明治天皇大嘗祭悠紀齋田蹟建碑の事 saiden-koufu/html
2021・2・23 「明治天皇寫眞帖」からの記事を追加

 
明治天皇大掌祭悠紀齋田記事
表紙 発行 大正11年
はじめに
 明治4年11月、明治天皇大嘗祭は皇居吹上の地で行われました。それに伴う悠紀と主基の齋田の地が同年五月、亀甲の割れ具合(卜定)から悠紀齋田の地は山梨県巨摩郡上石田村山田松山田松之丈の持田と控地として中楯村字天神の笹本與右衛門の持田が選ばれました。
 やがて時が過ぎ大正天皇大嘗祭が行われた頃、かつて悠紀齋田に選ばれた頃を思い起こし地元貢川村の人々が中心となり建碑運動が巻き起こりました。また、それと同時に大嘗祭の記録書として、大正11年に「明治天皇大掌祭悠紀齋田記事」と云う和装本も刊行、後世に全容を伝えました。和装本の作成された動機は、緒言にもあるように「明治天皇即位の四年大嘗祭を行なは給ふに當り我甲斐國を以て悠紀に卜定せられ尋て本村内に齋田を點定せらる寔に千歳一隅の光榮にして村
民の永く記念せさる可らさる所なり嚮に本村碑を其蹟に建て盛事を無窮に傳へんと浴する計畫あり會ま私立山梨教育會の賛助に依り今や其功を竣ふるに得たり是に於てか又齋田に關する事積の散佚せんことを恐れ當時の記録を探りて其顛末を記し之を印刷に付し以て後代に傳へんとす若夫れ遺漏に至りては偏へに後人の補修を待つ大正十一年三月貢川村」と、当時の人々の思いを伝えていました。
          ※散佚(さんいつ):まとまっていた書物・収集物などが、ばらばらになって行方がわからなくなること。散失。
          ※後代(こうだい):のちの時代。のちの世。後世(こうせい)。

 「人のうわさも75日」などと云いますが、かれこれ50年も前の出来事を綴ったのでした。明治4年は、明治天皇にとっても、京都から東京に遷ったばかりで、大変な時期であったことと思います。こうした中でも大嘗祭はつつがなく進みました。
 大嘗祭祭祀の成り立ちにつきましては、折口信夫著「大掌祭の本義」が特に詳しく、また、次第についても最近では國學院大學学研究開発機構術資料センター編「資料で見る大嘗祭」に見るべきものがありました。是非、お読み下さればと思います。ひとつひとつを確認する中で、明治4年11月3日、氷川神社に神祇少輔門脇重綾を勅使として參向奉幣せしめられた記述が「明治天皇大掌祭悠紀齋田記事」の中にありました。天皇家が京都から見知らぬ関東に来られ、心のよりどころとして産土の神でもある武蔵国一之宮大宮の氷川神社に勅使を參向されたと云う記述です。そうしたことも、氷川神社から遠く離れた山梨の研究者たちによって「明治天皇大掌祭悠紀齋田記事」の中に収められてありました。当時からすれば、50年も前の事が、そして、今からすれば、約150年も前のことが掘り起こされ記録されてありました。記録を残しておくことが、いかに重要な事であるか、今回、あらためてその重要性を知りました。
   明治4年11月、「大嘗祭」後に訪れた江戸の人々と大嘗宮
   
大嘗祭は天皇御即位の後新穀を供して皇祖天神を御親祭あらせらるゝ御一代一度の大典である。明治天皇には明治元年御即位の大禮を挙げさせられ、引続いて大嘗祭を行はせらるべきであったが、當時東北地方の兵亂未だ平定せず、且諸國凶荒等の事情などで、つひに明治四年十一月に至って東京宮城の吹上御苑で行はせられた。其の嚴かな御祭典を済ませられて後、一般臣民に大嘗祭の拝観を許された。圖は即ちその光景を畫いたものである。  大正15年5月発行 「明治天皇寫眞帖」より



