半夏生、木槿の花咲く艸心忌

2018・7・7 艸心忌
2018.7.14 父の墓参りを追加
2018.8.1 「短歌」に掲載された「最後の歌」を追加 
はじめに
 歌人、吉野秀雄がこの世を去って、51年の歳月が流れた。私はこの日、艸心忌の行われる瑞泉寺を訪ねた。久しぶりだった。若い頃、鎌倉の山の中を北鎌倉から歩いて寺に下りた。今日は、鎌倉駅の西口に下りて御成道を南に、六地蔵を祀った信号機のある所まで歩いた。そこから鶴岡八幡宮の参道に出て、二之鳥居をくぐり、蓮の花咲く源平池を過ぎて、さざれ石の裏にさりげなく置いてある、鳥居(址)を眺めた。そこから、ほんの少し歩いて、国宝館の入口にひときわ大きく見えた実朝の歌碑を見た。歌碑の周りには萩の花が咲き始めていた。それからひたすら東に歩いて鎌倉宮の角を曲がり、瑞泉寺に向った。山際の道にはアジサイの花が盛りを過ぎても咲いていた。蝉はまだ鳴いていなかった。山門をくぐり、の中に入れていただいた。法要の後に講演が続いた。
 艸心忌がすんで、境内の吉野夫婦の墓に詣で、帰ろうとしたとき、見知らぬ方からご親切に吉野秀雄と山崎方代さんの歌碑をご案内していただいた。歌碑は山門の入口にあり、教わるまで全く気づかなかったので本当によかった。
 偶然であろうか、七月十三日の御命日は、57で死んだ、父と同じ日だった。何故か私は運命的な出会いを感じている。そうして、私は慌てて郷里に帰り、父の墓に詣でた。もう53年も前のことになるが、荒川の土手を自転車に乗っている風はあの時の風と同じだった。
 「小林秀雄編「創元」創刊号に記された吉野秀雄の歌」の項では「吉野秀雄さんにたいしては、何れ通らなければならない、ずっと前から考えていたことではありましたが、登美子さん直筆の手紙が出て来たことから、手紙の解析にせがまれ、とうとう禁断の扉を開くことにしました。我青春時代に、秋篠寺に遊んだことなどもおりまぜながら、時間をかけ、果てしなく考えて行きたいと思っています。」と、さりげなく書いたのは、吉野秀雄が父と同じ日に死んだからか、妙に近くに感じているのです。
 この項の最初に、資料としてとみ子さんが書き記した「臨床記」を選びました。当たり前のことですが、とみ子さんも既にこの世にはおられません、十五日の葬儀のご様子を振り返る意味で組み入れました。
 艸心忌も終わり書院から奥を眺めると草花の少しの色合いが、吉野のご夫婦のようで癒された。

    1902年(明治35年)7月3日 (生)- 1967年(昭和42年)7月13日(歿)
  

