谷崎潤一郎著『吉野葛』の奥を読む  yosinokuzu.html
           ー谷崎小説の原型を求めてー  
2019・3・21 作成開始
2019・9・11 「終戦日記」の一部を追加する。

はじめに
 武田久吉博士、資料調査の中で、「學友會雜誌 東京府立第一中學校學友会」の何冊かが出てまいりました。その雑誌の中には、友人でもある梅澤観光、市河三喜、鳥山悌成や河田黙等の他に土岐善麿や谷崎潤一郎等による寄稿文や詩歌等も含まれていました。
 このまま、見過ごすのも惜しくなり、その残片を掲載して見ることにしました。
 『吉野葛』は名作であることに違いありませんが、本当は、もっと違った内容のことを書こうと思っていたのではないかと思います。
 「文豪」と呼ばれることを当たり前のようにした谷崎潤一郎は、恐らく厖大な量の資料を集めたに違いないと思います。世に「起承転結」と云う言葉があるように、小説は順調に「承」のところまで続くが、次の「(転)と結」の部分にか「私の計画した歴史小説は、やや材料負けの形でとうとう書けずにしまったが、この時に見た橋の上のお和佐さんが今の津村夫人であることは云う迄もない。だからあの旅行は、私よりも津村にとって上首尾を齎した訳である。」と詫びを添えてから結んだのである。そうなると読者は、「(転)と結」の部分は一体何だろうかと、あれやこれやと詮索したくなって来るのである。谷崎は、あえて、そこを読者に読み取らせようとしたのではないかと。
 資料調査の中での、たまたまの偶然に、思い当たるフシがあると思われたので本当の「(転)と結」を書き下ろす意味でも、皆様に御批判を仰ぎたいと思ったのです。
 でも、その事を思う存分に書くことは、今日の谷崎文学ではなくなることを作者はちゃんと知っていたのです。
                        上首尾(じょう しゅび): 物事がうまく運ぶこと(さま)
 「學友會雜誌」に発表した谷崎潤一郎の作品

學友會雜誌 41号
編輯兼発行人 土岐善麿
資料 夏期休暇(全文)                    甲四年 谷崎潤一郎
墨堤の花に戯れ、飛鳥山さては小金井の霞に酔ひて、三春の行楽に耽りけんうらゝかに、のどけき時も遂に過ぎて、将に夏期休暇は來るらんとす。此時に方りて吾等は身體を修練し、俗膓を洗濯して更に新学期に入らざるべからず。東都にある者は、去て風光洵美昔に變らざる吾が故郷の山水を訪ひ、或は和氣洋々たる父母兄弟のまどゐに連り、平生苦学の勞を慰むべし。學友相誘ひ、草鞋脚袂に軽装して、山野を、緩渉すれば、峨々たる水の激する所、身は遂に自然と同化して塵界を解脱する想あるべし。近く相房の海邊に至れば、海水渺妨茫として遙に天空と連り、澎湃たる波涛怒りて岸を噛み雄大の景以て吾人の心境を弘うし、浩然の氣を養ふに足る。更に遠く百里の異郷に遊ばゝ、風俗の變人情の相違地理學
の智識を得、詩想を養ふべし。東都にある者は夙曉不忍池畔に蓮華を賞し、入谷に朝顔をとひ、或は溶々たる墨田川に遊泳を試み、朝夕の清涼なる頃は、緑陰にありて、書を鐇くも亦よかるべし。

「學友會雜誌」の中の谷崎潤一郎と土岐善麿の作品名
學友會雜誌 発行年 主な内容
學友會雜誌
 38号
明治35年7月 論説/「道徳的観念と美的観念」甲二年谷崎潤一郎
韻文/「こしをれ」甲三年中村清吉等
     小島高徳櫻樹に題する圖に 甲二年谷崎潤一郎
      
衛士が焚くかゞり火白く夜はふけて鎧の袖に櫻ちるなり
學友會雜誌
 39号
明治35年12月 文苑/「盆の夕」甲四年土岐善麿
批評欄/「盆の夕」甲四年土岐善麿君  (陽)・(嶺)名で二編あり
學友會雜誌
 40号
明治36年3月
文苑/「ふる郷」甲二年大貫雪之助岡本かの子の兄
韻文/「山樵」甲二年大貫雪之助、「歌反古」甲二年大貫雪之助
學友會雜誌
 41号
明治36年9月
文苑/「五里」 丙五年土岐善麿、「夏期休暇」 甲四年谷崎潤一郎、「伊豆の海濱」乙三年大貫雪之助
雜録/「無題録」 甲四年 (横書・連名)谷崎潤一郎、大島竪造 卯月(4月)十日 渡良瀬の堤上を過ぐ。略」
學友會雜誌
 42号
明治36年12月 文苑/「二里」 丙五年土岐善麿、「春風秋雨録」甲四年谷崎潤一郎、「名なし草」 乙三年大貫雪之助
韻文/「友におくるうた」甲四年 谷崎潤一郎、「秋風雜咏」乙三年大貫雪之助
學友會雜誌
 43号
明治37年5月 論説/「文藝と道徳主義」 甲四年谷崎潤一郎
文苑/「誰か萬古の長針を立つる者ぞ」丁四年恒川陽一郎
韻文/「述懐」甲四年谷崎潤一郎、「黄菊白菊」 乙三年大貫雪之助