 
 (正面)明治天皇悠紀御齋田蹟
 (裏) 大勲位(伏見宮)博恭王


明治天皇悠紀御齋田蹟(の碑)
   所在地 甲府市上石田三丁目 南西第一公園内

〔解説〕/明治四年十一月挙行された明治天皇の即位大嘗祭の際、甲斐の国が悠紀国に選ばれ、この地にあった。当時の巨摩郡上石田村の長百姓山田松之丈の持田がその齋田に指定され、つつがなく名誉ある大任を果たした。
 その後、大正三年の大正天皇の大嘗祭執行にあたり、村民が明治初年の栄光を追慕、遺跡の隠滅を避けるために建碑することを企画し、全県下の学校生徒による事業費のきょ出や各地青年団の工事援助、県市の補助、有志の寄付など多くの人達の協力によって完成し、大正十五年四月八日除幕式が挙行された。碑面は伏見宮博恭王の筆。なお、この公園南側の道路は今も「悠紀道り」と呼ばれている。

   平成4年 「甲府市史調査報告書4 甲府の石造物」 P639より


  
    悠紀齋田蹟附帯工事碑 

悠紀田通り  注 「甲府市史調査報告書4 甲府の石造物」では悠紀通り






 

 恩

 餘

 澤




悠紀齋田蹟附帯工事碑  御歌所長子爵入江爲守題額
明治天皇大嘗祭を行はせ給ふに當り山梨縣を以て悠紀にト定せられ
時の縣令土肥實匡朝命を奉じて斯の地に齋田を選定する事は大正十
一年三月建つる所の齋田記念碑に詳かなり初め悠紀齋田蹟碑建設の
擧)あるや其の附帯工事として齋田蹟に風致を添ヘ且其の通路を修理
し村内里道及び橋梁をも繕治せんとの議起り建碑委員村民及び青年
團員等戮力事に膺り工費は本村有志及び本村に土地を有する者竝に
其の他の有志の寄附に加ふるに縣費補助を以てし大正五年四月起工
し十一月三月竣功す其の費實に一萬餘圓に上れり惟ふに齋田蹟の保
存は此等の施設を待って始めて其の完全を期す可く當事者の勞村民
等の功洵に能く 朝旨の在る所に副へりと謂ふべし其の報效の誠豈
に没す可けんや今其の工事成
(り)其の碑を建てんとするに方り茲に其
の事實を略記して附帯工事の由る所を知らしめ且欣然歌りて曰く悠
紀の田の御蹟を遺すいさをこそこの里人のほまれなりけれ
    昭和二年六月上澣  正五位勲四等  島倉龍治 
(言+巽)(選)
     ※印は甲府市史での表記で実際の碑文は黒字のままで表記しました。 保坂   
「明治天皇御即位大嘗祭」の次第  大正11年 「明治天皇大掌祭悠紀齋田記事 発行所 貢川村役場」より

