柴田常恵著
 「松浦武四郎翁の蝦夷土産道中双六に就て」
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2020・4・27 作成
はじめに
 子どもの頃、お正月になると、タコ上げをしたり、コマを回したり、そして、双六もしたりと懐かしく思い出す。双六は漫画本の附録とか行商の薬屋さんから貰ったような気がしている。
 私は、柴田常恵の年譜を組み立てながら、「松浦武四郎翁の蝦夷土産道中双六」の論文が出て来た時にはさすがに驚いた。それも「東京人類學會雜誌」の新年号を飾る、カラー刷り、編集者たちの気持ちがそのまま伝わって来てなんだか嬉しくなった。
 松浦武四郎は他にも菅公の「聖跡二十五霊社順拝双六」図があり、遊びながらでしようか、その土地々の名所旧跡や産物等の絵もあり知らず知らず覚えてしまう仕掛けになっているようだ。
 三月以降、我が家もコロナ対策で外に出るのを控えています。もしも、みなさま、お時間がございましたら、懐かしい子どもの頃を思い出しながら、世界で一枚だけの双六図を作って見ては如何でしょう。
 題材は家族の日常のことだとか、食べ物とか、少し町の歴史等も入れて普段見慣れた散歩道も思い出しながら、きっと楽しい双六図が出来るかも知れません。

柴田常恵、「双六図」掲載までの主な経緯
元治元年(1864)、松浦武四郎が「蝦夷土産道中双六」を作成する。

明治43年(1910)7月、柳田國男(36才)が柴田常恵(33才)の紹介で東京人類学会に入会する。
同年     10月、石田収蔵が「東京人類學會雜誌 26巻 295号」に「北海道アイヌ雜事」を発表する。
同年     11月、柳田國男が「東京人類學會雜誌 26巻 296号 に「アイヌの家の形」を発表する。
明治44年(1911)5月、南葵文庫において松浦武四郎翁作成の「蝦夷土産道中双六」図が展示される。
同年、柴田常恵は松浦孫太氏からの快諾を得て、南葵文庫所に保管されていた版木を借受し、「蝦夷土産道中双六図」を印刷する。
明治45年(1912)1月、柴田常恵が「人類學會雜誌28巻1号」に「松浦武四郡翁の蝦夷土産道中双六に就て」を発表する。

