吉野秀雄編「創元」創刊号に記された吉野秀雄の歌
2018・3・11 作成
はじめに
 最近の「八木重吉年譜」に吉野秀雄に関する記述が多くなりつつある。昨年、八木家の当主である八木藤雄様が亡くなられ、遺品整理の中から、八木登美子さんが吉野秀雄様に宛てた手紙が出て来たと連絡を受けた。その頃の私は吉野秀雄の遺した「山國の海鳴」編集の経緯を考えていた。
 だが、あまりにもの速さで、吉野秀雄の歌が舞い込んでくるのである。気がつくと吉野秀雄の歌の深さにはまっている自分に驚いてもいる。「短歌百餘章」全篇をコピーして枕元に置きながら、あれやこれやと思案しているのであるが、もしかして右往左往のほうが正解かも知れない。
 目利きのきいた青山二郎からは、「お前、大丈夫」かと云われているようでもある。

創元 第一輯  編輯者 小林秀雄
発行所 創元社
発行 昭和廿一年十二月三十日

表紙ーカット・梅原龍三郎、装幀・青山二郎
繪畫
梅原龍三郎特輯
原色版 水禽圖(見返し) 昭和十七年
虎    (扇面) 昭和十九年
夢一、二、 昭和二十一年
自畫像 昭和二十一年
三彩壺 昭和十八年
素描 彩弟 昭和十八年
三鈴 昭和十八年
雪  昭和十八年
姑娘 昭和十八年
本文 梅原龍三郎 青山二郎
短歌百餘章 吉野秀雄
モオツアルト 小林秀雄
詩(四篇) 中原中也
土地(小説) 島木健作
本扉ーカット、青山二郎

玉簾花 古疊を蚤のはねとぶ病室に汝(な)が玉の緒は細りゆくなり
(の)ますべき薬も竭(つ)きて買ひにけり官許(かんきょ)危篤救助延命一心丸
ふるさとの貫前(ぬきさき)の宮の守り札捧げて來つれあはれ老い母
病む妻の足頸にぎり晝寝する末の子をみれば死なしめがたし
自轉車をひたぶる飛ばすわが頬を汗も涙もしたたりて落つ
氷買ふ日毎(ひども)の途(みち)にをろがみつ餓渇畠(きかつばたけ)の六體地蔵
  をろがむ:をろがむ【拝む】 拝む(おがむ)
  餓渇畠:鎌倉にある実在地/「後世里人六地蔵を祀り又供養塔や芭蕉句碑等を建てた。

病室の隅に雙膝(もろひだ)(だ)くわれを汝(な)は恠(あやし)まめすべもすべなさ
生かしむと朝を勢(きほ)へど蜩(ひぐらし)の啼くゆふべにはうなだれてをり
(ひっさ)げし氷を置きて百日紅(さるすべり)燃えたつかげにひた嘆くなれ
10 九州を敵機の襲ふゆふまぐれ妻の呼吸のやうやくけはし
11 今生(こんじゃう)のつひのわかれを告げあひぬうつろに迫る時のしづもり
  つひのわかれ:最後の別れ。死別。
  うつろ:▽空ろ/▽虚ろ 1 (「洞ろ」とも書く)内部がからであること。また、そのさま。空洞。うろ。からっぽ。
       2 心が虚脱状態であること。また、そのさま。表情などに生気のないさま。 3 むなしいこと。また、そのさま。
12 遮蔽燈の暗きほかげにたまきはる命盡きむとする妻とわれ
13 をさな兒の兄は弟(おとと)をはげまして臨終(いまは)の母の脛(すね)さすりつつ
14 わが門(かど)に葬儀自動車のとどまれるこの實相(ますがた)をいかにかもせむ
  實相(じっそう):1 実際のありさま・事情。 2 仏 この世界の真実でありのままの姿。
  かもせむ:どうすればよいか
   3928 今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべのなさ
15 たらちねの母に別れし四人子(よたりご)の頭(かうべ)を撫づれおのもおのもに
   おのもおのもに:己も己もに
16 葬儀用特配醤油つるしゆくむなしき我となりはてにけり
17 よしゑやし奈落迦(ならか)の火中(ほなか)さぐるとも再び汝(なれ)に逢はざらめやは
  よしゑやし(縦しゑやし): 1 ままよ。ええ、どうともなれ。 2 たとえ。よしんば。
  
