「ゴーガンの村」再考
     
〜西脇順三郎は街道のすぐ脇の小道を下りて沼本に行きました。〜

              作成 2011・11・10
              撮影 2011・11・18 沼崎さんに教わった小道の写真を追加
 はじめに
 昭和51年の10月、町田市相原小学校に於いて「八木重吉50年祭」が行われました。会場には吉野トミ子さんも来られ重吉との思い出話が語られました。その頃の私は、重吉は勿論のこと、朔太郎や中也の詩などを読みあさっていました。翌11月3日は、明治神宮外苑絵画館文化教室に於いて「萩原朔太郎研究」と題した無限アカゼミー特別公開講座が模様されました。
 講師は飯島耕一・伊藤信吉・岡庭昇・草野心平・慶光院芙沙子・嶋岡晨・那珂太郎・中桐雅夫・萩原葉子そして西脇順三郎です。
 講師がどんな話をされたかは残念ながら忘れてしまいましたが、西脇順三郎は背が高くスマ−トで、イギリスのオシャレなお爺さんと云った感じがして、とても好感が持てました。
 そんなこともあり、西脇順三郎のことがどこかで気になっていました。何気なく読んでいた伊藤信吉著「詩のふるさと」の中の「「旅人かえらず 相模川」の原作地は一体どこだろ」とか、なんとなく親しみを覚えながら、あれやこれやと考えたりしていました。
 そうして、忘れてしまったような年月が過ぎ、つい最近になって偶然にも西脇順三郎著、「野原をゆく」に出会えたのです。その本の、「漂泊」と云う項の一番最後のところに「ゴーガンの村」と云う記述がありました。

   
           ↑少年と出会った坂道

「近代の寓話」  野の会話  4

相模川の上流に行ってみなさい
岩躑躅の咲く頃
ゴーガンノ村になりそうな
河べりの里が谷の下にある
そこへ行ってみたい人に知らせるが
よせから橋本の方へ行く街道から
こうもりの先で山栗の枝を分けて
みると そこに小路がかくれている
だがゴーガンの好きなのは
あの紅の腰巻やノアノアではない
あの裸の女の肌の色ばかりでない
あの原始的な詩情でもない
ここがルソーと異なるところだ
画家としてすばらしい
絵はどう描くものか知っている。
天地の切り方人間の並べ方
暗さのつけ方
地平線と人間の関係
濃厚な色彩の憂欝性
もう思考はつきている
形像と色と明りの世界に
ひとり残されて
ひとり自分の頭の重さを感じるだけだ。

  
              昭和十一年十月  「句帖」 目次

   


