午年津久井観音霊場巡り                kubosawakannondou1.html
 第五番 大正寺久保沢観音堂と第三十七番萬壽山大正寺について
                 ↓石老山                撮影 2018・7・9  

               
旧津久井町名手、東光寺の高台から眺めた寝観音山の眺望 
 はじめに
 平成27年11月27日、当時皇太子殿下であった、浩宮様が石老山にお登りになられました。陛下は公務などで中央自動車道を通る際に見える石老山への登山をかねがね希望されていたのだと云います。
 石老山の頂上までの道程には「鏡岩」、「天狗岩」、「虎伏岩」、「雷電岩」等々、また頂上には「八方岩」と多くの奇岩奇石て覆われています。その石老山は、旧津久井郡のやや中央部にあり、横浜線の橋本駅や相模原市役所の展望室からも良く見えます。
 写真の左側に宝冠を掲げ、その右側に観音様の御御足のようにも見える石老山の山容は観音様が寝ておられるようなお姿から別名を「寝観音山」とも呼んでいます。そして、その寝観音山を取り囲むかのように十二年に一度の「午年津久井観音霊場巡り」が行われ、多くの人々に信仰され続けています。
 また、もうひとつに「卯年観音霊場巡り」も重なり、第25番中沢普門寺権現堂から眺める「寝観音山」の景観は素晴らしいものがあります。この卯年観音霊場巡りは、大和市下鶴間の一番観音寺から始まり、北は町田市や八王子市にも繋がる広範囲の中にあり、霊場が武蔵と相模にまたがることから、「武相観音霊場巡り」と呼ばれています。また、文政期には、その中沢の普門寺を起点にして高尾山有喜寺迄「八十八箇所新四国霊場巡り」も行われていた時代があり、旧城山町内では普門寺、慈眼寺、三嶋明神本地堂、林泉寺、桂昌寺や原宿地蔵堂等が含まれていました。
 「午年津久井観音霊場」、第五番大正寺久保沢観音堂と第三十七番萬壽山大正寺について

 第五番 久保沢観音堂の聖観世音菩薩(御厨子内)             第三十七番 萬壽山大正寺 十一面千手千眼観世音菩薩
  第三十七番 萬壽山大正寺

智慧みがき
闇路を照らす
観世音
慈悲の眼で
救い給わん

 ちえみがき
 やみじを てらす
 かんぜおん
 じひのまなこで
 すくいたまわん


第五番 大正寺久保沢観音堂

曇りなき
月の桂の
昌寺
御影新たに
照らす 久保沢

 くもりなき
 つきのかつらの
 さかえでら
 みかげあらたに
 てらす くぼさわ
御詠歌








久保沢観音堂堂内の観音像について
 ここ久保沢観音堂内には百体の石造観音様が祀られています。西国一番から三十三番迄の33体、坂東一番から三十三番迄の33体基、秩父一番から三十四番(二十一番は2体)迄の35体、合わせて101体の観音像が祀られ、現在まで1基も欠くことなく維持されています。
 秩父札所分が35体あるのは、二十一番札所(要光山観音寺)の分が2体あるためで、どうしてそうなったかについては不明です。形状は立像、坐像、半跏像の三様を丸彫り、または浮彫にしたもので、すべて丸形または舟形の光背を付けられ彩色が施されています。また、観音像の大きさについては、特に決まりはないようで小さなものは24pから、大きなもので52pの高さになっています。観音像の像容には、聖観音をはじめ十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝(じゅんてい)観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音の七種類に認められています。各像の
   お花を手にした「秩父二十一番」の二体の観音様
   この二体の観音像は、中壇の最右側に安置されています。
造立者は個人が多く、久保沢を中心に伊勢原地域や川崎市域、東京都、はてまた埼玉県や群馬県迄もの名前が見られました。そして、その造立目的は『先祖供養』や、かつてこの地域で盛んであった『養蚕祈願』などとなっています。
 また、観音像の各最終番の裏側に刻まれた銘文によりますと、観音像は明治11(1878)年に大正寺の前身である桂昌寺の住職山本渓山和尚が発願され、明治27(1894)年4月迄に百体観音像の全てが整い101体の観音様が奉納されました。
 特に、最後の秩父三十四番観音像の裏側には「七十三翁 北原祥重彫刻と石工の名前も刻まれています。

     
      西國三十三番
      明治十一年起工
      明治二十七年成功
      仝  四月点眼
     
      発願主 渓山  補助 玄之        板東三十三番
 百観音彫刻ハ明治
 十一年ニ始マリ仝廿七年
 ニ終ワル仝年四月点
 眼 総供養ヲ執行
 ス 発願主 山本渓山
   補助 宮崎玄之">       
      秩父三十四番
      明治十一年ニ始マリ
      明治二十七年四月点眼
            発願人 渓山
            補助 玄之
      明治廿年三月十五日
          施主 舟川廣龍
      七十三翁
          北原祥重 彫刻

