城山の徳本上人念仏塔

2007・2・15 津久井町清雲庵念仏碑追加
2009・7・21 津久井町中野友林寺念仏碑追加
2009・12・26 無量光寺念仏碑裏面・望地県道脇追加
2011・8・11 厚木市上依知瑠璃光寺念仏碑追加  
2011・10・23 旧津久井町東開戸念仏供養塔を追加
2011・11・3 八王子市東浅川町原宿会館念仏碑と木食観正碑追加
2016・10・14 相模原市下溝古山の念仏碑追加


徳本上人坐像
平塚 宗源寺
 徳本上人は宝暦8年(1758)6月22日、和歌山県日高町志賀に生まれました。天明4年(1784)に出家した後は、草庵に住み、1日1合の豆粉や麦粉を口にするだけで、ひたすら念仏を唱え続けました。また、水行をしたり、藤の蔓につかまって崖をよじ登るなど、他に例のない過酷な修行をしたと伝えられています。
 寛政6年(1794)頃から始められたといわれる全国行脚は、紀伊・河内・摂津・京都・大和・近江・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など、驚くほどの広い範囲に及んでいます。

上人の足跡を物語る名号碑は全国各地に千基以上があります。城山にも五基があり上人の死後、建立されました。          引用 和歌山県日高町 徳本上人を訪ねて

 平成16年4月、相模原市では市内にある14基を登録有形民俗文化財として指定しました。「南無阿弥陀仏」と刻まれた独特の文字に特徴があります。現在は信仰を継承する人もなく石碑のみが当時の信仰の盛んだった頃を伝えています。

65. 大島上台の徳本念仏塔
66. 小倉宮原の徳本念仏塔
67. 原宿地蔵堂の徳本念仏塔
68. 久保沢観音堂の徳本念仏塔
69. 谷ヶ原大正寺の徳本念仏塔
70. 小松薬師堂の徳本念仏塔
71. 太井大蔵寺の徳本念仏塔
72. 三井の徳本念仏塔
73. 中野清雲庵の徳本念仏塔
74. 中野友林寺の徳本念仏塔
75. 寸沢嵐沼本の徳本念仏塔
 平成23年4月、相模原市では上記の旧津久井郡下徳本上人念仏塔10基と大島地区の1基を新たに追加し登録有形民俗文化財に指定しました。これで相模原市全域の徳本念仏塔が総て指定されたことになります。
 
尚、青根地区長昌寺境内と韮尾根地区にある霊随上人念仏塔の側面に徳本上人の名前が記されてありますが、現段階での登録文化財としての指定は受けていません。
      
 原宿徳本上人念仏塔 市神社境内          久保沢宿徳本上人念仏塔 観音堂境内
   文政3年(1820)                文政3年(1820)


      
 小倉 火の見櫓下 徳本上人念仏塔   維持文政3年(1820)    左側面
                                「開○ 一遍上人五十二代 他阿花押」

 
 小松徳本上人念仏塔 小松自治会館
 文政6年(1823) 160センチメートル
 
     徳本上人像
 徳本上人御勤誡聞語 文政二年
         「武蔵野」 第十一巻第六号より複写

  
  谷ヶ原徳本上人念仏塔 大正寺境内
  文政4年(1821)

   旧相模原市内の徳本上人念仏塔(一部)

   相模原市の徳本念仏塔が
        新たに登録有形民俗文化財となりました。


                    広報 さがみはら 平成16年4月号より


      
 相模原市相原二国橋脇 徳本上人念仏塔 正泉寺あみだ堂
  移送前             移送後

      
              相模原市大島  長徳寺境内 文久2年
 
   
 橋本 香福寺                   上大島 83×44×18 講中 文政三辰年

  割れそうな上大島の徳本念仏塔       撮影2010・11・30  震災後 撮影2011・5・3
   

              撮影 2005.9.23        撮影2009・12・23
   
 下九沢 六地蔵     原当麻 無量光寺       同碑の裏面 「五十二世 他阿上人

      
  田名・陽原(移動後) 南光寺境内  望地県道脇(旧地)         田名 山王坂 
文政五年陽原・望地講中建之
交通安全 発願南光廿六世 滴水三代
昭和四十七年八月  日再建
 
 上溝元町自治会館(高厳寺)
   
