加藤武雄の「叛逆」を読む
                               作成 2012・7・27
 昭和18年、毎日新聞の森豊記者によって登呂遺跡発見のニュースが流れました。当時は大戦中のことでもあり、その後の進展は見られませんでしたが、敗戦後の虚脱感の中から、我々の先祖は、我々日本人は、またどうやって生きてきたかなど新たな歴史観の中で、再び登呂遺跡が日本中の注目の的となりした。昭和22年7月13日、日本考古学協会が中心となって大規模な発掘調査のための鍬入れ式が行われたのです。これまでの皇国史観と云う考え方から脱却した新しい思考法によります。そうした同じ年の8月5日、今度は加藤武雄が皇国史観と云う禁断の扉をこじ開け、明智光秀が主人公となる「叛逆」と云う歴史小説を書き下ろしました。
 戦前では、およそ考えられない歴史小説の登場です。戦時中は皇国史観の考え方一色であり、国定国史教科書編集に当たっては(1)歴代天皇の御高徳御鴻業を景仰し奉る。(2)尊皇敬神の事歴を顕彰する。(3)神国意識の伝統を明らかにする。など8項目の視点が基調となっていました。
 例えば「国民は、尊皇敬神の心を深めて、浦安の国に立ちかへる日を待ちわびました。やがて第百六代正親町天皇の御代に織田信長、豊臣秀吉が、相ついで聖旨を奉じ、全国平定の事業を進めるのです。わが国がらの尊さは、あさましい戦乱の世にもかかわらず、かうして、はっきりと示されるのであります。」とあり、戦国時代を天皇の命によって戦国の世が統一して安定したと、皇室と天皇の治世について多くの事例を揚げられ従来の国定教科書よりも踏み込んでいます。こうしたことから明智光秀は逆賊者とされ謀反人の代表のように見なされて来たのです。
 戦後、加藤武雄はこうした皇国史観に風穴を開けたのです。「叛逆」から見る歴史的事実はどうなのかと云った問題は一部にあるものの、武田家滅亡の事、比叡山焼き討ちの事なども交えながら作家としての細やかな洞察力で解き明かしました。文章の構成力も優れ最後の章である「後書」の語りでは作家としての思考が思う存分に盛り込まれています。
 「叛逆」をここで全文を掲載することはできませんが資料として掲げた「加藤武雄論 ー名作「叛逆」についてー」の書評を見ましたので参考として下さい。

