お地蔵さんの手っ手(てって)
  −1月17日、阪神・淡路大震災と東日本大震災でなくなられた方々のご冥福を祈って−
           −向原念仏供養塔の修復が終わる−
作成 2012・1・9
2012・1・17 供養祭を追加

2012・3・3 「城山町の石造文化財の解説」部分を追加
2012・3・10 旧相模原市相原 華蔵院境内六地蔵追加
2012・3・17 町田市相原町 清水寺境内 六地蔵追加
          撮影2011・12・24

相模原市緑区向原地区  念仏供養塔
    寛政六甲寅歳三月吉祥月
基壇 女講中 當村 願主 吉右エ門
はじめに
 2004年10月11日、四つに割れ落下してしまった向原念仏塔の笠の割れ目にエポキシ樹脂系化学反応形接着剤を塗り込み結合させました。また、ひび割れた部分にはプレミックス系セメントを使用し修復を行いました。六地蔵の刻まれている塔身部は、小さなひび割れが多く、特に左から2番目の宝珠を持った地蔵様は上方から削げ落下は時間の問題となり早急な修復が望まれていました。しかし、エポキシ樹脂系化学反応形接着法による修復が初期的な段階でもあり、数年の経過観察が必要ではないかと考えていたからです。この方法は既に、原宿地区の地蔵堂敷地内に安置されている「秋葉権現灯篭」や「愛宕大権現塔」で実施をしていましたが、向原六地蔵供養塔は細部にわたりひびが入り込み、修復には「より慎重に行わなければならない」と云う必要性がありました。先に修復を済ませていた笠の部分の経過も良かったことから、残された塔身部の修復を考え始めました。
 そして、6年後の2011年11月、念願だった塔身部の修復作業を始めました。修復の方法は先の修復法と同じエポキシ樹脂系化学反応形接着法とプレミックス系セメン
ト使用法の二つを組み合わせた方法で、約二ヶ月の時間をかけ修復の作業を行いました。
 修復作業は順調に進みいよいよ修復報告書の作成段階に入りました。まず六体の地蔵名がどのような名前で呼ばれているか羅列を始めたところそれぞれに複数の呼び名があり、また配列もバラバラで呼名も複数あり、どれがどれだかさっぱり分からなくなってしまいました。
 お地蔵様の持ち物では錫杖、宝珠、香炉、数珠等があり持ち物の配列の統一化もなされていませんでした。もしかして地域によって違いがあるのではないかと考えましたが検討すればするほど複雑なものになって行きました。
 下記にその配列を並べて見ましたが、決して同じではありませんでした。
 六道の世界に、それぞれの地蔵さまが現れ救済をして下さると云う、絶大な信仰があるにも関わらず、どうしてこんなにも配列や呼称法に違いが生じてしまったのか、これまで考えても見ませんでした。胎蔵界曼荼羅の中の地蔵院内には中央部に僧形の地蔵菩薩を描き、その上部側に四体、下部側に四体がそれぞれ描かれています。八体の様相は僧形ではなく、法隆寺の金堂壁画で見られるような一般的な菩薩像の形をし、手の位置や指の曲げ方等で九体の菩薩を識別していました。
 九体の菩薩は南側の除蓋障院と対比した位置にあり、曼荼羅図を立てかけた場合は、上から徐一切憂冥菩薩・不空見菩薩・宝印手菩薩・宝光菩薩・地蔵菩薩・持地菩薩・堅個深心菩薩・日光菩薩(除蓋障菩薩)の順で並んでいます。
 錫杖を持ち、坊主頭をした一般的なお姿をしたお地蔵さまは地域や時代と共に複雑な様相に変化し姿をかえて行きました。これを和様化と云うのでしょうか。


