湖底に沈んだ村 −水没するわがふるさと沼本部落を語るー 撮影 2009・6・16 水没前の沼本地区 昭和30年代 昭和36年の秋、住みなれた古里をあとに、新天地へ向け移住が始まりました。経緯につきましては「津久井湖・城山ダムの歴史」の項で述べて来ましたが、あれから50年の歳月が経とうとしています。 津久井湖は今や神奈川県民のなくてはならない水がめとして日常の生活に不可欠な存在となっています。50年と云う歳月は余りにも長く、当時の記憶が人々から消え去ろうとしています。 それはそれで良いのかも知れませんが、日常の現実が多くの犠牲の中から生まれていることを、後々の人々のためにも伝えておきたいと、そんな思いにかられています。幸い、当時の記録が「筑井文化 第四号 −特集(水没地)民俗編−」に収録され、またその当時の皆さまから収録したお話が「津久井の昔話 第2号」の中に収められてありました。 資料 「水没するわがふるさと沼本部落を語る」 平井 正敏 城山ダムの建設によって、相模湖町大字寸沢嵐の沼本部落は、その大部分が湖底に没する運命に陥り、既に水没地区にあるものは、各所に移住を終わっている。たとえ建築物はなくなっても、地形だけは昔のままの姿を目のあたりに見ることが出来得る今のうちに、この沼本部落について語るのも、まんざら無駄なことでもあるまい。 沼本部落は、相模川とその支流の道志川との合流点にある部落で、戸数は今では六十戸余りにもなっていたが上の坂にある庚申塔によると、延宝七年には二十八戸あったことがわかり、永禄から元禄の頃は当時の共有山所有者の数によると三十八戸となり、近年まで大した増減はなかったのである。 (前略) この部落は、上の坂(うえのさか)・川端(かわばた)・久保(くぼ)・沼中(ぬまなか)・上平(うわだいら)の五区に分かれていて、中央に寺山・丸山の二つのボッチ(勃地)がある。この中で水没するのは、川端・久保・沼中の三地区である。 寺山には津久井三十三番札所の内第十三番朝光山宝珠庵があったが、今は上平にある湯灌堂内にうつっている。この寺昔鎌倉時代にはナカ(大神田亨)とカシャ(大神田喜市)の間の白山様のある場所にあったもので、若柳宝福寺の隠居寺であった。寺山の上には一戸で使うくらいの水が出ていた。この部落は、宝珠庵檀家と宝福寺檀家とに分かれている。 丸山にはクボ(遠藤大和)の墓所がある。 同家所蔵の古文書「神祇宮社建立修覆遷宮鑑記」によると、同家は青山村牛頭天王・若柳村諏訪神社・増原稲荷神社・反畑の富士浅間権現神社の神主遠藤讃岐守の後裔で文化四年の「相州津久井県中鑑」には、 御除地一石四斗五升五合 若柳村遠藤讃岐守 御除地一斗四升五合 寸沢嵐村宝珠庵 とある。尚、遠藤家所蔵の古文書は、 A 神祇祭祀関係 37点 B 神社神主関係 68点 C 社会経済関係 29点 D その他 2点 計 136点 あって、その中で「大工系図秘伝之巻」の一巻は、特に興味深いものである。 永禄から元禄に至る頃の沼本には、稲荷大明神を祀るもの八戸、白山権現神社三戸、月天宮一戸、山神一戸、山王大権現四戸、富士浅間神社一戸とあるが、一族何戸かで一つの神を祀るのもあったので、全戸数は三十八戸であったことが同家の文書でうかがわれる。 又、同家の後方にイボがとれるように願掛けをする地蔵がある。この地蔵に祈って治ればお礼として豆俵をあげる。豆俵といっても実はイボの数だけの生大豆を糸にとおして、地蔵の首に掛けるのである。この地蔵は石仏によくあるように、首が欠けていてセメントで造った怪しげな首がつけてある。台石には正面には正面に「子安地蔵尊、延享四巳卯七月吉日」向かって右側に「相州津久井軒沼本村」左側に「施主大神田氏 重左ェ門」の文字が刻まれている。これは今は寸沢嵐浅間森に移転した同家の墓地へ遷されている。 鎌倉街道の現存している寸沢嵐から東方に向かって少し下ると、右側にトネクボ(和田綱吉ー苗木商)左側にミヤジ(遠藤静治ー農業)の二戸がある。トネクボの意味は前述の通りであり、ミヤジは宮地で現在若柳にある諏訪大明神が祀られていたといわれる所で、ある時一人の武士が通りかかり、道をたずねたところ、折柄神主は祝詞をあげていたので、これに答えることが出来なかった。すると武士は大いに怒って神主の足首に切りつけ神主はそのために死んでしまった。ところがそれからこのミヤジには神主の祟りがあるので、同家には今もその神主を地の神として祀ってあると言い伝えられている。 それから少し行った所がウエノサカ(和田市太郎・井上良造・平井伝吉ーいずれも農業、菊爺いー菓子・頭屋)で、この丁字路に文化三年に遠州浜松城城下住人佐兵衛という人が建てた道標があるが、上部がひどく壊れていて、左方は「高尾道」らしいが、右方は「・・山道」とあるから、多分「大山道」かも知れない。中央には大きく「南無地蔵大菩薩」と刻まれている。 この碑より少し下がった所に右へ上がる道がある。これは沼本部落の鎮守山王権現への女坂ともいうべきもので、その上がり口に延宝七年の庚申塔がある。更に下り右側の百十五段の急な石段を登ると山王権現社で、これは昔は寺山にあったのであるが、寺の前の方にお宮があるのはおかしいというので、近年になってことに遷したのである。