明治天皇大嘗祭
明治天皇の大嘗祭は、
明治四年十一月十七日、皇城内吹上山里の禁苑に於て行はせらる、
是より先、
同年三月二十五日、今冬東京に於て大嘗祭を行はせらるべき旨布告せられ、
四月八日、大納言徳大寺實則を勅使として、
孝明天皇山稜及び皇太后に其の由を告げ給ひ、
神祇伯中山忠能・大辨防城俊政・神祇少副福羽美静・
神祇大祐門脇重綾をして其の事を掌らしめ給ふ。
明治天皇大嘗祭
吹上山里の禁苑(きんえん):皇居の庭。
大納言徳大寺實則(とくだいじ さねつね):公卿・官僚。宮内卿、内大臣、明治天皇の侍従長等を務めた。
神祇伯中山忠能(なかやま ただやす):公家、政治家。和宮の江戸下向に随行、岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させる。明治政府の議定。
大辨防城俊政ぼうじょう としただ)幕末の公家。明治4年式部頭。以後、宮中の祭祀、典礼を司る。
神祇少副福羽美静(ふくば びせい)、元津和野藩士、国学者、歌人、明治2年明治天皇の侍講、同年大学御用掛、3年神祇大福、5年に教部大輔となる。神祇制度確立に尽力
神祇大祐門脇重綾(かどわき しげあや):日御崎神社の神官門脇重郷の子として生まれる。元鳥取藩士、国学者。
甲斐國を悠紀に定せらる
次いで、五月二十三日、國郡卜定あり、
甲斐国巨摩郡を以て悠紀とし、
安房國長狹郡を以て主基と定めらる、
越えて九月九日、悠紀方抜穂使として
大掌典白川資訓を甲斐國巨摩郡上石田村に發遣し、
十二日、抜穂の式を行はせらる。
次いで同月二十三日、更に同大掌典を主基方抜穂使として
安房國長狹郡小町村に發遣し、
二十六日、抜穂の式を行はせらる。
十月十四日、明日班幣に付き、宮中に於て幣物天覧の儀あり、
翌十五日、神祇省に於て神宮以下の班幣の式を行はせらる。
次いで正二位三條西季知を勅使として發遣せられ、
同二十七日、皇大神宮並豊受宮に由奉幣、
翌二十八日、更に両宮の大奉幣あり、
十一月二日、神祇省神殿に神祇大輔福羽美静、
皇霊に神祇少輔門脇重綾、
同三日賀茂の両社に
同四日男山八幡に神祇少丞澤簡徳、
同三日、氷川神社に神祇少輔門脇重綾を勅使として參向奉幣せしめ、
自餘の官幣大社廿六社・官幣中社六社・國幣中社四十五社・
國幣小社十七社には、幣到るの日地方官をして奉幣せしめられたり。
同十五日、宮地鎮祭・神門祭・悠紀主基両殿祭を行はせられ、
又宮中にて節折及び大祓の式を行はせらる。
是の日左の諭告あり、且本日より十八日に至る迄、
重輕服の者は参朝を憚(はばか)り失火を戒め、
焚鐘一切停止の旨、布告ありたり。 
甲斐國を悠紀に定せらる
卜定(ぼくじょう):吉凶をうらない定めること。ぼくてい
悠紀/主基
大嘗祭(だいじようさい)における祭儀に関する名称。〈ゆき〉は斎忌,由基,〈すき〉は次,須伎などとも記す。悠紀国,主基国の斎田の新穀が,それぞれ大嘗宮の東の悠紀殿,西の主基殿で神饌に供された。悠紀・主基の国郡は卜定によって選ぶのが原則で特定されていなかったが,平安中期以降は悠紀は近江国,主基は丹波国と備中国が交互に選ばれ,郡のみが卜定された。明治の登極令では京都の以東以南に悠紀,以西以北に主基の斎田を勅定する定めとなった。


抜穂使(ぬきほのつかい):大嘗祭(だいじょうさい)の行われる年の8月下旬、抜穂のために悠紀(ゆき)・主基(すき)の両国に巡遣された勅使。ぬきほし。


大掌典:掌典職(しょうてんしょく)は、日本の皇室において宮中祭祀を担当する部門である。宮中三殿においてその職務を行う。
白川資訓(しらかわ すけのり):幕末の公家、明治期の華族。子爵。
班幣(へいはく):神道の祭祀において神に奉献する、神饌以外のものの総称。広義には神饌をも含む。みてぐら、幣物(へいもつ)とも言う。

正二位三條西季知(さんじょうにし すえとも):公卿・歌人。七卿落ちの一人
皇大神宮並豊受宮:伊勢神宮内宮外宮
由奉幣(よしのほうべい):天皇の即位・大嘗祭・元服の儀の日程を伊勢神宮などに報告するための臨時の奉幣。
大奉幣(だいほうへい):>大嘗祭あたり、伊勢神宮以下、京畿七道の神社に奉る幣帛(へいはく)

賀茂の両社
男山八幡:石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の旧称、京都府八幡市にある神社。
澤簡徳(さわ かんとく):幕末の旗本、明治期の内務官僚、裁判官、政治家。外国奉行、福岡県権令、若松県令、貴族院勅選議員。旧名・蔵六