奈落迦(ならか):1 地獄。また、地獄に落ちること。 2 物事の最後の所。どん底。特に、これ以上はない、ひどい境遇。
  逢はざらめやも:あはざらめやも :会わないだろうか、いや、きっと会うに違いない。 終助詞「も」
18 葬ひの済みてもろ人(びと)去りぬれば疲れきりたる子らは丸寝(まるね)
  もろ人(諸人):《古くは「もろひと」》 多くの人々。たくさんの人。衆人。
19 母死にて四日泣きゐしをさならが今朝(けさ)登校すひとりまた一人
 おさな(をさ)幼な:形容詞「幼し」の語幹。
20 よろめきて崩れおちむとするわれを支ふるものぞ汝(なれ)を霊(たま)なる
21 とむらひの後(あと)のあらまし片づきて飯米(はんまい)の借の少し殘りぬ
22 汗垂らし駈けめぐる時耳元に我をねぎらふ妻が聲する
23 これの世に生くらく限りはてしなく底ひもわかぬわがなげきなり
  生くらく限り:
    底(そこ)ひ:極まる所。奥底。極み。果て。限り。
24 (をさ)の娘(こ)を母によく肖(に)つと人にいふにつくづく見つめ汝(なれ)ぞ戀(こほ)しき
25 野菜負ひて暗き野道に伴(つ)れだてば子や想ふらしその母わが妻
  負(お)ひて:1 背中や肩にのせる。背負う。「重い荷を―・う」
26 摘みえたる野菊犬蓼(いぬたで)薬師草(やくしぐさ)(いも)がみ霊(たま)は家に待たむぞ
  えたる(得たる):堂に入(い)った。得意とする。
  待たむぞ:待っているでしょう
27 しろたへの一重(ひとへ)の布を纒(まと)ふのみ汝(なれ)のお骨は冷えまさるべし
   まさるべし:(勝る・優る) すぐれる。ひいでる。上である。まさる。
28 渋柿をあまたささげて骨壺のあたりはかなく明るしけふは
  あまた(数多): たくさん。数多く。
  はかなく:
29 山茶花(さざんくわ)は白磁(はくじ)の瓶(かめ)にふさへりと汝(な)がいひしごと挿して供える
  ふさへり(房縁):
  いひしごと挿して:いひしーごと挿して
  供(そな)える:神仏や貴人の前に、物をととのえて差し上げる。
30 鉦叩(たたき)蟲かねうつなべに(みんみん)の蝉は經誦(よ)むなれのみたまに
 (みんみん):虫+民、虫+寮の合字
 なれ(汝)
  参考 なれの(慣れ・馴れ):1 たび重なってなれること。習熟すること。
           2 心 ・同じ刺激を繰り返し与えると,それに対する反応がしだいに弱くなりやがて消失すること。
31 しぐれの雨折折騒ぐ夜のほどろねむる子らあはれ眠らえぬ身あはれ
  ほどろ(程ろ):1 夜の明けるころ。2 ほど。頃。
  あはれ:
32 なれ失(う)せて半ば死にけるうつせみを揺(ゆす)り起(た)たして生きゆかむとす
  なれ失(う)せて:】1 なくなる。消える。いなくなる。2 「行く」「去る」をののしっていう語。3 死ぬ。
 うつせみ(空蝉:):1 この世に現に生きている人。転じて、この世。うつしみ。 
  生きゆかむとす:生きて行こうとする
33 この秋の庭に咲きいづる玉簾(たますだれ)花骨(こつ)に手向(たむ)くと豈(あに)おもひきや
 玉簾(たますだれ)花骨(こつ)
  豈
(あに):《あとに反語を伴って》 《副》どうして。 例 「―図(はか)らんや」(意外なことには)
 おもひきや (思ひきや)想像したろうか、いや、しなかった。思ったろうか、いや、思わなかった。
34 つぎつぎにそなふる草の花枯れて汝(な)が骨つぼを秋の風吹く
35 子ども部屋に忘られし太鼓取りいでてうち敲(う)つ心誰知るらめや
  うち敲(う)つ心:
  誰知るらめや:誰も知らないでしょう
36 人の妻傘と下駄もち夜時雨(よしぐれ)の驛に待てるをわれに妻なし
37 骨壺の前にころぶす現身(うつしみ)をふく秋風はすでに寒けれ
  ころ(転ぶ) 1 ころころと回転しながら進む。ころがる。2 からだのバランスを失って倒れる。転倒する。
          3 物事の成り行きが他の方向に変わる。事態がある方向へ向かう。