資料 「加藤武雄論 ー名作「叛逆」についてー 菅原宏一より

大衆文学への招待 南北社
 発行 昭和34年11月
 終戦後の占領政策によって、時代小説が一種の禁製品のようになって、時代小説は余儀なく息をひそめて絶えんとする命脈を、わずかにつないでいた一時期があった。なかんずく剣戟(けんげき)小説や仇討ものが御法度で、これが時代小説の発表を心理的に抑制した効果は、今から考えると嘘みたいに大きなものがあった。
 菊池寛が占領軍の民間情報教育部の何とかいうシビリアンにあって、氏の「恩讐の彼方に」の筋の話をしたら、「グッド、アイディアだ」といって、賛成してくれたと、氏が満足そうに話されたことがある。しかし、黙ってあの小説を活字にして、情報教育部の検閲に出したら、はたして通過したかどうか、疑わしいと私は当時の判断する。そういう情勢のなかで、つまり時代小説が極度に悲観され、ある者が筆を折りあるものは現代小説へ転向を企てるという、惨憺たる現実のさなかで、言葉を強めていうと、時代小説作家が書くとこによって、
首を縛ることになるかも知れない危険を承知の上で、なおかつ書いたとすれば、これはよほどの反骨か、芸術的衝動に馳せられてのことに違いない。
 加藤武雄の名作「叛逆」は、実はそうした、時代小説のどん底、時代小説禁制品時代に、一切の顧慮のない、氏の純粋な書きたい衝動によってのみ書かれた、最初の書き下ろし長編歴史小説なのである。
 氏は、現代小説家として出発され、大正末年頃から農民文学に深い関心を示されたが、大きく名を博されたのは、通俗長編作家としてであった。しかし、これは実に先生の志ではなかった。氏のみならず、自然文義
(主義文学か?)の洗礼を受けた作家は、到底通俗作家として徹しきれない魂を持っていたようである。同時代の中村武羅夫がそうであり、三上於莵吉がそうであった。
 ことに氏の場合それがひどく「おれはもう、若い男女がどうしたこうしたという小説を書くのは堪えきれんよ」現代作家の書斎とは縁遠い、史籍に埋まった書斎で、氏は沈痛にしばしばこう述壊しておられた。
 私は、氏の素志が歴史小説あることを、前から承知していた。氏の歴史に対する造詣は深く、史眼の明晰なことは、歴史小説の間に定評があった。こうした氏であるのに、長編流行小説大家としての名声の実が高く、かつ長かったために、ジャーナリズムは氏の歴史作家への転進をこ阻み、許さなかった。氏は快々として、書きたくない現代小説に筆を執らねばならなかった。
 在来の史観を三つに分け、神道史観、末世史観、儒教史観とし、新しい史観の確立こそ歴史小説の曙であることは、氏の主張であったが、私の想像では近代的な人道主義を導入した、新史観を考えておられたのではないかと思う。
 氏の歴史小説への志向は日に強く、鬱血はついね満胸の血となり、裂肺決肝淋漓としてほとばしり、鮮やか花一輪を描いたのが「叛逆」であるとは私は解している。「叛逆」は終戦後に脱稿されたものであるけれども、稿成る日になったのではなく、源は深く、根は深いといわねばならぬ。
 しかも、前述の通り、発表の期待も容易にもてないような、時代小説の最衰微の時期に、何ものをも求めず、ただ芸術的衝動のままに、至純な境地で、この小説が書き下され、時代小説の空白時代が、この雄篇の存在によって埋まったという事実に、私は特別な意義を感ずるのである。実際、これちょ吉川英治氏の「高山右近」が書かれていなかったら、終戦からの二、三年は時代小説空白時代とゆうより仕方がなかっただろう。「叛逆」が最初に上梓されたのは、昭和二十二年の八月で、発行者は満州から裸一貫で引揚げてきた、元満配の吐風山中泰三君であった。彼は当時一銭の金もなく、地下足袋をはいて両親のために東奔西走し八幡良一の仲介で、この稿を得た。これは偏に引揚者に対する加藤武雄氏の好意であった。
 氏は、八幡氏の言をかりれば、小説家として最終の名文家である。そのリズムのある美しい文章的「叛逆」の最初の二三行を読めば、最終の一行まで、一気に読了せずにいられぬいであろう。
 氏は、「叛逆」一篇に心血をそそがれ、これをもって恐らく現代小説に決別し、歴史作家としてスタートするお気持であったと思う。すなわち、新しい出発は同時に、現代小説家としての、氏自身への叛逆をも企てられたことになるものであった。