川端の太郎兵衛(平井八百蔵ー農業)、大谷(オキヨバアーここは元寸沢嵐村の名主で、寸沢嵐部落の江藤与次右衛門のあとで名主になった家)、タカーラ(井上太七−糸商)、ドーザー(井上嘉助ー糸商)、キンバン(代々大工)、オサキ(井上寿雄ー高瀬船所有)、オサキザカ(平井助左衛門ー代々寸沢嵐村役場書記)、ヒガシ(井草十太郎ー農漁業)(井草吉太郎ー農業)、クボ(遠藤大和ー農業・元神主)、メイ(遠藤文重ー馬方)、セド(平井杢太郎ー農業・製材工)、オキニシ(大神田孫一−漁業他)、ナカ(大神田亨ー農業・村長・町長)、ニシノシタ(大神田乾一−農業・製材工)、カシヤ(大神田喜市ー織物業大正の初期に紅梅織を製造)、カジャガワ岸文一の後を次ぎ(大神田逸作ー撚糸業ーカシャの弟)(遠藤新作ー漁業他)、組合水車・共同乾万所、ヌマ(遠藤里哉ー農業・製材工)天神宮、ウエ(遠藤丑蔵ー農業)(遠藤道太郎ー馬喰)、オサヤ(平井勝五郎ー農業)、カジヤ(井上啓助ー農業)、タタミヤ(平井亀平ーウナギ取名人・先代畳職)、オモテ(井上次郎ー農業、弟正二は甲武線豊田駅を振出しに、次代に昇進して、遂に新宿駅長にまでなった立志伝中の人で、父君歌之は能筆家であった。) 以上で寺山・丸山を中心として、川端・久保・沼中の三地区を一周したことになる。 相模川を距した対岸の旧三沢村川井には、我国で様式水道の創始といわれる横浜水道取水口の旧跡があり、今もその記念碑と当時のレンガ積みの煙突が残っている。この所を沼本ではカワエーメー(川井前)と呼んでいる。以前ここに岸野姓の三戸があったという。 又、ここに昔は川通改所が置かれ、川を上下する船舶の手形(船手形)をあらためたとの話もある。当時は、この相模川の船舶の往来は盛んなものであって国鉄中央線の開通までは相模川は、今から考えると、実に想像以上肝要な役割を果たしていたもので、先年相模ダム建設により、相模原市大島に移住した船大工井上新七所蔵の「横浜水道取水口工事作業日誌」によれば、山梨県上野原町鶴川から、石炭を運んだことなどが記述されていく、その当時の状況を詳しく知ることが出来る。 本流相模川と支流道志川の合流点には、オンダシ・カマの淵があり、道志川を遡って落合の渡し・馬糞淵・中岩・一間胴突・坊主岩・下マキ・上マキ・ドーザー下・ヤブ車下(今のオカヤの下)・大瀬などの名称がある。 秋ともなれば、この大瀬にヤナ(杉丸太と青竹を藤蔓で編んだもの)をかけて下り鮎を捕ったものである。このヤナに関係あるものとしては、大瀬から対岸三ヶ木に登るヤナ坂があり、同地原開戸にはヤナ道というのがある。尚、大瀬戸(大背戸か)の小野沢家所蔵の「ヤナ人足帳」などは大いに参考になるものと思われる。 それから道志橋の下の下河童、橋より上の上河童・大曲りがあり、道志橋を渡って三ヶ木の道志部落にウエモジイ車(右衛門爺ーこの水車では付近の者の仕事だけをした)道志製材所・三太車(青木茂著「三太物語」の主人公三太で有名)製糸場・六兵衛(精穀業で原料を仕入れ、その製品を広く販売した)三太旅館(神保敏雄ー「三太物語」に出る仙爺の家)その他があり、大六天下の水道橋の下方には曾て河口に向かって道志川発電所という小さな発電所があったことがある。 ここから引き返して沼本に戻り、坂道を登ると上平(うわだいら)となり、ケート(沼崎源次郎ー農業)の南横を登って寸沢嵐の反畑(そりばたけ)に至る道を「信玄道」といい、三増合戦の際甲州軍が引きあげた道といわれている。) 上平にはウエ(沼崎角太郎ー農業・沼崎家の本家)(沼崎政之助ー農業)、セド(大谷六兵衛ー農業)、カミ(井草福蔵ー農業)、カジヤ(和田愛之助ー農業・道路監守長)、マエ(大谷三吉ー農業・村役場書記・村助役)、ニイヤ(大谷仙次郎ー農業・沼本に耕地整理組合を設け、現在のような肥沃な田圃にした偉大なる功労者)などがあったのであるが、明治三十何年かに今の県道が通じてから、その両側に沼崎又治(土木請負業・温泉旅館内郷館)、大谷兼吉(大谷三吉の弟ー農業・村役場収入役・村助役)、遠藤みつ(雑貨商・売薬商)、石渡清吉(理髪業)、井草幸治(雑貨商)、平井融次郎(坂下から移住した家畜商)、遠藤進(遠藤大和の両親の隠居場)、沼本青年倶楽部等が出来た。 