                            艸心忌の行われた瑞泉寺方丈の間より     撮影2018・7・7・
 資料 短歌研究 第24巻 第10号 吉野秀雄追悼特集 ー吉野秀雄臨床記ー  吉野とみ子  発行 昭和42年10月
 吉野の臨終の模様を伺いたいということですが、今年のお正月の、十四、十五日などは一日になんども喘息の発作が起きまして、危なかったんですが、そこをとおり越して・・・・。去年の八月十五日から二十三回発作が、死線を突破したわけです。あんなにひどかったのを突破できたから、また今度も梅雨さえ明けたら大丈夫でしょうと思っておりましたんですけど。ですから六月終わりまでは原稿も書いていたわけです。相当日記見ますとつらくなっておりましたけれども。
 六年間ずっとベットの中でしたが、激しい発作が起きたのは、去年八月十五日の夜です。最初喘息で、そして喀血が続いたり、それからリュ−マチがひどかったり。そのリューマチは主に手のほうでしたが、足も少し痛かったけれども手が主だったのです。左が痛いと右もやっぱりものが書けませんでしたね。それで随分悩みましたが、それがおさまって、喜んで展覧会などいたしました。いたしましたといっても、里見ク先生がご親切に、「文芸春秋」の徳田雅彦さまにお話しくださって、木下敏夫さんらあちらが全部面倒見て下さった。おかげで銀座の文芸春秋画廊で去年の十二月にいたしました。
 ちょっと、前後いたしましたけれども、去年の四月に新潟の、新潟日報社で展覧会してくださったんです。それがとても評判よくて、新潟へみなさんいらしてくださって、あれだけのことできるなら東京でもってしてもらおうというので、お話が出て、知らない間にみなさんがご相談くださって、十二月の二十一日だったでしょうか、日はちょっと、たしかでありません。出品した歌はどうにか病気の中でも一生懸命少しずつ書きました。私が墨をすって、ベッドの上にふとんの上に風炉先屏風ですね、これを自分の上に敷きましょう、そしてその上に緋の毛氈を敷いて、文鎮で押さえて、長いものなんか縦にして、おきまして吉野が書くと少しずつ私が引っ張って、書き上がると応接間へきて乾かして、そういうふうにして紙を全部取りかえるとか、切るとかめんどう見ましてね。書くときはとっても楽しんで書いていたんですよ。いろぴろ酒の歌を書いてくれとか注文がたくさんありまして、だから字を書くのをほんとに楽しんだんですね。書こうといいだしたら、夜明けの四時ごろから墨するとか。夜、あしたの朝早く書くから墨すっておけというから、寝ないで墨をすっておきました。気分ののったときでなければ書けませんから。それであまりたくさん書くと疲れるから、少しずつ書かせました。もうこれでおよしなさいって・・・・・・。一時間か二時間書いているときもありましたが、元気のときはそのようにして、どうにか展覧会もできました。森繁さんなどが三日目に見にこられて、ぜひほしいから書いてくれって。三浦三崎の近くにヨットハーバーかなんか持っていらっしゃいましょう、砂島の魚がおいしいからと、新しい魚を持って吉野を見舞いに来て、これからぞくぞく吉野の歌から好きな歌書いてもらって楽しみたいといっていたんですが、まだ、いま来て頂いては疲れるからといってお断りしておりましてね。だから会えなかったことを残念だと・・・・・・。展覧会はとても好評だったんですよ。丈夫になったらまたしたかったでしょうけれども。
 それで十一月、十二月、どうにかそれでも書いたりしておりましたが、一月の十四日と十五日、一月に三回も発作が起きまして、もう三回も発作が起こるようじゃ自分もだめかなと覚悟したんですがそれもいいあんばいに助かりまして。それというのが、主治医の後藤久子先生って、隣の清川病院の女の先生ですが、吉野のことを、こういう人を助けたいって一生懸命に尽して下さったんです。夜でもなんでも、二時間半、三時間半、すぐとんできてくださって、おさまるまで注射し続けて、ついていてくださいましたね。ですから、去年の八月十五日からことしの七月十三日までもったのは後藤先生のおかげでほんと、あの先生のご努力があったからこそと思いますね。吉野の気力もさかんですけどね。表彰してほしいと思うくらい熱心で、ほんとに六年間よく尽くしてくださったんですよ。いいかげん遠いところの先生ですが、すぐとんできてくださるんです。お自宅は八幡さまの横なんですけどね、夜中でもなんでもとんできてくださいまいた。ありがたいと思います。あの先生にはよっぽどお礼しなければいけないよって、よくいっておりました。