「叛逆」の一部

叛逆 吐風書房
 
発行 昭和22年8月5日
第十八章 罪人 三
 (前略)
 内蔵助の双眼から、涙の珠がぱらぱらと乱れ落ちた。その涙に膝を打たせながら、内蔵助はつづけた。
「修羅闘諍(しゅらとうじゃう)、人皆獣となって噛み合ふ此の世の中に、ひとり眞人間の魂をもってゐた故にのあの日向守殿のお苦しみでござった。あらう事か、誰一人の眞人間の明智殿が、謀反人、主殺しの悪名をおとりなされたのぢや。−−−殿の御心得、内蔵助は今更に知った。日向守殿がなつかしうござる。明智殿がいとしうござる。」 
 十八日、秀吉は三井寺の陣を引拂って京都に凱旋した。同じ日に内蔵助も京都に送られた。
  これより先、光秀の首は既に京都に送られて、粟田口にさらされた。
地子銭免除その他によって、二日天下の善政を謳歌した京都の市民は、手のうらをかへしたひややかさで、次のやうな落首をこの叛逆者への挽歌とした。 (主の首斬るより早く打たるるは、これとう(惟任)ばつの當たるなりけり)
 齋藤内蔵助に対してのそれは、
(合戦に負けすごろくのさい(賽)とうは七目(縄目)くくられ、八(耻
はじ)をこそかけ)
といふのであった。
 うしろ手にくくられて、老馬の背に乗せられた内蔵助は、一隊の兵卒に前後左右を圍(かこ)まれて京の大路を渡されて行った。真夏の炎日は、林をなす槍の穂先にきらめき、内蔵助の圓顱(まるがしら)を焼いた。馬蹄から舞ひ立つ灰のやうな土烟(つちけむり)は、その額ににじむ汗を黄に染めた。
 路傍に垣をなす市民共の、好奇の目がその姿にあつまった。
 姉川陣以来音にきこえた猛將の末路がこれか。丹波猪の口一萬石の領主が縛り首とは? 腹も得切らで何といふ耻(はじ)さらし、大剛の内蔵助も命惜しさに死にそこなふたのぢゃ。ーーー見物の中にはこんなささやきが交はされてゐた。
 内蔵助は、じっと眼をとじてゐた。全く表情といふものを失った顔であった。
 行列が三条の大橋の袂にかかった時であった。
 「内蔵助!」
 かう叫びながら、突然、群衆の中から飛び出した者があった。内蔵助は、ものうげに半眼を開いてその方へ顔を向けたが、
「おお、友松(ゆうしょう)!」
 我を忘れて、飛び出して来た海北友松は、警固の者の制止をもきかず、あぶみにとりすがって、内蔵助の顔を見上げた。内蔵助はじっと見おろした。ひたと合った四つの眼には、堅田の浦このかたの長い間の友情が、無量のおもひとなってあふれてゐた。
「内蔵。云ひ遺す事があらば聞かう。」
「何も無い!」と内蔵助はかぶりを振りかけたが、
「いや、一つある。おことも知ってゐる堅田の六平治ぢや。私をかくまうて呉れた事で、わざはひを招かうかとも気にかかる。おことは筑前とも悪しからぬ筈ぢや。六平治が為にとりなして呉れい。」
「心得た。心配すな。」
「それからもう一つ、明智日向守殿の菩提を弔うて呉れい。」
「おお、おことの回向(えこう)を
ーーーー。」
「わしが為めには要らぬ事ぢや。内蔵助は日本一の大悪人、堕地獄は必定と覚悟しておる。友松。この顔をよく見ておけ!此の日本一の大悪人を、おことの筆で描きとめて置け。後の人のいましめ草に
ならうぞ。は。は!」
 内蔵助は乾いた、短い笑ひを漏らした。

 六条河原の刑場で、望み通りしばり首になった内蔵助の首は、光秀のと同じやうに洛東粟田口にさらされたが二日目の事である。番卒の眼を掠(かす)め、夜陰に乗じてその首を盗み去ったものがあった。
 容易ならぬ事として詮議の手がつくされたが、その首盗人はわからなかった。
 それが、晝人として世に時めいてゐる海北友松の仕業(しわざ)だったと知れたのは、ずっと後の事であった。友松は、盗んだ首を、手厚く葬ったのである。
「何。友松がーーー?  友松なら大事無い。捨て置け!」
 秀吉はかう云って不問に附した。
 