賽の河原のお地蔵さん
        撮影2011・10・7 

あきる野市五日市 大悲願寺観音堂
あきる野市指定有形文化財(建造物)
            平成7年6月指定
         撮影2011・12・20
 

観音堂左側の欄間に描かれたお地蔵さんと遊ぶ子供


 この観音堂は「無畏閣(むいかく)」とも呼ばれています。寛政六年(1794)に建立され、文政十年に向拝が取り付けられました。正面の欄間にな見事な「地獄と極楽」を表した彫刻が施されています。
 お堂は昭和二十七年に、それまでの寄棟造から本瓦葺き宝形葺に変えられましたが、そのごいたみ等が進んだだめ平成十六年から十八年にかけて大規模な修復工事が行われ、寄棟造茅葺型銅板葺に復元されました。こうした復元工事によっ
て色の剥落の激しかった彫刻部にも新たに彩色が施され往時の姿が蘇っています。
 本堂の右側には「地獄」の様子と、左側には「極楽と三途の川」の様子が施されています。人々はこうした絵を見ることによって、地獄や極楽の様子を想像していました。
 三途の川の右側では身ぐるみを剥がされた女性が「奪衣(そうづか)婆」の前にいます。木の枝には剥がされた衣も掛かっています。その奥には二人の恨めしそうな顔をした女性や手を顔にあて子供を見ているような姿が見えます。子供は「金太郎」をつけ電電太鼓や達磨さんの遊具が見えます。子供はお地蔵さんの錫杖を持ったり衣に手を掛けたりして遊んでいるようにも見えます。金色に輝くお地蔵さんの頭上には阿弥陀様に向かって一心に祈る二人の女性も見えます。
 お地蔵さんは釈迦入滅後、弥勒仏が五十六億七千万年後に登場するまでの間、この世に出現し六道の衆生を救済していただける菩薩さまと云われ各地で盛んに信仰されてきました。

緑区小倉地区 頭のない六地蔵さん
  
 お地蔵さん信仰は総てが順調ではありませんでした。、明治期早々には「廃仏棄釈」運動が各地に起こり神仏の分離政策が行われ、神社にあった仏像は焼かれたり寺に預けられたり壊されたりしました。お地蔵さんにとっても同様に辛い時代でした。現在、頭のないお地蔵さんを見かけるのは、そうした廃仏棄釈に揺れた当時の最大の犠牲者ではないかと。後世、こうした事件を哀れんで、お地蔵さんに自然石を載せお顔に見立てたり、新たにお顔が造られたりしています。
 お地蔵さんにとって過ちの時代もありましたが、今も人々の手厚い信仰によって支えられています。「飯能の石仏」、地蔵菩薩の項にはこんなことも記されてありました。
 「・・・・お地蔵さんは庶民のいるところ何処へでも出向かれて救いの手をさしのべてくれ
ると信じられました。救いのレパートリイをたくさん持っていたわけで、それが最多数の造立につながるわけです。お地蔵さんに色々の呼称があるのもその証明で、とげぬき、いぼとり、痔治し、夜泣き、身代わり、子育、日限(ひぎり)、と直接的な祈願は、子供の夜泣きをはじめとして、いぼ、とげ、歯痛、せきなど私たちも身に覚えのあることで、医学に貧しかった昔の人たちは、神仏に祈るより手だてはなかったのでしょう。
また、塩浪、しらや、鶴舞、岩船などの名称を冠したものも市内にありました。
 地蔵信仰が女性により深く、広く信仰された理由の一つには、現世利益の治病、延命ももちろんですが、「死者の救済」という救い手が大きかったのではないかと思います。江戸時代は乳幼児の死亡率が高く、また農民政策からの人べらしでの間引きなど、女性の罪の意識や悲哀感は想像以上だったと思われ、それが念仏講など強烈な信仰意欲をかき立てたのではないでしょうか。
 今回の調査で
・・・・」とありました。
 向原念仏供養塔には、欠落して読み取ることができなくなってしまいましたが、基壇の部分に「女講中 當村」と、刻字の記録が残っていました。お地蔵さんはこうした庶民のあらゆる願いに応えてくれたのです。
 それぞれの、お地蔵さんには地域によって様々な呼び名があり、またその配列やお地蔵さんの持ち物は非常に 複雑で多様化していました。下図はある程度の名称と持ち物をまとめてみましたが、複雑過ぎて分からなくなっているのが(私の)現状です。