資料ー1 谷崎潤一郎、忠臣、小島高徳を詠む
 明治31年4月、版元松木平吉が「『櫻ノ詩 : 児島高徳』 月耕作 (日本花圖繪)」を摺り上げ発売した。明治28年にもあるので、当時の人々に好まれた浮世絵であったのかも知れません。谷崎潤一郎は、多分この絵を見て、歌を詠んだのだと思われます。冑に僅かな桜の花びらが散っています。高徳は後醍醐天皇を救いにここまで来ましたが、あまりの警護の厳しさで、中に入ることができません。そこで、高徳は桜の木を削り十字の文字を書いたと伝えられています。越王、勾践(こうせん)を後醍醐天皇に例え、やがて范蠡(はんれい)と云う強い武将が現れ、きっと天皇をお助けすることでしょう。」と勇気づけたのです。小島高徳は南朝の忠臣として崇められた。
 谷崎はそうした逸話に感動、「衛士が焚くかゞり火白く夜はふけて鎧の袖に櫻ちるなり」と和歌を詠みました。


 『桜の詩』 尾形月耕
 明治28年刊 『日本花図絵』より

  国立国会図書館書誌ID 000010611516
 請求記号234-79















































































  向原の八木薫さんが覚えていた漢詩 
        病床での聞き取り 2019・3・21 採話

資料ー2  井上靖による「吉野葛」の解説文より
 
新潮文庫 平成22年9月 61刷
(略)『吉野葛』は、一人称で物語ってゆく所謂(いわゆる)説話の形を採った作品で、大和(やまと)の吉野を旅行してそこの風物自然をを写しその土地の歴史伝説を語って行く随筆風な描き方で全編を貫きながら、一緒に旅行している津村という友人の生い立ちの物語を挿入(そうにゅう)し、津村の母への思慕の情を重要な主題として設定している。
 氏はこの作品で、関西の風土への愛情と歴史への愛着、さらに又失われた古きものへの愛惜を、美しい叙情
(じょじょう)として描いている。随筆『陰翳礼賛(いんえいらいさん)』の中に見出(みいだ)す氏の愛惜すべきもの≠ヨの熱情的詠嘆(えいたん)が、ここでは静かな叙情となって流れているのである。そうした中へ友人津村の物語は巧みに嵌(は)め込まれ、しみじみとした情感となって読む者の心に迫って来るのである。随筆的小説と言ってもいいし、逆に小説的随筆と言ってもいいかも知れぬ。
 作中、津村が母へ寄する思慕の情は切々として読者に迫るものがあるが、こうした母への思慕を主題とした作品は、『母
を恋うるの記』や『少将滋幹の母』その他なお幾編かを算えることが出来る。氏は常に永遠の理想の女性として母を描いている。氏の女性観の根底(こんてい)に母≠ェ坐(すわ)っていることは氏を理解するために重要なことである。(略)
「吉野葛」に登場する地名と人物の一覧
登場人物 地名その他
その一、自天王 南朝様・自天王様(南朝の後裔)・後亀山・北山宮・義満・後醍醐天皇・楠二郎正秀・万寿寺宮・土御門内裏・楠氏越智氏・間嶋彦太郎・穴生の掘氏・大塔宮・竹原八郎・役の行者・楠氏の一女姑摩姫・吉野王・一高時代の友人の津村と云う青年・天武天皇・昆布氏

大和アルプス・太平記・大台ヶ原山の麓入の波・大杉谷・三の公谷・上月記・赤松記・将軍の宮の御所跡である神の谷の金剛寺・伯母ヶ峠・・・・・・・吉野十八郷・南山巡狩録・南方紀伝・桜雲記・十津川の記・五鬼継の部落・柏木の附近では南朝様を毎年2月5日に祀る・大峰の修験者・熊野詣り・馬琴の作に「侠客伝」という未完物がある・上流の国栖・下流の葛・五社峠・八幡平・山伏・明神が滝
その二、妹背山 大判事清澄の息子久我之助・妹背山婦女庭訓の作者・維盛・静御前の初音の鼓・二人静 妹背山・若草山・武蔵野と云う宿・六田の淀・吉野山・関屋の桜・蔵王権現・吉水院・中の千本・六田の淀の橋・宮滝・国栖・大滝・迫・柏木・熊野浦
その三、初音の鼓 天武天皇の吉野の離宮・笠朝臣金村・義経・内藤杢左衛門・大谷源兵衛老人・村国庄司男依・大友皇子・静御前・蓮如上人・大谷氏・松誉貞玉信女・鶴ヶ岡の社頭・頼朝 野州の塩原・三船山・秋津の野辺・宮瀧村・うたたねの橋・喜佐谷村・上の千本・苔の清水・西行庵・中院の谷・菜摘里・樋口・大谷と云う一と際立派な家・菜摘川・吉野川・川上白矢ガ嶽・飯貝村・西生寺・贈正一位大相国公尊儀・柿のずくし
その四、狐カイ
 
