加藤武雄の投書時代 ー「文章世界」を中心にー
           〜加藤武雄と西萩花との交流〜
                                  
作成 2010.9.19
                                  
追記 2010.10.9 「新潮」昭和24年7月号

  明治40年臨時増刊第二巻第四号
  「文章世界」
 「文章世界」は明治39年(1906)から大正9年(1920)12月にかけて刊行された投書雑誌(通巻204冊)で、田山花袋が主筆となり、前田晁(あきら)が編集委員となって博文館から出版されました。
 そして、この「文章世界」から後年、多くの文学者が生まれました。谷崎精二、広津和郎、米川正夫、中村白葉、中村武羅夫、水守亀之助、吉屋信子、木村毅、中西悟堂、白鳥省吾、生田春月、小島政二郎、田中冬二、今東光、小林多喜二そして加藤武雄等です。
 明治40年4月発行の増刊号を見ると投書のできる項目が12通りに分かれてありました。小説部門は小栗風葉、論文部門と小品部門は長谷川天渓、叙事文部門は田山花袋、叙情文部門は西村渚山、書簡文部門とはがき文部門は前田木城(晁)、新体詩部門は蒲原有明、和歌部門は窪田空穂、漢詩部門は岸上質軒、俳句部門は内藤鳴雪等がそれぞれに撰者となって批評を加えていました。また表紙は橋本邦助によって描かれています。
 初期の「文章世界」は加藤武雄の「都の友に」の投げかけに西萩花が呼応するかたちで誌上を賑わし当時の青年たちに深い感動を与えま
した。後年、加藤武雄はその事を、長篇小説「悩ましき春」の中で書き下ろし当時を振り返っています。
 主筆、田山花袋は九州旅行の途次、耶馬の西家にも立ち寄り墓に詣でました。西萩花は服毒によって21歳の若さでこの世を去ったのです。
 この頃の、小説はロマン主義から移行した自然主義全盛期の時代で西萩花も加藤武雄も小説を投稿していましたが当初は散々たるもので掲載されるまでには相当な時間を要しました。
 加藤武雄は昭和3年の「文章倶楽部10号 インキに汚れた過去」の中でこ
んな風に振り返えりました。
「僕等のさうした陶酔的な詩情は、--うつつない夢見心地は、しかし、自然主義文学の出現によって冷やかに醒まされて行った。」とあり批評は常に厳しいものでした。やっと小説が認められるようになったのは明治43年2月、花袋自らが認めた六軒村」以降です 。そうしてこの日を待つかのように、まるで堰を切った水のように小説の道へ突き進んで行きました。
  