 それで、三月と四月、食欲が全くなくなって、少ししかとれなくなりました。それでも先生の注射ので助かったんですね。それでこんど五月へ入りましてね。四日と七日と九日ですから五月も三回、呼吸困難起こしましたが、五月十日からさいわいのことに死ぬまで呼吸困難、おさまりました。不思議なことに五月十日から、長男が治り再出発しまして安心したせいでしょうか、その日から発作が起きなくなりましてたね。ほんと、喜んでおりました。
 それで五月、六月、食欲が出てきて、もりもり食べましてね、おかしいほど、こんどあれ食べたい、これ食べたいといって、毎日毎日料理屋から好きなものを取りましたね。淺羽屋という料理屋が鳥居のそばにありますが、あそこのうなぎや、てんぷらだの、幕の内弁当ですね。それからビフテキなんか好きでしたし、よくビフテキはうちでしましたけれども、大仏さんがしょちゅう東京からすばらしい、極上肉を買っちゃ届けてくださいましてね。ご自身で持ってきてくださったり。それからちらし寿司が好きで、おかしいくらいくり返し食べておりましたね。三度三度聞いては吉野の好きなものを食べさせましたが、糖尿がありましたから、甘いものどんなにほしがっても食べさせられなかったことがかわいそうですけれども。
 で、五月、六月が食欲があって、七月に入ってから雨が降り出しましたでしょう。それからだんだん弱ってきたんです。六月は空梅雨だったから、水が足りないで人さまにはお気の毒だけれども、空梅雨は自分のためにはありがたいって感謝しておりました。六月の終わりはまだああやって筆持っておりました。八幡さまのうちわ最後に書いたんです。八幡さまは毎年
うちわお作りになって、去年は鈴木大拙先生、一昨年は棟方志功さん、ことしは吉野だったんですよ。六月末までということですので、書いてすぐお届けしたんですよ。筆で書くのはこれだの、さっきの色紙(グラビア掲載)
が絶筆なんでございます。七月に入って降りだしてきてから、足のリューマチが起きて痛みだしましてね。痛い痛いって、ほんとに昼夜痛がったものですから、それで心臓が弱ったんだろうと、お医者さまおっしゃいました。七月の雨で、湿気の多い日が続いて、それが一番呼吸困難には毒なんですが、さいわい呼吸困難は起こさなかったけど足のリューマチですね。それの痛みでだんだん弱り、あまり食べなくなったのは二日前ころからなんですけど、それから喘息も起きてまいりましてね。十一日までは日記つけております。
もう読めない字ですけれども。それで十二日、十三日は、食べられるのはごくわずかなんですが、一生懸命、生きようとして食べましたですね。十二日の日は一日、ちょっと喘息の痰が出て苦しかったんです。ですからそれで疲れきっちゃったんじゃないかなと思うのですけど。
 十三日の朝は流動食をとりまして、お昼  十一時ごろになったときに、起こしてくれといいますから、私と娘と二人で一生懸命起こして、うしろへふとんをつっかいぼうしたんです。そしたらヨーグルトと、けさ飲み残したジュースの半分、あれも飲んでしまおうといって、ジュース半分とヨーグルト一つ食べましてね。
(略)吉野はほんとに眠るように、なに一つ苦しい表情をしませんでしたね。ですから長いこと医者をしているけれども、こんな安らかな死に方、はじめてで、もう仏さんになっていらしたんですねといわれました。ちょうどお盆の入りの日で。
 風呂敷に染めてありますけれどもね、一年前の歌ですけど、
(風呂敷を広げて)「彼の世より呼び立つるにやこの世にて引きとむるにや熊蝉の声」というんですが、去年の八月十五日に死にそうだったのを助かったあとにこれ作ったんです。ちょうど臨終のときと同じでしょう。一年目ですから。もし自分が死んだらこれを染めてお返しにでも配るようにと色紙に書いておりましたので、それでさっそく京都へ送って染めてもらったんです。それでこうやってお返しのための色紙も書いてくれましたし、お墓の字も自分で書いておいてくれました。お墓にもしお詣りにきてくださる方に、石屋の字なんかじゃありふれていますでしょう。吉野の字なら気がおさまるからといったら、吉野秀雄之墓と書いておいてくれました。
 お友達に上村