(こんかい
大谷家・竹田出雲・大谷源兵衛・菜摘の里・貝原益軒・津村・忠信狐・東京の一高時代の同窓・島の内の旦那衆・町方の女房・盲人の検校・母・祖母・姉・妹・いたはしや母上は・丁稚や下女・与市兵衛・おかや・お軽・奉公人・雀右衛門・馬方三吉・お乳の人の重の井・狂言作者・安倍の童子・ぼんち 妹背山・柴橋・和州巡覧記・宮滝・吉野川・浄瑠璃・生田流の筝曲・地唄・文楽座・掘江罪座・葛の葉の子別れ・白狐・信田の森・船場・島の内・親の在所が恋いしゅうて・忠臣蔵の六段目・深編笠の二人侍・自分は信田の森に行けば母に会えるような気がして・葛の葉稲荷の祠・絵馬堂・子別れの場押絵・河内木綿の産地・機屋・千本桜の道行
その五、国栖
 
母は大和の人・浦門喜十郎・粉川様内おすみどの・昆布助左衛門・母が身売りをした新町九軒の粉川・今橋の浦門と云う養家・昆布由松・おえい・おすみ・おりと・津村の祖母・国栖の親戚

千本桜の芝居・大阪の色町へ売られ・琴唄の稽古本・お家流の筆跡・茶屋酒・岡惚れ・文反古(ふみほぐ)・艶書・子をおもふおやの心はやみ故(ゆゑ)にくらがり峠のかたぞこひしき・くらがり峠・御屋しろの稲荷さま・白狐の命婦之進・新町の館・上市・色里の勤め奉公は、芸子・遊女・茶屋女・身売りの証文・喰焼奉公人・琴が大阪の娘の形見・二十五絃弾月夜・不堪清怨却飛来・桐の匣・中に琴柱・琴爪庭の稲荷の祠・・白狐の命婦人之進・注連縄・国栖の親戚・紙すきの工場
その六、入の波
 
(しおのは)
十七八の娘・お和佐・おえい婆さんの娘・南朝の宮方・この時に見た橋の上のお和佐さんが今の津村夫人




ひびあかぎれに指のさきちぎれるよふに・柏木附近の農家・国栖の昆布家・熊野鯖・例の小説の資料を採訪・吉野川源流を究めて来る・東川村・亀山天皇の皇子小倉宮の御墓・五社峠・柏木・伯母ケ峰峠・北山の荘河合・自天王の御所跡・小橡の龍泉寺・北山宮の御墓・大台ヶ原・五色温泉・三の公の溪谷・八幡平・隠し平・入の波・柏木・国栖・木の本・二の股川・オクタマガワ・地蔵河原・御前申す(岩)・べろべど(岩)・逃れ来て身をおくやまの柴の戸に月と心をあはせてぞすむ(北山宮御歌)・鉄砲風呂・吊り橋