六地蔵さんの名称と持ち物
六道の世界 大日経疏(系) 地蔵菩薩発心因縁十王経(系) 不明(調査要)
地蔵名 地蔵名2 地蔵名3 「覚禅鈔」による、持物 地蔵名 お地蔵さんの持物 一般的な持物(調査要)
地獄道 大定智慧地蔵 地蔵菩薩 檀陀地蔵
(ダンダ)
宝珠(左)  錫杖(右) 金剛願地蔵 閻魔(左) 成弁印(右)
人頭にんずどう) 
宝珠(左) 錫杖(右)
餓鬼道 大徳清浄地蔵 (手)菩薩 宝珠地蔵 宝珠    与願印 金剛宝地蔵 宝殊     甘露印 宝珠 施無畏印
   (セムイイン)
畜生道 大光明地蔵 宝処菩薩 宝印地蔵 宝殊    如意 金剛悲地蔵 錫杖     引接印
(シャクジョウ)
両手で幢幡(はた)
修羅道 清浄無垢地蔵 宝印手地蔵 持地地蔵
(ジチ)
宝珠    梵篋
    
金剛幢地蔵 金剛幢    施無畏印
両手で数珠合掌
人 道 大清浄地蔵 持地菩薩 除蓋障地蔵
(ジョガイショウ)
宝珠    施無畏印 放光王地蔵 錫杖     与願印 合掌・両手で数珠
天 道 大堅個地蔵 堅固意菩薩 日光地蔵 宝珠    経巻 預天賀地蔵
(ヨテンカ)
如意珠   説法印 両手で柄香炉

複雑すぎるお地蔵さんの配列と持ち物・・・・
 広く人々に信仰され、路傍の石仏の半数以上がお地蔵さんになっている現状を見ながら、相模原市緑区向原地区の「笠付六地蔵供養塔」を修復したことから六地蔵の意匠についての二三を述べて見たいと思います。
凡例 写真に表示した順列について
 
角柱六地蔵の配列順は、正面に向かって左側から右への順で表示しました。
 六地蔵が単体で並んだ配列順は、正面に向かって左側から右への順で表示しました。
 六面(ろくめんどう)についての配列順は、「錫杖と宝珠」を持った地蔵を基準にして左側から右への順(反時計方向)で表示しました。
  
  
大島 長徳寺境内
 全 景  左側面  中 央  右側面

相模原市緑区大島 
長徳寺境内

基壇(西面) 女中 念仏 講中
       
基壇(北面) 文化八辛未C(さい)
       正月吉日




   幢幡      宝殊


              数珠

大島 諏訪神社脇
 全 景  左側面  中 央  右側面

相模原市緑区大島
諏訪神社脇


裏面
  安政五戊午天十二月建之
 洞覚貞歛大姉為菩提也
   施主遣水
    加藤平吉



         香炉  幢幡

        錫杖・宝珠 合掌

       宝珠    数珠

根小屋 諏訪神社前
全 景  左側面  中 央  右側面

相模原市緑区根小屋
諏訪神社前

裏面
 安政六巳未年二月
     再建之
     世話人 ○○

基壇
  女中念仏講中
  根小屋村


     香炉    幢幡

    錫杖・宝珠  合掌

      数珠    宝珠 

向原 山王神社境内  六地蔵念仏塔     修復2012・1・17
 全 景  昭和30年代  左側面  中 央  右側面

相模原市緑区向原  山王神社
寛政六
甲寅歳三月吉祥日
右者為六兵衛菩提
女講中 當村 願主吉右エ門

   合掌      宝珠

   錫杖・宝珠   幢幡

  幢幡 
 
相模原市相原・相原華蔵院
相原華蔵院 北側の石塔 南側の石塔

    (北) ↑(南側)
寛政六甲寅歳 七月

幢幡

幢幡

不明

袂の露 錫杖

不明

錫杖・宝珠

町田市相原町・清水寺                                 撮影2012・2・21
全景

町田市相原町・清水寺

于時明和三丙戌天(1766)造立
   田中久右衛門願主







幢幡

合掌

錫杖・宝珠

柄香炉

数珠

袂の露(拱手)


全景

愛甲郡半原日向
六地蔵
  天明八戌申(1788)
  奉造 ○○○
  七月吉祥日

 念仏講中 
錫杖・宝珠 合掌 幢幡 数珠 幢幡 柄香炉



愛甲郡半原・清雲寺
六地蔵

年号なし





数珠


錫杖・宝珠


幢幡


合掌


宝殊


香炉

蓮台下部の名称 (お地蔵さんの名称) 金剛寶(餓鬼) 預天賀(天) 金剛幢(修羅) 金剛悲(畜生) 放光地(人) 金剛願(地獄)

旧津久井町長竹来迎寺
全景

旧津久井町長竹来迎寺

天保六乙未○○
閏月十四日

念仏講中
   長竹村
   沼  村

 