(うえむら)占魚さんて俳句の方ですが、いらして、その方とむかしいっしょに大磯を旅行しましたときに、島崎藤村のお墓が小さくてさっぱりとしていてとても感じがよかったんだそうです。おれのもこういうので白いのがいいななんていって、もしおれが先死んだらきみは、工芸家だから、きみ来て作ってくれと占魚さんに頼んでいましたので、占魚さんが立ち会って、うちの子どもたちとみんなで瑞泉寺に行ってまいりました。瑞泉寺には前に墓地を用意してありましたので、四十九日には瑞泉寺の墓地に納骨いたします。
 別に言い遺したことはありませんが、六月、七月はしょちゅう、自分はこんなに長く患って、ここへこんなに引っ込んだきりだけれども、こんなにみなさんから親切にしていただいてしあわせ者だといって、いつも感謝しておりましたですね。娘に、これじゃあんまり幸福すぎて、もうあと死ぬだけだといってたそうです。私には、そのうちにまた書くから墨すってくれななんていっておりましたですけど、又、辞世の歌ということですが、自分はしっかり辞世の歌作らなければと丈夫のときいっておりましたけれども、今度のそこにある歌
(遺稿短歌四十三首を指す)だってみんな辞世みたいなものですよ・・・・・・。死を覚悟して、自分はいつ死んでも、こんなに多くの方から親切にされたからしあわせだって。感謝の気持ちで、死ぬまで、おれは歌詠みだから歌を作るといっておりましたから、こういうのみんな・・・・・・・・・。ほんとにあの字(遺稿)あんな乱れておりますのやっと書いたんですよね。ですから意味、お読みになれないんじゃないかなと思うんですが。原稿をよそへ出すときは一生懸命にはっきり書いてましたよね。それでなにか後記に書いてましたけれども、「短歌研究」で百首を求めたり、だれかれから三十首とよくいわれます。求められるから作れたんで、しあわせなことだって申しておりました。でも短歌百首作るって大へんなことですよ、ことに病人は。病気の中で「短歌研究」や「短歌」にあれだけ歌を出して、病気の中で『心のふるさと』なんかのあの原稿、全部書いたんですから。『やわらかな心』は前からちょいちょい出したのに、たくさんの中から講談社の希望のものを集めて渡しましてね。それでも吉野が病気で私が手がかかるものですから、講談社が全部めんどうみて、装丁も校正も全部むこうです。『やわらかな心』というもの講談社でつけて本に出されたんですが、さいわいなことに日本中から反響が多くて、五版なで続きましたですね。まだこれからも出そうだなんていっておりますけれども、『心のふるさと』のほうはベッドの中で一生懸命書いて、一週間に一ぺんずつ毎日新聞に出した文章を最初二カ月か三カ月お願いしたいといってきたんですが、評判がいいからいつまでも続けてくださいということになって、二年半続けました。私、病人にいろいろなことさせてかわいそうだと思って、百回でよしたんです。
 吉野は、おれの葬式は簡単にしてくれといっておりましたが、お葬式には佐渡だの遠いところからいろいろな人がとんできてくださって、花輪が四十くらいきましたでしょうか、思いがけずきれいなお葬式になりました。ありがたいことだと思います。入口からここまで花でいっぱいで、火葬所から帰ってきましたらみんな片づけまして、二十いくつほどおいて、欲しい方に持っていって頂いて・・・・・。
 戒名は・・・・。会津八一先生が吉野にむかし命名してくれたんですが、清醇院釋文秀。ですからお葬式の前から約束してあったんですが、三浦三崎の本瑞寺の
洞外石杖さんて、禅宗の坊さんですが、その方に一番最初お願いしてあったんです。その後に瑞泉寺の和尚と仲よくなって親類づきあいになりましたんで、本瑞寺の洞外石杖和尚と鎌倉の瑞泉寺の大下豊道和尚お二人でご相談して、してくださったんです。じつは先生からつけていただいたこういうのございますけどといいましたら、禅宗の坊さんが自分でお葬式をなさる以上、ご自分でおつけなさるらしいんですね。ですからそれはそれで書いておいて、会津先生の門下の方たちとなにかのときはそれをお使いになって、きょうはこれにいたしますと、お二人で仲よく、すぐきまったんです、それが艸心洞是観秀雄居士。会津蘭子さん(会津八一氏令嬢)もおいでくださったでしょう、ひととおりお話しておきましたけれども、なにしろごたごたしたお葬式のときだものですから。
 ここに一緒に住んでいるのは一番下の娘夫婦。これからも一緒に住んでもらいます。ですから娘夫婦と私ですね、次男は鎌倉の浄明寺におります。・・・・・。家が寂しくなりますが、主人のあとを守っていきたいと思います。