         下溝古山 104×12 p
         文政四辛巳年三月吉日
        
 
 大島日々神社 文政3年
 道標を兼ねた念仏塔
 
 






   旧津久井郡内の徳本上人名号塔
   
  津久井町太井 大蔵寺 文政4年

   
 津久井三井 徳本堂 文政2年(1819)
   高さ(280×166)
         
   
    大ヒキ石

    
 津久井町又野 実相院(一番右側)       文政4年(1821)

   
 相模原市津久井町中野 清雲庵          文政4年(1821)


 
 津久井町中野友林寺 年号なし材質 石老山石
  137×60×50 基礎の高さ 55cm
   
   
 相模原市相模湖町沼本 文政二歳卯 八月日
                            撮影2011・10・22
   
  志道の旧道、この先に念仏供養塔がある。          ↑念仏碑 津久井町東開戸

徳本上人 念仏供養■  文政二■
参考 念仏供養塔
文政元年10月6日に徳本上人が没してから間もなく、この場所に「念仏供養塔」が建立された。供養塔の右側には徳本上人と記されている。石碑の下は斜面に建立されているため土で埋まり養の文字の途中から、また年号では時期が二以下が判読できない状態にある。 
 建立されている場所は道が五差路に交差しているところで、石仏群の中には、百番供養塔(文化9年)、廻国供養塔(寛政11年)、石経墓(文政2年)、馬頭観音や牛頭観音が群をなして建立されている。
 「徳本上人名号塔」と云われている南無阿弥陀仏の文字は直ぐわかる独特の筆使いだが、この塔は丁寧な字で「徳本上人 念仏供養■」とある、非常に珍しいため、今後の研究課題として掲示した。
 
   
 町田市 

   緊急報告
   町田市上小山田町神明神社2582番地           撮影2013・3・16
   
                        ↑ 倒れている徳本上人念仏塔
正面
右側
左側
念仏講中
武州 多摩郡 上山田村 平○ 文政七甲申九月吉祥日
世話○  ○

   
               ↑       古道の面影を残す景観(石仏群は道路の右側脇)

 
 北側から南側を見た景観北側から南側を見た景観


                     (参考)
   
 町田市相原 円林寺境内 文政5年 町田市下小山田町 大泉寺入口 天保5年

研究課題としての徳本念仏塔

厚木市上依知 瑠璃光寺の徳本上人念仏塔                撮影2011・4・20

瑠璃光寺         徳本 上人 念仏 講中                  寄進した村名
(正面

    本山五十六主
南無阿弥陀仏 他阿





(右側面)
維時嘉永三庚戌歳
孟冬吉祥日造立之

(左側面)
當山五十五世
真阿大愍上人代

(基壇右側面)
河入村 及川村 半縄村 箕輪村 坂本村 大塚村 八菅村 
梅澤村 熊坂村 六倉村 関口村 中依知村 長坂村 
下依知村  山際村 千頭村 
上中下荻野村 金田村 棚澤村
妻田村 三田村 當村

(基壇正面)
徳本 上人 念仏 講中
(基壇左側面)
厚木
石工 秋本忠治良信重
 当麻山無量光寺の対岸、上依知地区に瑠璃光寺と云う時宗の寺があります。寺は段丘面の斜面に建立され石段を上りながら寺の中に入ります。六字名号塔はその石段の左側にあります。念仏塔の建立は嘉永3年(1850)で、24ヶ村に広がる「徳本上人念仏講中」の人々によって寄進されています。
 徳本念仏は突如として現われ爆発的な勢いの中で人々に受け入れられ各地に伝播されて行きました。当初は個人的に、又各集落毎に講中を形成し信仰されて行きましたが、時代と共に講中と云う組織が、より大きな集団を形成し発展をして行きました。こうした大きな集団はやがて崩壊の道も暗示させています。
 徳本念仏塔建立の時期は徳本上人没後の文政期が最も多く、次第にその数を減らして行きます。こうした状況下の中で、瑠璃光寺に大規模な講中が出現し念仏塔が建立されたのです。
 旧津久井町韮尾根地区の「六字名号塔」は当麻山無量光寺五十二代霊随上人が建立、碑文下に記号のような書き方で上下に「徳  本」、左右に「中 講」と記しました。
 他項(津久井を走る霊随上人)で霊随上人との関係を既に述べましたのでここでは記載をしませんが、徳本上人と当麻山無量光寺五十二代霊随上人との関係は深く、津久井を含む旧高座郡を中心に多くの念仏塔を残し当麻山無量光寺との関係をより深いものにしています。
 同市内には同一敷地内に徳本念仏塔と霊随上人念仏塔が並ぶ寺もあり他にその類例を見ません。今回、信仰の形態の変化を瑠璃光寺の念仏塔に例え考えてみました。微細なことかも知れませんが、こうした研究が今後、進むことを期待して行きたいと思います。