 
                  「文章世界」  明治40年臨時増刊第二巻第四号の目次

投書雑誌名 年 号 月 巻号 作 品 名 主な内容 投書名
文章世界 明治39年
(1906)
 19歳
6月 一巻四号 都の友に 書簡文 加藤武雄
しら百合やー 短歌 佳作 加藤武雄
健の父 小説 田山花袋選 加藤罵禅
芳さん 叙情文 佳作 (誌上掲載されず)  加藤武雄
7月 一巻五号 感慨録(日記より) 叙情文 乙賞 加藤武雄
写真 小品文 八位 加藤武雄
8月 一巻六号 加藤君へのお返し 書簡文 西萩花
夕日影 小説  賞外佳作 加藤武雄
9月 一巻七号 遊べとて 文叢 西萩花
おもひ出 新体詩 西萩花
追想 文叢 西萩花
和歌一首 . 西萩花
おもひ出の記 文叢秀逸 加藤武雄
草いきれー 俳句 加藤武雄
悔恨 小説  (選外掲載されず) 加藤武雄
11月 一巻九号 病日記 文叢 西萩花(陽炎庵萩花)
秋の日 小品 西萩花(千代万年堂)
和歌一首 . 西萩花
お秋 文叢秀逸 加藤武雄
桔梗の花に添へて はがき文 天賞 加藤武雄
初恋人 小説  (選外掲載されず) 加藤武雄
ふときけばー 和歌佳作 加藤武雄
秋風やー 俳句 加藤武雄
12月 一巻十号 萩花君に与ふ 文叢秀逸末席 加藤冬海
莞爾 小品文戊賞 加藤冬海
二首 和歌佳作 加藤武雄
野菊 小説 (選外掲載されず) 加藤武雄
明治40年
(1907)
20歳
1月 二巻一号 写真に添えて はがき文 西萩花(萩の花守
誌友のおもかげ (巻頭写真)
街頭 小品文戊賞 加藤冬海
しづ心神をー 和歌入賞 加藤冬海
2月 二巻二号 近き友へ 文叢 西萩花
初日出 小品文 西萩花
級友 小説佳作 西萩花
病恋愛 . 西萩花
西萩花君へ 文叢秀逸二位 加藤武雄
うたの声 小品文戊賞 加藤武雄
3月 二巻三号 病日記 文叢佳作 西萩花
春らしく 小品文 西萩花
地蔵尊 文叢優等三席 加藤(武雄)
4月 二巻四号 1日発行 病床より 書簡文 木城選.甲賞 西萩花
行くよ はがき文 木城選.佳作 西萩花
課題答案 . 西萩花
和歌一首 . 西萩花
哀調 叙情文甲賞 加藤冬海
春晝 小品文佳作 加藤冬海
胡蝶を袖に拂って はがき文秀逸二位 加藤東階
子の希望する職業ほか 課題答案坤賞 加藤冬海
4月 二巻五号 15日発行 加藤冬海兄へ 文叢 (二号文を読みて) 西萩花
某女 小説(掲載されず) 西萩花
為藤君足下 はがき文入賞 加藤武雄
えりまき 小説 (掲載されず) 加藤武雄
5月 二巻六号 若草草紙 文叢 西萩花
おぼろ夜 小説(掲載されず) 西萩花
唄の主 文叢秀逸二席 加藤武雄
日記の一節 小品文戊賞 加藤東階
涙目して 和歌 加藤冬海
6月 二巻七号 文叢 西萩花
?ママ 小説(掲載されず) 西萩花
春ゆく宵 文叢秀逸 加藤冬海
星の消えぬ中に はがき文地賞 加藤東階
雪子 小説(田山花袋) 加藤冬海
あわれみのー 和歌 加藤冬海
7月 二巻八号 五月雨草紙 文叢 西萩花
加藤冬海君へ(5号西萩花) 文叢 中村泣花(武羅夫)
小説 西萩花
ほととぎす 文叢秀逸 加藤冬海
鮎に添へて はがき文 加藤冬海
こいしさやー 和歌 加藤冬海
逆潮 小説(掲載されず) 加藤(武雄)
8月 二巻九号 和歌一首 . 西萩花
苺に添へて はがき文天賞 加藤紅袖
ふるさとや 和歌 加藤冬海
満足 小説(掲載されず) 加藤(武雄)
9月 二巻十号 ちぎれ雲 文叢 西萩花
?(やつ)れた人 小説(掲載されず) 西萩花
当惑 文叢秀逸 加藤冬海
10月 二巻十一号 筆すさび 小品文 西萩花
和作 小説(掲載されず) 西萩花
11月 二巻十二号 . 未調査 .
12月 二巻十三号 愁思 文叢 西萩花
石井君 小説(掲載されず) 西萩花
明治41年
(1908)
 21歳
1月 三巻一号 愁人断篇 文叢 西萩花
何の用 小品文 西萩花
妄語 小説佳作 西萩花
三年間 小説(掲載されず) 加藤(武雄)
2月 三巻二号 泉のほとり 叙事文 西萩花
わが悲哀 抒情文 西萩花
空虚 . 西萩花
病床より 書簡文 西萩花
夕雲 叙情文入賞 加藤冬海
田舎の教師より 書簡文佳作 加藤冬海
2月 三巻三号 絶望 文章 西萩花
3月 三巻四号 病窓に倚りて 文叢 西萩花
筆すさび 小品文 西萩花(萩花狂郎)
ゆふべ 小説(掲載されず) 西萩花
4月 三巻五号 雨戸 小説(掲載されず) 加藤(武雄)
4月 15日号 妬心 小説(掲載されず) 第五位 西萩花
5月 . 未調査 .
6月 三巻15日号 耶馬より 文叢秀逸 西萩花
耶馬より はがき文 戊賞 西萩花
無職 小説(掲載されず)  第十五位 西萩花
7月 三巻九号 よせがき 文叢 西萩花
小品文 西萩花
ゆふべ 詩 有明選 西萩花
加納君足下 はがき文地賞 加藤冬海
養蚕 小説(選外佳作掲載されず) 加藤冬海
8月 三巻十号 噫西萩花君逝く 巻頭文と肖像を掲載
病床より 書簡文(絶筆) 西萩花
わが悲哀 叙情文 木城選、地賞(絶筆) 西萩花
小学教師より 書簡文佳作 加藤冬海
ほととぎす 叙情文天賞 加藤冬海
9月 三巻十二号 断腸の記 文叢優等二席 (西萩花追悼記) 加藤冬海
逢へると思ふ はがき文地賞 加藤冬海
11月三巻十五号 弾力のひびき 散文優等 加藤冬海
明治42年
(1909)
22歳
2月 四巻二号 新春壇号 七日間 日記文天賞 加藤冬海
5月 四巻六号 新緑号 強い眼鏡 応募小品(短篇小説) 加藤冬海
10月 四巻十三号 嘲りきれやしない はがき文秀逸第一位 加藤冬海
月光 叙述文佳作 加藤冬海
午後八時門に立ちて 小品文佳作 加藤冬海
11月 四巻十四号 秋風号 顔の印象 応募小品(短篇小説) 加藤武雄
12月 四巻十六号 初秋の一夜 叙述文秀逸 加藤武雄
明治43年
(1910)
23歳
2月 五巻二号 増刊梅花号 六軒村 小説佳作第二席(花袋選) 加藤冬海
2月 五巻三号 叙述文秀逸第三席 加藤冬海
四日の晩 小説賞第一位(花袋選) 加藤冬海
4月 五巻五号 小説賞第一位(白鳥正宗選) 加藤冬海
・・・ 書簡文 (不明) 加藤(武雄)
5月 五巻六号 増刊菖蒲号 下田の地蔵 応募小品第二席 加藤冬海
8月 五巻十号 石竹号 奉公人 小説(選外佳作掲載されず) 加藤(武雄)
中学世界 明治38年
(1905)
4月 八巻五号 妹に送る書 加藤(武雄)
11月八巻十五号増刊菊花号 ゑにし 叙事文甲賞 加藤武雄
明治39年
(1906)
1月 九巻一号 別の記 青年文壇秀逸第一席 加藤武雄
             巻号の表記で一部不明な所がありましたが、そのまま掲載しました。
             参考資料 郷愁の人 評伝・加藤武雄 安西愈 昭和書院 発行1979・10
                 もう一つの明治の青春 西萩花遺稿集 小林一郎 教育出版センター 発行1992.3
                 若き日の加藤武雄の足跡を訪ねる(資料集) 山梨県立文学館見学会 平成9年6月1日 
まとめの途中で
 