                                      (昭42・8・25 吉野家にて談話筆記)
               洞外石杖
大下豊道

    
  瑞泉寺 山門                             仏殿

   
                             庚申塔 市指定有形民俗資料

   
 方丈書院 北面               方丈書院 東面


  
  吉野秀雄歌碑 「死をいとひ生をもおそれぬ人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ」

  
  山崎方代歌碑 「手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る」


最後の歌 未推敲原稿  吉野秀雄   遺稿  「短歌研究 第24巻第10号」より
梨の實は露したたらせ栗の實は黒く光れり君がこころざし     豊田勇へ
那珂の支流荒川師走なる鮎は身も裂けむばかり腹子もちたり  五味淵親子へ
悩みつつも農戀ふる君鉢植ゑの西川米の稲穂呉れたり     長谷川金重へ
紅梅の枝を別々の友くれつおのおの樹ぶり知ればおもほゆ
わが庭に牡丹三輪咲ける日に二尺の鯛を君は賜びたり    早見憲子へ
わがために春の菜採ると山澤(やまさわ)をかけめぐる君人かそも魔か
藁馬といへども木曽のたけり馬股間の具たくましくして   坂敬道へ
牝馬(めすうま)の素直さ好けれ腹掛のくれなゐにして牡馬(おすうま)に添ふ
わが五月飾(さつきかざり)は木曽の藁駒の牝牡と庭の菖蒲(あやめ)四五本
10 春日野の馬酔木ささげて來し友を上げて歸しぬ會ふ力なく   伊熊覚也へ二首
11 高円の山のさくらは散りぬれど葉をうるはしみ四五日賞でつ  
12 高額者所得番附を切抜きぬ何の故かはみづからも知らぬ
13 病氣ならず自殺にもあらず悶(もだ)え死にし小原保の母を忘れずえ
14 人間の仕出かす所業(しょげふ)果てもなし小原保かなし鈴木充かなし 所業(しょげふ):行い。しわざ。多く、好ましくないことにいう。
15 幼くて田舎に食ひし鹽鮭の鹹(から)きを戀ひて鹽鮭をさがす
16 昔嘗めし豆味噌の豆の焦がし方味噌の練り方をこまごまといふ 嘗め味噌:野菜・果物・穀物・豆・魚・獣肉などを入れてつくった味噌。副食や酒の肴にする。たい味噌・ゆず味噌・金山寺(きんざんじ)味噌など
17 新假名にて萬葉集の講釋を書くをかしさを人知るらむか
18 (ひず)みある短き息の出で入りを二六時意識すらくは苦しき
19 生かされて居るありさまに息継ぐは拙(つたな)き歌をなほ詠めとにや
20 段蔓(だんかずら)の櫻盛りと聞くゆふべ妻に半時(はんとき)の花見を許す
21 八幡前を散歩するわれを見つといふ魂抜け出でて花見すらむか
22 わが庭の春さへ知らむゆとりなくけふ見れば紫羅傘(いちはつ)の花も終りぬ
23 まれにかくわれの葉書に脱字あるを昔の友はかなしみくれぬ
24 青葉木兎夜更けになくを冥々の彼土(ひと)の聲とし聞くはわれのみか 木兎(ミミズク):
25 物も液も口よりぼろぼろこぼし食(は)むこのうつけさは妻の外知らず
26 今日幾日と妻に質(ただ)すは常なれど家の改正番地うかばぬ
27 生聞(なまぎ)きはつつしむものぞ病苦避けていつそ死にたしとはわれ言はず
28 醫師の努め妻の糞ひを目(め)のあたり知りていかでか堪へざらめやも
29 死や生やともかくとして瞬(またた)く間ふはふはと輕く浮くことぞある 瞬(またた)く:
30 元旦にベッドより伸ばす手に觸れし文庫本論語讀みて三月に入る
31 少年の日習ひし論語詞章には理屈とは別になつかしみあり
32 一口に論語といへども丸々と讀むは稀かわれもその一人なりき
33 老いの血の弾むが如き章句あり少年學びし論語章句に 章句(しょうく):1 文章の大きなまとまりと小さなまとまり。章と句。2 文章の段落。
参考 章句の学:儒教などで行われた経典解釈学の一形式。経書を句や章節で区切り、その後に句の意味や章の要旨を講説する形式をとる。前漢の今文経の博士たちのもとで行われた。
34 文庫本を支ふる輕さありがたしきのふ論語讀み今日福音書謹見
35 福音書の意味の疑ひいひしとき信徒なる妻は善き答へしつ
36 論語よみし勢ひ驅りて孫子讀む隣に並べる文庫本の故
37 孫子にも中共に新研究あるが如し紅衛兵ら讀むや讀まずや
38 孫子讀みてアメリカのヴェトナム戦略を二三度思ひ道にはづれ居り
39 いづこにてわれの病を調ぶるぞ新興連が玄關に押し込む 新興(しんこう):既存のものに対して、別の勢力が新しくおこること。また、新しくおこすこと。
40 佛も耶蘇も病を癒やす力なしといふをわらひてわが妻勁し 勁(つよ)し 参考 成り立ちの観点より言えば、
「強」は「弘(弓がゆみを表し、ムがその弦を表す)」と「虫(ここでは蚕の意か)」を合わせた会意の字で、天蚕糸(てぐすいと)の強靭なことをいう。
「勁」は「(はた織り機にたて糸が張ってある形)」に「力」を附し、のびやかで強靭なことをいう。
41 わが庭に今咲く花を無造作に挿せといへば梅と椿がかがやく
42 硝子戸に飛雨(ひう)の痕(あと)ある春の午後寒冷線の通過おそるる 飛雨(ひう):風まじりの激しい雨。
43 わが宿の白梅の花さかりなり雨氣空の黒くるしくて