谷崎潤一郎の吉野川水源踏破とその前後の年譜
西暦 和年号 谷崎
潤一郎
田中
正造
幸徳
秋水
出来事
1828 文政11年
1829 12
1830 天保元年
1831 2
1832 3
1833 4
1834 5
1835 6
1836 天保7年
1837 8
1838 9
1839 10
1840 11
1841 12 11月3日(旧暦)、正造生まれる。
1842 13 1
1843 14 2
1844 弘化元年 3
1845 2 4
1846 3 5
1847 4 6
1848 嘉永元年 7
1849 2 8
1850 3 9
1851 4 10
1852 5 11
1853 6 12
1854 安政元年 13
1855 2 14
1856 3 15
1857 4 16
1858 5 17
1859 6 18
1860 万延元年 19
1861 文久元年 20
1862 2 21
1863 3 22
1864 元治元年 23
1865 慶応元年 24
1866 2 25
1867 3 26
1868 明治元年 27
1869 2 28
1870 3 29
1871 4 30 9月23日(旧暦)、秋水生まれる。
1872 5 31 1
1873 6 32 2
1874 7 33 3
1875 8 34 4
1876 9 35 5
1877 10 36 6
1878 11 37 7
1879 12 38 8
1880 13 39 9
1881 14 40 10
1882 15 41 11
1883 16 42 12
1884 17 43 13
1885 18 44 14
1886 19 45 15 7月24日、潤一郎、生まれる
1887 20 1 46 16
1888 21 2 47 17
1889 22 3 48 18
1890 23 4 49 19
1891 24 5 50 20
1892 25 6 51 21
1893 26 7 52 22
1894 27 8 53 23
1895 28 9 54 24
1896 29 10 55 25 〇この年、母と歌舞伎『義経千本桜』を観劇する。
1897 30 11 56 26 3月2日、足尾銅山鉱毒被害民800余名上京、請願運動を開始する。
1898 31 12 57 27 〇この年、先輩や級友たちと回覧雑誌『学生倶楽部』を創刊する。
4月、版元松木平吉が「『櫻ノ詩 : 児島高徳』 月耕作 (日本花圖繪)」を発売する。
1899 32 13 58 28
1900 33 14 59 29 2月13日、足尾銅山鉱毒被害民2000名、上京途中館林で警察官と衝突する。
1901 34 15 60 30 4月、東京府立第一中学校(現日比谷高校)に入学。
12月10日、田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴。
  直訴状は、まず秋水が書き、正造が手を加えたものである
12月12日、中江兆民沒(54歳)
〇この年、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となる。このほか、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して廃村となる。
1902 35 16 61 31 6月、教師の凱旋で築地精養軒の経営者北村家に家庭教師として住み込む。
7月、潤一郎、「學友會雜誌 38号」に「小島高徳櫻樹に題する圖にと題し「衛士が焚くかゞり火白く夜はふけて鎧の袖に櫻ちるなり」の歌を発表する。
  また、同号に「道徳的観念と美的観念」も発表する。
1903 36 17 62 32 4(卯)月、10日、谷崎潤一郎、渡良瀬川の堤を歩く。
4月13日、小学校令改正、国定教科書制度を確立する。
9月谷崎潤一郎と大島竪造が連名で「學友會雜誌 41号に、「無題録」を発表する。
(略)卯月十日の夕都に上る途中渡良瀬の堤上を過ぐ。赤城の上に、夕榮は畫工がクリムソンレーキを押しむりたるが如く赤うなり、東の空漸く白み月さへいづるにつれて、今日の最後の光線は三たび吾が影を砂上に投げ水面さゞ波に金蛇をはしらせ、暮色愈深うなりて、両岸の諸山はおぼろげながらもそが影を水面にうつしぬ。
はるかに望めば、白沙一帯人を見ず、透〔イ〕として山麓をめぐる、一水。嗚呼サタンの使、罪悪の子、汝渡良瀬川こゝに生あるか・・・・・・・・・蝙蝠(コウモリ)は水面を飛びぬ。やゝありて流木拾ふ少女は、鄙歌うたひつゝ行けり。嗚呼汝渡良瀬川、こゝかしこ散點せる白骨これそも何なるや、かの茫々たる葦嗚呼かれそも何なるや。汝が温順を舊にかへせ、然らずば死せよ。然らば眠れよ、嗚呼汝罪悪の子汝渡良瀬川、・・・・・・・・・・思へばげに汝もその上造化の神の御手により、清くけだかく造られたるものなり。汝が灌漑する地、三十萬の民は、皆一斉に聲を和して天地の巧妙をうたひぬ。・・・・・・美なるか山河山、は自然に落葉を與へ、河は自然に之を田畑に運ぶ、吾肥なくして美なる菜果あり・・・・・・と然れども之れ過去の夢なりき。今は嗚呼、・・・・・・妻は病床に臥し子は飢になく・・・・天救へよ吾等三十萬の霊・・・・・・・・・・嗚呼何ぞ惨なる。時移り星變りて茲に六十年、汝終に舊の如くならず、自然は四季をくりかへして軟風そよと地上をふけども・・・・・・・・・・嗚呼春は来れども花咲かず、萬頃の沃野は化して蕭條の砂漠となり、罪なき生霊三十萬、天を仰いで叫べども天聴かず、地に俯して泣けども地答へず、皆聲を和して曰く『運窮まりぬ』と、かくて指を届して死を待つ、嗚呼何ぞ酷なる。國を闢(ひら)いてこゝに二千五百年、いづこの歴史にか汝の類を見む。(略)嗚呼毒水に溺れて死せし吾友よ、共にたをれし吾同胞よ、彼渡良瀬の非を唱へよ、嗚呼富士山よ利根川よ、共に彼渡良瀬の罪をならせ。千秋何れの所にか、他に汝の類を見む。嗚呼サタンの使、罪悪の子、汝渡良瀬川・・・・・・
クリムソンレーキ:深紅色の西洋絵の具
透〔イ〕(とおい):
温順(おんじゅん):性質がおとなしく、人にさからわないこと。 2.気候がおだやかなこと。
蕭條(しょうじょう):ひっそりとしてもの寂しいさま。
  また、同号に「夏期休暇」も発表する。
