武田久吉著「北相の一角」より、石老山へ。 作成 2018・7・25
また、石老山では、アンダーラインを引いた部分ですが「關口村の青年團の手によって建てられてある。其の他では讓葉や椎や何々櫻と言った名木には皆札があって、其の由緒因縁古事来歴やら、事實と同一かどうか保證の限りではないが、明細な寸法書などが書添えてある。」と、札を建てた地元青年団の活動ぶり等も伝えています。 博士の訪れた前年の夏には、同村で日本で最初のフィールド調査が行われ、柳田國男ら十名が訪れ民俗調査が行われました。 そうした原動力となった「内郷村青年会」の行動は、明治43年に始まり、尾崎行雄、小林房太郎や志賀重昴等を招いての講演会も行なわれました。こうしたことから常に村民の意識は高く、博士の訪れた寺の境内に掲げられた札のことなどから、細かな手の行き届いた情景を感じ取ることが出来ます。 名著「北相の一角」は、博士の行動を知る意味でも、また、当時の状況を知る意味でも歴史的な貴重な資料として、これからも語られて行くことでしょう。 ↓石老山 撮影 2018・7・9 旧津久井町名手の高台より ![]() 石老山(全文) (前略)川原まで七十米許りある絶壁とも称す可き崖を、細い径を伝うて下って行くと、眼下には渡守の小舎が見える。此処は千木良村の字原村の下に当るので、渡しを俗に原下の渡しと呼ぶさうな。渡守の親爺は眼も口も引鈞た、見るからに恐ろしい人間で、夕暮などに一人きりで渡して貰ふのはちと薄気味がわるい位。著いたのは二時間四十五分で、まだ日暮には間もあるが、少時躊躇して居る中に、幸ひ一人の同船者が出来た。 石老山 原下の渡しで同船した人は此の界隈に住むものと見えて、地理に精しい上に甚だ親切で、その御蔭で奥畑から間(あひ)ノ山を越えることに決める。桂川の右岸の土も石も皆凍ってカチカチした急な路を、自分が先になって登って行く。足駄履きの連れはこんな路に馴れて居るのか、いやに曲がりくねった路をスタスタ上るので、兎角靴の滑り勝な自分は後ろから追はれる様になって、息もつかずに直上七十米許りの崖を駈る様にして上がると、間ノ山の北麓の寒さうな斜面に、奥畑の人家が現はれる。部落の西端に近い人家の間から、間ノ山から流れ出る細い谷間の左岸を、眞上に見えるモミソを目当てにして上がれと教へられて、此の若い嚮導者と右左に袂を別つたのは、丁度三時であった。筧で引いた山の清水が農家の前の桶に溢れるのを一掬(ひとすくい)して、一と息入れ乍ら立留る。奥畑の主部は此の谷の右岸にあるらしく、その方から蓄音器の響きが聞こえて来る。今浪花節が終わったところで、引き続いて越後獅子が始まる。曲こそ違へ、こんな麗かな午後にグラモフォンを聞くと、何やら日曜日に英国の田舎へでも行った様な気がする。しかし今日は木曜だ、さうさう日本の田舎は毎日日曜なんだっけ。(後略) (間ノ山の)山頂から二十分程で鼠坂(ねんざか)に著いて、厚木街道を横断する橋の袂に出た。橋を渡れば篠原へ通ずる道となるのだろうが、左角の農業で炭俵を編で居る老婆に道を聞いて直前の小径を下って本道に合した。これは與P驛で甲州街道から分岐して、厚木を經て藤澤に通ずる縣道なので、道幅も廣く立派なものであるが、鼠坂で間ノ山と石老山との裾が衝突して小さな分水嶺をなすので、共に桂川に落ちる水ではあるが、此處で西と東に分れることになる。街道を東に下り氣味に辿ると、五分許りで右側に寛政七年に建てた石老山と記した標石の立つ所に達する。此処を右に曲がって、一旦小澤まで急に下ってから一寸した※山坡を霜柱をふみ鳴して登ると、やがて關口の部落が石老山の東北麓に點在するのを見る。石老山塊は可なり偉大に見えて、それから東南に當る大體同じ程の高さの山(地圖に六七六米突の標點を記せるもの)に續いて、思ったよりもいかめしく構えて居る。示道標をたよりに關口の部落から石老山顯鏡寺の裏門をさして、雑木に挟まれた坂路を上ると、間もなく山腹に建てられた古刹に達する。厚木街道から半時間程かゝった。 ※山坡(さんは):山腹・山の斜面。 庫裡に入て荷物を置いてから、双眼鏡だけを肩にして直に奥の院に向ふ。