薬王寺 平塚市纒      新田朝氏夫妻の供養塔

 薬王寺境内のお地蔵さん              徳本上人念仏塔


徳本上人坐像 平塚 宗源寺 徳本上人念仏塔(墓地内)           撮影2006.7.5
     
参考地
東京都八王子市東浅川町 原宿自治会館敷地内、徳本上人と木食観正上人の碑について
                          撮影2011・11・3
    
  表  南無阿弥陀仏 徳本 印       表 木食  観正
  裏  文政四年十月 日         裏 文政四辛巳年十月 日
       惣講中                惣講中
 この会館は二階建てになっていて、一階の西側に薬師堂が組み入れられている。堂の中には三つか四つお厨子があった。中にどのような仏様が安置されているかそこまでは未だ分からない。この元薬師堂の敷地内に、しかも隣り合わせに、同時期、同じ集落の講中の人々によって石碑が建立されたのである。背面に年号が刻まれてあり、その筆跡は同一人物である。
 徳本上人は文政元年に亡くなっているが、建立された文政四年は各地で盛んに念仏碑が建立された時期でもある。こうした時期に木食観正上人の碑が同じ人々によって建立されている。そのことが、珍しく気になったので掲載した。保坂記


                      徳本上人の年譜   
西暦 和年号 年齢   行 実
1758 宝暦8年 6月22日、紀州日高郡志賀村久志に生まれる。
1759 9年 1 1
1760 10年 2 1
1761 11年 3 1
1762 12年 4 隣家の小児が急死したのを知り念仏を唱える。
1763 13年 5 1
1764 明和元年 6 1
1765 2年 7 1
1766 3年 8 1
1767 4年 9 出家しようと父母に申し出たが許されず。
1768 5年 10 1
1769 6年 11 1
1770 7年 12 1
1771 8年 13 1
1772 安永元年 14 1
1773 2年 15 1
1774 3年 16 1
1775 4年 17 1
1776 5年 18 1
1777 6年 19 1
1778 7年 20 1
1779 8年 21 1
1780 9年 22 1
1781 天明元年 23 1
1782 2年 24 1
1783 3年 25 1
1784 4年 26 6月、出家
1785 5年 27 30日の不断念仏を修業し、大和国吉野郡十津川の山の辺に草庵を営み、念仏修業に励む。
1786 6年 28 1
1787 7年 29 1
1788 8年 30 1
1789 寛政元年 31 1
1790 2年 32 1
1791 3年 33 1
1792 4年 34 1
1793 5年 35 10月より100日念仏を行う。
1794 6年 36 1
1795 7年 37 1
1796 8年 38 1
1797 9年 39 1
1798 10年 40 高野山に登る。
1799 11年 41 1
1800 12年 42 1
1801 享和元年 43 1
1802 2年 44 1
1803 3年 45 関東に下向。
1804 4年 46 日光登山。江戸、小石川伝通院の智厳について学ぶ。
1805 文化2年 47 1
1806 3年 48 1
1807 4年 49 1
1808 5年 50 1
1809 6年 51 1
1810 7年 52 1
1811 8年 53 1
1812 9年 54 5月27日、江戸城に登城、舜恭院殿に面会。
     (2013・2・22 登城の個所再検討要)
1813 10年 55 1
1814 11年 56 芝増上寺の典海上人の招きで江戸に来て、小石川に一行院を再興する。
文化十一戌年の七月始方より、江戸四里四方の老若男女大に群集することこそ出来たる。其ゆえは紀州の山奥に壱人の聖あり、其名を徳本という。彼僧すでに七八年以前小石川の伝通院へ来り、日課念仏を人々にすすめ、十念を授る事にて有りけるに、ことし又来りて前の如し。しかるに七月中旬より日に日に参詣の者多くして幾千という事なし、されば我も人も授かりて極楽を往生せんと、老となく若きとなく日夜朝暮伝通院に充満したり。夫れ故に、月の五ノ日斗出席して押合押合、上が上に群集する程に、其庭にて悶絶などせし老人も少なからず。今日はかしこの諸侯へまぬかれ、一ツ橋ノ御館へ行給ふとて其日をよく聞しりて往還につづく人さながら山をなす。道々十念を授ること成とぞ。そもそも此徳本という僧は不食の疾にて、幼稚の時より五穀を嫌ひただ一向専念に佛名を唱へ、更に世事にかかわらず。「我衣」より(東洋文庫蔵) 
1回目 9月21日〜10月22日まで
   相模強化(34日間) 箱根塔之峰阿弥陀寺に、湯治を兼ね訪れる。また澄禅上人、
     弾誓上人をめぐる旧跡も訪ねる。