「「松浦武四郡翁の蝦夷土産道中双六に就て  柴田常恵字)」 
巻首に挿入せし蝦夷土産道中双六は明冶二十―年に七十一歳を以て物故せし松浦武四郎翁が元治元年即ち今より四十八年前に作られしものにて、考案繪畫共に之を自らし、以て知友の間に頒たれしものなれば、固より廣く發賣するには至らざりしなり。昨年五月舊紀州侯徳川侯爵の經営に屬する南葵文庫に於て地理に關する圖書の特別展覧の擧なりし際、此双六の下繪の列品中に存するを一覧し、北海道の事情に通曉せる翁が實践の結果に成る所にして、兒戯の一具に過ぎざるが如きものなれど、當時の所謂蝦夷地の事情を知る上に於て最も趣味ある資料たるのみならず、翁が廣く北海道の事を世に紹介せんとするに力められし、苦心の程も窺ひ知るべきものなるを覚えたりき。今回その下繪を寓眞版として本誌に挿入せんとし、之を同文庫に在勤せらるゝ會員高木文二郎氏に計りしに、當時印刷に附せし版木が翁の後なる松浦孫太氏より文庫に寄托せらるゝものありとの事なりしかば、彩色も施され居る事とて寧ろ其方の可なるを思ひ、高木氏の斡旋を煩はし、松浦氏の快諾を得て、該版木を借受け、印刷に附して此處に口繪として挿入するに至りしなり。(略:略歴等)
       松浦武四郎の墓石の銘文 (現:染井霊園)  通曉(つうぎょう):2 ある物事についてたいへん詳しく知っていること。精通。
君諱弘、號北海、又柳田、柳湖、雲津、伊勢人也、父諱時春、稱桂介、後為僧改名慶祐、好茶事及徘句、號梅舎月菜、母中村氏、君其第四子、文政戊寅二月六日生于一志郡須川村、村在雲津川南、川源有多氣川之稱、故名多氣四郎、天資曠達、遇事不屈撓、常懐慷慨之志、幼崇釋教欲爲僧、父母不聽、年甫十三、就津藩平松健三而學、十六歳遂出家、游長崎、爲謙堂和尚徒弟、釋号文桂、無幾爲肥前平戸田助湊寶田寺住職、更徙彩引村千光寺、既而有所啓發、還郷蓄髪、專志經世、歴游四方數年、遂究蝦夷地、後来于江戸、水景山公殊寵待之、與米數口、名聲日盛、與藤田東湖、藤森大雅、吉田松陰、鷲津毅堂、小野湖山等交誼尤厚、及開港之事起、士論紛興、君齎東湖等之建言詣京師、密與縉紳謀焉、安政乙卯隷幕府赴箱館、復入蝦夷地、披荊棘相原濕、通道鑿川、遍跋渉全土、其功績不可枚擧、〔ル:しばしば〕賞賜米金、維新之初、置開拓使特擢任判官、叙従五位、專任開拓蝦夷之事、又奉命制定蝦夷之國界國名與大小郡邑區、措置悉得其宜、非有積年之經驗、安能得如此乎、明治二年三月辭職、併奉還位記、特命爲東京府士族、賜禄十五口、年老而志益壮、自和紀詣熊野之間、有七十五險阻、君毎歳登覧、新築不動堂及觀音堂、夙景慕菅公、〔ル:しばしば〕西游二十五拜之靈地、建石爲道標、又愛古器物、聚藏古錢及書畫最多、所著有蝦夷三航誌三十六巻、蝦夷沿海圖二十餘頁、蝦夷日誌數十巻、撥雲餘興三巻、娶福田氏、有子女皆夭、養加藤木o叟次子一雄爲嗣、有孫、明治廿一年二月十日病歿、年七十一、其病篤也特旨叙従五位、卒後賜祭資金貳百追賞多年開拓之功勞也、火葬于今戸正福寺、更〔エイ:うずめる〕齒骨子和州吉野郡大臺原山中名護屋谷建碑、従翁之志也、
   明治二十一年十二月  市河三兼撰并書 男松浦一雄建石 下田喜成刻

                            注 墓石銘の赤字部分は再確認要 2020・4・27 保坂
碑文の記事は大體に於て誤謬なきも、翁が肥前にて住せし寺名を寳田寺とし、大和より熊野に赴きしは單に一回なるを毎歳跋渉せし如く記せる、著書の重要なるを省きて蝦夷沿海圖の如く數頁のものを擧げ、或は其巻數に相違あるが如き、また墓は淺草の稱福寺にして正福寺にあらざるの類は訂正し置くべき事なりとす。翁の事蹟は以上に依りて畧ぼ其一斑を盡せしと思へば、更に口繪として挿入せし蝦夷土産道中双六の地名に就き、多少現今と其名稱を異にする處あれば、故永田方正氏の北海道地名解、バチェラー氏のアイヌ語辭典等に依りて、簡單ながら畧説を附し置く事と爲すべし。
No  各双六図の内容(一部畧あり注意)    :会所・運上屋     泊り所・番屋

振出しの箱館は云ふまでもなく今の函館なり。地形の箱に似たるより名くと云へるも、ハクチャシなるアイヌ語より來りしとも云ふ。然れども此の地の舊名は、ウショロケシ(灣内の西の意)にて臼岸と書きしとのことなり。

函館湊 松前エ 廿五リ
トウヘツ(
当別) 知内(シリウチ) 福シマ(福島)
一をふり 黒松内ごへ新道 ヲタスツ
(歌棄)に出る
(略)
ナンフ山 ツキシマ  ナナヘハマ


松前は今の渡島松前郡福山町にして、維新前には松前氏の居城にして蝦夷全島の首府たり。其名は邦語に基く如くなれど諏訪大明神繪詞上巻に奥羽の東北に萬當宇滿伊丈なる小島の存する事を記せるが、松前の名の古く内地人に知られしものにあらざるか、地名解には即ち其原名をマトマイとしマッオマイ(婦女居る處)の轉と爲せり。