  同号グラビア写真より   会葬風景       昭和42年7月15日 於自宅
  

  
memo October(短歌研究 編輯後記)
*今月号は、生前、吉野秀雄氏に100首をおねがいしてございましたが、七月十三日に逝去されましたため、同氏の新作「最後の歌」四十三首と、同氏の思い出の写真並びにとみ子未亡人の臨床談話を掲載いたしました。(略)   (H)

まとめ
昭和62年(1987)7月19日付東京新聞の「ひろば」の読者欄に「歌人・吉野秀雄をしのんで」と記された記事が掲載されていました。私はこの新聞を同本に挟んでおきました。「13日付筆洗い欄に、六十五歳で逝った歌人吉野秀雄のことが書かれてありました。「病む妻の足頸(あしくび)にぎり昼寝する末の子みれば死なしめがたし」同氏の短歌を読み感動しました。私も九歳で母を亡くし弟妹も幼かったのでその境遇が痛いほど分かり身につまされる思いです。秀歌はおのずからその光景がほうふつされて、またたく間に目がかすんできました。以前も、筆洗欄で吉野秀雄と八木重吉との関係を読み強く心を捕らえられて大切に切り抜き保存しました。そのとき紹介された同氏の作品の中に「末の子が母よ母よと呼ぶきけばその亡き母の魂も浮ばむ」がありました。愛妻に先立たれ、秀雄は縁あってたぐいまれな気立ての優しい重吉未亡人とみ子と再婚できたことを、短歌愛好者のひとりとして何よりうれしく思っておりました。古河市 無職 吉田春義 62」とありました。ほんとうに同感の思いをしています。
           注 「短歌」の十種は掲載の予定です。暫らくお待ちください。 2018・7・16 保坂

「短歌 第14巻10号」の中に掲載された「最後の歌 十六首」
病臥観庭 テレビも本も禁(と)められ居れば小半日庭の若葉を横さまに見る 横さま 1 横の方向。横向き。また、そのさま。
みどりの中に緑冴ゆるは柿若葉おのづからそこにまなこ吸はるる 柿若葉
風あるもなくも騒立つ合歓の葉は揺れのまにまに伸びゆくらしも らしも  らしい
今年竹の二本このたびは伐らざらむおのが命をおもひなどして
泰山木十数花咲くと妻いへどかしらうしろに曲げて見がたく 泰山木(たいさんぼく):モクレン科常緑高木 北米原産
称名寺の桜 足萎(な)えのわれは車に運ばれてかもかくも春の草に置かれぬ
目眩(めまひ)しつつ車を降りぬ春草を踏めばよろめき坐れば冷たし
床の上に想ひゐたりしひそけさはまさしく称名寺花かげにあり ひそけさ 花かげ:花の咲いている木の陰
称名寺の池畔しらじら花咲けりこれが最後のおもひにて眺む
桜ばな咲ける下かげ冷えびえと清き気配(けはひ)はやあや流れゐむ
春草のさかりの緑もりあがり天道虫の這ふが目に附く
なまなかの遊びならなく車の内酔ひくるしみしわが花見なり