1815 12年 57 2回目 8月14日から10月まで   伊豆・相模教化(77日間)
1816 13年 58 3月 箱根、阿弥陀寺境内に「徳本念仏供養塔」を造立。
     (裏面に南無阿弥陀仏五万日大回向)
3回目 2月17日から3月7日まで  下総教化(19日間)
4回目 3月20日から9月7日まで  信濃・加賀・越中・越後教化(171日間)
1817 14年 59 5回目 1月23日から4月2日まで  下総・上野・下野教化(69日間)
6回目 7月17日から10月9日まで 下総教化(19日間)        
7回目 11月2日から12月10日まで川越教化(39日間)
資料「徳本上人関東摂化 蓮華勝会 巻九」より
十一月十五日より十八日迄、武州八王子宿於大善寺に化益有之ける、
十五日
    一、念仏会歓誡三座有之、当山ハ壇林也、境内も広し、本堂も広けれとも参詣の諸人充満しける事、前に
       一倍して大群集なり、

十六日
   一、念仏会歓誡三座、遠近老若男女群集して昨日よりも多く参詣有之けり、
十七日 (徳本念仏の唱え方)
一、右同断、諸人参詣十六日よりハ劣りける、夕座○而回向あり、
抑行者於何地にも勧誡の度毎に、六字分明之義を教示(せ)らるる事至て深切也、先念仏開◎の始に三四称ハ一字ッ、切て唱へ、猶又勧誡の時ハてん一字も切りて十念唱へ、次ニ二字ッ、十念唱へ、終にハ鉦を打唱る事等まで、至而叮嚀ニ被致教示真言は別記有り然に行者不参以前ハ、於何地只々訛略之念仏のミなり、然ハ一度参られての後ハ貴賎都鄙を論せす老若男女をいとわず、悉く皆六字分明ニ帰す、当山なとも初てハ多分訛略有りしに二日目よりハ、ミな分明になりぬ、当寺に限らす大名旗本等何も化益におゐてハ皆以て如斯、誠に有かたき例しなり、
                         悉く(ことごとく) 如斯(かくのごとし)
十八日(剃髪作法)
一、早朝門にて名号石開眼、諸人群集する事夥(おびただ)しく 、夫より、直様当所世話人阿波屋与市方ニて斎の供養に招請に被参、其所に於て名号石開眼等有て、程なく大善寺へ帰寺、諸人の参詣夥(おびただ)しけれハ十念両度、日課百辺ツ、授申されける、但し八ツ時より於本堂剃髪之作法、八王子其外近在の老若男女八百五十五人也、
抑当山の御丈室ハ便蓮社速誉裕海和尚とて殊の外御信心も厚く、深く行者御帰依有り、滞留中而も万事御叮嚀之至、申尽し難き事になん侍(はべ)りぬ、
                    夥(おびただ)しく
十九日
(略)
      三心も四修も五念も南無阿弥陀仏申すばかりで往生ハする
            元祖大師御名号之図
        至誠心  南無阿弥陀仏   源空
        深心   南無阿弥陀仏   源空
        回向誠心 南無阿弥陀仏   源空
かくて八王子の化益も十八日迄ニ終しかハ、霜月十九日大善寺を出立し、相模国と志さす、折から雨降寒気もつよく未夜深に侍りしかとも、老若男女名残をおしミ群集する事夥敷、手に灯釘うちかかけて御駕の前後に附しとふに、五六丁ハ打ささえ透間もなく打かこミ、高てうちん数十張前後左右に打立て、称名の声もいと高く誠に有かたき事になん侍(はべ)りぬ、程なく扱山の峠を越へて橋本の里なりし瑞光寺と云へる禅寺にて暫く休足致しぬ、諸人群集する事夥し、程なく爰(ここ)を立て」当麻の里とかや無量光寺とて一遍上人の流れの寺あり、此寺にて斎を致しぬ、寺主大ひに帰依致され化益の義願ひ申されける故、斎後於本堂一座の化益有りけり、本堂ハ云ふに及ハず、境内堂外迄遠近の男女群集し、然ルニ折悪敷雪降り来り寒気も一入強くなりしかとも、本堂勿論の事堂外の輩迄一人も帰るものなく、頭に雪を頂きなから静まり返りて聴受しける、誠ニ有かたき事なりける、斯而歓誡も終しかハ、日もはや暮に及ひけれハ、今宵ハ此寺ニ止宿致しぬ、明れハ十一月廿日雪積りたる雪を踏分けて未明に当麻を出仕し、同国の国分村」の清水寺にて斎を致しぬ、此所に斎前名号石の開眼あり送迎の道俗群集しけれハ、斎後本堂におゐて念仏暫く相勤りぬ、日課作法等有り、程なく此所を出立しあつきの渡りを越へて妻田の村の西福寺へ着侍りぬ、此寺にて明日一日化益之義相願ぬ、着後本堂の脇にて名号石の開眼有り、諸人群集誠ニ夥しき事也、
一、十一月21日、於相州妻田西福寺化益、
             21日
一、此西福寺に於て今日計、念仏会歓誡三座有之、未明より」暮方迄諸人参詣本堂境内充満す、此辺ニおゐて六万辺誓受之寺院多分有之、水堂の清水寺禅宗也当麻山無量光寺他阿上人時宗、何れも六万辺御誓受なり、
明れハ22日未明に西福寺を出立す、(略)