 現身(うつしみ):(江戸時代の国学者が上代語「うつせみ」「うつそみ」の語源と考えて作った語)
             この世に生きている身。うつそみ。
38 母死にて幾日(いくひ)は經つと朝床の子は朝床のわれに言問(ことど)ふ
39 酒酌めばただただねむし骨髓(ほねすじ)に澱(おど)む疲れのせむすべもなさ
  澱(おど)む: 沈んで底の方にたまる。よどむ。
  せ(為)むすべもなし:どうしたらいいのかすべ(術)がない、分からない。
40 ほつほつと椎の實食ぶる幼吾子(おさなあこ)眼には見るらし母の写真を 
41 ますらをのわが泣く涙垂り垂りてなれがみ魂(たま)を浄からしめよ
  ますらを(益荒男・丈夫):心身ともに人並みすぐれた強い男子。りっぱな男子。
  なれ(汝)が: 二人称。対等あるいはそれ以下の者に対して用いる。おまえ。なんじ。
  浄からしめ:
42 酔ひ痴(し)れて夜具の戸棚をさがせども妹(いも)が正身(ただみ)に觸(ふれ)るよしもなし
   痴(し)れて
   よし(由)もなし(無)し: 手段も手がかりもなし。
43 歳暮るるこの寒空(さむぞら)に草鞋はき帷衣(かたびら)を著て吾妹(わぎも)やいづこ
   帷衣(かたびら)
   著(き)て:
44 日のくれて道に独楽(こま)いつわらべのいづれか家に母の待たざらめ
    4145 春まけてかく帰るとも秋風にもみたむ山を越え来ざらめ
45 眞命(まいのち)の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ
 ししむら:肉叢/肉のかたまり。肉塊。また、肉体。
 わぎも(吾妹):わがいも」の音変化》男性が妻や恋人を、また一般に、女性を親しみの気持ちを込めて呼ぶ語。わぎもこ。
46 これやこの一期(いちご)のいのち炎立(ほむらだ)ちせよと迫りしわぎもよ吾妹(わぎも)
 一期(いちご):1  生まれてから死ぬまで。一生。一生涯。 2 死に際した時。臨終。最期(さいご)。 
        3 一生に一度しかないようなこと。一生にかかわるようなこと。
  炎立(ほむらだ)ち:
彼岸 ひしがれてあいろもわかず墮地獄のやぶれかぶれに五體(ごたい)震はす
 ひしがれて:
  あいろも(隘路):1 狭い道。狭く険しい道。  2 物事を進めるのに障害になるもの。難関。ネック。
ひねもすの夜もすがらなるをののきゆ何にすがりて飜(ひるがへ)らむか
  ひねもす:朝から晩まで続くさま。一日中。しゅうじつ。
 をののき(慄き・戦き):寒さや恐怖などで体が震えること。戦慄。わななき。
したたるや血の一路(ひとみち)をおしひらく終(つひ)の手力(たぢから)もありとせなくに
  せなくに(為なくに):
死ぬ妹(いも)が無しとなげきし彼岸(かのさし)を我しぞ信ず汝(なれ)とあがため 
冥府(かくりょ)に魂合(たまあ)ふらむぞ生き残るこころ咽(むせ)びも或(ある)はまぼろし
  冥府(かくりょ):死後の世界。冥土。特に、地獄。閻魔(えんま)の庁。
不生不滅空之又空 然(さ)はさあれ 切り刻まるるこのわが現實(まさか)
  然(さ)はさあれ:《連語「さは」+動詞「あり」の已然形「あれ」から》そうではあるが。されど。
哀しみを基(もとゐ)すなるうつし世にいたぶられつつ果てもこそなけむ
  すなる:するのだ
    (ぎん/合字)
乙酉年頭(口+金)
たちかへる年の旦(あした)の潮鳴(しほな)りはみ國のすゑのすゑ想はしむ
元旦の暁起(あかときお)きに巻脚絆(まきぎゃはん)固くし締めてまうらすがしも
焼酎に葱少しもてりあたらしき年のはじめはさらに勢(きは)はむ
水仙を挿せる李朝の徳利壺かたへに据ゑて年あらたなり
 かたへ(片方/傍):1 かたわら。そば 2 対になっているものの一方。片方。片側。
一切れの固き肉噛み齒齦(はぎく)いたし痛きもたぬし歳のはじめは
配給の餅(もちひ)かぞへて母のなき四たりの子らに多く割當つ
鶴岡(つるがおか)の霜の朝けに打つ神鼓(じんこ)あな〇鞳(たうたふ)と肝にひびかふ
  〇(たうたふ):(革+堂の合字)鞳
脚絆(はばき)つけ外套を著て家ぬちを旅の道なるごとく往來(ゆきき)
 やぬち(家内・屋内):いえのうち。屋内。
夕餉(ゆふげ)には馬肉煮るべし晝過ぎて雪催空(ゆきもよひぞら)に垂りたり 
 垂り(しずり・しづり):木の枝などに降り積もった雪が滑り落ちること。また、その雪。しずり雪。しずれ。
仰寒天正述傷心
註 纎月に見る地球照(cild moon)これを假に「魄(たま)」といひなしつ