10月12日、万朝報、主戦論に転じ、幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三ら退社する。
11月15日、幸徳・堺らが平民社を結成「平民新聞」を刊行する。
12月、潤一郎、「學友會雜誌 42号に、「春風秋雨録」・「ともにおくるうた」を発表する。
1904 37 18 63 33 3月13日、平民新聞「与露国社会党書」(幸徳秋水執筆)掲載する。
5月、潤一郎、「學友會雜誌 43号に、「文藝と道徳主義」を発表する。
1905 38 19 64 34 3月、東京府立第一中学校(現日比谷高校)を卒業する。
9月、第一高等学校英法科に入学する。
〇この年、政府が栃木県下都賀郡谷中村全域を買収し、この地に鉱毒を沈殿させる遊水池計画を立てる。
1906 39 20 65 35 〇この年、谷中村の全域が強制買収され、翌年の6月29日、強制廃村となる。
1907 40 21 66 36 2月4〜7日、足尾銅山で暴動、軍隊が出動される。
6月、北村家の小間使との恋愛が当主の忌諱にふれる。
6月29日、群馬県谷中村に遊水地建設のため強制立退執行。
1907年までに立ち退かなかった村民宅は強制破壊された。ただし、一部の村民はその後も遊水池内に住み続けた。最後の村民は1917年2月25日ごろこの地を離れた。
1908 41 22 67 37 7月、第一高等学校英法科を卒業する。
9月、東京帝国大学国文科に入学する。
1909 42 23 68 38 〇この年喜田貞吉が、「平城京の研究・法隆寺再建論争」により東京帝国大学から文学博士の称号を得る。
〇この年、潤一郎が「帝國文學」、「早稲田文學」に投稿した原稿が没になり、失意と焦燥のあまり強度の神経衰弱にかかる。永井荷風の『あめりか物語』を読み「自己藝術上の血族」を発見する。 
1910 43 24 69 39 6月、幸徳秋水が「幸徳事件(大逆事件)」において逮捕される。
秋水が法廷で「今の天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪いとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へ漏れ、南北朝正閏論が起こった。 帝国議会衆議院で国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、翌年の2月4日に議会は、南朝を正統とする決議を出す。この決議によって、教科書執筆責任者の喜田貞吉が休職処分を受ける。以降、国定教科書では「大日本史」を根拠に、三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられる。
9月、小山内薫、和辻哲郎、大貫晶川、小泉鉄、後藤末雄、木村荘太らと共に第二次『新思潮』を創刊するが発禁となる。
11月、永井荷風と会う。 
1911 44 25 70 40 1月18日、大審院で判決が下される。
1月19日、読賣新聞が「南北朝正閏問題」についての社説を論ずる。
「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」
1月24日、幸徳秋水処刑される。
2月4日、 衆議院の代議士藤沢元造が、国定歴史教科書の南北朝正閏問題について質問書を提出する。
2月27日、歴史研究会編「尋常小学校日本歴史問答」が刊行される。
                      pid/769781 閲覧可能
〇この年、喜田貞吉、南朝を正統とする立場(論者)から非難され、休職処分となる。
喜田貞吉は、文部省で国定教科書の編纂にも従事したが、小学校の歴史教科書に南北朝期の北朝・南朝を並べて記述していたため、この年、南朝を正統とする立場から非難され、その責任を取り休職処分となり、教科書の記述は南朝正統論に変更された。(「南北朝正閏問題」)。
1912 大正元年
(7・30
  改元)
26 71 1月、初恋の穂積フクが肺炎で死去。
4月、京都に遊ぶ。神経衰弱が再発する。
8月、徴兵検査不合格となる。
10月末〜11月初旬、吉野の源流部を訪ねる
吉野葛/冒頭の部分(全文)
その一 自天王/私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年程まえ、明治の末から大正の初め頃のことであるが、今と違って交通の不便なあの時代に、あんな山奥、−近頃の言葉で云えば「大和アルプス」の地方なぞへ、何しに、出かけて行く気になったか。−この」話は先ずその因縁から説く必要がある。
 読者のうちには多分御承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民にもに依って「南朝様」或は「自天王様」と呼ばれている南帝の後裔に関する伝説がある。この自天王、−後亀山帝の玄孫に当らせられる北山宮と云うお方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して単なる伝説ではない。ごくあらましを掻い摘んで云うと、普通小中学校の歴史の教科書では、南朝の元仲九年、北朝の明徳三年、将軍義満の代に両統合体の和議が成立し、所謂吉野朝なるものはこの時を限りとして、後醍醐天皇の延元々年以来五十余年で廃絶したとなっているけれども、そののち嘉吉三年九月二十三日の夜半、楠二郎正秀と云う者が大覚寺統の親王万寿寺宮を奉じて、急に土御門内裏を襲い、三種の神器を偸
(ぬす)み出して叡山に立て籠った事実がある。
この時、討手の追撃を受けて宮は自害し給い、神器のうち宝剣と鏡とは取り返されたが、神璽(しんじ)のみは南朝方の手に残ったので、楠氏越智氏の一族等は更に宮の皇子お二方を奉じて義兵を挙げ、伊勢から紀伊、紀伊から大和と、次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の山間僻地へ逃れ、一の宮を自天王と崇(あが)め、二の宮を征夷大将軍に仰いで、年号を天靖(てんせい)と改元し、容易に敵の窺い知り得ない渓谷の間に六十有余年も神璽を擁していたと云う。(略)

