加藤武雄著、
   「少年倶楽部」の中の「はつうま」と今

2018・2・8 作成 2018・2・8

                           撮影 2018・2・7
  
        都井沢のお稲荷様                覆屋の中のお稲荷様
 何年か前、私は、先に笹の葉のついた青竹の先端に赤や青や黄色の色紙に「正一位稲荷大明神」と書かれた「初午の旗のあったことを思い出し、加藤武雄の生家がある都井沢地区に行きました。「あれ、今年はお祭りをやらないのかなあ。」と、確かこの辺だと思いながら、生け垣のなかを眺め、諦めかけたその時、鮮やかな御稲荷様の幟(のぼり)のある家が目に入りました。丁度その時、お婆さんが家の中から出て来ました。お声をかけて聞いてみると、イワシやあぶらげを猫やカラスに食べられないよう外に出たところだと教えてくれました。
 となりの家の旗の建ててないのは、「代が変わったからだよ。」と云いました。
「家(うち)のは『正一位』がないよ」と、幟を指さしました。そして幟の由来を話し始めました。
 お婆さんは昭和45年に八王子の由木から嫁がれたそうです。
やがて、妊娠、お祝の紅白の反物が母から贈られたそうです。白いのは戌の日に腹帯として使い、赤いのは、その翌年の御稲荷様の幟に使ったと云います。「奉納 稲荷大明神」と書かれた筆の字はお婆さんが書いたのだそうです。
「中の木の祠(ほこら)は主人が作った。」とも、また、ひとまわり大きい、覆屋は大工の正作さんが作られたとか、いろいろ教えてもらいました。
前にある「歯のお地蔵さん」の祠も正作さんが作ったのだそうです。
 「となりの家のは「正一位」がある。」とか、「葬儀屋さんから旗を買った。」とか、「昔は、色紙を久保沢の小室商店から買って来て作った。」とか、いろいろ教えてくれました。
 赤い幟は風にゆられ、見ているだけでも、とても心地のよい昼の時間となりました。
 そして、帰り際、「これから、お赤飯を作るんだよ。」と云いました。
 妻に初午(はつうま)の話をしていたからか、体操の帰り道、魚屋さんから稲荷寿司用の油アゲを買って来たので、夜はみんなで稲荷寿司を作って食べました。
 ほんのりと、ふわっとした一日が過んで行きました。こうした行事がいつまでも続きますように。

田名 原家の御稲荷様
 先輩の家から届いたメールを開けると、お稲荷様の前に、お酒と油アゲ、それと稲荷寿司が供えてある写真が届きました。
 
        田名・滝坂の途中で
 扉が少し開いているのは、神様がお供え物を食べているのでしょうか。優しい心音が伝わって来ました。
 また、田名地区には稲荷講もあり、御稲荷様を祭った掛軸の前に集まって、酒を飲んだり話などして楽しむのだそうです。 
 そう云えば、田名の瀧坂の途中に「秋葉大権現」が祭られてありました。下の台のところには、ふわーっとした尻尾(しっぽ)のあるキツネがいます。ふわーっとです。 