 金剛願(地獄)  金剛寶(餓鬼)  金剛悲(畜生) 金剛幢(修羅)  放光王(人)  預天賀(天)

金剛寶(餓鬼) 預天賀(天) 金剛幢(修羅) 金剛悲(畜生) 放光地(人) 金剛願(地獄)






















左手に宝殊
右手は甘露印
(不死の霊薬)
左手に如意宝殊
右手は説法印
左手に金剛幡
右手は
施無畏印せむいいん
左手に錫杖
右手は引接印いんじょういん
左手に錫杖
右手は与願印
よがんいん
左手に人頭幢(にんずどう
右手は成辨印(じょうべんいん)
     (注意:上図説の配列は、愛甲郡半原地区の清雲寺境内に安置されている六地蔵の配列に編集し直しました。図説の配列は地獄界→天界でした。)
                         図説の出典 「修新日本佛像図説」 P124〜128(原図の引用表示なし)
参考 主な印相と持物
絵図  
向原・大正寺
No9地蔵部分



向原・大正寺
No1地蔵部分
(再撮影要 )


町田市相原・清水寺
六地蔵部分

印手 成辨印
(じょうべんいん)
甘露印
(かんろいん)
施無畏印
(せむいいん
与願印
(よがんいん)
説法(転法輪)印
(せっぽういん) (てんぽうりんいん) 
引接印
(いんじょういん)
拱手
(きょしゅ)
如意宝珠手
宝経手
合掌手
所作 手のひらを上向きにしながら、やや下に向ける。 ソフトボールを握っているような感じ。(検討要)
右手の5指をそろえて伸ばし、手のひらを前に向けて、肩の辺に上げる 手を下げ、掌を正面に向けた印 釈迦如来の印相の1つで、両手を胸の高さまで上げ、親指と他の指の先を合わせて輪を作る 手のひらを上向きにし水平を保つ 腕を衣の中に入れ隠す。
意味 願いなどを認めてかなえること。また、願いを成就すること 不死の霊薬 人々を安心させる身振り恐れなくてもよいと 人々の願いを聞き入れ、望みを叶える事を表わす。 仏が衆生を救いとって極楽へ導くこと。浄土教では、臨終に際して仏が現れ、死者を浄土に導くこと。   調査中
                         顕教像では経巻・薬壺・払子(ホッス)・如意錫杖・数珠・宝珠・薬壺(ヤッコ)・経巻など
                    図説の出典 仏像図典 P276〜280(原図の引用表示なし)


相模原市緑区城北地区
明観寺 六面(ろくめんどう)







   撮影2012・12・10

相模原市緑区旧津久井町鮑子
子神社境内
六面(ろくめんどう)
年号なし


 錫杖と宝珠

    合掌

与願印と如意

施無畏印に数珠と衣の中に手

  経巻と宝殊

 両手で宝殊

旧津久井町長竹来迎寺
             撮影2012・1・29

旧津久井町長竹来迎寺
元禄十一年 相津久井縣
奉建立為三世安楽施主敬白

戊寅十月吉日 長竹村

錫杖と宝珠






  合掌






両手で幢幡






両手で幢幡






 (再調査要)






 (再調査要)





  資料 「城山町の石造文化財の解説」 昭和51年3月 編集・発行 城山町教育委員会よりP23〜24(原文をそのまま掲載しました。)

牛頭天王宮碑・六地蔵菩薩・念仏供養塔
 これらは、いずれも「向原稲荷様境内」としてある。変わることのなさそうな土地の名も、時に変わることがあるらしい。地元の人達は一般にここを山王様と呼んでいる。このお宮はその昔、向原から山野へ行く道の左側にあった。明治の初めごろ、どうした事情か現在の所へ遷座された。後に残った境内は約1町歩、それを五畝ぐらいに文筆して払い下げた。現在山王畑といっているのがそれだという。それからその時の様子がどうも無償か、或いはそれに近いものだったらしい。というのは、今日ではとても考えられないことだが、折角の土地をお宮の後じゃあいやだと、ごへいを担ぎ、酒一升付けてポイと他へくれてやって仕舞った者もいた。山野の八木喜一郎さんの親父(彦じい)さんとこでも、一升付けて慾の無いところを見せた組の一人だったという。
 さて、ここには以前から稲荷様が祀ってあり、立派な石の鳥居が建っていた。
          撮影2012・3・3