「吉野葛 その六、入の波」から読み取れる
    吉野の源流地方を究めた探査のルート(調査中)
第1 国栖(発)→東川村(うのがわ)→亀山天皇の皇子小倉宮の御墓を弔う→五社峠→柏木(泊)
第2日 柏木(発)→伯母ケ峰峠→北山の荘河合(泊)
第3日 北山の荘河合(発)→自天王の御所跡である小橡(ことち)の龍泉寺→北山宮の御墓等に詣でる→大台ヶ原→山中(泊)→五色温泉(泊)
第4日 山中(発)五色温泉(発)→吉野川の流れに沿って下る→二の股(にのまた)→三の公の谷→オクタマガワ→地蔵河原→(御前申す(岩)→べろべど(岩))→八幡平の小屋→隠し平→八幡平の山男の小屋(泊)
第5日 八幡平の山男の小屋(発)→二の股(にのまた)入の波(しおのは)(泊)→柏木(泊)
第6日 入の波(しおのは)(発)または柏木(発)→国(着)
〇この年、各地を放浪する。
1913 2 27 72 〇この年、喜田貞吉が京都帝国大学専任講師となる。
1914 3 28 73
1915 4 29 74 〇この年、潤一郎、石川千代と結婚。
〇この年、潤一郎、『お艶殺し』・『法成寺物語』『お才と巳之介』 を発表する。
1916 5 30 75
1917 6 31 76 5月、 母・関が死去。
6月、妻と娘を実家(父の家)に預ける。
〇この年、芥川龍之介、佐藤春夫との交流が始まる。千代の妹・せい子を好きになる。
〇この年、潤一郎、『人魚の嘆き』・『異端者の悲しみ』を発表。
1918 7 32 77
1919 8 33 78 〇この年、父・倉五郎死去。神奈川県小田原十字町に転居。
〇この年、潤一郎、『母を恋ふる記』を発表する。
1920 9 34 79 1月1日、喜田貞吉が「文學博士喜田貞吉主筆 民族と歴史 第3巻1号」に「福神研究号」を発表する。
1月15日、喜田貞吉が「文學博士喜田貞吉主筆 民族と歴史 第3巻2号」に「続福神研究号」を発表する。
〇この年〜13年まで、喜田貞吉が京都帝国大学の教授となる。
1921 10 35 80 〇この年、妻・千代を佐藤春夫に譲るという前言を翻したため、佐藤と絶交する。
1922 11 36 81
1923 12 37 82 9月1日関東大震災。
当時箱根の山道でバスに乗車中で、その谷側の道が崩れるのを見る。横浜山の手の自宅は頑丈に造られており無事だったが、類焼してしまう。
9月4日、田中正造亡くなる。
〇この年、潤一郎、京都市上京区等持院中町や、左京区三条東山通要法寺を経て、兵庫県武庫郡六甲苦楽園(現・神戸市灘区)に移住する。
〇この年、潤一郎、『肉塊』を発表する。
1924 13 38 〇この年、 潤一郎、武庫郡本山村北畑(現・神戸市東灘区本山町)に転居する。
〇この年、潤一郎、『痴人の愛』を発表する。
1925 14 39
1926 昭和元年 40
1927 2 41
1928 3 42
1929 4 43
1930 5 44 7月、「文芸春秋 8(8)(臨時増刊) 文芸春秋社」に「大衆文學の流行について」を発表する。pid/3197602
1931 6 45 1月、「中央公論. 46(1)(516) 新年特輯號 」に「小説 吉野葛」を発表する。
   また、同号に橋本英吉が「職場を守れ」を発表する。 pid/10232193
2月、「中央公論. 46(2)(517) 二月號」に「小説 吉野葛」を発表する。 pid/10232194
〇この年、潤一郎、古川丁未子と結婚。借金のため一時期高野山に籠る。
1932 7 46
1933 8 47 〇この年、創元社から『春琴抄』を刊行、ベストセラーとなる。
1934 9 48
1935 10 49
1936 11 50 11月〜18年11月迄、武庫郡住吉村反高林に住む。倚松庵(いしょうあん)
1937 12 51
1938 13 52
1939 14 53
1940 15 54
1941 16 55
1942 17 56 9月、岡成志が、「讀切談講社」から「日本女性美史」を刊行する。
1943 18 57 11月、武庫郡魚崎町に住む。
1944 19 58
1945 20 59
日時              「終戦日記」か見た主な出来事 (作成中)
5月1日
5月2日
5月3日
5月4日
5月5日
5月6日
5月7日 (略)(おみきさんは昨日備後松永まで行きし由。両三日中歸るとの事)勝山町月田に疎開せる岡成志氏及び得能氏より書面到着しをれり。岡氏は一日も早く来れとあり。得能氏は疎開の荷物三十個迄(即ち去る廿四日發送分迄)到着せる由を報ず。これにて稍(ようやく)安堵す。足部にアルコールの湿布をなす。夜食には素晴らしき菊正の一等酒あり。家人以下三姉妹一年一箇月ぶりにて又一堂に會したる譯なり。今夜も空襲なきことを祈りつゝ八時過ぎ二階に眠る。
5月8日
5月9日
5月10日
5月11日
5月12日
5月13日
5月14日
5月15日
5月16日
5月17日
5月18日
5月19日
5月20日
5月21日
5月22日 本日も亦雨にて寒し。(略)本日おみきさん魚崎に帰る。午後岡夫人より「シゲユキシス二三ヒ二ジ オクル マツコ」と来電。遂に予が豫測の通りになりたり。夕刻妹尾氏来訪。昨日沼の家に歸りし由なり。岡氏逝去の事を知らせ明日共に吊(弔)間の約束をなす。夕食を共にしたる後辭去。夕食の葱は玉子の目玉焼き一個づゝ、タカナを油でいためたもの、ハリ、味噌汁等なり。
5月23日 晴/(略)(岡成志の)棺は先日予等が晝食を供されたる客間に安置され床には予が往年故人に送りたる東大寺大佛殿寶前燈籠の浮彫の笛を吹く天女の拓本を表装せる一軸を掛けたりこれは紅地に和歌を染め抜きたる古代裂の女の衣装にて表具させたるものにて予が贈りし當時はなまめかしきものなしりが今は色褪せてかゝる時に用ひても宜しきやうになりたり。予がこれを贈りしは昭和六年頃ならんか)二時棺を送り出す 家の前の畑の中を右に折れて見えなくなる。(略)
5月24日
5月25日
5月26日
5月27日
5月28日
5月29日
5月30日
5月31日
6月2日
6月3日
6月4日
6月5日
6月16日
6月27日
6月29日
7月4日
7月7日 午後四時四四分發にて本日は予と家人とヱミ子の三人のみ移轉す。(中略)勝山小野方に至ればすでに昨夕の荷物到着せり(中略)女将の話に両三日前創元社の小林茂氏来歴し、いまだ津山にゐる由を聞き離れ座敷を見せて頂度とてすっかり(「細雪」の草稿を)検分しこれなら安心ですと云ひて辭去せし由面會せざりしは残念なり。夕飯は女将の好意にて白米を炊いてくれ胡瓜に金山寺味噌及び味噌汁(ジャガ芋、茄子、玉葱、落し卵一個づゝ入り)を供さる。津山より遙かに上等なり。ヱミ子には勝山の町大いに氣に入りたるやうなり。河原に小屋掛け芝居あるらしく太鼓の音きこゆ。三人にて街を散歩し河原を歩みて河鹿の音をきゝ帰宅就寝。女将の話に母屋の二階にも大阪の戦災者疎開せりと云ふ。
7月11日
8月8日
8月9日
8月12日
8月13日 本日より田舎の盂蘭盆会なり。午前中永井氏より來書、切符入手次第今明日にも来訪すべしとのことなり。ついて午後一時過頃荷風先生見ゆ。今朝九時過の汽車にて新見廻りにて来れりとの事なり。カバンと風呂敷包とを振分にして擔(かつ)ぎ外に予が先日送りたる籠を提(さ)げ、醤油色の手拭を持ち背廣にカラなしのワイシャツを着、赤皮の半靴を穿(は)きたり。焼け出されてこれが全財産なりとの事なり。然れども思ったほど窶(や)れても居られず、中々元気なり。拙宅は満員ニ付夜は赤岩旅館に案内す。旅館にて夜食の後又来訪され二階にて渡邊氏も共に夜更くるまで話す。荷風氏小説原稿ひとりごと一巻踊子上下二巻来訪者上下二巻を出して予に託す。
8月14日
8月15日