氷川神社:さいたま市大宮武蔵一之宮






大嘗祭諭告
大嘗會之儀は天孫瓊々杵尊降臨の時天祖天照大神詔して豊葦原瑞穂國は吾御子のお所知(シラサム)國と封じ玉ひ及齋庭(ユニハ)の穂を授け玉ひしより天孫日向高千穂宮に天降りましまし始て其稲穂を播(ホドコシ)て新穀を聞食す是れ大嘗新嘗の起源也是より御歴代年々の新嘗祭あり殊に御即位繼體の初に於て大嘗の大儀を行ひ玉ふことは新帝更に斯國を所知食(シロシメ)し天祖の封を受玉ふ所以の御大禮にして國家第一重事たり其儀本月卯日宸儀恭(うやうやし)く天祖天神地祗を饗祀ましまし辰日高御座に御して新穀の饗饌を聞食し即酒饌を百官群臣に賜ふ是を豊明節會と云ふ夫穀は天祖の授與し玉ふ所生霊億兆の命を保つ所のものにして天皇斯生民を鞠育し以て其恩頼を報じ天職を奉じ玉ふこと斯の如し然則此大嘗會に於けるや天下萬民謹で御趣旨を奉戴し當日人民休業各其地方産土神を参拝し天祖の徳澤を仰ぎ隆盛の洪福を祝せずんばあるべからざるなり。
十七日、大嘗祭當日に付き、
太政大臣三条實朝・参議西郷隆盛・同大隈重信・
同板垣正形・文部卿大木喬任・宮内卿徳大寺實則・
副議長江藤新平・神祇大輔福羽美静・外務大輔寺島宗則・
大蔵大輔井上馨・兵部大輔山県有朋・司法大輔宍戸□・
侍従長河瀬眞孝・式部頭坊城俊政・神祇少輔門脇重綾・
員外中山忠能を従へて大嘗宮に行幸御親祭を行はせらる。
大嘗祭諭告
宸儀(しんぎ):天子のからだ。また、天子自身。
鞠育(きくいく):養い育てること。養育。




三条實朝(略)/西郷隆盛(略)/大隈重信(略)/板垣正形(まさかた):板垣退助
大木喬任(おおき たかとう)元佐賀藩士、新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務める。江戸を東京とすること(東京奠都)に尽力。民部卿、文部卿として学制を制定。
徳大寺實則(略)
江藤新平(えとう しんぺい):元佐賀藩士、「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」の一人に挙げられる。
寺島宗則(てらしま むねのり):日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍。
井上馨(略)/山県有朋(略)
宍戸:(ししど たまき)元長州藩士、明治4年11月に司法大輔。明治5年文部大輔。
河瀬眞孝(かわせ まさたか):元長州藩士、慶応3年トーマス・ブレーク・グラバーの協力の下イギリスに渡り明治4年、帰国後工部少輔、侍従長に就任するも、明治6年(1873年)にイタリア、オーストリアに赴任。
坊城俊政(略)
中山忠能(略)
御親祭の儀
当日平旦宮殿の御装飾を、
午後一時舗設を奉仕し、
同四時神座を奉安し、
次いで忌火の御燈を點し、忌火の庭燎を焼く、
午後六時天皇廻立殿に出御あらせられ、
御湯殿の事あり、
帛の御衣を御祭服に改めさせられ、
先づ悠紀殿に渡御、御親祭の儀あり、
終て廻立殿に還御、
次に皇后の御拝禮あり、
夜半更に主基殿にて御親祭あり、其儀悠紀殿に同じ、
両殿に於て奏せる國風歌四種、左の如し。
御親祭の儀
御親祭(ごしんさい)天皇が自ら神をまつり、御告げ文を奉上する祭儀。元始祭等。
御装飾:調査中
舗設:調査中
神座(しんざ):神霊の座する場所。
奉安(ほうあん):尊いものをつつしんで安置すること。
火(いみび):「清浄な火」のこと。火鑽(ひき)りで熾し、神への供物の煮炊きなどの神事に用いる
庭燎(にわび)祭場で焚く篝火。「ていりょう」ともいう。神を招くとともに、照明の役。


廻立殿(かいりゅうでん):天皇が湯あみをし、装束を改める殿舎。ここでまず沐浴(もくよく)して祭衣に着替え、悠紀殿(ゆきでん)に行幸して神事ののち、ここに還り、さらに沐浴と更衣をして主基殿(すきでん)へ行幸する。
御湯殿(略)/帛(きぬ)の御衣(略)/御祭服(略)/
悠紀殿(略)/主基殿(略)
國風歌(くにぶり):調査中
参考:稲舂歌(いねつきうた):大嘗会(だいじょうえ)に神前に供える稲をつく時にうたう歌。多く悠紀(ゆき)、主基(すき)の地名をよみ入れた。いなつきうた。
國風歌
 悠紀國名所
   白嶺  巨摩郡  作者  神祇大輔  福羽美静
君が代の光りにいとく顯れて甲斐の白嶺のかひはありけり。

