人により爆発的に念仏信仰が広まった時期,とも重なり、文化14(1817)年には八王子の大善寺にも逗留されたことから多くの老若男女が集まりました。

榎本星布と霊随上人との交流
 第五十二他阿上人は俳号を南謨と呼ぶ俳人です。南謨は猿ヶ島村(現神奈川県愛川町)の五柏園丈水から俳句を学びました。南謨は丈水が92歳で歿すると、文化7年4月に三回忌追善「遠ほととぎす」を刊行し自らも「たら葉の もとや夏経の 有ところ」と詠みました。この句集の中には「一声に魚蔵崩しほとゝとぎす」と、榎本星布の句も納められています。
 相模俳人と榎本星布との交流は更に深く、文化9年には下荻野村の俳人小林芹江が西山の山中に句碑を建立した記念俳句集「うめごよみ」に「見渡すや月に外山の花思ふ」と詠み、南謨も他阿の名で「黄鳥を聞とゝけたり春二日」と詠みました。

八王子市大義寺 榎本星布の墓 
  咲く花もちれるも阿字の自在哉
 そして、榎本星布は師でもある加舎白雄が歿した時には、津久井県の八木ほう水に序文を依頼し、寛政九(1797)年に「七とせの秋」と云う追善句集も刊行しました。
 榎本星布は享保17(1732)年、八王子本宿に一人娘として生まれました。文化11(1814)年12月に83歳で歿してから六字名号塔が天保3(1832)年3月に建立されるまで、17年の歳月が経っていますが相模俳壇との交流から八王子城落城時の秘話を榎本星布から聞いていたのかも知れません。
 また霊随上人のいた当麻山無量光寺は古くからの交通の要所として知られ市もたち、後北条の時代には北条氏から特別の保護も受けていました。こうした歴史的な背景から霊随上人も八王子城に対し特別な気持ちを抱いていたと思われます。
 名号塔が建立された天保3年、同じ頃、念仏を広め
ていた徳本上人も既にこの世にはいません。だが人々の念仏信仰は途絶えることなく、広まって行ったのです。建立の経緯はどうあるにせよ今、戦いで多くの人々や牛馬の亡くなった八王子城址に六字の名号塔が凛として建立されているのです。

今に生きる旧下御霊谷村念仏講中

   
元南無阿弥陀仏名号塔があった御霊谷戸入口の石仏  八王子市(旧下御霊村)念仏講中

 真中の地蔵菩薩像の台座の左側に「下御霊谷村念仏講中」、右側に「宝暦九巳卯歳 十月吉祥日」とありました。どのような念仏の形態か分かりませんが平成19年夏まで各家々が当番制で念仏行事を行っていたそうです。今でも石仏の前には花が手向けられ、赤い「よだれかけ」や「頭巾」がかかげてありました。   参考 御霊谷念仏帳

八王子城にまつわる伝承。
 天正18(1590)年6月23日、八王子城落城の日、城兵は討ち死にか自刃(じじん)し、婦女子や子供は御主殿わきの滝壷に身を投じました。そのためか城山川は三日の間赤い血で染まりました。この地方では小豆の煮汁でたく「あずきめし」は、血潮に染まった水で飯を炊いたという落城の時の先祖をしのぶならわしだと伝えています。
 相模原市城山町の穴川に「下馬(げば)の梅」と呼んでいる梅の木があります。八王子城、落城の時、伝令が津久井城へ向かう途中、村人に津久井城が今どうなっていつかを訪ねました。村人は「落ちましたよ」と云いました。伝令の任務をおびた武将は、落胆のあまり持っていた梅のむちを地面に刺しました。やがてそのむちが根付いて花が咲きました。逆さに咲くので逆さ梅とも呼んでいました。

取材を終えて
 石仏は道路の拡張工事や信仰が途絶えることで、その所在が忘れ去られることがあります。私もこの名号塔の本籍地に辿りつくまで相当な時間がかかりました。辿りついて嬉しかったかったことは、みな親切にして下さったことです。信仰の形態は少しづつ変化して行くものと思われますが、念仏信仰の根底にあるものはこうした親切さではないでしょうか。私は心地よい雰囲気の中でこの取材を終えることができました。ありがとうございました。

 参考資料
八王子城山 創刊号 発行八王子城山会 会長小松敏盛 昭和59年7月21日(旧暦6月23日)
地下たび族が書いた生きている八王子地方の歴史 村下要助著 発行 昭和59年5月
わが町の歴史 八王子 村上直、沼謙吉他 文一総合出版 発行 昭和54年11月
厚木市史 近世資料編(3)文化文芸  厚木市 発行 平成15年11月
多摩文化 第4号 多摩文化研究会 発行 昭和35年4月
  女流俳人松原庵 榎本星布の面影 羽島六郎
屋根のない博物館HP http://yanenonaihakubutukan.net/2/reizui.html


          相模原市・当麻の風土 
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