1946 21 60
1947 22 61
1948 23 62
1949 24 63 9月1日、潤一郎が「婦人公論 35巻9號」に「終戦日記 熱海から勝山まで」を発表する。
1950 25 64
1951 26 65 6月、小栗美作が「文芸新風 1(3) 文芸新風社」に「谷崎潤一郎の生活」を発表する。pid/1747744
1952 27 66
1953 28 67
1954 29 68
1955 30 69
1956 31 70
1957 32 71
1958 33 72 〇この年、和田芳恵編「 (少年少女名作ライブラリー ; 7)私たちの明治大正文学選 三十書房」に「母を恋うる記」が所収される。 pid/1633430
わかれ道  樋口一葉
高瀬舟  森鴎外
春の鳥  国木田独歩
文鳥  夏目漱石
真鶴  志賀直哉
母を恋うる記  谷崎潤一郎 71
小さき者へ  有島武郎 99
芋がゆ  芥川竜之介
盗み 菊池寛
虎 久米正雄
オカアサン  佐藤春夫
銀貨  加藤武雄
正太樹をめぐる  坪田譲治
解説 和田芳恵
明治大正文学年表
1959 34 73
1960 35 74 10月、潤一郎が「道成寺読本 道成寺の薫詠芳句 抄 p73」に一首の咏(うた)を寄せる。
  いしだんをかぞえてのぼるをとめ子の
          そでにちりくるやまざくらかな
1961 36 75
1962 37 76 10月28日〜38年3月10日まで、『台所太平記』を『サンデー毎日』に連載する。
1963 38 77 4月、単行本『台所太平記』を中央公論社から刊行する。
1964 39 78
1965 40 79 7月30日、潤一郎、亡くなる。
1966 41
1967 42
1968 43
1969 44
1970 45
1971 46
1972 47
1973 48
1974 49
1975 50
1976 51
1977 52
1978 53
1979 54
1980 55
1981 56
1982 57
1983 58
1984 59
1985 60
1986 61
1987 62
1988 63
1989 64
1990 平成2年 4月、「オール讀物 = The all yomimono 45(4) p256〜257 ,文芸春秋新社」に「大衆文學の流行について」が復刻される。[60周年記念 オール讃物創刊号復刻版]  pid/4437508
1991 3
1992 4
1993 5
1994 6
1995 7
1996 8
1997 9
1998 10
1999 11
2000 12
2001 13
2002 14
2003 15
2004 16
2005 17
2006 18
2007 19
2008 20
2009 21
2010 22
2011 23
2012 24
2013 25
2014 26
2015 27
2016 28
2017 29
2018 30
2019 31
2020 32