加藤武雄の投稿時代を振り返ろうと、資料を見ながら書き並べて見ましたそして初期の作品を西村渚山や田山花袋がどのように指摘して来たか、その文章表現がどのように変化して行ったか、その比較をして見ようと思っていました。だがそうすると、もしかして西萩花との誌上によるロマンチズムな表現法が薄れてしまうのではないかと考えました。
 明治の青春を力一杯、生きぬいた西萩花への追悼の意味も打ち消してしまうのではないかと思ったのです。
 大正9年9月、編集に携わった前田晃の口入で「悩ましき春」の小説を「福岡日々新聞」に連載することができました。小説の主題は、勿論、西萩花とのこと、故郷での事なのです
 
田山花袋研究の第一人者、小林一郎先生もこの劇的な出会いを一冊の本にまとめられました。その小林先生も昨年(2009)4月11日、92歳で他界されました。
 加藤武雄と田山花袋との出会いは余りにも大きな存在です。文章には主義や主張に囚われないナイーブなところのあることを巨匠たちは知っていたのです。そうでなければ西萩花の墓などに詣ではしない。

 
        西萩花の墓所: 紅楳山雲西寺 大分県下毛郡本耶馬溪町落合1476-2

   参考 
磯貝英夫著  「郷土作家資料紹介 倉田百三「都の友に」ほか」 
      http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00065309/kbs_04_46.pdf