                以上は去年(こぞ)のおもひでなり
なまなか(生中/生半):途半端なさま。

 (おうな)
對馬の媼
めしひにてラヂオの声を知りしゆゑ目のあきてわれの顔見たしとふ (めしひ)盲:目が見えないこと。盲目。また、その人。
二つの目明きし媼(おうな)の来む日まで鉢の牡丹花(ぼたんくわ)よくぞ保ちし 媼(おうな):年をとった女。老女。
話のみに聞きし約百記(ヨブき)を目のあきて読むよろこびをいくたびもいふ
帰りゆくは對馬厳原(いつはら)の佐須といふただにしづけき老(おい)のあれかし あれかし 【有れかし】「かし」は強意の終助 あってほしい。

終わりに
 最後の歌、十六首の最後の「帰りゆくは對馬厳原(いつはら)の佐須といふただにしづけき老(おい)のあれかし」と、穏やかな歌を詠ませて戴きました。全集五巻に所収されている「対馬のお婆さん」を読む迄は、歌の意味が正直のところよく分かりませんでした。お婆さんが吉野秀雄の語るラジオを聞いて、私の目が見えるようになったら会って話がしたいと、それに対し、お婆さんの来られるまでに牡丹の花が咲いていて欲しいと、そして、お婆さんは、今迄読みたかった「約百記」の聖書を手に取って読めたことを何度も語った。帰り行くは、穏やかな海の見えるふるさと佐須の山間。吉野秀雄は最後の歌の最後に「かし」と、お婆さんへの行く末に願いを込めた。「お婆さん、どうかいつまでも元気でいて下さいね」と云っているようにも、また、「對馬の媼」はどこか温かく正直に生きた吉野秀雄の人生そのもを語っているように感じています。 
 「最後の歌」はまだどこかにあるのかも知りませんが、最後の歌に「對馬の媼」を選んで下さった御遺族の皆様のこころねに感謝したいと思います。
 

参考資料
短歌研究 第24巻第10号 吉野秀雄追悼特集 ー吉野秀雄臨床記ー 吉野とみ子  発行 昭和42年10月 
短歌 第14巻10号 昭和42年10月 pid/7899072
第五十一回 艸心忌 歌びと吉野秀雄を語る会 平成三十年七月七日 鎌倉瑞泉寺 レジメ
吉野秀雄全集 第二巻 含紅集 昭和四十二年 未定稿・最後の歌 筑摩書房
吉野秀雄全集 第五巻 対馬のお婆さん 筑摩書房  (「潮」昭和41年8月に掲載)
約百記 従第一章至第七章 内村鑑三 注 聖書研究社 1904 (角筈聖書 ; 巻之1) pid/825707
北川太一様所蔵「第二回 艸心忌 御案内状」(写)
  参考 昭和44年 艸心忌 発起人
天野久彌 海老坂与一 鴨下萩江 久保舜一 齋藤正二 高田博厚 中村正道 三上次男 山口 瞳
安藤厚生 大田青丘 川越康司 小池巌 作久間木耳郎 富岡周吉郎 中山義秀 宮 柊二 山崎方代
安藤 寛 お仏次郎 川田俊子 小泉俊吉 佐藤佐太郎 洞外石杖 原  実 宮川寅雄 吉田昭一
安立スハル 小竹久爾 川端康成 小島政二郎 島村茂雄 永井龍男 日原 環 宮崎甲子衛
飯岡幸吉 金子佐一郎 唐木順三 小林秀雄 杉本三木雄 長島 健 深田啓吉 村田良策
伊馬春部 亀井斐子 木村 總 小山富士夫 鈴木光子 中村 精 牧野イサオ 吹@吉郎
上村占魚 亀井高孝 草野心平 今日出海 相馬信子 中村琢二 松下英麿 森川惣助


小林秀雄編「創元」創刊号に記された吉野秀雄の歌
吉野秀雄、門人として「多胡碑斷疑」の附記
参考 多胡碑・上野三碑関連資料集
吉野秀雄著雑誌「鶴岡 生誕七百五十年記念ー 源實朝號から 「金槐集研究所目解題」を読む、
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