まとめ
 年譜、明治36年の項に「谷崎潤一郎と大島竪造が連名で「學友會雜誌 41号に、「無題録」を発表する。」と、書き入れました。連名なので何方が、どこの部分を書いたかは分かりませんが、記述の内容についての責任は同じことになります。
 「無題録」の構成法は前半が漢文調で著され、後半部が耽美な文章となっています。恐らく後半の部分を谷崎潤一郎が執筆されたと思われます。
 文章は、渡良瀬川の堤より眺めた情景から始まり、次に鉱毒の被害のことを「こゝかしこ散點せる白骨これそも何なるや 嗚呼汝罪悪の子 嗚呼サタンの使、罪悪の子、汝渡良瀬川」等と強い口調で嘆き悲しみました。表現法は別として、後代、ノーベル賞候補とまで騒がれ、美しい日本の自然や情感あふれる繊細な心を描き続けた谷崎文学とは思えない程の正義感を熱く語った作品となっています。
 谷崎文学の底流には、こうしたことも含まれていたことを感じ取って戴きたい、私はそんな思いをしながらこの項を起こしました。そして、このことを前提に、あえて書かないことも良きこととして、「吉野葛」は成立しているのだと、そして、谷崎潤一郎の南朝史蹟調査の心情を思い浮かべて戴きたいと思ったからです。
 「はるかに望めば、白沙一帯人を見ず、透〔イ〕として山麓をめぐる、一水。嗚呼サタンの使、罪悪の子、汝渡良瀬川こゝに生あるか・・・・・・・・・蝙蝠(コウモリ)は水面を飛びぬ。やゝありて流木拾ふ少女は、鄙歌うたひつゝ行けり。嗚呼汝渡良瀬川、こゝかしこ散點せる白骨これそも何なるや、かの茫々たる葦嗚呼かれそも何なるや。汝が温順を舊にかへせ、然らずば死せよ。然らば眠れよ、嗚呼汝罪悪の子汝渡良瀬川、・・・・・・・・・・思へばげに汝もその上造化の神の御手により、清くけだかく造られたるものなり。汝が灌漑する地、三十萬の民は、皆一斉に聲を和して天地の巧妙をうたひぬ。・・・・・・/美なるか山河山、は自然に落葉を與へ、河は自然に之を田畑に運ぶ、吾肥なくして美なる菜果あり・・・・・・と然れども之れ過去の夢なりき。今は嗚呼、・・・・・・妻は病床に臥し子は飢になく・・・・天救へよ吾等三十萬の霊・・・・・・・・・・・嗚呼何ぞ惨なる。時移り星變りて茲に六十年、汝終に舊の如くならず、自然は四季をくりかへして軟風そよと地上をふけども・・・・・・・・・・嗚呼春は来れども花咲かず、萬頃の沃野は化して※蕭條の砂漠となり、罪なき生霊三十萬、天を仰いで叫べども天聴かず、地に俯して泣けども地答へず、皆聲を和して曰く『運窮まりぬ』と、かくて指を届して死を待つ、嗚呼何ぞ酷なる。國を闢(ひら)いてこゝに二千五百年、いづこの歴史にか汝の類を見む。(略)嗚呼毒水に溺れて死せし吾友よ、共にたをれし吾同胞よ、彼渡良瀬の非を唱へよ、嗚呼富士山よ利根川よ、共に彼渡良瀬の罪をならせ。千秋何れの所にか、他に汝の類を見む。嗚呼サタンの使、罪悪の子、汝渡良瀬川・・・・・・」      「無題録」より後半部の全文
 私は、渡良瀬川の文章を読みながら、書かないこともひとつの文学であることを念じています。

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