松前城下 エサシ十八リ
  エラ町
  石サキ(崎)  汐フキ(吹)
  (略)  


江刺は今の渡島檜山郡江差町なり、維新前には松前三箇の津に數えられし所、アイヌ語工サシは浪の響即ち岬の義、或は海藻の義にして、之れより來りし名なり。

江刺  九リ
 乙部
(おとべ)
 (略)



熊石は渡島爾志郡の西北端に在りて、直に久遠郡に接す、維新前には此地に關所を設けて、内地人との界と爲せり。アイヌ語クマゥシ(魚乾竿ある處の義)より轉せしものなりと。

熊石 八リ
 クトウ(久遠)

 蝦夷地の界 切手を忘れとりにもどる

関所:


大田山は後志久遠郡太田村に在り、其山低けれど古來霊境として尊信せられ、山上に佛堂ありと云ふ。此地の古名はモオタにて小濱の義なるを内地人訛りて大田と發言するに至りしものなりと。併しオタサンには海岸の義もあるなり。

大田山(おおたさん) 三リ

 泊り宿なし 案内◎出し フトロ
(太櫓)まで行


プトロは今の後志太櫓郡太魯村なり。古名はキリキリにて沙上を歩めばキリキリと音する意なるが、プトロは其東方の河名より來りしものにて石川の義なりと。

フトロ(太櫓) 十三リ半
 セタナイ(瀬棚)  スツキ(須築)

 するめ 名物也
(なり) 
 


島古巻は後志島牧郡の地、アイヌ語シュマコマキにして岩石の後背の義なりと。

島古巻(しまこまき) 八リ
 スツヽ

 雑魚
(ざこ)多し
 


ウタシツは古く歌壽都とも書す、今の後志歌棄郡に在り、オタシュツ(沙傍の義)を訛りしものなりと。

ウタシツ(歌棄) 九リ
 イソヤ(磯谷)
 
 新道 橋せん イソヤの川せん
 (略) 


岩内は後志岩内郡岩内町なり、イヤウナイ(熊肉を乾す澤の義)より轉ぜしとも、イオナイ(輕石多き川の義)よウなウとも、イワウナ(琉黄川の義)なりとも云ふ。

岩内(いわない) 十五リ 廿丁 
 ヨイチ江新道有
(え しんどうあり)
 此所へ来らば 一ツ飛越
(とびこえ) ヨイチより数ふ(かぞう)
 新たら
(鱈)の名物

 
フルウ(古宇)
10


シャコ丹は後志積丹郡入舸村の地、積丹は總名にして本來の名はクッタラシと云ふ、此地春期に鯡(にしん)漁の盛なるのみならず、夏期にも天氣晴朗にして鮑、海鼠等の漁獲多きよりシャクコタン(夏塲所の義)と云ふとも、夏日の鱒の場所の義にてサクベコタンと云ひしより轉ぜしとも云ふ。

シヤコ丹 十一リ半
 ヲカムイ樣 神霊著し

ビクニ(美国)  フルビラ(古平)
 ヲカムイ樣
11


與市は後志余市郡余市町なり、イウオチ(温泉ある義)の轉と解するものあれど、イオチより來りしものにて蛇の多く居る處の義なりと。

與市 十三リ
 
ヲシヨロ(忍路)  タカシマ(高島)

 此所にしん
(鰊) 風味よろし
12


ヲタル内は今の小樽港の地、原名はオタナイにて砂川の義なるを轉ぜしものなり、オタルを沙路の義と解せるは當らずと云ふ。

ヲタル内  九リ
 セニハコ
(銭函)
 