 纎(かよわい)

うつし身に風花(かざはな)散らふ夕まけてするどき月は中空(なかぞら)に顯(た)
  風花:晴天の空から雪が降ってくる現象。高い山の風下側で,山越えの風に乗って雪片が飛来することが多い。
  うつしみ(現し身):現在生きている身。うつせみ。

 
顯つ(たつ):1 はっきり目立つ。あきらか。
(さ)えわたる氣邃(けぶ)かき空に三日(みか)の月宵の明星(あかぼし)と息づきかはす
 宵の明星:夕方に見える金星
  かはす(躱す):1 ぶつからないように身を翻して避ける。2 巧みに避けて逃れる。 
  交わす:1 互いに、やり取りする。交換する。2 互いにまじえる。交錯させる。3 移す。変える。
凍空(いてぞら)かげなす(たま)をかき抱(むだ)くかぼそき月よ妹(いも)ぞこほしき
 かげなす(影なす):影を作って映している。
 4199 藤波の影なす海の底清(きよ)み沈く(しづ)く石をも玉とそ我(あ)が見る 大伴家持
三日(みか)の月つめたき陰體(かげ)をかかへけり妹(いも)の霊(たま)を吾(あ)がまもるかに
弓月の魄(たま)の面(も)暗くかつ光(て)りぬ消えてあとなき妹(いも)と思(も)はめや
月の輪に妹(いも)が眉引(まよび)きたぐへもてわが戀ふらくはいたもすべなし
  2902 我が恋は夜昼わ(別)かず百重(ももへ)なす心し思へばいたもすべなし
 いたもすべなし:イタはイトと同じく、程度のはなはだしいことをいう副詞。どうすることもできない
おもかげをしのぶ情(こころ)は纎月(ほそづき)の光(かげ)研ぎいだす天(あめ)にさまねし
 さまねし:数が多い。度重なる。
よひ早くい照る三日月あが戀ふるおもひ堪へねばたわやかに見ゆ
 たわやか:しなやかなさま。優美なさま。たおやか。
人の身ははかなきものか初月(ういづき)の利刃(とば)の鎌をも亡き妹(いも)として
 りじん(利刃)】:よく切れる刃物。切れ味の鋭い刀。
10 鈍色(にびいろ)の魄(たま)もつ二日(ふつか)三日(みか)の月現(あ)れいづる時し一生(ひとよ)なげかむ
  3459 稲搗けばかかる我が手を今夜もか殿の若子が取りて嘆かむ
 なげかむ(嘆かむ)
狩野河畔 亡き者の手紙身につけ伊豆の國狩野(かの)の川べの枯草に坐(を)
冬くさの黄なるを友と敷きなしてことば少し妹(いも)をしぞ戀へ
冬ふかき狩野の流れは両岸の篠生(しのふ)を籠(こ)めてあやにかがよふ
  あや−に 【奇に】 @なんとも不思議に。言い表しようがなく。
  かがよ・ふ 【耀ふ】きらきら光って揺れる。きらめく。
平らかに日ざしなごめる冬川の二分(ふたわか)れして彼方(かなた)寒きP
舟橋の五艘の舟の片べりにかげろふもゆれ春しかへらむ
富士・大仁にて 我命(わぎのち)をおしかたむけて二月朔日朝明(あさけ)の富士に相對ふかも
きさらぎの淺葱(あさぎ)の空に白雪を天垂(あまた)らしたり富士の高嶺は
  淺葱 わずかに緑色を帯びた薄い青。また,青みをおびた薄い緑色。あさぎ色。
朝富士の裾の棚雲遠延(とほは)へて箱根足柄の嶺呂(ねろ)を蔽へり
この岡の梅よはや咲け眞向ひに神(かむ)さびそそる富士の挿頭(かざし)
  上挿頭(かざし):上代、草木の花や枝などを髪に挿したこと。また、挿した花や枝。平安時代以後は、冠に挿すことにもいい、
  多く造花を用いた。幸いを願う呪術的行為が、のち飾りになったものという。
富士が嶺の氷雲(ひぐも)のひまを見据うればいただき近く雪げむり立つ
雪冴ゆる富士をそがひにあしひきの山松林風とよむなり
富士が根の雪のなぞへにはばはれて雲二方(ふたかた)に別れゆくらし
   ぞへ(なぞえ):ななめ。はすかい。また、斜面。
富士の肩の雪の稜角(そばかど)くきやかにただ一息の線(すぢ)を張りたり
 くきやか:鮮やかではっきりしているさま。
富士・修善寺にて 赤松にまじるくろ松黒松の太しき間(あひ)に高し冬富士
二もとの松の劃(かぎ)れる空占めて富士の片面(かたも)は夕茜すも
  かぎ(劃)れる:
  