西脇順三郎 野原をゆく  講談社 1990年5月発行 随筆より
ゴーガンの村  P269〜P271

野原をゆく 1990・5
 この八月の末頃、ムシャクシャしたので、東京を去って、ヨセから相模川に大体沿って走っている旧甲州街道を東京の方へとブラブラ下って歩いた。太陽は勿論未だ熱かったが、風が汗ばんだシャツに触れると秋のことを思った。
  何処まで行くつもりか、まだ定まっていない。東京を出る時はヨセから宮ヶ瀬まで歩いて、それからバスに乗ってアツギまで出ることもよいと思い、そのつもりで大体歩いていた。ところがどうしてもそのコースは遠すぎて、宮ヶ瀬で留まる必要があり、都合が悪い。
どうしようかと考えながら歩いている。スアラシという石器時代の住居跡で有名な村が街道にあるが、その村を過ぎて、下り坂にかかると、そこへその辺の少年が自転車に乗って来た。自分のコースが有望か否かを念のために聞いて見た。「遠すぎるネーエーエ」と神奈川県一流のアクセントで答えが来た。膝を屈して、その少年に教えを乞うた時、「この下の村から舟を浮かべて下るも亦(また)」一興ならん。アラカワに着きたれば、直にバスに乗り、八王子に至れば、日くるる前に東京につくこと請負うべし」というような意味をこの少年が親切に土地の言葉で教えてくれた。そしてこの少年は指をもって、下の谷間を示し「あのタカネを下って行くと川辺りの村に出るネーエーエ」
 蝙蝠(こうもり)の先で繁っている枝を押しわけ街道のすぐ脇から下って行った。僕は以前から東京の人は誰も知らないで東京からあまり遠くない、かくれた村(村というよりも、土人的な集落)をさがしていたのだ。
 村へ降りて見る、到るところで多くの大人子供が笑っている。道端には鉛管で水が引かれている。この村は街道からみると殆ど気づかぬ程のものであるが、実は非常に美しいカーヴをもった谷が湾をなしている。樹木と草花と水流、白い砂地、土地の子供の裸の色などは、どうしてもゴーガンの絵に出てくるタヒチーの村である。特に谿流の岸は海岸と等しく、砂の堆積で、一つの砂丘を形成し、エノキや、南洋でなければないような樹が繁り、紫の影を投げている。
 そこは相模川と道志川が合流して実に美しい地域をなしていた。
 その村の一端から舟に乗って、三円出して、荒川まで下った。その途中は実に漢詩的な情緒に溢れていた。水が苔と草根を洗って静かに流れている。舟の中で横たわってみていると、なんとも言えない不思議な感覚を感じるのであった。僕の舟はアユ釣り舟の邪魔をしながら下ったが、その人達には大変迷惑なことであったに違いない。
 東京へ戻って、その美しい村で、なんとかして家を借りるか、建てるかしてみたいと考えた。その計画も夏の日のだるき夢の如くいつの間にか消えてしまった。
                  (昭和十一年十月  「句帖」)

「近代の寓話」  野の会話  4
詩のふるさと 伊藤信吉
 旅人かえらず 相模川
幻影No27号 八木幹夫
「旅人かえらず」の詩篇をめぐって

 相模川の上流に行ってみなさい
 岩躑躅の咲く頃
 ゴーガンノ村になりそうな
 河べりの里が谷の下にある
 そこへ行ってみたい人に知
らせるが
 よせから橋本の方へ行く街道から
 こうもりの先で山栗の枝を分けて
 みると そこに小路がかくれている
 だがゴーガンの好きなのは
 あの紅の腰巻やノアノアではない
 あの裸の女の肌の色ばかりでない
 あの原始的な詩情でもない
 ここがルソーと異なるところだ
 画家としてすばらしい
 絵はどう描くものか知っている。
 天地の切り方人間の並べ方
 暗さのつけ方
 地平線と人間の関係
 濃厚な色彩の憂欝性
 もう思考はつきている
 形像と色と明りの世界に
 ひとり残されて
 ひとり自分の頭の重さを
 感じるだけだ。



 相模川の上流に行ってみなさい
 岩躑躅の咲く頃
 ゴーガンノ村になりそうな
 河べりの里が谷の下にある
 そこへ行ってみたい人に知らせるが
 よせから橋本の方へ行く街道から
 こうもりの先で山栗の枝を分けて
 みると そこに小路がかくれている
 だがゴーガンの好きなのは
 あの紅の腰巻やノアノアではない
 あの裸の女の肌の色ばかりでない
 あの原始的な詩情でもない
 ここがルソーと異なるところだ


 (10行省略)










 相模川の上流に行ってみなさい
 岩躑躅の咲く頃
 ゴーガンノ村になりそうな
 河べりの里が谷の下にある
 そこへ行ってみたい人に知らせるが
 よせから橋本の方へ行く街道から
 こうもりの先で山栗の枝を分けて
 みると そこに小路がかくれている
 だがゴーガンの好きなのは
 あの紅の腰巻やノアノアではない

 (5行省略)

 天地の切り方人間の並べ方
 暗さのつけ方
 地平線と人間の関係
 濃厚な色彩の憂欝性
 もう思考はつきている
 形像と色と明りの世界に
 ひとり残されて
 ひとり自分の頭の重さを
 感じるだけだ。