   青柳  同郡   作者  宣教權中博士 八田知紀
大御代の風にしたかふ民草の姿を見するあをやきのさと。

 主基國名所
   長狭川 長狭郡 作者  神祇少輔  門脇重綾
岩間行く水のみとりも長狭川いさよふ瀬々の末深むらむ。

   蓬島  同郡   作者  神祇大録  飯田年平
名細しさ蓬が島は君が代の長狭縣のかみやつくりし。

國風歌



八田知紀(はったとものり):元鹿児島藩士・歌人。維新後は宮内省に出仕して歌道御用掛。







飯田年平(いいだ としひら):因幡国鳥取藩国学方、国学者。維新後史官、次いで神祗大史。その後、神祇大録・式部大属兼中掌典・神宮神嘗祭奉幣使。


豊明節會
翌十八日、豊明節會を行はられ
神祇大輔福羽美静、天神壽詞を奏し、太政大臣三条實美、宣命を宣し
奏任官以上に
饗饌を賜ひ、
十九日も亦同節會を行はせられ太政大臣宣命を宣し、
麝香間祗候及非役華族に饗饌を賜ひ
各省判任及地方官其の他外人等にも其省廳に於て饗宴を賜へり。
大嘗祭御當日即ち十七日には皇霊殿に於て御祭典を行はせられ、
勅使として神祇少丞戸田忠至を差遣せられ、
當日及び十八日の両日、陸海軍は櫻操練塲及び
神奈川臺塲に於て祝砲を放ち、
天下大小の神社は、
齋しく祝祭を擧行し、
國民擧(こぞ)りて共に與に寶祚の無窮を祝し奉れり。
豊明節會
豊明節會(とよのあかりのせちえ):「とよ」は美称、「あかり」は酒を飲んで顔の赤らむことをいい,宴会。
天神壽詞(あまつかみのよごと):中臣氏によって奏上された寿ぎ詞(ほぎごと)。「中臣寿詞」とも。
  参考 「祝詞正訓 : 付・天神寿詞」 発行 明治9年2月 pid/815976
饗饌(きょうせん):もてなしのための膳。ごちそうの膳。

麝香間祗候(じゃこうのましこう):明治維新の功労者である華族または親任官の地位にあった官吏を優遇するため、明治時代の初めに置かれた資格。職制・俸給等はない名誉職。


皇霊殿(こうれいでん):宮中三殿の一。賢所(かしこどころ)の西にあり、皇霊を祭る。
戸田 忠至(とだ ただゆき):下野宇都宮藩の重臣、後に下野高徳藩の初代藩主。江戸幕府若年寄・山陵奉行。
櫻操練塲:。築地に創立開設された海軍操練所か明治3年、海軍兵学寮に改称。
 