    西國三十三番          坂東三十三番          秩父三十四番

 そして、造立の最終日には法要が行われたことを「総供養」の文字で残しました。坂東三十三番最後の札所の裏面に刻まれた「総供養」という言葉は、一般的には「粗供養(そくよう)」と読み、明治二十七年四月の点眼法要の後、感謝を込めて粗品や返礼品の贈られたことが想像できます。
 現在、久保沢観音堂では10月の9日、19日、29日を特に『オクンチ』と呼び本寺である大正寺の住職によって読経や御詠歌等が捧げられています。また、本寺である大正寺の境内には旧桂昌寺境内にあった「百体地蔵尊」も手厚く保護され祀られています。旧桂昌寺は明治39(1906)年3月17日の火災により惜しくも消失してしまいましたが、その後、谷ヶ原にあった林泉寺と旧来からの桂昌寺とが合併され、新たな萬壽山大正寺として発足し現在に至っています。こうした御縁から「百体地蔵尊」は、旧桂昌寺の地を離れこの地に遷られました。
 
       大正寺境内に安置されている「百体地蔵尊」                    中央に安置されている延命地蔵尊

 「百体地蔵尊」の中央部には「願王」と刻まれたひときわ大きな延命地蔵尊が安置され、その地蔵尊を取り囲むかのように一直線に並ぶ19基の地蔵塔が並んでいます。百体の地蔵塔は慶応4年から明治22(1889)年まで、同じ山本渓山和尚によって発願され、実に22年の歳月をかけ完成となりました。石工は、「百体観音像」の造立者と同じ北原七兵衛祥重です。
 奉納された施主の人々は地元川尻村だけではなく相原村、大戸村、九沢村など近隣の村々に及んでいます。特に右側から数えて3番目の地蔵塔は「施主 神奈川青木町鶴屋 八郎右衛門」と刻まれています。八郎右衛門は畑久保の名主の実弟で横浜開港時に活躍され、神奈川区青木町に鶴屋を拓いた当時の豪商です。今でも「鶴屋町」と云う地名は往時を偲ぶ名残です。
 また、最近の研究から観音信仰や地蔵信仰を広めた信州諏訪温泉寺の住職願王和尚の存在や高遠石工を代表とする守屋貞治の存在も確認され始め、にわかにその存在感がクローズアップされて来ました。
   
   覆屋の中に安置されている大正寺、百体地蔵尊
 上左写真のお地蔵様は赤ちゃんを抱き、左側の地蔵様は赤ちゃんに強い日差しが差さないよう、一際大きな幢幡 (どうばん)を掲げています。眼差しはやや下向き加減に工夫が施されていることで、全体に優しさが漂っています。信州高遠の石工北原七兵衛の作品です。 〈第13回 たつご教室 「信州高遠の石工、北原七兵衛と守屋貞治について」の案内文より〉
津久井観音霊場大正寺本尊 十一面千手千眼観世音菩薩
 当代の住職が、突然失明の危機に遭った時、縁あって京仏師村田岱觀師に出会い
(京都三十三間堂の御本尊をモチーフに)「千手観音」を彫ってもらい、平成24年9月24日建長寺應供堂にて、仏像彫刻展が開かれそこで展示され、同年11月5日建長寺管長栢樹(はくじゅ)老師によって安座点眼供養がなされました。眼の病だけでなく難病に苦しんでいる人々に、千の手と千の眼をもって癒しと安心を齎し、また、悩み事、願い事を解決してくださる観音様として安置されています。  〈大正寺HPより転写〉
 久保沢は谷津川の谷に挟まれたところですが、かつては、用水が流れ、そこに六斎市が立ち人々が集い交流する場、交易の場として長い間栄えて来ました。そうした当時の面影を観音堂の境内で見られる「二十三夜塔」、「秋葉燈籠」、「六字名号塔」、「庚申塔」、「光明真言塔」や「道祖神」等にも確認することができます。
 こうした久保沢の地に、合わせて207体もの「百体観音」や「百体地蔵」が祀られ、また、守られて来たことに感謝し、共に喜びたいと思います。 (合掌)
 ※大正寺境内に安置されている百体地蔵尊の最左側の石塔に祀られている「勝軍地蔵尊」を加えますと全体で208体となります。
萬壽山大正寺と久保沢観音堂境内で見られる石造物(一部)
 
 萬壽山大正寺              鐘楼から眺めた相模川の景観
 
百体地蔵尊の中の勝軍地蔵尊(最左側面) 仁邦和尚の墓石内に→
               →安置されている地蔵菩薩立像

舟に乗った地蔵尊
 亨保の頃、川で溺死した人の霊をお慰めされた地蔵尊像
   
風化が著しい山本渓山和尚の墓  イトヒバの聳える久保沢観音堂と小さな石仏     久保沢観音堂では「たつご教室」も開かれます。
 お地蔵さんと観音さんを結ぶ道 大正寺と久保沢観音堂を結ぶ小さな小径には、四季折々の風情が見られます。春は椿やツツジの花々、夏の猛暑の中での日陰、秋はモミジ、そして、落葉の積もる冬の小径、その山肌には小さな榛名社が祀られています。若葉台団地が造成されたのでこの地に遷されたとか、麦の実る頃、雹による被害を恐れて祀ったようです。歴史がひっそりと潜んでいます。

皇太子殿下の石老山登山
武相卯歳観音霊場めぐり

津久井観音霊場めぐり
原宿・勝軍地蔵馬上の御姿
城山の石仏たち
大正寺の百体地蔵様は何体

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