 旅人のはじまり 
 この詩の表題がよく分からないでいます。順三郎は「近代の寓話」の中の「野の会話」はとても長い詩で、その中の「4」番に沼本のことが記されてありました。
 後年、二人の詩人がこの詩にタイトルをつけて照会しました。伊藤信吉は「旅人かえらず 相模川」とある表題の中で、また八木幹夫は「旅人かえらず」から該当する65番の詩篇を引用しながら「昔の土を憶ふ」と表題をつけました。
 詩のテーマとなった相模原市緑区の沼本(旧相模湖町)に、順三郎が訪れたのは昭和11年8月末のことでした。その模様は昭和11年10月に発刊された「句帖」10月号の「ゴーガンの村」の中で紹会されていました。現在、集落の殆んどが津久井湖の湖底に沈み渇水期にのみ、かつての大地をのどかせています。
 詩の構成は、こうもりの先に見えた沼本の情景とゴーガンから派出した絵画の情景です。伊藤信吉から受けた印象はこうもりの先さきに見えた情景だけで、順三郎とゴーガンとの格闘を分かりにくくしています。また八木幹夫から受けた印象は詩を二分してしまったために本来持っていた詩の連続性に欠け、ここでも、詩を分かりにくいものにしてしまいました。これは紙面の関係上余儀なくされたものと残念に思いました。
 こうしたことから、詩の情景は「野原をいく」を読んではじめて理解することができたのです。ゴーガンで印象に残る絵画はやはりタヒチの人々の絵だと思います。中でも1897年から1898年にかけて描かれた大作、「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か われわれはどこへ行くか」は縦139.1cm、横374.6cmもあり圧倒されてしまいます。ゴーガンはこの絵を仕上げた時、自殺をはかりました。自殺は未遂に終わりましたが、この絵は貧困と病に苦しみながら、絶望と云うどん底の中から這い上がるように描かれた遺作とも云うべき作品なのです。
 ゴーガンのタヒチ行きは、ヨーロッパの腐敗した社会や文化にあきあきしていたゴーガンにとって最後の楽園とも云えるところでした。いわば漂泊の果ての先なのです。
 旅人に西行や芭蕉がいました。順三郎が西行のような旅をされたとは思えませんが、でも「旅人かえらず」でみる旅人の姿は野を歩く旅人の姿でした。私はそれで充分だと思っています。順三郎ほどいろんなところを歩かれた詩人はいないと思います。断言はできませんが旅に病んだ人であったと思います。
 詩の情景から
 赤い躑躅に、白い砂浜、樹木と草花と水流、土地の子供の裸の色など、どう見てもゴーガンの村だと云っていますが、順三郎自身は決してそうではなく、もっと奥深いところにみえる郷愁を見ていました。
 郷愁には二つの意味があります。一つは「故郷を離れている人が故郷をなつかしく感じる気持ち。ノスタルジア。」です。もう一つは「古いものをなつかしむ気持ち、過去にたいするなつかしさ」です。この詩は後者の過去に対するなつかしさです。
 ゴーガンがタヒチに向かったのは、ヨーロッパの腐敗した社会と深い反省です。そして、そこから這い上がるように、「何処かに、きっと永遠の花園があるはずだ」と。その楽園を求めての旅でした。順三郎が「あの紅の腰巻やノアノアではない あの裸の女の肌の色ばかりでない
と云ったのは郷愁と云う意味の裏返しでもあり「あの原始的な詩情でもない」と云ったのはゴーガンのタヒチの村でもありません。またピカソに続くルソーの絵でもありません。
 さらにゴーガンの絵は構図もよく「もう思考はつきている」と云い、絵としてはもうこれ以上のものはないとまで云いきっています。
 順三郎はそのことに一人とり残され病んでいたのです。
 3月11日、大震災が起きました。この世の終わりかと考えた方もおられたことでしょう。今までは一体なんだったろうと、これから先どうなるのだろうと考えた方もおられたことでしょう。
 順三郎の疎開先では、空襲で家を焼かれてしまいました。終戦の日のあの虚脱感、希望とか夢などありゃしないじゃあないか。落ちるところまで堕落して行くのだと、そして、その地の果てからやっと這い上がるようにして、希望らしき光が射して来たのです。
 順三郎は、そう遠くない沼本の地で「旅人」になったのです。まさしく、こうもりの先に見えた光の情景は郷愁の地そのものだったのです。