1818 文政元年 60 10月6日、没
1819 2年 津久井三井 徳本念仏碑を造立。
1820 3年 久保沢・原宿・小倉徳本念仏碑を造立。
1821 4年 谷が原・津久井町中野ー清雲庵徳本念仏碑を造立。
1822 5年 1
1823 6年 小松徳本念仏碑を造立。
1824 7年 1

   
参考資料
漂白の聖たち −箱根周辺の木食僧− 西海賢二著 岩田書院 1995年6月発行
近世遊行聖の研究 ー木食観正を中心にー 西海賢二著 三一書房 発行 1984年7月
念仏行者徳本上人 −町田の徳本名号塔について− 萩原清高著 町田地方史研究 第6号
徳本上人 逸見敏刀 「武蔵野」 第十一巻第六号 発行 昭和三年六月  


  参考  エイサー
         
 
 平成16年4月17日(土)法政大学 多摩キャンパスエッグドーム 「ダンススクール」において第28回沖縄伝統芸能(エイサー)の体験講座が開かれ偶然見学することが できました。講師は町田琉の皆様でリーダーの太鼓に合わせ様々な動きが見られました。
 エイサーの起源は江戸時代の始め浄土宗の僧、袋中(たいちゅう)上人が新しい経典を求め明国に渡ろうとしたところ入国を拒否され、結局船は琉球に到着したと云われています。その後、琉球王尚寧(しょうねい)の手厚い保護と深い帰依を受ける一方、人々に仏教の教えを、平易な琉球の言葉と、振りを伴う念仏踊りで分かりやすく説いたと云われています。
 徳本念仏は残念ながら現在、城山には伝承されておりいません。徳本念仏は、彼独特の念仏行と云われ木魚と鉦を交互に激しく乱打したと伝え、この時多くの信者が一時的なエクスタシー状態になったと云います。
 エイサーや京都に伝わる地蔵盆の中にそうした共通性があるように思えますがいかがでしょうか。

             霊随上人に関する研究と今後の課題
             津久井を走る霊随上人
             船に乗ったお地蔵さん
             大正寺の百体地蔵様は何体? 
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