山門を出ると直ぐ其の右に偉大なる石窟があって、中には冷水が點々と小石桶の中に滴下して居る。例によって金剛水とか何とかいふ名をつけられて、小さな竹柄杓が備へある。これを出ると右の方に可なりな大さの公孫樹があって、それに大さ幾何とかいふ様なことを記した札が、關口村の青年團の手によって建てられてある。其の他では讓葉や椎や何々櫻と言った名木には皆札があって、其の由緒因縁古事来歴やら、事實と同一かどうか保證の限りではないが、明細な寸法書などが書添えてある。しかし是等の名木よりも興味のあるのは、彼の大石窟を始めとして山中所々に露はれて居る巨石で、辯慶の何とか石とかいった大石が、數限りなく存在する。何れも一見の價値あるもので、東京の縁日でさへ見られる讓葉や公孫樹の比ではない。岩質は此の山塊を構成する礫岩であるが、斯様な大きな岩塊が風化もせずに露出して居るのは面白いと思ふ。古生層の石灰岩が主であった小佛峠をこえて來た眼には、尚更面白く感じたが、後で考へると間ノ山も亦礫岩であった様に思はれる。 顯鏡寺から四丁許りで奥の院に達する。そこには屋根岩とか名けられた大石の下に飯綱神社の小祠がある。信州の飯綱山では今は何を祭神としてあるか覚えないが、少なくとも此處では※羽團扇を紋所としてある以上は、高尾山で崇むるものと同じく天狗であるに相違ない。奥の院から少し進むと、路は右に折れて、巨岩の上に百尺亭々たる赤松が一株ある、側に小札をたて「巖上の松」と命名してある。此處から上はもう大木はなくて、山は主にスヽキや小さな雑木位が生へて居るに過ぎない。しかし昔は自然にか又は植林されてかは知る由もないが、兎に角巨樹鬱蒼たる山であったらしく、其の名殘として山頂に近く大木の枯れた幹が見えて居る。 ※羽團扇(はうちわ):鳥の羽で作ったうちわ。「天狗の羽団扇」 樹木がなくなると共に心に浮かんだのは山頂の眺矚(ながめ)で、恐らくは高尾の見晴山に勝るも劣るまいと想像したので、時間はあまり早くはないが絶頂に昇ることゝきめてしまう。幸ひ小徑が明について居るので、それを辿って一二丁上ると、此處でも見晴臺を建てるのかして、小さな平坦な地を選んで地ならしをしてある。東から北へかけての眺望は無論よいが、此處らでは到底我慢が」出来ないから、山頂を目がけて突進する。右には桂川の谷を※下瞰し、其の彼方に※連亘する山脈を眺めながら、兎も角も頂上へと急ぐ。路は大體に於て歩きよいが、折々例の礫岩が※ばいらんして小砂利となって居るので、足が後へ戻る所がある。初めは路が大體西を指して居るが、十二三丁も上ると漸く西南々に向ひ初めて、概して尾根の西側を搦(から)みながら上る事になる。一二ヶ所焚火の跡などがあったが、樹木がないのであまり山らしい感じが起らない。漸く頂上に近づいて傾斜が増して來ると、山の北面には去歳の雪の消殘りが、所々にこびりついて居る。流石に小佛よりは高いことが知られる。路はやがて陸測五萬に記した「石」「老」兩字の間を通り、約六百七十米突の所を、「老」の字を頂く六百八十米突の圏の東南に沿ふて行くことになる。初めは此の圏の所が頂上らしく見えたので、路から離れて其の頂に上って三角點を索めやうとした時、尚小鞍部を距てゝ前面に高い峯のあるのを見て、急いで急坂を駆下りて最高點を目がけて可なり急な傾斜を上りきると、路はもう枚馬(まきめ)の方に下る許りで、此處が石老山塊最高點海抜七百米突の地なることを知った。時に午後五時十五分。以前は登山といふと山の大小高低に拘はらず、大抵午前中に山頂に達するのが普通であった様に記憶するが、去年の夏以来兎角午後になってから山巓に立つ機會が多く、鹽見岳の三時半はまだよいとして、北岳や仙丈岳の午後五時に至ってはちと遅すぎる感があったあが、今年の初出としての最初の絶巓も亦決して早い方ではない。しかし石老山ならば山も小さいから大して心配もないが、日の短い此の頃ではいくら暢気(のんき)な自分でもあまりゆっくりしても居られない。 ※下瞰(かかん):見下ろすこと。 ※連亘(れんこう):連なりわたること。長く連なり続くこと。 ※ばい爛(ばいらん):風化作用のうちで,化学変化を起さずに,気温変化による膨張収縮や水の凍結などの物理的な力によって岩石が破砕する現象をいう. 