                             撮影2011・11・18
   
 順三郎が歩いたと思われるゴーガンの村の小道

   
 偶然、出会ったNさんに小道を教わりました。    湖底に沈んだゴーガンの村

萩原朔太郎と西脇順三郎の主な年譜
西暦 和年号 記 事 朔太郎年齢 順三郎年譜
1886 明治19年 11月、朔太郎、群馬県東群馬郡前橋北曲輪町に誕生。 0
1887 20年 1
1888 21年 2
1889 22年 3
1890 23年 4
1891 24年 5
1892 25年 6
1893 26年 7
1894 27年 1月20日、順三郎、新潟県北魚沼郡小千谷町で生まれる。 8 0
1895 28年 9 1
1896 29年 10 2
1897 30年 11 3
1898 31年 12 4
1899 32年 13 5
1900 33年 14 6
1901 34年 15 7
1902 35年 16 8
1903 36年 17 9
1904 37年 18 10
1905 38年 19 11
1906 39年 20 12
1907 40年 21 13
1908 41年 22 14
1909 42年 23 15
1910 43年 24 16
1911 44年 3月、順三郎、小千谷中学卒業。図画の教師にすすめられ画家を志望。家族の紹介状を持って白滝幾之助、藤島武二らに相談の末、黒田清輝主宰の白馬会に入会する。
5月26日、父寛蔵死去。
25 17
1912 45年 9月、順三郎、慶応義塾大学理財科予科に入学する。 26 18
1913 大正2年 27 19
1914 3年 4月、順三郎、慶応義塾大学理財科に入学する。
6月、朔太郎、室生犀星、山村暮鳥らと人魚社を設立する。
7月、第1次世界大戦が始まる。
28 20
1915 4年 3月、朔太郎、室生犀星、山村暮鳥らと詩誌「卓上噴水」を創刊する。(5月第3号で廃刊) 29 21
1916 5年 4月頃から週1回、自宅で詩と音楽の研究会を開く。
6月、犀星と「感情」を創刊。後で山村暮鳥、多田不二、竹村俊郎、恩地孝四郎らも参加する。
30 22
1917 6年 2月、朔太郎、詩集「月に吠える」を白日社出版部と感情詩社共刊で刊行、詩壇の注目を集める。
3月、順三郎、卒業論文をラテン語で小泉信三教授に提出して卒業する。

4月、順三郎、ジャパンタイムズに入社したが、社の経営陣の交替に伴い11月に退社。
31 23
1918 7年 3月、順三郎、日本銀行に入社する予定のところ、健康を損ない、しばらく三保で療養。同地でペイターの評論集を枕読。
7月、順三郎、郷里小千谷に帰り、自宅で療養を続ける。
32 24
1919 8年 5月、朔太郎、上田稲子と結婚する。
6月、順三郎、外務省条約局に嘱託として勤務。
33 25
1920 9年 4月、順三郎、慶応義塾大学の予科英語教員となり、野口米次郎、戸川秋骨、馬場孤蝶らを知る。
9月、朔太郎の長女葉子誕生。
34 26
1921 10年 8月、順三郎、「英語文学」にThe Pomegranate,sonnet of Summerの英語ソネットその他を発表。  35 27
1922 11年 3月、「月に吠える」をアルスから再刊する。
4月、情調哲学「新しき欲情」をアルスから刊行。
7月7日、順三郎、慶応義塾大学留学生として、神戸より北野丸でイギリスに出帆する、朔太郎の「月に吠える」とニーチェの「ツァラトゥストゥラ」を持参。

 まだ若いころ、西脇君の友人に福原路草という俳句作りがあった。その路草と二人で、「月に吠える」を読み、一緒に大いに笑ったという。この路草という人、資生堂社長の次男で、だいぶ前に死んだそうだが、西脇氏の詩を語る上では、忘れてはならない人のようだ。氏が大学を出て、イギリスへ留学する時、路草は「お前、これ持って行け」と言って、「月に吠える」を氏にくれたという。おそらくロンドンの客舎で、座右に持っていた唯一の日本語の詩集は「月に吠える」である。
          山本健吉 「朔太郎・順三郎・ウイット」より 1975・7
 ○この年、順三郎、ロンドンで柳田国男を知る。
36 28
1923 12年 1月、朔太郎、詩集「青猫」を新潮社から刊行。
1月、順三郎、ケンジントン地区のホテル・ローランドに居を定める。
7月、順三郎、スコットランド地方を友人と旅行。
7月、朔太郎、詩集「蝶を夢む」を新潮社から刊行。