これで沼本部落を一廻りしたことになる。落合の渡しに使われた渡船は巾三尺、長さ二十四尺、馬船は巾六尺長さ三十尺の平たいもので、普通は馬三疋は乗れたが、水が多ければ四疋が荷物をつけたまま、馬方と共に乗ることが出来、船頭は表へ一人トモへ二人ついた。洪水の時には船は陸へ引きあげるか、河岸の立木へつないだ。冬季は橋を架け、その材料は三ヶ木と両方で出し合った。船賃・橋銭は当番の日当となり、一日二,三十銭になった。
沼本ではこの船を、釜の淵から落ち合いの渡しに向かって、右側に榎の大木があって、この榎に鋼を張り、これにつないで置いた。一間胴突の沼本寄りの所は材木置場で、ここで筏を組み、中継ぎ場の荒川まで運んだ。筏乗りは三間の舵棒を使い、木場に筏を着けると、舵棒は取りはずしてから持ち帰ったが、後には六尺程の先端の方だけのものにして、これに適当の丸太をとりつけ、帰路はその部分だけをかつぐという簡便法をとった。 このような仕事が、沼本の生計を支えて来たものであって、沼本では主に農業に専念し、次男以下は山仕事・川仕事などを兼業とした。それであるから沼本では、どこの家でも舟と馬は持っていた程、重要なものであった。それで渡船をしていた平井国太郎の宅地が大字寸沢嵐の一番地であるのも、偶然とはいえ、興味あることである。 そんなわけであるから、昔は川祭りや川施餓鬼の行事が盛んに行われたというのも、当然なことであろう。 兎に角、一時は貨物の集散地として栄えた沼本部落も県道が上平の方を通り、道志橋が架けられてからは、落合の渡しは廃止同様になり、渡船による収入の途は絶たれ、通行人相手の茶店も飯食店も、経営不振に陥り、それまで、川を流して来た材木も、道路の整理につれて、陸で運ぶようになったので、わずかに漁業にたよる他ない有様となったのである。 今や沼本部落の大半は、相模原市・城山町その他への移住を終わったのである。私もここ沼本をふるさととするものの一人として、これ等の人々の弥栄を祈ってやまない。 (鈴木重光先生の助言、指導を受けて執筆) 文章表現に不適切な部分がありますが、当時の歴史的な資料として抄録させて戴きました。 開田前の土地の利用状況 (昭和13年以前の土地利用図・部分) ↓この道を下る ↑旧道志橋からの県道 ↑渡船場へ 開田時の土地の利用状況 (昭和17年以降の土地利用図・部分)
手前の山が丸山 後方が寺山 旧道志橋と青色アーチ橋が現在の道志橋 ↑開田碑(長方体) 屋敷跡の石垣 旧横浜水道跡 道志川・灌漑用水取水口の遠景 沼本地区への灌漑用水取水口跡
対岸からホースをワイヤーロープにからめ飲料水を受水する受水漕、現在は非常用として使用されていました。 受水漕 湧水を利用してほたるの里づくりが行われています。 まとめの途中で 宵待の日をまとめる予定で沼本のことを調べ始めましたが終わりがなくなってしまった。これではしょうがないので少し稿を起こしました。地籍図から開田の前後を色で表示して見ました。集落の中央に小高くなっている寺山(東側)と丸山(西側)には緑を塗って山を表現しました。開田前はほとんどが畑で、わずかに水田があったのは湧水おあるところで、そこには水色を塗ってみました。水田の水は道志川を利用し、今の県道が通る台地の下に専用のトンネルを掘って導水しました。受水口には今でも石垣の跡があり見ることができますが、導水トンネルを出た取水口は埋まってしまい分からなくなってしまいました。 現在、沼本地区の人々は台上と道志橋の下側に分散されて住まわれていますが、その殆んどが遠く故郷を離れています。 「水没するわがふるさと沼本部落を語る」をお書きになった平井正敏様は故人となられていますが、ご遺族のご厚意でHPに掲載することができました。そのご厚意に対しあらためて感謝申し上げます。 ダムの建設が決定し、これまで暮らしてきた大切な土地を離れ早いもので50年が過ぎ去ろうとしています。当時のことを知る人も残念ながらだんだん少なくなってしまいました。かけがいのない故郷の記憶を少しでもまとめたいと、まだまだ未完成ですが取材を続けて行きたいと考えています。 日本民俗学の古里・旧内郷村水田地帯を行く 湖底に沈んだ村・荒川 「相模川・城山ダム水没地域の植物調査」からー調査に携わった人々 宵待の日 戻る |