第十九章 後語
(前略)その太閤御渡海の噂の高い文禄元年の冬のはじめの頃であった。
 京都山科の林のかげに、市塵を避けた一構への中の、茶室の中に対座してゐる二人の老人があった。
「わしの茶も一向ものにならぬわ。」
と、笑ひながら斯う云ったのは、亭主の方である。
「よくよく鈍(どん)なうまれぢやと見える。何一つ人並な事が出来ぬのぢやからな。私の不器用さには、利休居士も愛想をつかして居たものぢやがーーー。」
(中略)
「ところで、私は今度一仕事(ひとしごと)思い立ったのぢや。」
「どんなしごとぢや。」
「わたしはな。杉林を仕立てようと思って、土地を買うた。信楽の山奥に、二三十町歩の土地をな。ところが、肝心の苗がなあかなか求められぬ。そこで、実生から樹にするつもりで、杉の実を蒔いたのぢや。」
「ほう、実を蒔いたか?」
「気の長い話ぢやとおことは嗤(わら)ふぢやらう。わしもかれこれ七十歳ぢや。その齢になって、おかしな事をする奴と、おことは嗤(わら)ふかも知れぬがな。」
「なに、嗤(わら)ひなどせぬわ。」
(中略)
「なに、樹はほろびても種子(たね)は残る。心のこもった種子といふものは、この天地(あめつち)と共にのこらうで。」
「明智彌平治が、わしにのこしてくれた心の種子ぢやな。」
「さようぢや。さようぢや。」と、海北友松はうなづいた。長兵衛と三つ四つしか年齢(とし)のちがはぬ友松も、もう七十路に近い。投頭巾をかぶって、長い白い髯を垂らしたその顔は、彼自身の晝中に出て来る老仙を思はせる。
 床に活けた冬椿の眞しろなのが、ぽたりとかすかな音を立てて一輪落ちた。
 あかり障子に静かな冬の日影がうつって、小鳥のさへづるが遠く近く幻の綾を織ってゐる。軍国のどよめきを外にして、静かさがしみいるやうな此の山科の午後の一と時(ひととき)である。  叛逆(了)

明智光秀/
明智弥平治秀満(やへいじみつひで)/光秀のいとこ
入江長兵衛/:堅田
斎藤内蔵助利三(さいとうくらのすけとしみつ)/
六平治/
海北友松/
東陽坊長盛

粟田口:「京の七口」の一つ、大津、山科を経て三条大橋へと至る東海道での京への入り口です
 
 まとめの途中
 私は、20代の頃、明智光秀が敗走したルートを歩いたことがありました。その頃は、未だ加藤武雄の「叛逆」を読んだ訳ではありませんでしたが、武田勝頼が自害した後、その首を信長が足で蹴った話が地元に伝わっていました。残酷だと思いながら「戦いとはそのように惨いものだ」と思いつつも、どうしても理解ができなく、主君に欺いた光秀の心境に迫ろうとその敗走のルートを歩きました。宇治川の土手沿いの道は兎に角暑かったです。
 加藤武雄は、田山花袋のいる「文章世界」に投稿を重ねました。その仲間達の大部分はその後、通俗小説に走りました。そして書きに書きまくりました。「おれはもう、若い男女がどうしたこうしたという小説を書くのは堪えきれんよ」と云ったようです。それだけ当時の人々の要求に応えていたのです。
 「堪えきれんよ」とか「悔いて」とか、読者はそんな作者の心の内を知るはずもありません。作家も読者も精いっぱいに全力で生き生き抜いていたのです。それでいいのではないかと。
 建仁寺大方丈の間に、襖の八面を使った「雲龍図」があると云う。二頭の龍が凄まじい緊張感の中で対峙していると云う。作者は海北友松。「叛逆」の最終章にある「後語」は海北友松の語りで終わります。小説はここで終わりますが、余韻は終わることなくむしろ増幅している。歴史小説とは眞にそのようなことかと痛感した。

     参考資料
     大衆文学への招待 −庶民の中の文学− 編集 荒正人・武蔵野次郎 南北社 発行日 昭和34年11月
       加藤武雄論 ー名作「叛逆」についてー  菅原宏一 P219〜P221
     武田勝頼公と法泉寺 編輯発行者 田中春巌 発行 昭和10年3月 
       武田勝頼公三百五十年大遠忌趣意書 P34〜P35 
     叛逆 加藤武雄 吐風書房 発行 昭和22年8月5日
     歴史教育の歴史 海後宗臣 東京大学出版会 発行 1969年2月
    
本能寺の変 明智光秀 浜野卓也 講談社 火の鳥伝記文庫 発行 1991年11月 
    
週刊朝日百科 通巻239号 昭和55年7月  世界の美術 「安土桃山時代の絵画」 朝日新聞社 
    
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