10月、順三郎、オックスフォード大学ニュー・コレッジの英語・英文学のオナーコースに入学。
12月、順三郎、クリスマスの休暇にフランス・スイス方面に旅行。
37 29
1924 13年 7月25日、順三郎、イギリス人マジョリー・ビットルと結婚。
11月、順三郎、ロンドン滞在中に書いた英詩A Kensington Idyllがエリオットの詩とともに「チャップブック」39号に掲載される。 
38 30
1925 14年 3月、順三郎、オックスフォード大学を中退する。
10月マルセーユより北野丸で帰国。
39 31
1926 15年 4月、順三郎、慶応義塾大学文学部教授に就任。
7月、麻布区藤見町に移転。講義のあと、瀧口修造、佐藤朔、上田敏雄、上田保、三浦孝之助などの学生がしばしば自宅に押しかけ深夜まで芸術論をたたかわす。
40 32
1927 昭和2年 2月、瀧口修造「西脇氏の詩」を「山繭」に執筆。
5月瀧口修造を介して雑誌「山繭」の同人となり、石丸重治、掘辰雄を知り、仏詩「メーラ」を寄稿。
12月、順三郎、佐藤朔の編集による日本初のシュールレアリスム・アンソロジー「馥郁タル火夫ヨ」に序文を寄稿。
41 33
1928 3年 9月、順三郎、春山行夫編集の「詩と詩論」が創刊され「超自然詩学派」を寄稿、殆んど毎号執筆する。
12月、朔太郎、「詩の原理」を第一書房から刊行する。
42 34
1929 4年 7月、朔太郎、妻稲子と離婚。
9月以降、「オルフェオン」誌上で新旧詩論の対立をめぐって萩原朔太郎と春山行夫の間に論争が行われる
11月、順三郎、「超現実主義詩論」を厚生閣書店より刊行する。
43 35
1930 5年 11月、順三郎、「シュールレアリスム文学論」を天人社より刊行する。 44 36
1931 6年 45 37
1932 7年 4月、順三郎、マジョリ夫人と離婚。
8月、順三郎、桑山冴子と結婚。
11月、朔太郎、世田谷区代田に自分で設計した家を新築し始める。

11月、順三郎、「西洋詩歌論」を金星堂から刊行する。
46 38
1933 8年 2月、順三郎、百田宗治編の「尺牘」創刊号に「ギリシャ的抒情詩」4篇を発表する。
9月、順三郎、「椎の木社」から「Ambarvalia」を刊行、朔太郎、室生犀星などから称賛を受ける。
47 39
1934 9年 6月、朔太郎、詩集「氷島」を第一書房から刊行する。
48 40
1935 10年 4月、朔太郎、評論集「純正詩論」を第一書房から刊行する。
6月、朔太郎、保田与重郎、中河与一、岡本かな子らと日光中禅寺湖に遊ぶ。
9月、順三郎、渋谷区宇田川町59番地に移転。
10月、朔太郎、アフォリズム集「絶望の逃走」を第一書房から刊行する。
11月、西村月杖の主宰する「句帖」の俳句会に朔太郎、室生犀星、百田宗治らと月交代で選者をつとめる。