資料@ 加藤武雄 「都の友に」

資料A 叙情文 西村渚山選 「哀調」 甲賞 加藤冬海
一 (省略)
二 
 去年の助Mの旅、白雲の行方を追ふてさまよひ入りし甲斐の山中、富士を西南に見る美しき里ありて、数多の好画題を我に與へし事は、なほ君がアルバムに偲ばる可し。緑一村を封じて葡萄将に染まむとし、水晶の如き水、岩に激して古風なる水車あり、暁の星を乱れ咲く百合の香に、薫ずる風の咽ぶばかり、彩羽露に濡れて、小鳥の歌も清かりし。−此塵外の詩境、昔物語にあらむ如き
洒たる草の家に、楽しかりし三旬の假枕、床しき人々の、麗(うるわ)しき情に酔ひにし思ひ出は、曾って幾度も君に語りし處也。
 其家に小女あり、お雪と云ひぬ。鳩の如き愛らしき瞳と、蕾に似たる唇と真白き頬と、富士の白雪の紫の水と溶けぬるに化粧すればか、青葉戦ぐ窓に絹織る唄も、げに美しき小女なりし。其隣の少年を高次といふ、若き血潮のみなぎりに、曙の薄紅に頬染めて、瑠璃の葡萄の露吸ひておよすげゆる清き潔き山の子なり。
 其少女と、其少年と、其戀のそれいかに幸多きものにてありし乎
(か)
三・四・五・六
(省略)
  評 文に一種の譜調あり。想も全然詩的で、甚だ美しい快感を覚える。「玉を轉はすが如し」と称するのは、大方此等の文を云ふのであらうと思はれる。但し、忌憚なく云ふと、一扁を通じて、余りに形容が多過ぎ、余りの技術が多過ぎ、又余りにしぐさ(芝居で云へば)が多すぎる嫌ひがある。即ち、○ひの影、気取りの風とのあることが免れない。従って一寸人に厭気をささせる。これが、君の長所であって、また欠點だと思ふ。併し、兎に角才筆である。君なればこそ、斯うも書け得る。絢爛、華麗、何れを見ても皆な花だ。其の花に輝いて居る。自愛し玉へ。

資料B 西萩花 「加藤冬海兄へ(二号の文を読みて)」
 君! 冬海兄!
 悲しきは恋する人の運命とやまこと儚
(はかな)き二人のゑにしにて候ふかな。卿(きみ)も泣き玉ふか、吾も堪へがたきに咽(むせ)びさふらふ。
 ゆるし玉へ、七とせ床に臥
(ふ)しては気も弱く心も弱く、女々しき手紙に多感の兄を泣かしめ候ふされど、堪へがたの胸や病める脚の一歩だも能はぬものを、闇色の脚絆に包んで三百里の雲を分けんと、わりなき文に果敢なきゑまひを寄せし我が胸の、君よ、そも如何なりしとおぼし玉ふ乎(か)
 富士の白雪の紫の水と溶けぬる相模川、白銀色の靄
(もや)浮べて水鳥のさざめきに暮るゝところ、一葉の扁舟に倚りて吾を待ち玉へりとや、あゝ、孤影さびしう舷(ふなば)に笛吹いて兄は病める弟を持ち玉へりとや、嬉しう候悲しうさうらふ。沸る血潮の逆まきに裂けなんとする胸にもあるかな。
 雪に化粧して豊前不二は優しく尊く候ふ。寝られぬ夜々を想ひ冷たう、燈火に背く苦吟の手をとりて、長き袂のもみ裏に絶えぬ涙を分たん人は無くもあれ、一水絵の如く徂
(ゆ)くところ一岳夢のやうに聳えて、耶馬は雲美しう候ふ風すがすがしう候。(下略)    (「文章世界」第二巻第五号 明治40年4月15日)

資料C 文叢 「加藤冬海君へ(五号西萩花)」 麹町三番地十二平田方 中村泣花→武羅夫
 一体此の人でも、感情を偽って、感情を誇大して、その他人の同情を求めやうとする悪い癖がある。自分は嫌いだ。要するに女々しい愚面だ、その女々しい愚痴を華やかな文字を借れて人に訴ふ、その心が何となく卑しくて厭
(いや)だ。それに文章は可なりうまい方だが、形容が何時でも同じだ。「富士の白雪紫の水と溶けぬる相模川」とか「白雲の行方」とか「美しの相模少女がはぢらひの頬そめて」とか、どの文にもどの文にも殆(ほと)んど千遍津(ママ)、之では読者も倦きて了ふ、初めには文章もうまいし悲しい境遇に同情しても、何時も何時も同じことを同じ形容で書かれては終ひには読者も鼻について来る。自分は此作者と加藤君に忠告する今少し眼界を濶(ひろ)くして、余り感情一点張りのもの計り書かないで、少しは客観の地に立って文章を書きたまへ。そして二人共文や調子をよくしやうとして余分の言葉が余り多くなり其結果、折角の感情もそっちのけとなり、読(ママ)は何処をつかんで好いのか其中心を失って大いにまごつくことがある。之は西君の長所でもあり、亦短処(ママ)でもある。それから自分は煩悶のある人だと推察する煩悶のある人だと推察する煩悶も好いが、併し其煩悶を売りものにしやうとするのは駄目だしかう云っては失礼か知らんが、自分は西君が文を衒って文の上に恐ろしく才を弄した痕のあるのを見て、確かに煩悶を售りものにする人だと信ずる。此文は敢て評するまでもない。此の前の文章世界や中学世界で、之と同じ文句で此れと同じことを書いたのを二三度見たことがある。要するに感情を弄して見た処華やかで実のない文だ。
         (「文章世界」第二巻第七号 明治40年7月15日)
資料D 加藤武雄 「六軒村」