(略)
13


石狩は今の石狩川の河口なる石狩町の地。此邊河流の屈曲甚しきより回流川の義にてイシカラペッと呼べるに基く。

石狩(いしかり) 二十り
 アツタ
(厚田) ハマ丶シケ(浜益)
 夷地第一の大川 近比
(ちかごろ)船ちんをとる◎
14


増毛は天鹽の増毛港の地、舊名はポロモイ(大灣の義)なりしが、其地漁獲の特に夥しきよリマシュキニ(剰多の義)と稱せしを訛りて増毛と稱するに至れりと。

増毛(ましけ)  五り

(あわび) いりこ 名物
15


ル丶モッへは天鹽の留萌川の河口なる留萌港なり、ルルは潮水、モは静、ぺは水にしてル丶モッペ即ち静なる潮水の義よめ來りし名。

ル丶モッへ  十り半
 △ヲニシカ
(鬼鹿)

此辺
(このあたり)より 次立馬(つぎ たてうま)を 出す

立馬:
16


蓬前は天鹽の苫前村の地なり、舊名はエンルンヲマムイにて岬にある澗の義と云ひ、蓬前はトマオマナイ(延胡索ある澤の義)より來りし名なりと。

蓬前(とままえ)   十四リ 廿二丁
 △フウレヘツ
(風連別)  

 テウレ
(天売) ヤキシリ(焼尻)山 見ゆる  あつし(アットウシ)の名物
17


手鹽は天鹽川の下流なる天鹽村の地にしてテシュオペッ(簗の川の義)より來りし名。

天塩(てしお)  廿五り 大川あり
 ワツカシヤクナイ(稚咲内)  ハツカイ(抜海)

 こんぶ 名物

18


宗谷は北見の宗谷港にして北海道の北端にして樺太と相對す、舊名はウェントマリ(悪泊の義)なるを改めしものにて、宗谷はソーヤ或はショヤに基き、並に岩處の義なりと云ふ。双六にては此處まで北海道の西海岸を北進せしが、此處に泊りしものは利尻島に渡りて樺太に到り、歸りてエサシに行く事と爲しあり。

宗谷(そうや)   廿四り
 △チエトマイ  サルフツ(猿払)  シヤウナイ(斜内)
 此所
(このところ)へ泊(とま)らばカラフト(樺太)を見物すべし
19


リイシリは利尻島なり、リイは高き處、シリは陸地の義にして此島に高山あるを以て名けしものなり。

リイシリ(利尻)     北エゾ江十八リ
 加藤清正 ヲランカイより此(この)山を
 ふし
(富士)と見たてる 言傳ふ(いいつた)
 れふんしり
(礼文)  りいしり(利尻)
20


北蝦夷地は即ち樺太なり。

北蝦夷地(きたえぞち)
 ヲロツコ  タライカ 三旦人等交易(こうえき)に来(きた)
 一 六 を ふりて 上る

 ヲロッコ  タライカ:樺太中部の地名   三旦人
21
クナシリは千島の國後島なり、キナシリの轉訛にしてキナは草の總稱、シリは島にして即ち草島の義なりと。

クナシリ(国後) 

 エトロフ江海上凡
(およそ)百リ 名代(なだい)の彫物(ほりもの)あり 
22


エトロフは千島の擇捉島なり、エトロは鼻、フは處の義にして此地に人の鼻を垂るゝ如き岩あるに依りて名くと。

エトロフ(択捉)
 爰江来(ここへきた)らば越年(えつねん)に附(つき) 一廻(ひとまわ)り休(やすみ)かへる

 ウルップ
(得無)島見ゆる

23


エサシは今の北見枝幸郡の地にして北海道の北海岸にあり渡島の江差と同じく昆布の義にして礁上に昆布の存せし故に名くと云ひ、また岬の義より來りしとも云ふ。双六にては宗谷より利尻、樺太に赴かざる場合は直に此枝幸に來ることに爲り居れり。

△ヱサシ(枝幸)
 △チカブトムシ  △ホロナイ(幌内)  △サワキ(沢木)
 大なるふき有 雨ふりには是をかぶる
24


絞別は北見の絞別郡の地にして枝幸の東南に當る、名稱はモペッより來り静川の義なり、流水静穏にして古來疫疾戰争等の事なき平和郷なるより名くと。

紋別(もんべつ)  卅三リ半
 △ユウへツ(湧別)  トコロ(常呂)  アハシリ(網走)
 大なる比目魚
(ひらめ)あり ウヘウと云(いう)

