資料 「皇国地誌」・「古社調査事項取調書」に見る
      明治初期・川尻八幡宮の景観図から

                                 作成 2017・10・13 川尻八幡宮史研究のプロローグ

2017・8・27 川尻八幡 祭例日の朝
 城山地域史研究会は昭和60年7月「春林文化 第2号」を刊行しました。特集として編まれたのは「川尻八幡神社の研究(一)」で、今成泰一・村田公男・山口清・池田高明・飯田彦雄らが名を連ね長年の研究の成果を公表しました。その論文は地域に根差したものであり格調高く私を直ぐに夢中にさせました。
 中でも今でも印象に残っていることは、山口会長が「はじめに」の中に記した二項目の全文です。私はこの二項目に記された内容を座右の銘として今も微力ではありますが研究を続けております。
 「二 川尻八幡神社にはいくつかの特徴がある。自然のままの鎮守の森、一キロにも及ぶ参道、石室のある古墳などがそれである。
それらのひとつひとつが関連し合って村人の信仰を支えあってきたように思われる。会員の今成泰一氏は明治時代に描かれた八幡神社の背後に金毘羅神社のある龍籠(たつご)山がかかれていることに注目した。私たちは航空写真や地図から一の鳥居、八幡神社、小松城址、龍籠山が一直線上に並ぶことを確かめるとともに、そこに何らかの意味があるのではないかと考えてみた。」と云う問いかけです。
 川尻八幡宮創建に関しての年号、「大永五年五月」は明治に入り突如として現れました。その最初の文書を下記に記しました。「二の項目」と「大永五年五月」は、どこに共通性はあるのか、また、潜んでいるかと云う研究史の始めです。
 「春林文化」の中には当時 八幡神社氏子総代をされていた小林太郎氏の特別寄稿「八幡神社あれこれ」も収められてあります。ここに、代々伝え信じられている「川尻八幡神社由来について」も全文をご紹介しておきたいと思います。
 奥州街道(徒歩時代)箱根越えや、奥州よりきて相模平野うぃ見下ろす小高い丘で、一休みする格好の場所にだれがまつるともなく神の森として存在している。社伝によれば舎人親王(四十代天武天皇の皇子)の子孫が奥州に居住するため一党をひきいて当地に到着、其の時の首長病にかかり斃(たおれ)る。同行者がこれを葬り、又首長の護持していた石清水八幡宮の御分霊を御神体として小祠を建て、祀ったのが八幡神社の起源であると伝えられている。斯くて一行は奥州に参向し、清原家を興隆したとある。
 昭和四年石室(奈良時代)が発掘され、直刀・矢鏃・など出土し同時代の確証を得る。境内北側の山林にその趾を留めている。

「神奈川縣皇國地誌殘稿(下巻)」より
八幡社 村社々地東西六十間南北十一間面積七百十五坪巳ノ方字小松四千百七十一番地ニアリ祭神應神天皇大永五年乙酉五月ノ勧請ト云フ例祭八月廿八日境内松三十四株(圍四尺ヨリ九尺二至ル)杉三十株(圍二尺ヨリ三尺ニ至ル) 八株(圍同上)新編相模國風土記稿ニ云若宮八幡宮別當浄光坊上下川尻村ノ鎮守リ一ノ華表ヨリ社頭ニ至ル凡八町一路直シテ髪ノ如シ左右ノ行樹森々トシテ羅列スルモノハ皆十八公ナリ或は連抱ナルモノ蒼々トシテ天ニ聳ヘ颯々ノ馨ヲナセリ爾シテ即チ社頭四隅ニハ長松老杉且ハ椎木ノ老幹數圍ナルモノ肅矗トシテ繚繞セリ神體ハ木立像衣冠儼然タル尊姿ナリ(相州鎌倉郡扇谷運慶法印末葉同州同郡同所後藤左近義貴ト書記スルノミ)例祭七月廿八日湯華及相撲ヲ興行シ近隣ノ郷里群参スルモノ多クイト賑ハシキ體勢ナリ縣中名高キ神社ニテ或ハ並木八幡ト呼ヘリ

      勧請(かんじょう):@神仏の来臨を願うこと。  A神仏の分霊を請(しょう)じ迎えること
        
華表(かひょう):@中国で、宮城・墓所などの前に建てる標柱。  A神社の鳥居。
        
十八公(じゅうはっこう):松」の字を分解すると、「十」「八」「公」となるところから、松の別名。
        
繚繞(りょうじょう):まつわりめぐること。また、くねくねと湾曲すること
        ※儼然(げんぜん): いかめしくおごそかなさま。動かしがたい威厳のあるさま。
      注 暗 日+庵の合字 「暗い」と同意語のため暗を使用 (PC変換不能)

  明治九年調
  明治十八年二月稿
        總閲 神奈川縣令 沖守固/編纂 同 八等屬 内田赫一郎
  出典本 神奈川縣皇國地誌殘稿(下巻) 昭和39年3月発行 神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会


(参考)「新編相模國風土記稿」より
若宮八幡宮 別當浄光坊。上下川尻村ノ鎮守リ。一ノ華表ヨリ社頭ニ至ル。凡八町。一路直シテ髪ノ如シ。左右ノ行樹森々トシテ。羅列スルモノハ。皆十八公ナリ或は連抱ナルモノ蒼々トシテ。天ニ聳ヘ。颯々ノ馨ヲナセリ。爾シテ即チ社頭四隅ニハ。長松老杉且ハ。椎木ノ老幹數圍ナルモノ。肅矗トシテ。繚繞セリ。神體ハ木立像。衣冠儼然タル尊姿ナリ。(相州鎌倉郡扇谷。運慶法印末葉。同州同郡同所。後藤左近藤原義貴ト書記スルノミ。)例祭七月廿八日。湯華及相撲ヲ興行シ。近隣ノ郷里群参スルモノ多ク。イト賑ハシキ體勢ナリ縣中名高キ神社ニテ。或ハ並木八幡ト呼ヘリ。