       関東大震災で倒れた旧稲荷社の鳥居

昭和51年当時の六地蔵
その鳥居の柱に奉納者として、四軒の人達の名前が彫ってあった。ところが山王様が遷座された時、この奉納者達の名前を削ってしまい、山王様の鳥居ということにした。とこれにはお稲荷様も驚いたにちがいない。
 こんな話がある。明治も終りの頃、お彼岸に石の鳥居を七ヶ所くぐれば、年寄りになってから下の厄介にならない、という妙な信仰が流行ったことがある。大島方面からお婆さん達が、この鳥居をくぐるためにお詣りに来たという
 明治三十八年頃?その年の暮に「坂」の火事という私なども記憶しているが、相当の大火があった。火の玉小僧の話などもあるが、そのとき山王様も炎上した。それからこの鳥居は、大正十二年九月一日関東大震災のとき倒れた。現在では石柱、笠木など解体されたままになっているが、再建の話もあるという。
 話は変わる。向原に八木兵四郎という人があった。古物商などしていた関係からか、それとも趣味でやったのか、地蔵様を沢山集めた。庭へ地蔵小屋を建てたというのだから相当な凝り方だ。この地蔵小屋が山王様境内に移された。今年数えの八十四歳になる清水コトさんなど子供の頃、この地蔵小屋で遊んだものだと。お地蔵様はここで長い歳月を過ごされたはずだが、どうしたことか、下向原から桂川亭の方へ下ってゆ
く途中、清水の湧いているところがあった。そのあたりへ移された。この場所こそ永住の地と思われたが、戦後また元の古巣が恋しくなったのか舞い戻ってきた。なにしろ何十年も前のことだ。お地蔵様の数も随分尠なっていたという。
 話は再び変わる。現在ある石段は、現在よりずっと高かった。高い方が立派だが、ある時子供がころがり落ちた。神様のおかげで怪我はなかったが、危険だというので相当掘り下げた。その大量の土は役場の庭へ敷きならしたが、中から破損したお地蔵様がごろごろ出てきた。さすがにやたらの所へは捨てられないので、元の境内へ運び返された。と云う。

愛甲郡半原日向 六地蔵さん
 まとめの途中で@
 この、お地蔵さんの項をまとめるにあたり、近郊にある六地蔵さん十種の写真を掲載しました。調べれば調べるほど複雑になって行くような気がしてなりません。地蔵信仰がどこかで体系化されているのではないかと思っていますが解決にはとても時間がかかりそうです。日本の仏教に各宗派が無数にあるように、それぞれの宗派に合わせてあるものか、時代や地域の温度差によって様々に変化したものか分からなくなってしまいました。
 私が最初にお地蔵さんを意識したのは、奈良の十輪院を訪ねた時からでした。その日は、朝の早い時間帯でしたが快くそのお地蔵さまを案内して下さいました。お地蔵さまは、明りに照らされて石室の奥に安置されてありました。べつに、信仰心のあっ
たわけではありませんが、お地蔵さまに薄っすらと明りのさしかかる様は今でも忘れることができません。
 この項ではお地蔵さんの民俗的なことだとか宗教史のようなことはまだ記してはありませんが、お地蔵さまの「形で見る信仰史」のようなことが掲載できればと考えております。
 さりげない、お地蔵さまの優しいお姿にふれて見るのもよいかと思います。