11月、朔太郎、小説「猫町」を版画荘から刊行する
49 41
1936 11年 2月、順三郎、「椎の木」に「MAISTER 萩原と僕」を執筆する。
2月、朔太郎、「四季」の同人となる。
3月、朔太郎、「郷愁の詩人与謝蕪村」を第一書房から刊行する。
10月、順三郎、「句帖」に「ゴーガンの村」を寄稿する。
12月、朔太郎、「日本浪漫派」の同人となる。
50 42
1937 12年 2月、朔太郎が「椎の木」に「西脇順三郎氏の詩論」を寄せる。
2月、朔太郎、神保光太郎、保田与重郎を同道して帰郷。磯部温泉の大手拓次生家の温泉旅館に三日間滞在する。
7月、日中戦争が勃発。この頃より詩作の発表をやめ、「古代文学序説」の執筆に没頭する。
51 43
1938 13年 3月、朔太郎、評論集「日本への回帰」を白水社から刊行する。
4月、朔太郎、大谷美津子と結婚、その後、伊豆、上州へ旅行する。
11月10日、順三郎の長男順一が誕生する。
52 44
1939 14年 7月、朔太郎、「詩の研究講義の会」をはじめ11月まで続ける。
9月、朔太郎、散文詩集「宿命」を創元社から刊行する。
53 45
1940 15年 3月、シュールレアリスム(超現実主義)運動に弾圧が及び「神戸詩人クラブ」に属する詩人14名が検挙される。
  順三郎、萩原朔太郎編「昭和詩抄」に「太陽」「眼」「皿」「セーロン」「旅人」の5篇を収録する。

7月、朔太郎、評論集「帰郷者」を白水社から、アフォリズム集「港にて」を創元社から刊行する。
54 46
1941 16年 2月、瀧口修造が検挙され10月まで拘置される。
朔太郎、秋頃から健康が思わしくなくなり、家にこもる。
55 47
1942 17年 5月11日、朔太郎、4月に入ってから病状悪化、肺炎のため永眠。 56 48
1943 18年 49
1944 19年 順三郎、蔵書3000冊を千葉県印旛郡豊住村に野平方に疎開。
4月、順三郎、千谷市末広町佐藤方に妻子を疎開させ、順三郎は東京に留まる。
12月、順三郎、家族とともに郷里の小千谷市末広町佐藤方に疎開する。
12月、順三郎小千谷市末広町に赴く     疎開の時期検討要す
50
1945 20年 7月、順三郎小千谷市中子佐藤方に移る。宇田川町の自宅が空襲で焼失。
8月1日、順三郎、長岡の大空襲を疎開先の家で目撃。
8月15日、終戦。
9月、順三郎、故郷の疎開先から単身、渋谷区元広尾町小林方に下宿して教壇に復帰する。
51
1946 21年 8月、郷里小千谷で「旅人かへらず」を構想する。野田宇太郎編集の「芸林間歩」その他に詩・エッセイなどを発表しはじめる。
11月、詩誌「荒地」西脇順三郎特集号が刊行される。
52
1947 22年 8月、詩集「旅人かへらず」と改作版「あむばるわりあ」を東京出版から刊行する。
11月、順三郎、詩誌「荒地」西脇順三郎特集号を刊行する。
53
1948 23年 4月、「古代文学序説」を好学社から刊行する。 54
1949 24年 6月、「古代文学序説により文学博士の号を受ける。 55
1950 25年 5月、千葉に疎開中の蔵書を、津田英学塾に売却する。港区芝白金台町に移転する。 56
1951 26年 5月、村野四郎、北園克衛、安藤一郎とともに「GALA」の同人となり、毎号、「近代の寓話」の主要作品を発表する。 57
1952 27年 11月、エリオット「荒地」を創元社から翻訳刊行する。 58
1953 28年 1月、詩誌「天蓋」で西脇順三郎特集号を出す。
10月、順三郎、創元社より「近代の寓話」を刊行する。
59
1954 29年 3月、「詩学」で西脇順三郎特集を出す。 60
1955 30年 6月、評論集「梨の女」を宝文館から刊行する。 61
1956 31年 11月、詩集「第三の神話」を東京創元社から刊行する。 62
1957 32年 1月、詩集「第三の神話」で読売文学賞を受賞。
4月、現代詩人会幹事長となる。
5月、詩論集「斜塔の迷信」を研究社から刊行する。
63
1958 33年 64
1959 34年 5月、季刊雑誌「無限」を創刊。村野四郎らと顧問になる。 65
1960 35年 66
1961 36年 67
1962 37年 68
1963 38年 69
1964 39年 70
1965 40年 8月、順三郎、編者となり「青春詩集F 萩原朔太郎詩集」を白鳳社から刊行。 71
1966 41年 10月、萩原朔太郎研究会の会長となる。
12月、伊藤信吉が「詩のふるさと」を刊行、「旅人かえらずー相模川ー」を執筆する。
72
1967 42年 73
1968 43年 74
1969 44年 10月、山本健吉との対談集「詩のこころ」を日本ソノ書房から刊行する。
11月、随筆集「じゅんさいとすずき」を筑摩書房から刊行する。
12月、長編詩「壌歌」を筑摩書房から刊行する。
75
1970 45年 6月、「芭蕉の本4」が角川書店から出版、「はせをの芸術」を執筆する。 76
1971 46年 10月、文化功労者に選ばれる。 77
1972 47年 4月、「ユリイカ」増刊号で「萩原朔太郎の魂」を執筆する。
8月、「日本の古典・松尾芭蕉」が河出書房新社から出版され「芭蕉の精神」を執筆する。
8月、「無限」で西脇順三郎特集号が刊行される。
78
1973 48年 79
1974 49年
80
1975 50年 3月2日、村野四郎死去。
5月7日、冴子夫人が死去。
7月、「ユリイカ 7月号」に特集萩原朔太郎 復刊六周年記念が出る。
10月、「無限」37号に「村野四郎の詩魂」を執筆する。
81
1976 51年 11月3日、無限アカデミー特別公開講座、「萩原朔太郎研究」で飯島耕一・伊藤信吉・岡庭昇・草野心平・慶光院芙沙子・嶋岡晨・那珂太郎・中桐雅夫・萩原葉子らと語る。・ 82
1977 52年 83
1978 53年 6月、「旅人かへらず」が恒文社から再刊される。 84
1979 54年 6月、詩集「人類」が筑摩書房から刊行される。
7月1日、瀧口修造死去。
7月、思潮社から「西脇順三郎徳本」が刊行される。
9月、「海」に「瀧口修造の詩業(誄)」を執筆する。
85
1980 55年 86
1981 56年 87
1982 57年 6月5日、順三郎急性心不全で死去。
88
1983 58年
1984 59年
1985 60年
1986 61年
1987 62年
1988 63年
1989 64年
1990 平成 2年 5月、順三郎の「野原をゆく 現代日本のエッセイ」が刊行される。
1991 3年
1992 4年
1993 5年
1994 6年
1995 7年
1996 8年
1997 9年
1998 10年
1999 11年
2000 12年
2001 13年
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2010 22年
2011 23年
2012 24年
2013 25年
      年譜の参考資料  野原をゆく 西脇順三郎 講談社 発行 1990年5月
               日本文学全集34 
萩原朔太郎 三好達治 西脇順三郎集 筑摩書房 発行 昭和45年11月
              萩原朔太郎詩集 西脇順三郎編 白鳳社 発行 昭和48年4月第8刷