(調査要)
寶祚(ほうそ):天子の位。皇位。
無窮(むきゅう):果てしないこと。また、そのさま。無限。永遠。


参考 明治元年10月27日、本郷から戸田の舟橋を過ぎ大宮氷川神社に向かわられる御幸御列
 
               明治天皇御幸御親祭百五十年祭記念誌 P5より転写
祈るということ
 長男が生れた夜の景色は、星の煌めいた素敵な夜であった。そのことを今でも鮮明に覚えている。息子は生まれて直ぐに肺炎となり、「アトム」と呼ばれる人口保育器の中に入れられ育った。妻はオッパイを自分で絞り出し、私が、息子に運ぶと云う日々が続いた。私は、祈るような気持ちで毎日を過ごした。私には全てを信じ祈るよる他になかった。 
 今から30年も前、絶滅危惧種A類のホタル類の増殖研究をする機会を得た。ヘイケボタルは環境に割合強く、生きられたが、ゲンジボタルは環境の変化に弱く、育てるのが難しかった。油断ができなかった。私は、何万匹ものホタルを殺してしまった。惨さも恐ろしさも体現した。ホタルの死亡率は99・8%位だと思っている。成虫になって、夜空を飛ぶホタルの数は1000匹中、2〜3匹ということになる。ホタルにとって光は、オスとメスの交尾の合図である。それを私たちは見て喜ぶがホタルにとっては必至の点滅だ。或る日、パトカーの警告灯にオスのホタルが一斉に飛び出し向かって行ったことがあった。私は、これ以上、「ほたるの案内所」を開設して、ホタルの案内を続けることは限界であると考え、ホタルの生存が自然界で普通に過ごせるようになるまで、祈るような気持ちで保護活動を止めた。悲しい決断だった。
 植物の世界では、同じく絶滅危惧種A類の「カワラノギク」の保護活動も大々的に継承した期があった。炎天下、川からポンプで水を汲み上げ人工的に作った「カワラノギクの圃場」に放水をし続けた時期があった。上流にダムが出来ていることで、川の水量が均一化されるため、周辺の丸石河原にも草が生い茂り河川環境が随分と変わったようにも思えた。草取りも、体がのぼせかえるほど時間をかけた。10月の下旬には白紫の花が咲く、愛おしく思う時だった。その中に、咲かないカワラノギクあり、よく観察するとそれらは冬に向けて、ロゼットを作り出し「越冬する準備」をしていたのだった。越冬すれば、根も深くなり、濁流になってもその内の何割かは生き残り花を咲かせることができるのだと、私は祈るような気持の日々が続いた。
 祈るということは、無駄なことか、そう思う人はいるのかも知れない。
 日常では、親の死とか、悲しいことが連続する。玄関まで向かいに来てくれた猫のネミも死んでしまった。思い出すと悲しくなる。ネミは口もとに腫物ができ食べられなくなって、私の布団の隣で死んだ。フクは血栓が再発して、病院でダッコしながら先生に注射していただいて死んだ。涙が止まらなかった。
 人間も含めた自然界では幾つもの不条理なことがある。これをどうしょうもないこととして考える。仕方のないことか。 
 私が、小学生の頃、牛買いが来て家を離れる時、牛が涙を流して泣いたのも覚えている。人も自然界もそうした中で生きているのだ。
 本日、天皇御即位の式典がおこなわれる。4時32分、雨がザンザン降っている。やがて、大嘗祭も行なわれる。

追加/10月22日9時54分、雨が上がったので、橋本から龍籠山や高尾の山々を見渡すと、山の下から上に向かって筋になった小さな雲が上っているのが見えた。二十筋くらいは見えただろうか。そうして、また雨雲に覆われ、雨が降り始めた。まるで、小さな龍たちが天に昇るかのように見えた。私はその山の方向に向かって手を合わせた。いつもより、その数が多く感じた。不思議な光景だった。都心では虹が出たことをテレビで知った。

 9時57分頃か、はっきりした龍の瞬間から雲になりはじめた。今、皇居では何が行われているんだろうと、世にも不思議なことと思う。

 参考図 

  
参考資料
明治天皇大掌祭悠紀齋田記事 発行所 貢川村役場 大正十一年四月三日
甲府市史調査報告書4 甲府の石造物 編集 甲府市市史編さん委員会 発行 平成五年三月
折口信夫著古代研究V 民俗學編3 角川ソフィア文庫 平成29年2月 初版発行
  ーー大掌祭の本義ーー   昭和3年6月長野県東筑摩郡教育会中央部支部講演記録
國學院大學学研究開発機構術資料センター編「資料で見る大嘗祭」  発行 平成30年(2018) 11月
真弓常忠著「大掌祭の世界」 学生社 発行 1989.8・5 
吉野裕子著「大掌祭 −天皇即位式の構造ー」  弘文堂 発行 昭和62・3・30
谷川健一著「大掌祭の成立」 小学館 発行 1990・11・1
神奈川新聞記事 2018・11・21付 「即位儀式を簡素化 参列者絞り、立食形式も
神奈川新聞記事 2018・12・26付 大掌祭「既存神殿で」 秋篠宮さま、宮内庁に提案
神奈川新聞記事 2019・1・5付 皇位継承 古の営み 10月即位の礼 11月大嘗祭 伝統儀式支える匠たち
              米納入へ怒涛の日々 絢爛豪華新天皇立つ「高御座」 甲羅で占う米の産地
神奈川新聞記事 2019・5・14付 大掌祭は栃木、京都産コメ 29年ぶり「占い」、今秋刈り取り
神奈川新聞記事 2019・6・7付 大掌祭の舞台造営で清水建設 予定価格6割で落札
明治天皇御幸御親祭百五十年祭記念誌 武蔵一之宮氷川神社 発行 平成二十九年十月

平成17年以降 「ほたる案内所」閉館しました。(ほたるを取らないで)
加熱しないカワラノギクの保護活動について
伐採から保全へ  日本一のウラジロガシ
川尻八幡宮
武蔵国一宮成立の前夜 龍籠山を基軸に、だれも知らない方位線

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