 
ウベウ:
25


舎利は今の北見斜里郡に在り、更に絞別の東南に當れる海濱なり、舊名はサルンベッ(茅多き川の義)にしてシヤリは濕澤の義と云ひ、或はサルイの約にして開きたる所の義なりと云ふ。

舎利(しゃり)   四十二リ半
 カムイノミ  ワツカウイ  チライワタラ  シベツ
(標津)  ノツケ(野付)
 鷲の羽  名物 
26


根諸は今の根室港の地にして枝幸より知床半島を迂廻して北海道の東海岸なる此虎に來るなり、而して双六ハにては此庭に泊りし場合は其束北に連連續して横はれる千島の國後、澤捉に赴くことゝ爲せり。モロの名義はニムオロの約にして樹木の繁茂せる義より名けしものなり。

根諸(ねもろ)     廿八リ半  
 此所
(このところ)(ヘ)泊(とま)らば クナシリ(国後) ベトロフ(択捉)を見物すべし
 アツウシへツ
(厚牛別)  ノコへリへツ
27













































アッケシは今の釧路の厚岸なり、原名はアッケシュトーにして楡の下の沼の義、楡の木多くして其皮を沼に浸せし故に名くと云ひ、或はアッケシは牡蠣の揚所の義にて其産すること多きよりとも云ふ。

アッケシ(厚岩) 十六り
 △センホウシ(仙鳳趾)  コンフイ(昆布森) 

 一尺ヨの牡蛎
(かき)あり 大コクシマ(黒島)

参考明治43年10月、石田収蔵が「東京人類學會雜誌 26巻 295号」に発表した
            「
北海道アイヌ雜事(部分)」の論文より。
 石田収蔵が撮影した、北海道平取村のアイヌの旧宅と物置写真
 
 (一)北海道アイヌの住宅        (二)北海道アイヌの物置 撮影者 石田収蔵
「北海道アイヌ雑事」の中で、石田収藏が寄せた巻首の寫眞版の事についての説明文
 
巻首の寫眞版は、平取村に於ける土人の住宅と物置とであります、平取村は北海道に於ける土人部落の中で屈指の大部落でありますけれど、現時は以前に比ぶると、餘程衰頽し、且つ凡ての點に於て甚だしく相違してゐるといふのは、これ畢况邦人雑居の結果に外ならぬのであります、(一)(二)ともに、比輕的多く古風を存してゐるのを擇んだのでありますが、これによりて、北海道土人に特有なる風習の一端をうかがふことは出来まするなら、小生にとりて此上なき事で御座います。
 この石田収蔵の問いかけに、柳田國男が早速反応し、次号「東京人類學雑誌25巻296号 11月号」に「アイヌの家の形」と云う論文を書き残しました。柳田國男が「東京人類學雑誌」に発表した記念すべき最初の論文です。
         