まとめ
 少し寒い日でも、いいから「ゴーガンの村」に行って来なさい。きっと何だか分からないようなことが分かったような気がしてきますよ。行ってらっしゃい。でも湖で何もありません。

     ※敬称を略させて戴きました。ご容赦のほどお願申し上げます。

   参考 
     詩のふるさと 伊藤信吉 新潮社 昭和46年3月 6刷
     野原をゆく 西脇順三郎 講談社 発行 1990年5月
     日本文学全集34 萩原朔太郎 三好達治 西脇順三郎集 筑摩書房 発行 昭和45年11月
     萩原朔太郎詩集 西脇順三郎編 白鳳社 発行 昭和48年4月第8刷
     日本人とはなにか 宛名のない手紙 岸田國士 発行 昭和23年7月
     幻影 第27号 西脇順三郎を偲ぶ会 発行 平成22年5月
     ユリイカ 詩と批評 特集 萩原朔太郎 復刊六周年記念 1975・7月号
            山本健吉 朔太郎・順三郎・ウイット

      ご協力 新潟県小千谷市立図書館

     宵待の日
     湖底に沈んだ村・荒川
     湖底に沈んだ村ーわがふるさと沼本を語るー 平井正敏の記録か
     日本民俗学の古里・旧内郷村水田地帯を行く
     「相模川・城山ダム水没地域の植物調査」からー調査に携わった人々

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