千とせまでかぎれる松もけふよりは君にひかれて万代よろづよやへむ (拾遺24)
  占(し)めて: 1 あるもの・場所・位置・地位などを自分のものとする。占有する。2 全体の中である割合をもつ。
富士が嶺の裾雲の下(した)なだらかに伊豆の冬山左右(ざう)に竝(な)み伏す
   伏(ふ)す:1 腹ばいになる。また、地面にひざをつくなどして頭を深く下げる。 2 姿勢を低くして、隠れる。ひそむ。
前山(さきやま)はその草枯(くさが)れに夕日燃え富士の白砂(しろたへ)いよよすがしも
  いよよ:「いよいよ」の略 ますます。いよいよ。
  すがし(清し):さわやかで気持ちがよい。すがすがしい。
麓ぐも斜(ななめ)に引きて富士が嶺のおもたく西に傾けり見ゆ
富士・三島にて くしぶるや富士の高秀(たかほ)は天雲(あまぐも)をおのが息吹(いぶ)きと巻きかへしつつ
一ひらの雲の冠(かがふり)散るなべに富士の全容(ますがた)いまぞ観るべし
  なべに
富士が嶺の彼面(をても)此面(このも)の雪映えてあくまで清(きよ)しなだれ落ちたり
 なだれおちる(雪‐崩落ちる/傾れ落ちる):1 (雪崩)山の斜面に積もった大量の雪が、急激にくずれ落ちる現象。 
                      2 斜めにかたむくこと。傾斜。 3 押しくずれること。くずれ落ちること。
富士が嶺をひとりさやけくあらしむと函根の山に雪雲凝りつ
  さやけく(清けし):1 光がさえて明るい。 2 音・声が澄んで響く。 3 清らかでさっぱりしている。すがすがしい。
  あらしむ:
  凝(こご)り:1 凍って固まること。こごること。また、そのもの。
夕富士は吹き晴れにけり低山(ひきやま)にみだるくろ雲雪降らさむか
  みだる(乱る/紊る):1 秩序をなくすようにする。整っているものを崩す。 2 ばらばらにする。散乱させる。
 雪降らさむか:雪を降らすだろうか
太白星(あかぼし)の光(かげ)増すゆふべ富士が嶺の雪は蒼めり永久(とは)の寂(しづ)けさ
 太白星:金星の異称
時久(ときひさ)に目守(まも)らふ富士の霊異(くしび)の魂(たま)わがむらぎもを揺(ゆすりてすがしき
 霊異:人知でははかりしれない不思議なこと。また、そのさま。霊妙。りょうい。
 むらぎも(群肝/村肝):体内の臓腑(ぞうふ)。五臓六腑(ごぞうろっぷ)。
富士・三島大社にて 御社(おやしろ)の華表(とりゐ)の前にふりさけて立春大吉(りっしゅんだいきち)富士は雲なし
 ふりさけて:
    994 振りさけて若月みかづき見れば 一目見し人の眉引まよひき思ほゆるかも 大伴家持
觀古・弘仁の佛手を み佛の曝(さ)れたるみ手にふほごもる千年(ちとせ)のぬくみあやしくもあるか
  ふほごもる:ふふむ(包む)+こもる(籠る)
(こぼ)たれてみ手一つなるみほとけの奇(あや)に具足(そだ)らす縵網(まんまう)の相(さう)
  毀(こぼ)たれる 1 こわす。破壊する。 「その形の美しさはまだ決して―・たれてはいなかった」〈三島・美徳のよろめき〉
  具足:1 不足なく十分に備わっていること。2 武具。甲冑(かっちゅう)。3 所有すること。 4 引き連れること。 5 道具。調度。
  縵網(まんまう)の相(さう) 佛三十二相のひとつ 「手足指縵網(しゅそくしまんもう)相」を表すために指と指の間の水かき
みほとけのねがひは悲し蹼(みづかき)を壊(く)え残してぞ濟度(わた)さむとする
觀古・天平の佛手を 薬師(やくし)(ゆび)ただ一莖(ひとくき)のなまめきて匂ふいのちに觸れ敢へめやも
  なまめきて:なまめく【艶めく】異性の心を誘うような色っぽさが感じられる。また、あだっぽいふるまいをする。
  敢(あ)へて:1 やりにくいことを押しきってするさま。無理に 2 あとに打消しの語を伴って 
         イ 特に取り立てるほどの状態ではないことを表す。必ずしも。 ロ 打消しを強める。少しも。全く。
み佛のお指(ゆび)はまろく末ぼそになどかわがせむあてにあえかに
遠つ世のほとけのみ手をささへもちあな戀ふれ亡き妹(いも)が直手(ただて)
  あな:喜び、悲しみ、うれしさ、怒りなどを強く感じて発する語。ああ。あら。「あなふしぎ」
 鈴が音の早馬駅はゆまうまや)の堤井(つつみゐ)の水を飲(たま)へな妹(いも)が直手(ただて)よ 万葉 3439
  :鈴の音がする 宿場の駅の 泉井の 水が飲みたい あなたの手からじかに