  新編相模國風土記稿巻之百二十三 村里部津久井縣巻之八  天保十二年(1841)
  明治二十一年十月十五日発行 發行者 兵庫縣士族谷野遠

注意  明治初期における「神奈川縣皇國地誌」に記述された新たな部分は、「村社々地東西六十間南北十一間面積七百十五坪巳ノ方字小松四千百七十一番地ニアリ祭神應神天皇大永五年乙酉五月ノ勧請ト云フ例祭八月廿八日境内松三十四株(圍四尺ヨリ九尺二至ル)杉三十株(圍二尺ヨリ三尺ニ至ル) 八株(圍同上)新編相模國風土記稿ニ云」のみで、後の記述は「新編相模國風土記稿」からの全文をそのままに転写しているため、例祭日などが重複し、文章全体に手の抜きようが確認できます。また、この時点での神社の勧請年は「大永五年乙酉五月」と記されているのみで、何日とまでの記載はありません。

明治28年12月、「古社調査事項取調書」の内容(写真4枚) 所蔵 相模原市公文書館

                        所蔵 相模原市公文書館 1/4


                        所蔵 相模原市公文書館 2/4


                        所蔵 相模原市公文書館 3/4


                        所蔵 相模原市公文書館 4/4

 
                   神奈川縣相模國津久井郡川尻村 村社 八幡神社 見取図
 
 左側・川尻八幡宮
川尻八幡宮の景観/この絵図は、現在本殿の脇に祀られている金毘羅神社、社宮司、天満宮等の社が未だ遷されていないことから、明治39年以前の景観であることが確認ができます。
 明治39年は、神社合祀の勅令が進められた年で、約二十万社あった神社の七万社が取り壊され合祀(集約)されたと云われています。
 長い参道を過ぎて、神社の境内に入る「二ノ鳥居」の前には灯籠があり、大きな「モミの木」の聳えているが分かります。更に奥に進むと、明治二十四年に再建されたトタン造による、神明作りの鳥居「三ノ鳥居」が見えます。鳥居には御幣が掲げられ、その前には一対の
「ガス燈」を真似た灯明塔も見えます、その上段の灯籠の前にも確認することが出来ます。こうした、ガス燈を真似たブリキ製の灯明塔は現在でも原宿の市神社などでも見かけることが出来ます。
 現在の社務所のある場所には、二階建ての「神楽殿」が見えます。明治28年の「古社調査事項取調書」には、「明治十丁丑年八月中建立」と記されています。
 広い境内を更に、石段を昇ると左側に石造の「盥嗽塲(かんそうば)」が見えます。そして、その右側には杉の大木、左側に「スダシイ」の老樹も描かれています。そして、その正面に拝殿、覆屋内の本殿へと続いています。
 境内全体が、深い森に覆われている神域であることが非常によく分かる景観図となっています。
    盥嗽塲(かんそう):手を洗い、口をすすぐこと。身を清めること。

 
                  神奈川縣相模國津久井郡川尻村 村社 八幡神社平面図

 
  明治初期の川尻八幡宮一ノ鳥居
この鳥居とその前の灯籠は、現在の「三ノ鳥居」として存在しています。
川尻八幡宮一ノ鳥居
上図「神奈川縣相模國津久井郡川尻村村社 八幡神社平面図」によれば参道の長さが「大門距離八町巾弐」と記載されています。

  八町=109.09m(1町)×8=872.72m  (参道の長さ)
   貮間=1.8182m(1間)×2=3.6364m  (参道の幅)

まとめ
 「古社調査事項取締書」並びに「八幡神社見取図・平面図」は永らく未公開でありましたが、今年、春よりやっと一般に公開ができるようになりました。下手な解説を記すよりも先ずは原本をご覧いただき、ご考察を戴きたいと思います。
 明治最初の公文書の中には、「創立」と云う言葉は出て参りますが「創建」と云う言葉は一切出て参りません。本当に不思議なことです。

 私は、川尻八幡宮の創建の時期はいつ頃かを、長い間調査をして参りましたが、はっきりとした、創建の時期を述べるには未だ至ってはおりません。本当は「棟札」などが本殿の奥にあればよいのですが、どうも、それもなさそうです。例えば旧津久井郡内には八幡神社が多くあり、諏訪神社、蔵王権現社、飯綱社や牛鞍神社などとの比較研究など密度の濃い成果も得られそうなのですが、そこから読みとることは、やはり非常な困難を予想します。
 私は、困難であるけれど、やはり、創建考察の原点を「川尻八幡宮参道の位置」から考察することが最善にあるように思われてならないのです。そのことは私ばかりか、もう少し反応を読んで見たいと思っています。
 それにしましても、私たちの先祖は大変な遺産を残してくれたものだと、日々考察の毎日ですが大変です。考えることのチャンス、先祖の遺した偉大なる宿題の解明は何人もみな平等なのです。門戸を開き、素晴らしい光明の明かりを求め、真相の解明に向け、共に研究を進めようではありませんか。
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