新潮 夏季創作特集 第四十六巻七号 発行 昭和24年7月 
     
資料E 中村武羅夫君を悼む    加藤武雄
 五月十二日、私は上州館林に赴き、翌十三日、城沼の畔の建てられた田山花袋先生の歌碑の除幕式に参列し、その日の午後帰京した。その日は田山花袋先生第二十回の忌辰に當ってゐたが、十三日であり、金曜日であり、西洋流によると非常な凶日である。此の電車が引っくりかへるかも知れないぜなどと、私は東武線の車中で、冗談を云ったりしたが、たまさかの外出でひどく疲れ、あくる日は十二時近くまで朝寝をした。起きたところへ(ムラフシス)といふ電報が来た。二十年を隔てて、花袋先生と同月同日に死んだ中村君は花袋先生の刺戟に依って、文学に志を立てた
人である。私と中村君との結合も、花袋先生主宰の「文章世界」といふ雑誌に媒介された。「文章世界」は自然主義文学の牙城であった。美化と装飾とを旨とする硯友社の文学に代わり、ひたすら人生の真実をと志した自然主義の洗礼を逸早く受けた中村君が北海道の旭川から出て来たのは、私が出てきたより二年か三年前だったろうか。私が出て来た頃、中村君は新潮社の前社長佐藤義亮氏に知られて、既に雑誌「新潮」の編輯にあづかってゐた。そして、新潮社と接近してゐた小栗風葉、眞山青果氏等、いはゆる戸塚派の一人に数へられてゐた。青果氏と共に、国木田独歩氏の病床に侍し、その談片を集録して「国木田独歩病床録」の一巻を編んだのもその頃の事である。(以下略)
               (「新潮 夏季創作特集 第四十六巻七号 発行 昭和24年7月

まとめの途中でA

新潮 夏季創作特集 第四十六巻七号
     発行 昭和24年7月

 私は、新潮社と切っても切れない雑誌「新潮」に長く携わった中村武羅夫の追悼記事に驚いた。5月13日に亡くなったことは以前から知っていたが、その屋台骨とも云える「新潮」に追悼文が加藤武雄、佐藤春夫それに楢崎勤の三名だけであった。編集兼発行者は斉藤十一である。編集後記には「故中村武羅夫氏は、新潮編集長として二十有餘年、その日本文壇に盡(つく)した功績は少なくなかった。本號に於いて三氏の追悼文をもって故人のはなむけてした。」と、たった五行で締めくくったのである。
 そして、同月号には「夏季創作特集」として「楽屋見物 志賀直哉」、「服織 中勘助」、「禁酒宣言 上林暁」、「
小説太宰治 檀一雄」、「海は女 山は男 北畠八穂」、「途上 田村泰二郎」、「スキヤキから歴史がはじまる 坂口安吾」、「捕虜第一號 酒巻和男」を掲載したのである。編集方法がこれまでの「批評」重視から新しい「創作」へと変わり行く、変遷を垣間見るようでもあった。
 投書時代の仲間が、また一つ消えたのである。加藤武雄は中村武羅夫の追悼文の中で田山花袋のことを先生と4回も書き記したのである。こんなことは未だなかった。師とはそのようなものかとつくづく思った。

       
教科書に載った加藤武雄 
       もう一人の加藤武雄・小林愛川
       「放浪記」の中の加藤武雄
       「二月会」と加藤武雄
       加藤武雄と一瀬豊・農民文学の扉
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