 
  秋篠寺・伎芸天像
「ながいはじめるをはじめるにあたって」
 徳川家康人生訓に「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし 急ぐべからず 不自由を、常と思えば不足なし」と続く。でも、何かをしなければ、また、前に進めない生き物なのだ。人間とは、また人生とは、何と不思議なことか。
 「短歌百餘章」は、前にすすむためのはつ子さんに対する、惜別の歌ではないかと考えました。前半の九十八首は現実の思いであり、後半の六種は、はつ子に対する更に深い思いなのです。
 歌の全体を意味するところは、最後の「遠つ世のほとけのみ手をささへもちあな戀ふれ亡き
(いも)が直手(ただて)を」ではないかと。
 斎藤茂吉著「万葉秀歌 下巻 P119」に「鈴が音の早馬駅(はゆまうまや)の堤井(つつみゐ)の水を飲(たま)へな妹(いも)が直手(ただて)よ」とありました。茂吉の解釋、雜歌。「早馬駅(はゆまうまや)」は、早馬を準備してある駅(うまや)という意。「堤井」は、湧いている泉を囲った井で、古代の井は概ねそれであった。一首の意は、鈴の音の聞こえる、早馬のいる駅(宿場)の泉の水は、どうか美しいあなたの直接の手でむすんで飲ましてください、というのである。この歌も、早馬を引く馬方などの口でうたわれたものか、少なくともそういう場処が作歌の中心であっただろう。そして駅には古(いにしえ)もかわらぬ可哀(かあい)い女がいただろうから、そこで、「妹が直手(ただて)よ」という如く表現が出来るので、実にうまいものである。「直手よ」の「よ」は「より」で、直接あなたの手からというのである。いずれにしても快(こころよい)い歌である。」とありました。
 吉野秀雄の「亡き妹(いも)が直手(ただて)を」、私は斎藤茂吉が万葉の秀歌とした、「直手」に対する表現の比較、亡きはつ子さんに対する深い思いではないかと考えました。
 吉野秀雄さんにたいしては、何れ通らなければならない、ずっと前から考えていたことではありましたが、登美子さん直筆の手紙が出て来たことから、手紙の解析にせがまれ、とうとう禁断の扉を開くことにしました。我青春時代に、秋篠寺に遊んだことなどもおりまぜながら、時間をかけ、果てしなく考えて行きたいと思っています。

参考資料
月刊 上州路十二月号 特集 ー生誕百年記念ー 超俗の歌人 吉野秀雄 発行 平成14年12月
わが胸の底ひに 著者 吉野登美子 発行 彌生書房 発行年 1979・2・20 3版
詩集 山國の海鳴 著者 吉野秀雄 発行 紅書房 昭和61年7月
「鶴岡」 臨時増刊 生誕七百五十年記念 源實朝號  昭和17年8月
   吉野秀雄著 金槐集研究書目解題
上村占魚著 球磨 発行 笛發行所 昭和24年9月 
上村占魚著 鮎 発行 笛發行所 昭和21年12月 
万葉集二・三・四 日本古典文学全集 小学館 昭和47年5月
吉野秀雄全集 1〜9 筑摩書房 昭和44年・45年 
万葉秀歌 下巻 斎藤茂吉 岩波書店 1979・1・10 第52刷

参考 神奈川近代文学館  「吉野秀雄文庫」から
 萬葉秀歌 上巻 齋藤茂吉著 岩波書店 1938.12.10(昭13) 2刷 岩波新書 〔b/Y01/03155053〕
 萬葉秀歌 下巻 齋藤茂吉著 岩波書店 1938.12.10(昭13) 2刷 岩波新書 〔b/Y01/03155062〕


八木重吉の年譜
詩人・八木重吉さんの故郷
吉野秀雄著「金槐集研究所目解題」を読む
水源はヤツボ

戻る