 2012・1・17 向原念仏供養塔の修復記念
向原念仏供養塔の修復を終えて
 川尻バイパスの建造に伴い、計画道にあった、石仏や山王神社の移設工事が行われました。その後、念仏供養塔の笠の部分が4つに割れて崩落をしてしまいました。エポキシ樹脂系化学反応形接着剤を使用して平成2004年から2005年にかけて修復工事を行いました。この修復法は私たちにとって初めてのことであり、経過観測を必要としていました。その間、六地蔵さんの一体が剥げ落ちそうになっていたためトタンで屋根をかけ、お地蔵さんの部分を落ちないようビニールで覆いました。今年の11月に入り、笠の部分の修復法が良かったことからお地蔵さんの部分を修復することにしました。修復の目的としては、これ以上の崩落や損傷を防ぐためとし過度の修復は控えるようにしました。
 将来は覆屋の建立が望ましく思えますが、しばらくは現状のままで保存を行う予定でいます。供養塔の横に小さな看板を建て、Yさんの家から記念の水仙を植えまし
た。この日、お地蔵さんの前に、お花とお線香を捧げ全員で合掌、修復の記念としました。
まとめの途中でA 「(たもと)の露」を考える 
 お地蔵さんには様々な形態があり、その意味をそれぞれ考えて見ましたが、その中に手を袂の中に入れているお地蔵さん(右図)を見ました。
とは、(手本(たもと)の意)@上代服飾の筒袖で、肱(ひじ)から肩までの間。A袖の下の袋のようになった所。B袖のことにもいう。Cふもと。山麓。「山のー」Dそば、きわ。「橋のー」
袂の露 袂にかかる涙の意。源宿木「ほに出でぬ物思ふらし篠すすき招く袂の露しげくして」袂を分つ わかれる。離別する。<広辞苑>岩波書店
袂石。/兵庫県有馬郡有馬町の神は女神で、隣村山口の神様へ嫁入りされたが、走って帰られたとき袂から転がり落ちた石がだんだん大きくなったという。今も正月に毎年注連縄をかけると、ジビジビと大きくなるのが分かるという。それ以来有馬と山口とでは通婚しない。長野県北佐久郡三井村安原安養寺のカマクライシも一名袂石といい、中興の祖智鑑禅師が鎌倉から持って来た石という。これにも成長するという口碑がある。<総合日本民俗語彙>平凡社/袂にはどうも魂が宿る特殊なところと考えられていたようです。出会いや別れに袂を振るしぐさ。涙をふくところ。そぞろ歩きの時などには肩をショットすくめ袂をつかんでいそいそと歩くさま。
 右図のお地蔵さんは袂を少し上げ伏目がちにしています。深い悲しみ、お地蔵
  
  相模原市相原華蔵院   旧城山町大正寺No2百体地蔵
さんは、きっと、どこかでちゃんと聞いていて下さる。そして願いを叶えて下さる。お地蔵さんにはそんな優しさがあるのではないかと。私はお地蔵さんのこうしたお姿を他に見ないことから「袂の露(たもとのつゆ)」と呼ぶことにし「袂の露のお地蔵さん」としました。「袂を分つ」とはあまりにも悲しすぎますが、人の生死の分かれ。袂にはそんな深い意味合いもあるように感じました。                       2012・3・11記

   参考
      日本の宗教史  小池長之 学芸図書株式会社  発行昭和40年12月 修正3版
      路傍の石仏   大護八郎 真珠書院  発行 昭和45年6月
      地蔵信仰と民俗  田中久夫  木耳社  発行 1989年2月 
      仏像 −心とかたち−  望月信成・佐和隆研・梅原猛  NHKブックス 発行 昭和42年12月
      日本人の地獄と極楽  五来重 人文書院 発行1993年10月 初版第3刷
      庶民のほとけ 観音・地蔵・不動   頼富本宏   NHKブックス 発行 昭和59年10月
      両部 曼荼羅入門・図録  玉泉寺内・吉本都観 非売品 印刷 鵜之木金羊社  発行 昭和49年2月
      飯能の石仏 -ふるさとの証言者- 飯能市教育委員会 平成6年3月 再版
      修新日本佛像図説 木村小舟 大文館書店 発行 昭和33年10月 
      仏像図典 編者 佐和隆研 吉川弘文館 発行 昭和38年2月 4版
      城山町史 4 資料編 民俗 編集発行 城山町 発行 昭和63年3月
      図解 新装版 仏像のすべて 監修 花山勝友 PHP研究所 発行 2008・9 
      仏像見わけ方事典 著者 芦田正次郎 北辰堂 発行 平成7年9月 改訂第4版 
      「城山町の石造文化財の解説」  編集・発行 城山町教育委員会  昭和51年3月
      帯と化粧 樋口清之 発行 装道きもの学院出版局 昭和48年11月 再版
      神像彫刻の研究 岡直己 角川書店 発行 昭和46年6月 再版


      加藤武雄、昭和21年4月、「コント倶楽部」第二十四号に「酸漿」を寄稿する。
      船に乗ったお地蔵さん
      城山の石仏たち
      石仏修復への道 
      大正寺の百体地蔵様は何体?

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