資料@ 「幼年倶楽部17(2) 発行 昭和17年2月」の中の
  はつうま(全文)    加藤武雄著

             藤澤龍雄畫
 稲荷様のおやしろは、町にも村にも、日本中いたるところにある。
 まっ赤にぬったお宮と、まっ赤にぬったとりゐとで、稲荷様は、どこででも目にたつ。
 二月のはじめ、梅の花の咲くころに、稲荷様のお祭りがある。この日を、はつうまといふ。
 私どもの子どものころは、この日、稲荷様のおやしろに、新しい旗をこしらへてあげ、おやしろの前に集まって、どんどんとたいこをならし、また、いろいろの物をお供へした。きんじょの家々から、お米と、あづきとを少しづつもらひ集め、野でんに火をたいて、赤いごはんを作り、それを稲荷様にも供え、自分らでもたべたことなどが、たのしく思ひ出される。
 子どもばかりで、ごはんをこしらへるのもおもしろかったし、自分でこしらへたごはんも、おいしかった。
 稲荷様のお供へした後で、そのごはんをたべながら、私どもは、
 『稲荷様は、どんな神様をお祭りしたのだらう』
 『わかってゐるのではないか。稲荷様は、きつねだよ』
 などと、話しあひました。
 稲荷様は、きつねを祭った神様だと聞かされてゐましたが、きつねが神様になることは、どうもふしぎだ、と思ったので、わたしは、ある日、學校の先生に聞いてみた。すると、先生はおっしゃった。
 『稲荷様は、きつねを祭ったのではありません。ありがたい神様をお祭りしたものです。』
 『ありがたい神様とは、どんな神様ですか。』
 『ひゃくしゃうの神様です。米、麥雄そのほか、たべ物のことをつかさどってゐる神様なのです。』
 ああ、それで、ごはんをたいてあげたりするのだなと、わたしは思った。
 先生は、次のやうに教へてくださった。
 たべ物のことをつかさどる神様は、うがのみたまのかみといひ、うけもちのかみともいふ。日本のふるい れきしの本には、稲は、うけもちのかみの、腹の中に生えた物だとも書いてあるが、これは、たとへである。日本は神國で、神さまのあつくりになった國であるから、たべ物もまた、神様がお作りになったので、そのたべ物をお作りになったのが、うけもちのかみなのである。
 ところが、この神様は、また、おほげつひめのかみともいふ。げつといふのが、きつねといふのとよくにてゐるところから、そのありがたい神様を、きつねだなどと、とんでもないまちがひをしたのである。
 『それで、きつねは、赤いごはんがすきだの、あぶらげがすきだといって、さういふ物を稲荷様にお供へするのだが、それはまちがひだ。毎日のたべ物を作ってくださるありがたい神は、おほげつひめのかみに、お禮を申しあげるしるしとして、赤いごはんや、そのほかの物をあげるのですよ
 先生は、さう教へてくださったのち、さらにかうおしゃった。
 『日本は神國です。日本にはたくさんの神様がいらっしゃるが、たくさんの神様を一つのおからだに集めていらっしゃすのが、天子
(てんし)様である。天皇陛下です。この 日本の國は、天皇陛下のものです。そして毎日のたべ物を私たちにくださるのも、天皇陛下です。ある人は、かういふ歌をよもました。
      飯食
(いひた)ぶと箸(はし)をとるにも大君の
           大きめぐみに涙
(なみだ)し流る
 といふのです。ごはんをたべるごとに、このごはんは、天皇陛下がくださったのだと思ふと、そのおめぐみのありがたさになみだが流れるといふのです。ほんたうにそのとほりです。みんな、天皇陛下のおめぐみなのだと思へば、一つぶの米でも そまつにできないではありませんか』
 わたしは、その先生のおことばを、今でも忘れずにおぼえてゐる。
     〇
 今年のはつうまも、もうすぐに來る。
 あのまっ赤なお宮の前には、正一位稲荷大明神
(しやういちゐいなりだいみゃうじん)と書いたのぼりがひるがへり、たいこがうちならされるであらう。子どもたちが、赤いごはんをたいたりするやうなことは、もうどこでもおこなはれてはゐないだらうし、また、そんなことをして、お米をむだにしてはもったいない。
 しかし、稲荷様が、ありがたい神様であることを知ったみなさんは、ま心をこめて、稲荷様を拝むことだ。
 稲荷様を拝むのは、天皇陛下にお禮をささげることになるのである。稲荷様ばかりではない。どんなおやしろでも、同じことになるのである。
     〇  
 はつうまがすむと、天神様のお祭りが來る。天神様は菅原道眞
(すがはらみちざね)といふ人を祭ったもので、これは學もんの神様だが、道眞が神にまつられたのは、學もんができたばかりではない、ちゅうぎ(忠義)な人だったからだ。
 ちゅうぎをつくした天神様を拝むことは、天皇陛下に、ちゅうぎをちかふことになるのである。
(をはり)
                 ※ちゅうぎ(忠義):主君や国家に対し真心を尽くして仕えること。また、そのさま。
参考資料 A  同号P198
ここは、おうちのかたにごらん入れてください。
御家庭の皆様へ
『大東亜戦争畫報』に揚げましたやう、捷報、わが陸海軍の輝かしい大戦果は、まことに感激の極みであり、勇進敢戦の将士に、心から感謝を捧げる次第であります。
 比類ない富を誇る米國、傳統のねばりの強さを信ずる英國は、どんな抗戦の手を打つか、戦争は非常な長期に渉るとみられてゐます。
『この一戦、何がなんでもやりぬくぞ』一億火の玉となって、戦ひぬき、勝ちぬかなければなりません。
 それにつけても、新しい大亜細亜の盟主日本の、次代を擔ふ少國民の育成こそ、愈々大きく益々重く考へねばなりません。幸ひにも國民學校は第二年目に入って、初等教育新體制の軌道に乗って來ました。この上は、家庭に於ける教育の成果が、強く期待されます。

本號は、特に、日本精神の昴揚に力を注いでゐます。國體の尊さを教へ、傳統の美しさを知らせ、民族の自覺を強めるやう努めてゐます。巻頭の言葉『紀元節』に始る、『國歌君が代』『火の話』『はつうま』或は詩畫集『私の家』等これらの編輯態度がよく徹底しますやう、雑誌を手にするお子さんの姿を、しっかりと見守って頂きたう存じます。
◇  (以下、略)
 幼年倶楽部編輯部
         「幼年倶楽部17(2) 発行 昭和17年2月1日 大日本雄辯會講談社」より
まとめ
 魚屋さんの「油アゲ」、店の方から「中の開いたのと普通のどちらにしますか」と聞かれたそうだ。店頭には沢山の油アゲが並べられていたそうである。どうも御稲荷様の日は「稲荷寿司」を食べる風習があるようだ。恵方巻のような派手さわないが、お稲荷様の年中行事はまだまだ続いているようです。
 加藤武雄著「はつうま」と「幼年倶楽部編輯部」の後記を全文掲載しました。現在の世の中に、そぐわないところもありますが、当時を知ることのできる貴重な資料として、そのまま掲載致しました。御容赦の程、お願い申し上げます。
 屋敷神としての「御稲荷様」の信仰については、この項では記しませんでしたが、この地方では多くの屋敷の中に祭られています。
 あの、ふわっとしたキツネの尻尾、そこに類稀
(たぐいまれ)な霊力があるのかも知れません。
     取材にご協力下さいました鈴木家・原家のみなさまにあらためて感謝申しあげます。ありがとうございました。

参考 都井沢 歯のお地蔵さん                     

幼年倶楽部17(2) 大日本雄辯會講談社 発行 昭和17年2月1日 
稲荷信仰 近藤喜博著  塙新書52 1933・6 初版4刷

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