「明治43年10月、東京人類學雑誌26 巻 295号 北海道アイヌ雜事」より 
アイヌの家の形(全文) 柳田國男―
 前號日高の平取のアイヌ家屋の寫眞を見て心付きたる事あり、北海道にては此の如く形式の純を保てるは稀に既なるべきも、樺太アイヌの家には昔風の建築多く、自分は其二三を見て之を記臆せり、思ふに其特色は左の點に在るならん、然るに昨年九月羽前板谷峠の五色温泉に遊びしに、温泉宿の東に接して立てる小さき空屋あり、外形正しく右のアイヌの家と同じかりしかば、奇異の思を爲せり、内を覗きしに板床を(イ)の部に張り櫨は中央にありしやうに見えたり。又同年六月に越中下新川郡三日市町を過ぎしに、民家の過半は右のアイヌの家と全然同形式なり、唯(イ)の根屋は茅にて葺き(ロ)の部分は瓦にして、且つ(ロ)の部分稍大きく其半分を入口の土間とし他の半分は床にて疊敷けり,―棟の家にて茅と瓦とが抱き合へる珍しきものなれば、旅人は必ず注意せしなるべく、叉多くの家が皆同様なれば決して氣まぐれには非ざるべし、此邊には稍廣く行はるゝ形なるが如し、夫より西の方富山附近は東京風の新築もあり、又板葺切妻の木曾風の家も飛騨方面より普及し居れる故聯絡を認むる能はさりしも、加賀及越前東部の田含家の形は亦三日市のものと相似たる點あり、即ち右の如く全部茅葺又は藁葺なれど、入口は常に長方形の短き一面に在り、入口の片方又は双方は戸の外に土間あり屋根の前方には破風の窓ありて後方には無き點は三日市の家と似たり、但し内部に於ける爐の地位は知らず又精確なる割合も知らざれば報告として不十分なれど、兎に角太平洋岸の諸國にては殆ど見る能はざる形式也、」櫨が家の中央に在りて、北國の家とは反對に間口の廣く奥行の極めて淺き家にても、長方形の短き一面を入口の方に向け居る例は日向の那須に於て之を見たり、爐邊の坐席にも動かすべからざる規則あることアイヌの家と同じ、此は必しも那須の山村には限らぬことなれども、那須(イ)は横坐と云ひ、(ロ)は客室と云ひ、(ハ)は越中五箇山などにては嬶坐〔かかざ〕と云ひ、(二)は津輕にてはキシモトと云ふにては爐が入口の正面なる家の中心に在り、且つ横坐即ち主人の坐の背後に武器其他大事の品物を飾り置く點、著しくアイヌに似たりと思ヘり、宇治拾遺物語の瘤取(こぶとり)の話に横坐の鬼と云ふことあり.即ち鬼の頭梁なり、古く且つ廣く行はれたる風なれば却つてアイヌの方が似て居るのかも知れず。 (十一月十五日)
28


久摺は今の釧路港にして古くは久壽里とも書す、原名はクッチャロ(咽喉の義)なるが、内地人は轉々して遂にクシロと呼ぶに至りしなり。

久摺(くすり) 卅り半
 △シラヌカ
(白糠)  シャクヘツ(尺別)  ヲホツナイ(大津) トウブイ(当縁)
 大川有
(あり) アカンと云 高山 見ゆる
 此所
(このところ)の土人(どじん) 惣(そうじ)て 山猟(さんりょう)を好む
29



イナウ(inaw, inau)
 
アイヌの祭具のひとつ。








十勝は今の大津村に屬する十勝の地、十勝アイヌの強暴を悪みて呼びたるトカプチ(幽獅フ義)より來りしとも、トーカッチ即ち沼畔の樹木枯るゝ意又はトカプチ即ち乳房の義とも云ふ。
 注:当時の歴史的資料としてそのままに掲載しました。御容赦の程お願い申し上げます、 2020.4.28 保坂

十勝(とかち) 十五り
 △サル丶
 大川有(おおかわあり) エリモ(襟裳)明神(明神)え奉(たてまつ)るべし

参考:内地・道祖神まつりのなかでの削り花

(削り花/武州秋平村秋山)・(一六花の一部/武州児玉町)
                       (十六花/武州秦村葛和田)「だいのこんごう/相州秦野町今泉」
                       武田久吉著「農村の年中行事・昭和18年12月発行」 より
30
幌泉は日高の幌泉にして襟裳岬の西岸なり、ボロエンルム即ち大岬の義より名けしものゝ轉訛なり。

幌泉(ほろいずみ)  六り
 エリモサキ
(襟裳)
 大たこ
(蛸)多し

31


シヤマニは様似と書す日高の様似郡に在り、エサマニの轉にして獺の處の義と云ふ。

シャマニ(樣似) 八り半
 □ウラカワ(浦川)

 (この)えぞは 如此弓(このごとみゆみ)にて 熊鹿等(くましかなど)をとる也(なり)
32


三石は日高の三石郡三石村なり、原名のエマニッゥシを略して内地人の三石と稱するに至りしと云ひ、或は其地に三石の存ずるより内地人の名けしものと云ふ。一説にミトシ即ち樺桶の義よりなりとも云へり。