現在この語は使用されていない 雨+毎、火+闌の合字 先づ眼の前に現はれたのは、道志川を挟んで峙(そばだ)つ山々で、その背後に聳立する富嶽は申す迄もない。大群山から毘蘆ヶ岳(蛭ヶ岳)に續くあたりには、黒い雲が巻いて、黒っぽい山膚を半以上も蔽(おお)った雪が凄い光を放って居る。大山の北背にも雪は中々に少なくない。僅ではあるが小佛峠よりも南に寄って居るが為に、南都留の山々が重福疊して赤石山系の※尤物を隠してしまふが、瀧子山から大菩薩岳に連なる長大な連嶺は、生憎(あいにく)光線の工合が悪くて細かい皺(しわ)は分明しないが、小佛で見るよりも雄大な感じを與へる。奥秩父の山々は一五二七米突の幅廣な三頭山が頑張るので見えないが、大洞山の直東から栂澤山、雲取山へかけての連脈から、下っては七石山から入奥山(陸測地圖の鷹ノ巣山)に續くあたりは、遺憾なく望むことが出来る。近くは三頭から高尾へ續く細長い脈は極めて明瞭で、只三國山以西の鶴川と南秋川との間に介在する部分が少し竪になるのが缺點(けってん)である。所謂(いわゆる)御前山塊に属する大岳山は、陣塲ヶ峰をこえて一寸頭を出すが、御前山自身に至っては連行峰の彼方に極微に峰頭を見せて、辛じて其の存在を示して居るにすぎない。眸(ひとみ)を東に轉ずると、夕靄(もや)に包まれた相模野を背景として、相模川の雄大な谷が打展けて居る。左には太平山から七國峠に連なる多摩川と相模川の分水嶺の城壁の如くに現はれ、其の南を相模川が悠然として流れる。其の右岸に嶋の如く顯然たる小山は根小屋の城山であらう。近くは道志川が桂川に合する所に架したペンキ塗の橋も手に取る様に見える。其の先には川和の燈火であらうか二ツ三ツちら(く)眼につくが、空を仰ぐともう宵の明星が輝いて居る。 ※尤物(ゆうぶつ):1 同類の中で、特にすぐれたもの。 2 美しい女性。美女。美人。 足もとのひどく暗くならに中に下山しようと思ったが、最高點よりも西北によった少し低い峰にある筈の三角標石を捜して見やうと、御苦労にも其の方に足を向ける。枯薄やら小灌木やらに交じって赤松などのある峰頭をあちこち索めたが、櫓は存在しないし薄暗がりではあるので、とう(く)發見し得ない。しかし標石には無限の執著があるのでもないから直に残念して歸路につくことゝした。凍った雪の上や砂礫のザラ(く)して居る所は兎角足を奪はれ勝で、半以上は駈足で下りて來たので存外時間の方では捗が行き、彼の岩上の松に來たのが五時三十分。その少し下から右に打れて、往路とは違ふ路をとって寺に歸著したのは同四十分であった。庫裡に入て汗を拭ふて居ると、渇いた喉には持って來いといふ冷たい茶を供されたので序に空腹をも醫して置かうと、佛前にでもありさうな大燭臺の下で、※行厨の殘りを食べてしまう。十五夜の月はもう上ったと見えて、障子の隙から皓々(こうこう)とさし込んで居る。 ※行厨(こうちゅう):携帯用の食物。弁当。 食事をしながら考へて見ると、同じく天狗が祀ってあるにしては石老山は高尾山よりも面白い様だ。山麓を除いては樹木のないのは遺憾千萬ではあるが、山が高尾山よりも複雑で、頂上から峰傳ひにう東南に續く六七六米突の峰にも行かれるし、又※茅戸であるが爲に中腹以上の眺望殊に相模川の谷を下瞰(かかん)する處は申分がない。加之(しかのみならず)高尾の様に氣違じみた参詣者がぞろ(く)來ないのも嬉しい。矢張寺が山麓にあるだけに吾々にとっては餘計に有難味があるのだろう。 ※茅戸(かやと):山中の茅におおわれている尾根や斜面
まとめ(経過) 石老山塊は細長い一種の独立峰で、丁度、南に宝冠を付けた観音様が北に足を向けたて寝ている様にも見えることから、別名を「寝観音山」と呼んでいます。地質的には礫岩層からなり、その痕跡が奇岩奇石として辺りを圧倒しています。また、石老山への道は「関東ふれあいの道」にも指定され、多くの人々に親しまれています。 寺には、落人伝説等もあり現在解析を急いでいるところです。また、奇岩奇石の成り立ちなども後日に掲載の予定でおります。今暫らくお待ち下さい。
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