三石(みついし)    十一り半
 シヅナイ(静内)  ニイカップ(新冠)
 (略)

33


沙流は日高の沙流郡佐瑠太の地にして原名はサロペッ即ちサラオペッノの急言にして茅多き川の義なり。

沙流(さる)   八リ半
 義經大明神の社
 ◎
34


ユフブツは膽振の勇彿郡なる苫小牧に屬する勇彿の地なり、エープッ即ち温泉川口の義より起りし名。

ユフフツ(勇払)    廿二り
 白老
(しらおい)   ほろべつ

 チトセ
(千歳)新道(しんどう) 見物(けんぶつ)の爲(ため) 一廻(ひとまわ)り休(やすむ)
35


モロランは今の室蘭港にしてモルエランホツユエウシ即ち小坂を下りて舟を呼ぶの義より來りて略稱せしものなり。

モロラン(室蘭)   六リ半

 帆立貝 名物
36


ウスは膽振の有珠郡に屬する有珠村なり、ウショロ(灣の義)より轉せし名なり。

ウス   十三リ
 □アフタ(虻田)   △レフンケ(礼文華)
 臼山
(うすざん) つねに もゆる

 レフンケ(礼文華):
37


ヲシヤマンベは膽振山越郡なる長萬部村なり、オシヤマンベは比目魚の義より來りし名。

ヲシャンマンベ(長万部)  九り
 新道見物 一廻り休む  土人好
(どじんこのみ)で 百姓(ひゃくしょう)を する
 シリヘツ
(後方羊蹄)
38


山越内は山越郡に屬して今は八雲村の一部と爲る、ヤマクシュナィ即ち栗殼の澤の義とも栗を拾ふ爲に通る澤の義とも云ふ。

山越内     ハコタテ(函館)江十八り半
 わしの
(鷲ノ)木   大の(野)
 是
(これ)よりをシャチモチ(和人地)と云也(いうなり)
39


此處に至うて双六は函館を發して西海岸を廻りて北端の宗谷に赴き、樺太に渡り後ち引返へして北海岸より東海岸の根室に到り、千島に渡りて更に厚岸より順次南面の海濱を西方に進み、遂に一周して函館に歸着して終はる事と爲り居るなり。

(あが)
 (おく)ふかき 千島(ちしま)のはても 
   二十一ツ ふりて見玉え 蝦夷
(えぞ)しらぬ人

尚ほ圖書及び文宇の示せる事項に就きて一々読明せば餘りに冗長に流るゝを以て今は單に地名の略説のみに止むる事とせり。
おわりに
 本当は、松浦武四郎が選んだ三十九箇所の、全ての解説が出来ればよいのですが、徐々に進めて行く予定でおります。柴田常恵の文章から、南葵文庫の性格を理解することができました。双六図は元治元年に作られたとあり、海には多くの和船や外国船が停泊していた状況が分かります。大きなタコや紋別での魚はヒラメでしょうか。二十三番ヱサシで、かぶっているのは、大きなフキですね。
 松浦武四郎は、最後の「上り」の項で「(おく)ふかき 千島(ちしま)のはても 二十一ツ ふりて見玉え 蝦夷(えぞ)しらぬ人と結びました。明治と云う時代を目前にしながら、余りにも人々は蝦夷地のことを『知らな過ぎる』と嘆いているようにも感じました。これは私自身への自戒の念も込める。
参考書
人類学雑誌 1912 年 28 巻 1 号 p. 48-54_1 発行日: 1912/01/10
   柴田常恵著「松浦武四郡翁の蝦夷土産道中双六に就て」 PDF形式でダウンロード 
榎森進著 日本民衆の歴史 地域編8 アイヌの歴史  北海道の人びと(2)
菊池勇夫著 アイヌ民族と日本人 東アジアのなかの蝦夷地 朝日選書510 1999・12月 第4刷 発行

行動の人・最上徳内、城山来る
文化財と郷土史研究への道を開いた柴田常恵の生涯
草創期の民俗学を切り開いた山中笑(共古)の生涯
蝦夷地・場所請負制度 (付北前船)の研究史

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